2026年9月29日火曜日

サンティアゴ・デ・クーバ

ブルー・ノートで、キューバを代表するソンのバンド、セプテート・サンティアゲーロのライブを聴くことができました。パフォーマンス・レベルが極めて高く、満員の場内は大盛り上がりでした。キューバも、ブラジルと同様、一度行ってみたい国でした。もし行けたならハバナだけだけでなく、サンティアゴ・デ・クーバへも出向き、本場のソンに浸ってみたいと思っていました。政治状況等もあって行けていませんが、向こうから本物のソンがやってきてくれたわけです。キューバ南東部に位置する港町サンティアゴ・デ・クーバは、人口は50万人、キューバ第2の都市です。天然の良港を持つ街は、キューバで最も古い歴史を持つ街でもあります。

サンティアゴ・デ・クーバは、1515年、スペインのコンキスタドールの一人ディエゴ・ベラスケス・デ・クエリャルによって開かれています。クリストファー・コロンブスの船団の一員だったベラスケスは、キューバ征服を任され、後にキューバ総督になっています。サンティアゴ・デ・クーバはコンキスタドールの拠点でもあり、ここからコルテスがメキシコ征服へ、デ・ソトがフロリダ征服へと向かっています。1553年に総督府がハバナに移ると、イギリスやフランスの襲撃を受け、一時期は海賊たちの拠点にもなっていたようです。19世紀初頭には、ハイチ革命の余波として、フランス人や自由奴隷が流れ込みます。つまり、サンティアゴ・デ・クーバは、自由思想も含め、実に多様な文化が交差していたわけです。そうした文化的背景からソンも生まれています。

セプテート・サンティアゲーロは、その名の通り、基本的には7人編成です。ソンのバンドは、1930年代に確立されたというトレス、ギター、ベース、トランペット、コンガ、パーカッション、ボーカルというセプテット構成が基本です。この7人編成が、完璧なソンの世界を聴かせてくれます。ただ、セプテート・サンティアゲーロは、伝統のセプテット形式を踏襲しつつ、ボーカルを2人にするなど臨機応変な編成をしているようです。当夜のボーカルは、ゲスト・シンガーも加えた3人体制になっていました。その演奏レベルの高さには驚かされました。シンガーは張りのある声でキレの良い歌を聞かせ、トランペットはハイノートで吹きまくり、コンガとパーカッションは躍動感あふれるリズムをたたき出し、トレスが情感たっぷりに曲を作っていきます。

まるで、サンティアゴ・デ・クーバのクラブにいるかのような印象を受けました。いつまでも聴いていたくなる演奏でした。スタジオ録音と変わらぬクオリティの高さは、音楽的にも、技術的にも完璧なパフォーマンスと言えます。と言うか、彼らにとっては、スタジオもライブも何一つ変わらないということなのでしょう。2年前、同じブルー・ノートで聴いたマリーザ・モンチのステージも完璧なパフォーマンスでした。ブラジルやキューバといった音楽が盛んな国のトップ・バンドは、厳しい競争を勝ち抜いた者たちで構成されているということなのでしょう。セットリストは、カンデーラやチャンチャンといった伝統的なソンが中心でした。テンポが変わっても、客が踊れる曲という基本は変わりません。MCは、スペイン語で押し通していました。お見事。

19世紀末の米西戦争では、この地でスペインは大敗し、結果、キューバは独立しました。ただ、その後、アメリカによる実質的支配が続くわけですが、1953年、フィデル・カストロ率いる反乱軍が、サンティアゴ・デ・クーバのモンカダ兵舎を攻撃し、革命戦争が始まります。1959年1月1日、カストロはサンティアゴ・デ・クーバ市庁舎のバルコニーからキューバ革命の勝利を宣言しています。ソンが生まれた街サンティアゴ・デ・クーバは、独立の地でもあり、革命の地でもあったわけです。その後、ソンは、マンボ、チャチャ、そしてサルサを生んでいくことになります。サンティアゴ・デ・クーバは、カリブ海の歴史における最も重要な街の一つと言っても過言ではないのでしょう。(写真出典:nishinippon.co.jp)

2026年9月27日日曜日

川上

人間国宝・二世野村万作は、御年95歳になる和泉流の狂言方能楽師です。2023年には、文化勲章を受章し、受章記念公演として「川上」を演じています。その舞台を記録した映画が「六つの顔」(2025)です。シネスイッチ銀座で長く上映していたのですが、タイミングが合わず 、未見でした。今般、ネット配信されたので、ようやく観ることができました。「川上」の舞台がメインですが、野村万作が自らの芸の道についても語っています。六つの顔とは、祖父、父、弟、本人の顔、そして「靱猿」の猿面、「釣狐」の狐面を指します。ちなみに、狂言は、猿に始まり、狐に終わると言われます。幼年期、靱猿の猿で初舞台、円熟期に入り釣狐の狐を演じるというわけです。ちなみに、野村万作の芸歴は90年を超えています。

しかし、野村万作にとって、「川上」はとりわけ重要な演目だったようです。幾度も演じ、芸の集大成かのように記念公演でも演じたわけです。川上は、少し風変わりな狂言です。吉野に住む盲目の男が、霊験あらたかとされる川上の地蔵菩薩に参詣し、目が見えるようになります。念願かなった男は、大喜びで里に帰ります。しかし、目をあけてもらうには条件がありました。妻とは悪縁なので別れなければいけないというのです。その話を聞いた妻は激怒し、地蔵をののしり、絶対に別れないと言いはります。ついには、夫も折れて、2人は連れ立って帰ります。そして、道の途中で夫の目は再び見えなくなってしまいます。2人はともに泣き、これも前世の因縁と思って嘆くまいと手を取り合って帰ります。

川上は、滑稽な話とも言えますが、人生の機微を語る仏教説話のような風情もあります。川上は室町期の作とされますが、作者は不明です。現代人にはシリアスな話に思えますが、室町時代の人々には、より滑稽な印象を与えていたのかもしれません。仏に救われるという面もありますが、典型的な仏教説話とも多少異なります。高望みなどせずに、今の生活に満足し、妻に感謝しなさい、と諭されているように思えます。龍安寺のつくばいで有名な「吾唯足知」という老子の言葉を思い出します。ただ、それを人々に分かりやすく、かつ深く伝えるには並外れて高い表現力が求められます。芸の道は厳しく、終わりというものがない世界です。盲目の男の歓喜、困惑、失望、悟りへと変化してゆく表情を演じきる野村万作の芸は至高というべきなのでしょう。

野村万作は、文化勲章を受章した年、奈良県川上村でゆかりの「川上」を上演しています。地元では、曲中の地蔵菩薩は、「投げ地蔵」と呼ばれる金剛寺の木造地蔵菩薩立像だとされているようです。役小角が、自ら彫った地蔵を大峰山から投げ、それが川上に降り立ったものとされています。川上村は、後南朝の自天王が殺害された南朝終焉の地でもあります。金剛寺では、自天王を偲ぶ「朝拝式」が600年絶えることなく行われています。併せ考えれば、狂言「川上」には、別な面が見えてくるように思います。自天王が殺害された長禄の変は、後南朝方が禁裏から奪った神器を、赤松氏の遺臣が川上村で奪還した戦です。1547年のことです。狂言「川上」の成立年は不明ですが、同じ頃だとすれば、後南朝の末路を語った曲ではないかとも思えてきます。

余談ですが、シネスイッチ銀座が、この10月、70年を超える歴史に幕を引きます。昨年、丸の内TOEIが閉館していますから、これで銀座から映画館が消えることになります。シネスイッチ銀座は、いわゆるミニ・シアター系の雄です。1989年に同館で公開された「ニュー・シネマ・パラダイス」が大ヒットし、ミニ・シアター・ブームを牽引したとされます。平面の床、やや高い位置のスクリーンという昔ながらの建付けは、いまや希少と言えます。有楽町・銀座界隈で開催される東京国際映画祭の会場の一つでもありました。映画祭も影響は免れないものと思います。今後のことは分かりません。恐らく跡地にはビルが建つのでしょうが、その一角にでも再オープンしてくれれば、と思います。(写真出典:oita-press.co.jp)

2026年9月25日金曜日

デザインの力

国立新美術館で開催中の「ピカソ meets ポール・スミス」展を見てきました。もともとは行くつもりなどありませんでした。ピカソ展としては凡庸なラインナップですし、いかに有名デザイナーとはいえ、展示室のレイアウトをいじったくらいでは面白くもないだろうと思っていたのです。ただ、親戚が連続で入選している二科展を見るために新美術館へ行ったので、ついでにピカソ展も覗くことにしました。というのも、その親戚がピカソ展を絶賛していたからです。展覧会というよりも、久々に見たピカソに感動していた様子でしたが・・・。いずれにしても、何の期待も持たずに展示室に入りました。ところが、いきなり驚きました。やられました。デザインのパワーを、まざまざと見せつけられました。

通常、美術展の展示レイアウトと言えば、限られたスペースに多くの絵画などを掲げることになります。キュレーターの工夫と言えば、テーマに沿った展示の順番くらいになるのでしょう。恐らく、キュレーターの皆さんは、日頃から、展示アイデアと制約条件の狭間で悶々としているものと思われます。そういう意味でも、今回の「ピカソ meets ポール・スミス」展は秀逸なアイデアだったのだろうと思います。キュレーターの夢だったと思われる”並べるだけではない展示”が、希代のデザイナーであるポール・スミスのブランド力をもって実現したわけです。各展示室が、絵画の色合い、テーマなどにインスパイアされたデザインになっています。例えば、青の時代の代表作「男の肖像」は、一面青く塗られた部屋に一枚だけ展示されていました。

陶器の皿を展示した部屋は興味深いものでした。展示室の三方には、何の変哲もない同じ白い皿が、壁を埋め尽くすように規則正しく掛けられています。正面の壁の中央にピカソの皿が数点掛けられています。他のピカソ展なら、隅のガラス・ケースに収められ、注目されることも少ないと思います。ポール・スミス流では、皿が注目されるだけでなく、展示室全体が一つのアートになっています。現代アートの世界では、展示室全体が作品化されることもありますが、クラシックな絵画の世界ではあり得ません。絵画の新しい楽しみ方とも言えます。一方で、ポール・スミスの解釈が押しつけられる、あるいは彼の作品化されるとも言えます。ただ、作品は完成した瞬間から作者の手を離れ独立した存在になるわけですから、それはそれで面白いと思います。

