2025年4月29日火曜日

「太陽の宿命」

監督: 佐古忠彦     2025年日本

☆☆+

那覇の桜坂劇場は、牧志の奥のディープな界隈にあります。1952年に芝居小屋「珊瑚座」としてスタートし、直後に映画館に転身したようです。現在は、3スクリーンを持ち、ライブや文化活動も行うアートシアターになっています。全国的にも名前が知られており、一度は行ってみたいと思っていました。桜坂劇場は、日に多数の作品を上映するスタイルをとっています。今回は、佐古忠彦監督の新作も上映されていたので見てきました。監督はTBS職員で、かつてアナウンサーやコメンテーターを務めていた人です。2017年に処女作となるドキュメンタリー「米軍が最も恐れた男 その名は、カメジロー」をヒットさせ、以降、沖縄に関するドキュメンタリーを撮り続け、本作が4作目となります。

瀬長亀次郎は、占領下で那覇市長、本土復帰後は衆議院議員を務めた政治家です。終始、社会運動家というスタンスを崩さず、そのカリスマ性においては田中角栄と並び立つ政治家だと思います。監督の処女作カメジローには期待していたのですが、大ガッカリでした。ドキュメンタリー映画と呼べるような代物ではありませんでした。ドキュメンタリー映画とは、作家の視点で捉えた現実を、フィクションを交えずに表現する映画形態だと思います。カメジローは、単に瀬長亀次郎の軌跡を紹介するだけの作品であり、TV特番の域を超えていませんでした。残念ながら、今回の「太陽の宿命」も全く同様にTV特番そのものでした。対象としたのは、沖縄県知事を務めた大田昌秀と翁長雄志であり、二人の因縁を通じて沖縄の基地問題をクローズアップしています。

大田昌秀は、鉄血勤皇隊員として沖縄戦を経験し、戦後は早稲田大学、シラキュース大学に学び、琉球大学やハワイ大学の教授を勤めた人です。1990年、革新統一候補として県知事選に立候補し、保守系の現職を破って当選します。大田は、平和の礎建立など記憶継承事業に取り組む一方で、1995年に起きた米兵少女暴行事件を機に日米地位協定見直しを訴える行動を起し、米軍用地の未契約地主に対する強制使用の代行手続きを拒否します。これは最高裁まで争われ、県が敗訴しています。普天間基地返還の条件として国が示した辺野古移転にも真っ向から反対し、反基地か経済か、と迫る自民党に追い落とされる形で知事の座を降ります。その際、大田攻撃の先頭に立っていたのが、自民党の県議で後に県知事になる翁長雄志でした。

2015年、沖電社長から知事に転身した仲井眞弘多の任期満了に伴う知事選が行われ、那覇市長だった翁長は、自民党を離党して立候補します。辺野古移転推進派だった翁長は、移転反対へと転じていたのです。翁長を推した自民党県議たちも離党、野党も翁長支持に回り、翁長は当選します。県知事としての翁長は、移転に関する国と自民党からの圧力と戦い続けます。皮肉にも、それは20年前、翁長が批判し続けた大田が置かれた構図とまったく同じでした。翁長は県知事在職のまま、2018年、膵臓がんで亡くなっています。大田も翁長もハマった基地反対か経済振興かというジレンマは、そもそも自民党が作り出した二者択一の罠とも言えます。素人考えではありますが、この二者択一フレームから離れない限り、沖縄の基地問題の進展はあり得ないのではないでしょうか。

自民党政権は、日米安保条約ありきの発想しかできなくなっているように思えます。本来的には、日本国として国の安全をどう考えるか、つまり国防に関する基本戦略が、まずもってあるべきではないかと考えます。そのうえでの日米安保なのだろうと思います。現状は、憲法よりも安保が優先され、米軍の言いなり状態です。ただ、日米安保が効果を発揮するのは平時のみです。戦時にあっては、米国の戦略・戦術が優先され、日本の安全は後回しにされる恐れもあります。安全を他国の良識に委ねるという現行憲法上の根本的な問題点が、結果的には日米安保にも反映されているわけです。もちろん、これは根本論であって、憲法改正も避けがたい議論です。沖縄の基地問題に関しては、その前にできることが他にもあるのではないかとも思います。いずれにしても、県も国も二者択一論から抜け出すことが求められると思います。(写真出典:natalie.mu)

