2021年5月7日金曜日

もち本膳

小麦は粉にしてから食べることが多く、米は粒のまま食べることが多いわけですが、その違いは、外皮や胚芽の多さに違いがあるからだそうです。米の場合、糠と呼ばれる部分は5~6%に過ぎないのに対し、小麦のフスマは25~30%と多く、粒食には向かないようです。農耕が始まった頃には、小麦も米も、殻がついたまま荒く粉砕して焼く、あるいは殻を取っただけの状態を土器で煮て食べていたようです。その後、小麦は脱穀して粉砕し、パンや発酵パンへと進化します。米は、土器の熱効率が良いことから蒸すようになり、鉄釜等の登場で炊く、いわゆる炊飯へと進化します。

ただ、かなり古くから「しとぎ」なるものも存在したようです。水に浸して柔らかくした生の米をついて粉にし、それを水でこねて丸めた食べ物です。蒸す以前からあった古い料理法とも言われ、餅や団子の原型とも言われます。手間がかかること、火を使わないこと等もあり、神饌とされてきたようです。東北や九州の一部に、製法や言葉が残ります。方言も同じですが、都から遠い所に古いものが残る傾向があります。青森県では、米どころの津軽地方には”しとぎ餅”が、気候の厳しい南部地方には大豆を混ぜた”豆しとぎ”が、ハレの伝統菓子として残っています。韓国語で、餅は”トック”と言いますが、古語では”ストク”と言っていたようです。どうやら、稲作黎明期に、半島から入ってきた食べ方の一つということなのでしょう。

餅は、蒸して杵で搗いた搗き餅(つきもち)、米粉を練って蒸しあげた練り餅、いわゆる団子に大別されます。いずれも特別な日の食べ物であることからも、その祖先は”しとぎ”だと思われます。今でも、餅は、正月の食べ物という理解が一般的です。ところが、岩手県の県南地方、旧仙台藩領内では、日常的に餅を食べる文化があります。また、ハレの日やもてなし料理としてもち本膳という料理もあります。あらたまった席では、”おとりもち”と呼ばれる主人、あるいは仕切役の「本日は至っての堅餅でありますが、ところのしきたりに従って差し上げます」という口上からもち本膳が始まると言います。その起源は、伊達政宗にあるとされます。政宗は、領内の稲作を奨励し、毎月1日と15日には、餅を搗いて神前に捧げるよう下知したのだそうです。

稲作は、生産性が高い一方で、人手と時間がかかり、天候にも左右されます。豊作を神に祈り、感謝するのは当然です。ただ、稲が実るまでは数か月かかるわけですから、毎月2回、餅を神に捧げるというのは、いかにも頻繁にすぎます。もち米の生産量を増やすために指示したのではないかという見方もあるようです。また、仙台藩は、小麦の作付けも奨励しています。その点も考慮すれば、仙台藩の真のねらいは、農民が食べるうるち米の量を抑え、可能な限り流通に回すことだったのではないでしょうか。要は、歳入増を図るための政策だったと考えられます。政宗が、天下を狙っていたことは有名です。キリシタンでもない政宗が、慶長遣欧使節を派遣したのは、欧州との通商をねらってのことでした。政宗は、財力を高め、徳川と戦う日に備えていたのだと思います。

政宗の思惑通り、岩手県県南の餅文化は定着し、進化を続けました。餅の食べ方は、実に300種類に及ぶそうです。雑煮、あんこ、くるみ、ごま、じゅねん(えごま)、ずんだ、納豆、等々、延々と続きます。どれも美味しそうですが、問題は、そんなに沢山の餅は食べられないということです。餅文化の中心地は、一関・平泉界隈であり、少量づつの料理餅を多数出してくれる店もあるそうです。岩手県県南の餅文化は、政宗の野心の名残とも言えそうです。(写真出典:maff.go.jp)

