2021年4月7日水曜日

三百年の争い

燕三条地場産業振興センター
新潟で聞いた面白い言葉に「はんばぎ脱ぎ」があります。古い言葉ですが、新潟なら、だれでも知ってると聞きました。「はんばぎ」とは、「脛巾(はばき)」がなまった言葉です。脛巾は、農作業や旅の際、動きやすくするために、すねに巻き付けたもので、藁で作れていました。後の布や革製の脚絆やゲートルと同じものと言えます。「はんばぎ脱ぎ」の意味は、旅装を解く、ということですが、翻って、旅から帰ってきた際のご苦労さん会、反省会、あるいは土産話を聞かせる会のことです。酒好きの新潟のことゆえ、なんでも酒を飲む理由にしたようにも思います。ただ、興味深いのは、江戸期から続く風習だという点です。

江戸期、農民の移動は原則禁止されていました。ただ、お伊勢参りといった宗教行事、あるいは湯治などの旅に関してはお目こぼしがあり、比較的緩やかに運用されていたようです。とは言え、滅多に旅など行けない時代から、はんばぎ脱ぎという言葉が一般的だったとすれば、新潟の農民は、比較的多く旅をしていた可能性が高いということになります。そこで思いつくのが、家内手工業です。冬場、雪に閉ざされる新潟では、農家の内職が盛んで、織物、日本酒、金属加工、漆器、箪笥などは、後に産業化され、現在では新潟の名産になっています。昔は、仲買人や問屋が、発注し、製品を回収してまわっていたようですが、農民が、直接、江戸や関東の問屋へ持ち込む場合もあり、また、行商も行っていたようです。

内職が産業化した代表例の一つが、燕市と三条市の金属加工です。燕・三条には、家族で営む小さな工場がひしめき、両市とも社長さんの多い町です。江戸初期、毎年、水害等に苦しむ領民を見た代官が、江戸から和釘職人を呼び、農民に技術を伝えたといいます。時代とともに、製品は多様化し、会津から伝わった鋸(のこぎり)や鉋(かんな)、仙台から伝わった銅器、あるいは煙管等も作るようになります。隣接する二つの町ですが、次第に製品や商売に違いが生まれます。行商をよく行った三条は商人の町、一方の燕は職人の町と言われます。三条の行商人は、燕の製品を買いたたき、職人を泣かせたものだ、と燕の人たちは言います。三条の人に限らず、それが商売だとは思いますが、燕の人たちの恨みは蓄積されていきます。一方、三条の人たちにも許せないことが起こります。

戦後、アルミ加工に長けた燕は、カトラリーの輸出で大成功します。三条の人たちに言わせると、その頃、燕の人たちは大儲けして、傲慢になり、三条を見下した、今でもそれは許せない、ということになります。もちろん、やっかみという部分も大きいとは思います。その対立が、世間にも広く知れ渡ったのは、新幹線の駅、そして高速道路のインターを巡る問題でした。どこに作るか、名称には両市の名前を入れるとして、燕が先か、三条が先か、という問題でした。場所は、真ん中しかないでしょうが、名称は、理詰めの議論で答えが出るものでもありません。これには田中角栄も頭を抱えたようです。天下の知恵者といわれた角さんの出した答えは、駅名は”燕三条”とし、場所は三条市におく、インター名は”三条燕”とし、燕市におく、という、いわば痛み分けでした。

いつの世でも、妥協が生むのは不満だけです。角さんの裁定で、上越新幹線と北陸自動車道の建設は進みましたが、両市の仲が良くなったわけでもなく、不満だけが残りました。ところが、平成の大合併のおり、地元財界から両市合併の話が出されます。世界的な企業も存在する金属加工のメッカは、ブランド力強化のために、二つの町名よりも一つの名前の方がいいと思います。ところが、案の定、すったもんだの議論が巻き起こり、住民投票の結果、合併案は否決されました。合併否決については、今でも、双方を非難する声があるようです。三百年の争いは、まだまだ続きそうです。ちなみに、燕三条駅の前には、珍しく両市が共同して設立した「燕三条地場産業振興センター」があります。1986年にオープンし、今は、道の駅としても運営されています。共同事業ですが、ある意味、きっちり伝統に則り、名前は燕三条ですが、住所は三条となっています。(写真出典:iri.pref.niigata.jp)

