2021年2月14日日曜日

「この茫漠たる荒野で」

監督: ポール・グリーングラス  原題:News of the World  2020年アメリカ

☆☆☆+

2016年、全米でベスト・セラーとなったシャーロット・ジルスの「News of the World」の映画化。1870年、家族を殺され、カイオワ族の一員として育てられたドイツ系移民の少女を、新聞の読み聞かせを生業とする退役軍人が、彼女の親戚のいるテキサス南部まで送り届けるという話です。ゆっくりとしたテンポが心地よい西部劇です。この映画を、一言で申しあげるならば、「ザ・トム・ハンクス・ムービー」ということになります。トム・ハンクスの魅力と存在感だけで映画が成立していると言っても過言ではないでしょう。加えるとすれば、少女役のヘレナ・ゼンゲルの魅力です。言葉が通じず、いつも仏頂面の少女が、ラスト・シーンで見せる笑顔は最高です。この笑顔を見るためだけでも、この映画を見る価値があります。よくこんな少女を見つけたものだと感心します。

インディアンにさらわれ育てられた白人少年の実話がベースにあるようです。少年は、結局、言葉を覚えず、親戚にも見放され、疎外感のなかで死んだようです。西部各地で、人を集め、一人10セントで、新聞を読み聞かせるという商売も実際にあったようです。新聞社が乱立し始めた時代ですが、鉄道網もまだ十分ではなく、西部で新聞は貴重だったのでしょう。もちろん、移民が多く、識字率も低かったため、成立していた商売だと思われます。南北戦争から5年後、まだ北軍に占領支配されている敗戦国テキサスが舞台。主人公のキッド大尉は南軍の復員兵であり、戦争の傷を引きずっているという設定が、実に効果的だと思います。原作では、主人公を取り巻く環境は、もう少しこみいっていますが、シンプルな翻案が成功しています。

監督のポール・グリーングラスは、北アイルランドの”血の日曜日事件”をドキュメンタリー・タッチで描いた「ブラッディ・サンデー」で、ベルリン映画祭の金熊賞をとっています。その後、アクションもので確かな腕を見せています。この映画には、自然、あるいは自然と共存する人々へのリスペクトがベースにあります。ワイドな画面に映し出される西部の荒野は、確かに”茫漠たる”ものですが、慈しみをもって描かれています。それが、ゆったりとしたテンポと相まって、良い効果をあげています。所々、カメラを振るあたりにアクション映画の癖が出ており、やや気になりました。

それにしても、この重たい邦題は、一体、どうしたんでしょう。原作のタイトル "News of the World" は、単に主人公の生業に寄せただけではなく、作者の多くの想いが詰まっているように思えます。例えば、Newsは、ニュースばかりでもなく、少女にとっての New World であったり、少女を通して主人公が見出す New World であったりもします。ただ、日本で公開する映画のタイトルとしては、内容がイメージしにくいことは理解できます。同じ理由で、邦題と原題が、大きくかけ離れているケースは、ままあります。とは言え、ベスト・セラーの映画化の場合には、もう少し原題を尊重すべきではないかと思います。

馬車に揺られながら、主人公と少女は、お互いの言葉を教え合います。主人公は、白人について「「我々は直線的に考える」と表現します。一方、カイオワ族は、大地、空、精霊、祈り、すべてを「環」として捉えることを知ります。この映画には、アメリカの歴史、あるいは西部開拓史に関わる、実に多くのファクターが散りばめられています。フロンティアが壊してきたもの、あるいはフロンティアによって失われたものの長いリストのようにも思えます。(写真出典:newsoftheworldfilm.com)

2021年2月13日土曜日

貸本屋

 高校1年生の夏、蓄膿症の手術のために、2週間ばかり入院しました。体は健康なので、もう暇でしょうがない。次から次へと文庫本やマンガ本を読みますが、マンガ本などは、あっと言う間に読み終わります。病室には、10ばかりのベッドが並び、すべて埋まっていました。一番若い私が退屈しているのを見て、お兄さんたちがマンガ本を貸してくれました。いわゆる「貸本」でした。既に貸本屋は廃れつつあり、家の近くになかったこと、大人向けという印象もあり、それまで利用したことはありませんでした。

