2022年3月14日月曜日

出石そば

東北出身にも関わらず、盛岡のわんこそばを一度も食べたことがありません。わんこそばの老舗である”東屋本店”には、何度も行ったことがあります。蕎麦も美味しいのですが、カツ丼も絶品です。ただ、いつも仕事の合間に行くので、わんこそばに挑戦したことはありません。蕎麦は蕎麦ですが、多少、味の感じ方も違いそうな気がするので、一度、やってみたいところです。ただ、あくまでもお祭りの余興のようなものであり、平生の蕎麦の食べ方とは言えません。わんこそばは、南部藩主が、蕎麦を食べてみたいと所望するので、気を使って朱塗りの腕に、ごく少量を出ししたところ、いたく気に入り、何杯もおかわりしたことから生まれたと聞きます。

似たような食べ方に、出雲の割子そばがあります。こちらは、お椀ではなく、お銚子の袴のような、丸い平底の塗り物に小分けした蕎麦を盛って出されます。割子とは、松江の言葉で重箱のことだったようです。風流人が多い松江で、外で蕎麦を食べる際に使われたようです。ただ、洗いにくく不衛生だということで、明治期、円形になったようです。出雲そばは3段重ねで一人前となります。かつて、神保町には割子蕎麦を出す”出雲そば本家”があり、10枚くらい食べると、店に名前が張り出され、さらに多く食べると割引券などがもらえました。美味しい蕎麦でしたが、さすがに7~8杯くらいが限界でした。わんこそばも割子そばも、蕎麦のうえに少量の麺つゆをかけて食べます。ところが、兵庫県出石のそばは、割子タイプですが、やや異なった食べ方をします。

出石は、但馬の小京都と呼ばれます。江戸中期、信濃国から国替えになった殿様が、蕎麦打ち職人を連れてきたことから、出石そばは生まれたようです。うどん文化圏にあっては、極めて希な存在です。出石そばの特徴は”三たて”といって、挽きたて・打ちたて・茹がきたてが自慢です。出石焼の白磁の小皿に盛って出されるので、出石皿そばとも呼ばれます。皿そばのスタイルは、幕末の頃、屋台のそば屋が扱いやすかったことから始まったとされます。もともとは、出雲そばと同じく、蕎麦にそばつゆをかけて食べていたようですが、昭和30年頃から、蕎麦ちょこで受けて食べるスタイルに変わったようです。なぜそのように変えたかは不明ですが、薬味に、鶏卵やとろろを出すところをみると、薬味の扱いやすさから蕎麦ちょこになったのではないかと思われます。

出石で一番人気という”近又”という店で食べてみたのですが、三たてというわりには、蕎麦の風味が薄いように思いました。恐らくつなぎが多いのでしょう。ただ、蕎麦としては、まずまずだと思いました。ただ、問題は、皿そばというスタイルです。一皿には、2~3口程度の蕎麦が乗っています。一人前は5皿ですが、何枚でも追加できます。つるつるとした磁器の皿に少量の蕎麦というのは、掴みにくいものがあります。江戸っ子なら、「しゃらくえせぇ!」とちゃぶ台を返しそうな気がします。また、薬味のとろろも鶏卵も、いかがなものかとと思います。いずれも多すぎて、つゆの風味が消されます。そこで、鶏卵は、最後の一皿で試したのですが、卵の味しかせず、かつその後のそば湯まで卵の味しかしませんでした。蕎麦には、せいぜいうずらの卵だと思います。出石そばの鶏卵は、うどん文化の影響なのだろうと思いました。

出石藩は、もともと秀吉方だった小出家が、関ヶ原の戦いで徳川について本領安堵された6万石の小藩です。絹織物や磁器で稼ぐ一方、水害や大火で苦労し、果てはお家騒動で3万石まで落とされています。小藩が生き抜くのは並大抵のことではなかったはずです。出石そばも、名産の磁器を使ったり、あるいは、つなぎを多くしたり、薬味に鶏卵を使うなど、うどん文化に妥協しながら生き抜いてきたと言えるのでしょう。ちなみに出石名物「辰鼓楼」は、日本最古の時計台とも言われます。ただ、誠に残念ながら、辰鼓楼が稼働するひと月ほど前に、札幌の時計台が動き始めており、正確には、日本で二番目に古い時計台となりました。残念。(写真出典:jaran.net)