2021年4月6日火曜日

焼売

同発の焼売
横浜の人たちは、崎陽軒の「シウマイ弁当」をソウル・フードとしてリスペクトしています。中華街はもとより、今では、もっと美味しい焼売が、いくらでも存在します。にもかかわらず依然として高い人気を誇ります。「シウマイ弁当」が、横浜駅の駅弁として発売されたのは、1954年のことです。その味だけではなく、永い歴史を持つ、横浜を代表する駅弁であることもリスペクトされる要因ではあります。崎陽軒は、1908年、4代目横浜駅長が、退職後に初代横浜駅構内に出した売店から始まります。飲み物や餅等を商っていたようです。東京駅から近すぎて、駅弁の売上がいまいちだったので、横浜名物を作ろうと思案した結果、1928年、焼売の販売を開始しています。1950年には、ホームで立ち売りする「シウマイ娘」が登場、小説や映画にも取り上げられたそうです。

実は、私も「シウマイ弁当」好きです。若いころ、休日出勤した際には、必ず東京駅で「シウマイ弁当」を買ってから出勤していました。当時の丸の内には、休日に開いている店はなく、弁当を持参する必要があったのです。休日出勤など、モチベーションが上がるわけもなく、唯一の楽しみが弁当でした。もともと弁当を好まない私にとって、食欲をそそられるのは「シウマイ弁当」くらいでした。「シウマイ弁当」は、思い出の味といったところです。そもそも焼売は、私の大好物の一つです。私が好んで食べる焼売は、横浜中華街の「同発」、日本橋の「小洞天」のものです。ふんわりとしたタイプより、肉をギュッと詰め、豚肉の甘味を楽しめるタイプが好みです。

焼売は、モンゴル自治区の発祥といわれます。また、料理店で残った食材を混ぜて餃子の皮に包んで売り始めたものが起源という説もあります。ただ、この説に関しては、どこで、という話が一切出てこないという胡散臭さがあります。文献上、モンゴルが築いた元朝の大都(北京)には既に存在していたようです。北京では、焼売を「焼麦」と表記する場合があるようです。病気になった麦を、蔓延防止のために焼いた姿に似ていたことから焼麦と称され、同じ発音の焼売に変じたという説もあるようです。ちなみに、佐賀県鳥栖の中央軒は、1956年から「焼麦」を発売しています。1892年創業、九州を代表する駅弁の中央軒は、長崎の中国人の指導のもと焼麦を開発したといいます。

日本の焼売の歴史は、1899年、伊勢佐木町にあった「博雅亭」から始まっているようです。博雅亭は、1881年に開店していますが、その後、紆余曲折を経て、現在は、片倉町で「シウマイの博雅」として販売されているようです。国産材料、無添加、手包みにこだわり、創業時の味を再現してるようです。明治時代の発売となると、崎陽軒同様「シウマイ」という表記になるわけです。焼かないのに焼売というのは何故か、という疑問をよく聞きます。中国語の「焼(シャオ)」は、高熱で調理するといった意味だそうです。叉焼は炙り焼き、上海料理の紅焼(ホンシャオ)は醤油煮込みですから理解できます。一方、「蒸(ジョン)」という言葉もあるのに、なぜ焼売なのか、また、なぜ”売”なのか、という疑問も残ります。焼売の起源に関わる疑問かも知れません。

昨今の焼売は、ヴァリエーションも実に豊富です。飲茶の焼売メニューは、オリジナルに加え、海老焼売、海鮮焼売、揚げ焼売等とにぎやかです。中華料理の焼売とは、まったく異なりますが、佐賀県呼子の萬坊が開発した「いかしゅうまい」も絶品です。あの甘味とふわふわ感は、ちょっとクセになります。イカで有名な呼子にあって、海中レストランの萬坊は、人気ナンバーワンの店です。呼子名物は、何といっても新鮮なイカの刺身です。いかしゅうまいは、恐らく売れ残ったイカの活用法として開発されたのでしょう。焼売の起源に関する一説に通じるものがあります。(写真出典:item.rakuten.co.jp)

2021年4月5日月曜日

ハマム

 私は、サウナが大好きです。気のせいかもませんが、たまった疲れが取れるように思います。若いころは、なんとなく行っていただけですが、営業現場でセールス・マネージャーを始めた30歳ころから、折に触れて通うようになりました。かつては、かなり我慢して入り、水風呂に飛び込むスタイルでしたが、最近は無理をしません。さらにコロナ・ウィルスの感染が広まってからは、スティーム・サウナ専門になりました。空気中のミストがウィルスを床に落とす効果がありそうだからです。もっとも、近所のスーパー銭湯では、浴室内での会話は禁止になっており、ドライ・サウナでも問題ないとは思います。