ポール・スミス、正しくはサー・ポール・スミスは、英国を代表するファッション・デザイナーです。ファッション・デザイナーとしては、ハーディ・エイミスに続いて2人目のナイトに叙されています。ポール・スミスは、1946年、ノッティンガムシャーに生まれ、24歳で自分の衣料品店を開いています。30歳でパリコレに参加し、1980年代にはロンドンの他に、東京やNYにも店を広げています。ファッション・デザイナーですが、ビジネスのセンスもなかなかのものです。また、実に多才な人でもあり、自動車、家具、内装、本の装丁、映画等々、多様な分野にデザインを展開しています。そのデザインは、”ひねりのあるクラシック”が身上とされます。ストライプは、彼のデザインの特徴の一つですが、一時期、日本でもカラフルなストライプの紙袋はトレンドでした。

「ピカソ meets ポール・スミス」展は、美術界に新しいトレンドを作るのではないかと思います。従来の点数を集めて開催する大規模展に加え、厳選された絵画を没入感あふれるレイアウトで見せる展覧会も流行しそうです。当初は、ブランド力のある画家や有名デザイナーとのコラボレーションが主体となるのでしょう。今回、会場のすべてが写真撮影可能になっていました。ここがヒットするための大きな要因になるのだろうと思います。森美術館では「ロン・ミュエク展」が、高額な入場料にもかかわらず、会期を延長するまでの大ヒットになりました。つまり、”映える美術展”ということで、美術界もSNSの影響は無視できないわけです。それはそれで、美術ファンを増やすという意味で結構なことだとは思いますが、行き過ぎには要注意です。(写真出典:artscape.jp)

2026年9月23日水曜日

博多の串焼き

近年、博多名物として知られるようになったのが「とりかわ串」です。焼き鳥屋の鶏皮は美味しいのですが、珍しくもないメニューです。名物と言われてもピンときませんでした。ところが、博多のとりかわ串は、独特な焼き方で、その美味さは中毒性すらあります。一般的な焼鳥では、切った鶏皮を串に刺して焼きます。とりかわ串は、首あたりの皮を伸ばして、串にグルグル巻き、一晩、二晩、タレに漬け込んでから、表面をカリッと焼き上げています。香ばしく、うま味があって、かつクドくないので、本当に何本でも食べられます。とりかわ串は、1971年頃、博多の小さな焼鳥屋で古賀貞己が考案したとされます。鶏皮嫌いの娘に、鶏皮を美味しく食べさせたいと思い、試行錯誤した結果と聞きます。

博多の串焼きと言えば、なんといっても、豚バラです。これも、とりわけ珍しいものではありません。ところが、博多の豚バラ串は、なぜか美味いのです。過日、四ツ谷で、炭火を使った博多焼鳥の店へ行きました。とりかわ串は合格点でした。ただ、豚バラ串は、美味しいのですが、博多のものとは違いました。博多の豚バラ串の特徴の一つは、肉の赤身と脂身のバランスです。ちょうど半々くらいのイメージです。その店のバラ肉のバランスは博多風だったのですが、肉が厚すぎました。博多では、肉が適度に薄く、焼き上がりがカリッとしています。薄めにしていることは、焼き上がりを早くする工夫でもあるのでしょうが、余分な脂を落とし、かつ、うま味を閉じ込める効果があるものと思います。もちろん、火力の強い炭火で焼くことは大前提です。

また、近年は、野菜巻き串が、新たな博多名物になっています。レタス、青ネギ、アスパラ、トマト、えのきといった野菜を、豚バラや牛肉で巻いて串に刺し、焼いたり蒸したりします。ヘルシーでインスタ映えするというので、若い女性からブームに火が着いたと言われます。博多の屋台で、変わり串として出す店もあったようですが、ブームを先導したのは「ねじけもん本店」とされます。もともとは東京の店だったようですが、本場の博多で勝負したいと、15年ほど前に出店し、ブームを巻き起こしました。アスパラ豚などは古典的とも言えますが、レタス豚、青ネギ豚、プチトマト豚などは、もはや定番と言えます。店によっては、様々な新しいアイデア串が提供されています。ただ、野菜巻きのポイントは、厚過ぎず、薄過ぎずという肉の厚さにあると聞きます。

福岡県の焼鳥屋は、総数、人口10万人あたりの数、ともに全国トップです。その背景の一つには、鶏肉にこだわらない串焼の文化があるのだろうと思います。そして、その文化を生んだのは、間違い無く屋台の文化なのでしょう。狭い屋台での調理には限界があります。あらかじめ串打ちしておき、注文が入れば焼くだけという串焼は、実に屋台向きのメニューと言えます。豚バラ串は、絶妙な厚さ、強い炭火、赤身と脂身のバランスなど、まさに屋台ならでは環境が生んだ逸品なのでしょう。また、福岡市は屋台の数も全国一です。現在は100軒程度ですが、ピークだった1960年代には400軒を超していたようです。その競争の激しさが絶品の串焼を生んだとも言えそうです。

博多の友人は、博多の焼鳥消費量が多い最大の理由はキャベツだと言い切っています。博多で串焼の店に入ると、まず、酢ダレがかかった生のキャベツが出てきます。お通しなのかサービスなのか判然としませんが、とにかく、だまっていても出てきます。通常、おかわりし放題です。一串食べて、キャベツをいけば、口もさっぱりして、次の串を美味しくいただけます。また、次の串の出が遅い場合にも、キャベツでもたせられます。確かに、酢ダレがかかった生のキャベツは、串焼きの消費拡大に貢献しているように思えます。このスタイルは、1964年、博多の「天下の焼鳥 信秀本店」の創業者・安岡英雄が始めたとされます。大阪の串揚げ屋のキャベツにヒントを得たようです。もはや、キャベツは名脇役から準主役に出世したようにも思います。(写真出典:tabelog.com)

2026年9月21日月曜日

「オデュッセイア」

監督:クリストファー・ノーラン    2026年イギリス・アメリカ

☆☆☆☆ー

ここまでのところ、今年、最も期待され、最も評価され、最も稼いだ映画ということになります。クリストファー・ノーランの最高傑作という声もあります。原作の「オデュッセイア」は、「イーリアス」と並ぶ古代ギリシャの二大叙事詩であり、ホメロス作とされます。もちろん、原作のすべてのエピソードを取り込んでいるわけではありせんが、ストーリーのフレームは原作に忠実なものになっています。そのうえで、現代的解釈が大胆に加えられています。映像、演出の巧みさも含めて、さすがクリストファー・ノーランだと思います。ただ、原作のモティーフの多さが禍したのか、監督がテーマとしたところへの収束がやや乱れているように思います。 

クリストファー・ノーランがテーマとしたのは、大雑把に言えば、互いを尊重することによって、世界は平和を取り戻せる、ということなのでしょう。トロイの木馬は、有名な話ですが、物証も文献もないため、事実とは確認されていません。ただ、シュリーマンが遺跡を発掘したことから、トロイの存在だけは、ほぼ証明されています。クリストファー・ノーランは、トロイの木馬を欺瞞の始まりとし、以降、人類は互いにリスペクトすることを忘れ、今に続く混乱が生み出されたと言っているのでしょう。ゆえにオデュッセイアはじめギリシャ軍は帰国に苦労し、帰国しても苦難が待ち受けていたというわけです。映画のなかで、オデュッセイアは記憶が回復するとともに、そのことに気付き、無意識に帰国することを避けているのかもしれないことが暗示されています。

そのテーマを訴求するための重要なモティーフとしているが、”ゼウスの掟”です。一般的にはクセ二アと呼ばれますが、古代ギリシャ社会におけるおもてなしの概念です。客人や旅人はゼウスに守られている、あるいは姿を変えたゼウスであると信じられており、おもてなしをすることはゼウスに従うのと同じとされたわけです。オデュッセイアの妻・ペネロペに求婚するために集まった数十人は、主のいない城で数年間にわたり饗応を受けます。オデュッセイアの息子テレマコスは、父の情報を求めてスパルタに行き、王に歓待されます。クセニアを現代的に理解すれば、他者の存在を認めることであり、他者をリスペクトすることなのだろうと思います。オデュッセイアは、それを悪用して、トロイの木馬を作り、トロイの神殿と街と人々を壊滅させたわけです。

オデュッセイアが帰国できないのは、息子を殺されたポセイドンのせいだとされます。しかし、ポセイドンの怒りとは、とりもなおさず人間の欺瞞であり、人間は自ら自分の首を絞めていたわけです。映画のなかで、ゼウスやポセイドンといった神々は、直接的に姿を現わしていません。これこそ、まさにクリストファー・ノーランが、テーマを訴求するためにねらった演出なのでしょう。また、ギリシャの人々が、その来襲を恐れる「海の民」も、ギリシャ人自身の欺瞞を意味しているのでしょう。映画の中で、しばしばオデュッセイアが見る幻影としてゼンデイヤ演じるアテナが登場しますが、オデュッセイア自身の葛藤を象徴しているのでしょう。また、シャーリーズ・セロン演じるニンフ・カリュプソは、オデュッセイアの犯した罪から逃れたいという欲求を現します。

クリストファー・ノーランの映画では、いつも音楽が重要な要素となっています。今回も同様です。通常の古代劇ならば、荘厳なオーケストラの劇伴で盛り上げるところですが、本作では、あえて電子音楽に古楽器を乗せた音楽が使われています。ホメロスの現代的解釈、あるいはクリストファー・ノーラン的理解であることを強調しているのでしょう。あるいはホメロスの原作への敬意なのかもしれません。いずれにしても、今回の音楽は饒舌に過ぎるように思いました。むしろ、叙事詩としては、劇伴を抑え、無音と効果音を巧みに使うべきだったのではないかと思います。ハリウッドの俳優を使っていることにも、多少、疑問を感じました。また、世界一の美女ヘレネー役にルピタ・ニョンゴを起用していることには、やや驚かされました。監督の意図が伝わる攻めたキャスティングです。(写真出典:eiga.com)

