2021年6月7日月曜日

国体無用論

長崎県立陸上競技場
かつて、地方の中核都市には、必ずと言っていいほど”国体道路” が存在しました。正式名称ではなく、国体開催に合わせて整備された道路という意味です。1946年、戦後の混乱期の中で国民に希望と勇気を与えるために、国民体育大会、いわゆる国体が始まりました。スポーツ振興のみならず、地方都市の戦後復興としての意味合いもありました。国体は、その目的を、十分に果たしてきました。しかし、もはや戦後ではないと言われてから半世紀以上経ちます。手仕舞いのタイミングを失したまま、継続されているように思えてなりません。

近年、国体が、国民の注目を集めることにありません。都道府県対抗という枠組みに人が熱狂することもありません。下手をすれば、国体開催中の県ですら、そのことを知らない県民がいるほどです。競技者のための競技会でしかありません。それならそれでもいいのですが、国体という枠組みゆえに膨大な予算が支出されるわけです。スポーツ選手にとっては、大会は多い方がいいのでしょうが、施設の建設等に、毎年、数百億年の血税が使われています。スポーツ振興に反対するものではありません。ただ、その予算があれば、もっと効率的に選手育成や競技人口拡大を実現できるように思えます。

国体形骸化の代表的な事例が、開催地の総合優勝必須化です。1964年の新潟国体以降以降、開催地が総合優勝することがほぼ常態化し、むしろ総合優勝しなければならない、というプレッシャーに変わりました。そもそも開催地は、予選なしでエントリーできる優位な仕組みもありますが、潤沢な国体予算のなかから選手強化費用を出しやすく、さらには、他県の有力選手を臨時職員として採用して出場させるという荒っぽい手まで繰り出すようになりました。そのニーズに対応して、セミプロのジプシー選手まで存在していました。もちろん、こうした傾向に異を唱えた県もありますが、ごく少数でした。2011年、日本体育協会も、さすが選手の参加資格の厳正化を行っていますが、網をかいくぐるよう対応は、まだ存在するようです。

膨大な予算が投入される競技施設にも問題があります。地方に設備の整ったスポーツ施設が増えるというメリットは大きなものがありました。しかし、昭和後期くらいからは、残念な施設が増えていきます。国体の開催要領に従えば、開会式の3万人を収容できるA級の陸上競技場を作り、サブトラックも用意する必要があります。半世紀に一度、それもたった一日のために作るわけです。広大な敷地は、当然、アクセスの悪い場所になり、専用の道路も作ることになります。当然、国体後の民間利用としては、実に使い勝手の悪いものになります。屋内競技場も、バスケットボールのコート4面が基本となります。これも、客席が遠くなるので、その後は使いにくいものとなります。あまりにも立派な競技施設があると、例えニーズがあっても、手ごろなスポーツ施設は作りにくくなります。結果、国体用競技施設が宝の持ち腐れどころか、各地のスポーツ振興のハードルにもなりかねません。

インフラ整備は、地方行政にとって、とても重要な課題です。国体が、その機会を提供してしてきた面は理解できます。しかし、近年、行政の予算は、実に多様な分野で必要とされます。半世紀に一度とは言え、膨大な予算を国体につぎ込むことは問題です。その経費の半分でも、日ごろのスポーツ振興に振り向けられたら、大きな違いを生み出せるように思います。これは、政府が悪者になってでも判断すべきことであり、”政治主導”の真価を見せてもらいたいと思います。(写真出典:hasetai.com)

2021年6月6日日曜日

涮羊肉

龍水楼の涮羊肉
神田小川町近くの「龍水楼」は、知る人ぞ知る中華の名店です。清朝最後の皇帝にして満州国皇帝だった愛新覚羅溥儀の弟溥傑が愛した店でもあります。正真正銘の北京火鍋「涮羊肉(シュワンヤンロウ)」が食べられる店です。かつて、都内で涮羊肉がたべられる店は龍水楼だけだったのでしょうが、最近は、北京から涮羊肉を売りにする店も出店しているようです。涮羊肉は、ラムのしゃぶしゃぶですが、生後4か月の子羊の内腿だけを使います。子羊なので、肉の臭みもまったくなく、あっさりとした食べ物なので、十数種類の薬味を自分の好みで合わせて付けダレにして食べます。北京名物ですが、もともとはモンゴルから持ち込まれた食文化です。日本のしゃぶしゃぶの起源でもあります。

