2020年5月4日月曜日

神の島

昨年春、初めて久高島へ行くことができました。何度か、斎場御嶽(セイファーウタキ)から遥拝させていただいた神の島。一度、行ってみたいと思っていました。安座間港からフェリーで15分ほどで久高島につきます。その朝、空は厚い雲に覆われていたのですが、島に着くと、ウソのように晴れ渡ります。さすが神の島。観光地化されていないこともあり、島のガイドは必須。1時間半程度のガイド・ツアーに参加しました。

久高は、琉球の創造神アマミキヨが降り立った島であり、理想郷ニライカナイから毎年訪れる神々が上陸する島。小さな島の大層は、低木の原生林。神の島ゆえ、手付かずとのこと。東側の道は未舗装。神々が通る道だからとのこと。神の島を守るため、土地は、村人の共同所有となっていました。重要な御嶽等は、いまだに立ち入り禁止です。かつて尚王が聞得大君(神女ノロの長)を伴って礼拝した御殿庭では、12年に一度のイザイホーが行われていました。島の女たちが神女になるための儀式ですが、78年を最後に行われていません。非公開だったため、奇祭中の奇祭と言われていました。66年に撮影された記録フィルムですら、公開されたのは最近のことです。

一番驚いたのは、聞得大君が、今もいるということです。第二尚王朝は、明治政府の琉球処分で、450年の歴史に幕を閉じます。ただ、祭事を仕切るために、聞得大君は脈々と任命されているというのです。昨年春の時点では、尚王家の末裔であるカバヤ製菓の会長夫人が務めておられました。ただ、その方は、昨年秋に亡くなられ、同じく尚王家末裔の方が聞得大君に任命されたようです。

那覇からの現地ツアーに参加したのは、私ともう一人、上海に長いこと単身赴任中というおっさん。ガイド兼ドライバーは、バルセロナ出身の青年。奇妙な取り合わせの三人で、ガイド・ツアー終了後、名物ウミヘビの燻製のスープをいただき、自転車を借りてサイクリングしました。アマミキヨが降臨したハビャーン(カベール岬)まで続く道の白さが印象的でした。

老妓抄

私は、どうもコレクターとしての素質に欠けるようです。例えば、読んだ本を書棚に並べることはしません、すぐ手放します。それでも増えるのが本です。そのなかに、たまに読み返すために取ってある本もあります。岡本かの子の「老妓抄」もその一つ。90年前の短編ですが、評価も人気も衰えないようです。初めて読んだのは、高校三年の夏。その夏は、日に一冊の本を読みました。およそ30冊読んだなかで、いまなお気になる本はこれだけです。

岡本かの子は、最晩年の数年だけ小説家として活躍します。その作風は、耽美、妖艶と言われますが、彼女の奔放な個人生活に影響された評価だと思います。むしろ、歌人、仏教研究家であったことが作風を形成していると思います。言葉の美しさもありますが、むしろ独特で詩的な表現が文体を作り、リズムの良さが歌人らしさを感じさせます。最も大きな特徴は、題材の如何を問わず、お香のような穏やかさが作品に漂っていることです。それを諦観と見る人もいるでしょうが、むしろ対象を見つめる仏教的静謐さだと思います。

 年々にわが悲しみは深くして いよよ華やぐいのちなりけり

有名な老妓抄巻末の歌です。ある人は「生への執着」あるいは「生きる希望」と受け取り、またある人は「女の性」と読みます、私は、彼女の仏教感が、この歌に凝縮されているのではないかと思っています。諸行無常、一切皆苦という現実を受け入れ、而今を切に生きる。思いのままにならない世の中の、一瞬一瞬を精一杯生きることが修行であり、それが悟りにもつながる、という修証一如の考え方なのではないでしょうか。それが「老妓抄」がにじませる人生観だと思います。また、岡本かの子の多様な短編の世界に共通する彼女の目線のように思います。