2026年9月19日土曜日

晩成社

依田勉三
豚丼は大好物です。新橋の「豚大学」、御茶ノ水の「豚野郎」にはよく行くのですが、北海道では新千歳空港で食べるばかりで、本場の帯広で食べたことがありません。豚丼の発祥は、1933年、帯広の大衆食堂「ぱんちょう」とされます。創業者の阿部秀司が、戦争と不景気にさいなまれる庶民が手軽に栄養を取れるよう考案しました。味は、皆になじみのあるうな丼を参考にしたと言われます。豚肉を使ったのは、十勝地方で養豚が盛んだったからです。十勝の養豚は、十勝開拓の祖と言われる依田勉三の「晩成社」に始まります。依田勉三は、4頭の豚を連れて十勝へ入植しています。「牛は牛乳、馬は馬力、豚は食料」という依田勉三の言葉も残されています。

本格的な北海道開拓は、1869年(明治2年)、開拓使、後の北海道開拓使の設置に始まります。本庁は札幌に置かれ、函館、根室、宗谷、浦河、樺太に、出張所、後の支庁が配置されます。すべてが沿岸部であり、内陸部には配置されていません。開拓使設置の主な目的が対ロシア防衛強化だったからです。当時、ロシアが樺太に兵士と移民を送り込んでおり、対抗上、北海道開拓が急がれたわけです。当初の開拓要員は、戦闘能力を有する士族と屯田兵でした。その後、労働力として囚人たちも送り込まれます。明治中期になって、民間団体や一般個人の入植が始まります。依田勉三率いる晩成社が十勝に入ったのは、1883年(明治16年)でした。民間としては極めて早かったわけです。入植当時の十勝は手つかずの山林や原野が広がるばかりだったようです。

開拓は、山林や原野の開墾から始まります。広大な地域の伐採、抜根を行い、そのうえで土を掘り起こして細かく砕き、農地を作っていきます。とんでもない重労働の日々です。しかも、その間、作物の収穫はなく、食糧はほぼ持ち込むしかないわけです。晩成社の開拓は、悪天候、イナゴの大量発生、鳥獣害に見舞われ、当初2年間、ほとんど何も収穫できなかったようです。そこで依田勉三は、開拓の軸を農作から畜産に移します。そこで商品化されたものの一つが”マルセイバタ”です。帯広の六花亭の大ヒット商品”マルセイバターサンド”が、十勝開拓の祖へのオマージュであることはよく知られています。十勝は、いまや日本の食糧基地とまで呼ばれます。農作、畜産、そして入植者の増加まで、十勝のすべての基礎が晩成社の開拓にあったと言われます。

ただ、晩成社の経営は苦しく、依田勉三が亡くなった翌年の1932年、解散に追い込まれています。それにしても依田勉三という人の情熱と不屈の精神には驚かされます。依田は、伊豆・松崎の豪農の家に生まれ、東京で英国人の塾に学んだ後、慶應義塾に入学しています。福沢諭吉の影響もあり、依田は北海道開拓を目指すようになります。福沢諭吉は、北海道開拓を重視し、依田以外にも多くの門下生を北海道に送り込み、自らも開拓に出資しています。今さらながらに、福沢諭吉と慶應義塾が日本の近代化に果たした役割の大きさに感心させられます。依田は、病気のために慶應義塾を中退しますが、故郷で準備を進め、1881年には、単身、調査のために北海道に渡ります。さらに準備を進めた依田は、1883年、13戸27人を率いて十勝に入植しています。

晩成社の入植前後には、開拓団が相次いで入植しています。1879年には、北海道開進会社が株式で資金を集め、函館、札幌方面での開拓を目指しますが、失敗しています。その後、兵庫県の赤心社が浦河へ、徳島県の興産社が札幌篠路へ、石川県の起業社が岩内へ、新潟県の北越殖民社が江別へと入植しています。また、キリスト教、日蓮宗、金光教、天理教など宗教団体による開拓団も入植しています。他にも各地の村落からの集団移住も少なからず行われています。人出と資本が必要とされる開拓ですから、集団で取り組む必要があったのでしょう。ただ、個人の入植者も、1922年までの累計で200万を超えています。その大半が故郷で生計を立てることが困難になった人々だったようです。しかし、開拓に成功した者はごく限られ、現在、北海道に暮らす人々の多くは成功者の子孫なのだと聞いたことがあります。(写真出典:town.matsuzaki.shizuoka.jp)

2026年9月17日木曜日

「シーモア・ハーシュ: 権力の闇に挑む男」

監督:ローラ・ポイトラス、マーク・オーベンハウス 原題:Cover UP 2025年アメリカ

☆☆☆+

ピュリツァー賞も受賞したアメリカのジャーナリスト、シーモア・ハーシュに関するドキュメンタリーです。ハーシュは、アメリカを、そして世界を動かすことになる多くのスクープをものにしたことで知られます。1970年のピュリツァー賞(国際報道部門)を受賞したソンミ村虐殺事件、1974年にはCIAの国内スパイ活動ケイオス作戦、同じ年、チリのアジェンデ政権転覆に関するCIAの関与、2004年にはイラン戦争時のアブグレイブ刑務所における捕虜虐待等の報道が有名です。また、ウォーターゲイト事件の報道においても重要な役割を果たしています。さらに、多国籍企業に関する調査報道は、後に日本を揺るがしたロッキード事件の発端になったことでも知られます。

監督のローラ・ポイトラスは、ドキュメンタリー「美と殺戮のすべて」(2022)で、ヴェネツィア国際映画祭金獅子賞を獲得した人です。写真家ナン・ゴールディンの生涯を通じて、オピオイドとその製造会社を追及した作品でした。ポイトラスは、2004年にハーシュにドキュメンタリー映画の企画を打診しますが、情報提供者を危険に晒す恐れがあることから断られます。ただ、情報提供者の多くが亡くなったことから、今般、映画化の許可が出たようです。企画から、実に20年越しの映画化ということになります。ハーシュは、秘蔵していたメモ、写真、映像、音声の一部の公開も認めています。ハーシュは、相当の覚悟をもって20年越しの映画化に臨んだのだと思います。インタビューの中で、一部の報道に誤りがあったことを認めている点も覚悟の現れなのでしょう。

ハーシュの調査報道の大きな特徴は、情報提供者の存在です。政府、CIA、軍、コングロマリット等が隠蔽しているものを、情報提供者を使って曝くことがハーシュのスタイルです。例えば、デイヴィッド・ハルバースタムは、事実の奥に潜む普遍的な真実を探求していきます。ハーシュの場合には、あくまでも事実を晒すことによって権力を監視することが目的になっています。いずれもジャーナリズムそのものなのでしょう。ドキュメンタリー映画も、ジャーナリスティックな性格を持っています。ハーシュがソンミ村虐殺事件を曝く過程を描き、権力、あるいは軍の本質に迫るならば、良いドキュメンタリー映画ができると思います。しかし、暴露型ジャーナリストの仕事をトレースするだけなら、映画としては実に平板なものになってしまいます。

あるいは、シーモア・ハーシュという希代の暴露型ジャーナリストを通じて、ジャーナリズムの本質を問いかけるという映画なら、随分と見応えのあるものになったいたはずです。そのためには、ハーシュの業績、あるいは事実を曝いていく過程だけではなく、記事がリリースされるまでのNYタイムス、ニューヨーカー誌内部、そして権力側の動きをより丁寧に映像化すべきだったのではないかと思います。そもそも監督の企図も、そこにあったのかもしれません。しかし、ハーシュのスクープの多さ、ハーシュが公開した資料の多さゆえに、過去の事実をトレースすることに汲々としてしまったのかもしれません。いずれにしても、本作は興味深いドキュメンタリーではありますが、前作「美と殺戮のすべて」を超える映画ではないように思えました。

映画を見ながら、気になったことの一つは、アメリカにおける内部通報者の多さです。日本でもコンプライアンス強化が叫ばれてから増加傾向にあるとは思いますが、アメリカの比ではないように思います。その違いはどこにあるのか気になりました。宗教に裏打ちされた道徳観の違いなのかもしれません。しかし、アメリカの歴史を築いてきた開拓民たちと権力=連邦政府=東部エスタブリッシュメントとの戦いの歴史が背景にあるように思います。それは制度的には、憲法や自治の伝統に反映され、合衆国という国の形となり、銃を持つ権利にもなっています。現象面では、今も福音派、ミリシア、MAGA派といった形で脈々と生きています。内部通報というアメリカの伝統にも、民主主義という壮大な実験に挑み続けるアメリカ社会が反映されているということなのでしょう。(写真出典:en.wikipaedia.org)

2026年9月15日火曜日

桜桃忌

漫画やアニメのことは、さっぱり不案内なのですが、「文豪ストレイドッグス」という人気漫画があり、アニメ、ゲーム、映画、舞台、小説へと展開しているようです。キャラクター化された文豪たちが、異能者として横浜で戦うというプロットらしいのですが、各人が持つ異能には代表作にちなんだ名前が付けられています。主人公は中島敦であり、月下獣という異能を持ちます。”山月記”に由来するのでしょう。太宰治は、人間失格という異能を持っています。このアニメが、数年前からアメリカで放送されると、太宰治が人気となり、本が売れ始めたというのです。これに目を付けた大手のペンギン・ブックスが太宰の作品を出版しはじめると、アメリカ、イギリスでブームの様相を呈し始めたというのです。 絶望とニヒリズムがZ世代にウケたとされています。

文豪ストレイドッグスでは、太宰治の趣味は自殺とされているようです。笑えます。太宰治は、1948年6月13日、玉川上水で山崎富栄と入水自殺しています。いわゆる心中です。2人の遺体が発見されたのが6月19日、太宰39歳の誕生日でした。短期間ですが、私は、三鷹、小金井に住んでいたことがあり、玉川上水あたりも散歩していました。大河というわけでもなく、とても入水自殺できるようなところには思えませんでした。2人の遺体は赤い紐で結ばれていたようですが、太宰は入水前に事切れていたのではないかという説もあります。というのも、山崎富栄は悶絶したような死に顔で、太宰は穏やかな表情をしていたというのです。いずれにしても、以降、6月19日は、太宰を偲ぶ“桜桃忌”とされ、毎年、三鷹の墓前には熱烈なファンが集っているようです。

