2022年1月7日金曜日

ネフェルティティ

ネフェルティティは、クレオパトラ、ネフェルタリと並んで、古代エジプトの三大美女と言われます。ネフェルティティは、第18王朝のファラオ・アクエンアテン(アメンホテプ4世)の王妃でした。後にファラオとなった大神官アイの娘とも、メソポタミアのミタンニ王国の王女タドゥキパだともされます。その娘の一人は、トゥト・アンク・アメン(ツタンカーメン)の王妃となっています。ネフェルティティという名前の意味は、NeFeR(美しい)・T(者)・iTi(訪れた)であり、「訪れた美しい人」とも呼ばれます。ネフェルティティの名を知らしめることになったのは、その美しい胸像です。

ネフェルティティの胸像は、1912年、ドイツ発掘隊が、アマルナの彫刻家トトメスの工房跡で発見しました。トゥト・アンク・アメンの黄金のマスクとともに、古代エジプト美術の最高峰と言われています。古代エジプト美術の特徴と言えば様式美ということになりますが、ネフェルティティの胸像は、より写実的な印象を受けます。これはアマルナ様式と呼ばれ、アメンホテプ4世が断行した宗教改革の影響を受けています。アメンホテプ4世は、アメン・ラー信仰を背景に大きな力を持つに至ったアメン神官団を抑えるために、同じ太陽神であるアテンを唯一神に近い状態にまで高めます。アテン信仰が太陽光を重視するために、美術も写実性を高めたと言われています。なお、アテン信仰は、アメンホテプ4世の死去とともに終わりを告げました。

ネフェルティティの胸像は、現在、ベルリンの新博物館に所蔵されています。胸像は、ドイツによって強奪されたという説があります。1913年、エジプト政府とドイツ発掘隊が発掘品の分配に関する協議を行った際、ドイツ側は、この胸像を重要な発掘品ではないと偽ったと言われています。エジプト政府は、ドイツ政府に対して、100年間、胸像の返還を求めています。ヒトラーは、英国隊が発掘したトゥト・アンク・アメンの黄金のマスクに対抗するために、ネフェルティティの胸像を保有し続けることに執着したとも言われます。昨年の国立エジプト文明博物館のオープンに際しては、エジプト側から貸出要請が行われていますが、ドイツは、これも拒否しています。ひとたび貸し出せば、戻らない可能性が高いことを懸念したようです。

他にも、胸像に関しては、多くの議論があります。着色した石英で象眼した右眼に対して、左目は石膏のままです。これを巡っても、破損、未完成、練習台など諸説あります。そもそも胸像は、ドイツ隊がねつ造した偽作だとする説もあります。1992年にはCTスキャンによる調査が行われ、表面を覆うスタッコ(化粧漆喰)のなかに、芯となる石灰石が確認されました。それは、ネフェルティティの老化を示すシワまでリアルに彫刻されていたようです。まさにスタッコで化粧されていたということなのでしょう。ネフェルティティ本人に関する謎も、出生に関するものだけではありません。最も大きな謎は、ある時点を境に、一切の記録が無くなっていることです。死去説もありますが、アメンホテプ4世の共同統治者になった謎多きスメンクカーラー王は、ネフェルティティだったという説もあります。100年前に、我が子トトメス3世の共同統治者として君臨したハトシェプストに倣ったのではないかという説もあります。

謎の多さも、この美しい胸像の魅力なのかも知れません。トゥト・アンク・アメンの黄金のマスクは、エジプト考古学博物館で、実物を見ました。圧倒されました。ルクソールで、ハトシェプスト女王の美しい葬祭殿も見ました。ただ、ネフェルティティの胸像の実物は見ていません。4年前、ベルリンで実物を見る計画を立てていましたが、直前、イタリアで骨折したために、叶いませんでした。やはり、ネフェルティティの胸像は、エジプトにあるべきものだとも思います。(写真出典:ja.wikipedia.org)

2022年1月6日木曜日

サイゼリヤ

サイゼリヤ1号店(2F)
市川市には、旧石器時代、縄文時代、弥生時代の遺跡が多くあり、古代から人が多く集まる土地だったようです。律令体制下では、下総国の国府も置かれました。葛飾八幡宮、中山法華経寺も開かれ、江戸期には佐倉街道の宿場としても、人を集めてきました。明治になり、総武線が開通すると、東京の富裕層の邸宅や別邸が集まり、また軍の施設も置かれます。戦後は、東京のベッドタウンとして、あるいは教育機関の集まる町として発展してきました。市川市は、1934年に、市川町、八幡町、中山町などが合併して誕生しています。市役所のある八幡地区には、地下でつながるJR総武線・都営新宿線の本八幡駅、京成電鉄の京成八幡駅があります。

