2021年6月14日月曜日

ジンギスカン

大学生の頃、高校時代の友人から、彼の大学同級生の実家を訪ねるので一緒に行かないかと誘われ、のこのこ付いていったことがあります。その実家というのは、北海道は新十津川の農家でした。まずは滝川で待合せ、有名な松尾ジンギスカンの本店へ向かい、特上肉を購入しました。ジンギスカンと言えば、薄くスライスしたマトンが主流の時代、分厚い特上肉は、本店でしか買えない希少品でした。見渡す限り畑が広がる新十津川の農家で食べた分厚い羊肉は絶品でした。外を見れば、1両編成のディーゼル車が通っていきます。あれは何?と聞けば、札沼線とのことでした。札沼線の北海道医療大学駅と新十津川駅間は、昨年、廃線になっています。

学生時代、サッポロビール園でアルバイトをしていたことがあります。夏の最盛期には、様々な大学から集まったアルバイトが250人くらいまで膨れ上がります。仲間が多いのと、有名人が来店するので、結構、楽しいバイトでした。ビール園の売りは、ジンギスカン食べ放題と生ビール飲み放題でした。使う肉は、輸入された冷凍マトンの薄切りです。真ん中が盛り上がったジンギスカン鍋で焼き、特製のタレで食べます。数時間働くと、羊肉の脂で、眼鏡は曇り、髪も脂でベトついてきます。仕事あがりには、従業員用の浴場でしっかり洗うのですが、なかなか脂は落ちませんでした。鍋を洗うのもバイトの仕事でしたが、厚いゴム手袋をして、熱湯のなかで洗わないと脂はとれませんでした。私は、羊肉が好きなので問題ありませんが、あの脂と独特の匂いが苦手な人には務まらないバイトでした。

日本の緬羊飼育は、明治に入り、軍服の生地を増産するために始まります。1875年、明治政府が千葉県の冨里に開設した下総牧羊場が始まりとされます。ただ、その数年前、北海道開拓使が、牧羊を試験的に行っています。いずれにしても、羊毛が目的とは言え、同時に食用の試みも始まったようです。羊肉は、時間とともに臭みが増します。食用の取組は、この臭みとの戦いでもあります。焼方とタレがポイントになります。焼方は、日本の大陸進出に伴い、中国で烤羊肉(カオヤンロウ)を食べた人たちが、余分な脂を落としながら焼くスタイルを国内に持ち帰りました。中央が盛り上がったジンギスカン鍋は、1935年、東京の「成吉思荘」発祥とされます。一方のタレは、漬け込んでから焼く、焼いてから付ける、味噌ベースか醤油ベースか等様々あります。付けダレは、長野で開発されたというたっぷりの林檎を加えるスタイルが主流です。ちなみに、私は、昔から、札幌のベル食品の「成吉思汗のたれ」一筋です。

かつて東京では、羊肉を食べたことがない、あるいは苦手という人がほとんどでした。2006年頃、BSE問題に起因する牛肉離れという現象が起こりました。替わって、健康にも良いラム肉のブームが到来しました。ブームは、数年で終わりましたが、多くの根強いファンも獲得し、ジンギスカンの店もある程度残り、スーパーでも良いラム肉が買えるようになりました。むしろ、昔ながらの臭みの強い冷凍マトンの薄切りの方が手に入りにくいほどです。また、高級ラム肉も食べることができるようになりました。最高級は、希少なサフォーク種の生肉でしょうか。札幌の超人気店「いただきます。」で、サフォーク肉を食べた時には感動しました。北海道の直営農場で飼育された食用専用のサフォーク肉は、クセがなく、柔らかく、うま味が強いという特徴を持ちます。一方、行列の絶えないススキノの老舗「だるま」は、マトン一本鎗です。羊肉のうま味は、マトンの方が濃いと言われますが、確かにヤミツキになります。

さて、問題は、なぜ羊の焼肉をジンギスカンと呼ぶのか、ということですが、その起源も諸説あります。よく知られているのは、札幌農学校出身で、満州国の総務庁長官を務めた駒井徳三が命名したという説です。満州の烤羊肉と日本で人気の義経=ジンギスカン説から発想したと言われます。ちなみに、青森県南部地方には「義経鍋」なるものがあります。料理ではなく、焼肉としゃぶしゃぶが同時に楽しめるように設計された鍋です。義経都落ちの際、兜を使って鴨を食したことが始まりとされますが、胡散臭さ満載の起源です。(写真出典:ja.wikipedia.org)

