2021年12月14日火曜日

サグラダ・ファミリア

ガウディの逆さ吊り模型
2019年、永年、見たいと思っていたサグラダ・ファミリアを、じっくり見る機会がありました。2026年完成予定と発表されていたので、それを待つ手もあったのですが、私にとって、サグラダ・ファミリアは、永遠に未完というイメージが強く、あえて建設中を見に行ったわけです。ところが、コロナ・ウィルスのパンデミックの影響で、観光客が激減し、2026年完成は難しくなったようです。そこで、持てる資金と労働力のすべてを、マリアの塔建設につぎ込み、この12月9日に完成を見たようです。

138mのマリアの塔は、完成時、18基となる塔のなかで、2番目に高い塔です。ちなみに、完成時、最も高い塔になるのは、イエスの塔であり、170mとなります。マリアの塔完成以前のサグラダ・ファミリアの倍の高さになります。サグラダ・ファミリアは、1882年3月に着工されています。着工直後、辞任したフランシスコ・ビリャールから設計を引き継いだのがアントニ・ガウディでした。当時、ガウディは31歳、その異才ぶりは知られつつあったものの、まだキャリアをスタートしたばかりであり、サグラダ・ファミリアは初めて手がける大型建築でした。サグラダ・ファミリアの正式名称は、聖家族贖罪教会です。贖罪とは信者の寄付行為を表し、教会は寄付を財源に建設されることを意味します。ガウディの壮大な建築を賄うほどの寄付は、なかなか集まらず、建設は、なかなか進みませんでした。

晩年をサグラダ・ファミリア建設に捧げたガウディですが、1926年、躓いて転んだところを、路面電車に轢かれて死亡しました。ガウディの死後も建設は継続されますが、スペイン内戦時、設計図などが焼失します。ただ、残された少ない資料に基づき、建設は継続されてきました。ガウディの建築は、しばしば生物的と言われます。直線の少ない建築は、可能な限り自然を模倣しているように思えます。建築としての構造計算も、極めて独創的な方法で行われていました。フニクラー、逆さ吊り模型と呼ばれる方法ですが、重りをつけた紐を複雑に組み合わせてバランスを取り、それをひっくり返すと構造力学に適った建築になるというものです。何やら中世的な手法のようにも思えますが、科学的合理性があるようです。ガウディの独特な建築が成立する大きな要因になっているようです。フニクラーは、サグラダ・ファミリアの地下で見ることができます。

バルセロナとその近郊で、ガウディの作品6点を観ることが出来ました。サグラダ・ファミリア以外で印象に残ったのは、まるで精巧な工芸品を思わせるグエル邸、ガウディらしさと近代住宅としての合理性をギリギリ詰めたカサ・ミラ、そして未完に終わったコロニア・グエル教会地下聖堂です。コロニア・グエルは、ガウディのパトロンだった繊維会社の経営者グエルが、バルセロナ郊外に建設した工場とその労働者のための町です。グエルが描いた理想の街です。その街の礼拝堂として建設されたのが教会地下聖堂です。半地下の礼拝堂は、開けた空間が4本の柱とアーチで支えられ、ガウディが設計した椅子も含めて、不思議な空間を構成しています。その構造設計は難しく、設計だけで10年を要したと言われます。上部構造は、今も未完のままとなっています。

コロニア・グエルの街が建設される少し前、バルセロナの街は、碁盤の目に区画され、高さや外観に統一性を持たせた労働者のための集合住宅が建設されています。バルセロナは、産業革命とともに急速に栄えた街です。工場労働者を多く集めるために、理想的な住環境を作ることに熱心だったわけです。そしてガウディの建築や公園、さらにはムンタネーのカタルーニャ音楽堂、サン・パウ病院等も含め、当時のバルセロナは、世界最先端の”未来都市”だったのでしょう。(写真出典:4travel.jp)

