2021年7月7日水曜日

ハンティング

私は、移り気なのか、集中力に欠けるのか、どうもコレクターとしての才には恵まれていません。ただ、アメリカにいるとき、たまたまデコイが気に入り、そこそこ集めました。デコイは、ハンティングの際、囮として使う木彫りの鳥の模型です。もちろん、私は、ハンティングのためではなく、単なる装飾として集めました。実際にハンティングで使われるものを中心に、アンティークや工芸品、あるいは絵画等も集めてみました。用途に応じて、様々な形、色、大きさがあります。値段もピンキリで、作家によるウッド・カービングともなれば、とても美しいのですが、べらぼうな値段になることもあります。デコイという言葉は、もともとはオランダ語の”囲う”という意味の”デ・コイ”から英語化した言葉だそうです。 

アメリカでは、スポーツ・ハンティングが、ごく一般的に行われています。さすがに大都市では稀でしょうが、郊外や地方では、多く見られる趣味です。欧州でもおなじなのだと思います。対して、日本では、愛好家は限られ、特殊な趣味といった位置付けだと思われます。日本でも、 害獣駆除や毛皮のニーズに応えるために、ハンティングが行われてきました。また、平安期から狩衣という衣装が存在し、かつ普段着になったくらいですから、スポーツ・ハンティングも行われてきたわけです。公家社会では鷹狩が人気だったようですが、室町時代あたりからは、武士たちも熱をあげるようになっています。いずれにせよ、欧州と変わらぬハンティングの歴史があったようにも思います。では、なぜ、欧米との違いが生じてきたのでしょうか。

欧米は狩猟民族の国で、日本は農耕民族の国だから、という説があります。もちろん、違います。人類は、皆、農耕民族になることで文明を築いてきました。日本は狭いから、という人もいます。ただ、国土の8割が山地という土地です。ハンティングの場所に事欠くことはありません。日本は海洋国家だから、ハンティングへの情熱が釣りに向けられたという説もあります。これは、多少うなずけるものがあります。しかし、釣りとハンティングは、二者択一という関係にはありませんから、疑問は残ります。日本は仏教国であり、殺生が戒められてきたから、という説もあります。これは、かなり有力な説のようにも思えます。無益な殺生は行わないという観点からすれば、スポーツ・ハンティングが広がらなかったことは理解できます。ただ、かつては、武士や公家は、狩りを行っていたので、これも正解とまでは言えません。

そうなると、人為的、つまり政治や治世の産物のようにも思えてきます。あまりにも金がかかる鷹狩が禁止されたことは何度かあるようですが、スポーツ・ハンティング禁止令のようなものは存在しません。戦国時代末期から、秀吉によるものなど刀狩りが幾度か行われています。いわゆる兵農分離によって、治安維持と武士階級の確立をねらったわけです。江戸期には、その考え方が、さらに徹底されます。ただ、武器を一掃すること自体がねらいではなかったため、武士以外、例えば農村部にも、相当数の刀や鉄砲が残っていたようです。大きな変化を与えたのは、明治政府による廃刀令、および銃砲取締規則だったのではないでしょうか。もちろん、生業としての狩猟、害獣駆除を禁止したわけでも、スポーツ・ハンティングを禁止したものでもありません。ただ、ここで、一般人が刀や銃を持つことのハードルが、グッと上がったのではないでしょうか。

そして、決定的だったのは、敗戦後、GHQによって行われた銃砲等所持禁止令だったと思われます。日本人は好戦的と思われており、アメリカは、占領下でのゲリラ戦を、極度に警戒していました。ここでもハンティングが禁止されたわけではありませんが、銃の所持に関するハードルがさらに上がったわけです。いまでも日本の銃規制は、世界で最も厳しいと言われます。これが、日本のハンティング文化低迷の主因だったのでしょう。加えるに、欧米との大きな違いは、江戸期の平穏にあるように思います。この間、欧米は、戦争を続け、進化した銃が蔓延していきます。そのこととハンティングは密接に関係しているように思います。(写真出典:en.wikipedia,org)