2025年4月27日日曜日

海軍司令部壕

1945年6月23日、沖縄戦における組織的な戦闘が終結します。以来、この日には、戦没者を追悼し、かつ平和を祈念する沖縄慰霊祭が開催されています。沖縄県の休日として、会社も学教も休みとなり、平和祈念公園で行われる式典のみならず、全島で慰霊祭が行われます。基地の問題を考えれば、沖縄の戦後は、まだ終わっていないとも言える状況にあって、今年は80周年という節目の年を迎えることになります。ひめゆりの塔はじめ、戦争関連施設を多く訪ねてきましたが、ほとんどは犠牲になった県民に関わるものでした。旧軍に関わる史跡はほとんど存在しません。旧軍の非道に対する批判、あるいは旧軍施設が米軍によって徹底的に破壊されたことが背景にあるのでしょう。

今回、数少ない旧軍史跡である豊見城市の海軍司令部壕に行ってきました。1944年10月10日の沖縄大空襲を受けて、急遽、作られた地下施設です。現在は那覇空港となっている旧軍の小禄飛行場を見下ろす丘に作られています。沖縄の旧軍施設の多くは、住民を使役して作られていますが、ここは機密性が高いということで兵士だけで掘られたようです。突貫工事だったこともあり、手掘りの痕跡が見て取れます。重要な部屋は、漆喰とコンクリートで補強もされています。総延長450m、司令官室、作戦室、幕僚室、暗号室等々が作られています。決して大きな壕ではありませんが、最大で4,000人が立錐の余地もない状態で立てこもったようです。司令部は、6月11日、米軍の総攻撃を受け、13日夜半、大田司令官の自決をもって陥落しています。

司令官であった大田実海軍中将の海軍次官に宛てた最後の電報が「沖縄県民斯ク戦ヘリ 県民ニ対シ後世特別ノ御高配ヲ賜ランコトヲ」と結ばれていることは、よく知られます。軍人としては、負け戦を謝し、天皇陛下万歳と締めくくるのが常道です。しかし、大田司令官の電文は、終始、沖縄県民の貢献と犠牲について語られています。沖縄戦での双方の犠牲者は20万人、うち日本側は188千人。その内訳は島外から来た日本兵が66千人、県内出身は122千人であり、県民の4人に1人が亡くなっています。そのうち94千人が民間人、28千人が現地召集の兵士とされます。民間人犠牲者のうち54千人が準軍属とされ、ほぼ強制的に戦闘や後方支援に徴集された人々です。なかには、ひめゆり部隊はじめ多くの学生たちも含まれていました。

大本営は、多くの民間人が犠牲となったサイパンでの轍を踏まないよう、老幼婦女子と学童の九州、台湾、本島北部への疎開を計画します。しかし、疎開は進みませんでした。身寄りのいない土地への疎開が嫌がられたことに加え、増派された日本兵を見て、日本勝利を喧伝する兵士たちの声を聞き、島民の間には安堵感が広がっていたとも聞きます。準軍属化とプロパガンダが県民の犠牲を大きくしたと言えるのでしょう。また、日本軍が、大規模な機動的反撃ではなく、持久戦術を採ったことも民間の犠牲を拡大したものと考えます。その戦術は、アメリカ軍の犠牲者をも増やし、戦死者2万人は米軍史上3番目、死傷率は39%に達したとされます。その衝撃が、トルーマン大統領に原爆投下を決断させたとも言われています。

5月末、32軍司令部は、要塞化された首里司令部を放棄し、南部の摩文仁へと撤退します。海軍司令部には、軍司令部の撤退を援護した後に摩文仁に集結せよとの指令が出されます。しかし、曖昧な電文によって連携ミスが生じ、一旦は小禄陣地を放棄した海軍司令部は、再び壕に戻ることになり、アメリカ軍に包囲殲滅されます。壕には、大田司令官が自決した司令官室も残っています。最も印象的なのは、幹部たちが手榴弾で自決した痕が生々しく壁に残る幕僚室です。国の存続をかけて戦う戦争は、総力戦が常識となってから、多くの市民の犠牲を伴うものとなりました。何のための戦争なのか、誰のための戦争なのか、という疑問がつきまといます。沖縄は、今もそれを世界に問いかけ続けている島なのだと思います。(写真出典:okinawatraveler.net)