2022年3月13日日曜日

梁盤秘抄#23 Donuts

アルバム名:Donuts(2006)                                                                            アーティスト: J Dilla

数年前、さる天才的なドラマーがハンドヘルド・タイプのシンシサイザーのようなものを使っていたことがありました。とても面白い効果を生んでいたので、それは何かと聞くと、KORGのカオシレーターとのこと。安価だったので、早速、買って遊んでみました。面白くて、面白くて、かなりハマりました。リズムを作っていると、キリがなくなり、何時間でも遊んでしまいます。ただ、最近は、あまり遊んでいません。カオシレーターだけでは、メモリーできる長さも数も限りがあり、その先は、パソコンとつなぐしかありません。そうなると、いわゆるDAW(Digital Audio Workstation)の世界に入り込むことになります。そうなると、他のことは何もせずに、一日中、パソコンに向かうことになりそうなので、止めました。

DAWの世界に入ることを止めた理由は、もう一つあります。その頃、J.Dillaを耳にして、ハマりました。その想像力豊かで多彩な世界に驚きましたが、それ以上に、とにかく聞いていて気持ちがいいのです。中毒性すら感じます。J.Dillaのリズムは、90~100BPMくらいのテンポが多く、しっくりシンクロできます。カラフルな印象は、サンプリングのセンスの良さから来るのでしょう。要するに、自分が、DAWを使って作ってみたいと思うリズムが、ほぼそのまま、既に存在していたわけです。だとすれば、DAWを買っても、J.Dillaの完コピを目指すだけになり、かつ完全にはできないのでフラストレーションが溜まるだけになります。それなら、J.DillaのCDをたくさん買った方がいいや、と思った次第です。

”Donuts”は、J.Dillaの遺作です。30歳を前に、J.Dillaは肝臓を痛め、どんどん痩せ細っていったようです。実は、様々な臓器に炎症を起こす珍しい血液の病に罹っていました。天才J.Dillaは、2006年、32歳という若さで亡くなっています。”Donuts”は、病室で制作され、彼の32歳の誕生日にリリースされました。彼が亡くなったのは、その3日後のことでした。トラック数は31であり、彼の年齢と同じでした。また、最後のトラック”Welcome to the Show”は、突然カットされたように終わります。そして、その続きは”Donuts (Outro)”として、そのまま最初のトラックになっています。つまり、アルバムは、無限ループするようにセットされており、これがアルバム・タイトルのドーナッツの意味でもあったわけです。

これは、死の床にあったJ.Dillaがたどりついた死生観を表わしているのでしょう。J.Dillaは、音楽によって永遠を得た、とも言えるのでしょう。生前発表されたディスコグラフィーは5作のみですが、死後、彼が録音してあった多くの音源がリリースされています。J.Dillaのリズムは、サンプリングがミューズとなっています。その原点は、18歳の時、サンプラーAKAI/MPCと出会ったことだったようです。ピアノのキーを叩くように、様々な音源を使いたいという発想は、1962年にメロトロンとして実現されています。当時は、テープを使うというアナログな仕組みでしたが、60年代後半からは、ビートルズ、R・ストーンズ等が使い始め、70年代になると、キング・クリムゾンはじめプログレ・バンドが多用しています。

当初、サンプラーは、数百万円以上もする高額な製品でしたが、デジタル化とともに、驚異的な進化を遂げ、低価格化も進んでいきます。1985年には、AKAIのMPC等が、低価格で発売され、一気に広がったようです。そこに注目したのがラッパーたちでした。様々な音源をサンプリングして、ループさせるといった演奏がブームとなり、メイン・ストリームになっていきます。ヒップホップは、デジタル化とともに進化した音楽だと言っても過言ではありません。サンプラーは、音楽を演奏技術から解き放ち、純粋に想像力の世界に変えたという面もあります。ただ、定規だけを用いて描いた鉛筆画は、いかにクリエイティブであったにしても、油絵の表現力を超えることはないだろうな、とも思います。(写真出典:amazon.co.jp)