2021年7月6日火曜日

薄雪

鏑木清方「薄雪」
昭和のキャバレー王と呼ばれた福富太郎の絵画コレクション展が、東京ステーション・ギャラリーで開催されました。企画したキュレーターに拍手を送りたいと思います。 福富コレクションは有名ですが、まとまった形で見ることができる機会はほぼ無く、とても良い企画だと思います。鏑木清方を中心とした美人画の数々は、コレクターのこだわりが感じられ、統一感があるだけではなく、キャバレー王の人となりまで感じさせます。

福富太郎は、戦争直後、15歳で銀座のキャバレー「モンテカルロ」のボーイになります。カフェ、ダンスホール、キャバレー等で働き、ヤミ商売にも手を出し、いわば戦後の闇社会に関わりながら、1957年、26歳の時、神田に自ら経営するキャバレーを開店します。若いながらも、経験と人脈が豊富だった福富は、店を増やしていきます。1964年には、その後、一世を風靡することになる大型キャバレー「ハリウッド」の1号店を銀座にオープンします。生バンドが入り、ショーを楽しみながら、女性の接客を受けるキャバレーは、戦後、進駐軍向けにスタートし、高度成長期には、大衆化が進み、人気を博しました。ハリウッドは、まさにその象徴的な店であり、福富は大成功します。

福富は、ハリウッド開店直後に、鏑木清方からコレクションを開始しています。父親が大事にしていた鏑木清方の掛け軸が、空襲によって家とともに焼失した体験が背景にありました。福富は「いわば仇討ちみたいなもんだな」と語っています。戦争への仇討ちなのでしょう。いずれにしても、美術愛好家の家に育ったことが福富コレクションを生んだと言えます。福富コレクションは、鏑木清方をはじめとする美人画が中心ですが、福富自身は「存在感のある女性像に惹かれる」とも「俺は、皆が好きな伊藤深水は一枚も持っていない。幽霊顔が好きなんだ」とも言っています。”艶めかしい女性”像のコレクションと評されることも多いようですが、そういった要素も含めた女性の性の実在感こそ、福富の求めたものであり、それは母親につながる面も大きいのでしょう。

鏑木清方の「薄雪」は、福富が最も愛した絵として知られ、病を得た福富は、この絵を病室にまで持ち込んだと言います。「薄雪」は、近松門左衛門の名作浄瑠璃「冥途の飛脚」から題材を取り、客の金に手をつけた飛脚問屋亀谷忠兵衛と、その金で身請けされた遊女梅川の進退窮まった様が描かれています。実際に起きた事件がもとになっています。見事な構図に描かれた梅川の表情と姿勢が、薄幸な女性の切なさだけではなく、死を意識した女性の究極のエロティシズムをも伝えます。エロティシズムは、人は何故生きるのか、という人間の根源そのものに深く関わっています。病室の福富が「薄雪」を通して見ていたのは、人間そのものだったのでしょう。今回、 注目を集めたのは清方の問題作と言われる「妖魚」ですが、見るべきは間違いなく「薄雪」です。 

箱根には良い美術館が多く集まります。なかでも、岡田美術館は最大の規模を誇ります。パチスロ製造で財を成した岡田和生の多様なコレクションを展示しています。 重要な作品も多く、それらは見応えがあります。 ただ、私は、お金の匂いが漂うこの美術館が、どうも好きになれません。 晩年、 美術蒐集の極意を問われた福富は「値上がりを期待して金で集めたコレクションはダメだね。とにかく好きな絵を買いまくることだよ」と言っています。(写真出典:tokyoartbeat.com) 