2021年5月6日木曜日

科挙

科挙の試験場
高校入試に際して、受験勉強をした記憶がありません。大学入試についても、ほぼ同様です。生来の怠惰な性格、好きなことにだけ熱心という性分がゆえなのでしょう。高校3年生の時、まわりは受験勉強に勤しんでいましたが、私がしたことは、自分の平生の学力でも受かる大学を探すことでした。当時は、個人情報も大っぴらでした。閲覧できる資料から、先輩たちの高校時代の試験成績と合格した大学との付け合わせを行いました。当時は、まだ偏差値が出始めだったので、いわば独自にその調査をしたわけです。これがかなり面白く、相当な時間をかけ、統計学も勉強しました。周囲からは、そんなことをやる暇があったら勉強しろ、と揶揄されました。結果、選択した大学に一発で合格し、大学入試は、その一回だけで済みました。

いつの時代も大学等の入試は、受験者に大変な努力を強いてきました。種々の弊害も指摘され、それに応じた方法の改変も行われてきましたが、受験者数と合格者数とに差がある限り、厳しいことには変わりありません。最も過酷で、かつ社会的影響の大きかった試験に中国の科挙があります。6世紀末、隋の文帝によって、始められていますが、貴族の世襲制に替わって官僚制度の根幹として機能するのは10世紀の北宋の時代からでした。身分を問わず優秀な人材を登用する仕組みとしては、世界初の画期的なものでした。科挙は、1905年、清朝の西太后が廃止しています。元朝での中断はあったものの、実に1300年間も続いたわけです。テキストは儒学の「四書五経」のみであり、物心つくかつかいないうちに詰め込み教育が始まり、多くのステップを踏んで選別されましたが、合格する年齢の平均は、35~36歳だったようです。なかには朱子の19歳、蘇東坡の22歳といった驚異的な記録もありますが、老年に至るまで挑戦し続ける人たちも少なからず存在したようです。

少なくても30年くらいは受験勉強を続けるわけですから、家が裕福でなければ挑戦できません。また、そこまで挑み続けるのは、リターンが大きかったからでもあります。かつて高級官僚は、ピンハネ、賄賂と、存分に私腹を肥やせたものだそうです。ネポティズムも当然のことであり、一族郎党の期待も大きいものがあったのでしょう。科挙は、公平な人材登用というメリットとともに、その過酷さゆえの弊害、あるいは官僚の腐敗や硬直化というデメリットもありました。科挙の制度は、朝鮮半島でも取り入れられ、今もその影響が残ります。日本でも、平安時代に試行されましたが、短命に終わります。稲作、仏教はじめ多くの文化、そして律令等の統治体制をも大陸から直接、あるいは半島経由で取り込んできた日本ですが、科挙と宦官だけは取り入れていません。その理由は、王権の強さ、あるいは統治システムの違いにあると考えられます。

中国でも日本でも、王権は貴族たちによって支えられます。有力な貴族は、互いに争い、時には王権を奪取します。世襲制の貴族にとって、科挙は、存在を脅す厄介な存在です。王権が強まった隋では、貴族の力が弱まり、あるいは一層弱めるために科挙が導入されました。対して日本では、ヤマト王権が支配地域を拡大する過程で、有力な貴族が発生し、以降、その勢力が衰えることなく国家が形成されていきます。親政を布いた天皇も存在しますが、神でもあった天皇は、早い段階から象徴的な存在だったわけです。平安末期、貴族政治は武家に取って代わられますが、状況は変わりません。武力を力の源とする武家は、応仁の乱以降、下克上の世界を生み出します。日本は、科挙に依らず、優秀な人材が世に出る仕組みを持ったと言えます。

北宋以降の中国における教育とは、ほぼ科挙のために存在し、江戸期の日本において、学問とは教養でした。中国の教育は、限られた受験者たちのための儒学に限定され、日本の学問は、町人も含めた多くの者たちのための実学や多様な教養でした。これが、西洋文明を取り込んで近代化を進める際、結果的に大きな違いを生んだとも言えます。(写真出典:ja.wikipedia .org)

