2021年4月14日水曜日

常在戦場

河井継之助
「常在戦場」は、越後長岡藩の質実剛健の気風をよく表しています。藩内では、戦場の辛苦を忘れず、今日の安息に感謝する気持ちで忠勤せよ、と教えられていたようです。もとは藩主牧野家の家訓です。牧野家が三河牧野氏の一門であったことから、三河武士の心意気を表す言葉とも言われます。越後長岡藩は、7万4千石という小藩ながら、新田開発、新潟湊の発展によって、江戸末期の実高は14万石を超えていたようです。ただ、幕末も近づくと、新潟湊が天領になり、諸費用も嵩み、逼迫した財政の立直しが必要となります。郡奉行として改革を命じられたのは河井継之助でした。河井家は、新参の中堅家臣であり、継之助の出世は破格だったようです。

活発で利発、何よりも熱い心を持つ青年は、藩主の目にとまり、2度、江戸に遊学し、見聞を広げます。1度目は黒船来航を目の当たりにし、2度目には、西国へも赴き、備中聖人と呼ばれた山田方谷に弟子入りしています。継之助の開明的でプラグマティックなスタンスは、江戸遊学で培われたのでしょう。藩政改革にあたり、継之助は、兵制の近代化、藩学の朱子学への統一、遊郭の廃止等を打ち出しますが、最も有名なのは、家禄の見直しです。千石の士も百石の士も、君に報ずるところは首1つ、として、上を削り、下を厚くすることで中央集権体制の強化をねらったと言われます。郡奉行に就いたのは1865年のことですが、その後、小諸牧野家のお家騒動を解決するなどの活躍もあり、1867年には、家老格の家柄ではない者としては最高位の中老となります。

この年10月、ついに大政奉還が行われます。一報を受けた藩主と継之助は、急ぎ上洛し、朝廷に建言書を提出し、公武斡旋を試みています。その際、継之助が目指したのは、内戦回避と言われますが、基本的には藩と領民の安泰だったのだろうと思います。翌年正月早々、鳥羽・伏見の戦いが勃発。将軍慶喜の戦線離脱直後、継之助は、江戸で、南北戦争後流出した米国の武器を大量に購入します。当時、日本に3門しかなかったガトリング砲も2門入手しています。武器を大量調達したことから、継之助が目指したのは武装中立だったとも言われます。ただ、継之助が唱えた”獨立特行”は、武装中立のことではないようです。継之助は、早くから硬直化した江戸幕府に先はないと見ており、一方、薩長の強引な武力倒幕にも批判的でした。イメージしていたのは各藩による連合国家だったと言われます。

会津討伐に向け進軍する新政府軍と、長岡近郊の小千谷で会談に臨んだ継之助は、幕府・会津との停戦を提案します。しかし、新政府軍はこれを拒否。継之助から戊辰戦争の大義を問われた軍監岩村精一郎は、これに答えられず、交渉は決裂します。徳川に成り代わらんとする薩長の魂胆は見え透いており、痛い所を突かれたわけです。こうして戊辰戦争最大の戦いとなった北越戦争が始まります。3倍を越す兵力の新政府軍に対し、小藩長岡藩はよく戦い、攻防は3か月に及びました。ついに継之助も被弾し、残兵とともに会津を目指します。只見の塩沢村に至った継之助は、死期を悟り、自ら火葬の準備を指示して死んだとされます。その際、付き添った藩士に「これからは実力のある者の時代だ。商人になれ」と福沢諭吉への添書を書いて渡しています。藩士の名は外山脩造。後に阪神電鉄やアサヒビールを創業しました。

