2022年2月7日月曜日

サブスク

アメリカの音楽市場の70%を古い曲が占めている、という記事を読みました。また、音楽ストリーミングで、人気のある曲に占める新曲の割合は5%未満にすぎないとも書かれていました。この傾向は、この2~3年で進んでいるそうです。コロナ禍のステイホームで、ノスタルジックな音楽が好まれる傾向もあるようです。また、音楽業界は、強化された著作権法を恐れ、新曲のプロモーションに消極的だとも言われます。サブスクリクション、いわゆるサブスクによる影響も指摘されていました。案の定、恐れていたことが起きているな、と思いました。

サブスクリクションは、もともと雑誌などの定期購読を意味しましたが、IT時代を迎え、ソフトウェアの年間使用料等に応用されるようになりました。さらに動画配信から音楽配信へと拡大され、無制限にコンテンツを利用できるサービスへと拡大してきました。現在では、車、飲食、旅行までと、ありとあらゆるものまでサブスクの対象となっています。所有という概念が、ネットの世界から崩れ始め、物にまで広がりつつあると言えるのかも知れません。サブスクの対象によって、利用者や事業者に与える影響は、かなり異なります。なかでも音楽については、映像や物と比べて、その影響は相当に深いと思います。

音楽のサブスクで世界制覇しているのはスポティファイです。2006年に、ストックホルムで創業されたスポティファイは、世界中の2億人に対して、5,000万曲以上の楽曲をサブスクで提供しています。日本に進出した頃、友人から、もうCDを買ったり、ネットでダウンロードする時代じゃない、とスポティファイを勧められました。私が好んで聞く音楽のなかで、古いサンバや西アフリカのファンクなどは、スポティファイには無いと思うよ、と反論すると、4,000万曲(当時)だよ、あるに決まってると言われました。実際には、ほとんどありませんでした。今は、サービスを提供する国も178カ国に広がったそうですから、ひょっとすると対象になっているかもしれません。

音楽のサブスクで最も気になるところは、音楽のコモディティ化です。スポティファイがもたらすのものは、音楽を聞き流す文化です。いわばカフェの有線放送の個人化です。もちろん、コモディティ化していい音楽もありますが、すべての音楽が聞き流すものになってしまうということは、聞き流すタイプではない音楽の排除につながり、やがて音楽そのものの衰退を招く懸念があります。ミュージシャンの収入低下だけでなく、新しい才能が出てこなくなる恐れもあります。当初、テイラー・スウィスト、キング・クリムゾン、メタリカ等が、この点を批判していましたが、その後、勢いには勝てず、楽曲を提供しているようです。

スポティファイにも、多くのメリットがあることは認めます。一つは、かつて横行した海賊版の撲滅です。各レーベルがスポティファイと契約した大きな理由でもありました。また、音楽が、真に国境を越えた存在となり、しかも即座に国境を越えていく点は、ネット文化の利点そのものだと思います。しかしながら、音楽サブスクによって記憶媒体が一掃され、レアな音楽が入手できなくなること心配しています。(写真出典:icon-icons.com)

2022年2月6日日曜日

学閥

学士会館
神田錦町にある「学士会館」は、1928年竣工の古色蒼然たる建物です。一般社団法人学士会の本部ですが、会議室、宿泊施設、レストランもあり、各種会合や結婚式にも使われます。学士会は、戦前の帝国大学、およびその後継校の卒業者で構成されます。”旧七帝大”と呼ばれる、東大、京大、阪大、名大、東北大、九大、北大が対象となりますが、旧京城大学、旧台北大学の卒業者も含まれます。七帝大とは、いかにも古めかしい呼称ですが、今でも使われています。例えば、七帝大では、「七帝戦」と呼ばれるスポーツ大会が、毎年開催されています。私が勤めていた会社にも、かつて社内の「学士会」が存在しました。

派閥、学閥の類いは、どこの会社にもあるものですが、私のいた会社には、ほぼありませんでした。珍しい会社とまで言われていました。とは言え、さすがに各出身大学の校友会は存在しました。慶応の三田会、早稲田の稲門会、一橋の如水会などですが、そのなかに学士会もあったわけです。会の活動としては、年に一回、総会と懇親会を開くだけでした。恐らく他の校友会も同じなのでしょう。学士会の会員と言っても、日頃は、何のメリットもありません。人事異動への影響も、まったくありませんでした。ただ、懇親会では、平生、口も聞けないえらい人と接したり、仕事上では何の関係もない人たちと話すことができ、人を知る良い機会だったと思います。人を知っていることは、仕事上、役に立ちます。