桜桃忌に際し、太宰の墓石の刻銘に桜桃(サクランボ)を詰めるという風習は、昔から続いており、今も行われているようです。ところが、近年、墓前に飲みかけのビールやウィスキー、タバコの吸いさし等が、大量に残されているのだそうです。それらの片付けには手間暇がかかるものですから、津島家と三鷹市は、注意喚起の立看板や、場合によっては監視カメラの設置も検討しているようです。恐らく、近所の悪ガキの仕業ではなく、文豪ストレイドッグスを通じて太宰のファンになった若者たちがお供えしたものなのでしょう。故人が好んだものを墓前にお供えすることは、決して珍しいことではありません。ただ、墓前へのお供えは、持ち帰ることが常識です。そうした常識が文豪ストレイドッグスのファンには伝わっていないということなのでしょう。

確かに迷惑な話なのでしょうが、ファンの共感を示したいという気持ちも分かります。太宰と言えば、かつては高校生が一度は通過する麻疹のようなものと言われていました。アメリカで言えばサリンジャーの「ライ麦畑でつかまえて」も同じですが、読者は主人公に自分の姿を見るわけです。ただ、本を読む人が減っている現状からして、太宰を読む若者も少なくなっているはずです。太宰に限らず、経緯はどうあれ、若い人が文学に触れる機会が増えるのはいいことだと思います。思えば、近年の刀剣、囲碁、百人一首等のブームも漫画がきっかけでした。古くは、サッカーやバスケットボールも漫画が競技人口を増やしました。ただ、本当の太宰ではなく、あくまでも漫画のキャラクターのファンだという点は気になりますが、きっかけと考えればいいのでしょうが。

太宰治は、1909年、青森県の旧金木町の大地主・津島家に生まれています。旧制青森中学、旧制弘前高校を経て、旧東京帝大仏文科に入学するも中退しています。在学中から執筆活動を始め、作品は評価されますが、私生活は、麻薬中毒、多数の女性遍歴などと乱れます。太宰の作品は私小説と呼ばれます。当時の文壇の流行でもありましたが、自虐的に人間の弱さを描く太宰の作風にはピッタリだったのでしょう。太宰の特長として言及すべきは、文章の上手さだと思います。テンポの良さもあいまって、とても読みやすい文章になっています。それは、本を読まなくなった若者にとっては好都合なのだと思いますし、恐らく翻訳もしやすいのではないかと思います。太宰ブームなるものは、太宰の文章力によるところも大きいと思うわけです。(写真:銀座ルパンにて 出典:ja.wikipedia.org)

2026年9月13日日曜日

「反逆のサウンドトラック」

監督:ヨハン・グリモンプレ 原題:Soundtrack to a Coup d'Etat 2024年ベルギー・フランス・オランダ

☆☆☆

1960~65年に起きたコンゴ動乱が、過去の映像のみで描かれています。コンゴ共和国は、1960年、ベルギーの植民地から独立します。当時、アジア・アフリカでは、かつて植民地だった国々の独立が相次ぎ、それに伴う旧宗主国との利権争いも起こります。また、米国とソ連の東西冷戦が激化し、核兵器の開発競争や陣営の拡大競争が行われるという国際情勢下にありました。非白人勢力の拡大という意味では、米国内でも黒人の市民権運動が激化していました。映画は、そうした世界の動きを丁寧に拾っています。ちなみに、戦争は国家間の全面的武力衝突、内乱は国内勢力同士の全面的武力衝突を指します。動乱とは、暴力は伴うとしても、基本的には政治的混乱を指します。

コンゴ動乱を描く本作で違和感を感じた最大のポイントはジャズの扱い方です。ルムンバ首相殺害に抗議して国連に殴り込みをかけたアビー・リンカーンとマックス・ローチの逸話を挿入することは理解できます。ルイ・アームストロングがアフリカを音楽親善大使として巡回したことはよく知られています。ただ、それはCIAの隠れ蓑として利用されていました。これも有名な話です。サッチモの親善大使の描き方はやや冗漫だと思いました。要は、アメリカの黒人たちの状況とアフリカの植民地の状況をリンクさせて伝えたかったのでしょう。ただ、そのために、他のジャズ・ミュージシャンやマルコムXを登場させる必要があったとは思えません。過去のフィルムだけで構成される本作に、リズムやダイナミズムを与えるための方策のようにしか見えません。

コンゴ動乱の展開は実に複雑です。まずは、ルムンバ率いる民族主義者が独立を勝ち取ります。アジア・アフリカで過熱する脱植民地の動きに呼応していました。コンゴの独立は認めたものの、旧宗主国ベルギーは、利権の温存を図ります。南部カタンガでは、ベルギーに支援されたチャンベが分離独立を宣言します。国際的批判をかわすべくベルギーは、自国兵ではなく傭兵を投入します。ルムンバの要請を受けた国連も、国連軍を投入します。しかし、事態は打開されず、ルムンバはソ連に接近します。アメリカは、ウラン等の豊富な地下資源がソ連に渡ることを恐れ、モブツ参謀長を支援しクーデターを起こさせます。逮捕されたルムンバは、カタンガに送られ、殺害されます。事態を収めるべく現地に飛んだ国連事務総長ハマーショルドも謎の死を遂げます。

他にも、親米派の大統領カサブブと首相ルムンバとの対立、多様な民族間の対立、毛沢東主義者の登場等もあり、事態は混迷を極めます。映画は、複雑な状況のトレースに挑戦し、かなりうまく整理していると思います。ただ、事態の展開を追うことに汲々として、事の本質を見失いがちのように思えます。監督の手腕にかかわる問題ではなく、それほどコンゴ動乱は複雑だったということなのでしょう。基本線は、民族主義とベルギー・アメリカの横暴ということだと思います。さらに言えば、傭兵も大きな問題だと思います。このあたりにフォーカスしないと、ドキュメンタリー映画としての思想や主張は見えにくくなってしまうわけです。プロットの展開に苦慮した監督がたどり着いた結論がジャズを使うことだったのでしょうが、うまくいっていません。

1965年、モブツが二度目のクーデターに成功し、コンゴ動乱は収束、独裁の時代を迎えます。反対勢力を武力で抑えたモブツの独裁は1997年まで続きます。この間、モブツは民族主義を掲げ、国名をザイール、首都のレオポルドビルをキンシャサに改名しています。なお、現在の国名はコンゴ民主共和国になっています。さて、キンシャサと言えば、”キンシャサの奇跡”と呼ばれた1974年の世界ヘビー級タイトルマッチ、モハメド・アリ対ジョージ・フォアマンの一戦が思い起こされます。マルコムXの影響を受けて兵役を拒否した世界王者アリは、タイトルを剥奪されていました。一方のフォアマンは無敗の絶対王者でした、結果は、アリの8ラウンドKO勝ち。蝶のように舞い、蜂のように刺す、と言われたかつてのアリではありませんでしたが、クレバーなボクシングが世界中を沸かせました。また、この時、ザイールの人々がアリを応援して連呼した“Ali Bombaye(リンガラ語で、アリ、やっちまえ)”は、アントニオ猪木がアリから贈られた入場曲としても知られることになります。(写真出典:bunkamura.co.jp)

2026年9月11日金曜日

死の商人

グラバー
死の商人とは、軍需品を生産、販売する企業や個人を指します。多くの犠牲者を生む戦争で利益をあげることから、こう呼ばれます。また、利益の源泉である紛争や戦争が起こるように暗躍するとも言われ、これが死の商人と呼ばれる理由の一つでもあるのでしょう。かつて、死の商人として知られていたのは、ノーベル、クルップ、デュポンなどの大手軍需産業の経営者たちでした。なかでも、アルフレッド・ノーベルは、新聞に死の商人と書かれたことを気にしてノーベル賞を設立します。皮肉なことに、それがノーベルを最も有名な死の商人にしたように思えます。ただ、近年、死の商人とは、おおむね違法な軍需品取引を行う武器商人を指します。

武器の生産や販売は、国家や国際法によって厳密に管理されています。ただ、需要と供給がある限り、闇取引は無くなりません。近年、最も有名な武器商人と言えば、映画のモデルにもなったロシアのビクトル・ボウトなのでしょう。ソ連の軍人だったたボウトは、ソ連崩壊後、東欧からアフリカや中東への武器密輸を始めます。2008年、米国のおとり捜査によってタイで逮捕され、米国内の刑務所に収監されます。しかし、2022年、麻薬所持でロシアに拘留されていたバスケット選手ブリトニー・グライナーとの囚人交換でボウトはロシアに帰国します。ボウトは、ロシアの情報機関と連携していたとされますが、事実なのでしょう。ロシア帰国後は地方議員になりますが、2024年、イエメンのフーシ派への武器密輸に関係していると報道されています。

日本初の武器商人は、安土桃山時代の堺の豪商・今井宗久とされます。千利休、津田宗及と並ぶ茶道の天下三宗匠の一人でもあります。織田信長の信頼を得て、天下一の豪商になったことで知られます。今井宗久は、鉄砲、弾薬、刀剣等を商っていたわけですが、あまり死の商人というイメージはありません。今井宗久が茶人だったからか、闇取引ではなかったからか、あるいは紛争拡大を画策し売上を伸ばそうとしたようには見えないからかもしれません。 日本で活躍した武器商人のなかで、死の商人とも言えそうなのが、スコットランド人のトーマス・ブレーク・グラバーではないかと思います。グラバーは、造船・採炭・製茶貿易を通じて、日本の近代化に貢献したことで知られます。また、言うまでもなく、その屋敷跡は長崎の観光名所でもあります。

グラバーは、艦艇や武器の輸入を行ったことでも知られます。薩長とも幕府とも取引をしていますが、戊辰戦争における薩長側の武器の7割がグラバーによって供給されたとも言われます。そもそも戊辰戦争の必要性に関しては議論のあるところです。後付けの理由は様々あるにしても、薩長が抱き続けた関ケ原の恨みは根強いものでした。これを大きな商機とみたグラバーが、陰に日向に開戦を煽ったとも言われます。グラバー商会は、アヘン貿易で財を成した香港のジャーディン・マセソン社の代理店でした。英国は、内戦の混乱に乗じて日本を植民地化するというねらいを持っていたともされます。また、坂本龍馬を暗殺したのは見廻組なのでしょうが、グラバーが黒幕という説もあります。公武合体を唱え始めた坂本龍馬は開戦の妨げになりかねなかったからです。