東北の多くの城には城郭が残っていません。朝敵とされた奥州越列藩同盟の城は、すべて薩長が破壊しています。しかし、他の同盟各藩の城跡は公園や公官庁になっているのに対し、長岡城跡はJR長岡駅になり、城の再建はおろか、偲ぶことすら出来ません。薩長の長岡藩に対する遺恨は深く、長く深く朝敵の烙印を押されていたわけです。筆頭家老格の家柄ながら継之助をよく補佐した山本帯刀は、北越戦争で戦死、お家断絶とされます。その後、家系断絶は解かれたものの、跡取りがおらず、長岡の人たちは相談のうえ、町で一番優秀な少年を山本家の養子にします。後の海軍大将山本五十六です。山本五十六は、長岡藩の怨念を背負っていたとも言えます。田中角栄の秘書だった早坂茂三は、長岡藩怨念の系譜として、河井継之助、山本五十六、田中角栄の3人を挙げています。見事に常在戦場を地でいった人たちとも言えます。(写真出典:ja.wikipedia.org)

2021年4月13日火曜日

コストコ

倉庫型店舗のコストコ・ホールセールは、1976年にサンディエゴで、原点となる倉庫をスタートし、1983年には、コストコとして、シアトルで開業しています。会員制によるスモール・ビジネス向け店舗、パレットのままの陳列によるコストカット、大ロット販売による低価格化、といったビジネス・モデルは、決してコストコの発明ではありません。コストコは、順調に拡大し、今や世界12カ国で、800を超える倉庫を運営しています。日本への進出は2000年、福岡と幕張を皮切りに、現在は28倉庫まで伸ばし、さらに新しい倉庫も計画されています。我が家も、幕張倉庫オープン時からのファンです。

オープン当初の幕張倉庫は、知名度の低さもあり、週末でもさほど混んでいませんでした。客は、アメリカ人、あるいは日本人も含めてアメリカに居住経験のある人たちが中心でした。そこはアメリカそのものでした。倉庫に入った瞬間から、懐かしいアメリカの匂いがしました。実は、ベーカリーの匂いです。日本のパン屋とは、まったく異なるアメリカ独特の匂いがします。商品もほとんどが、カリフォルニアから運んできたものでした。品揃えは、その後もアメリカで仕入れたものが大半を占めたものの、日本で仕入れたものも増えていきました。また、世界各国で営業している利点も取り入れ、他国で調達したものもあります。コストコの商材の特徴は、自社ブランドに加え、常に最新のトレンドを取り入れていることです。例えば、食品では、オーガニックへの対応等、とても早かったと思います。

我が家も、子供たちが独立すると、コストコの大ロットは、高いハードルになりました。ただ、それでも月1回くらいは通っています。近年、平日のコストコでは、主婦の皆さんのグループ買いが目立つようになりました。マスコミへの露出が増えた影響でもあるのでしょう。なかなか賢い消費行動ですが、必要なものも、好みも異なるのでしょうから、結構、難しいようにも思えます。週末は、家族連れが、遠方からも押し寄せ、大混雑です。ほとんど、行楽地化しています。倉庫は、基本10時オープンですが、9時頃には開けています。ちなみに、コロナ禍以降、障害者や老人向けを対象に、週2日、8時30分からオープンします。これは大助かり。ゆっくり買い物できます。ただ、見ていると、入店時のチェックもなく、一般の人たちも入れます。障害者や老人の買い物に支障のない限り入れる、というコストコらしい実際的な対応だと思います。

コストコの魅力の一つは、フードコートです。代表的なメニューは、でかいホットドッグということになります。トッピングは自由、リフィルOKのソーダが付いて180円。かつては、150円でした。ここで利益を出そうとしていないことがよく分かります。私のお気に入りは、ピッツアです。直径45cmのホールサイズで、1,580円。チーズたっぷりのアメリカの味です。その背徳感は半端なく、カロリーなど聞きたくもない感じです。ピッツアは、スライスでも買えます。1/6カットのスライスでも食べ応え十分です。5種類のチーズを載せたチーズ・ピッツアは、実はスライスの方がチーズの厚みがあります。350円ですから、ホールよりも割高な分、チーズ山盛りなのでしょう。

コストコが日本に進出しきた頃、日本での仕入れには苦労したようです。いち早く、コストコのコンセプトを理解し、協力してくれたのがでん六豆でおなじみの「でん六」だったそうです。でん六は、山形市に本社を置くメーカーです。コストコが、東北初の倉庫をオープンすることになった際の話です。当然、仙台市郊外がベストな立地ということになります。しかし、コストコは、でん六の恩を忘れていませんでした。山形県の上山に東北第一号となる倉庫を開きました。コストコの意外とウェットな対応に感動しました。(写真出典:jp.linkedin.com)