学士会の会員の6~7割は、東大出身者でした。いっそ東大出身者で赤門会を作れば良いのではないかとも思いました。ところが、大先輩たちの話を聞くと、学士会には、それなりの設立経緯がありました。当社は、福沢諭吉門下生が創業した関係からか、今でも慶応出身者の多い会社です。戦前は、さらに多かったそうです。そこへ帝大出身者が入社すると、慶応にいじめられたものだそうです。帝大出身者は少なく、一校だけで集まっても、知れた数にしかならず、七帝大が集まって対抗することにしたのだそうです。戦後、出身大学の多様化が進みましたが、会だけは継承されてきたわけです。今となっては、馬鹿馬鹿しい話にも聞こえますが、当人たちにとっては切実な問題だったのでしょう。20年近く前、会社が合併した際、さすがに社内の学士会は解散となりました。

派閥が無いことは、会社にとって、いいことばかりとは言えないという説があります。”レファレント・パーソン”という言葉があります。最近では、コーチング用語として、尊敬する人ならどうするか、と考えることによって選択肢を広げるという意味で使われるようです。かつては、グループ内に影響力を及ぼす人といった意味で使われました。派閥を、人材育成システムとして見た場合、レファレント・パーソンが、終始一貫して、一人ひとりの育成にあたるという効用があります。派閥が無い場合には、全員がフラットに熾烈な競争を戦うことになります。それは、適者生存の法則に適っているとも言えますが、潜在的な才能を失うリスクも否定できないわけです。

数がものを言う政治の世界では、派閥の必要性が失せることはないようです。派閥の世界では、領袖と一部幹部の顔しか見えません。他の所属議員は、極端に言えば、頭数ということになります。しかし、お一人おひとりは、各選挙区民の代表として国政の場に来ているわけで、個々の意見や投票行動は、公にされ、かつ尊重されるべきだと思います。会社も同じです。一人ひとりが貴重な戦力であり、多様な個性が会社の発展につながります。派閥は、個性を埋没させる方向性を持ち、限られた人間以外の機会を奪う可能性もあります。機会の均等こそが民主的経営の大前提です。派閥のメリットは否定しないとしても、やはり弊害の方が大きいと言わざるを得ません。(写真出典:travel.rakuten.co.jp)

2022年2月5日土曜日

麒麟山

麒麟山
新潟県の阿賀野川に面する津川町は、大好きな町の一つです。現在は、合併して阿賀町津川となっています。江戸期までは、会津藩の川港として栄えました。会津からは米が、新潟からは塩が行き交った交通の要所です。日本屈指の水量を誇る阿賀野川は、津川から日本海までは広い川幅を持ち、ゆったりと流れています。ただ、阿賀川と呼ばれる会津から津川に至るまでは、難所も多い山間の川です。かつて会津盆地から津川までは馬を使っていましたが、江戸中期以降は船を使えるよう整備されました。津川の名勝である麒麟山は、阿賀野川に面した標高191mの小山です。形状が、中国の想像上の動物”麒麟”に似ていることから名付けられ、険しい山頂には出城が築かれていた時期もあるようです。

麒麟山は、昔から、狐火が多く見られることでも有名だったようです。世界一多く狐火が発生する場所とも言われるそうですが、根拠ははっきりしません。狐火は、火の気のないところに、提灯のような火が一列になって現れる現象です。日本では、人をばかすとされる狐に結びつけられてきました。有名なところでは、王子の狐火があります。関八州の狐たちが、大晦日、官位を授けてもらうために王子稲荷神社に集まるとされていました。狐火は、世界中で見られますが、いまだに科学的な解明がなされていない怪現象です。湿度の高い日に扇状地で多く見られることから、空気の屈折による現象というのが、最も有力な説です。