岡本かの子の生き方にも、相通じるところがあります。多くの愛人、夫と愛人との同居生活、常人には理解し難い世界ですが、一瞬一瞬を懸命な正直さをもって生きるという姿勢の現れとも思えます。その極端な純粋さは、息子太郎にも受け継がれたのでしょう。
                                                  写真出典:港区


2020年5月3日日曜日

アロハ・オエ

私は、ハワイの空気が大好きです。とても人にやさしい空気だと思います。ホノルルの朝ほど気持ちのいい朝はありません。やさしい空気に漂うハワイ・コナの甘い香り、トロピカルな鳥たちのさえずり、そして遠くに聞こえるたおやかなハワイアン。ハワイアンを代表する曲と言えば、やはり「アロハ・オエ」。ハワイ王朝最後の女王リリウオカラニの作詞作曲。去って行く恋人を思う気持ちを、ハワイの自然に託して歌う美しい曲です。

ただ、この曲は、米国に滅ぼされたハワイ王国を恋人に擬しており、リリウオカラニによるアメリカ批判の歌だとも言われます。カメハメハ1世が、白人から得た武器でハワイを統一、ハワイ王国を開いたのが、1795年。その後、英国の干渉を阻止した米国が影響力を強め、外国人による土地所有が認められると、島の大層を米国人が所有するに至ります。1874年、国王選挙を制し即位したカラカウア王は、米国による支配強化と戦います。カラカウアは、世界一周も行っています。各国に移民促進を要請する旅でしたが、国際関係をもって米国を牽制することもねらっていたと言われます。

世界一周の際、カラカウアは日本も訪問し、明治天皇に移民促進と王室の婚姻を提案しています。婚姻は拒否されますが、移民は大規模に実施されました。1887年、カラカウアの努力むなしく、米国人の圧力によって悪名高き「銃剣憲法」が公布されます。王権は著しく制限され、有権者はほぼ米国人で占められます。王朝崩壊の始まりでした。カラカウアの後を継いだのは妹のリリウオカラニでした。リリウオカラニ女王は、兄王の意思を継ぎ、王国復権をめざしますが、1893年、米国海兵隊の武力的圧力に屈し、ハワイ王国は終わりを迎えます。海兵隊展開の理由は「自国民の安全確保」今も昔も変わらぬ常套手段です。

アメリカのフロンティアとは西へ西へと行くことです。アメリカ・インディアンを殺し、メキシコ人を追い出し、ひたすら土地を奪いながら太平洋に到達します。その後、アメリカに残されたフロンティアは、ハワイ、そしてアジアだったわけです。
                                                                                                                       リリウオカラニ女王   出典:Wikipedia

2020年5月2日土曜日

都の西北

駅伝は、不思議なスポーツです、走っている時は明らかに個人競技ですが、襷一本で究極のチーム・スポーツになります。一本の襷には、母校の伝統・名誉、そして先輩、同期、後輩たちの熱い想いが込められています。ご多分に漏れず、私も箱根駅伝の大ファンです。特定の大学を応援しているわけではありませんが、とにかく熱くなります。箱根駅伝に関する数々の逸話のなかで、最も好きなのが昭和29年の第30回大会、早稲田のアンカー昼田選手の話です。

早稲田は、5区山登りを制し、往路優勝を果たします。復路では、途中、順位を落としますが、9区で1位に返り咲き、そのまま10区アンカーの昼田選手に襷がつながります。快調に飛ばす昼田選手でしたが、増上寺手前の田村町付近で突然の失速。脱水症状であることは明らか。名将中村監督は、激を飛ばしますが、もはや目もあけられない昼田選手の状態に、たまらずサイドカーを降り、並走を始めます。

監督の手が選手にかかればレースは棄権。沿道を埋めるファンは、いつ監督が手をかけるかと見守っていました。ところが、中村監督は並走しながら、早稲田の校歌「都の西北」を歌っていたのです。沿道は、涙を流しながら大声で声援する人々であふれたと聞きます。昼田選手は、フラフラと前に進みます。意識はなくとも、練習で鍛えた体は何をすべきか知っていました。なんとか大手町に1位でゴールした昼田選手は、そのまま失神しました。