2021年4月12日月曜日

梁盤秘抄 #15 A Seat at the Table

アルバム名:A Seat at the Table (2016)                     アーティスト名:ソランジュ

"A Seat at the Table"は、ソランジュの大ヒット・アルバムです。自身の3枚目のアルバムですが、初めてチャート第1位を獲得しました。同じ年、姉ビヨンセの"Lemonade"も第1位になったことから、同じ年に姉妹でチャート第1位を獲得した初めてのケースとなりました。反人種差別というスタンスは明確ながら、楽曲自体は、ソランジュの多様なバックグランドが反映された斬新のものでした。ずっと聞いていたくなるような心地良さすら感じます。十分にソウルらしさを保ちながら、ネオ・ソウルの新しい流れを感じさせます。

 ソランジュは、音楽一家に生まれました。13歳の時には、ビヨンセが所属したデスティニーズ・チャイルドのツアーに同行し、メンバーの一人が怪我をした際には、代役まで勤めています。また、作詞・作曲も開始し、プロへの楽曲提供まで行っています。14歳でシングル・デビュー、17歳で出したアルバム”Solo Star”は、ヒットを記録しています。まさに早熟の天才です。その後、音楽活動よりも、女優としての活躍が続きます。20歳で、姉に楽曲を提供したことをきっかけに、再び、音楽活動を開始しました。彼女の楽曲は、R&Bを基本としながらも、ジャズやブルースの要素もあり、それらをモダンにまとめあげている印象があります。歌手、作曲家、女優、モデル等、クロス・オーバーに活躍するソランジュ自身を反映しているようでもあります。

ネオ・ソウルは、定義もあいまい、ジャンルとしても確立していません。私は、結構、好きなジャンルです。モータウンの本質的な部分は残しつつ、伝統的なシャウト・スタイル、あるいはヒットの法則に満ちた定型的アレンジに関しては、もっと自由な表現を試しているのが、ネオ・ソウルだと思っています。そういう意味では、このアルバムなど、まさに典型だと思います。また、ネオ・ソウルの元祖マーヴィン・ゲイのアプローチとも異なる、都会的で、知的で、今日的なソウルだと思います。ネオ・ソウルというと必ず名前があがるエリカ・バトゥの油抜きしたような歌い方とも異なり、ファルセットをうまく使いながら、洗練された新しいソウルを表現しています。

また、曲と曲の間に”Interrude”として、メッセージ性の強い語りを入れていますが、ローリン・ヒルが名作”The Miseducation of Lauryn Hill”で取り入れた手法を意識しているのでしょう。間違いなくアルバムの統一感は高まり、メッセージ性も強く成りますし、それぞれのInterrudeも味わい深いのですが、何度も聞いていると、Interrudeをスキップしたヴァージョンが欲しくなります。ちなみに、本作の歌詞には、かなり汚い言葉や差別用語も使われています。魅力的なメロディと好対照です。ミュージック・ヴィデオには、汚い言葉を消したクリーン・ヴァージョンというのがあります。誰が制作したのか分かりませんが、くだらないことをするものだと思います。

2019年には、次のアルバム”When I Get Home”がリリースされ、高評価を得ています。”A Seat at the Table”の延長線上にありながら、より自分の世界へ埋没していっているように思いました。ライブの舞台が現代アート的であったり、あるいはNYのグッゲンハイム美術館でライブを行ったことなどからしても、よりアーティスティックな世界観を指向しているように思えます。いわゆる作家主義的指向なのでしょう。ただ、その世界は、まだまだ未完成です。モータウン、ジャズ、BLM、アート、これらが融合した先には何があるのか、あるいは何もないのか、次回作への興味が湧きます。(写真出典:amazon.co.jp)