2021年7月5日月曜日

「ゴジラvsコング」

監督:アダム・ウィンガード        2021年アメリカ

☆☆☆ー

リアルなCG、斬新なアングル、スピード感ある展開、ダイナミックな音響、そしてファイト・シーンたっぷりと、現代的な映像として、よく出来ていると思います。ただ、ドラマとしてはお寒い限りです。地下世界、親子、少女とコング、といったお決まりの設定ですが、ただの飾りになっていました。むしろ、ドラマ性を犠牲にしても、スピード感あふれる映像に仕上げたかったのでしょう。欧米では、2020年11月の公開予定が、コロナ感染の広がりで、2021年3月公開となりましたが、ヒットを記録しています。映画館の再開と重なり、映画に飢えた観客が押し寄せたのでしょう。家族や友人と、ポップコーンを抱え、声を出しながら、大画面で映画を楽しみたい人たちのためには、ピッタリの映画と言えます。

ゴジラ映画としては、36作目になるようです。1954年の第1作は、今、見ても楽しめます。登場前の不気味さ、逃げまどう人々、ランドマークの破壊、あおるカメラ・アングル、自衛隊出動時の音楽はじめ、その後の特撮怪獣映画の定番となる演出が詰め込まれていました。しかし、最大の特徴は、単なる娯楽映画ではなかったことだと思います。ゴジラは、水爆実験によって生み出されました。人類の傲慢さが人類を恐怖にさらす、あるいは人類の身勝手さに自然が逆襲する、という文明批判に貫かれたテーマのシリアスさがありました。唯一の被爆国としてのメッセージが込められていたわけです。それが映画を色褪せないものにしている面があります。

ゴジラ対キングコングという対決は、今回が初めてではありません。1962年、東宝が「キングコング対ゴジラ」を製作しています。遅かれ早かれ、対決せざるを得ない両雄でしたが、原案は、アメリカから持ち込まれました。原案は”コング対フランケンシュタイン”でしたが、資金が集まらず、対戦相手をゴジラに替えて東宝に持ち込まれました。力道山のプロレスのように、何やら日米対決的な面もあり、大ヒットします。海外でも公開されています。この作品以降、ゴジラの文明批判的な位置付けは薄れ、エンターテイメント性が高くなります。その後、しばらく、ゴジラは、人類の味方として活躍します。歴代怪獣の中で、最強と言われた宇宙怪獣キングギドラの襲来は、 人類最大の危機でした。しかし、ゴジラが死力を尽くして戦い、これを撃退、人類を守りました。 

今回、メカゴジラまで登場したのには驚きました。本作の正しいタイトルは「ゴジラ&コングvsメカゴジラ」なのでしょう。「ロボ・ゴジラか?」に対して「いや、メカゴジラだ」というセリフには、頬が緩みました。あまり人気のなかったメカゴジラですが、現代風になると、なかなかのものでした。秀逸だと思ったのは、キングギドラとの合体という発想です。ゴジラ映画の流れを変えたのは、庵野秀明の「シン・ゴジラ」(2016)でした。キングギドラの頭蓋骨のなかからメカゴジラを操縦するという設定は、庵野のエヴァンゲリオンを彷彿とさせます。ひょっとすると、ウィンガード監督が庵野に捧げたオマージュなのかも知れません。庵野は「シン・メカゴジラ」を撮るべきではないか、とも思います。

地球空洞説は、大昔から大人気の話でした。神話や小説をあげれば、キリがないほどです。現代の科学では完全に否定されていますが、かつては科学者たちも仮説を提示していました。ハレ―彗星で知られる17世紀の天文学者エドモンド・ハレ―、オイラーの公式で知られる18世紀の数学者レオンハルト・オイラー等がよく知られています。また、19世紀のアメリカで出版されたシムズの同心円理論は特に有名で、多くの小説のインスピレーションともなっています。本作でも、地下世界への入り口は南極にありますが、シムズが唱えた説が根拠なのでしょう。地球空洞説では、地下世界の重力が重要なテーマとなります。本作でも、何の説明もありませんが、重力と反重力が、うまく取り込まれています。(写真出典:theater.toho.co.jp)