貸本屋の歴史は古く、江戸初期までさかのぼります。寺子屋の普及で、読み・書き・そろばんのできる庶民が増え、読書も一般化していきます。紙の生産量も増え、印刷技術も向上したことから書籍の供給も増えたようです。ただ、庶民が気軽に買える値段ではなかったようで、江戸初期には貸本屋が登場しています。後には行商スタイルの貸本業も始まったようです。以降、明治から大正、昭和中期に至るまで、永らく庶民の読書文化を支えたのは、貸本屋だったのでしょう。後のレコード・レンタル、ビデオ・レンタルの先祖とも言えます。

戦後、青年層を対象とする貸本専用の書下ろしマンガが登場し、貸本の世界はマンガが主力になっていきます。昔、マンガ雑誌と言えば、子供向けがほとんどだったのに対し、青年向けは、この書下ろしの貸本が主力であり、劇画と呼ばれるようになります。60年代後期には、いわゆる劇画ブームが到来し、劇画雑誌も続々発刊されます。貸本の書下ろしを描いていた漫画家たちが活躍する時代になりました。劇画雑誌で、印象に残るのは「ビッグコミック」、「ガロ」、「COM」の三誌です。それぞれ、さいとう・たかお「ゴルゴ13」、白戸三平「カムイ外伝」、手塚治虫「火の鳥」と、歴史に残る傑作が連載されていました。

「ねじ式」
世界は、ヴェトナム戦争、反戦運動、文化大革命、日本は、高度成長、全共闘時代と騒がしく、中学2~3年生だった私は、多感な時期でもあり、劇画に大人の世界を感じたものです。特に強烈な印象を受けたのは、ガロに掲載されたつげ義春の「ねじ式」でした。なんじゃ、これは、の一言につきます。そのシュールで虚無的な世界は、いつまでも、いつまでも、頭の中に残っていました。「ねじ式」は、高度成長のひずみを象徴していたとも言え、全共闘世代の大学生から絶大な支持を受けます。かつて劇画の主な読者は、貸本を利用する勤労青少年だったわけですが、ここへ来て低年齢化も進み、大学生、大卒サラリーマンへと拡大しました。貸本から始まり、貸本屋を潤した劇画ですが、ブーム化し、雑誌化されることで、逆に貸本屋を衰退させました。

少年少女向けだったマンガ雑誌も、ターゲット層の拡大をはかり、「明日のジョー」や「巨人の星」といった時代を反映した傑作も登場します。近頃の若者は、マンガばかり読んで、本を読まなくなった、と批判されたものです。かつて若者は、青春文学から多くを学んだのでしょうが、我々の世代は、マンガから多くを学んできたとも言えます。廃れた貸本屋は、一般書店へと業態を変えた店が多かったようです。文学は売れなくても、マンガ雑誌がよく売れ、書店はいい時代だったと思います。(写真出典:prtimes.jp)

2021年2月12日金曜日

梁盤秘抄 #13 Congolese Funk

アルバム名:Congolese Funk, Afrobeat & Psychedelic Rumba 1969-1978      アーティスト名:Verckys & L'orchestre Veve

西アフリカを代表するポピュラー音楽と言えば、フェラ・クティのアフロ・ビートを別とすれば、ハイライフとルンバ・コンゴレーズといったところでしょうか。ハイライフは、第二次世界大戦後、ガーナで、上流階級用クラブのダンス音楽として始まったとされます。ビッグ・バンドから始まり、後にギター・バンドへと幅を広げます。軽やかなギター・アンサンブルに男性コーラスが特徴的です。ハイライフは、近隣諸国にも広がり、西アフリカのポップの主流となり、ルンバ・コンゴレーズやアフロ・ビートにも影響を与えました。

ルンバ・コンゴレーズは、ギタリストのフランコが、キューバのソンをベースとしたコンゴのダンス音楽スークースとジャズを融合して生み出したとされます。ソンは、世界的にルンバと呼ばれますが、英語のSong との混同を避けるために命名されました。キューバのソンは、ジャズやサンバと同じく、西アフリカ音楽とヨーロッパ音楽の出会いによって生まれました。コール&レスポンスやダンス・パートの存在が特徴と言われますが、様々なスタイルがあります。いずれにしても、西アフリカの音楽が、キューバへ渡り、そしてヨーロッパ経由で、コンゴに先祖帰りしたわけです。