もともと日本にも水炊きという料理は存在していたのですが、しゃぶしゃぶ自体は戦後に登場した食べ物です。日中戦争で北京に出兵した民芸運動家の吉田璋也が、京都祇園の「十二段屋」に涮羊肉を紹介し、柳宗悦等の助言も得て、牛肉を使い、ゴマダレで食べる方式が考案されました。当時の日本では、羊肉は入手困難であり、また日本人の口に合うことから、牛肉が代用され、付けダレも和風にゴマダレとしました。発売当時は、”牛肉の水炊き”という名称だったようです。また、吉田璋也が、故郷の鳥取に開いた「たくみ割烹店」では、”すすぎ鍋”という名称を、今でも使っています。”しゃぶしゃぶ”という名称は、大阪のスエヒロ本店を経営していた民芸運動家の三宅忠一が命名したとされます。従業員がたらいの中でおしぼりをすすぐ音から発想したようです。

日本のしゃぶしゃぶは、民芸運動のなかから生まれたと言っていいのでしょう。民芸運動家らしく鍋にもこだわりました。北京の涮羊肉で使われる中央に通気口のある火鍋子(ホーコーズ)に似せたしゃぶしゃぶ鍋が考案されました。火鍋子の通気口は比較的大きく、そこに炭を立てるように入れて加熱する方式です。熱が放射状に伝わるという利点があります。日本では、コンロの上に鍋を載せますので、通気口を熱源とする意味はありませんが、火鍋子の風情を残し、水炊きとの違いを打ち出したのでしょう。民芸運動家らしい発想とも言えます。かつてしゃぶしゃぶ鍋は、各家庭にもあったものですが、近年、見かけるとすれば、由緒正しい店くらいでしょうか。飾りに近い通気口なので、当然の流れなのでしょう。

牛肉に始まる日本のしゃぶしゃぶですが、豚肉やラム肉、あるいは鯛や鰤と多様化してきました。私が、とりわけ好きなのは、鹿児島の黒豚しゃぶしゃぶです。肉は、地元で”シロ”と呼ばれるバラ肉に限ります。六白豚の脂身の甘さが絶品です。いつまでも食べ続けたくなります。鹿児島の六白豚は、サツマイモを食べて育つので脂が特に甘いと言われます。また、スープに溶け出したきめ細かく上質な脂は、締めの麺類に良く合います。鹿児島でよく使われるのが五島うどんですが、私が好きなのは中華麺。実によく合います。鹿児島では、店によって、食べ方がかなり異なる点も興味深いのですが、いずれにしても六白豚を使っているので、食べ方が異なっても、どれも美味しいと思います。風変りだったは、南洲館の”熊襲鍋”を使ったしゃぶしゃぶです。鍋の信じがたい巨大さに圧倒されました。

実は、龍水楼には、もう一つの名物があります。西太后が愛したというデザート「三不粘(サンプーチャン)」です。皿、箸、歯にくっつかない、という意味です。原料は卵、砂糖、ラード、でんぷんのみながら、調理が極めて難しく、北京でこれを出せる店は一つだけ、作れる職人は2人だけと聞きます。それが神田で食べられるわけです。龍水楼は、ご主人の高齢化に伴い、一晩に一組しか予約を取りません。ご主人が付きっ切りで、料理の解説をしてくれます。しかも、ご主人が、早く食え、とプレッシャーをかけるので、入店から出店まで、わずか70分。ご高齢ゆえ、早く就寝したいのでしょう。ビールを飲む暇もなかったので、即刻、近所の馴染みの店に飛び込み、飲み直しました。(写真出典:tabelog.com)