2021年5月5日水曜日

100億円のうさぎ

Jeff Koons "Rabbit"
世界の美術品市場の規模は、7~8兆円まで拡大しています。中国を含め、世界的な富裕層の増加が背景にあります。取引の多くは、現代アートが対象であり、かつ投資目的だとされます。1990年代、オークションにかけられる古典作品が先細りとなり、危機感を抱いたサザビーズが、現代アートの市場を開拓したと言われます。現代アート市場を取材した映画「アートのお値段」(原題:The Price of Everything、2018)は、興味深く、かつ不愉快な映画でした。映画は、芸術とは全くかけ離れた世界となった現代アート市場の異様さを伝えています。アートを投資対象化した富裕層と仲介業者、そしてそれに乗っかるアーティストの存在が不快でした。

ほとんどのアーティストは、お金のために作品を制作しているのではありません。しかし、彼らも、衣食住が必要であり、画材やアトリエにもお金がかかります。昔は、王侯貴族といったパトロンがおり、また注文生産が基本だったために、市場はほぼ存在せず、閉鎖的なバランスが存在したのでしょう。市民革命以降は、アーティスト、画商、美術愛好家であるコレクターによって市場が形成されます。アーティストのみならず芸術そのものにとっても、画商やコレクターは必要な存在です。コレクターや画商が、若いアーティストを支援し、育てるという側面もありました。また、ある意味、コレクターと同質的な位置づけに、フランス革命以降に設立が本格化した美術館もあります。コレクターによる美術館への貸出や寄贈も行われました。

昔から、美術品は、投資対象としての側面を持っていました。しかし、コレクターと現代的な投資家は大いに異なります。かつて価格は芸術的価値に基づいて決まっていました。公に認知されたゆるぎない価値だからこそ、投資対象であり得たわけです。近年、落札価格は、作品の芸術的価値ではなく、投資的観点から決まっていきます。いまや現代アートは、投資ではなく、投機の対象となっていると言えます。巨大化した個人資産は、分散投資先を求め、オークションが投機を煽ります。もはや、美術館や美術愛好家が現代アート市場で、有名作品を購入する機会は、ほぼ失われているとも言えます。もちろん、投機を行う資産家も、芸術に対するリスペクトは持っているのでしょう。ただ、投機は、芸術性とはまったく別な領域で判断されます。そこでのアーティストの存在は、ほぼ部外者でしかありません。

かつて美術愛好家が購入した作品は、公的な存在でもありました。多くの場合、何がどこにあるかは、よく知られていたわけです。それが古典的名画であれば、なおのことです。サザビーズが創出した現代アート市場では、世界各地の投資家が匿名で購入する場合が多く、作品がどこにあるのかも判然としません。倉庫に眠っていることも多いのではないでしょうか。ここに最大の問題があると思います。ひとたび投機の対象として作品が購入されると、我々の見る機会が失われてしまう可能性が高いことです。優れたアート作品は、多くの人に見せるべきものだと思います。例え個人が所有していたとしても、それは人類の遺産であり、皆に鑑賞する機会が与えられるべきだと考えます。

2019年春、クリスティーズNYで、ジェフ・クーンズの「ラビット」が100億円で落札されたことが話題になりました。生存する作家としては最高額だそうです。驚きのニュースです。大笑いしたニュースもありました。2018年秋、サザビーズ・ロンドンで、バンクシーの作品が1億5千万円で落札された直後、バンクシー自身が額に仕掛けたシュレッダーで絵が裁断された事件です。実にバンクシーらしい、投機市場へのテロです。拍手喝采です。ただ、半ば裁断されたその作品は、倍の値段が付いているとも聞きます。現代アート狂騒曲は、どこまで続くやら、といった感じです。(写真出典:art-techne.com)