襷に込められたチームの想いが、昼田選手の体を動かしていたとも言えます。何度聞いても、この話には泣かされます。組織主義を信条に戦ってきた昭和のサラリーマンは、どうしても駅伝に会社生活を重ねてしまうのです。「人は、組織への貢献のなかでしか育たない」とはドラッカーの言。昨今、企業もガバナンスの時代を迎え、組織至上主義の弊害が目立つようになりました。しかし、企業にとって、チーム・スピリットの重要性は何ひとつ変わるものではありません。今も昔も、駅伝ほど日本人の心にしっくりくるスポーツはない、と確信するところです。
                                        早大中村清監督  出典:jijicom

またたび

昔、新潟県西山町(現柏崎市)の田中角栄記念館に行き、角さんが、実家で朝食を食べながら、中越を語るというビデオを見ました。江戸に米山三郎という侍がおった。冬の最中、御用で長岡まで旅をすることになった。三国峠で吹雪にあい、力尽きて倒れこんでしまった三郎であったが、気が付くと、目の前に木の実がある。思わず手を伸ばし、これを口に含むと、あら不思議、体中に力がみなぎり、また旅を続けることができた。以来、これをまたたびと呼ぶ、と言って、またたびの漬物を口に入れます。

真っ赤なウソです。ただ、なるほどと思ってしまいました。実に見事な話術。あっという間に話に引き込まれます。さすが大物政治家は違うものだと思いました。中越の老人たちは、角さんのことをアニヤンと呼びます。皆、判で押したように「アニヤンは、人の話をよく聞いてくれた。」と言うのです。そんなわけありません。若くして大臣になり、派閥を率いた角さんは、多忙を極め、農民の話など、聞いている暇はなかったはずです。

おそらく、よく聞いてもらった、と思わせる術に長けていたのだと思います。心ここにあらずで、聞いてるふりだけの人は、すぐに分かりますし、感じの悪いものです。角さんは、人に会う時、例え短時間であっても、しっかり相手に正対し、しっかり目を見ていたのでしょう。本当は、話なんか聞いていないのかもしれませんが、相対する姿勢が大きな違いを生んだのだと思います。田中角栄は、演説の名人以上に、聞くことの達人だったと言えます。それが政治の本質であり、歴史的得票数に結実したのでしょう。

角さんの秘書だった早坂茂三は、河合継之助、山本五十六、田中角栄を「怨念の系譜」と書きました。雪深い山間の地である中越は貧しい土地。戊辰戦争のおり、長岡は、薩長に二度も焼かれました。必然性に乏しい戦でした。中越の歴史とそこに暮らす人々の心情が分かっていなければ、聞くことの達人も生まれていなかったように思えます。

ところで、私は、田中角栄記念館でビデオを見た後、館内のギフトショップでまたたびの漬物を買ってしまいました。おいしくもなく、体に力がみなぎることもありませんでした。実に貧しい食べ物だなと思いました。
                                                                                         田中角栄 右後ろは秘書早坂茂三       出典:toyokeizainet
     

2020年5月1日金曜日

ペダリ・マッコリ

昔、韓国の親密会社が、ソウルの高級料亭で接待してくれるというので、コンベエやバクダン酒の嵐を回避しようと、私はマッコリが大好きだと事前に伝えてもらいました。これが、先方を結構困らせた、という話を後に聞きました。マッコリは大衆酒、場合によってはミネラル・ウォーターよりも安いのです。高級料亭には置いていません。また、遠来の客に失礼がないほど高価なマッコリも存在しません。迷惑をかけてしまいました。