2021年4月11日日曜日

ヒッピー・トレイル

BBCが制作し、Netflixで配信されたミニ・シリーズ「サーペント」 を見ました。久々にハマり、一気見しました。1970年代、バンコックを中心に起こった連続殺人事件を題材としています。稀代のシリアル・キラーと言われるシャルル・ソブラジが起こした事件を、ほぼ忠実に踏まえながら、スリリングなエンターテイメントに仕立てています。シリアル・キラーは、皆、病気ではありますが、とりわけソブラジは、複雑で、興味深い人物です。ただ、ソブラジの内面をえぐるのではなく、エンターテイメントに徹したところが成功している最大の要因だと思います。また、当時のヒッピー文化、当時のアジアの街角、当時の音楽等は、私の年代には、たまらなく訴えるものがあります。

当時、世界中の若者たちが、ヒッピー・トレイルと呼ばれた東南アジアからインド、ネパール、アフガニスタンあたりを、バックパックを背負い旅をしました。古い社会体制からドロップ・アウトし、東洋哲学にあこがれ、一方では大麻を求める旅でもありました。ゼミの先輩に、インドを1年間、放浪してきた人がおり、あこがれたものです。私も、パキスタン留学の話がありました。旅費は自前ながら、1年間、パキスタン政府が月2万円の小遣いをくれると言うので、行く気満々でした。ただ、留年もしていたので、親父から一喝され、断念しました。私の替わりに留学した知人は、帰国時、インドに立ち寄り、赤痢を罹患。1ヶ月間、カルカッタで入院しました。やはり、欧米人や日本人にとって、衛生状態は、かなり厳しいものがありました。

ソブラジは、ヒッピーを餌食とし、衛生環境の悪さを手口に使います。親切にして、近づき薬を盛り、介抱すると見せかけ、殺して金品とパスポートを奪うという手口です。殺人そのものを目的とするシリアル・キラーとは異なります。ソブラジは、妻と称するカナダ女性マリー・アンドレ・ルクレール、インド人のアジェを従えて犯行を重ねます。自国民が犠牲になったことから、オランダ大使館員クニッペンベルグは、ソブラジに疑念を抱きます。地元警察から相手にされなかったため、独自に捜査を進めます。彼と協力者たちの活躍で、事件の全容解明が進みます。結果、ソブラジは、インドで逮捕。収監されます。ただ、刑期満了直前に脱獄。再逮捕され、刑期は延長されます。その間に、死刑確実なタイの事件は、すべて時効を迎え、インドで刑期を終えたソブラジは、自由人としてフランスに戻りました。計算づくの脱獄だったわけです。

「サーペント」が面白くなったのは、上述のとおり、ソブラジを深堀せず、ストーリー・テリングに徹しているからですが、他にもいくつかの理由があります。テクニカルには、頻繁なタイム・ホッピングが、テンポを落とさない、緊張感を持続する、ムードを一定に保つ、といった効果をあげています。これは、場面毎の感情の動きやドラマを構成しにくいという欠点を生みますが、一方で、ストーリー展開は早くなります。表面的に過ぎるドラマだという批判はあるでしょうが、覚悟のうえだと思います。実話、かつ多数の題材が存在する「サーペント」には適しています。マリ―とのからみ、クニッケンベルグの謎解きには、創作部分も多いのだと思われますが、ストーリーに、実話以上の広がりを持たせています。

ソブラジは、フランス・ヴェトナムのハーフです。「サーペント」では、ソブラジの犯行の背景として、不遇な家庭環境、フランスで受けた差別を示唆しています。ヒッピーを標的にしたのは、彼らのアジアを見下す一面ゆえかもしれません。ソブラジの本質は、極めてIQの高い、生来の詐欺師なのだと思います。取材や映画化権で得た収入で、豊かに暮していたソブラジは、2003年、突如カトマンズに現れ、警察に拘束されます。彼は、カトマンズでも殺人を犯しており、起訴される可能性が残る唯一の国でした。証拠不十分で不起訴となることを確信し、インド、タイと同様、法的に全てをクリアーにしたかったのかも知れません。ところが、かつてマリーがインドで行った証言が証拠として採用され、終身刑を宣告されます。ソブラジは、現在もネパールで収監されています。マリーの証言を提供したは、クニッケンベルグでした。ちなみに、クニッケンベルグ夫妻は、後に離婚します。その後、妻のアンゲラは、国連に勤務、事務次長にまでなりました。(写真出典:imdb.com)