2021年12月13日月曜日

数の子

ニシンの卵である数の子は、不思議な食べ物です。それ自体の味もありますが、むしろ食感や音を楽しむ代物です。粒の多さが子孫繁栄につながるという正月の縁起物であり、普段から、その味を楽しむという食品ではありません。そもそも魚卵系でそのまま食べるのはウニくらいで、他は、おおむね塩や醤油で味付けしたり、加工して食べます。カラスミ、イクラ、タラコなどは、塩味によって独特の風味を引き出しています。数の子には、塩などで風味が増すという効果もあまり無いように思います。やはり食感の食べ物であり、食べる際には、かつお出汁に漬けるなど、他の味を借りて食べているように思います。

数の子が、初めて文献に登場するのは、室町時代、将軍への献上品としてだそうです。つまり、昔から常用食ではなく、縁起物だったということなのでしょう。数の子という名称は、卵の数が半端ないので、数が多い子ということから来ていると思われます。ただ、東北地方で、ニシンをカドと呼んでいたことから”カドの子”から変じたという説もあります。江戸期には、正月の縁起物として定着したようです。当時は、決して高価なものではななかったようです。しかし、昭和も40~50年代なると、数の子は高騰し、”黄色いダイヤ”とまで呼ばれることになります。

ニシンの漁獲量が減る一方で、高度成長とともに豊かさを増した各家庭では、正月料理の定番として、数の子は欠かせないものになっていきます。加えて、核家族化が進んだこともあり、需要は大いに伸びます。塩漬けにすると長期保存が可能な数の子は、投機の対象になっていきました。いわゆる買い占めが横行し、抱えすぎた商社が倒産する事態まで発生します。”黄色いダイヤ”という言葉が生まれ、数の子は高価なものという意識が広がり、定着していきます。近年は、輸入先も拡大され、価格は、かつてほど高くはなく、しかも安定しているようです。早い時期に、塩漬けを買っておけば、比較的安価に済みます。正月近くになったら、塩抜きし出汁に漬ければいいわけです。さほどの量が必要なければ、やや高めですが、正月前に味付けしたものを買えばいいわけです。

数の子を使った料理の定番に、松前漬けとつがる漬けがあります。つがる漬けは、商品名であり、他にねぶた漬け等もあります。細切りにしたスルメと昆布に数の子を入れて、醤油漬けにしたものです。ネバネバしているところが特徴です。松前漬けは海鮮のみで漬けられますが、つがる漬けには、山の幸として、大根やにんじんが入ります。いずれも正月料理などではなく、年中食べられます。松前漬けは、江戸期、松前藩で生まれたとされますが、現在の醤油漬けは、昭和に入ってからの商品です。それが各地へも広がり、つがる漬になったのだと思われます。つがる漬けの場合、数の子が、姿のまま入っていれば高級品、バラで入っているものは普及品となります。

数の子の一種に子持ち昆布があります。味は数の子そのものですが、昆布が真ん中にあるという見た目に加え、産卵後ゆえ、数の子ほど堅くないところが特徴です。筋子とイクラの違いと言えば、言い過ぎかも知れませんが、私は、その多少緩い食感も好きです。昆布に、ニシンが卵を産み付けたものですが、さすがに天然物は、極めてレアだそうです。我々が口にする子持ち昆布は、生け簀にニシンを放ち、そこに昆布をぶら下げて産卵させるようです。(写真出典:gurusuguri.com)

2021年12月12日日曜日

梁盤秘抄#20 COR DE ROSA E CARVAO

アルバム名:COR DE ROSA E CARVAO(1994)                     アーティスト:マリーザ・モンチ

2010年に、前立腺ガンという診断を受けました。結果的には、小さく、かつ安定しているので、毎年、PSA検査だけ行うということになりました。昨年、再び生体検査を行いましたが、同様の結果で、向こう10年くらいは何もする必要がないと言われました。ただ、最初にガンの告知を受けた際には、もはやこれまでか、と思いました。悲しかったものの、良い人生だったなと思え、多少は死を受け入れることができたように思います。そんな時、マリーザ・モンチの「Onde Andarás?」を聞くと、なぜか気持ちが落ち着き、冷静になれました。