2021年5月4日火曜日

マンカラ

コロナ禍で、アナログなボードゲームが良く売れているとのこと。若い人たちに趣味を聞けば、ゲームと答える人が増えました。任天堂が、ファミリー・コンピューター、いわゆるファミコンを発売したのが、1983年でした。爆発的人気を誇りましたから、30歳代以下は、ファミコン、あるいは同様のゲーム機で育った世代と言えます。いまやゲームと言えば、ゲーム機、あるいはスマホ、パソコンのソフトのことです。そんな時代になっても、ボードゲームは根強い人気を保っていましたが、ステイホームのなか、家族全員で遊べるという点が評価されて、ちょっとしたブームになっているようです。

世界三大ボードゲームというネット記事を見ると、カタン・ドミオン・カルカソンヌという、すべてドイツのゲームがリストされていました。世界大会も開かれているようですが、まったく知らないゲームばかりです。かつて、世界で最も売れたゲームと言われたのが、1935年発売の「モノポリー」でした。不動産投資ゲームであり、寡占化を進め、相手を破産させれば勝ちとなります。1903年に、エリザベス・マギーが教育目的で開発した「ランドロード・ゲーム」を、チャールズ・ダローが改良を加え、発売されました。やや古い情報ですが、世界100ヵ国で、総計2億5千万セットを売り上げたと言います。1973年から世界大会も開かれており、糸井重里を会長とする日本モノポリー協会も国内大会を続けています。驚異的な売上記録は、今も破られていないものと思います。うちも家族でよくやっていました。

ボードゲームに対して、世界四大テーブルゲームと言われるのが、ポーカー・ドミノ・チェス・バックギャモンです。最も歴史が浅いのが、19世紀頃に始まったというポーカーです。トランプ自体は、中国発祥で、アラブ経由で中世ヨーロッパに伝播しました。ドミノは、12世紀中国発祥とされます。実は麻雀も同じ起源を持ちます。チェスや日本の将棋は、すべて古代インドのチャトランガが祖先だとされます。紀元前4世紀の記録があるとも言われますが、判然としません。バックギャモンは、世界最古のゲームとも言われ、メソポタミアで5千年前から存在したようです。サイコロを使う世界中の双六ゲームの起源です。同じ頃、エジプトには、セネトというサイコロを使うゲームがありました。残念ながらルールが不明だそうです。実は、同じ頃、もう一つのゲームも生まれています。マンカラです。

マンカラは、アフリカ起源と言われ、他に中東、東南アジアでも盛んです。二人で遊びます。横長のボードに、各6個の穴が並列し、手前が自陣となります。ボードの両端にはストアと呼ばれる大きめの穴が各1個あります。ストア以外の各穴に石を3個づつ入れます。先攻は、任意の穴を選び、その穴にある石を全て手に取り、反時計回りに隣の穴から順番に、ストアも含めて1個づつ石を入れていきます(sowing:種まき)。手に取った最後の石がストアに入れば、自分のターンが継続します。他の穴に入れば、相手のターンになります。百通りもの遊び方があるようですが、我が家がやっていたのはシンプルな”カラハ”で、自陣の穴に石が無くなったら勝ちです。

マンカラは、別にボードが無くても、小石か豆類が36個、そして相手さえいれば、どこでも遊べます。わざわざ立派なボードを買う必要はありません。我が家は、雰囲気を出すために、アフリカのアンティーク調のボードを使っていましたが、卵が入っているプラスチックのケースで十分です。ルールは、実にシンプルですが、偶然性は皆無です。相手のソーイングも含めて、先の先まで読み、かつ相手を妨害するソーイングも考える必要があります。結構、頭を使いますし、結構、ハマります。(写真出典:etsy.com)

2021年5月3日月曜日

初心忘るべからず

世阿弥「花鏡」
「他山の石」は、誤用が多い言葉として有名です。もともとは詩経の「他山の石 以て玉を攻むべし」から一般化した言葉です。玉にもならない他山の石は、当山の玉を研磨するために使え、という意味ですが、転じて、他人の誤りや失敗なども、自分を磨く助けにする、という訓えになります。誤用の多くは「他人の良い言行を自分の行いの手本にする」という意味で捉えていることです。また、この言葉は目上の人の言動には使いませんが、結構、誤って使う人もいるようです。政治家等が「他山の石とせず」と使う例も散見されますが、「他山の石として」が正しい用法です。よって、最大級の誤用例は「先輩のお言葉を他山の石とせず、がんばっていきます」ということになります。