1960年、ベルギーから独立したコンゴ共和国は、その後、ザイール共和国、そして現在はコンゴ民主共和国と国名を変えています。独立直後から、ベルギーが介入した内乱、いわゆるコンゴ動乱がはじまります。65年にはモブツが大統領に就任、以降、32年間の独裁が始まります。60年代は、アフリカの時代と呼ばれ、多くの国が独立しました。政治的な混乱もありましたが、若い国は躍動感にあふれ、音楽も、また新しい世界を切り開いていました。フランコのルンバ・コンゴレーズも、その一つと言えます。そして70年代に入ると、新しいアメリカの文化が入ってきます。

フランコのバンドに在籍していたギタリスト、ヴェルキースは、古いルンバ・コンゴレーズに飽き足らず、独立して自らのバンド”Verckys & L'orchestre Veve”を結成します。ロックやファンクを取り入れた力強いサウンドを展開します。ジェームス・ブラウンも、ヴェルキースのサウンドに触発され、リミックスを作ったと言われます。本アルバムは、ヴェルキースの70年代ベストを集めたものです。同じ時期、ナイジェリアでは、フェラ・クティがアフロ・ビートを展開し始めていました。煮えたぎった鍋の蓋を開けたように、西アフリカのファンク・シーンが花開き、多くの才能が活躍しました。コンゴの首都である大都市キンシャサが、新しい音楽を生んだとも言えます。キンシャサは、アフリカのポップ音楽の中心地となっていきます。

「キンシャサの奇跡」とは、1974年、キンシャサで行われたヘヴィー級タイトル・マッチで、モハメッド・アリがジョージ・フォアマンをKOして成し遂げた奇跡の復活劇を指します。このタイトル戦に合わせて、ジェームス・ブラウンはじめアメリカの黒人音楽家たちによる「ザイール’74」というフェスがキンシャサで開催されています。その模様はドキュメンタリー映画「ソウル・パワー」(2008)で見ることができます。地元からは、フランコとタブー・レイ・ロシュローも登場しています。当時のキンシャサの様子も興味深く、ホテル前でハイライフを演奏するバンドがいい味を出していました。(写真出典:amazon.co.jp)

2021年2月11日木曜日

湯ごり

近鉄・榊原温泉口駅
日本三大名湯は、有馬、草津、下呂とされます。根拠は、室町時代、京都相国寺の詩僧・万里集九が、その詩文集「梅花無尽蔵」に記載しているから、と言われます。おおよそ三大〇〇というのは、基準があいまいなものですが、皆が認める有名どころといった意味でしょうか。出典の古さという基準であれば、記紀に登場する日本三古泉というのがあります。有馬、道後、白浜です。また、和泉式部の「枕草子」には「湯はななくりの湯、有馬の湯、玉造の湯」とあります。”ななくり(七栗)”とは、三重県の榊原温泉です。

いわゆる「美人の湯」といわれる温泉は、湯ざわりが、多少、ぬるっとしているように感じます。これは、お湯にぬめりがあるわけではなく、お湯に含まれるアルカリ成分や炭酸水素ナトリウム成分が、古い皮膚を溶かす効果があり、それがぬめりを感じさせているようです。ですから、湯上りには、肌がすべすべになっており、美人の湯と称されるようです。私が知り得る限り、このぬるぬる感が最も強いのが榊原温泉です。榊原温泉の湯質は、アルカリ性単純泉であり、しかも高アルカリ泉だそうです。そういう意味では、最強美人の湯として、もっと有名であっても良いと思うのですが、現実はそうでもありません。