アンニュイなムードのなかに、少し自己憐憫をにじませ、失った恋を歌っています。カエターノ・ヴェローゾの曲ですが、「Cafe Brasil」(2001)のなかで、マリーザ・モンチがカバーしています。以来、マリーザ・モンチを、よく聞くようになりました。特に、このアルバムの ”Danca Da Solidado”、”De Mais Ninguém”などはお気に入りです。特にハマったのが”Esta Melodia”です。あの人が去って、残ったのはこのメロディ、といった内容の歌です。ヴェーリャ・グアルダ・ダ・ポルテーラを従えたマリーザ・モンチは、モダンなセンスも加えながら、しっかりとサンバの伝統に則って歌い上げています。”ママ”と呼ばれたクレメンティーナ・デ・ジェゾスが、アルバム”RAINHA QUELE”で歌った曲のカバーです。

ヴェーリャ・グアルダ・ダ・ポルテーラは、リオの名門サンバ・チーム”ポルテーラ”の長老たちで構成されています。新聞記者だったマリーザ・モンチの父は、ポルテーラの一員であり、ポルテーラは、いわばマリーザが育った場所でもあります。2000年、マリーザは、忘れられていたヴェーリャ・グアルダ・ダ・ポルテーラを集め、アルバム「Tudo Azul」をプロデュースし、自らも歌っています。さらに2010年には、自らが案内役を務めて、初期のポルテーラを探るドキュメンタリー映画「サンバのミステリ」を発表しています。ポルテーラの歴史と同時に、自分自身の音楽的ルーツを探っていたのでしょう。映画のラスト近く、多くの人々が集まったポルテーラの練習場で、マリーザとヴェーリャ・グアルダの面々は、”Esta Melodia”を楽しそうに歌います。実に感動的なシーンでした。

マリーザ・モンチは、エリス・レジーナ亡きあとのMPBの女王と呼ばれます。MPBとは、ムージカ・ポプラール・ブラジレイラの略であり、ブラジルのポップという意味です。サンバやボサノヴァよりも、欧米のポップスの影響が濃い、現代的な音楽です。少しザラついた透明感とでも言いたくなるような彼女の独特な声は、他の誰とも似ていません。その声は、知的でモダンな印象を与えます。ただ、いかにMPBの先頭を走るとは言え、他のブラジルの音楽家同様、彼女の音楽的センスは、サンバで形作られています。カリオカと呼ばれるリオの下町っ子たちが、貧乏な生活のなかで生み出したサンバこそ、マリーザの音楽的原点なのだと言えます。

サンバの歴史ははっきりしないものの、西アフリカから連れてこられた奴隷たちが、教会音楽はじめ欧州の音楽と出会い、生まれたものと言われています。ブラジルの近代化とともに、労働者が都会へと集まっていきます。都市の最下層を形成する労働者たちは、貧しい生活のなかで肩を寄せ合い、助け合って生きていきます。その際、辛い日々の憂さ晴らしとして、自然発生的にリオのサンバが生まれます。仕事の最中に思いついたメロディや歌詞を持ち寄り、数々の名曲が生まれていきます。ポルテーラの正式名称は、”Grêmio Recreativo Escola de Samba Portela”です。サンバ・チームの名称には、”Escola”が入ります。学校という意味ですが、流派、あるいはチームといったところなのでしょう。リオのサンバやエスコーラは、音楽やダンス以上に連帯の象徴なのだと思います。(写真出典:discunion.net)