2022年3月12日土曜日

羽衣

月の輪田遺構付近
天女と羽衣と言えば、三保の松原を思い起こします。恐らく、三保の松原と富士山という絶景にピッタリのイメージだからなのでしょう。日本の羽衣伝説は、千葉、大阪、鳥取、沖縄にもありますが、最古のものと言われているのが、近江風土記に登場する滋賀県長浜の余呉湖、そして丹後風土記に記載される峰山の伝承です。いずれも8世紀の編であり、日本海側の話です。いわゆる異類婚姻譚であり、類似の説話が、世界中に分布しているようです。また、天女は白鳥を指しており、これまた世界中に存在する白鳥処女説話の類型とも言われます。近江と丹後では、多少ラストが異なりますが、大枠は同じ話です。

天女たちが水浴びをしている隙に、羽衣を奪って隠す。天に戻れなくなった天女は、男の嫁、ないしは老夫婦の娘となり、機織りや酒造りを伝える。近江の天女は、羽衣の隠し場所を見つけ、天に帰る。丹後の天女は、豊かになった老夫婦から、家を出され、奈具に住んだ。近江の天女は、白鳥の姿で地上に降ります。白鳥は、稲の神霊だとされるようです。丹後の天女が住んだ奈具には、広い遺跡が残り、渡来技術の痕跡が見られるようです。私の勝手な解釈ですが、羽衣伝説は、異民族との混血のメタファーなのではないかと思います。古代における朝鮮半島と日本のメイン・ルートは、釜山、対馬、壱岐、東松浦半島ということになります。弥生人は、そこから日本海側を北上するか、あるいは直接、半島から日本海各地に渡来するケースもあったはずです。

日本人のDNAには、1~2割程度、縄文人型の遺伝子が残っているようです。つまり、渡来した弥生人は、先住民である縄文人を抹殺したのではなく、各地に稲作を伝えながら定着し、混血が進んだと言うことなのでしょう。結果、生産性の高い弥生系が生き残り、現代につながるわけです。渡来した弥生人は、上質で薄い生地の衣類を纏い、また、稲作はじめ先進的技術を伝えるわけです。縄文人からすれば、まさに天から降りてきた人たちだったわけです。それが伝説上、出雲では国譲りの大国主命、吉備では製鉄技術を持つ鬼の温羅、丹後では稲作や酒造りを伝えた天女になるわけです。世界中の羽衣伝説も、同様に、先進技術を持つ民族と先住民との出会いを意味しているのではないかと想像します。

実は、丹後峰山には、別バージョンの羽衣伝説があります。羽衣を奪った三右衛門(さんねも)という猟師は、天女を嫁にします。天女は、隠してあった羽衣を見つけ、天に帰ります。悲しむ三右衛門に、天女は「7月7日に会いましょう」と言い、夕顔の種を渡します。夕顔のつるを登れば天に行けるというわけです。天に登った三右衛門に、天女は、天の川に橋を架けてください、そうすれば一緒に暮らせます、と言います。ただし、橋を架けている間、私のことを思い出してはいけません、と天女は言います。もう少しというところで、安心した三右衛門は、天女を思ってしまいます。すると天の川は氾濫し、三右衛門は下界に押し流されます。当地の安達家に伝わる話であり、当家の紋所は”丸に七夕”。いわゆる七夕伝説の起源だとされます。

峰山町の「月の輪田」は、稲作発祥の地とされる遺構です。豊受大神が、天照大神のために、初めて稲作を行った場所と言われます。丹後の天女は、豊宇賀能売命(とようかのめのかみ)として奈具神社に祀られていました。ある時、雄略天皇の夢枕に天照大神が現れ「食事が安らかにできないので、丹波国の比治の真奈井(峰山町)の等由気太神(とゆけおおかみ)を近くに呼べ」と言います。こうして豊宇賀能売命は豊受大神となり、以降、伊勢神宮外宮に祀られています。いずれにしても、峰山盆地は、古代から米づくりで知られていたわけです。低い山並みに囲まれた盆地は、寒暖差が大きく、また豪雪地帯ゆえ水に恵まれています。当然、うまい米がとれるわけです。丹後産こしひかりは、特Aクラスの銘柄米です。”天女”たちは、稲作に適した良い土地を、早々に見つけたというわけです。(写真出典:ja.wikipedia.org)