本八幡駅北口の商店街の一角に、ファミリー・レストランのサイゼリヤ第1号店があります。店としては、2000年に営業を終了していますが、経済同友会が、教育記念館として保存し、予約すれば、見学も可能です。サイゼリヤは、東京理科大学に在学中だった正垣泰彦が、1967年に開業しています。火事で店を焼失した後、これからはイタリア料理の時代が来ると確信した正垣は、1968年、サイゼリヤをイタリア料理店として再スタートします。ところが、客入りはさっぱり。当時、スパゲッティだけは妙に一般化していたものの、イタリア料理店は、高級、あるいは文化人向けといったイメージだったのでしょう。

正垣は、不振の要因を価格と判断し、全品7割引という奇策を打ちます。非常識、暴挙としか言いようがありません。ところが、これが大当たりし、店は行列店になります。低価格のイタリアンという路線に自信を持った正垣は、1973年、チェーン展開を始め、すかいらーく、ロイヤルホスト、デニーズに続くファミリー・レストランの草分けとなりました。現在、店舗数は1,553店、うち国内1,089店、海外464店まで成長しました。業界に先駆けて着手した海外展開は、2003年の上海に始まります。低価格路線は、中国でも人気を博し、順調に店舗を拡大しています。

日本のイタリア料理の歴史は、1881年、ピエトロ・ミリオーレが新潟に開いたイタリア軒に始まります。当時の洋食と言えばフランス料理のことであり、パスタだけは、フランス料理の一部として広がったようです。戦後、来日したイタリア人によるイタリア料理店が相次いで開店しますが、日本人によるイタリア料理店は、1960年、飯倉にキャンティがオープンするまで待たなければなりませんでした。バブル期にイタ飯ブームが起こり、イタリア料理は一般化したと言われます。ただ、既に70年代、高田馬場のリストランテ文流、荻窪のトラットリア・ピエモンテ等が一般化や大衆化に大きく寄与していました。そして、ファミレスとは言え、サイゼリヤが果たした役割は、とても大きかったと思います。

市川市発祥の大企業が、もう一つあります。山崎製パンです。日本最大にして、世界第2位の規模を誇る会社ですが、1948年、市川市で加工委託から製パン業を始めています。現在も、中央研究所やデイリーヤマザキの本社が置かれています。市川市は、梨の生産地でもありますが、基本的には住宅街であり、決してビジネスの町ではありません。市川市発祥の山崎製パン、サイゼリヤともに、食に関連した企業であったことは、ある意味、当然なのでしょう。(写真出典:1goten.jp)

2022年1月5日水曜日

雪中行軍

1902年1月23日6時55分、青森に駐屯する歩兵第5連隊の第2大隊・第5中隊を中心に編成された210名は、ロシア戦を想定した1泊2日の雪中行軍訓練へと出発します。八甲田山北東の裾野を通る田代街道沿いに田代新湯までの片道20kmという行程でした。途中、地元民から、厳しい天候ゆえ止めた方がよい、と忠告されますが無視、また案内人も不要と判断します。午前中は、順調な行軍が続きましたが、午後になると、突如、暴風雪に見舞われます。後に判明したところによれば、観測史上最強の寒波が襲来していました。幹部は中止を検討しますが、下士官からの反対を受け、訓練は続行されます。夕刻、激しさを増した暴風雪に、食料や燃料等を積んだソリも捨て、ホワイトアウト状態の中で道も見失い、凍りついたコンパスで方角も失い、やむなくビバークを決断します。

こうして、世界最大級と言われる山岳遭難事故「八甲田雪中行軍遭難事件」が始まります。延べ1万人が動員されたという救援隊が、遭難者を発見したのは、5日後のことでした。最初に発見された生存者は、後に雪中行軍遭難記念像のモデルともなった後藤伍長であり、仮死状態で雪中に直立していたと言います。生存者はわずかに11名、199名が命を落としています。凍死がほとんどでしたが、発狂して事故死した兵も少なからずいたようです。当時、大事故として報道もされていますが、軍が機密扱いとしたことで、全容詳細は明らかになっていなかったようです。事故の原因は、様々取り沙汰されてきましたが、いまだ特定されていません。ただ、一言で言うとすれば、準備不足ということになるのでしょう。