文化庁が、毎年実施している「国語に関する世論調査」によれば、日本語が乱れていると思う人は、年々減ってきています。言葉は、時代とともに変化して当然、と考える人が増えているようです。どういうところが乱れているか、という質問に対しては、「敬語の使い方」と「若者言葉」という答えが多くなっています。若者言葉は、時代と共に生まれるものなので、乱れているという言い方は当たらないと思います。一方、敬語の乱れは微妙な問題です。尊敬語や謙譲語は、日本語が持つ美しい文化の一つだと思います。尊敬語や謙譲語の新しい形が一般化しつつあるのであれば、時代の変化と言えますが、単なる誤用であれば、正すべきだと思います。そして、正しい意味や使い方に最も忠実であるべきは、格言、箴言、アフォリズムだと思います。

「他山の石」と同様に誤用が多いとされるのが「情けは人のためならず」です。情けをかけるとその人のためにならない、と理解している人が多いようです。正しくは、人にかけた情けは、いつか自分に戻ってくる、という意味です。他にも、似たような誤用は数多くあるのでしょうが、私が気になるものの一つが「初心忘るべからず」です。世阿弥の「花鏡」の奥段に書かれた芸能の真髄とも言われる言葉です。よくある間違いは、何事かを初めて行った頃の初々しい真摯さを忘れずに励みなさい、という理解です。それはそれでいい言葉だと思いますが、世阿弥が言っている初心とは、能を習い始めた頃の未熟さを忘れるな、ということです。その未熟さを基準とし、それを乗り越えるべく修練を重ね、熟達していくのが芸道だということです。初心なくして後心なし、つまり未熟さを忘れずに努力するから熟達するというわけです。

世阿弥は、続けて「時々の初心」、「老後の初心」とも言っています。芸事に終わり無し、とも言われます。芸事には、これでいい、これで完璧、ということがありません。以前にも書きましたが、義太夫語りの人間国宝だった八代目豊竹嶋太夫は、70余年の芸歴を振り返り、「下手だから続きました」と語っています。年齢を重ね、熟達すれば、そこにはそこで新たな世界が広がり、そのレベルでの未熟さ、時々の初心が生まれます。老境に至れば至ったで、そこにも新たな挑戦と未熟さ、つまり老後の初心があります。初心、つまり未熟さを基準点として、常に、謙虚な気持ちで、真摯に芸に向き合い続けなさい、ということです。これが能楽に限った話であれば、ここまで広く知られることはありません。諸芸どころか、人生そのものに通じる深い言葉です。

日本を代表する天才としては、まずは弘法大師空海を挙げるべきだと思います。世阿弥は、その次のクラスに位置するほどの天才だと考えます。滑稽な物まねに始まる猿楽を一気に幽玄能の高見へと昇華させ、それが400年このかた、変わることなく演じられているわけですから、天才としか言いようがありません。また、それは芸をアートの域にまで高めた改革でもありました。世阿弥は、あらゆる芸道に影響を与えた大改革者だったと言えます。芸を極めた世阿弥は、仏教でいえば、如来に限りなく近い菩薩クラスだとも思えます。菩薩のような世阿弥の言葉は、正しく理解し、使われるべきだと思います。(写真出典:www2.ntj.jac.go.jp)

2021年5月2日日曜日

黒パン

私の父は、満州で軍政に携わり、終戦直前に召集され、戦後はシベリアに抑留されました。2年に渡る抑留生活の間に、凍傷で人差し指を第二関節から失い、健康を害して帰国しています。しばらく療養生活を続け、中央官庁への復帰要請も断らざるを得ませんでした。苦労させられた、あるいは人生を狂わされたシベリア抑留ですが、一方では懐かしくもあり、老後、ソヴィエトへでかけ、わざわざシベリア鉄道に乗って抑留されていたあたりを見に行っています。そして、私も協力させられたのが、本物の黒パンを探すことでした。抑留中の食事は、固い黒パンとほぼ具材が入っていないスープだけだったそうです。その不味かったはずの黒パンも懐かしかったわけです。