2022年3月11日金曜日

ダミアン・ハーストの桜

英国を代表する現代アート作家、ダミアン・ ハーストの個展を見てきました。意外なことに、ダミアン・ハーストにとっては、日本における初の個展となるようです。「ダミアン・ハースト 桜」と題され、ドットで表現された桜の連作が展示されています。一つのモティーフやイメージを繰り返していくあたりは、ダミアン・ハーストらしいところです。桜シリーズは、2018年から制作され、カルティエ美術財団の後援によって公開されたようです。なにか印象派の絵画の一部を切り取り、拡大したような印象を受けます。不思議なことに、見ていて、とても気持ちが良くなります。才人ダミアン・ハーストが、また新しい”発明”をしたように思えます。

ダミアン・ハーストは、これまでも様々な”発明”をしてきました。まずは、1988年、大学在学中に、使われていない倉庫を会場とした学生たちの展覧会を開き、注目を集めます。そして、1992年、YBA(Young British Artists)展に出品した「生きている人の心の中の死の物理的不可能性」で一気ににその名声を高めました。作品は、死んだサメを巨大なガラスケースのなかでホルマリン漬けにしたものでした。以降、ハーストは、ホルマリン漬けのシリーズで、現代アートのアイコンになっていき、様々な賞も獲得します。そして、作品は、現存する芸術家のなかで最高値をたたき出していきます。

同じ時期、カラフルなドットを規則的に並べる”スポット・ペインティング”、あるいは回転する円形のキャンバスに絵具を垂らす”スピン・ペインティング”も発明しています。その後、人体模型状の彫刻、福祉団体のキャラクターの彫刻などで、超巨大な作品を発明します。また、プラチナで作ったしゃれこうべを8.601個のダイヤモンドでコーティングした”神の愛のために”を発明します。また、フィルムや音楽の世界にも進出して、発明を行い、ロンドン・オリンピック閉会式のフィールドにも彼の作品が使われました。2017年のヴェネツィア・ビエンナーレでは、大規模な個展が開かれ、”信じられないほどの難破船からの宝物”と題して、貝殻などが付着した、いかにも海底から引き上げたような彫刻の連作を発明しています。

ヴェネツィア・ビエンナーレで、彼の発明品を山ほど見ました。とても面白いと思いました。サイズ感やディテールも含めて、十分に驚かせてくれます。実にセンスの良いアーティストだと思います。もちろん、批判も山ほどあります。どこが芸術なのだ、というわけです。芸術とは、作家が意図をもって制作し、受け手が何らかの感情の動きを得るものだとすれば、ハーストの作品も、十分に芸術です。もちろん、好き嫌いは大いにあります。そして、それ以上に、ハーストは、発明をお金に換える天才でもあります。美術投資ブームの波を見事に捉えました。彼の発明の多くは、彼が表現したいものというよりは、ブームの波に乗れるかどうかという基準で制作されているようにも思えます。それが、あえて作品ではなく発明と、私が呼ぶ理由です。

さる美術評論家が、ハースト作品を「いかに我々が消費なるものに左右されるようになったかということへのメタファーだ」と言っています。言い得て妙なり、といったところです。それにしても、美術投資ブームは異常な状態にあるように思えます。もともと美術品の価格は、欲しい人の数で決まるわけですから、異常とは言えないのかも知れませんが、それにしてもすごいことになっています。近年、NFT(non-fungible token、非代替性トークン)がブームとなり、デジタル・アートが高値で取引されています。お金に敏感なハーストは、1万個の手書きのドット一つひとつをNFT化したうえで販売し、合計で30億円近くを売り上げたようです。アート界一の稼ぎを誇るハーストは、さらに資産を積み上げていきます。(写真出典:nact.jp)