2021年12月11日土曜日

ふるさと納税

10年ほど前、業界の知人から「ふるさと納税をしない奴はバカだ」と言われました。その知人は、ふるさと納税専用の冷凍庫まで持っていました。私も、始めて見ると、すっかりハマり、会う人毎に、ふるさと納税すべきだと言い歩き、もはやふるさと納税の宣教師となっていました。完全リタイアして、住民税も減りましたが、今でも、米、味噌、ゴルフボール等は、ふるさと納税で頂戴しています。ふるさと納税制度自体は、2008年にスタートしています。当初は、本当の故郷への純粋な寄付行為として宣伝されていました。ところが、返礼品を出す自治体が現れ、2012年、ふるさと納税専用のサイトが立ち上がると、一気に広がっていきました。

さる地方都市の市長と話した際、俺はふるさと納税に反対だ、と市長は言っていました。その市では、市長のせめてもの抵抗として、物品ではなくイベント参加権だけを返礼にしていました。市長の言いたいことは、実によく分かります。流出分は、住民税を他の自治体に取られる。流入分は、寄付収入増ながら、半分ほどが返礼品やプロモーション経費で支出されるという仕組みです。国全体としてみれば、徴収すべき、法に定められた税を、役所が自ら減らすという奇妙な仕組みです。一方、納税側からすれば、事実上の減税です。ただ、活用しなければ、欲しい返礼品がなければ、減税にならないという不公平な仕組みであり、かつ、所得が多いほど寄付控除上限も大きくなるという不公平もあります。減税ならば、こんな仕組みを使わず、直接的に減税すればよい、とも思います。

ここまでブームが過熱すると、自治体も、やらなきゃ損、ということになります。ちなみに、上述の市でも、その後、住民の意見に押され、名産物を返礼品に加えるようになりました。ふるさと納税には、地場産業を振興する、あるいは特産品をPRするという面で、一定の効果があります。ただ、それも特定の産品だけに限定した効果ということになり、ここにも不公平が生じます。恐らく、特産品の取扱業者の選定にも、不公平感は生まれているのでしょう。そもそも、各自治体も、人気の特産品があるかどうかで、寄付額に大きな格差が生じるという不公平さもあります。本当に補助を必要とする自治体に寄付が回るとも限りません。結局、安定的に潤っているのは、サイト等の運営に関わる業者、そして配送会社だけだとも思えます。

ふるさと納税の本来的なねらいは、大都市圏に集中する住民税の一部を、地方にも分配しようというものです。そもそも地方振興のための税の配分システムならば、地方交付税という仕組みが既に存在しています。多くの人口を抱え、地方に比べて、大きな支出が求められる大都市側では、ふるさと納税の流出額が大きくなれば、行政サービスの低下も避けられません。そこで、地方交付税対象自治体については、流出額の75%を国が補填する仕組みもあります。ならば、ふるさと納税などやらずに、その補填財源を地方交付税に上乗せして、支援が必要な自治体に回せば済むのではないでしょうか。返礼品を、ありがたく頂戴しておきながら言うのも如何なものかとは思いますが、とにもかくにも摩訶不思議な制度と言わざるを得ません。

2020年度のふるさと納税の総額は、約6,724億円に達しています。うち返礼品や運営費用として約半分の3,300億円が消えているはずです。また、流出側への75%の補填が、約5,000億円。つまり、ふるさと納税がなければ、国全体としては、8,300億円が浮くわけです。優秀な官僚の皆さんも分かっているはずです。とすれば、ふるさと納税のメリットは、別な所にあるのではないでしょうか。例えば、自治体や政治家が、交付税の増額を要求してきた場合、官僚は「ふるさと納税で稼いでいるところもありますよ。おたく、努力が足りないんじゃないですか?」と言えます。これは切り返しとしては、なかなかのものです。配分という世界に、一部自由競争を組み込み、分捕り合戦をさせることで、配分を抑え込む、という仕組みにも見えます。もちろん、下衆の勘繰りってやつですけど。(写真出典:newsweekjapan.jp)