2021年6月13日日曜日

乳白色の肌

長い髪のユキ(1923)
ポーラ美術館で「フジター色彩への旅」展を見てきました。ポーラ美術館の企画展は、いつも上質で、見ごたえがあり、キュレーターの心意気を感じさせます。藤田嗣二は、エコール・ド・パリを代表する画家の一人であり、パリでは知らぬ者とていない人気作家でした。個人的には、あまり好きな作風ではありませんが、彼が名声を勝ち得えるきっかけとなった、いわゆる「乳白色の肌」は素晴らしいと思います。藤田は、死ぬまで、その秘密を明かさなかったようですが、近年、科学的な解明も進み、謎が解けつつあるようです。いわゆるバリウムにベビー・パウダーを混ぜたものを下地に使い、炭酸カルシウムと鉛白を混ぜた絵具を塗っていたようです。

西洋では、14世紀後半に油絵具が発明されると、絵具を混ぜて多様な色彩を生み出すことが可能となり、表現の可能性が広がりました。対して日本画で用いる顔料は、混ぜ合わせることができないので、多くの色を用意する必要があります。現在、日本画で用いる顔料は、1万色とも2万色とも言われ、画家たちは、常に1~2千種類を手元に置いているようです。日本産業規格、いわゆるJISが定める慣用色名は296色、源氏物語に登場する色は368色、これだけでもすごいと思うのですが、表現者にとっては十分ではなく、新たな色が追及されるわけです。デジタルの世界では、三原色を用いたRGBによって無限に色の創造が可能ですが、顔料となれば、実に大変な作業なのだと思います。藤田は、西洋画の世界に、日本画で用いる面相筆を使った線描、そして日本画の顔料の発想で作った乳白色を持ち込みました。

藤田嗣二は、1886年、後に軍医のトップ陸軍軍医総監となる父の元、東京に生まれます。東京美術学校、後の東京芸大に学びますが、黒田清輝等の写実主義一辺倒の学風に合わず、成績不振だったようです。27歳で渡仏、モンパルナスに居を構え、世界中からパリに集まったピカソ、モディリアニ、スーチン、キスリング等々のボヘミアンたちと交流します。その中から生まれた流れがエコール・ド・パリであり、藤田は、その代表的な作家として名を成しました。1931年には、個展開催のため、南米に渡ります。南米の色彩に魅了された藤田は、2年近くを現地で過ごし、画風にも鮮やかな色が現れます。その後、日本に戻った藤田は、日中戦争のなか従軍画家として中国に渡ります。一度、パリに戻りますが、世界大戦勃発とともに帰国、再び従軍画家として活動し、陸軍美術協会理事長にもなっています。

戦後、藤田は戦争協力者の烙印を押され、批判を浴びることになります。陸軍が藤田の画風を好むわけもなく、軍医総監の嫡男にして高名であることを利用しただけなのでしょう。また、藤田の戦争画も、国威発揚とは程遠いものだと思います。しかし、時代に流された藤田への批判を否定することもできません。藤田は逃げるように日本を離れ、1949年、フランスに戻ります。しかし、エコール・ド・パリの時代は遥か彼方に過ぎ去り、戦争協力者という烙印も影響してか、亡霊扱いされたようです。それでも支援者の助けもあり、挿絵本や少女像のシリーズで独自の画風を展開し、1968年、スイスで亡くなっています。藤田の「「私が日本を捨てたのではない。日本に捨てられたのだ」という言葉は、あまりにも有名です。藤田は、没後に再評価されたわけですが、生前、これほど母国で認められなかった画家もいないと思います。

藤田が日本で評価されなかったのは、戦争の落とした影ゆえ、とも言えます。軍国主義の時代がなければ、エコール・ド・パリの流れが、日本画壇そものを変えていた可能性があります。藤田の国内での評価も違ったはずです。戦争がなければ、従軍画家のスケープゴートにされることもなかったわけです。藤田のみならず、戦争がゆえに、その才能が評価されなかった作家は多くいるのでしょう。その多くは発表の機会どころか、制作の機会をも奪われた人々です。それに比べれば、国内での評価は不満でも、パリで高い評価を得たわけですから、藤田は幸せだと思います。(写真出典:atpress.ne.jp)