戊辰戦争が1年という短期間で収束したことは、グラバーと英国にとっては大きな誤算でした。薩長には錦の御旗があり、徳川慶喜には戦う意志がなく早々に降伏したことが主な要因だと思います。必然性に欠ける内戦だったからかもしれません。また、グラバーが薩長に供給した最新の武器が威力を発揮したとも言えそうです。しかし、戊辰戦争直後、武器が余り、売掛金の回収が滞ったことからグラバー商会は倒産しています。グラバーも、今井宗久と同じく、死の商人と呼ばれることはありません。肩入れした薩長が勝利したからとも言えますが、内乱が早期に終結したことも大きな要因だと思います。しかし、グラバーの実態は、その後に現れる死の商人たちとなんら変わるところがないように思えます。(写真出典:serai.jp)

2026年9月9日水曜日

テンションの追求

メアリー・ハルヴァーソン
ブルー・ノートで、 初めてメアリー・ハルヴァーソンのライブを聴き、いささか驚きました。近年のジャズの新しい傾向の中では異彩を放つ見事な演奏でした。メアリー・ハルヴァーソンは、ダウンビート誌で、ここ9年間連続で、全米No.1ギタリストに選出されています。小柄で、地味な服装と髪型は、地方大学の文学部の先生といった風情です。実際、彼女はNYのニュー・スクール大学の講師も務めています。また、2019年には、天才賞とも言われるマッカーサー・フェローシップも受賞しています。今回が、初来日であり、自身のアマリリス・セクステットを率いての登場でした。彼女はMCを全て日本語で通していました。頭のいい人なのでしょう。

ジャズの歴史は、ヨーロッパ音楽と西アフリカ音楽が融合して生まれたニューオーリンズ・ジャズ、ないしはデキシーランド・ジャズに始まるとされます。20世紀初頭のことでした。黒人たちの北部への大移動が始まると、ビッグバンドによる都会的なダンス音楽スウィングが生まれ、大人気を博します。1940年代以降、スウィングがマンネリ化してくると、少人数編成のコンボで即興演奏を中心とするビバップの時代を迎えます。ビバップは、ハード・バップ、クール・ジャズ、モード・ジャズ等へ展開し、いわゆるモダン・ジャズの時代が始まります。マイルス・デイビスのモード奏法以降、モダン・ジャズはスリリングなテンションを追求する音楽となり、その延長線上にフリー・ジャズも登場します。現代人の不安定な心情が表現されているのだと思います。

1970年代になると、電子楽器やロック・テイストの導入され、いわゆるフュージョン主流の時代になります。ジャズの新しい形として人気を博す一方、時代に媚びていると批判され、ジャズは終わったとも言われました。マイルス・デイビスが先導したフュージョン化ですが、実は彼のトランペットの演奏は何も変わっていなかったと思います。マイルスは、新たなテンションの表現を求めただけなのだろうと思います。また、フュージョンは、ジャズの多様性を生み出すきっかけにもなりました。つまり、クロスオーバーという発想が、オーセンティックなジャズの世界から、ミュージシャンの個性を解き放ったのではないでしょうか。ロック系、ソウル系、スムース・ジャズ、民族系、室内楽的ジャズ、モダン・ビッグバンド、そしてポストバップと多様化が進みます。

近年、主流になってきたのが、ネオ・ソウル系と室内楽的ジャズのように思います。室内楽的というのは私の勝手な印象ですが、要は高度なテクニックを前提に、実によくコントロールされたジャズという意味です。スナーキー・パピーが代表格だと思います。音楽としての完成度は極めて高いと言えます。ただ、印象的にはジュリアードの優等生が超絶テクニックを披露しているだけで、何を表現しようとしているのか、さっぱり伝わりません。例えて言うなら、スーパー・リアリズムの絵画のようなものです。ところが、メアリー・ハルヴァーソンは、まったく異なる道を進んでいるように思います。ジャンルにこだわらないスタイルは、結果的に今風だと言えますが、テンションの表現に関しては実に独創的です。室内楽的ジャズとは似て非なるものだと思います。

ハルヴァーソンは、モードやフリー・ジャズが求めたテンションを、現代的なアプローチで表現しようとしているように思います。ハルヴァーソンは、1980年、ボストン郊外で生まれています。ジミ・ヘンドリックスを聴いてギターを始めたようですが、アンソニー・ブラクストンに出会い独自の音楽を指向するようになりました。アンソニー・ブラクストンは、フリー・ジャズの演奏家ですが、現代音楽の作曲家としても知られます。ブラクストンは、フリー・ジャズ・シカゴ派の重鎮です。アルトサックスのソロだけで録音されたアルバム「For Alto」は、フリー・ジャズの金字塔の一つです。シカゴ派のフリー・ジャズは、現代音楽に近く、知的で、よく構成されていました。室内楽的ジャズもハルヴァーソンも、ともにシカゴ派の血を継承していると言えるのかもしれません。しかし、テンションを追求するというスピリットにおいては、ハルヴァーソンこそが正統なのでしょう。(写真出典:rollingstonejapan.com)

2026年9月7日月曜日

仁川

仁川港
東京への人口集中は頭の痛い問題であり、首都移転が議論され、一部官庁の地方移転も行われています。大都市圏への人口集中は、世界中、どこでも起こっている現象です。経済や文化の格差の存在、官庁、有名大学、大企業の集中が、その背景にあります。なかでも激しいのは韓国だと思われます。日本では人口の約3割が首都圏に集中しています。対して、韓国では人口の約半分がソウル首都圏に集まっています。日本との違いを生んでいる最大の理由は財閥にあると思います。韓国では、財閥系企業グループが、GDPの8割を占めています。韓国では経済成長のために財閥を保護育成する政策を採ってきたことが背景にあります。

財閥は、思い切った経営判断や資本の集中投下といった利点もありますが、経済格差、学歴社会、地域格差等を生みやすいという問題もあります。韓国の場合、儒学の影響や科挙の歴史が、こうした問題を助長している面もあります。ソウル市への人口集中に関しては、1990年代からドーナツ化現象も進行しているようです。不動産の高騰が背景にあるのでしょう。ソウル市からの脱出先の一つが仁川市ということになります。漁村だった仁川はソウルの外港でもありました。韓国の経済成長とともに港湾機能も拡張され、2001年には仁川国際空港もオープンしました。また、同時に首都圏電鉄の各路線でソウルに直結されたことからベッドタウンとしての役割も担うようになります。人口300万人は韓国第3位ですが、釜山を抜くのは時間の問題とも言われます。

かつて、仁川といえば、朝鮮戦争時、マッカーサー元帥によって敢行された仁川上陸作戦で有名でした。干満差の激しい仁川湾での上陸作戦は、成功確率1/5000という実に危うい作戦でした。これを成功させたマッカーサーは、北朝鮮軍を中国国境の鴨緑江まで追い詰めます。世界の軍事史に残るほど見事な成功だったと言えます。近年、仁川といえば、国際空港ということになるのでしょう。かつて韓国の玄関口と言えば、金浦空港でした。ソウル中心部に近くて便利ですが、経済成長とともに手狭になり、2001年、アジア有数のハブ空港として仁川国際空港がオープンしました。ハブ機能に着目したランキングによれば、仁川空港は、クアラルンプール空港に次いでアジア第2位になっています。以降、羽田、シンガポール・チャンギ、スワンナプーム(タイ)と続きます。

近年の仁川を象徴しているのは、埋立地に築かれた広大なインダストリアル・パークです。港湾・空港・高速道路・鉄道が集中する利便性の高さが特徴です。東京ドーム約205個分の敷地に8,000社が集中する南洞国家産業団地、先端技術系が集まる松島国際都市などが有名です。仕事で松島国際都市に滞在したことがありますが、広い敷地には、高級ホテルや高級ゴルフ・クラブもありました。一つ気になることがありました。仁川上陸作戦を危険な賭にしていた大きな干満差という環境は変わらないわけですから、大型船が出入りする国際貿易港としては不適なのではないかということです。聞けば、仁川港は十分な対策が施されていました。アジア最大の閘門です。ドック式水門、ポート・ロック・ゲートとも呼ばれる巨大な水門で、港全体の水位を保っているわけです。

閘門など聞いたこともなかったので驚きました。実は、日本にも一つだけ閘門がありました。干満差5mという有明海に面した大牟田の三池港です。石炭の積み出しのために、1901年、5年の歳月をかけて建設されています。仁川港閘門は。日本統治下にあった1918年に完成しています。三池港の経験が活かされたということなのでしょう。漢江の奇跡と言われた経済成長が始まると、仁川は国際貿易港としての役割が求められます。1974年、5万トン級の船舶が通過できるアジア最大の大型閘門が完成します。仁川港はもともと中国貿易の拠点でしたが、国際貿易港としても、釜山港に次ぐ韓国第2位の港になりました。韓国にとって、35年間に渡った日本統治が屈辱だったことは理解できます。ただ、日本が残した港湾、鉄道といったインフラ、あるいは教育や行政制度等が、その後の韓国の発展に寄与したことも事実ではあります。(写真出典:tradlinx.com)

2026年9月5日土曜日

おかめさん

千本釈迦堂おかめ像
大報恩寺は、京都上京区、西陣界隈にあり、千本釈迦堂とも呼ばれます。6世紀末、用明天皇開基とされますが、その後廃れ、13世紀、求法上人義空によって再興されました。往時は天皇の御願寺でもあったようです。現在は、真言宗智山派の寺となっています。千本釈迦堂の千本は何を意味するのかについては諸説あるようですが、恐らく、近くに千本通が通っているからなのだと思います。千本通は、平安京の朱雀大路の跡とされ、正面に船岡山が見えます。かつて、船岡山の麓には埋葬地があり、沿道に千本の卒塔婆を建てて供養したことから千本通と呼ばれるようになったようです。また、何かと伝説の多い日蔵が、地獄へ落ちた醍醐天皇と夢の中で会い、自分を救うために千本の卒塔婆を建ててくれと懇願されたという話も残されています。

千本釈迦堂には、2点の国宝と7点の重要文化財があります。国宝2点は、本堂(釈迦堂)、そして肥後定慶作とされる六観音菩薩像となります。重要文化財のなかには、かつて、北野天満宮内にあった北野経王堂が所蔵していた行快の仏像や一切経も含まれます。ご本尊である行快作の釈迦如来坐像は秘仏とされますが、毎年、ご開帳されているようです。国宝の本堂は、1227年の建立ですが、以来、一度も消失しておらず、洛中では最古の現存建造物とされます。戦渦や火災に見舞われることが少なくない寺院にあっては、奇跡とも言えます。京都中が廃墟となった応仁の乱の際にも、千本釈迦堂は、細川勝元の東軍、 山名宗全の西軍、いずれからも崇敬され、火災を免れたと言います。その本堂建立については、有名な”おかめさん”の伝承が残されています。