2021年12月10日金曜日

媒酌人

結婚式の媒酌人を、3度ばかり、引き受けたことがあります。最初に媒酌人を引き受けたのは、1990年代前半のことでした。今時、媒酌人とは珍しいね、と先輩から言われ、調べてみると、媒酌人のいる結婚式は、当時の東京で、既に1割強まで減っていました。NYから戻った直後のことであり、浦島太郎状態の私としては、時代の変化に大いに驚きました。かつて結婚式と言えば、媒酌人を立てることが慣例であり、会社の上司にお願いすることが通例となっていました。2000年代に入ると、媒酌人のいる結婚式は、1%以下にまで減ります。

ごく正確に言うと、媒酌人と仲人には違いがあります。仲人は、結婚する二人を、お見合いなどで引き合わせるところから関与します。対して、媒酌人は、結婚式や披露宴で、新郎新婦を介添えするだけの役割です。頼まれ仲人、といった言い方もありました。恐らく、結婚という契約の証人という意味合いだったのでしょうが、結納の儀式を仕切ること、親族の顔合わせを仕切る、披露宴で新郎新婦を紹介することなどが主な役割です。なにせ、おめでたい席であり、ご両人の人生にとってほぼ一度だけ、あるいはご両家の縁を結ぶという観点からも重要な儀式ですから、間違いなどあってはいけないわけです。そういう意味では、それなりに重い役割でもありした。

媒酌人は、江戸期の武家社会で一般化したようです。それが、明治期になると、庶民の間にも広がっていきます。当時は離婚率が高く、離婚を抑制するために広がったという説もあるようです。ただ、明治の世になると、身分制度がなくなり、結婚の自由度も増したことで、媒酌人が一般化したのではないかと思います。結婚は本人同士の同意で成り立ちますが、当時の社会では、家と家が縁戚関係を結ぶという意味も大きかったと言えます。結婚の自由度が増してくると、両家は見ず知らずという場合が増えます。両家の間に、第三者である仲立ちがいた方が、事がスムーズに進むというメリットが認識され、媒酌人が普及したのではないかと思われます。戦後、社会は、村落共同体から企業共同体中心へと変わります。そこで上司の”頼まれ仲人”が増加していったのでしょう。

かつて、仲人は「月下氷人」とも呼ばれました。これは中国の二つの故事に由来する言葉です。唐の時代、ある人が旅に出ると、月の光で本を読む老人に出会います。老人は、大きな袋に寄りかかっており、その袋から赤い糸が出ていました。その糸は何か、と尋ねると、これは男女を結ぶ糸だ、お前の相手も決まっている、と聞かされます。後に、男は、老人が予言した相手と結婚します。また、晋の時代、氷の上に立って、氷の下にいる人と話す夢を見た男が、占い師に、夢の意味を聞きます。占い師が言うには、その夢は、お前が結婚の仲立ちをする予兆だと答えます。果たして、男は結婚の仲立ちをすることになりました。この二つの話から、仲人のことを月下氷人と呼ぶようになったと言われます。

90年代、媒酌人を立てる結婚式が減っていった理由は、結婚産業の競争が激化し、多様なスタイルが提案されたことによる影響が大きかったと思います。ただ、その背景には、バブル経済の崩壊が関係していたと思われます。つまり、疑似村落共同体としての企業は、高度成長期を通じて、終身雇用・年功序列・企業内組合という三種の神器をもって、その結束を強固にしていきます。ただ、バブルが崩壊すると、その体制には綻びが生じ、共同体としての強さにも失われていきます。もともと形式的になっていた”頼まれ仲人”も、急速に意味を失っていったわけです。(写真出典:nrh-shimanto.co.jp)