江戸後期の温泉番付「諸国温泉功能鑑」は、勧進元に日本最古の紀伊熊野本宮の湯(湯の峰温泉)、行司に津軽大鰐の湯・紀伊熊野本宮の湯・伊豆熱海の湯を配し、両大関には有馬・草津が並びます。90ヵ所を超える温泉が載っているにも関わらず、榊原温泉は登場していません。青森の山奥の嶽温泉まで載っているのに、清少納言推薦の温泉が不掲載とは合点がいきません。こんないい湯が、東京であまり知られていないのは何故か、と松坂の人に聞くと、かつて反社会的勢力が入り込み、客足が遠のいたことがある、と聞かされました。なるほどとも思いましたが、千年の湯にあっては、ごく最近の一時期の話に過ぎません。

榊原温泉が、見事な湯質に比べ、知名度がいまいち低いのは、恐らく古来からの位置づけが関係しているのでしょう。榊原温泉は、伊勢神宮を詣でる際の垢離場(ごりば)、いわゆるお清めの場所でした。もちろん、長旅の汚れを落とし、疲れを癒すという意味合いもあったと思いますが、あくまでもお参り前のお清めであり、お伊勢参りの一部だったのでしょう。地元では「宮の湯」と呼ばれていたそうです。また、榊原という地名は、伊勢神宮で使う榊の産地であったことに由来すると言います。江戸期、湯治がブームになると、榊原温泉にも、湯治場が作られたことがあったようですが、いわゆる温泉街もありません。

鎌倉後期の私撰和歌集「夫木和歌抄」のなかに「よの人の  恋の病の  薬とや  七栗の湯の  わきかえるらん」という歌があることから、榊原温泉は、「恋の湯治場」とも呼ばれるそうです。面白いチャッキコピーですが、つける薬はないといわれるのが恋の病。さすがに功能のほどを問う人は、昔からいなかったと思われます。さらに言えば、ターゲットが狭く、集客力に欠けるコピーと言わざるを得ません。まぁ、実際、恋煩いの人ばかりが集まり、ため息をついている温泉場を想像すると、やや気色悪いものがあります。(写真出典:ja.wikipedia.org)

2021年2月10日水曜日

せまじきものは宮仕え

松王丸
国立小劇場で、人形浄瑠璃「菅原伝授手習鑑」の寺入り、寺子屋の段を見てきました。熱演に目頭が熱くなりました。歌舞伎も含め、何度か見ていますが、やはり日本人の心情に訴える傑作だと思います。歌舞伎では、忠臣蔵、義経千本桜と並んで、最も上演回数が多い作品だと言われます。菅原伝授手習鑑は、近松門左衛門の浄瑠璃「天神記」をもとに、初代竹田出雲等が合作し、1746年、竹本座で初演されています。当時、三つ子の誕生が話題になっており、早速、脚本に取り込んだようです。菅原道真の「梅は飛び 桜は枯るる 世の中に 何とて松の つれなかるらん」という歌に基づき、三つ子の名前と性格付けがなされています。

名セリフ「せまじきものは宮仕え」は、寺子屋の段における武部源蔵のセリフ。浄瑠璃は、当時の大阪方言で演じられます。「せまじき」は「すまじき」であり、宮仕え、つまり組織の一員として働くもんじゃない、といった意味になります。菅丞相(菅原道真)は、藤原時平に謀られて失脚します。菅丞相の一番弟子ながら訳あって勘当され、今は寺子屋を開く武部源蔵は、菅丞相の七つになる息子菅秀才を匿います。それを知った時平は、菅秀才の首を差し出せと迫ります。首実検は松王丸に任されます。松王丸は、菅丞相の領民の三つ子の次男。菅丞相に恩あるものの、今は時平の家臣。

武部源蔵は、その日、寺入り(入門)したばかりの小太郎を、菅秀才の身代わりに殺め、首を差し出します。首を検めた松王丸は、菅秀才に間違いなしと言い切ります。時平の手勢が引き上げた後、松王丸夫妻が白装束で寺子屋に現れます。実は、小太郎は、松王丸の実子、身代わりになることを言い含めて、寺入りさせたのでした。小太郎が、にっこり笑って首を差し出したと聞いた松王丸は、「出かしおりました。利口な奴、健気な奴」と泣き崩れます。「せまじきものは宮仕え」は、教え子を身代わりにせざるを得ない状況に、源蔵が言うセリフですが、菅原伝授手習鑑を貫く主題かも知れません。