2025年4月25日金曜日

やちむん

那覇の名所である壺屋やちむん通りは、国際通りや牧志公設市場の東にあります。やちむんとは、沖縄の言葉でやきもの、つまり陶器を意味します。壺屋は地名ですが、ここが古くからやきものの町だったことを示しています。静かな石畳の道沿いには陶器や民芸品を扱う店が並びます。空襲の影響が少なかった地域だったようで、古い家も多く残り、窯の跡もあります。沖縄のやちむんは、どってりとした厚み、気候にあった色合い、温かみのあるデザイン等を特徴とします。それは、どこか沖縄の人たちを思わせるところがあり、まさに琉球の文化と生活が凝縮されているとも言えそうです。やちむんは、1600年頃、薩摩が琉球に送り込んだ3人の朝鮮人陶工に始まるとされます。

16世紀末に起こった文禄・慶長の役の際、多くの朝鮮人陶工が日本に連行され、日本のやきものを大きく変えます。最も有名なのは、有田焼を作った李参平ということになります。薩摩焼も、島津義弘が朝鮮から連れ帰った陶工によって始まります。薩摩焼を代表する名工・沈壽官は15代を重ねて今に至りますが、やはり文禄・慶長の役の際に連行された陶工を祖とします。やちむんは、当初、海産物や泡盛を輸出する際の器として作られたようです。その後、生活陶器へと展開し、宮廷のみならず庶民の家庭にまで広がっていきます。当然ですが、その過程のなかで琉球の文化とシンクロし、やちむんが誕生するわけです。特に、器の厚みに関しては、沖縄に独特な赤土という土壌が大きな影響を与えることになります。

本土の土壌は、一般的に赤土の上に黒土が堆積しています。黒土は、落ち葉や枯れ葉などが分解されて作られる有機物の層であり、腐植土とも呼ばれます。分解が進むと粒子が細かくなり、鉄分を含む赤土になっていきます。沖縄も同じなのですが、海洋性気候のために腐植土の分解が早く、結果、黒土層が薄くなり、さんご等に由来する石灰質を多く含む赤土が地表付近にまで露出することになります。陶土としては、のびとこしがなく、厚手のやきものに適していると言われます。ただ、明治以降、本土から薄くて丈夫で安価なやきものが入ってくると、厚手のやちむんは衰退していきます。やちむんを救ったのは、大正末期に始まる民藝運動でした。沖縄の紅型ややちむんは、民藝運動初期の重要なテーマ、アイテムとして注目を集めることになります。

やちむんと民藝の関わりは、運動開始以前から始まっています。1917年、民藝運動の中心人物となる濱田庄司と河井寛次郎は沖縄を訪れ、やちむん中興の祖となる新垣栄徳と親交を結びます。その後、濱田は、壺屋に長逗留して、作陶に励むことになります。その際、新垣栄徳に弟子入り間もない金城次郎にも会っているようです。金城次郎は、1985年、沖縄県初となる人間国宝に認定されることになります。濱田がリードした民藝調のやきものは、壺屋で生まれたと言っても過言ではないと思います。一方、柳宗悦も、学生時代から紅型をはじめとする沖縄の染織や絣に興味を持っており、濱田とともに幾度も沖縄を訪問しています。日本が戦時体制に入っていく頃、柳宗悦は、沖縄の言葉を巡って、沖縄県と大論争を行っています。

沖縄県は、戦時統制の一環として方言の使用制限を徹底します。柳宗悦らは、琉球文化を守る観点から猛反対します。これは民藝運動の不可思議さを物語っています。民藝とは、手仕事が生んだ日常雑器に美を見い出す生活文化運動とされます。しかし、美を見い出した瞬間、美術品と化し、作家主義が生まれます。生活雑器に関わる運動ながら、反近代主義、反西洋至上主義といった政治的な側面も見せます。民藝運動は、多くの矛盾や曖昧さを内包しているとも言えるのでしょう。生活を豊かなものした民藝運動の功績は大きいと思いますが、あくまでも生活の中にあっての民藝だと思います。やちむんは魅力的ですが、ほとんど買ったことはありません。自分の生活のなかでの居場所がイメージできないからです。やはり、沖縄の文化は、沖縄へ出かけて、あの優しい空気感のなかで楽しむべきものなのでしょう。手に取るなやはり野におけ蓮華草。(写真出典:nirai-kanai.shop)