2021年7月4日日曜日

排骨拉麺

万世麺店有楽町店の排骨拉麺を、40年以上、食べ続けています。豚のスペアリブを薄めにスライスし、衣をつけて揚げた排骨が、うまい出汁のラーメンに乗っています。「肉の万世」は、電気部品の販売を行っていた創業者が、ドッジ・ライン不況のあおりを受け、1949年に開業しました。当初は、コロッケの店だったようですが、今や、ステーキやカツサンドといったメニューで知られ、牛の顔のロゴで関東各地にチェーン展開しています。万世橋のたもとにそびえる万世ビルは、秋葉原のランドマークでもあります。その万世が、麺店を開いたのが、1966年のことでした。毎日、大量に出る豚骨や鶏ガラを活用する狙いがありました。その1号店が、今も続く有楽町ビル地下の有楽町店でした。

もちろん、排骨が一番の売りですが、モチモチの自家製麺もなかなかのものです。ただ、万世麺店最大の魅力はスープだと思います。惜しげもなく投入された豚骨や鶏ガラから出されるスープは独特のコクがあり、中毒性が高いと思っています。私の記憶では、長い万世麺店の歴史のなかで、3度ばかり、大きく味が変っています。恐らく時代に合わせて塩分を抑えてきたのだと思います。ただ、独特のスープのコクだけは、キッチリ保たれてきました。トッピングの排骨には、通常の排骨と脂身の少ない特選排骨の2種類があり、若いころの私の定番は、特選排骨2枚乗せ、いわゆる”特ダブ”でした。これを食べると、働き盛りでも、夕方まで空腹を感じることはありませんでした。麺の大盛もあり、”洗面器”と呼ばれていました。また、排骨、手羽先のから揚げ、叉焼をトッピングする”全部乗せ”というメニューもありました。

万世麺店有楽町店は、昔からカウンターのみです。昔は、出っ張りが3~4つある変形コの字カウンターでした。昼時ともなると、近隣のサラリーマンが押しかけ、大混雑でした。自動券売機もなく、順番も関係なく、食べている客の後ろについて、席が空くのを待つというスタイル。店内は、戦場に近いカオス状態でした。要は、食べ終わりそうな客を探し、その後ろに付くというのが常道ですが、食べるスピードには個人差があります。上策は、早食いタイプを見抜くことです。食べ終わりそうでも、食べるスピードが遅く、時間のかかる人もいるわけです。食べた後、ゆっくり水を飲み、席で爪楊枝を使いだす客もいて、そんな客には、後ろから厳しい視線が降り注ぎます。食べてる間も、常に後ろからのプレッシャーを感じるので、皆、無言で排骨拉麺と格闘していました。

食べる速さには個人差があります。持論ですが、営業現場の経験がある連中は、大体、早飯です。”早飯早糞芸のうち”という高度成長期らしい言葉までありましたが、さすがに、今は死語でしょう。万世麺店有楽町店の殺気立った昼時は、まさに高度成長期を象徴する光景でした。女性客を見ることは、ほぼありませんでした。ごくごく稀に職場の女性を連れた男性客もいました。その女性が、小指でも立ててお上品に食べようものなら、敵意むき出しの厳しい視線が集まり、危険な空気すら漂ったものです。印象的には、90年代以降、女性同士の客も増えてきたように思います。味が変わったのは、この頃だったと思います。男の戦場にも平和が訪れ、店も女性を意識した味に変えていったということなのでしょう。

40歳代まで、万世の排骨拉麺は、二日酔いの特効薬だと信じていました。もちろん、科学的根拠などありません。水分補給が必要だっただけなのかも知れません。ただ、熱いスープにたっぷりのラー油と黒コショウをかけて特選排骨を食べれば、大量の汗が噴出します。この汗が二日酔いを癒すと信じていました。もう、二日酔いするほど飲むこともありませんが、今でも月に一度くらいは、特選排骨麺を食べています。もちろん、一枚ですが。(写真出典:niku-mansei.com)