2021年4月10日土曜日

具眼の徒

「千載具眼の徒を竢つ」とは、伊藤若冲55歳のおり、相国寺に「釈迦三尊像」の周囲を飾るための「動植綵絵」30幅を全て寄進した際の言葉だと言われます。見る目を持った人が現れるのを千年でも待とう、といった意味で解釈されています。若冲ブームが起こったのは、2000年、京都国立博物館にて没後200年を記念して開催された『若冲展』からだとされます。永らく忘れられていた画家の、予言的で、かつ正鵠を射たとも言える言葉としてもてはやされました。しかし、この言葉には、少し不思議な面があります。生前の若冲は、既に高い評価を得た高名な絵師でした。わざわざ千年も具眼の徒を待つ必要はなかったはずです。しかし、若冲は、没後、しばらくの間、忘れられた存在となります。若冲は、そのことを見通していたのでしょうか。また、なぜ、そのように考えたのでしょうか。

若冲ブームの最中、2016年、東京都美術館で「生誕300年記念若冲展」が開催され、相国寺の「釈迦三尊図」と相国寺が皇室に献上した「動植綵絵」全30幅の同時公開ということで、大人気になりました。私も、かつて「バーンズ・コレクション展」で2時間行列に並んだ経験があったので、ある程度、覚悟を決めて出かけました。ところが、そんな覚悟では及びもつかない3~5時間待ちという、まさに異常事態。もちろん、断念しました。空前の若冲ブームに会期はわずか1か月という設定。開催側は責められるべきだと思いました。いずれにしても、いまや若冲の二文字が入った展覧会は、どこでも大入り満員状態です。私は、若冲の墨絵が好きです。「鹿苑寺大書院障壁画」などの大胆な構図はモダンさすら感じさせ、若冲の異才が際立ちます。多くのファンの好みは、「動植綵絵」に代表される極彩色の細密画なのでしょう。

若冲は、宋代の花鳥画の模写に専念し、後には実物写生へと移ったようです。しかし、若冲は、いずれとも異なる画風を持ち、その最大の違いは、超絶技法による細密性だと思います。それはリアルさの追求ではなく、ディテールの追及による新たな実在の創造だと言えるのではないでしょうか。その意味において、超現実的であり、独特なシュール・リアリズムだとも言えます。若冲の鶏は、すでに鶏ではなく、鶏の細部から再構成された何か別の存在です。もはや天地創造神の領域であり、当時、その絵が高く評価されたとしても、その超現実性については、世間の理解をはるかに超えていたのでないでしょうか。生前の若冲がそのことを認識していたとすれば、あえてそれを語らず、あるいは語ることはできなかったのではないかと思います。せいぜい言えた言葉が「千載具眼の徒を竢つ」だったのではないでしょうか。

若冲が、しばらく奇想の画家としてキワモノ扱いを受けていた理由は、かつての日本に、リアルさを追求するという画風が存在しなかったからだと思います。画材、特に油絵具を持たなかったこともありますが、何よりも仏教の影響から、精神性が重視されたからだと思います。リアルさは低俗だとされていたのでしょう。例えば、日本の花鳥画と英国のボタニカルアートでは、目指しているものがまるで違います。それが変わったのが文明開化だったということになります。本格的に西洋画がもたらされ、その前提である油絵具や遠近法、そしてその背景にある自然科学が伝わり、絵画は変わります。安土桃山の頃、宣教師たちが西洋画を持ち込んではいましたが、日本の絵画に大きな影響を与える前に、禁教令によって影を潜めました。若冲も、西洋画は目にしていたのではないでしょうか。恐らく、他の人たちとは異なる視点で見ていたようにも思えます。