2025年4月23日水曜日

伊江島マラソン顛末

友人に誘われ、伊江島マラソンに参加しました。伊江島マラソンは、”楽しく走ろう”をモットーとする市民マラソン大会であり、私がエントリーしたのは5kmの部でした。制限時間は45分。たかだか5kmとは言え、日頃走っていない身としては、ほぼ絶望的です。ただ、週に2回ほど、ジムでトレッドミルに乗り、4kmを40分で早歩きしているので、速歩ならばゴールできるだろうと思った次第です。わざわざ伊江島まで出かけて、そんなことをするのもどうかとは思います。しかし、大会に参加した最大の理由は、友人の知り合いがやってくれるというBBQでした。沖縄で最も爽やかなうりずんの季節に夕暮れ時のビーチでBBQ。これほど魅力的な話はありません。

伊江島は、本部港からフェリーで30分、人口4,500人の農業と漁業の島です。大会参加者は2,500人、うち2,300人が島外からの参加でした。本部港の駐車場は車であふれ、近隣の港に臨時駐車場が用意されていました。フェリーも臨時便を出していましたが、それでも700人という定員限界までの混雑でした。島に着くと、港での大会受付を済ませ、友人たちが手配してくれた宿に入ります。着替えを済ませてスタート・ゴール地点となるミースィ公園へと向かいました。広い公園にはステージが設けられ、露店も多く並んでいました。レースの結果としては、44分15秒でギリギリ完走(完歩)できました。5km男子は150名のエントリー、完走は135名、私は128位。70歳以上の参加者15名中14位でした。皆が走るなかでの速歩としては健闘したほうだと思います。

コースには給水所が設けられ、島特産の黒糖も配られていました。驚いたのは沿道の応援です。島の人々が、ほぼ切れ間なく応援に出てくれていました。なかにはバンド演奏で応援する人たちまでいました。私も、可能な限り、手を振って応援に応えました。なにせ速歩なので、そんなことをする余裕があったわけです。私は、ジムと同じ環境でと思い、音楽を聴きながら歩いていました。レース終盤には、ジェームス・ブラウンの”Give It Up Or Turn It A Loose”が流れます。この曲を聴くと、いつも体が勝手に踊り出します。コースでも、踊るように歩いていると、沿道から、真っ黒な顔の酔っ払った老人が飛び出してきて、一緒に踊り始めました。彼には音楽が聞こえていないのですが、恐らく、あれはカチャーシーだったのでしょう。もっと一緒に踊りたかったのですが、さすがに先を急ぎました。

アップダウンにはやられましたが、基本的には、いつもジムでやっていることなので、レース後に、息が上がることも、脚が痛むこともありませんでした。記録証を受け取り、牛串やぜんざいを食べ、ハーフに挑戦した友人たちのゴールを待ちました。なんとか、皆、完走することができました。宿でシャワーを使った後、BBQの会場へと向かいました。ビーチに面した広いBBQハウスには、気持ちの良い海風が吹き込み、空には月も出ていました。海の向こうには、本島の灯りが見え、あろうことか恩納村あたりのホテルから毎週末の恒例という花火まで上がりました。BBQには伊江島牛や海産物が出され、ちょうど季節を迎えた島らっきょも山ほどありました。島らっきょ好きには夢のような光景でした。また、泡盛は、マイルドで美味しい古酒が振る舞われていました。