2021年7月3日土曜日

出水の後

20年熊本水害・人吉市
「水が出るぞ!」という叫び声に目が覚めたのは、午前2~3時頃だったと思います。水害など経験したことのない家でしたが、家族で家財道具を2階に上げました。あらかた片が付き、畳も上げようかというところで、水が来ました。昔ながらの重い本畳でしたが、ブワブワと浮いてきます。実に気持ちの悪い経験でした。水は、床上20~30センチまで上がり、すぐに引いていきました。日ごろは、まったく意識していなかったのですが、家は多少高い所にあり、水は、我が家を通過して、低めになっていた近隣へと流れ込んでいきました。例年よりも雪解け水が多かったところへ、大雨が降ったために、近くの川が堤防を越えたのでした。堤防が決壊し、鉄砲水でも起きていたら、大災害になるところでした。中学生の頃の経験ですが、その後も水害はなく、人生、後に先にも、たった一度の経験となりました。

 鉄砲水は別として、水害で何が大変かというと、後片付けです。水が通過しただけの我が家でも、普段の生活を取り戻すのに、1か月近くかかりました。捨てるものを捨て、床下の泥を掻き出し、家の水洗いをします。しかし、洗っても、乾くと、また汚れが浮かんできます。多少低い土地にあった近所は、なかなか水が引かず、2日ほど浸かっていました。そうなると、もっと大変です。電化製品はもとより、水に浸かった家財道具は、匂いもひどく、すべて廃棄するしかありません。水害経験のある地域では、堤防を高くする、排水プンプ施設を設ける、土地を嵩上げする、床を高くする、あるいは止水板を設置する等の対策が講じられています。それでも、ひとたび水が入れば、後片付けが大変なことに変わりありません。

新潟赴任中に、県央水害がありました。堤防が決壊し、鉄砲水が三条の街を襲いました。翌日、ジャンパーを着て、長靴を履いて、お客さまのお見舞いに出かけました。被災した大手メーカーを訪問した際、取締役総務部長が、ランニング・シャツに長靴姿で、玄関まで出てきてくれました。、従業員総出で泥の掻き出しをしているとのことでした。被害の状況や近隣企業の様子を話していると、黒塗りの大型車が玄関に横付けされ、パリっとしたスーツを着込み、ピカピカの革靴を履いた大手都銀の支店長が降りてきました。もちろん、お見舞いに駆け付けたわけですが、総務部長は、挨拶することもなく、忙しいから帰ってくれ、と追い払いました。車が走り去ると、総務部長は「ふざけあがって」と吐き捨てるようにつぶやいていました。

街中が泥にまみれ、社長であろうと何であろうと、皆、総出で、家や工場の片付けをしている最中に、スーツでお見舞いは、明らかに場違いです。かえって失礼であり、気分を害してしまいます。私のジャンパーに泥まみれの長靴という姿は違和感が無かったのでしょう。訪問したお客さまは、皆、手を休め、昨夜、経験したことを話してくれました。話を聞いてくれる人間が来るのを待っていた、という印象すら受けました。私の水害体験が活きたのかも知れません。いずれにしても、それほど水害の後片付けは大変なのです。どこから手を付ければいいのか、と呆然としてしまいます。しかし、手を動かさなければ、普段の生活を取り戻すことはできません。皆、憤りと諦めが入り混じった、妙なアドレナリンが出ていました。街中が、同じ思いで、同じように片付けをしていることが、多少の慰めなのかも知れません。

近年は、台風の大型化、線状降雨帯の発生等によって、記録的な大雨が頻発しています。かつて木で覆われた山が崩れることはありませんでした。近年は、それも限界を超えて、土砂災害が多く起こります。想定を超える雨量で、万全と思われた堤防が決壊し、水害など想定していなかった土地が水没します。一昨年でしたか、全国的にハザード・マップが改訂されました。それまで”百年に一度”程度だった災害想定は、”千年に一度”に変わりました。役所の保身とも言えますが、まんざら絵空事とも思えなくなっています。ただ、千年に一度の災害に、どこまで備えるべきか、実に悩ましいところです。(写真出典:yomiuri.com)