将兵のなかに雪中行軍経験者はいませんでした。東北の出身の兵が大半でしたが、地元出身者はいませんでした。青森の雪は、気温の違いから、東北他県の雪とは異なります。12月、第5連隊は、小編成で日帰りの予行演習を行っています。その日は、晴天に恵まれ、ピクニックのようだったとされます。この経験が、自然を甘く見ることにつながったのでしょう。気象判断が甘く、ガイドも拒否し、不十分な服装で凍傷対策も施さず、食料も装備も限定的、ビバークと言っても、狭い雪壕で、暖を取ることもなく、立ったまま過ごし、食事も不十分なまま、暗いうちから不確かな情報や判断に基づき行軍を開始しています。凍死者、行方不明者が続出し、完全に統制は失われ、指揮命令系統も機能不全に陥ります。

 実は、同じタイミングで、弘前の歩兵第31連隊も、小規模な編成による雪中行軍訓練を行っています。ただ、第5連隊とは、全く連携されていませんでした。10泊11日で、八甲田山を周回する行程でしたが、全員が無事帰営しています。弘前隊は、ガイドも雇い、宿泊も民家を利用する計画でした。指揮官は、雪中行軍の経験も豊富で、兵も半数以上が地元出身者でした。弘前隊は、行軍途中で、第5連隊の遭難者と見られる人影を目撃しています。ただし、この時点で、第5連隊の行軍も遭難も知りませんでした。目撃情報は機密扱いとなり、厳重な箝口令が敷かれたと言います。遭難者と確認できたとしても、自らも命がけで行軍するなか、できることは少なかったと思われます。ただ、第31連隊の成功した雪中行軍は、第5連隊の準備不足を際立たせることになりました。

この事件が、広く知られるきっかけとなったのは、新田次郎の小説「八甲田山死の彷徨」(1971)、それを映画化した「八甲田」(1977)だとされます。いずれもフィクションであり、事実との相違も多いようです。地元では、昔から語り継がれてきた大事件であり、私は、母校が第5連隊駐屯地跡に建っていたこともあり、強く印象に残っています。日本百名山の一つである八甲田山(1585m)は、カルデラのなかに、18の火山が噴火して出来た山です。決して高い山ではありませんが、青森県の中央に位置し、西は旧津軽藩、東は旧南部藩領地となっています。複数の頂、なだらかな稜線、数多くの湿地帯が特徴です。世界有数の豪雪地帯でもあり、中腹にある酸ヶ湯温泉は、積雪量を伝えるTVニュースの定番ポイントでもあります。(写真:雪中行軍遭難記念像 出典:ja.wikipedia.org)

2022年1月4日火曜日

コピー・バンド

Atom Heart Mother
六本木の「アビー・ロード」は、ビートルズのコピー・バンドのライブを楽しむ店として、1996年に開店しました。私は、ローリング・ストーンズ派なので、ビートルズの楽曲はリスペクトしますが、ファンというわけではありません。ただ、誘ってくれる人がいて、アビー・ロードへは、一度だけ行ったことがあります。コピー・バンドの演奏レベルは高く、そこそこ楽しめました。ただ、多少、気持ちの悪さを感じたことがあります。それは、私よりも年上と思われるお客さんたちの反応でした。知っている曲ばかりが演奏され、いちいち歓声が上がるのは当然としても、バンドと常連客たちとのじゃれ合いが、閉鎖的、排他的な仲良しグループのそれなわけです。

バンドがプロフェッショナルな音楽を提供するというよりは、同好会の例会といった風情であり、違和感を感じた次第です。別な店であっても、バンドと常連との関係は、同じように濃密である場合もあるとは思いますが、それは、あくまでもプロとファンとの関係だと思います。アビー・ロードでは、バンドも常連も、同じビートルズ・ファンとして、供に楽しんでいるという不思議な空間だったように思います。同好会なら、それで良いのだと思いますが、こっちはお金を払って聞きに行っているわけで、そこに気持ち悪さを感じました。同好会ビジネスとでも言いたくなります。そこには、当然、バンドの甘えも生まれ、プロ意識も希薄になるではないかとも思いました。