20名ほどの参加者でしたが、美味しい食事と泡盛に話も尽きることなく、夢のような夜が更けていきました。ただ、夜半過ぎからは雨風が激しくなりました。翌日のフェリーの運航も危ぶまれるほどでしたが、幸いなことに朝には風も弱まりした。伊江島名物の城山(伊江島タッチュー)に登る計画でしたが、悪天候のために断念し、島の名産である百合の花が咲き誇るリリーフィールド公園、島の水源となっている湧出(わじ)等を観光しました。そして、満員のフェリーで本部港へと戻りました。お祭りとしてのマラソン大会も楽しく、BBQでの食事・泡盛も美味しく、そして何よりも島の人たちとの楽しい会話は得がたい経験でした。まるで夢のような時間でした。明らかに、人生最良の日のひとつだったと言えます。島の人たちの、また来いよ、という言葉に、必ず来ます、と応えた次第です。(写真出典:tabirai.net)

2025年4月21日月曜日

パレ・ブルトン

パレ・ブルトン
何人かに、ビスケットとクッキーの違いを聞いてみました。概ね、ビスケットのなかで、バターを多く使ってサクサクに焼いたものがクッキー、という答えでした。日本人の一般的な認識だと思いますし、日本ビスケット協会による定義もそうなっています。しかし、これは日本の常識であって、同じものを英国ではビスケットと呼び、米国ではクッキーと呼ぶという違いしかありません。英国のビスケットは、“二度焼いたもの”を意味するフランス語のbiscuit、あるいはラテン語ののbis coctusが語源です。米国のクッキーは、オランダ語の”小さなケーキ”を指すkoekieが語源となっています。なお、フランスでは、ビスキュイのバターが多いものをサブレーと呼びます。

サブレーとは、フランス語で砂を指します。そのサクサクとした食感を言い表しているのでしょう。また、サブレ=シュル=サルトの街で作られた、サブレ公爵夫人が考案したといった説もあります。サブレーと言えば、日本では、鎌倉の豊島屋の鳩サブレーが最もよく知られていると思います。明治30年頃、初代店主が、初めて食べたビスケットに感動し、試行錯誤の末、完成させました。鶴岡八幡宮楼門の額にある”八”が向き合う鳩になっていること、境内には鳩が多いことから鳩をモチーフにしたとされます。また、外国航路の船長をしている知人が、これはサブレーに似ていると言ったことから命名されたようです。初代店主は、サブレーという聞き慣れない言葉ながら、三郎に似ていると気に入ったようです。鳩三郎と命名されていた可能性もあったわけです。

私は、サブレーのなかでも、特にブルターニュ名物のパレ・ブルトンが大好物です。豊かなバターの風味、サクサク・ホロホロの食感がたまりません。パレ・ブルトンは、人を幸せにする食べ物です。円くて薄いガレット・ブルトンヌと混同されがちですが、パレ・ブルトンは厚みがあります。英仏海峡と大西洋に突き出したブルターニュ半島一帯は寒冷な土地柄であり、酪農と塩で知られます。リンゴ酒のシードル、あるいはそば粉で作るクレープのガレットも有名です。フランス語のガレットとは、円くて薄いものを意味し、クレープでもサブレーでも使われているわけです。ブルターニュと言えば、ファー・ブルトンも大好物です。ミルクの風味が濃く、どっしり、かつプルプルとした食感が大好きです。乳製品好きにとって、ブルターニュは聖地の一つだと言えます。

ブルターニュとは、ラテン語の”ブリトン人の土地”を語源とします。もともとケルト人が住んでいたブルターニュは、紀元前1世紀、古代ローマに支配されます。ローマが撤退すると、5世紀末には、ブリテン島から、同じケルト系のブリトン人が大量に移住してきます。北欧からブリテン島に侵攻してきたアングロ・サクソン人に押し出されたと言えるのでしょう。ブルターニュの歴史は、英仏両大国の間で揺れ動いていましたが、16世紀には完全にフランスに組み込まれています。ちなみに、サブレーに近い食感の食べ物に、スコットランドの伝統菓子のショート・ブレッドがあります。ショートはサクサクした食感を指し、ブレッドとは焼き菓子を意味しているようです。サブレーに比べると、少しバターの比率が低くなっています。