黒パンとは、ライ麦パンのなかで、全粒粉など精製度の低い粉を使い、黒く焼きあがったパンです。小麦に比べ、発酵させてもあまり膨らまず、固い焼き上がりになります。また、発酵には、イースト菌ではなく、サワードウを使うので、独特の酸味があります。しかし、この酸味と固さゆえに日持ちするという特徴もあります。欧州北部で食べられますが、酸っぱさと固さが貧しい食べ物という印象を与えます。ライ麦と小麦を混ぜ、なおかつライ麦の比率が低いライブレッドなら、日本にもあります。しかし、本格的な黒パンは、日本人にとってはハードルが高すぎるのか、パン屋で見かけることはありませんでした。父も、かなり探したようですが、なかなか見つからず、私にも指示が飛んだわけです。

虎ノ門あたりの小さなパン屋で、偶然、本格的な黒パンを見つけたが、場所が判然としないので探せ、と父に言われたことがあります。虎ノ門界隈のパン屋をかなり回りましたが、ついに見つけられませんでした。ドイツから輸入したライ麦100%のロッケンブロートを見つけたことがあります。これはさすがに高評価を得ましたが、上品にすぎる、と言われました。シベリア旅行の際、本物の黒パンは食べたのか、と父に聞くと、近いものはあったとの答えでした。それはそうです。戦後すぐのシベリアで、捕虜同然の元日本兵に食べさせる黒パンなど、恐ろしく粗末な代物だったに違いありません。結果的に、沢山、ライブレッドを食べた私も、黒パン好きになっていったように思います。最近美味しいと思うのは、札幌の「ブルクベーカリー」の”ブルクライヤー”です。黒パンではなく、小麦とライ麦の配分が絶妙なライブレッドです。

終戦直後、満州にいた元日本兵57万人がシベリアへ連行され、極寒の地で強制労働させられました。きつい労働に加え、劣悪な環境と食事がもとで約1割が亡くなりました。シベリア抑留は、スターリンによる明らかな犯罪行為であり、明らかなポツダム宣言違反です。ソヴィエト、およびロシアは、戦闘中の捕虜との強弁を続けていますが、スターリンが命令を発したのは8月23日であり、日本兵の武装解除後のことです。1956年の日ソ共同宣言によって、抑留の損害賠償も、未払いとなっていた賃金も、一切の請求権が放棄されました。2010年に至り、日本政府は、シベリア特措法を定め、生存している抑留者約7万人に対し、一人当たり平均28万円を一時金として支給しました。また、1993年に来日したロシアのエリツイン大統領は、シベリア抑留を非人道的行為として陳謝しています。とは言え、スターリンの大罪は、いまだ清算されていません。

貧しい食べ物といった印象の強い黒パンですが、近年の健康ブームのなかで、見直されているようです。小麦のパンよりも低カロリーで、かつ栄養素が多く含まれています。固いので咀嚼回数が増え、健康に良いだけでなく、満腹感が増すとも言われます。また、低GI食品であり、血糖値を上げにくいことも評価されています。さらに、ライ麦はグルテンが作られにくいので、ライブレッドは、グルテン・フリー、あるいは低グルテン食品でもあります。(写真出典:mydeliciousmeal.com)