2021年12月9日木曜日

「パワー・オブ・ザ・ドッグ」

監督: ジェーン・カンピオン      2021年英・豪・米・加・NZ

☆☆☆☆+

Netflixは、毎年、この時期、アカデミー賞狙いの話題作を投入してきます。20年にはマンクとシカゴ7裁判、19年はアイリッシュマンとマリッジ・ストーリー、18年はROMA/ローマでした。すべてノミネートされましたが、残念ながら作品賞は、まだ獲っていません。既にネット配信は、映画を観るためのメディアとして定着していますが、Netflixとしては、アカデミー作品賞を獲得することで、市民権を完全なものにしたいということなのでしょう。今年、投入する第一弾が「パワー・オブ・ザ・ドッグ」であり、12年振りのジェーン・カンピオン作品というだけで、十分に話題作と言えます。

見事な作品に仕上がっています。ヴェネチア国際映画祭では銀獅子賞(監督賞)を獲得しています。ジェーン・カンピオンは、女性監督の頂点に立っていることを、改めて証明したとも言えます。監督の母国ニュージーランドで撮影されたという美しい映像、ベネディクト・カンバーバッチの重厚な演技、切れることなく一定のテンションを保つ演出など、実に見事なものです。監督の力量の高さを、十分に感じさせます。とても質の高い文学作品を一冊読み終えたかのような印象が残ります。ただ、ドラマとしてのカタルシスという面では、強すぎればバランスを崩す可能性があるとしても、やや弱かったように思えました。

ジェーン・カンピオン監督が、その名を世界に知らしめたのは「ピアノ・レッスン(原題the Piano)」(1993)でした。19世紀のニュージーランドを舞台とした愛と自立のファンタジーでした。監督が、まだ30代の作品ですが、そのスキの無い構成力は、ベテランの大物監督をも凌ぐほどのものでした。アカデミー賞では、監督自身が脚本賞、コーエン兄弟映画の常連ホリー・ハンターが主演女優賞、子役のアンナ・パキンが助演女優賞を獲得しています。そして、カンヌでは、堂々、パルム・ドールを獲得しています。ちなみに、その年のアカデミー作品賞は「シンドラーのリスト」、監督賞はスティーヴン・スピルバーグでした。作品賞を獲れずに脚本賞だけを獲った作品は、間違いなく名作揃いというのが、持論ではありますが、「ピアノ・レッスン」も、その一つです。

カンピオン監督は、音楽的センスも極めて良いと思います。「ピアノ・レッスン」では、ある意味、ピアノが主役でもありました。現代音楽家のマイケル・ナイマンの音楽、ホリー・ハンター自身が弾くピアノが印象的であり、サウンドトラックは、世界的ヒットを記録しています。今回も、音楽が、映像と見事にリンクし、実に印象的でした。担当したのは、レディオヘッドのリード・ギター、ジョニー・グリーンウッドです。いまや、映画音楽家のグリーンウッドと言うべきかもしれません。「ゼア・ウィル・ビー・ブラッド」(2007)では、ベルリン国際映画祭の銀熊賞を獲得し、アカデミー音楽賞にもノミネートされています。また、「ファンタム・スレッド」(2017)でも、再びノミネートされています。いずれもポール・トーマス・アンダーソン作品でした。

原作「パワー・オブ・ザ・ドッグ」(1967)は、西部開拓時代を描くトーマス・サヴェージの最高傑作とされ、ギリシャ悲劇的とも言われる作品です。カンピオン監督は、シナリオ執筆に際して、かなり原作に手を入れたようです。同名のタイトルとして、ドン・ウィンズロウの三部作が有名ですが、まったく関係ありません。もっとも、ウィンズロウの作品の邦題は「犬の力」(2005)となっており、今回、混乱をさけるために、あえて映画のタイトルは原題のままとしたのでしょう。ただ、ウィンズロウが、トーマス・サヴェージの作品を意識したかどうかは不明です。(写真出典:movies.yahoo.co.jp)