2021年6月12日土曜日

甘酒茶屋

かつての東海道、今は箱根旧街道と呼ばれますが、畑宿と元箱根の中間あたりに甘酒茶屋はあります。400年前に開業し、現在のご当主は13代目になるそうです。江戸幕府が箱根街道を整備した頃に店を出しているわけです。さすがに建屋は、何度か手を加えてきたようですが、往時の面影をしっかり残しています。”箱根八里”とは、小田原宿・三島宿間を言います。明治後期の唱歌「箱根八里」(鳥居忱作詞、瀧廉太郎作曲)に”箱根の山は天下の嶮、函谷關もものならず”と歌われるとおり、箱根街道は、非常に険しい山越えの道です。ぬかると危険なので、江戸期には石畳も整備され、一部は今も残ります。畑宿と箱根の関所の間にあって、甘酒茶屋は、貴重な休憩所だったわけです。ちなみに”函谷關”とは、中国河南省にある古代からの難所。切り立った崖の中を数キロに渡って道が続き、いくつかの歴史的な戦いの舞台にもなっています。

 私は、古民家が大好きです。東西を問わず、古民家系のレストランやカフェにも惹かれます。古民家で、昔の人々の生活を想像すると、興味が尽きることはありません。甘酒茶屋は、生きた博物館とも言え、雄弁に江戸の生活を感じさせます。甘酒茶屋は、文藝絵画にも、しばしば登場していますが、最も有名なのは忠臣蔵の”神崎与五郎 東下りの詫び証文”だと思います。京から江戸へ向う赤穂浪士神崎与五郎(神崎則休)が、甘酒茶屋で休んでいるとやくざな馬子の丑五郎に「馬に乗れ」と言われます。与五郎が丁重に断ると、弱腰侍と見て取った丑五郎は、図に乗って、しつこくからみます。討ち入り成就のために、ここで面倒は起こせないと、我慢に我慢を重ねる与五郎は、詫び証文まで書かされます。討ち入り後、与五郎が赤穂浪士の一人と知った丑五郎は、自分の行いを恥じ、出家して与五郎を弔ったという後日談もあります。

甘酒茶屋というくらいですから、一番の売りは甘酒です。甘酒の歴史は古く、古墳時代には醴酒(こさけ)等として知られ、「日本書紀」にも天甜酒(あまのたむざけ)として登場しています。その製法も、古くから、米麴と米で作る方法、そして酒粕から作る方法の二つが確認されています。甘味が貴重であったことから、ハレの日の飲料として一般的だったようです。また、栄養価が高いことから夏バテ対策としても親しまれ、俳句では夏の季語とされています。甘酒茶屋の甘酒は、江戸時代からの製法を受け継ぎ、米麹と米だけで作っているそうです。砂糖を入れていないので、ほんのりとした甘さが心地よい甘酒です。箱根八里を越えていく旅人にとっては、このうえない体力回復の妙薬だったのでしょう。甘酒茶屋では、夏になると冷やした甘酒も出してくれます。

峠越えの体力を確保するための力餅も大事なメニューです。磯辺ときなこが基本ですが、きなこに荒く挽いた黒ゴマをまぶしたものも数量限定で出しています。黒ゴマが香ばしくて、2切の餅など、ペロリといけます。また、おでんもスルーできないメニューです、いわゆる昔ながらの煮田楽のスタイルです。出汁で煮た玉こんにゃくに特製の味噌だれをかけて食べます。もともと田楽は、豆腐に味噌を塗って焼いたものですが、江戸初期には、煮て味噌をかける簡便な煮田楽が流行し、後におでんへと発展していきます。甘酒茶屋の玉こんにゃくは、他では見かけない、ザクザクとした荒い食感が特徴的で、江戸期のこんにゃくはこんな感じだったか、と思わせます。味噌だれが、また絶品。きめ細かく味噌の風味が強いのですが、酒や味醂、あるいは木の芽等の風味がいい味を出しています。最後は、器をなめりたくなります。