2021年5月1日土曜日

サンチャゴの雨

1973年のチリ・クーデターを描いた「サンチャゴに雨が降る」(1975)は、ピアソラの哀愁漂う音楽とともに印象に残る映画でした。当時は、コスタ・ガブラス監督の「Z」に始まる三部作等、政治的な映画が高い評価を得ていた時代でもありました。特に、この映画は、クーデターから、わずか2年後に公開されており、世界中の注目を集めました。チリ・クーデターは、CIAの支援を受けたピノチェト陸軍司総令官が左派のアジェンデ政権を武力で転覆させた政変です。アジェンデ大統領は、亡命を拒否し、自ら銃を取って大統領府で戦い、命を落としました。クーデターに続いて行われた苛烈な左翼狩りでは、数万人が帰らぬ人になったと言われます。犠牲者のなかには、ノーベル賞作家のパブロ・ネルーダ、国民的歌手ビクトル・ハラも含まれていました。ちなみに、クーデター当日、ラジオから流れた「サンチャゴに雨が降る」という言葉は、クーデター勃発を伝える暗号でした。

チリは、南米の優等生と言われます。銅や硝石といった鉱物資源、アンチョビやワイン等の農水産物の輸出で、一人当たりGDP等は、南米の上位に位置します。ただ、南米各国と同様の歴史を経て、政治の不安定さはありますし、貧富の格差も存在します。それでもチリが優等生である最大の理由は、大規模土地所有の少なさだと思われます。つまり、他国に比べ、プランテーションには不向きな土地柄であったことが、他の南米各国との違いを生んでいると思います。南米の格差社会、あるいは腐敗政治やネポティズムの背景には、大規模土地所有が温存されてきたことがあります。19世紀には革命や独立も起こりましたが、欧州の民主化の波を食い止めるために富裕層が行ったものでした。商業資本の蓄積による市民革命も起こらず、産業革命による産業資本の進展も限定的、あるいは、それすらも大規模土地所有者が独占してきました。

左翼運動も起こりましたし、左派政権も誕生してきましたが、政権が左右いずれであっても、国の経済を握るのは一部富裕層であり、遅かれ早かれ、政治の腐敗が進み、結果、格差解消には至りませんでした。また、アルゼンチンのペロンやベネズエラのチャベスのようなポピュリストも登場しますが、所詮付け焼刃のバラマキ政策は、根本的解決どころか、経済を悪化させるだけでした。東南アジア各国が、経済発展を続け、格差を解消しつつあることと好対照を成します。中南米も似たような国が多いのですが、南米各国は、世界の歴史とは全く異なる道を歩み、富裕層が自らを利するように政治や社会をコントロールし、古い秩序を保ってきたのだと思います。諸外国は、自らの利益のために、それを利用してきました。アメリカが主導したとも言えるチリ・クーデターは、その極端な例なのでしょう。

アジェンデは、今も高い人気を保っているようです。ただ、アジェンデも、ある意味、ポピュリストでした。農地改革を行ったことは高く評価すべきですが、経済的にはボロボロでした。替わって軍事独裁を布いたピノチェトは、左翼の徹底弾圧を行う一方、経済政策としては、ネオ・リベラリズムを教科書的に展開し、これまた大失敗しています。軍事独裁は90年まで続きました。民政移管後は、左右拮抗するなかではありますが、主に中道左派が政権を握り、経済も成長してきました。ただ、命綱の輸出に陰りが見えはじめると、再び貧富の差は拡大します。2018年には、右派政権が誕生し、右傾化が進みました。2019年、公共交通機関の値上げに端を発し、大規模な反政府デモが起きました。コロナ・ウィルスの感染対策で小康状態にありますが、問題が解決したわけではありません。

世界的にも貧富の差が拡大する傾向にあるようです。グローバル化、IT化といった産業構造の転換に伴うものなのでしょう。経済格差の拡大は、経済全体の縮小をもたらす懸念があります。とは言え、まだ、機会均等までは失われていないと思います。南米では、それすらも十分ではありませんでした。思えば、南米は、20世紀中に、格差解消に向けた道筋をつけておくべきだったと思います。それを阻んだのは、富裕層の狡猾さだけではありません。利害関係を有する諸外国も、間接的には関わっていたとしか言いようがありません。(movies.yahoo.co.jp)

サンティアゴ・デ・クーバ