若冲とヨハネス・フェルメールは、似たところがあると思います。ディテールへのこだわり、超絶技法、高価な画材、そして、没後、独自の画風もあって、しばらく忘れられていたこと等です。絵画は、強大な権力、膨大な財力の庇護のもと、発展する傾向があり、また、そこで生まれた作品は後世へと伝わりやすくなります。若冲と相国寺との関係、フェルメールの事業家のパトロンはあるにしても、二人とも、幕府や王侯貴族の庇護は受けていません。若冲のプルシアン・ブルー、フェルメールのラピスラズリといった高価な画材の使用は、ほぼ個人的裕福さを背景にしています。権力との関係が無かったことは、若冲が、具眼の徒を待たなければならなかった理由の一つかも知れません。(「群鶏図」東京富士美術館蔵 写真出典:fujibi.or.jp)

2021年4月9日金曜日

熊野(ゆや)

能楽の世界には、昔から「熊野松風に米の飯」という言葉があり、「熊野(ゆや)」と「松風」は、米の飯のごとく、何度観ても飽きることがない演目だと言われているそうです。それほどまでの傑作、あるいは能楽らしい能楽ということなのでしょう。いずれも、シテは女性で、和歌が重要なモティーフになっています。桜の「熊野」は春に演じられ、月の「松風」は秋に演じられることが多いようです。今回、初めて観世流の「熊野 村雨留」を見てきました。

平家物語に題材をとった「熊野」のあらすじは、次のようなものです。平宗盛が遠江国池田宿から連れてきた愛妾の熊野は、病に倒れた国の母親が気がかりで、一刻も早く、故郷に戻りたいと思っています。宗盛に暇を願い出ますが、断られています。宗盛は、東山で花見の宴を開き、熊野を慰めたいと考えます。熊野を乗せた牛車は、春の都を清水寺へと向かいます。春の都の道中は、熊野の心情に重なっていきます。清水寺に着き、観音堂で祈っていた熊野は、宴の場へと呼び出され、舞います。その時、突然、村雨が降り、花を散らします。熊野は「いかにせん 都の春も 惜しけれど 馴れし東の 花や散るらん」と歌を詠み、宗盛に差し出します。さすがに宗盛も負けて、熊野に暇を出します。熊野は、その場から遠江国を目指します。

一見、シンプルなストーリーに見える「熊野」には、いくつかの対比構造が埋め込まれ、深みのある展開になっています。帰りたい熊野と帰したくない宗盛、京の春のあでやかさと熊野の憂鬱が重なる東山の暗い一面、清水寺における観音堂の祈りと花見の宴席、華やかな舞と熊野の憂い、舞と無常観、宗盛の栄華を誇る宴席と忍び寄る滅亡の気配、等です。それらが、美しい詞の謡、緩急をつけた囃子、そして実に能を感じさせる舞とともに情感を深めていきます。いわば対比の美学によって、一曲のなかに濃密な世界を築いています。「米の飯」と言われるだけのことはあります。なお、小書(特殊演出)の「村雨留」は、中ノ舞が村雨によって終わることで、熊野が歌を差し出す場面を、より効果的に演出していました。

平宗盛は、清盛の三男で、清盛が没した後、平家の頭領となります。宗盛の責任とばかりは言えないにしても、平家一門を、都落ちから壇ノ浦での滅亡まで追いやりました。壇ノ浦で、一門が入水するなか、一命をとりとめ、捕虜になります。死にきれなかったのは、泳ぎが上手かったからとも、肥満体が水に浮いたからだとも言われます。宗盛は、愚鈍、かつ傲慢だったと言われます。父に先立ち病死した兄重盛が人望の厚い武将だったことと比較されがちな面もあります。捕虜として鎌倉に連行され、見苦しく命乞いをするなど、やはり頭領に相応しい人だったとは思えません。ただ、一方で、情に厚い、優しい人柄だったとも言われます。特に家族への愛情は強く、妻に先立たれた時には、官職を辞し、ふさぎ込んでいたようです。この性格が、熊野への複雑な思いの伏線にもなっているのでしょう。