これを封建制批判と理解する人たちがいるようです。あるいは滅私奉公を旨に高度成長を支えた会社員象に重ねる人たちもいます。残念ながら、それらは、あまりにも表面的な見方だと言わざるを得ません。もちろん、人は、菅原伝授手習鑑の理不尽な状況や親子の深い情に涙します。しかし、その背景にあるものは、組織と個人、公と私、という普遍的なテーマだと思います。連帯を求めて生きる人間にとっての宿命的な課題です。人間のアイデンティティに関わる根源的な問題です。だからこそ、菅原伝授手習鑑は、時代を超えて、人々に受け入れられてきたのだと思います。

話はフィクションですが、武部左衛門尉治定、後の源蔵は実在の人です。菅原道真の所領園部の代官であり、道真が大宰府へ流されるおり、幼い弟とも庶子とも言われる慶能の養育を託されたと言われます。源蔵は、慶能を慰めるために道真の木像を彫ります。道真の客死後、木像は霊廟に祀られ、後に神社のご神体となります。ご神体が道真存命中に彫られたことから、生身(いきみ)天満宮と呼ばれ、日本最古の天満宮として、園部に現存しています。境内には、武部源蔵の墓もあります。神社は、今に至るまで、代々、武部家が宮司を務めているようです。(写真出典:bunka.go.jp)

2021年2月9日火曜日

ズート・スーツ

Kid Creole
1980~90年代、NYを中心に活躍した”キッド・クレオール&ココナッツ”は、結構、好きなバンドでした。ラテン、ディスコ系の大編成バンドですが、ブラス・セクションやパーカッションが特徴的で、何よりもザ・ココナッツと呼ばれるバック・コーラスとダンスを担当する女性3人組が目立っていました。82年にヒットした「Stool Pigeon(密告者)」は大好きな曲で、今でもよく聞きます。40年代のビッグ・バンドのテイストを好み、ド派手なズート・スーツはキッド・クレオールの代名詞でした。カールスモーキー石井が、キッド・クレオールに刺激され、米米クラブを結成した話は有名です。

ズート・スーツは、やたら長いジャケットに幅の広いラぺ、超幅広でウェストと裾を絞ったパンツが特徴です。大体、つばの広い帽子がセットされます。マンガから飛び出したようなデフォルメされたスーツです。発祥は、1920年代のNYハーレムと言われます。ズートという言葉は、ジャズ演奏の際、観客が入れる合いの手を意味し、ジャズマンが着用し始めた奇抜なスーツも、ズート・スーツと呼ばれるようになったようです。流行したのは1940年代で、ミュージシャンやギャング、特に黒人やチカーノが好んで着用したと言われます。とてもお上品とは言えない服で、チンピラたちがイキがって着るような服でした。ズート・スーツは、アメリカの歴史の中で、ただ一度だけ法律で禁止された服としても知られます。

1942年、戦時生産局は、無駄に多くの服地を使うズート・スーツを贅沢品として禁止しています。他にも生地を多く使う服はありそうなものです。恐らく黒人の遊び人たちへの嫌がらせだったのでしょう。また、1943年、LAで、チカーノと海軍基地の海兵たちのいざこざが、襲い襲われの大喧嘩へとエスカレートします。チカーノが好んで着用していたことから、海兵はズート・スーツを着ていれば誰でも襲うようになります。この騒動の間、警察は、海兵には構わず、チカーノだけを逮捕します。この差別的対応がチカーノの暴動を誘引しました。この暴動は、ズート・スーツ暴動と呼ばれ、LA当局はズート・スーツの着用を禁止します。

黒人やチカーノの間で、ズート・スーツが流行した背景には、都市部への流入が続いた有色人種が、大きなコミュニティを形成し、独自の社会や文化を形成し始めたということがあります。ズート・スーツは、激しい人種差別と貧困への憤りの現れであり、明日が見えない若者たちの鬱憤の現れであり、そして芽生え始めた白人に対する対抗意識の現れでもあったのでしょう。ちなみに、LAの若い日系人の間でも、ズート・スーツは流行したそうです。ズート・スーツは、アメリカ黒人による差別との戦いの歴史のなかに位置付けるべきアイテムだと言えます。