客の大半は車で訪れるのかと思いきや、いつも必ずハイカーたちがいます。恐らく五街道制覇組ではないかと思います。先輩に一人、江戸期の五街道を全て踏破したというツワモノがいます。聞けば、結構、ハマっている人たちがいるとのこと。四国八十八ヵ所巡り、全国百名山巡り等と並ぶメジャーな旅だそうです。街道と言っても、箱根のようにほぼ厳しい登山という場所もあります。老人の暇つぶしではありますが、実にハードな挑戦です。(写真出典:ja.wikipedia.org)

2021年6月11日金曜日

悪女

京都の人たちが”先の戦”と言えば、応仁の乱のこと、というのは有名な話です。千年の都の時間の捉え方の大きさ、という話でもあります。その後、洛中で戦闘がなかったわけではありませんが、応仁の乱ほどの戦はありませんでした。11年に及んだ応仁の乱は、京都をほぼ壊滅させました。日本の歴史の分水嶺とも言われる応仁の乱ですが、皆、名前は知っていても、なかなか概要までは説明できない、という不思議な特徴があります。その主な理由は、戦の原因が複層的で分かりにくいこと、勝敗がつかず政権も変わっていないこと、という2点に尽きるのでしょう。さらに言えば、華々しい勇者も、大規模な戦闘もなく、後の世で人気狂言の題材として取り上げられることがなかったため、人々の記憶に残らなかったとも言えます。

2016年に、呉座勇一が「応仁の乱 戦国時代を生んだ大乱」を中公新書から出すと、分かりやすいと評判になり、歴史書としては異例のベストセラーになり、以降、出版界の日本史ブームが起きました。他の歴史書よりは分かりやすかったのかもしれませんが、題材そのものがグダグダとしているので、一気に読めるほど明解なものでもありませんでした。そもそもは、三管領家の一つ畠山氏の家督争いが起こり、もともと不仲だった山名宗全と細川勝元が介入します。そこに足利将軍家のお家騒動が重なり、戦は複雑な様相を呈します。全国各地の有力な武家も巻き込まれますが、彼らの動機としては領土的野心が大きく、戦はさらに複雑な構造になり、長引くことになりました。

応仁の乱に関係する人物のなかで、最も名が知られているのは、ひょっとすると日野富子かも知れません。富子は、室町幕府8代将軍足利義政の正室でした。生家は、藤原北家の流れを組む日野家であり、3代将軍義満以降、将軍の正室は日野家から嫁いでいます。また、富子は、 北条政子、 淀君と並び、日本三大悪女の一人とも言われます。もちろん、基準など明確ではありませんが、少なくとも歴史に大きな影響を与えたという点は共通しています。女だてらに、政治に口を出した、という家父長的価値観から、悪女とされているのかもしれません。 富子には男子が産まれず、将軍義政は、実弟を環俗させ、後継者とします。ところが、翌年、富子に男子が誕生。富子は、我が子を将軍にすべく暗躍します。これが、応仁の乱を一層複雑にしました。 

富子を悪女とする理由は、他にもあります。20歳の時に男子を出産しますが、その日のうちに亡くなります。富子は、嫡男死去を、足利義政の乳母にして寵愛を受ける今参局(いままいりのつぼね)の呪詛のせいだとして、琵琶湖の沖ノ島に流罪とします。そして、今参局は、流される途中で刺客に襲撃され、自害しています。刺客を差し向けたのは、富子とも、富子の祖母にして義政の母でもある日野重子だとも言われます。富子は、義政の4人の側室をも追放しています。さらに、富子には、守銭奴としての悪評がありました。東軍側にも、西軍側にも、軍資金を貸し出し、さらに米の投機でも荒稼ぎし、結構な財産を築いたようです。また、応仁の乱の後、京の入り口数ヶ所に関所が設けられ、神社仏閣の再建のために通行料が徴収されていました。富子は、これを自らの懐に入れていました。さすがに、これは民衆の怒りを買い、一揆が起きています。