先輩に誘われて、ピンク・フロイドのトリビュート・バンドのライブに行きました。アルバム「原子心母」を再現するというのです。そもそもピンク・フロイドの音楽は好みではないのですが、ライブに飢えていたこともあり、行ってみました。会場には、やはり同好会的雰囲気が漂っていました。ただ、とてもレベルの高い演奏であり、特にリーダーのギターは、かなりのものでした。残念だったのは、PAが、爆音指向なのか、時折、ハウリングのような嫌な音が入り、気になりました。また、チェロの音の拾い方がひどくて、チェリストがかわいそうだと思いました。結果的には、やはりピンク・フロイドの音楽には興味が持てなかったのですが、演奏を聴いているうちに、素朴な疑問が沸いてきました。

オリジナルをよく知らないので、これは完コピなのか、と先輩に聞くと、ほぼほぼ完璧だと言うのです。完コピと言えども、オリジナルとは異なるはずです。マニアックなファンとしては、完コピであればあるほど、オリジナルとの違いが気になるのではないかと考えます。そこのところを聞いてみると、確かにそうなんだけど、よくぞここまでコピーしてくれた、という感じなのだそうです。少し皮肉な言い方をすれば、ピンク・フロイドの音楽は、コピーでも楽しめる、あるいはコピーできちゃう音楽ってことですか、と聞いたところ、そうだよ、だってスコアに落とせる音楽だから、とのお答え。なるほどです。これが、ツェッペリンのコピー・バンドなら、まるで別物になってしまうけどね、とも言っていました。

コピー・バンドには、カバー・バンド、あるいはトリビュート・バンドと、様々な呼び方があるようです。あるいは”ものまね”と言ってもいいのかも知れません。やってる方は、面白くてしょうがないのだと思います。アマチュアなら、何の問題もありません。オリジナルにインスパイアされた音楽というのも、理解できます。ただ、プロとして完コピを目指すバンドというのは、なかなか腑に落ちない点も多い不思議な存在です。(写真出典:amazon.co.jp)

2022年1月3日月曜日

エンパシー

東日本大震災の後、何度か被災地を訪れました。震災から1年後くらいのことですが、復興の進まない三陸で聞いた地元の人の言葉が、強く印象に残りました。支援はありがたい、感謝している、ただ、同情はいらない、同情ではなく、いつまでも震災を忘れないという気持ちを持ってもらいたい。人の記憶は薄れていくものです。震災の記憶を風化させないことこそ、被災した人たちへの支援なのだと知りました。被災した人たちへ寄り添う、という言葉も印象にのこりました。求められているのは、同情ではなく、共感ということなのだろうと思いました。

近年、”empathy(共感)”という言葉を、多く見かけるようになりました。共感という言葉自体は、新しい言葉ではありません。共感とは、他の人の感情、経験や考えを、自分のことかのように感じ、理解するということです。心理学や文化論、あるいは経営管理の世界において、”sympathy(同情)”との対比で取り上げられることが多いように思います。同情するという関係においては、両者の間に明らかな距離が存在し、場合によっては上下関係すら生まれます。対して共感は、両者の一体感が、より一層強くなります。分断の時代とも呼ばれる昨今ゆえ、注目を集め、新型コロナが、その傾向をさらに加速させたのでしょう。

共感という言葉が注目される理由として、少し異なる観点もあるように思います。共感とは、いわゆる仮想空間の広がりと深化を象徴する言葉なのではないか、とも思えるのです。ネットとスマホの普及によって、仮想空間は拡大の一途をたどっています。とは言え、仮想空間は、あくまでも仮想の世界として扱われ、現実空間とは明確に区別されます。当然と言えば、当然のことです。かつて、仮想空間は、現実空間の付帯的な存在でしかありませんでした。ところが、近年、どんどん現実空間が浸食され、仮想空間化しています。ビットコインやNFTアート、あるいはリモートワーク等が典型です。SNSの世界も含めて、既に仮想空間は現実そのものと言えるのではないでしょうか。

仮想空間には、国境も、身分も、差別も、格差もありません。そこには為政者たちが、人々を統制するために作り上げ、既成事実化してきた虚像は存在しません。ネットは、すべてのインターミディアリを否定するというのが私の持論です。人間が構築した制度は、すべてインターミディアリと言えます。国家、社会制度、貨幣、さらに言えば、言語すらもインターミディアリと言えるかも知れません。もちろん、言語が完全に排除されるとは思いませんが、ネットの本質は非言語的であり、言語に支配された世界ではありません。すべての媒介を排除して人と人が直接つながるネット世界において、コミュニケーションの根本を成すのは、”共感”なのではないかと思えます。