2021年6月5日土曜日

真打

立川談志が、昭和を代表する落語の名人であったことについては、何の議論もないと思われます。古典落語に現代的感覚を持ち込んだことでも知られます。才気煥発にして理論家でもあった談志は、国会議員も含め、実に様々な分野でも活躍しました。また、破天荒な言動が、大いに物議も醸しました。 その最たるものの一つが、落語立川流の創設でした。1983年、当時、落語協会の会長であり、自らの師匠でもあった柳家小さんと、弟子の真打昇進を巡って対立し、協会を脱退、立川流を立ち上げました。実は、談志の真打昇進を巡る騒動には、前史があります。

談志は、1952年、16歳で小さんに弟子入り、2年後には二つ目に昇進します。当時から、落語はうまいし、漫才やコントまでこなし、随分目立っていたようですが、真打昇進では、自分よりも後輩の3代目志ん朝、5代目圓楽に先を越されます。自信家でもあった談志にとって、これは大きなトラウマになったようです。1978年には、落語協会分裂騒動が起こり、6代目三遊亭圓生が「落語三遊協会」を立ち上げ独立します。1930年に、6代目春風亭柳橋や柳家金語楼が立ち上げた「落語芸術協会」に続く第3の団体でした。落語芸術協会独立のきっかけは、落語家がラジオで人気を博すことに危機感を覚えた寄席経営者の締め付けでした。後ろには吉本興業の手引きがありました。落語三遊協会の場合は、立川流独立と同様に、真打昇進問題が契機となりました。実は、独立を唆したのは、談志だったといわれます。

6代目三遊亭圓生は、まさに名人でしたが、なかなか偏屈な人でもあったようです。芸道一筋、昔気質の職人のような人だったのでしょう。落語協会長時代の圓生は、真打は落語家のゴールであるとして、なかなか真打昇進を認めませんでした。次いで協会長になった小さんは、真打は落語家のスタート、その後、売れるか売れないかは本人次第、という考え方でした。小さんは、圓生時代に滞留した二つ目を大量に昇進させます。圓生は、これに激怒します。圓生に独立を唆した談志は、三遊協会の2代目協会長を狙っていました。ところが圓生は、志ん朝を2代目と考えていたことから、談志は落語協会に残留します。その談志も、5年後には独立するわけですから、真打へのこだわりに加え、師匠である小さん、ライバルである志ん朝との長くて深い因縁話と言えます。

真打は、落語会最高の位であり、高座のトリを任されます。昔、トリの話が終わると、寄席は店じまい、蝋燭の芯を打って(切って)明かりを消します。この”芯を打つ”が転じて、真打になったと言われます。真打には、明確な昇進基準があるわけではありません。そこがトラブルの元になるわけです。現在は、おおよそ年功に基づき、各団体役員の協議で決めているようですが、かつて立川流では、基準を定め、試験を行っていたこともあります。なお、抜擢真打もあります。いわゆる”〇人抜き”という昇進です。かつては、3代目志ん朝や10代目小三治、あるいは春風亭小朝の36人抜きがありました。近年では、2012年に古今亭文菊の28人抜きが話題になりました。芸術協会では、桂歌丸会長が抜擢に否定的だったことから、久しく絶えていましたが、2020年、神田伯山が、92年の春風亭昇太以来となる抜擢真打になりました。

過日、志の輔門下の立川志の春真打昇進披露公演が国立演芸場でありました。コロナの影響で、1年遅れの披露目となりました。渋谷幕張中高、イェール大、三井物産という超エリートから落語に転身した期待の変わり種。それにしても、寄席ではなく、国立演芸場での披露目。立川流は、いまだに定席寄席は出入禁止です。落語三遊協会は、今は円楽一門会となっていますが、同様、定席には上がれません。ただ、お江戸両国亭で定例公演を行っています。日本の話芸継承のためにも、大同団結していい頃合なのではないかと思います。落語ファンとしては、レベルの高い高座が期待できますが、落語家としては、限られた高座の奪い合いですから、そう簡単な話ではないのでしょう。(写真出典:tower.jp)