もちろん、富子は、贅沢をするために蓄財に走ったのではありません。 将軍の御台所として、日野家の娘として、贅を極めた生活を送っていたはずです。富子は、戦乱の世にあって、実子を将軍にするために、できることは何でもする覚悟だったのでしょう。しかも女性という立場では、出来ることは限られます。その一つが、いざという時のための政治資金、あるいは軍資金を蓄積することだったのでしょう。ところが、その実子義尚は、長じて母と反目し、かつ若死にします。その後も、富子は、幕府、および日野家を、事実上支配していきます。力の背景に財力があったとも言えるのでしょう。その権力への執着もさることながら、蓄財によって得た財力を背景に権勢を振るうという極めて稀なケースだと思います。(写真:宝鏡寺蔵日野富子座像 出典:bunshun.jp)

2021年6月10日木曜日

渋谷系

野宮真紀
新潟に赴任していた頃は、とても忙しい日々が続き、少しホッとできるのは、日曜の朝くらいでした。そんな時に、よく聴いていたのが、テイ・トウワを中心とした渋谷系、そしてm-floでした。そもそも日本のポップを聴くことは皆無に近かったのですが、彼らの曲はリラックスできるように感じ、結構、ハマりました。新潟は米どころです。どこへ行くにも田んぼのなかを通っていきます。それはそれで、結構、気に入っていましたが、さすがに、毎日、田んぼを見ていたので、多少、東京を感じられる曲でバランスを取ろうとしていたのかも知れません。

90年代に流行した渋谷系は、音楽的には、実に軽い、中身のない、いわばカフェ・ミュージックと言えます。ただ、その音楽的なレベルは高く、従来の日本の音楽にはないセンスの良さを感じました。彼らの音楽に共通する都会的なムードは、生まれた時から多様な洋楽を聴いて育った彼らのネイチャーなのでしょう。70~80年代のいわゆるシティ・ポップの後継とも言われますが、少し違うように思います。シティ・ポップが登場した時には、日本のポップも変わったな、と思ったものです。はっぴいえんど、山下達郎、大瀧詠一、荒井由実、竹内まりあ、南義孝等々、思春期に洋楽に出会った人たちが、気合を入れて作り上げた新しい日本のポップスです。セブンスコードを巧みに使う都会的な楽曲が、高度成長期を経た日本の豊かさを象徴していたように思います。

渋谷系は、どちらかと言えば、都会的な若者たちの文化的ムーブメントの音楽的側面といった印象です。そのコアにあるのは、50~60年代の音楽やファッションといった文化へのリスペクトです。そして、それは渋谷独自の動きではなく、世界的な傾向でもありました。シティ・ポップが、あくまでも日本のポップスだったのに対して、渋谷系は、世界標準のポピュラー・ミュージックだったと思います。新しい世代は、易々と国境を越えたわけです。テイ・トウワは、その典型かも知れません。美大生だった頃のテイ・トウワの音楽は、坂本龍一をして「テクニックはないけど、異常にセンスが良い」とまで言わせたようです。グラフィック・デザインを学ぶためにNYへ留学したテイ・トウワは、1990年、ハウス・ミュージックのバンドの一員として、世界的メガ・ヒットを飛ばしています。

渋谷系を代表するバンドと言えば、ピチカート・ファイブということになります。軽くてお洒落な楽曲とともに、リード・ヴォーカルの野宮真紀のファッション性の高さも魅力だったのでしょう。ピチカート・ファイブは、国際的評価も高く、94年には北米デビュー、翌年には、アメリカとヨーロッパでのツアーを成功させています。さらにロバート・アルトマンがファッション業界をシニカルに描いた「プレタポルテ」、世界的に大ヒットした「チャーリーズ・エンジェル」や「オースティン・パワーズ」等、海外の映画でも楽曲が使われています。要は、60年代を彷彿とさせる上質なポップ・ミュージックとしてのセンスの良さが、国際性を勝ち得たということなのでしょう。ピチカート・ファイブは、2001年に解散しています。センスの良い人たちに評価されていたバンドは、よりポピュラーな存在へと変わりつつありました。解散は、見事なタイミングだったと思います。

m-floは、日本のラップの系譜のなかに位置付けられるのでしょうが、VERBALの持つ音楽的センスの良さは渋谷系に通じます。在日韓国人のVERBALは、米国で教育を受け、牧師を目指していました。このミックス・カルチュアルなバッググラウンドが、世界で通用する抜群の音楽センスを生んだのでしょう。いずれにしても、渋谷系以降、国境をものともしない日本のミュージシャンが増えたと言えそうです。ただ、それは、まだエレクトロやラップといった特定の分野に限られているように思います。国家政策としてコンテンツ産業を育成してきた韓国の成功とは、まったく異なる動きではありますが、日本のミュージシャンも、確実に国境を越える人が増えつつあると思います。(写真出典:columbia.jp)