2022年3月10日木曜日

花まつり

過日、思うところあって、若い人に「花まつり、知ってる?」と聞いたところ、「浅草の?」と返されました。浅草の花やしきだと思ったようです。花まつりは、お釈迦さまこと、ガウタマ・シッダールタの生誕を祝う灌仏会(かんぶつえ)の通称です。遊園地と間違えられるようでは、お釈迦さまもたまったもんじゃないですね。ただ、思った通り、若い世代における花まつりの知名度は、極めて低いわけです。キリスト教にはクリスマスがあり、イスラム教にはマウリド・アンナビー(預言者生誕祭)があり、それぞれ結構にぎやかに行われます。対して、花まつりは、多くの寺院で祝われるものの、祝日でもありませんし、認知もいまひとつと言ったところです。

日本の花まつりは、4月8日と決まっています。ただ、これは中国から灌仏会が入ってきた際、中国暦の4月8日を、そのまま引き継いだもののようです。「お釈迦になる」とは、物などがダメになるという江戸言葉ですが、もとは鋳物屋の符牒とされます。鋳物を作る際、火が強すぎて失敗したことを指したようでます。「し(ひ)がつよかった」と4月8日をかけているわけです。とは言え、ガウタマ・シッダールタの誕生日に関する記録があるわけではありません。インド等では、太陰暦の2月15日、新年最初の月の満月の日とされています。グレゴリオ暦では、4~5月にあたるようです。釈迦の誕生・悟り・入滅という三大仏事は、すべてこの日に起こったとされているようです。

インド、スリランカ、タイ、ミャンマー等では、この日、仏教最大の祭典ウェーサーカが行われます。ウェーサーカは、国連に認定された仏教の祝祭でもあり、タイ仏教界が主導して、各国の代表が参加した国際的な祭典も行われます。ウェーサーカにおける釈迦の誕生だけが切り離されたのが灌仏会であり、これは中国、韓国、日本、ヴェトナム等で行われています。つまり、チベット経由で中国に伝わり、中国文化圏に広まった大乗仏教が主流の地域で行われています。しかも、いずれの国の灌仏会も、現在では必ずしも大きな祝祭とはなっていません。対してウェーサーカは、南伝仏教とも呼ばれる上座部仏教が信仰される地域で大きな祝祭となっているわけです。

大乗と上座部は、仏教における二大勢力です。上座部仏教は、小乗仏教とも呼ばれますが、これは大乗仏教が上座部を蔑んだ呼称とされます。大乗は、釈迦の入滅から500年後に形を成したとされます。出家して修行を積み、悟りを求める上座部に対して、在家、つまり大衆が仏の教えを実践することで、個人ではなく、自分も含めた衆生救済を目指すのが大乗です。誤解を恐れずに言えば、上座部は、出家して修行することで釈迦になることを目指します。大乗は、釈迦そのものになることではなく、釈迦が目指した衆生救済を求めます。大乗を象徴する言葉が自利利他であり、涅槃を目指す衆生を意味する菩薩です。このような違いが、釈迦の生誕の祝い方の違いにつながるのでしょう。

日本の寺院で行われる花まつりでは、甘茶と稚児行列がよく知られています。花を飾った花御堂の中に誕生仏の像を置き、周囲を満たした甘茶を掛けて祝います。釈迦が生まれた際、八大竜王が産湯に甘露を注いで祝ったという故事に由来します。誕生仏は、釈迦が誕生した際の姿とされます。釈迦は生まれると、右手で天をさし、左手で地をさして「天上天下唯我独尊」と唱えたと言われ、その姿を表わしています。甘茶は、もともとアジサイ科のアマチャという植物を煎じたもので、さらっとした甘味があります。子供の頃、その甘さに惹かれて、花まつりを楽しみにしていたものです。(写真出典:e-tsuyama.com)