朝鮮戦争のおり、金日成が、秘密裏に38度線を越えます。まっすぐ向かった先が京畿道高陽だったと言われます。そこは有名なぺダリ・マッコリの生産地。金日成は、これが飲みたくて戦争を始めたのではないか、という話まであります。このぺダリ・マッコリは、のちに「大統領のマッコリ」と呼ばれるようになります。朴正熙大統領のお気に入りだったからです。以来、青瓦台に納められる唯一のマッコリだとも聞きました。

1999年、現代グループ総帥が、平城に金正日を訪問した際、金正日は、手土産に、このマッコリを所望します。親から、うまいと聞かされていたのでしょうね。金正日なら、いくらでも密輸できそうなものですが、生マッコリは鮮度が命。複雑なルートでは、難しかったのでしょうね。翌2000年、金大中が平城に歴史的訪問を果たします。空港に出迎えた金正日と抱擁しながら、言葉を交わします。読唇術者によれば、この時、金正日は「あれは持ってきたのか?」と言っているそうです。ぺダリ・マッコリのことに違いない、と韓国の人々は思っているそうです。

数年前、親密会社の皆さんとへイリ芸術村で昼食をした際、またマッコリで迷惑をかけてしまいました。わざわざ早起きして、高陽まで行って、ぺダリ・マッコリを買い、持ち込んでくれたのです。上品な甘さと酸味、比較的スッキリとした飲み口。正直、美味しかったです。金王朝三代目もお好きでしょうかね?
                                        ぺダリ・マッコリ  出展:丹醸&スペペ


メンフィス・サウンド

かつてニューヨークは「人種のるつぼ」と呼ばれましたが、まるで溶け合っていないので、近年は「人種のサラダボウル」と言われます。本当のメルティング・ポットに近い街もあります。その一つがテネシー州メンフィスだと思います。

メンフィスを舞台としたHBOシリーズ「クオーリー」(2016)にハマりました。70年代、メンフィスと聞いただけで、傑作間違いなし。マックス・アラン・コリンズ初期の小説が原作。アメリカの矛盾を詰め込んだ脚本、抑えた演出、渋めの俳優もいいのですが、時代を感じさせる空気感がとても良い。そして、何よりもメンフィス・サウンドをキッチリ絡めている点がうれしい。オーティス・レディングのアルバム「オーティス・ブルー」に至っては、プロットの一つにさえなっています。

メンフィスは音楽の街です。同じテネシー州ナッシュビルは、カントリーのメッカ。対してメンフィスは、ブルーズ、R&B、カントリー、ロックンロールの街です。ゆかりのミュージシャンを挙げれば、キリがありません。ロバート・ジョンソン、W.C.ハンディ、マディ・ウォーターズ、オーティス・レディング、BBキング、アイザック・ヘイズ、そしてエルヴィス・プレスリー。メンフィスがメルティング・ポットである明らかな証拠は、プレスリーとサザン・ソウルにあります。

幼少期のプレスリーは、黒人街で育ちます。プレスリーの体のなかで、カントリーとR&Bが自然に融合し、ロックンロールが生まれます。サザン・ソウルは、ノリが良く、田舎くさく、ちょっと白っぽいところが特徴です。サザン・ソウルの本拠地スタックス・レーベルの専属バックバンドは、ブッカーT&MG’S。ギターのスティーブ・クロッパー、ベースのドナルド・ダック・ダンは白人。オーティスの名曲「ドック・オブ・ザ・ベイ」は、オーティスとスティーブ・クロッパーの共作です。異なる文化が出会う時、新しい文化が生まれます。メンフィスが、メルティング・ポットたり得た理由は、黒人人口が6割を超えていたからです。逆だったとしたら、何も生まれなかったはずです。

2012年、スティーブ・クロッパーとドナルド・ダック・ダンの来日ライブに行きました。歳も歳だから、これが聞き納めかもよ、と友人たちを誘い、でかけました。Time is Tight、Green Onionといった懐かしい曲で大盛り上がり。そのライブから2日後、都内のホテルで、ドナルド・ダック・ダンは亡くなりました。
                                                                                                                   オーティス・レディング   写真出典:amass

川上