2021年6月4日金曜日

ナルコ・ステート

エル・チャポ
1980年代末、NYで高名な弁護士を接待したことがあります。食事中、彼が、麻薬は合法化すべきだ、と持論を展開します。初めは冗談かと思いました。ところが、極めて真面目な話でした。莫大な税金を投入しても麻薬との戦いには勝てない。信じがたい税金の無駄遣いだ。その間に、膨大なナルコ・マネー(麻薬資金)がアンダーグランド化し、アメリカ経済は縮小していく。禁酒法時代と同じようなことが起きている。死に至る麻薬の使用は、ギャンブル同様、個人の選択だ。合法化し、高い税金をかけた方が、合理的だ。確かに、理にかなった話のように聞こえます。ただ、いずれにしても、麻薬を買う金欲しさの犯罪は高止まりし、麻薬中毒で働けない人の増加は経済を蝕むなど、麻薬が社会にもたらす厄災は変わりません。

各国政府も国際機関も、麻薬の供給サイドを摘発することを主眼に麻薬対策を行ってきました。ところが、一つの供給組織やルートを潰したとしても、そこに市場がある限り、別の麻薬組織が開いた穴を埋めにきます。需要がある限り、このイタチごっこは、終わることがありません。供給を断つ作戦は、効果が乏しく、確かに税金の無駄遣いとも言えます。かと言って、需要サイド、つまり麻薬を使う人を摘発しようとすれば、どれだけ警官を増やしたところで、到底、根絶などできません。近年、需要サイドに対する新たな取り組みとして、摘発ではなく、治療を施すという流れが始まっています。即効性はまったくありません。ただ、残された唯一の道になる可能性を秘めています。

2006年、カルデロンが大統領に就任すると、メキシコ政府は、全面的な麻薬戦争に突入します。カルデロンは、米国当局とも連携し、警察のみならず軍も投入して、麻薬カルテル撲滅を図ります。カルテル側も、激しい武力抗戦を行い、毎年、双方で数千人が犠牲となりました。また、メキシコは、カルテルによる政府・警察への浸透が相当程度進んでおり、いわばナルコ・ステート、つまり麻薬マネーに基づく国家、という様相も呈していました。カルデロンは、ここにも容赦なく捜査のメスを入れていきます。まさに戦争状態であり、特にチワワ州の国境の街シウダ・フアレスでは、カルテル同志の抗争も加わり、年間の殺人事件は2,600件にのぼり、世界一治安の悪い街と言われました。麻薬戦争による治安の悪化は国民の批判を集め、政府側による殺害や拷問も国際的に批判されました。それでもカルデロンは、一定の成果をあげたと言えます。

カルデロン以降も、麻薬戦争は続きました。その間に、90年代から君臨するカルテルの主だった幹部たちは、殺害、もしくは投獄されたと言います。しかし、潰されたカルテルの後にできた空白は、新興のカルテルが埋めていきます。麻薬戦争を象徴する事件と言えば、エル・チャポことホアキン・グスマンの、2度に渡る投獄と脱獄だと思います。映画やTVドラマ化もされています。エル・チャポに限らず、メキシコ麻薬戦争は、実に多くの小説や映画に描かれています。映画ではコーエン兄弟の「ノーカントリー」、小説ではドン・ウィンズロウの「犬の力」三部作あたりが白眉だと思います。「犬の力」三部作は、30年間に及ぶ、ナルコ叙事詩とも言えます。この2作品に共通するのは、乾いた暴力だと思います。

2018年に就任したアンドレス・マヌエル・ロペス・オブラドール大統領、通称AMLO(アムロ)は、「麻薬戦争は終わった、我々は平和を望んでいる」と宣言し、薬物の所持や使用を合法化し、取締資金を薬物依存の治療に回していく方針を語っています。しかし、この間にも、メキシコの犯罪は増加の一途をたどっています。AMLOの政策に対する批判が増え、支持率も低下しています。彼のアプローチは、一朝一夕に効果を出せるものではありません。また、巨大市場アメリカと連携しなければ、多少国内の麻薬常習者を減らせたとしても、これまで以上に強固なナルコ・ステートができあがるリスクがあります。考え方は理解できますが、本来は、需要サイドであるアメリカが取り組むべき政策のように思います。(写真出典:veja.abril.com)