”狐の嫁入り”と言えば、天気雨のことですが、実は、狐火を指すこともあります。狐の嫁入り行列の提灯に見立てたわけです。津川では、麒麟山の狐火にちなんで、1990年から、毎年5月3日に「狐の嫁入り行列」というイベントを開催しています。行列は、夕方から夜にかけて、江戸の風情を残す津川の町を進み、結婚式と披露宴は、麒麟山で行われます。フィナーレは、新郎新婦を船に乗せて送り出すそうです。なかなかに幻想的なものだと聞きます。行列参加者は、皆、狐のメイクをします。また、5万人といわれる観光客も、希望者は狐のメイクをしてもらえます。町が狐だらけになるわけです。

私が、津川で最も気に入っているのが、狐の嫁入り屋敷と麒麟山温泉です。狐の嫁入り屋敷は、阿賀野川沿いに、昔の船問屋の屋敷を模して建てられたテーマ施設です。木造の建屋の1階には、狐の嫁入り行列関係の展示、食堂、土産物があります。2階には、大座敷と個室があり、3階の展望室からは、阿賀野川と常浪川の合流地点と麒麟山を見渡すことができます。はじめて狐の嫁入り屋敷を訪れ、2階の座敷を見た瞬間、私は、是非ともここで宴会をやりたいと思いました。90年代に建てられた施設ですが、妙に懐かしさを覚え、江戸期の津川の賑わいをイメージすることができました。ただ、座敷を借りることは出来るようですが、宴会が出来るかどうかは微妙です。

麒麟山温泉は、阿賀野川に面した小さな温泉地です。その歴史は江戸期以前にさかのぼるようです。かつては数軒の宿があったのですが、2011年の新潟・福島豪雨の際に被害を受け、2軒を残して、すべて廃業しました。露天風呂から眺める阿賀野川の悠然とした流れと風情あふれる麒麟山の姿は、まさに絶品です。特に雪景色は、山水画の世界を思わせます。露天風呂に浸かりながら、地元の名酒”麒麟山”をいただけば、仙境に遊ぶ、といった心持ちになり、漢詩の一つもひねりたくなります。(写真出典:yukoyuko.net)

2022年2月4日金曜日

夜警

アムステルダムには、トランジットで立ち寄ったことしかありません。ただ、巨大なスキポール空港で時間を潰し、次のフライトに乗るだけで良かったのですが、あえて1泊しました。目的は、街の観光もありますが、なんといってもアムステルダム国立美術館へ行くことです。オランダ絵画は、北方ルネサンスとも呼ばれるフランドル派から始まり、17世紀のオランダ黄金時代には、オランダ・バロックとして大輪の花を咲かせます。アムステルダム国立美術館は、その聖地とも言えます。フェルメール、ヤン・ステーン、ロイスダール、デ・ホーホ等々の名品が並びますが、なんと言っても、レンブラント・ファン・レインの「夜警」こそが最大の見所です。

アムステルダムは、実に興味深い街だと思います。もともとは遠浅の海であり、13世紀に堤防を築き、干拓したことで、はじめて村ができ、港となり、世界に冠たる国家にまで至るわけです。よくヴェネツイアと比較されます。千年の繁栄を誇ったヴェネツイアは、潟に浮かぶ小島から始まっています。対してアムステルダムは、まったくの海から始まっています。何から何まで人工的に作られた街は、中世にあっては未来都市だったとも言えます。進化を制約する旧体制が存在しなかったことが、アムステルダムの政治・経済・文化すべての発展につながります。欧州が古代ローマ辺境の地から勃興し、米国が植民地から世界最強国になったのと同じ原理です。そのアムステルダムが、黄金期に生み出した天才がレンブラントです。

レンブラントは、光の魔術師とも呼ばれます。同じくオランダ・バロックを代表するフェルメールが、光と人物そのものを描いたのに対して、レンブラントは、光そのものではなく、濃い陰影を用いることで、人物の心情、物語の奥深さを表現したと言えます。それは、集団肖像画、宗教画であっても同じであり、ゆえにドラマチックな作風と言われるわけです。”夜警”こと「フランス・バニング・コック隊長の市警団」は、構図、人物描写、すべてが緻密に計算され、描き込まれてますが、最大の魅力は陰影が生み出す信じがたい程の奥行きだと思っています。それは、単に遠景を描いたという奥行きではなく、空間のリアルさゆえに生み出されています。人間が、絵画を使って生み出した空間としては、最高到達点の一つなのではないかとさえ思います。いつまでも、いつまでも、見ていたくなる傑作です。