2021年7月2日金曜日

チップ

チップや心付けという習慣は、どうもしっくりこないものがあります。チップが生きた習慣として残る国へ行けば、忘れないように気を付けています。日本では、ほぼ廃れた習慣なので、普段、気にすることはありません。今でも心付けを渡す機会としては、温泉宿や料亭の仲居さん、相撲観戦でお茶屋を通した際の出方さん、ゴルフ場のキャディーさん、タクシーの運転手さん、稀ですが引越しの際の作業員さん、といったところでしょうか。心付けを裸で渡すことは、失礼だとされています。とは言え、滅多にあることではないので、ついついポチ袋を忘れ、ティッシュ・ペーパーに包んで渡すことになります。

 チップがしっくりこない理由は、2つあります。一つはチップが、”施し”のように思える点です。いま一つは、給与との関係です。”施し”に関して言えば、イスラムのザカートと同様、儒教等にも喜捨の精神はあり、恐らく世界中、同じような考え方があるのだと思われます。ですから、寄付や援助については十分理解できます。ただ、温情的な”施し”は、身分制度や職業の貴賤を前提にしており、相手の尊厳を傷つけるのではないか、と思ってしまうわけです。また、給与との関係については、提供されるサービスのコストは、人件費として認識されて当然であり、給与化されるべきだと思います。現在の日本では、そういう考え方が主流となり、サービス料という仕組みが存在します。欧米で見られる、不確性の高いチップを前提に、給与を低く抑える方式は、いくらサービスの向上につながると言われても、どうも釈然としません。

チップや心付けの歴史は、はっきりしていません。おそらく喜捨の精神に基づく気持ちの問題として、古くから、ごく自然に行われてきたからなのでしょう。また、かつて物品やサービスの定価が無かった時代には、価格の一部という性格もありました。典型的だと思うのは、今でも酉の市で熊手を買う際、値引きしてもらった分は、心付けとして渡す習慣があります。初めから正札方式でいいじゃないかと思ってしまいます。また、江戸期の宿代は、幕府の価格統制下で低く抑えられていたため、泊り客は、お茶代として心付けを渡す習慣があったようです。このように慣習化、あるいは制度化されたものに関する歴史的記述は、多く見つけることができますが、発祥は不明なわけです。チップや心付けの語源すら判然としません。

チップ(tip)という言葉の初出は、18世紀初頭の演劇だとされます。17世紀の犯罪社会において、手渡すといった意味のスラングとして使われており、18世紀には、タブーな物品のの不必要な贈与を意味する言葉になったようです。言葉自体は、また、習慣としてのチップの語源には有名な話があります。18世紀、イギリスのパブでは、”To Insure Promptness(早いサービスを受けるため)”と書かれた箱が置いてあり、客がお金を入れ、従業員が分配していたというのです。それ自体は事実かも知れませんが、語源、あるいは発祥とは思えません。また、かつてイギリスの床屋が行っていた悪い血を抜くサービスは価格が決まっていなかったため、チップを渡す習慣が始まったという説もあります。これも事実なのでしょうが、発祥というのは眉唾です。

ざっくり言えば、気持ちとしての心付けは、古くから世界中に見られ、社会慣習化されたチップは、欧州に深く根を張っているように思えます。その違いの背景には、市民階級の発生という歴史が関わっているように思います。つまり、歴史も古く、市民革命まで起こすほど力を持った欧州のブルジョワジーの階級意識の現れだったのではないでしょうか。近年、欧米では、チップ不要論も多く議論されているようです。いささか合理性に欠けるチップですから、当然の成り行きだと思います。(写真出典:chatelaine.com)

2021年7月1日木曜日

官僚集団

 