40年ほど前のことですが、イスタンブールに旅をした際、ハマムと呼ばれるトルコ式の公衆浴場に行きました。入場すると、まずは2~3畳ほどの簡易なベッドのある個室に通されます。脱衣して腰布を巻いた状態で、浴室に案内されます。円形の広い浴室は、全体が蒸し風呂になっています。中央の台座の上に横たわり、しばし体を温めます。頃合いを見計らって、三助が洗い場へ連れていき、あかすりを行い、泡で全身を洗ってくれます。再び台座の上に横たわっていると、プロレスラーのようなオッサンが登場して、マッサージが始まります。正直、痛いほどの激しいマッサージでした。しばらく体を休めていると、いたいけな少年が、個室へ連れ戻してくれます。お茶が出され、ベッドのうえで香油を塗ってくれます。

これで一通りでした。恐らく少年は、他のサービスも提供するのでしょう。ハマムの料金は覚えていませんが、とても安かったと思います。ローマ帝国時代の浴場に起源を持つというハマムの文化は、中東のイスラム世界に広がっており、都市には、モスクとスーク(市場)とハマムがある、とまで言われます。決して男性専用ではなく、女性用も併設されています。女性は、浴室でベールを付ける必要がなく、階級や貧富の差を問わず、入浴とおしゃべりを楽しんだもののようです。これが欧州人には神秘的な印象を与えたようで、絵画の題材にもなっています。ルーヴル美術館が所蔵するアングルの「トルコ風呂」が最も有名です。

人間は、古来、衛生上、あるいは宗教的理由から沐浴を行っていたようです。お湯を沸かして、あるいは蒸気を発生させて入浴する浴場の歴史も古く、現在確認されている最古の浴場は、5,000年前のモヘンジョダロ遺跡にあります。その起源は、さらに古く、6,000年前のメソポタミアという説もあります。浴場は、世界中に広がりますが、欧州では、キリスト教の普及とともに廃れていきます。キリスト教において、全裸で多くの人が集まることは好ましくない、とされたためです。欧州人が、ハマムにエキゾチシズムを感じるわけです。日本では、仏教の伝来とともに、浴場の歴史が始まります。大きな寺院には、古くから、必ず浴場があります。ちなみに、もともと”風呂”は蒸し風呂を指し、温水浴する場所は”湯殿”と呼ばれたようです。いずれにしても、蒸し風呂の歴史は、入浴の歴史でもあったわけです。

かつてソープランドは「トルコ風呂」と呼ばれていました。もともとはハマムに着想を得た蒸し風呂とあかすりの組み合わせでしたが、60年代頃から、性風俗化します。トルコ風呂、あるいは略してトルコと呼ばれました。怒ったのはトルコの人々です。抗議運動が起こり、結果、名称が公募され、ソープランドになります。83年のことでした。公募というのも、実におおらかな話です。その際、トルコ人の抗議運動を支援したジャーナリストが名を挙げました。カイロ大学出身の小池百合子です。(アングル「トルコ風呂」写真出典:ja.wikipedia.org)

2021年4月4日日曜日

「ミナリ」

 監督:リー・アイザック・チョン   2020年アメリカ

☆☆☆+

80年代のアーカンソーで、農業に挑戦する韓国系家族の苦難を描いた映画です。そつのない演出、見事な演技で、上質な家族の物語に仕上がっています。韓国語のセリフが多い映画ですが、古き良きアメリカ映画を見ているような感覚に捉われました。逆に言えば、80年代までさかのぼり、韓国系をモデルにしなければ、伝統的な家族映画は作れない、とも言えそうです。ただ、伝統的に過ぎて、今日性に欠けるようにも思えます。普遍的家族の映画というよりも、移民映画のようにも思えます。ゴールデン・グローブ賞では、外国語映画賞を獲得しています。外国語映画ではなく、アメリカ映画だとする声も多いようでが、言語の問題だけではないようにも思えます。アカデミー作品賞にもノミネートされ、有力候補と言われています。

監督のリー・アイザック・チョンは、韓国系二世として、1978年にデンバーで生まれ、アーカンソーで育っています。「ミナリ」は、彼の生い立ちに基づいているようです。家族の描き方に、彼の思い入れの深さを感じます。イェール大で生物学を学び、医師を目指していたようですが、映画製作に目覚め、中退しています。2007年に、ルワンダを舞台に処女作「ムニュランガボ」を撮り、カンヌはじめ多くの映画祭で高い評価を得ます。以降の作品も高い評価を得たものの、彼自身は映画製作に行き詰まりを感じ、韓国で教鞭をとっていたようです。ただ、もう一本だけ、全てを注ぎ込んだ自伝的な映画を撮らなければならないという思いが強くなり、「ミナリ」に至ったようです。次回作は、日本で大ヒットしたアニメ「君の名は。」の実写化と発表されています。