不思議だな、と思うのは、日本のツッパリが好んで着用した長ランと呼ばれる学生服や特攻服なども、皆、ジャケットの丈が長いのが特徴です。ズート・スーツにも通じます。常識的で伝統的なジャケットをデフォルメして着るということは、社会や既存の価値観への反抗を意味しています。その際、派手な色使いという手もありますが、丈を長くする方法は、比較的容易なアプローチだと言えます。世界には、ズート・スーツや長ランの仲間が、もっとありそうな気がします。(写真出典:essential-records.cm)

2021年2月8日月曜日

「カミーユ」

監督:ボリス・ロジキン  2019年フランス

☆☆☆

2014年、中央アフリカで殺害されたフランスの報道写真家カミーユ・ルパージュを描いた映画です。カミーユは、中央アフリカの惨状を、世界に伝えたことで知られます。ドラマというよりはセミ・ドキュメンタリーに近く、カミーユの存在を伝えるために作った映画と言えます。カミーユが残した多くの写真が使われ、それを現地ロケで忠実に映像化しています。カミーユの足取り、銃撃時の状況等については、証言も多く、すべて正確に把握されていますが、殺害者については不明のままです。殺害された時、カミーユは、まだ26歳。キャリアは短いものの、彼女の写真は、多くの雑誌に掲載され、注目される若手写真家でした。

中央アフリカは、人口450万人の小国であることもあり、その惨状が日本で報道されることは、ほぼありません。1960年にフランスから独立しますが、クーデターが相次ぎ、政情が安定することはありませんでした。2012年、政権を奪取したイスラム系のセレカと、これに対抗するキリスト教系のアンチ・バラカという二大勢力による内戦が勃発します。その後、停戦、民政化も行われますが、いまだ内戦状態が続いています。人口の10%が犠牲となり、25%が国内外で難民状態にあります。中央アフリカは、世界で最も貧しい国とされています。

戦場写真家は、戦場から戦場へと渡り歩きます。報道写真家は、ニュースのある場所からニュースのある場所へと渡り歩きます。カミーユは、違いました。キャリア初期には、南スーダンで活動しますが、そこで中央アフリカの状況を知って以降は、なかば中央アフリカに定住して撮影し続けました。実際、中央アフリカのニュース・バリューが落ちた時、新聞社からウクライナ行きを打診され、断っています。プロの世界では、あり得ない判断だと思います。そういう意味では、職業的な報道写真家とは言えなかったようにも思います。むしろ、人道アクティビストと呼ぶべきなのかも知れません。

中央アフリカで、親しい現地の友人が殺され、ショックを受けたカミーユは、故郷アンジェへ戻ります。家族に癒され、友人と夜遊びします。しかし、もはやそこは自分のいる場所ではないという思いが募り、前述のとおり、新聞社からのウクライナ取材のオファーも断り、中央アフリカへ戻ります。自らが成すべき使命がそこにある。あるいは、自分の存在を証明できるのはそこだ、という強い思いなのでしょう。戦場写真家たちも、どれだけ痛い目にあっても、何故か、必ず戦場に舞い戻ります。仕事だからではなく、より強い刺激を求めるからでもなく、使命感と一体化した自分の存在証明がそこにあるからなのでしょう。

高校の先輩に、ピュリッツアー賞受賞の戦場カメラマン沢田教一がいます。UPI社のカメラマンとして、1965年からヴェトナム戦争を取材し、70年、プノンペン郊外で銃撃され、亡くなりました。ピュリッツアー賞を受賞した「安全への逃避」は、銃火のなか川を渡る母子の緊迫した表情が、戦争の悲惨を雄弁に伝えます。この写真は、全米で大きな反響を呼び、ヴェトナム戦争反対運動が本格化したとも、戦争終結を2年早めたとも言われます。一枚の写真が、世界を変えることもあります。ただし、多くの場合、その背景には、写真家の命を懸けた取材があることを忘れてはならない、ということなのでしょう。(写真出典:imdb.com)

サンティアゴ・デ・クーバ