レンブラントは、浪費家だったと言われます。自身は風車を使った製粉業者の子供ですが、裕福な家の娘と結婚したことで、豪華なアトリエを建設し、手当たり次第に美術工芸品や異国の民芸品を収集したと言います。妻が亡くなり、依頼人の意向を無視した肖像画は注文を減らし、英蘭戦争による不況も追い打ちをかけ、レンブラントは困窮します。それでも美術工芸品の収集は止めなかったと言われます。まさに浪費なのでしょうが、レンブラントの独特な技巧、画布・画材へのこだわり、あるいはエッチングの技術などを考えれば、単なる収集ではなく、新しい技巧を発想するための研究材料だったようにも思えます。ちなみに、コレクションのなかには日本の甲冑も含まれていたようですし、画布には日本の和紙も使ったようです。そういった点も含め、レンブラントは、まさにオランダ黄金時代の申し子だったと言えるかも知れません。

雲間から放射状に差し込む太陽の光は神々しいものです。絵画に描かれれば、実にドラマチックな効果を生み出します。何度も試して分かったことですが、この現象の名称をまともに答えられる日本人は、ほぼいません。日本語では”薄明光線”と言うのですが、あまり一般的ではありません。アメリカ人に聞くと、”Angel's Ladder(天使のはしご)”と、即座に答えが返ってきます。それは宗教画の影響なのだろうと思います。薄明光線は、よくレンブラントの絵に描かれていることから、”レンブラント光線”とも呼ばれます。個人的には、薄明光線よりも、レンブラント光線の方がしっくりくるように思います。この言葉が、広まり、定着するといいな、と思っています。(写真出典:ja.wikipedia.org)

2022年2月3日木曜日

同業者街

合羽橋
邱永漢は、摩訶不思議な人でした。台南出身で東大卒の実業家、作家、評論家、経営コンサルタント、そして美食家としても知られました。 直木賞も受賞し、ビジネス・ホテルの元祖としても有名です。金融、経営に関する実用書を中心に、その著作は膨大な数に上ります。邱永漢が、こんなことを言っていました。日本人はバカだ。映画館が一軒できると、その周囲に映画館を多く作る。台湾人は、映画館ができれば、その周りに、飲食店、土産物屋、雑貨店等を開き、町としての賑わいをつくる。なるほど、目のつけどころが違うな、と感心したものです。

とは言え、世界中の大きな街には、必ず同業者街が存在するものです。台北も例外ではありません。有名なところでは、迪化街(ディーホアジエ)があります。漢方と乾物の問屋街であり、台北で最も古い商店街と言われます。東京なら、電気街の秋葉原、厨房用品の合羽橋、人形の浅草橋はじめ多くの同業者街があり、あるいは、茅場町や馬喰町など、かつて存在し、地名に残る同業者街も少なくありません。また、日本各地には、寺町、鍛治町、紺屋町など、同業者街に由来する地名が残っています。映画館街とは異なり、同業者街なら、邱永漢も否定しなかったのではないかと思います。それにしても、なぜ同業者街は出来たのでしょうか。

ライバルがいない方が、商売にとっては良さそうなものです。商圏が小さければ、そのとおりでしょうが、大きな商圏を持つ都市では、特化した町の方が、競合以上に集客という面で有利だったのでしょう。また、小売業よりも、業者を顧客とする問屋の方が、同業者街には適しています。そもそもは、中世に、世界中で発生したギルドや座といった商工業者の団体に起源があるのでしょう。ないしは、その特徴の一部を受け継いでいるのでしょう。都市の発展とともに誕生したギルドや座は、発生経緯の違いはあるにしても、為政者と結びついて、特権を得ていたことが大きな特徴です。

ギルドや座は、経済の自由化とともに、消えていきました。特権が無くなったとは言え、同業者が団結することで、仕入値や販売価格の調整、商売上の相互扶助といったメリットは残ります。同業者街は、それらを実現しやすい形態だったと言えます。また、為政者にとっても、同業者街の存在は、管理のしやすさにつながります。同業者街は、立地条件から自然発生的に誕生したものもありますが、大名が城下町を建設する際、配置したものが多く存在します。なお、寺町などは、城の防御上の観点から配置される場合がほとんどです。寺は、兵を配置しやすく、建屋や塀は防御上有効です。面白いことに、寺町はあっても、神社町は存在しません。恐らく、神社は古代から続くものが多く、しかも立地とは切り離せない場合が大半を占めるからなのでしょう。