20年以上前のことですが、日経新聞が、海外駐在員経験者に対するアンケートを実施しました。駐在員を経験して良かったことという設問で、一番多かった回答は、家族との絆が強まった、ということでした。私も、ちょうどミナリの時代設定と同じ頃、NYに駐在していましたので、この回答結果には共感できます。企業の駐在員、かつ日本人の多いNYですら、やはり異国の地での慣れない生活は、家族の団結を強めます。それが、アーカンソーの田舎、慣れない農業、子供の病気と来れば、本当に家族だけが頼りだったと思います。妻のカリフォルニアへのこだわりも理解できます。心細い時、同胞の存在は、言葉の問題以上に大きいものがあります。

祖母と、祖母が韓国から持ち込み育てるセリ(ミナリ)が、家族を一つにまとめ上げる象徴となっています。あえて韓国語の多いセリフ回しにしていることも含め考えると、他国にあっても、韓国人としてのプライド、文化伝統が重要であることを訴えているように思えます。NYでは、韓国人、中国人、インド人の団結は強く、自国文化へのこだわりが強いことで知られていました。NYのグロサリー・ストアは、韓国人の経営が多く、危険な目にあっても24時間営業にこだわり、確実に生活基盤を固めている印象でした。また縄張り意識も強く、90年前後、後から入ってきたヴェトナム人と韓国人との喧嘩が街中で繰り広げられた時期もありました。

セリは、日本原産の多年草で、東アジア一帯に分布しています。「競る」ように盛んに青葉を出すことからセリと名付けられたと言います。春の七草ですが、仙台のセリ鍋、秋田のきりたんぽ鍋の具材としても知られています。香りやシャキシャキとした食感が魅力ですが、多くの薬効も認められてます。水さえあれば、田んぼのあぜ道でもドンドン育つ強さが、韓国系移民を象徴し、群生する様が、家族を象徴しているのでしょう。(写真出典:eiga.com)

2021年4月3日土曜日

レトルト・パウチ

 1992年、5年間のNY駐在を終えて帰国した際、喫茶店で食べるハンバーグとカレーのレベルが上がっていることに気付きました。かつては、店によって大きな違いがあり、不味い店も多くありました。ところが、どこでも食べても一定レベル以上の味になっているのです。ハンバーグは、ふっくらとして、上出来のデミグラ・ソースがかかっていました。カレーは、スパイスの調合が上手で、よく煮込んでありました。変われば変わるものだと感心していましたが、ある日、皆、同じような味であることに気付きました。要は、業務用のレトルト・パウチ食品を使っていたのです。

食事をメイン・メニューとしない店では、実に効率的な方法です。しかも、一定レベル以上の安定的な味を提供できるわけです。もちろん、面白みは失われました。レトルト・パウチ食品は、1950年頃、アメリカ陸軍の研究所で、缶詰に替わる軍事糧食、いわゆるレーションとして開発されました。缶詰は、重く、空き缶の処理に困ることから、研究されたようです。密閉後に加熱殺菌することは同じなので、要は、缶をパウチ(小袋)に替えたというわけです。そもそも1804年にフランスで発明された缶詰も、レーションとして開発されたものです。缶詰は、一般用としても、大いに普及しましたが、レトルト・パウチはアメリカの家庭には浸透しませんでした。当時のアメリカの家庭には、既に大型フリーザーがあり、冷凍食品が普及していたからでした。

レトルト・パウチが一般用として普及したのは日本でした。1968年、大塚食品が発売した「ボン・カレー」は、世界初の家庭用レトルト食品です。カレー粉の在庫を減らすために考案されたと言います。従来のレトルト・パウチを改良し、アルミ製のパウチを使うことで、賞味期限を2年まで伸ばします。当時としては、衝撃的な賞味期限です。ただ、発売当初は、苦戦したようです。きつい防腐剤を使っているのではないか、あるいは値段が高いといった声が多かったようです。大塚食品は、知名度を上げるために、イメージ・キャラクターの松山容子がパッケージを持っているホーロー引きの看板を全国津々浦々に貼り付けます。その数、実に9万5千枚と言いますから、もはやギネス・クラスです。加えて、ボン・カレーが全国に浸透したのは、おそらく笑福亭仁鶴のTVCMの効果だったと思われます。当時、人気だった「子連れ狼」の名セリフをパロって「3分待つのだぞ。じっと我慢の子であった」というフレーズが大評判となりました。