熊野は、遠江国池田宿の遊女ですが、実在した人とされています。池田宿は、現在の磐田市池田に名を残し、天竜川沿いの行興寺には熊野の墓があります。行興寺は、樹齢850年という長藤がよく知られており、「熊野御前ゆかりの藤」と呼ばれているそうです。熊野は、本尊の十一面観世音菩薩を深く信仰し、境内に長藤を植えたと伝えられているそうです。(写真出典:shitashimu.dreamlog.jp)

2021年4月8日木曜日

あおり運転

あおり運転はじめ、道路上でのトラブルは、昔から、国を問わず、頻発してきました。キレやすい人、つまりアンガー・マネジメントができない人がいる以上、この先も絶えることはないでしょう。 あおり運転を行った理由は「進行の邪魔をされた」、「割り込まれた」、「追い抜かれた」が多いようです。あおり運転と言えば、思い出すのはスティーヴン・スピルバーグの出世作「激突!」(1971)です。映画も、主人公がタンクローリーを追い越したことから、恐怖が始まりました。あおり運転は、概ね、ドライバーの身勝手な思い込みによるものであり、些細なことが些細に思えない心理状況の反映でもあります。

ある調査によれば、ドライバーの7割が、あおり運転をされた経験があり、うち8割が、後ろから接近されたり、幅寄せされたケースだったようです。自分の経験からしても、高速道路の追越車線で、高速で接近した車がピタリと後ろに付き、車線変更を迫る、いわゆる「あおり」は、よく見かける行為です。とは言え、あおられてスピードを上げた結果、速度違反で捕まっても、危険回避には相当しないようです。幅寄せになると、これはかなりの悪意をもって行われる危険な行為であり、犯罪そのものだと思えます。さすがに、私も経験がありません。また、あおられる車の多くは、軽自動車だとも聞きます。分かる気がします。

あおり運転は、2020年、道路交通法が改正され、危険な方法で、故意に妨害運転を行った場合、処罰の対象となることになりました。従前は、危険運転によって事故が起きた場合、あるいは車間距離不保持のみが処罰対象でした。改正のきっかけになったのは、2017年に東名高速で起きた死亡事故です。執拗なあおり運転を繰り返していた犯人は、被害者の車の前で停車、そこへ後続のトラックが追突し、運転していた夫婦は死亡、子供2人は重症を負います。この事件を契機に、多くの異常なあおり運転が、TVで報道されます。背景として、ドライブ・レコーダーの普及によって、あおり運転が映像に記録されるようになったことが挙げられます。また、それによってドライブ・レコーダーは、爆発的に売れました。

あおり運転については、日本独特の車文化も関係しているように思います。パッシング・ライトとクラクションを使わないことです。かつてパッシング・ライトは、しばしば見かけましたが、近年、受けたことも、やったこともありません。理由は分かりません。クラクションは、日本の道路交通法上、例外を除いて、原則、鳴らしてはいけないことになっています。日本以外では、やたらクラクションが鳴っています。発展途上国では、エンジンが回っている間中、クラクションが鳴らされています。これはこれで問題ですが、クラクションは、ある意味、車によるコミュニケーション手段という面があります。うるさくなるのは困りものですが、クラクションを鳴らすことによって、多少は苛立ちが解放される可能性があります。また、先行する車が、早めに道を譲り、後続車のいらだちを減らす効果も期待できます。ある程度ではありますが、クラクションの解禁による効果も望めるのではないでしょうか。

昔から、車に乗ると人が変わる、と言われる人がいます。変わるのではなく、元々の人格の一部が増幅されるということだと思います。危険な運転も、身勝手な運転もなくなることはないでしょう。将来、自動運転や半自動運転が普及すれば、高齢者の運転ミスやドライバーの過労による事故も含め、ヒューマン・ファクターによる事件や事故は、かなり解消されます。ただ、もう少し時間がかかります。それまでの間、あおり運転対策としては、法的な面や技術的な面からの取組も大事ですが、もう少しドライバーの心理的な面からのアプローチもあって然るべきだと思います。(写真出典:smartdrive.fleet.jp)

川上