2022年3月9日水曜日

フィラデルフィア

Rocky Steps
フィラデルフィアは、1776年、アメリカ独立宣言が採決された街であり、アメリカの最初の首都でもありました。独立宣言が読み上げられる際に鳴らされた「自由の鐘」はじめ、名所旧跡には事欠かない街です。また、東部第二の規模を誇る街は、ヘルスケアなど多くの産業、そしてペン・ステイトはじめ多くの教育機関を擁する街でもあります。さらに世界有数の絵画コレクションを持つバーンズ財団美術館もあります。ちなみに、1994年、当時、まだ非公開だったバーンズ・コレクションが、上野の西洋美術館で公開された時には、3時間待ちという行列が出来ました。私にとっても、いまだ破られることのない人生最大の行列でした。

にも関わらず、どうも今一つ魅力に欠ける街だと思います。その証拠の一つが、いまだに観光スポットのナンバー・ワンが、フィラデルフィア美術館であることです。一番人気である理由は、その巨大な建屋に収蔵された美術品ではなく、大ヒット映画「ロッキー」の中で、早朝ランニングするロッキーが階段を駆け上がり、雄叫びをあげた場所だからです。フィラデルフィア美術館を訪れる多くの観光客は、美術館に入場することなく、ロッキー・ステップスとも呼ばれる階段のうえで、ロッキーと同じヴィクトリー・ポーズをとり、写真を撮って帰って行きます。ご丁寧なことに、美術館の前には、ロッキーの像まで置かれています。まぁ、30万点と言われる美術館の収蔵品も、意外とつまらないものが多いのですけどね。

1976年から全6作が撮られたロッキーは、いまだにアメリカ人の心の拠り所です。ポルノ映画出身でシチリア顔の俳優が持ち込んだ脚本は、当人を主役に低予算のB級映画として制作されました。何の期待もされていない映画でしたが、公開されると熱狂的に受け入れられ、歴史的な大ヒットとなり、様々な賞を総なめにします。ロッキーの奇跡的な勝利とシルヴェスター・スタローンの突然の大成功は二重写しとなり、アメリカン・ドリームの象徴となりました。また、映画だけではなく、ビル・コンティが作曲した「ロッキーのテーマ」も大ヒットし、世界中の誰もが知っている曲となりました。当時、ヴェトナム戦争の敗北で、意気消沈していたアメリカが、自信を回復するきっかけになったとまで言われます。

フィラデルフィアで忘れてはいけないものの一つが、フィラデルフィア・ソウルです。1971年に設立されたプロダクション「ギャンブル&ハフ」が生み出した都会的で洗練されたソフト・ソウルが、一世を風靡しました。当時は、若年層を主なターゲットとしたモータウン・サウンド一色の時代でした。大人向けの甘いソウルは新鮮だったわけです。オージェイズ、スピナーズ、スタイリスティックス、スリー・ディグリーズなどが、立て続けにヒットを飛ばしました。スタイリスティックスの”You Make Me Feel Brand New(邦題「誓い」)”などは、ソウル・バラードの傑作であり、今でも大好きな曲です。当時人気だったTV番組「ソウルトレイン」のテーマもフィラデルフィア・ソウルですが、皮肉なことにディスコ・ブームに押されたフィラデルフィア・ソウルは下火になっていきました。

10年前、フィラデルフィアで開催された国際的コンベンションに参加しました。同じ会社から10人ばかり参加したので、会社経費でディナーをご馳走することになりました。私が選んだ店は、フィラデルフィアから車で1時間ばかり行ったデラウェア州ブランディ・ワイン・ヴァレーの店でした。田園地帯にある築200年を超える建屋と美味いアメリカ料理が自慢の店です。皆さんに喜んでもらえました。昔、行ったことがのあり、いい印象を持っていたから選んだのですが、州境を超えてまで行った最大の理由は、フィラデルフィア市内に魅力的な店が見つからなかったからです。(写真出典:seesight-tours.com)