2021年6月9日水曜日

ズブロッカ

20代半ばの頃、銀座のロシア料理屋へ4人で行った時のことです。その店では、ズブロッカを瓶ごと凍らせて出してくれました。そもそも口あたりの良いズブロッカですが、キンキンに冷やすと、一段と飲みやすくなります。その日は、スラブ系の飲み方を気取り、何かに乾杯してオンス・グラスを一気に煽るスタイルでいきました。これが楽しくて、結果、4人で4本を空けました。ズブロッカのアルコール度数は37.5度。危険な飲み方です。その頃は、決して酒に強い方ではなかった私としては、完全に飲みすぎでした。 

地下にあったほの暗い店から階段を上がって地上に出ると、銀座のネオンが、すべて放射状に拡散して見えました。要は瞳孔が開いていたわけです。アルコールの血中濃度が上がると、中枢神経に抑制効果がかかり、反応が鈍くなります。眩しくても、瞳孔が閉じない状態になっていたわけです。皆と別れ、何とか新橋駅にたどりつき、ホームのベンチに座り込みました。多少は落ち着くかと思ったのですが、依然、もの皆すべて放射状に眩しく光って見えます。これは、相当にヤバイと思い、三井アーバンホテルに飛び込み、ベッドに倒れ込みました。銭金のことは言ってられない状況でしたが、悲しいことに、空いていた部屋は、ベッドが3つもある部屋でした。

ズブロッカは、ポーランドを代表するフレイバード・ウォッカです。ボトルのなかに、バイソン・グラスというイネ科の植物の葉が一本入っています。起源は古く、14世紀と言われます。ウォッカの蒸留が始まった頃で、まだ技術が十分に確立されておらず、残留物が嫌な臭いを発していたようです。それを消すために、長寿の妙薬とされていたバイソン・グラスを加えたのだそうです。バイソン・グラスは、欧州で唯一太古の姿を留めると言われる世界遺産”ビアウォヴィエジャの森”にしか自生しないと言います。その採取は、厳しく制限され、20家族だけが許されているそうです。多少甘味のある緑濃い香りが特徴ですが、香りだけでなく、ズブロッカの味や色、そして舌ざわりにも独特な風味を与えています。日本では、よく桜餅の香りに似ているとも言われます。

ズブロッカが日本に入ってきたのは、いつの頃なのかは、よく分かりません。現在の製法が確立したのが、1953年と言いますから、それ以降なのでしょう。ズブロッカは、決してメジャーな酒ではありませんでした。ただ、徐々にズブロッカの知名度が上がっていったのは、開高健の貢献によるところが大きいと思います。自他ともに認めるズブロッカ・ファンだった開高健は、多くのエッセイでズブロッカを取り上げ、世界の名酒とまで言い切っています。芥川賞作家、サントリーのコピー・ライター、ヴェトナム従軍記者、釣りキチ等、多様な顔を持つ開高健ですが、豊富な知識とこだわりで、そのエッセイは若者に大人気でした。恐らく開高健のエッセイでズブロッカを知り、はまった人も多かったのではないか、と想像できます。

ズブロッカの飲み方は、何といっても冷やしてストレートだと思います。とは言え、結構、強い酒です。ポーランドでは、倍量のアップル・ジュースを加えた”シャルロッカ”という飲み方も一般的だと言います。最近、日本でも広まりつつあるようです。ちなみに、シャルロッカは、ポーランド語でアップル・パイのことだそうです。世界のウォッカの売上ナンバー・ワンは、圧倒的にスミノフです。本場ロシアのウォッカと思われがちですが、純然たる米国企業による米国産ウォッカです。ズブロッカの世界での売り上げは、堂々の第5位とのこと。どちらかと言えば、マイナーな酒だと思っていたので、これには驚きました。(写真出典:aucfan.com)