仮想空間を現実と認めることが、これからの人類の進歩や発展のトリガーになるようにも思えます。為政者たちは、仮想空間の広がりが、既存の現実社会を破壊し、無秩序な世界が作られることを恐れ、様々な規制をかけます。それらは、人類の進歩や発展を妨げているだけかも知れません。もちろん、ネット空間にも、何らかのルールは必要なのでしょう。ただし、そのルールとは、共感こそがコミュニケーションの基本であることを踏まえ、それを阻害しないためのルールでなければならないのでしょう。(写真出典:wcsu.edu)

2022年1月2日日曜日

ろかせず

鹿児島へ行った際、南州館名物の大きな鍋で黒豚しゃぶしゃぶを堪能した後、もう一軒行きましょうということになり、焼酎バーへ連れて行かれました。さほど大きな店ではありませんでしたが、壁一面に並ぶ芋焼酎の瓶が圧巻でした。聞けば、鹿児島には、110軒を超す芋焼酎の蔵元があると言います。一軒一軒は、さほど大きな蔵ではないので、生産量は限られ、人気の焼酎ともなれば、勢い希少品となるようです。これを飲め、あれを試せ、と言われて飲んだ芋焼酎のなかで、とりわけ気に入った銘柄がありました。極めて希少ゆえ、一杯だけだと言われたのですが、頼み込んで二杯いただきました。

「八幡 ろかせず」という芋焼酎です。かつて、芋焼酎は、臭くて、匂いが翌日にまで残ったものです。近年、そういった芋焼酎は無くなり、それが芋焼酎ブームにもつながったとものと思われます。要は、濾過の工程を入れることで、独特の臭みを消すようになったのだそうです。確かに飲みやすくはなりましたが、面白味は失われたようにも思います。そこで、南九州市の高良酒造は、あえて濾過しない芋焼酎を造り、ブランド名も「ろかせず」としました。個性を感じさせる深い味わいと香り、決して臭いとは思いません。アイリッシュ・ウィスキーに通じる風合とも言えます。割ったりせずに、常温のまま、オンス・グラスでいただくのが合っていると思います。

うまい、うまい、と大騒ぎすると、バーのママが、「八幡 ろかせず」をあげるわけにはいかないが、と言って、別の芋焼酎を一本、お土産にくれました。鹿子島は、いいところだな、としみじみ思いました。それから1~2ヶ月後のことです。福岡出身の友人と神楽坂で飲む機会がありました。日本酒と焼酎の揃えが自慢の店、焼酎好きの九州人という組み合わせで、「ろかせず」を思い出し、鹿児島での経験を話しました。するとカウンターの中にいた店の人が、これですよね、と「ろかせず」の一升瓶を出してきました。飲ませてくれと言うと、実は売り物ではないので、出せないと言います。じゃ、なぜ見せたのか、と聞くと、「ろかせず」を知っている人は少ないので、うれしくなり、つい出してしまいました、と言うのです。

金はいくらでも出すから一杯飲ませてくれ、と騒ぐと、お待ちくださいと言って、店の奥へ下がります。しばらくして戻ると、許可をもらいましたので、一合だけお出しします、とのこと。やはり美味いわけで、大喜びしました。お代はいくら、と聞くと、売り物ではないので、お代は結構です、と言われました。希少品であることは知っているので、それじゃ困ると言うと、では、また店に来て下さい、それで結構です、とのこと。何とも粋な話です。早速、2週間後、お礼の意味を込めて、4人ばかりでお邪魔しました。すると、今度は2合出してくれました。今回は、払わせてくれ、と頼むと、また、お代は結構です、また来て下さい、というわけです。味を占めたわけではありませんが、また行くと、あの瓶は、もう空いてしましました、と言われました。

その後、宮崎の有名な焼酎バーで、その話を、とくとくと語っていると、ママさんが、うちにもあるわよ、と飲ませてくれました。さすがにお代は払いしましたが、そこそこいいお値段でした。今でも、希少品であることに変わりはないようですが、最近は、ネットでも購入できるようです。私は、日本酒派で、好んで焼酎を飲むことはありません。ただ、飲むなら芋、それも可能であれば「八幡 ろかせず」を、また飲みたいものだ、と思っています。黒豚、薩摩地鶏、さつま揚げ、きびなご、黒酢、白熊、そして芋焼酎と、薩摩の独特で豊かな食文化は、実に魅力的です。(写真出典:isego.shop)