2022年3月8日火曜日

米穀手帳

山口良忠判事
終戦から2年後、食糧難にあえぐ日本で、衝撃的なニュースが報道されます。当時の東京区裁判所の山口良忠判事が、闇米を拒否し、配給米だけを食べ続け、栄養失調のために亡くなりました。山口判事は、経済事犯専任判事として、主に闇米を所持する食糧管理法違反を裁いていました。闇米所持を裁くものが、闇米を食べるわけにはいかない、という筋を通した壮絶な死でした。1942年に制定された食糧管理法は、主食の受給と価格安定のために、米、その他穀物、いも類の生産・流通を国が統制する仕組みです。敗戦後も、食糧難のなか、配給制を維持するために存置されました。配給する食料にも事欠く状態であり、国民は、生き延びるために、闇米はじめ闇物資に頼らざる得ませんでした。他にも、東京高校の亀尾英四郎教授、青森地裁の保科徳太郎判事が、食管法を遵守し餓死しています。

山口判事は、経済犯を厳罰に処していたのではなく、かなり恩情的な裁きを行っていたようです。もちろん法は法ですが、司法当局が闇米の取り締まりを行った背景には、GHQの指示もあったようです。日本の飢餓状態が世界に喧伝されると、占領政策がうまくいっていないとの批判を浴びる恐れがあったため、GHQは、司法当局に、闇米の取締強化を指示したとされます。そんなことで、食糧事情が変わるわけもなく、結局、日本に対する食料援助が開始されます。その主力となったのが、いわゆる”ララ物資”です。LARA(Licensed Agencies for Relief in Asia)は、盛岡出身の在米ジャーナリスト浅野七之助が設立した”日本難民救済会”が母体でした。1946~1952年まで行われたララ物資は、当時の金額で、総額400億円分に達したと言われます。

1950年代半ばになると米の生産量は拡大し、食管法の意義も薄れます。ただ、価格統制、および農民の収入確保へと性格を変えて、存続されます。政府が農民から高く米を買い、安く消費者に売るわけです。水田も増え、生産性も上がったことから、在庫、いわゆる古米も発生し、食管会計は赤字になっていきます。1969年には自主流通米がスタートします。その後、1981年には、食管制度の目的は、統制から管理に下げられ、流通の自由化が進みました。そして、GATTウルグアイ・ラウンド合意に基づき、日本は、米の輸入を認めざるを得なくなり、1995年、食管法は廃止されました。日本の農業政策は、戦略性や計画性に欠けると言われます。食管法は、その象徴だったわけです。工業化に伴う労働人口の移動、土地の高騰、自民党の大票田としての農村部といった要素との兼ね合いも難しく、政策がブレ続けた面も否定できません。

実態と大きくかけ離れた食管制度下では、結構、奇妙なことも起こっていました。1981年の法改正まで、国民は米穀配給通帳、通称米穀手帳なるものを持たされていました。要は配給を受けるための通帳です。身分証明書の役割も担っていたようですが、いつの頃か有名無実化します。実家にもあったのでしょうが、見たこともありません。ただ、1966年、小学校の修学旅行の際、家から米を持参させらたことを覚えています。皆が持参した米を炊いたとも思えませんし、宿にも米が無いことなどなかったはずです。既に、そんな時代でもなく、まったく無意味な対応ですが、食管法上の建前として、宿泊施設は、米穀手帳の提示、あるいはそれに替わる米の持参を求めざるを得なかったのだと思います。多くの場合、宿も宿泊者も、当局ですら無視していたはずです。ただ、公立学校としては、法令違反するわけにもいかなかったのでしょう。

大学のゼミは、新自由主義をテーマにしていました。国防的観点から食管法を見直した方がいい、と発表したら、ボコボコにされました。ネオ・リベラルな観点からすれば、食管法など悪の権化だったわけです。ただ、新自由主義で全ての問題を解決できるわけでなく、国防もその一つだと考えたわけです。食料の受給を国が統制する時代ではないとは思います。ただ、無制限な自由化によって、食料の自給率がゼロになる可能性もあります。その方が効率的ではあるかも知れませんが、有事の際に兵糧攻めされると、日本は即刻崩壊します。食管法とは言いませんが、輸入元の多角化や食料備蓄といった政策とともに、ある程度の生産を確保する仕組みがあってもいいように思います。(写真出典:ja.wikipedia.org)

川上