江戸期に存在した同業者街の多くは、既に失われていますが、戦後、新たに生まれた同業者街もあります。秋葉原の電気街が典型です。また、各地に闇市から発展した街もあります。これは、厳密には同業者街とは異なるかも知れません。ただ、御徒町のアメヤ横町などは同業者街と言ってもいいのでしょう。江戸期には、騎乗しない下級武士”御徒”が多く住んでいた町ですが、戦後、闇市のメッカとなります。アメ横の名前の由来は、戦後すぐ、砂糖が貴重だった時代に芋飴を売る店が多くあったら”飴屋横町”、あるいは進駐軍の払下や横流しの物資が多く売られていたことから”アメリカ横町”と呼ばれたという二つの説があります。(写真出典:seven-press.com)

2022年2月2日水曜日

梁盤秘抄#21 ZECA APRESENTA - O QUINTAL DO PAGODINHO

アルバム名:ZECA APRESENTA - O QUINTAL DO PAGODINHO(2012)                     アーティスト:ゼカ・パゴヂーニョ

ゼカ・パゴヂーニョは、ブラジルを代表するサンバのシンガー・ソングライターです。1959年、リオ・デ・ジャネイロの中産階級の街イライジャーに生まれています。母方は、ブラジルの初代大統領マヌエル・デオドロ・ダ・フォンセカにつながる家でした。幼少期から、サンバの名門チーム”ポルテーラ”に出入りし、早くからその才能は注目されていたようです。1983年にレコード・デビューし、自身の多くのアルバムだけではなく、ゲストとして多数のアルバムにも参加しています。独特な声とリズム感の強い歌声は、一度聞いたら忘れません。ゼカ・パゴヂーニョは、リオ・デ・ジャネイロ郊外の高級住宅街バーハ・デ・チジューカに、家族とともに住んでいます。

そのゼカ・パゴヂーニョの自宅の庭で録音されたのが、このアルバムです。ブラジルのサンバ界を代表する歌手や演奏者が、ガーデン・パーティに会して、各人の代表曲を演奏するという奇跡のライブ・アルバムです。アルバムのタイトルを直訳すれば「ゼカ・プレゼンツ”パゴヂーニョの裏庭”」となります。実にうまいネーミングです。また、アルバムのロゴもいいですね。このロゴは、ブラジルを代表するビール”ブラウマー”とタイアップしたもので、会場のミュージシャンたちも、このロゴのビールを飲んでいます。DVDを見ると、演奏者以外にも多くの人々が映っていますが、招待された文化人や著名人たちのようです。まさに裏庭でで、仲間たちが気軽に演奏している風情です。

ただ、リラックスしたムードのなかでも、演奏はとてもレベルの高いものになっています。さすがに一流のミュージシャンです。参加したミュージシャンを挙げれば、キリがないのですが、パウリーニョ・ダ・ヴィオラ、ベッチ・カルヴァーリョ、ウィルソン・ダス・ネヴィス、マルコス・ヴァーリ、またカエターノ・ヴェローゾの妹マリア・ベターニアといったサンバの歴史に登場するような大物が並びます。ただ、大ベテランだけでなく、若手も多く登場します。サンバ・ノヴァの旗手ホベルタ・サーやエリス・レジーナの娘マリア・ヒタも参加しています。言ってみれば、自宅の庭で、紅白歌合戦をやっちゃった、という感じです。

サンバは、実に幅の広い音楽なので、このアルバムがサンバのすべてをカバーしているわけではりません。ただ、ここ30年くらいのサンバのメイン・ストリームは、おおむね、ここで聞くことができるのではないでしょうか。曲も歌手も素晴らしいのですが、特に感心させられるのは、バック・バンドのレベルの高さです。庭でビール飲みながら、この見事な演奏です。どれだけ上手い人たちなんだろうと思ってしまいます。ゼカ・パゴヂーニョが率いる自身のバック・バンドではなく、当代一流のミュージシャンが集められているようです。音楽が一大産業というブラジルでは、ミュージシャンの数も半端ないわけです。そのなかの選りすぐりですから、間違いありません。