数年前のデータですが、日本のレトルト・カレーは、3,000種類と言われます。近年、ご当地カレーがブームとなり、各地の土産物店には、レトルト・カレーが並びます。ついに国技館まで、大相撲カレーを発売し、相撲観戦の土産として売れています。カレーの種類は、今現在、優に3,000を超えてことでしょう。カレーの他にも、シチュー、スープ、丼物の具、パスタ・ソース等、数多くあります。総じて、味の濃いものが多いのは、加熱した際に出ることのあるレトルト臭が気ならないためだと言われます。その加熱方法も、熱湯3分タイプに加え、レンジ・タイプも多く見かけるようになりました。レトルト・パウチ食品は、まだまだ進化、拡大していきそうです。家庭の食事は、SF映画の宇宙船内での食事のようになるのかも知れません。

日本の世帯に占める一人世帯数は25%を超えています。65歳以上人口に限れば、約17%が独居老人となり、しかも日々増えていると言います。興味深いことに、その8割近くが、一人暮らしを望んでると言います。孫子と暮らすのは煩わしい、と思うのでしょうね。スーパーやコンビニでは、個食用の小さな総菜が売れています。これからは、さらに大きな市場となるのでしょう。レトルト・パウチの出番は、まだまだ増えていきそうです。(写真出典:amazon.co.jp)

2021年4月2日金曜日

バイリンガル

昔、アメリカで、米社と組んで、日系の小規模団体向けの医療保険を開発し、発売しました。日系企業を対象に、商品を説明するセミナーを、シカゴとNYで数回開きました。アメリカ人のマーケティング担当者が説明し、米社のバイリンガル・スタッフが通訳するという段取りでした。その女性スタッフは、アメリカ人と日本人のハーフで、完璧な日本語と完璧な英語を話し、かつ商品開発にも関わってきたので、商品に関する知識も完璧でした。ところが、セミナー本番になると、しどろもどろになり、セミナーは惨憺たるものになりました。マーケティング担当者は怒り、通訳した彼女は頭を抱えて涙ぐんでいました。その時、バイリンガルの人たちの頭の中が理解できたように思いました。

翌日からは、私が通訳を務めました。私は、英語を聞くと、単語をいちいち日本語に転換しながら、話の内容を日本語で理解し、日本語で話します。バイリンガルの人は、英語の話は英語で理解し、そのうえで英語の文章を日本文に翻訳するという作業を行って、はじめて日本語を発します。英語を自らの言葉として完璧に理解するがゆえに、文章の翻訳という手間のかかる別作業が必要になるわけです。結果、英語であっても、完全に日本語ベースでしか理解しない私の方が早く通訳できることになります。もちろん、日本語への通訳に限っての話ですが。通訳という仕事は、見事に一つの技術であり、特に同時通訳となると、極めて特殊な技術なのだと思いました。

そもそも、日本語で理解しようが、英語で理解しようが、理解した内容は同じではないか、という意見もあると思います。ただ、抽象的な事柄を表す単語には、多少ニュアンスが違う場合もありますし、翻訳できない言葉もあります。また、文法の違いが思考経路の違いを生じている場合もあります。言語は思考に影響するか、という議論は大昔からあったようです。近年の代表として言語的相対論があります。言語は認識に影響を与える思考の習性を提供する、というものですが、あくまでも仮説です。実例や実験結果等もありますが、メカニズムが解明できていない分野だと言えます。

世界の言語数は、定義如何ですが、3,000とも、8,000とも言われます。集団がおかれた環境や歴史的経緯のなかで、それぞれの思考や文化が育ち、それらを基盤に、それぞれの言語が形成されます。そして、言語は、基盤となった思考を再現し、共有化し、さらに抽象的思考を拡大していきます。科学的に証明できずとも、言語による思考への影響は明白だと思えます。例えば、常に主語・動詞・目的語がセットになる英語を使うアメリカ人は、自己の主張を明確にする傾向があります。対して、日本人は、より曖昧な表現を好みます。しかし、その日本人が、アメリカに長く暮らすと、アメリカ人と同様な傾向を持つに至ります。