大工の棟梁が貴重な柱を誤って切ってしまいます。絶望する棟梁の姿を見た妻のおかめさんが、斗組を使いなさいと助言します。おかめさんは、そのアイデアを仏から授かったとされます。斗組とは、柱の上部で上からの重みを支えるために組み合わせた部材です。斗組を使った棟梁は、無事に上棟式を迎えることができました。しかし、女の入知恵で面目を立てたとあっては棟梁の沽券に関わると悔んだおかめさんは、上棟式を前に自害してしまいます。棟梁は、おかめさんを供養するために”おかめ塚”を建て、上部におたふくの面を飾った扇御幣を奉納したといいいます。その後、千本釈迦堂が一度も焼失しなかったことから、おかめさんが守ってくれているという評判がたちます。今でも京都の上棟式にはおかめさんの扇御幣は欠かせない縁起物になっているようです。

おかめ、おたふく、おふく等と呼ばれる仮面は、古くから日本の神楽や芸能で親しまれてきました。その起源とされるのは、日本神話のなかで、滑稽な踊りを披露し、天照大御神を岩戸からおびき出したという天鈿女命(アメノウズメ)です。ふくよかなおたふく顔は、平安期まで美人の典型だったとされます。神事・芸能で使われる福面は、室町期あたりから登場したようです。丸顔、低い鼻、大きな頬は、福をもたらし、邪悪なものを遠ざける縁起物として人気を博します。一方、室町末期あたりからは、滑稽さもある醜女の象徴になっていきます。公家文化から武家文化が支配的になるなかで、美人観も変わったのかもしれません。武家の娘は、武芸の鍛錬もしたようですから、キリッとした顔立ちが好まれるようになったということなのかもしれません。

おたふくの面と対になることが多い”ひょっとこ”の面も、同じ頃に登場したようです。火を吹く男が転じてひょっとこになったとされます。この組合せは夫婦和合の象徴ともされますが、滑稽な踊りで人々を笑わせてきました。いずれにしても、千本釈迦堂のおかめさんの話は、おたふくの面が一般化するかなり前の話ということになります。よって、おかめさんは、おたふくのモデルともルーツとも言われます。庶民文化のことゆえ、その関係ははっきりしていません。近年、コンプライアンスの観点から、女性の容姿に関わる発言も御法度に近いものがあります。おたふくは、差別用語とも禁止用語ともされていないようです。ただ、招福、魔除けに御利益があるおたふくとは言え、醜女の象徴という面も持っていることから、ルッキズムの観点からすれば、比喩的に使うことはアウトなのでしょう。(写真出典:tripadvisor.jp)

2026年9月3日木曜日

マグノリア

春に咲く木蓮は大好きな花です。大ぶりな花の形がハスに似ていることから木蓮と名付けられたと聞きます。白木蓮、紫木蓮が多いのでしょうが、私は緋木蓮が好きです。木蓮は、英語でMagnolia(マグノリア)と言います。フランスの植物学者の名前に由来すると聞きます。ポール・トーマス・アンダーソン(PTA)監督の初期の作品にも「マグノリア」と題された映画があります。PTAの映画で観たことがなかった唯一の作品です。今般、ネットで初めて観ることができました。ロバート・アルトマン的な群像劇は、3時間8分という長尺な映画になっています。PTAの故郷でもあるLA北西部のサンフェルナンド・ヴァレーを舞台に、木蓮の花弁の数に合わせた6人の物語が同時進行していきます。

マグノリアは、PTAの長編3作目、29歳の時の作品です。前作「ブギー・ナイツ」の大ヒットを受けて、制作会社から好きに撮っていいと言われて制作したとされます。そのせいか、思いが溢れすぎて、やや粗削りな出来になっている面もありますが、その画面からは才能と勢いがほとばしっています。点数をつけるなら、☆☆☆☆ーといったところでしょうが、印象に残る好きな映画です。そもそも群像劇は好むところです。群像劇成功のポイントは、それぞれのエピソードがエッジの効いたスケッチになっていること、そしてエピソードの切替えをスピーディに展開することだと思います。そして、ラストで全てのエピソードが一つにつながりカタルシスが生まれるところが群像劇の醍醐味です。マグノリアでは、そのあたりのツボがしっかりと押さえられています。

 PTAの映画は、複雑な家庭環境を題材とする傾向があります。マグノリアも同じなのですが、本作は父親がクローズアップされているように思います。ガンの妻と看病する息子を捨てた父親、クイズ番組の天才少年を搾取する父親、娘に不適切な行為をした父親、そしてその犠牲者である子供たちが描かれます。彼らにからむのは、金目当てで結婚したことを今さら恥じる女、クイズ番組の天才少年としてもてはやされて自分を見失った男、そして愚直がゆえに生きにくい人生を送る警察官です。信心深く愚鈍な警察官はアメリカの良心であり、彼以外は家族崩壊と孤独というアメリカの病を体現しているのでしょう。アルトマンの「ナッシュビル」は崩壊するアメリカの社会を描きました。PTAのマグノリアは、苦悩する現代のアメリカ人にフォーカスしています。

マグノリアにおけるPTAの最も秀逸な着想は、天から降ってくる大量のカエルだと思います。映画冒頭の不思議な3つのエピソードがここで生きてきます。不思議な事は起こるものだ、それが人生だというわけです。PTAは、異常現象作家のチャールズ・フォートの本から着想を得たようです。空から異物が降ってくる現象は、ファフロツキーズと呼ばれますが、古くから世界中で目撃されてきたようです。かつては神の御業とされたのでしょうが、現代では竜巻や強風が原因とも、鳥が餌を落とす現象とも言われます。PTAは、これをドラマを収束させるきっかけとして使います。その着想力には驚かされます。全ての人々が、ある意味、平等に、不思議な現象に見舞われ、それを機に明日への希望のようなものを見出していきます。”life goes on”というわけです。

PTAの映画は、一定のテンションとスピード感が見事に持続されることも特徴の一つです。ダレることがないので、観客は長い映画も苦になりません。才能やセンスの成せる技なのだと思います。それを支えているのが音楽です。マグノリアの音楽は、ジョン・ブリオンが担当しています。加えて、シンガー・ソング・ライターのエイミー・マンの楽曲が効果的に使われています。マグノリアは、PTAが彼女の曲にインスパイアされて生まれたとも聞きます。マグノリアには、主人公たちが、それぞれに彼女の楽曲「Wise Up」を歌うという愛らしいシーンまであります。これも実に秀逸なアイデアだったと思います。エイミー・マンは、文学的に、皮肉っぽくアメリカの現実を歌う人です。最適な音楽を見つけるのも、PTAの優れた才能の一つなのでしょう。(写真出典:amazon.co.jp)

2026年9月1日火曜日

神祇官

伊勢神宮
神祇官は、律令体制下の官庁組織である”二官八省”のトップとして、太政官の上に置かれました。ただ、神祇官トップの官位が太政官より下だったことからして、祭政一致の象徴としての存在であったことがうかがえます。律令制は、中国の隋唐に倣って作られますが、興味深いことに神祇官は日本独自の官制です。もっとも、中国で祭政一致が行われてたとされるのは殷代であり、隋唐時代からすれば、古代、ないしは神話時代の話となります。神祇官は、朝廷の祭祀を司るとともに各地の神社を総轄していました。宮中で行われる祭祀を担当するところまでは分かりますが、なぜ全国の神社を管理する必要があったのかについては、やや分かりにくい面もあります。

律令制は、天皇を中心とした中央集権化を図る取組でした。645年の大化の改新に始まり、701年の大宝律令によって完成しました。逆に言えば、それまでの日本は部族連合国家としての性格が強かったということです。律令体制の構築とは、単に法的整備を行うということではなく、ヤマト王権が各地の豪族を支配下に置き、従わせたということでもあります。天孫家は、支配拡大のために、武力一辺倒ではなく、策略、謀略、懐柔策なども繰り出します。その視野の広さが天孫家成功の大きな要因だったと考えます。支配した各豪族の神々を、天孫家の神である天照大神を頂点とするヒエラルキーに組み込むことも重要な取組と認識していたのでしょう。祭政一致の朝廷が、神を畏れることは当然と言えますが、人心掌握の術だったとも理解できます。

現在の神社の数は、宗教法人化されているものだけで8万を超え、小さな祠まで入れると20万を超すと言われます。神祇官が管理したのは、全ての神社ではなく、天孫家に関わりの深い神社、あるいは他の有力な神社に限られます。10世紀に書かれた律令の施行細則である「延喜式」には、神祇官が管理する神社名が掲げられています。延喜式神名帳と呼ばれるリストに記載されている神社は2,861社あります。後に、これらの神社は“式内社”と呼ばれることになります。さらに式内社には、神祇官から奉幣を受ける官幣社と国司から受ける国幣社があり、さらに、それぞれが大小に区分されています。エヒラルキーは組織化の基本です。この区分が、日本の神社の社格の基準となります。なお、式外社でも、石清水八幡宮などは国史見在社として重視されたようです。

律令制が崩壊すると、神祇官も姿を消します。以降、しばらくの間、神社は国家の管理から離れることになります。その間にも、二十二社、一宮、総社など、神社を巡る慣例が生まれ、社格の再整理も行われていきます。そして、明治期、王政復古が唱えられると、千年の時を経て、再び神祇官が設けられ、神社は国家の管理下に置かれることになりました。復活した神祇官ですが、幾度も組織変更がなされます。1940年には、内務省外局の神祇院という小規模な組織となり、敗戦を迎えます。神祇官には、国学者たちの祭政一致への回帰という夢が託されていました。しかし、薩長政府は、速やかな中央集権化のために天皇を利用したのであって、富国強兵、不平等条約改正を目指した近代化路線を邁進します。時代錯誤的な祭政一致など相容れるわけもありません。