2021年6月8日火曜日

ポンペイ

ポンペイ遺跡を訪ねて、特に印象深かったのは、犠牲者の石膏像、石畳の道の轍、壁の落書きでした。いずれも、2千年を隔てて、なお街の息遣いを伝えます。ポンペイは。紀元前7世紀には、オスキ人とヒーコ人の集落として存在したようです。エトルリア人やサムニウム人の支配も受けますが、紀元前1世紀には同盟市戦争でローマに敗れ、以降、ローマの植民都市となります。水はけの良いヴェスヴィオ山の裾野を活用したブドウ栽培とワイン醸造、そしてアッピア街道につながる港湾都市として栄えます。62年には、大きな地震で被害を受け、ローマ風の街並みとして再建されています。そして79年8月24日午後1時、ヴェスヴィオ山が噴火します。地震は、噴火の前兆だったとも言われます。噴火は12時間続き、25日深夜には火砕流が発生、街は瞬く間に火山灰で埋めつくされます。同時に有毒なガスも街を襲い、火砕流から逃れた人々も、このガスで即死したとみられています。

それ以前にも、それ以降にも噴火を繰り返してきた活火山ヴェスヴィオ山ですが、、1880年には、山頂まで登山電車が敷設されます。そのCMソングとして作られたのが「フニクリ・フニクラ」でした。世界最古のCMソングと言われます。いまやイタリアを代表する歌として知られます。国際的リゾートのレストランで演奏するバンドは、日本人の団体が来ると「さくら」を演奏し、イタリア人が来ると「フニクリ・フニクラ」を演奏したものです。日本では、1961年にNHKが”みんなのうた”で取り上げて以降、ポピュラーになります。”フニクリ・フニクラ”とは、イタリア語の登山電車”フニコラーレ(Funicolare)”から来ています。この曲のお陰で、鳴かず飛ばずだった登山電車は、大人気になったそうです。ただ、1944年の大噴火で、破壊され、運行を終えています。

79年のヴェスヴィオ山噴火の際、ポンペイの人口は約1万人。噴火とともに、多くの人が避難していますが、噴火を甘く見たか、何らかの仕事があったのか、2千人ほどが街に残っていました。火砕流は、時速100kmを超えるスピードでポンペイを襲ったと推測されています。堆積した火山灰は5mに達します。言わば、街は瞬時に冷凍保存されたようなものです。18世紀に発掘が開始されると、街並も、建物も、フレスコ画も、装飾品や生活用品も、往時の姿そのままに現れます。火山灰に含まれる成分が乾燥剤の働きをしていたようです。犠牲者の遺体は、腐敗して無くなっていましたが、火山灰には空洞が残りました。そこに石膏を流し込んだものが石膏像になったわけです。表情までは分かりませんが、死んだ時の姿勢そのままの石膏像は、リアルに惨劇を伝えます。

ポンペイでは、古代ローマの高度な都市文化を、現実感を持って見ることができます。街路は碁盤の目に区画され、歩道と車道が分けられています。上下水道が完備され、公衆浴場もあります。レストランやバーを含む様々な商店が軒を並べています。パン屋にはパンも残っていたようです。通りに面した壁には、選挙ポスターが残り、娼館の壁には、見事な色彩で男女の交わりが描かれています。フレスコ画については、特にポンペイ・レッドと呼ばれる、独特の深みがあって、なおかつ鮮やかな赤色が見事です。ローマ以降、様々な技術革新はありました。ただ、社会の制度やインフラの大まかな姿は、何も変わっていないのではないか、とさえ思います。ポンペイ遺跡は、まさにそれを実感させられる場所です。

1700年間、火山灰によって保存されてきたポンペイの街並ですが、再び大気に触れて、浸食が進んでいます。すでに倒壊した建造物もあります。敵は、雨風だけではなく、莫大な数にのぼる観光客、そして盗賊でもあるようです。イタリア政府にょる保存プロジェクトが進行しています。しかし、膨大な予算と時間のかかるプロジェクトだと言われます。ポンペイは、世界遺産中の世界遺産です。世界中から、もっと多くの寄付、もっと多くのボランティアを募って、保存すべき奇跡の街だと思います。(写真出典:theguardian.com)

サンティアゴ・デ・クーバ