2021年12月8日水曜日

前夜の訓示

飯田房太中佐
カイルア・ビーチは、ハワイで最も好きな場所です。白い砂浜、透明度の高いコバルト・ブルーの海。絵に描いたように美しいビーチでは、一日中、何もせずに過ごしたくなります。ハワイに来て良かったと、心底感じさせてくれます。ビーチの北側には、モカプ半島が横たわっています。天国のようなビーチから臨む穏やかな山並みのモカプ半島は、実は、まるごとアメリカ海兵隊ハワイ基地となっています。 現地時間1941年12月7日朝、真珠湾の米海軍基地は、日本軍の奇襲攻撃を受けます。第二次攻撃隊として、空母「蒼龍」を飛び立った第三制空隊は、カネオヘ海軍航空基地(現海兵隊ハワイ基地)とベローズ陸軍航空基地(現空軍基地)を攻撃します。

第三中隊を率いる飯田房太大尉(戦死後は二階級特進して中佐)は、カネオヘを攻撃し、ベローズを叩き、再びカネオヘ攻撃を行います。その際、飯田大尉の操縦するゼロ戦は、燃料タンクに被弾し、燃料を失います。飯田大尉は、僚機に燃料切れを伝える手信号を送り、手を振って基地格納庫へと突入します。米軍は、飯田大尉の勇敢な行動に敬意を表し、基地内に埋葬し、1971年には、記念プレートも設置されています。2016年、ハワイ訪問中の安倍首相は、海兵隊ハワイ基地を訪れ、記念プレートに献花しています。その際、「悪魔の辞典」で知られるアンブローズ・ビアスの「勇者は、勇者を敬う」という言葉を引用し、米軍に感謝しています。

飯田房太大尉は、山口県の旧家に生まれ、海軍兵学校を5番という優秀な成績で卒業します。その後、霞ヶ浦海軍航空隊で学び、パイロットになります。1940年には、無敵と言われた新鋭機ゼロ戦を操縦して成都攻撃に出撃。ゼロ戦飛行隊は、敵機全機を撃墜し、勇士として賞賛されました。しかし、飯田大尉は浮かれることなく、地上部隊が速やかに重慶・成都を占領できなければ、日本は大変なことになる、と語っており、近代的な総力戦の何たるかを正確に、かつ冷静に把握していたようです。そして、翌年、蒼龍からハワイ攻撃へと飛び立ちます。飯田大尉の英雄的な最後については、後にJALのパイロットとなる部下の藤田怡與藏中尉等の証言があります。ただ、藤田中尉たちの証言とは、多少異なる話も伝わります。

南洋の撃墜王として知られた角田和男中尉が、蒼龍の艦上爆撃機パイロットから、無理矢理、聞き出したという話です。ハワイ攻撃の前日、飯田大尉は、部下を集めて「この戦は、どのように計算してみても万に一つの勝算もない。私は生きて祖国の滅亡を見るに忍びない。私は明日の栄えある開戦の日に自爆するが、皆はなるべく長く生きて、国の行方を見守ってもらいたい」と訓示したというのです。この訓示については、ハワイ攻撃当日のうちに、蒼龍艦内に厳しく箝口令が敷かれたと言います。藤田中尉は、飯田大尉の機は被弾したものの、帰投できないほどのダメージではなかった、と証言していますが、前夜の訓示については記憶にない、とも話しています。

ただし、藤田中尉は、ハワイへ向かう途上、飯田大尉が、被弾したら、目標を見つけて自爆する、と話していたことは記憶していました。今となっては、前夜の訓示は、事実か否か、分かりません。いずれにしても、飯田大尉の厳しい覚悟は明確です。かつ、大戦の帰趨を、極めて冷静に分析していたことも、うかがい知れます。それは、最後まで日米開戦に反対し続け、かつ真珠湾攻撃の指揮をとって英雄となった山本五十六連合艦隊司令に重なるものがあります。(写真出典:ja.wikipedia.org)