ちなみに、日本語は曖昧で、英語は論理的構成を持っている。ゆえに日本人は、英米人に比べて論理的思考に欠ける。と言った人がいます。違うと思います。そもそも、すべての言語は、体系的、論理的に構成されていると思います。日本語の曖昧表現は、そのうえに築かれた日本独自のコミュニケーション技法なのだと思います。日本語は、英語に比べて、より高度な言語表現を持っているとも言えます。(写真出典:swedishnomado.com)

2021年4月1日木曜日

神奈川宿田中屋

初めて横浜の「割烹 田中屋」に行ってきました。文久三年(1863)創業、旧東海道沿いの割烹料亭です。広重の東海道五十三次「神奈川」にも描かれている老舗です。浮世絵ついでに言えば、北斎の富嶽三十六景「神奈川沖浪裏」とは、まさにここ神奈川湊の沖ということです。古くからの湊があり、東海道があり、多摩へぬける道があり、かつては随分栄えたものだったようです。安政5年(1858年)、神奈川湊沖に碇泊していたポーハタン号上で日米修好通商条約が締結され、神奈川湊は、開港五港の一つとなります。湊近くには、各国の領事館等も設置されていきます。

しかし、実際に開港されたのは、神奈川湊ではなく、対岸の寒村横浜でした。幕府は、往来の多い神奈川宿と外国人の間に距離を置き、もめ事を避けたかったようです。横浜村は、港が整備され、外国人居留地が作られます。以降の横浜の発展は、よく知られるとおりですが、神奈川宿も、港を横浜村にとられたとはいえ、宿泊や食事の拠点として栄えたようです。最盛期、神奈川宿には、1,300軒の宿屋や飯屋が軒を並べ、芸者衆も600人いたようです。明治5年(1872)には鉄道が開通します。当時の横浜駅は、現在の桜木町駅にあったようです。鉄道開設のために神奈川湊は埋め立てられました。それでも東京湾越しに房総半島を望む神奈川宿は、京浜随一の景勝を誇っていたようです。

なかでも田中屋は、200畳敷の座敷を擁する神奈川宿随一の大店として繁盛したようです。加えて田中屋には、大きな利点がありました。英語に堪能、大酒飲みで男勝りの仲居がいたことで、外国人が多く集まったと言います。仲居の名前は「おりょう」、坂本龍馬の妻です。龍馬の名が世間に知られるようになったのは、明治後期のことです。当時は、龍馬の妻として世間に知られていたわけではないでしょうが、西郷隆盛、勝海舟等、幕末の志士や明治政府の重鎮たちが田中屋を使うようになります。龍馬死後、高知はじめ各地を転々としていたおりょうを田中屋に紹介したのも、勝海舟だったようです。おりょうは、京都の医者の娘で学もあり、わがままな面があったことから、海援隊の生き残りの間でも評判は良くなかったようです。仲居としても、実に使いにくい人だったと聞きました。

横浜が、国際貿易港として発展していくなか、神奈川宿は、忘れ去られていきます。二階から釣り糸が垂らせたという眼前の海は、すっかり陸地化され、今は、商業ビルやマンションが立ち並びます。店の脇に残る急な階段だけが、かつての海辺の崖を偲ばせます。田中屋は、大戦中の空襲時にも焼けずに生き延びています。この家にには何か力がある、と五代目女将が言っていました。74歳になるという女将は、田中屋の娘で、永らく海外に暮らしていましたが、後継ぎの兄が急死したことで、急遽、呼び戻され、家を継いだと言います。パワーポイントで豊富な資料を用いて、田中屋の歴史を話してくれました。横浜で最も古い店で、神奈川宿を歴史を宿す建物に対して、横浜市は、何の理解も支援もしてくれない。それどころか、木造建築禁止区域として、改築さえ許さない、と憤っていました。

田中屋の前は、旧東海道ですが、「台の坂」と呼ばれる坂道になっています。広重の浮世絵のとおり、やや急な坂道ですが、いい風情の坂道だと思います。ただ、現在、坂の両側はマンションだらけ。マンション街の谷間にひっそり佇む田中屋は、いささか侘しげにも見えます。店には、龍馬がおりょうさんに宛てた直筆の手紙が飾られています。おりょうさんは、この一通を除き、すべて焼き捨てたと語っています。店をやめる時、世話になったと、残していったそうです。田中屋には、他にも明治初期の着色写真など、貴重な資料が多く残っています。横浜市ではなく、その名の由来ともなった神奈川県が、文化財として保護すべきではないかと思います。(写真出典:restaurant.ikkyu.com)

川上