2022年1月1日土曜日

壬寅

十干十二支、いわゆる干支で言えば、2022年は「壬寅(みずのえとら)」となります。十干は、「木・火・土・金・水」の五行の陰と陽で構成され、物事の盛衰、移り変わりを現わします。 「水」は、次なる新たなステージを準備する段階であり、陽をはらむ「壬(みずのえ)」と地ならしを意味する「癸(みずのと)」の2年からなります。十二支の「寅」は、動く、あるいは延ばすという意味を持ち、草木が芽を出す状態を表すと聞きます。五行の関係を示す「相性(そうせい)」で言えば、「壬寅」は、「水生木」、つまり水が木を生み出すという年となります。

大雑把に言えば、「壬寅」は、次なる大きな成長や変化が胎動する、あるいは備える年ということになります。過去の「壬寅」の年を振り返ってみると、まずは1962年ですが、最も大きな出来事の一つとしてキューバ危機が挙げられます。第二次世界大戦後に始まった東西冷戦は、朝鮮戦争を経て、核爆弾の開発競争へと入っていきます。キューバ危機は、その危険なレースがもたらす最悪の事態、つまり核ミサイルの打ち合いによる人類滅亡という恐怖を実感させました。結果的には、直前で最悪の事態は回避されましたが、以降、ヴェトナム戦争、プラハの春、度重なる中東戦争、若者による反体制運動など、いわゆる激動の60年代が本格化していきます。

さらに、その前の「壬寅」である1902年は、産業革命を背景とする植民地争奪戦が国際的緊張を高めた時代でした。列強による清国の利権争いが激化し、満州と朝鮮を巡る日本とロシアの争いは、1904年の日露戦争へとつながりました。産業革命の一つの帰着である金融資本の成熟、市場の独占化が、持てる国と遅れてきた国との間に戦いを生んでいきます。激しさを増した植民地獲得競争は、抜き差しならない状況へと展開し、1914年の第一次世界大戦、そして第二次世界大戦を勃発させます。産業革命による科学技術の進歩が、武器の殺傷能力を異次元のレベルまで高め、いわゆる国家総力戦の時代を生みました。1902年は、20世紀前半、世界を揺るがした二つの大戦が、まさに胎動し始めた年だったと言えます。

また、1842年の「壬寅」には、清と英国のアヘン戦争が終わり、その後の中国の半植民地化を決定づけた南京条約が結ばれました。香港割譲もここで決まっています。中国の苦難の近代史は、ここに始まるといってもいいのでしょう。南京条約に衝撃を受けた政権の一つが、江戸幕府でした。古代から中国は東アジアの中心であり、日本は大国である中国を先達として、あるいは脅威として歴史を刻んできました。その中国が、いとも簡単に西洋文明に屈したことは、まさに衝撃だったわけです。この年、江戸幕府は、異国船打払令を廃止、難破船に対する薪水給与令を出しています。開国から明治維新につながる激動の時代が胎動し始めた年といえるのでしょう。

さて、今年はどのような年になるのでしょうか。米中戦争とも呼ばれる両国の緊張は高まり、台湾海峡の危機も懸念されています。ロシアは、ウクライナ周辺に兵力を集結させつつあります。まさにパクス・アメリカーナの終焉を伝える現象と言えます。ネオ・リベラリズムやグローバリズムが、資本主義を衰弱させ、経済格差の固定化を加速させているように思えます。一方で、それらは、独裁国家や独裁的国家を勢いづかせる結果にもなっています。また、ネットはじめテクノロジーが世界を変えつつあり、その行きつく先は、まだ不透明です。さらに3年目に入る新型コロナ禍は世界をどう変えるのか、加速する温暖化による影響はどこまで広がるのか等々、これまで経験したことがないほどダイナミックな変化が、地球と人類を覆いつつあります。少なくとも、今年は、次に来る大きな変化の胎動を見逃さないように目を大きく見開くべき年だと思います。ま、とりあえずは、カタールでのサッカー・ワールドカップに日本代表が出場出来るかどうかに注目ですですが。(写真出典:jbpress.ismedia.jp)

川上