敗戦後、GHQのいわゆる神道指令によって、国家神道が否定され、神祇院も廃止されます。ただ、GHQは、神社を破壊することはありませんでした。残った全国の神社の管轄は神社本庁に移ることになります。神社本庁は、国の組織と誤解されがちですが、完全な民間の宗教法人です。伊勢神宮を頂点として、主要な神社7万8千社を傘下に収めます。ただ、靖国神社、富岡八幡宮、鶴岡八幡宮、日光東照宮、伏見稲荷大社、出雲大神宮、金刀比羅宮等は、方向性の違いなどから神社本庁に参加していません。社格に関しては、明治期、律令制に倣った近代社格制度が作られましたが、神社本庁には社格に関する規定はありません。ただ、特別な取り扱いが必要とされる別表神社という規定があり、旧官国弊社を中心に350社余りが掲げられています。(写真出典:isejingu.or.jp)

2026年8月30日日曜日

ベーグル

家の近くに、新しくベーグル専門店がオープンしました。食べてみると、フワフワとした食感が特徴的でした。いかにも日本的で今日的だと思いました。しかし、これをベーグルと呼ぶことには抵抗を感じます。私が知っているNYのベーグルは、中身がぎっちり詰まって重たい、実に無粋で田舎くさい代物です。その素朴さがベーグルの魅力なのだと思っています。NY時代に住んでいたスカースデイル村はユダヤ系の多いコミュニティであり、駅の近くにはユダヤ人家族が営むベーグル屋がありました。たまに買って、たっぷりのクリームチーズとスモークサーモンを乗せたNY名物ロックスを食べたものです。 

日本でベーグルが人気になったのは、15~20年前のことだと記憶します。その時にも、日本的な軽さに違和感を覚えました。それなりに美味しかったのでしょうが、買うことはありませんでした。しばらくすると、ベーグル屋の数は激減します。なんでもブームになり、すぐに廃れるという実に日本らしい現象でした。ブームが去った理由をネットで調べると、固さが不評だったというのです。まったく理解できない理由です。それがベーグルであり、焼きたてでなければ、オーブン・トースターで熱してから食べればいいだけのことです。ところが、最近、またベーグルがブームになっているようです。そのきっかけは、フワフワとした韓国式ベーグルだと聞きました。

ベーグルは、17世紀の東欧ユダヤ人社会が発祥とされます。小麦粉、水、塩を煉ってリング状にし、焼く前にお湯で茹でる(ケトリング)パンです。表面はパリッとし、中はもっちりとした固い食感が特徴です。バター、卵、牛乳を使わないため脂質が少なく、低カロリーで高タンパクということになります。これがヘルシーだと言われる所以であり、日本や韓国で、若い女性を中心にブームになっている背景でもあります。玄米やオートミール人気と同じ理由です。恐らく、日本や韓国では、乳製品を使わないパンをベーグルと呼んでいるのではないでしょうか。ヘルシーと言いますが、もともとはアシュケナージ(東欧系ユダヤ人)の厳しい環境から生まれた貧しい製パン法だと思います。堅いのでよく噛む必要があり、それで空腹を満たしていた面もあるのでしょう。

ベーグルに、バター、卵、牛乳が使われない理由は、17世紀の東欧で起こったハシディズム、超正統派ユダヤ教と関係があるという説もあります。ユダヤ教の聖典に基づく食事規定(カシュルート、コーシャー)では、ミルクも鶏卵も食べることはできますが、その取り扱いには厳密な規律があります。それがハシディズムにおいては、さらに厳密な取り扱いが求められ、パン屋がパンを焼く工程では対応しきれなかったため、ミルクも卵も使わなくなったというのです。ありそうな話だと思います。ベーグルのもう一つの特徴である生地を茹でる工程に関しては、13世紀、ポーランド公国の首都クラクフで行われたキリスト教徒によるユダヤ教差別から生まれたという説があります。ちなみにクラクフはベーグル発祥の地とされています。

ポーランド公国のユダヤ人は、パンを焼くことを禁じられたのです。キリスト教徒の聖餐を汚させないという理由でした。ムチャクチャな理由ですが、ユダヤ教徒を迫害するのに理由などどうでもよかったのでしょう。一神教の恐ろしさです。そして、真実かどうかは分かりませんが、ここで茹でるという発想が生まれたという説があるのです。パンを焼くなという禁令は緩和されますが、後にポーランドの司教たちは、キリスト教徒がユダヤ人からパンを買うことを禁じています。いずれにしても、ベーグルは、ユダヤ人迫害の歴史のなかで生まれたと言ってもいいのでしょう。ユダヤ人が、今でも素朴に過ぎるベーグルを食べ続けている理由は、民族の厳しい過去を忘れないためでもあるのかもしれません。(写真出典:ja.wikipedia.org)

2026年8月28日金曜日

綾鼓

映画「敵」
俺たちの姿を描いているから映画「敵」を見ろと、昨年、知人から言われました。ただ、さほど興味も沸かないので、見ていませんでした。過日、暇だったのでネットの配信で見てみました。吉田大八監督の「敵」(2025)は、2024年の東京国際映画祭でグランプリを受賞しています。正直なところ、これがグランプリかよ、と思いました。実に筒井康隆らしいショート・ショート的プロットですが、結局のところ、老人あるあるを描きたかっただけなのかなと思いました。それなら、老人にとって目新しさはありません。あるあるの一つとして、若い女性に金をだまし取られる、いわゆるロマンス詐欺的なモティーフも盛り込まれていました。 

死んだ先輩からLINEが来たことがあります。ビックリしました。気味が悪いとも思いました。ただ、解約された電話番号が使い回されたのだろうと思い、無視しました。先日、再び、その先輩からLINEが来ました。無視していると、”友達登録されているようですが、会ったことがあるのでしょうか?”とメッセージが来ました。不安に思っているなら申し訳ないと思い”死んだ先輩の番号です”と返信しました。すると、”そうでしたか。私は日本人とマレーシア人のハーフで神戸に住む25歳の独身女性です。何かの縁ですから、少しやりとりをしませんか?”と返ってきました。なるほど、これがロマンス詐欺かと思い、先輩の番号も含め、全て削除しました。若い人ならいざ知らず、知らない人とLINEでやりとりするなど、老人の常識からすれば、あり得ません。

ロマンス詐欺はSNSを利用した新しい手口ですが、犯罪としては昔から絶えることなく続いてきました。美人局やハニー・トラップはじめ様々な手口があるのでしょうが、基本的には恋心を食い物にする犯罪です。食欲・睡眠欲・性欲は、人間の三大欲求とされます。そういう意味では、犯罪のネタに事欠くことはありません。とりわけ老人の場合は、抑制力や認知力の衰えも重なり、だましやすいということになるのでしょう。犯罪がらみではありませんが、かつて、歌人・川田順の”老いらくの恋”という言葉が広く知られていました。川田は65歳のおり、27歳年下の門下生と不倫関係になり、「墓場に近く老いらくの恋は怖るる何ものもなし」と詠みます。恐れるものなしという心境は理解できぬでもありませんが、ややこしいことになるだろうとも思います。

能楽「綾鼓」は、御殿の女御に恋した庭師の老人がいたぶられる話です。作者は不明ですが、世阿弥以前に成立した曲とされます。老人の恋心を知った女御は、綾を張った鼓を木にかけ、その音が聞こえたら会いましょうと言います。布の鼓が鳴ることなどありません。必死に打っても鳴らないことに絶望した老人は、御殿の池に身を投げます。怨霊となった老人は池から現れ、女御を責めたてます。女御だけでなく、老人に対しても因果応報、自業自得を説いているように思います。冷静さを保っていれば、綾鼓が鳴らないことなど分かりそうなものです。鳴らないことは分かっていても、打ち続けるのは、老人にありがちな思い込みとも、執着心という深い業のようにも思えます。今でも綾鼓を打ち続ける老人が多いことには驚きますが、自業自得と言わざるを得ません。

歌人・川田順は興味深い人です。東京帝大卒業後、住友本社に入社して、経理畑を歩んだ後に常務理事にまでなっています。一方、歌人としても、天皇の指南役や歌会始の司会も務めるなど、頂点を極めた人だと言えます。老いらくの恋以前にも、川田は不倫騒動を起こしています。門下生との老いらくの恋でも、自殺未遂をするなど大騒ぎしていますが、結果的に二人は結婚しています。希代の歌人は、人並み優れた感受性を有する人でもあったのでしょう。老人の恋心を否定するものではありません。活き活きとした老後を送るうえでは有効だとも思います。しかし、それはあくまでも精神的なものであり、ブレーキとアクセルの踏み間違いをする前に、免許は返納すべきなのでしょう。(写真出典:eiga.com)

2026年8月26日水曜日

キールバーサ

私の貯蔵肉好きの原点は、母方の祖母が好きなクラコウ、そして函館のカール・レイモンのソーセージにあります。ですから、今でもカール・レイモンのクラコウは、超が付くほどの大好物です。クラコウは、19世紀、ポーランドのクラクフで生まれたソフトな食感のドライ・ソーセージです。豚肉に、塩、コショウ、ニンニク、コリアンダーなどを加え、広葉樹でスモークします。にんにくの風味を効かせ、食感を柔らかくするために脂肪分を多目に入れていることが特徴です。クラコウ発祥の地であるクラクフはポーランド第二の都市であり、かつてはポーランド王国の首都でもありました。歴史ある街は、世界遺産にも登録されています。

ポーランドは、ドイツと並ぶソーセージ自慢の国として知られます。ポーランドが、ソーセージ大国になった背景として、古くから養豚が盛んであること、そして燻製が普及していたことが挙げられます。食糧事情が悪かったポーランドでは、14世紀、王室が、肉類を長期保存するため燻製に取り組みます。それが庶民の間にも広がっていくことになりました。ポーランドは、自国をポルスカと呼びますが、語源は野原だと聞きます。平坦な国土は農業に適しているように思えますが、地表は大陸氷河の影響によって砂質の土壌に覆われています。やせた土地では作物の実りも乏しく、食糧の確保は極めて厳しかったわけです。従って、養豚や燻製は生きるために欠かせないものとなり、それがソーセージの文化を生んでいったと言えるのでしょう。なお、現在のポーランドは、土壌改良等の成果もあり、EUの食料庫と言われるほど農業生産は高まっています。

NYにいた頃、隣町にドイツ系の家族が経営する精肉店があり、美味しいソーセージも売っていました。たまに食べましたが、アメリカで最もよく食べたソーセージは、ヒルシャイア・ファーム社の”ポルスカ・キールバーサ”でした。手頃な価格でアメリカ中のスーパー・マーケットで買うことが出来ます。ヒルシャイアのキールバーサは、直系3~4cmで40cmほどの長さのソーセージをU字型に曲げて売られています。超粗挽きで脂肪分が多く、コショウやにんにく等のスパイスを効かせ、しっかりスモークされています。焼いたり、煮たりもしますが、調理済みなので、基本的にはそのまま食べていました。味がしっかりしているので、パンはもとよりおにぎりとの相性も抜群です。また、小腹が空いた時にもピッタリです。しかし、残念なことに日本では売っていません。