2021年6月3日木曜日

ヤマト王権

箸墓古墳(航空3D測量図)
北海道・北東北の縄文遺跡群が、ユネスコの世界遺産に登録されることになりました。縄文文化が、広く知られる契機になれば結構なことだと思います。かつて、我々の世代が教科書で習った縄文は、単に狩猟採取の時代とされていました。その後、発掘調査等が進み、縄文文化に関する認識は相当変わっています。例えば、三内丸山遺跡では、数百人が定住し、栗やクルミ等の栽培が行われていたことが分かっています。1万年以上という、史上最も長く続いた縄文文化は、まだ不明な部分も多く残ります。古代の歴史に関しては、科学技術や発掘調査の進展が続き、従前とは異なる定説が多く登場しつつあります。「ヤマト王権」も、その一つだと思います。

3世紀後半から5世紀あたりまでは、大和朝廷ではなく「ヤマト王権」と呼ぶことが一般的になりました。朝廷とは、天子が朝政・朝義を行うところであり、官僚機構を備えた中央集権的政権を意味するとされます。大和朝廷が形を成すの6世紀頃からであり、それまでは小国連合の盟主として王を名乗っていました。さらに、大和は、後の命名であり、かつては倭であったという説が有力であること等から、「ヤマト王権」という呼び方に変わりました。魏志倭人伝には、邪馬台国以外にも、多くの倭の国が記載され、「後漢書倭伝」にも「倭国大いに乱れ」という記載もあり、小国が対立する状態にあったと思われます。そのなかで、畿内のヤマトが勢力を拡大していくわけです。気象に関する調査から、3世紀は雨が多く、洪水が頻発していたようです。ところが、奈良盆地は、地形的に洪水が起こらず、結果、他国よりも豊かな国だったと想定されます。

そのヤマト王権が築いた最初の王宮が、奈良県桜井市にある纒向(まきむく)遺跡ではないか、とされています。まだ、調査は、ごく数パーセントにすぎませんが、既に建築遺構も発掘されており、かなり大型の遺跡だと想定されています。また、域内に最初の前方後円墳とされる箸墓(はしはか)古墳もありますが、これも以前の古墳に比べ、突然大型になっています。箸墓古墳は、日本書紀によれば、第7代孝霊天皇の皇女である倭迹迹日百襲姫命(やまとととひももそひめ)の陵墓です。姫は三輪山の神の妻となったが、神は夜にしか来ず、姫が明朝に姿を見たいと願うと、神は櫛笥の中に小蛇の姿で現れます。姫が驚き叫んだため、神は恥じて三輪山に去り、姫は、それを悔いて腰を落とします。その際、箸が陰部を突き、姫は死にます。墓は「箸墓」と呼ばれ、昼は人が墓を作り、夜は神が作ったと記載されています。

しかし、皇女の墓としては、異様に大きすぎるという見方があります。各地で作れた埴輪が奉納されていること、まったく同じ形状で縮尺だけが異なる古墳が全国にあること等から、ヤマト王権を確立したとされる崇神天皇の陵墓ではないかという説があります。箸墓古墳は、永らく宮内庁が立入禁止にしていましたが、ようやく調査が始まるようです。結果が待たれるところです。そして、箸墓には、卑弥呼、ないしは後を継いだ臺與(とよ)の墳墓ではないかとする説もあります。ただ、魏志倭人伝に記載される邪馬台国の所在地や卑弥呼の墳墓の形状とは違い過ぎるとの批判があります。かつて古代史と言えば、邪馬台国と卑弥呼一辺倒でしたが、最近は変わりつつあるように思います。新しいネタがないなかでは推理合戦も鎮静化せざるを得ません。替わって脚光を浴びているのが、縄文とヤマト王権だと思います。なにせ新発見が続いていますから。

現在確認されている古墳・横穴は、全国に16万基、うち前方後円墳は、4,800基と聞きます。航空写真による分析が進み、急速に発見が増えているようです。箸墓古墳と縮尺は異なっても完璧に同形な前方後円墳が数十基、以降も各天皇の陵墓と完全に同形の前方後円墳が全国に広がっているようです。つまり、王権ないしは朝廷が、各地の王、豪族に、設計図を与えていたわけです。臣下の証として、土木技術を伝授したということなのでしょう。前方後円墳がないのは、北海道、青森、秋田、沖縄だけです。要は、7~8世紀時点で、大和朝廷の支配が及んでいなかったところというわけです。(写真出典:nikkei.com)