中華人民共和国は、社会主義市場経済を標榜していますが、ジャーナリストの楊継縄は、その著書「文化大革命五十年」(2019)のなかで、これを「権力市場主義」と呼んでいます。楊継縄は、中国共産党員で、新華社の優秀な記者として表彰も受けています。2001年に新華社を退職、炎黄春秋社の副社長に就き、多くの書籍を発表しています。ただ、次第に当局から警戒されるところとなり、大躍進運動を分析した代表作「墓石」(2008)や本作も香港で出版されています。香港の一国二制度が瓦解した今、楊継縄はじめ、中国国内から香港経由で共産党批判を発信していた人たちの今後の活動が大いに懸念されます。

楊継縄は、中国現代史を、「官僚集団」というキーワードをもって、実に分かりやすく解き明かしています。1966年に発動された文化大革命は、大躍進運動の失敗で影響力を失った毛沢東による権力奪還闘争であると理解されています。それは否定できないとしても、背景には、当然、毛沢東の共産主義への狂信があります。毛沢東は、その実現に向けて、党や国家の官僚化が阻害要因となることを、早い段階から憂慮していたと考えられます。共産主義が掲げるプロレタリアート独裁は、バクーニンが指摘したとおり共産党幹部による独裁であり、ロシアでも革命直後からノーメンクラトゥーラと呼ばれる共産貴族が生まれています。毛沢東が、右派、修正主義者、走資派、実務派と呼び、趣旨一貫、闘争の対象したのは、この官僚集団の発生・拡大だったとも言えます。

国家の効率的運営にあって、官僚制は、欠くべからざる存在です。ただ、独裁体制のなかでは、その権力は絶大化し、いわば無菌状態のなかで留めもなく自己増殖していきます。官僚の肥大化を説いたパーキンソンの法則の超拡大版が展開されるわけです。文化大革命は、毛沢東の支持する革命継続派と官僚集団の戦いだったといえますが、毛沢東の死もあり、最終的に勝利したのは、官僚集団でした。10年に渡り国を混乱させた文化大革命を収束させた官僚集団が直面した課題は、経済と政治でした。官僚集団が、自らの保身、あるいは利権拡大のために出した答えが、社会主義市場経済でした。政治的には独裁を継続しつつ、経済は市場経済を導入し、その恩恵をも独占的に享受するということです。結果、生まれたのが貴族階級としての官僚集団であり、それに賄賂や縁故で連なる富裕層であり、そして取り残された大衆と言う構図です。

この構図は、独裁体制がゆえに生まれ、独裁体制がゆえに固定化していきます。官僚の子弟は、良い教育を受け、官僚になるか、厚遇をもって民間企業に迎えられます。一方、貧しい民衆の子弟は、金のかかる高等教育を受けることは出来ず、親が借金して教育を受けたとしても、就職先もままなりません。民主的と言われる国でも貧富の格差が固定化する傾向はあります。その主因は教育機会の偏在だとされています。独裁国家にあっては、賄賂とネポティズムが、格差を固定化していきます。我慢の限界を超えた貧民たちが、各地で暴動を起こしてきたようです。しかし、資金潤沢な官僚集団は、官憲を拡充し、単に暴動を鎮圧するだけではなく、未然防止のためにも徹底的な弾圧を加えます。香港で起きていることも同様の文脈にあると言えます。借金して大学を出た若者たちのなかには、絶望して自殺する者も少なからずいるようです。

民主主義揺籃の地である古代ギリシャにあって、最も民主制が隆盛を極めたと言われるのは、ペリクレスの治世下です。ただ、皮肉にも、民主制を完成させたペリクレスの政治手法は独裁的だったと言われます。そのペリクレスが行った官僚改革は、市民による無給の仕事であった官僚を給与制にして仕事に専念させ、給与を出す以上、抽選制にしたことでした。日本には、官僚を指す”公僕”という言葉があります。日本の場合、漢字の多くは中国由来ですが、公僕に関しては、英語の”public servant”に由来する訳語です。公僕という考え方は、民主国家にしかないものなのでしょう。(写真出典:viator.com)

サンティアゴ・デ・クーバ