キールバーサとは、ポーランド語でソーセージ全般を意味すると聞きます。キールバーサは、もともと古スラブ語だったようです。ですから、ロシアのコルバサ、ウクライナのコウバサなど、東欧では似たような言葉が見受けられます。その語源は、テュルク語のプレスして灰の中で焼いた肉、あるいはユダヤ語の肉類全般だとされます。ちなみに、スラブ系以外のソーセージの呼称は、ラテン系とゲルマン系に別れます。ラテン語の塩を語源とするのは、フランス語のソシス、イタリア語のサルシッチャ等であり、ラテン語圏ではありませんが英語のソーセージもラテン語からの派生です。一方のゲルマン系は、ドイツ語のヴルストに代表され、ねじるという古ゲルマン語に由来するとされています。豚の腸などのケーシングをねじるところから来ているのでしょう。

ソーセージの最も古い歴史は、5千年前のシュメールにあるとされます。中東で広がり、テュルク族経由で東欧にも伝わったということなのでしょう。キールバーサの語源とされるテュルク語の”プレスして灰の中で焼いた肉”とは、燻製を指すのではないかと思います。燻製は、7,000~10,000年前には行われていたと推測されています。恐らく、たまたま火のそばに置いておいた肉の水分が抜け、長期保存できることを発見したのでしょう。燻製には、様々な方法がありますが、押し固めた肉を、まだ温かい灰の中に入れておけば、低温燻製に近いものができるように思えます。つまり、ソーセージは、燻製から誕生したと言えるのではないでしょうか。だとすれば、しっかりとスモークするキールバーサは、ソーセージの原型に近いのかもしれません。(写真出典:hillshirefarm.com)

2026年8月24日月曜日

心頭滅却

恵林寺三門
子供時分、私が暑いの寒いのと言うと、父親から「えらい坊さんが”心頭滅却すれば火もまた涼し”と言っている」 と聞かされたものです。漢字も意味も分からないものの、要は我慢しろということなのだと思っていました。この言葉は、恵林寺の快川紹喜(かいせん じょうき)禅師の言葉として知られます。恵林寺は、甲斐武田氏の菩提寺でした。快川禅師の言葉の原典は、唐代の詩人・杜荀鶴の「安禅不必須山水、滅却心頭火自涼」という一文だとされます。意味するところは、禅を行うに山水など必要なく、無念無想の境地に入れば、環境に惑わされることもない、ということなのでしょう。それが、誤用されるに至った経緯には、快川紹喜禅師の死に様が関係しています。

1582年、織田信長は甲斐の武田勝頼を攻めます。いわゆる甲州征伐です。もともと劣勢だった武田軍は、臣下の離反も相次ぎ、追い詰められた勝頼はじめ武田一族は自害します。戦国随一の強さを誇った甲斐武田家は、ここに滅びます。信長軍は、執拗に残党狩りを行います。恵林寺にも武田方の武将である佐々木次郎こと六角義定が逃げ込みます。恵林寺を囲んだ信長軍は、佐々木次郎の引き渡しを求めます。快川禅師は、これを拒否します。武田家の菩提寺である以上に、聖域としての寺という考えからなのでしょう。引渡しを拒絶された織田軍は、寺を焼討ちにします。その際、快川禅師は「心頭滅却すれば火もまた涼し」と言い残して、火の中に入り、焼死したとされます。武田家への殉死ではなく、寺社に火をかける信長の非道さへの抗議だったようにも思えます。

神社仏閣が聖域という認識は古くからあり、鳥居などで結界が形成されていることからも分かります。それが統治権力の及ばない、いわゆるアジール化するのは、平安末期、武士が台頭してきたあたりからなのでしょう。それも、単に宗教的な意味合いだけでなく、寺社が僧兵で武装したことも大きな要因だったと思われます。信長が、比叡山延暦寺や石山本願寺を燃やしたのは、それが軍事拠点だったからであり、宗教的背景はなかったとされます。信長以前にも、後白河法皇が比叡山に攻め入ろうとしましたし、平家は、圓城寺に次いで南都焼討まで行っています。南都焼討には過失説もありますが、合戦の通常戦術とも言えます。いずれにせよ、東大寺・興福寺などが燃えました。さらに言えば、圓城寺と延暦寺の抗争によって、圓城寺は幾度も燃やされています。

恵林寺は、1330年、甲斐国の守護職が夢窓疎石を招いて開山しています。夢窓疎石は、後醍醐天皇や足利尊氏にも崇敬された臨済宗の国師です。由緒ある寺でしたが、応仁の乱で荒廃し、武田信玄によって再興されています。実は、恵林寺も武田家の防衛拠点として要塞化されていたという説があります。近年、後背の恵林寺山に山城跡も発見されています。大名の菩提寺が要塞化されている例は多く見られます。静岡市の臨済寺は、今川氏の城塞寺院として知られます。福岡市の崇福寺も、黒田家の菩提寺ですが、城塞化されていました。大名の菩提寺ではないものの、石山本願寺や根来寺が要塞と変わらぬ構造を持っていたことも有名です。寺は、立地、敷地の広さ、建屋の堅固さ、そして聖域としての位置づけからして、要塞に適していたのでしょう。

快川禅師が三門で焼死したことは事実のようです。しかし、火もまた涼し、と遺偈を残し、燃える寺に入ったということに関しては、同時代の文献には見当たらず、どうやら後代の創作とする説が有力です。国師の称号まで受けた高僧が、遺偈において、至って表面的で幼稚な誤用をするとは思えません。では、誰が、この作り話を広めたのかと言えば、案の定、戦前の修身の国定教科書でした。直裁に言えば、軍部が死を恐れない兵士を作り上げるために利用したということになります。兵装の不十分さ、作戦の無謀さをごまかし、多くの命を奪った”大和魂”醸成のために使われたわけです。恐ろしいことに、軍部のねらいは見事に達成されました。闘争心や愛国心を否定するものではありません。ただ、それを悪用する全体主義は、おぞましい究極の悪としか言いようがありません。(写真出典:erinji.jp)

2026年8月22日土曜日

パリ大改造

パリ中心部の街並みの美しさは世界一だと思います。それは、放射状に伸びる広い主要道路と統一された建屋の高さとデザインによるところが大きいと言えます。19世紀後半に行われたパリ大改造の賜物であり、まさに都市計画のお手本です。同じ頃に改造されたバルセロナも見事な街並みを持ちますが、改造中のパリをも参考にしたようです。欧州では、産業革命とともに、都市部に労働者が大量に流れ込みます。キャパを超える人口を抱えることになった両都市も、道が狭く、汚く、風通しの悪い、実に不衛生で悲惨な街になっていったようです。だからこそ、思い切った大改造を実施できたとも言えます。そして、都市改造の大前提として、強力な政権と豊富な資金も欠かせません。

パリは、ナポレオン3世による第二帝政下にありました。バルセロナには、中央政府と対立するほど自主性の高いカタロニア自治政府が存在していました。また、両市は、産業革命と人口増によって潤沢な税収を誇っていたはずです。さらに、パリの場合、改造を主導したセーヌ県知事のジョルジュ・オスマンは、新たな土地収用法を導入します。”超過収用”です。街路の用地だけでなく、両側の開発用地も強制的に収用する手法です。一定の対価を払って土地を収用した後、道を整備し、高さとデザインに統一性を持たせた建物を建設し、そのうえで民間不動産業者に売却します。そこで得られた超過収益は、公共施設の建設などの費用に充てられました。明治期、日本でもこの超過収用が導入されましたが、制約が多く、うまくいかなかったようです。

パリとバルセロナには、街が放射状か格子状かという違いがあります。土地活用面では、バルセロナの格子状が効率的だと思います。ただ、中心部へのアクセスの良さでは、パリの放射状が圧倒的に優れています。背景には、労働者の街として急成長したバルセロナ、そして政治的中心地としてのパリという性格の違いがあります。放射状都市には、モニュメントが街の方々からよく見えるというメリットもあります。パリの街の美しさを生んでいる一因です。一方、敵の侵入を許しやすいというデメリットもあります。また、議論があるのは、中心部のロータリー交差点です。信号渋滞が起きないことはメリットですが、交通量が増えると、使いにくさや事故の多発という問題も生じます。ただ、近年、渋滞解消の面から、ロータリー交差点が再評価されているようです。

光と影があって、はじめて都市は成立するものだと思っています。都市の影の部分とは、市井の人々の生活を支え、いかがわしさも含めて庶民文化を育む雑多な街区のことです。大きな街には、霞ヶ関や丸の内だけでなく、新宿や渋谷などが必要だということです。そこから都市のダイナミズムが生まれると言っても過言ではありません。もちろん、都市計画の図面上に、街の影の部分が設計されることはありません。それは、パリ大改造でもあっても同じです。ところが、パリの場合、庶民が創り上げた街角のカフェ文化やマルシェがそれを代替し、他の街以上に、豊かな庶民文化を生み出してきました。パリのカフェは、文化都市パリを成立させている奇跡とも言えます。つまり、パリの街は、ジョルジュ・オスマンと庶民が創り上げた街だとも言えるのでしょう。

近年、温暖化や偏西風蛇行の影響から、夏の欧州は災害級の熱波に襲われています。山火事も多く発生しますが、都市部では死者も多く出ています。パリも、この夏、40度越えを記録し、少なからずの死者を出しました。欧州は乾燥しているので、日中の気温が高くても、室内や木陰では、あるいは日が落ちると爽やかに過ごすことができます。個人宅はもとより、ホテルですら、エアコンは必要ありません。しかし、気温40度のパリでは、鉛の屋根が熱せられて、エアコンなしの室内は地獄のような状態になるはずです。また、エアコンの普及率が低い理由としては、温暖化対策としての法規制もあり、パリの景観を守るために室外機の設置が制限されているためでもあります。パリ大改造は、パリを世界一美しい街にしましたが、今は、それが禍している面もあるわけです。(写真出典:blablablablog.com)

サンティアゴ・デ・クーバ