2021年6月2日水曜日

梁盤秘抄 #16 Buena Vista Social Club

アルバム名:Buena Vista Social Club (1997)                     アーティスト名:ブエナ・ビスタ・ソシアル・クラブ

ライ・クーダーは、ギタリストとしては、スライド・ギターの使い手として知られ、フィンガー・ピックから独特の音を繰り出す名手です。映画音楽を多く手がけたことでも知られます。さらに、ワールド・ミュージックに関する造詣も深く、その分野での最大の功績は、 間違いなく「ブエナ・ビスタ・ソシアル・クラブ」ということになります。1996年、ライ・クーダーは、キューバに赴き、忘れられていた老ミュージシャンたちと「ブエナ・ビスタ・ソシアル・クラブ」を録音します。アルバムは、高く評価され、グラミー賞を獲得します。1999年には、ヴィム・ヴェンダース監督によるドキュメンタリー映画も公開され、ハバナの街の様子とともに、世界中の人々を魅了しました。

キューバを代表する音楽”ソン”は、19世紀、東部のサンティアーゴ・デ・クーバで誕生したとされます。ジャズやサンバと同様、西アフリカ起源の音楽とヨーロッパの舞曲が出会い、生まれます。その後、交易港ハバナで、コンガ、マンボ、チャチャチャ、ルンバ等、多様な発展をしました。また、キューバからヨーロッパへもダンス音楽が伝播していきます。特に”ハバネラ”は、欧米で流行し、ビゼーの”カルメン”でも使われます。さらに、フラメンコとハバネラが融合し、アルゼンチンへ渡り、アルゼンチン・タンゴとなります。20世紀になると、キューバ音楽は、ニューヨークで大流行します。ルンバと総称され、多くのミュージシャンがNYへ渡ります。当時、勃興期にあったハリウッド映画でも多用され、キューバ音楽は世界へと広がっていきました。

キューバ音楽流行の背景は、強いリズムのダンス曲として魅力的だったこと、トロピカルなイメージが人を惹きつけたこと、そして、ハバナ港の往来の多さやアメリカへの近さがあったのでしょう。ハバナは、アメリカ人の大好きなリゾートへと変貌していき、ナイトクラブ、ダンス・ホール、カジノ等で、夜毎、キューバ音楽が演奏されます。しかし、1959年、カストロが革命政府を樹立すると、状況は一変します。アメリカとの関係は悪化、経済封鎖が行われます。キューバ音楽も、鳴りを潜めていきます。アメリカと結びつくことで発展したキューバ音楽の悲劇でもあります。多くのミュージシャンが演奏の場を失い、ハバナの底辺へと沈んでいきました。かつて大活躍したコンパイ・セグンドは葉巻職人に、イブライム・フェレールは靴磨きへと身をやつしていました.

しかし、世界は、キューバ音楽を忘れていませんでした。特にミューバ難民の多いNYやフロリダでは、ソンにロックの要素も加えたサルサが生まれています。キューバ音楽のポテンシャルの高さを示す例だと思います。ライ・クーダーは、そのことをよく分かっていたわけです。彼が、ハバナで口づてで集めた往年のスターたちも、ソンの真髄を忘れていませんでした。アルバムは大ヒットし、ブエナ・ビスタ・ソシアル・クラブは、世界中をツアーし、多くの人々にソンの魅力を伝えました。特に、NYのカーネギー・ホールのライブは、ソンの魅力と彼らの実力の高さを感じさせます。長くつらい旅路を思えば、彼らにとってもカーネギー・ホールは感慨ひとしおのライブだったと思います。その模様は、2007年にリリースされたCDで楽しめます。熱量においては、97年のレコーディングを超えているように思えます。

2016年には、「アディオス・ツアー」を行い、ブエナ・ビスタ・ソシアル・クラブは、活動を終えました。主要メンバーが亡くなり、残ったメンバーも超高齢化していました。ツアーは、ドキュメンタリー映画「ブエナ・ビスタ・ソシアル・クラブ★アディオス」として公開されました。思わず目頭が熱くなりました。(写真出典:amazon.co.jp)