これだけのミュージシャンが一同に会するわけですから、ゼカ・パゴヂーニョが、いかに大物かが分かります。しかし、彼の影響力だけでは、実現できなかったはずです。日程や契約関係の調整実務は、気が遠くなるほど大変だったはずです。というか、企画段階で、真っ先にボツになるような代物です。ゼカ・パゴヂーニョの影響力、スタッフの努力に加えて、サンバを愛するサンビスタたちのハートがピッタリ合い、リオでしかあり得ない奇跡の一枚が生まれたわけです。(写真出典:amazon.co.jp)

2022年2月1日火曜日

門割

島津氏家紋
子供のいる高齢者が、子供と別居している割合は、年々高まり、2019年には50%に達したそうです。この数字は全国平均であり、当然、核家族化が進んだ都市部ではもっと高いものと想定されます。 ところが、都道府県別に見ると、最も高い県は鹿児島県となっていました。鹿児島は、ダントツ、不動の別居率一位を続けており、一時期は70%を越えていたようです。他県に増して、封建的な印象のある薩摩ゆえ、実に意外なデータです。その背景には、江戸期に確立した薩摩藩独自の「門割制度」なるものがありました。

日本の相続制度は、平安の頃までは嫡子相続が基本であり、嫡男以外は家を出されたものだそうです。鎌倉時代になると、能力のある者が惣領として家督を継ぎ、他の者には、分割された財産が渡されるようになります。家督とは、財産も含めた家のすべてを仕切る権利です。ただ、財産の細分化が進み、不満が生まれます。室町時代になると、能力のある者が、家督のすべてを相続することになります。武士団の維持という観点からは有効でしたが、家督を巡るお家騒動を生み出すことになります。江戸期に入ると、幕府は封建的な管理社会徹底のために家父長制を強化していきます。嫡子による家督相続が確立、徹底されました。明治憲法は、それを踏襲、制度化しました。

ただ、江戸期を通じて、鎖藩とも言える孤立政策をとった薩摩藩においては、多少、事情が異なります。薩摩藩の家臣は、人口の4割弱に及びました。琉球も含めた薩摩藩の石高は77万石ですが、稲作には不向きな土地が多く、実質35万石と言われます。すべての臣下を城下に住ませて、養うことは無理でした。藩内113カ所に外城(とじょう)を設置し、家臣たちは半農半士の生活を送りながら、地方行政を担います。それが鎖藩政策の防衛面をも担っていたわけです。農地の管理は、門割(かどわり)という制度によって行われます。5~6軒の家で門というグループを構成し、土地は門に割り当てられます。門が担当する土地は、時に変えられます。いわば転勤のようなものです。土壌の良し悪しによる不公平感を解消し、生産性を上げるためとされます。門割制度は、農民化した家臣と土地の結びつきを薄めて、戦闘集団としての士気を保つねらいがあったのではないかと思います。

これは、典型的な封建制とは異なる、特異な仕組みだったと言えるのではないでしょうか。結果的に、薩摩では、家督相続と土地という関係も切り離されていたわけです。それが、現在の同居率の低さに影響しているのだと思われます。また、薩摩藩では、郷中(ごじゅう)教育も有名です。会津藩の”什”と同様、武家の少年たちの教育制度です。いずれにしても、薩摩藩は、平和な江戸期にあって、武力の維持向上を第一義としていたわけです。会津藩も似ていますが、会津の大義は、幕府の北辺の守りでした。では、薩摩の大義は何だったのでしょうか。一言で言えば、自主独立だったのでしょう。薩摩島津家は、鎌倉時代初期から、処替えもなく、この地を治めてきました。江戸期300藩のなかでは最古参であり、新興の徳川など下に見ていたのでしょう。江戸幕府の支配下に入ったものの、徳川家とは対等以上であり、対立する関係にあるという認識が強かったのだと思います。

それが、薩摩藩の幕末における佐幕から倒幕に至る一連の動きにもつながったのでしょう。藩主と近臣たちの佐幕から、下級武士たちの倒幕へと流れは変わるわけですが、これはまさに薩摩藩の制度的な人材育成の賜物だったとも言えます。加えれば、江戸期、海外に開かれた4拠点の一つが薩摩藩であったことも影響しているのでしょう。薩摩藩の尚武の構えに、風雲急を告げる東アジア情勢という風が吹き、幕末という化学反応が引き起こされたと言えます。(写真出典:bakumatsu.org)

「オデュッセイア」