2026年9月19日土曜日

晩成社

依田勉三
豚丼は大好物です。新橋の「豚大学」、御茶ノ水の「豚野郎」にはよく行くのですが、北海道では新千歳空港で食べるばかりで、本場の帯広で食べたことがありません。豚丼の発祥は、1933年、帯広の大衆食堂「ぱんちょう」とされます。創業者の阿部秀司が、戦争と不景気にさいなまれる庶民が手軽に栄養を取れるよう考案しました。味は、皆になじみのあるうな丼を参考にしたと言われます。豚肉を使ったのは、十勝地方で養豚が盛んだったからです。十勝の養豚は、十勝開拓の祖と言われる依田勉三の「晩成社」に始まります。依田勉三は、4頭の豚を連れて十勝へ入植しています。「牛は牛乳、馬は馬力、豚は食料」という依田勉三の言葉も残されています。

本格的な北海道開拓は、1869年(明治2年)、開拓使、後の北海道開拓使の設置に始まります。本庁は札幌に置かれ、函館、根室、宗谷、浦河、樺太に、出張所、後の支庁が配置されます。すべてが沿岸部であり、内陸部には配置されていません。開拓使設置の主な目的が対ロシア防衛強化だったからです。当時、ロシアが樺太に兵士と移民を送り込んでおり、対抗上、北海道開拓が急がれたわけです。当初の開拓要員は、戦闘能力を有する士族と屯田兵でした。その後、労働力として囚人たちも送り込まれます。明治中期になって、民間団体や一般個人の入植が始まります。依田勉三率いる晩成社が十勝に入ったのは、1883年(明治16年)でした。民間としては極めて早かったわけです。入植当時の十勝は手つかずの山林や原野が広がるばかりだったようです。

開拓は、山林や原野の開墾から始まります。広大な地域の伐採、抜根を行い、そのうえで土を掘り起こして細かく砕き、農地を作っていきます。とんでもない重労働の日々です。しかも、その間、作物の収穫はなく、食糧はほぼ持ち込むしかないわけです。晩成社の開拓は、悪天候、イナゴの大量発生、鳥獣害に見舞われ、当初2年間、ほとんど何も収穫できなかったようです。そこで依田勉三は、開拓の軸を農作から畜産に移します。そこで商品化されたものの一つが”マルセイバタ”です。帯広の六花亭の大ヒット商品”マルセイバターサンド”が、十勝開拓の祖へのオマージュであることはよく知られています。十勝は、いまや日本の食糧基地とまで呼ばれます。農作、畜産、そして入植者の増加まで、十勝のすべての基礎が晩成社の開拓にあったと言われます。

ただ、晩成社の経営は苦しく、依田勉三が亡くなった翌年の1932年、解散に追い込まれています。それにしても依田勉三という人の情熱と不屈の精神には驚かされます。依田は、伊豆・松崎の豪農の家に生まれ、東京で英国人の塾に学んだ後、慶應義塾に入学しています。福沢諭吉の影響もあり、依田は北海道開拓を目指すようになります。福沢諭吉は、北海道開拓を重視し、依田以外にも多くの門下生を北海道に送り込み、自らも開拓に出資しています。今さらながらに、福沢諭吉と慶應義塾が日本の近代化に果たした役割の大きさに感心させられます。依田は、病気のために慶應義塾を中退しますが、故郷で準備を進め、1881年には、単身、調査のために北海道に渡ります。さらに準備を進めた依田は、1883年、13戸27人を率いて十勝に入植しています。

晩成社の入植前後には、開拓団が相次いで入植しています。1879年には、北海道開進会社が株式で資金を集め、函館、札幌方面での開拓を目指しますが、失敗しています。その後、兵庫県の赤心社が浦河へ、徳島県の興産社が札幌篠路へ、石川県の起業社が岩内へ、新潟県の北越殖民社が江別へと入植しています。また、キリスト教、日蓮宗、金光教、天理教など宗教団体による開拓団も入植しています。他にも各地の村落からの集団移住も少なからず行われています。人出と資本が必要とされる開拓ですから、集団で取り組む必要があったのでしょう。ただ、個人の入植者も、1922年までの累計で200万を超えています。その大半が故郷で生計を立てることが困難になった人々だったようです。しかし、開拓に成功した者はごく限られ、現在、北海道に暮らす人々の多くは成功者の子孫なのだと聞いたことがあります。(写真出典:town.matsuzaki.shizuoka.jp)

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