2021年6月1日火曜日

砂漠の女王

ガートルード・ベルは、20世紀初頭に活躍した探検家、登山家、考古学者にして外交にも関わった英国女性です。特に中東のベドウィン族の専門家であり、わずかな従者とともに砂漠を旅し、ベドウィンの族長たちとも親交を持ち、「砂漠の女王」と呼ばれました。その豊富な知識・情報は、英国の中東政策決定に大きな影響を与えました。「アラビアのロレンス」ことT.E.ロレンス中佐同様、オスマン・トルコ崩壊後のアラブ人国家樹立を主張したことでも知られます。また、英国政府が主導したイラク成立には、彼女の案が取り入れられています。

ガートルード・ベルの生家は、鉄とアルカリで財を成した英国有数の資産家でした。幼い時から活発で頭脳明晰だったガートルードは、17歳でオックスフォード大学に学びます。女性としては、極めて異例のことだったようです。わずか2年で、かつ優秀な成績で卒業していますが、学位は得ていません。当時は、女性に対して学位を授与する制度がなかったのだそうです。その後、社交界デビューしますが、高学歴が敬遠されたのか、求婚者は現れませんでした。彼女は、義理の伯父が公使を勤めるブカレスト、後にテヘランに逗留します。彼女の旅の始まりです。テヘランでは、若い外交官と恋に落ちますが、結婚は認められませんでした。その後、求婚者は事故死し、彼女の心に深い傷を残したようです。

全てを忘れるためか、ガートルードは世界を旅し、アルプスに登り、数か国語をマスターし、考古学に没頭します。2度行った世界一周の旅の途中、日本にも立ち寄っています。アルプスでは、未踏峰を制覇し、彼女の名が山名に残ります。考古学では、シュメール期から続いた交易都市ムンバカの遺跡も発見しています。しかし、最大の功績は、6度に渡るアラビア横断です。対オスマン、および部族間の争いが絶えない危険地帯であり、英国軍からも中止圧力がかかり、各部族からも警戒されるなかでの砂漠の旅です。しかし、ほどなく、ベドウィンをリスペクトする勇敢な女性の話は、アラビア中に伝わり、各部族も敬意を持って彼女を受け入れるようになります。こうして、厚いヴェールに包まれていたアラビア奥地に関する情報が明らかになっていきます。

ガートルードが、イラク建国に際して、多数派のシーアを少数派のスンニーが支配し、クルド支配地域も含めて一国とするという、今に続く禍根のタネを蒔いたのは何故か、という議論があります。。多数派を少数派に支配させる方式は、植民地支配の常道でもあります。加えて、彼女が過信したと思われるのが、イラクの王室に据えられたハーシム家が誇る預言者ムハンマドの血統です。マッカのハーシム家は、預言者ムハンマドの娘ファーティマと伯父のアブー・ターリブ夫妻の子孫としてイスラム社会の尊敬を集めてきました。イラクが絶海の孤島であるなら、ハーシム王家の存在だけで国はまとまったかも知れませんが、シーア派は、イラン・シーア派と一体であり、クルドは、トルコ、イラン、シリアに跨るクルディスタンが本来の国です。つまり、英国が勝手に引いた国境は、そもそも意味のないものであり、支配体制の問題以前に、禍のタネが存在したわけです。パレスティナ問題と同様、大英帝国の罪としか言いようがありません。

ヴェルナー・ヘルツォーク監督は、2015年に「アラビアの女王 愛と宿命の日々(原題:Queen of the Desert)」としてガートルードの生涯を映画化しています。美しい砂漠の映像と端正な映画技法が見事な映画でした。しかし、対とも言える「アラビアのロレンス」ほどのヒットはしていません。当時、ロレンスよりもガートルードの方が遥かに高位で高名でしたが、その後の知名度には大きな差があります。また、派手な戦闘シーンも、ロレンスのジレンマのようなものもない映画は、地味な展開にならざるを得ません。とは言え、ガートルードがアラビアに残した影響は、ロレンスとは比べものにならないほど大きいと思います。(写真:映画「アラビアの女王」出典:amazon.co.jp)

サンティアゴ・デ・クーバ