話をビスケットに戻すと、その祖先は、保存性を高めるために二度焼きしたパンだと言われます。農耕発祥の地メソポタミアでは、数千年前からバビロニア人が二度焼きしたパンを旅に持ち歩いていたとされています。ビスケット/クッキーの直接的元祖は、7世紀頃のペルシャで砂糖の普及とともに生まれました。やはり旅の保存食だったようですが、欧州へと広がっていきます。それが宮廷で出されるお菓子になっていったのは16世紀のことだったようです。何でもクッキーと呼ぶアメリカですが、南部にはビスケットという食べ物も存在します。イギリスのスコーンに近い代物です。酵母による発酵ではなく、重曹などの膨張剤を使った、いわゆる速成パンの一種です。日本では、ケンタッキー・フライド・チキンのメニューの一つとして知られます。(写真出典:brittanytourism.com)

2025年4月19日土曜日

フルコンタクト

ゴルフは、やたらと格言が多いスポーツの一つです。コース上の最大の敵は自分である、という言葉もよく知られています。ゴルフに限らず、水泳、ボウリング、ダーツといったノンコンタクト・スポーツすべてに共通する言葉だと思います。コンタクトとは、ボディ・コンタクトのことです。コートを分けて行われるバレーボール、テニス,卓球、バトミントン等もノンコンタクトに分類されますが、ボール等を介して心理的にはコンタクトしているとも思います。いかなるスポーツも競技である以上は駆け引きがあるでしょうから、それも心理的コンタクトと言えそうです。対して、制限なく相手とボディ・コンタクトする競技は、フルコンタクト・スポーツと呼ばれ、格闘技、ラグビー、アメリカン・フットボール等が該当します。

フルコンタクトの場合、いかに自らの心技体を鍛えても、試合に勝てるとは限りません。相手の出方次第で試合の流れは変化し、それに適切に対応できるかどうかで勝敗が決まります。小よく大を制す、ということが起こり得るわけです。フランツ・ベッケンバウアーの言葉とされる「強いものが勝つのではない。勝ったものが強いのだ」は、まさにフルコンタクト・スポーツのためにあるような言葉です。格闘技の場合、自分の優点を活かせるか、あるいは相手の優点を無力化できるかが大きなポイントとなります。そのためには、いち早く自分に有利な態勢やペースを確保する必要があり、ファースト・コンタクトが極めて重要となります。リミテッド・コンタクト・スポーツとされるサッカーにも、先制点を取ったチームが有利になるという7-2-1の法則があります。

傾向として、先制点をあげたチームは、7割が勝利、2割が引き分け、1割が逆転負けするというのです。ロー・スコア対決のサッカーだけに、焦りが大きく影響するのでしょう。格闘技の場合には、先制攻撃というよりも、いかに早く自分の態勢を確保できるかという勝負になります。相撲の場合、勝敗の8割は立会いで決まるとまで言われます。立会いで相手を圧倒することによって、自分の得意な差し手や態勢をとることができるからです。いまだ破らていない69連勝を達成した双葉山の立会いは”後の先”と呼ばれます。横綱相撲はかくあるべしとも言われます。ただ、映像を見る限り、初動は相手より遅いものの、決して押し込まれてはいません。相手の立会いを見切ったうえで押し込み、得意の左上手から天下無双と言われた上手投げを繰り出しています。

ビジネスにおける交渉・折衝も、フルコンタクト・スポーツに似たところがあります。いつの世でも、書店から交渉術に関する書籍が消えたことはありません。それほど皆が悩み、興味を持っているということなのでしょう。交渉の場では、選択肢を多く持っている方が有利であるという大原則があります。交渉相手がどのような出方をしても対応可能だからです。加えて、先手必勝とも言われますが、必ずしも最初に高い要求をぶちかませということではありません。本質的には、いかに早く自分のペースに巻き込むか、ということが大事になります。後の先で、相手の出方を見きわめたうえで、自分のペースに巻き込むという方法もあります。交渉慣れしているアメリカのビジネスマンは、最初から自分のペースに引き込むことにこだわる傾向があります。

ドナルド・トランプの発言に、世界中が振り回されています。トランプの交渉術は、初動から高い要求をぶちかまして主導権を握るスタイルです。アメリカで仕事をしていた頃、ここまで極端な交渉術は見たことがありません。不動産など生き馬の目を抜く業界では、ごく当たり前のことなのかもしれません。アメリカのビジネス界では、個人の権限が大きいので、交渉術は研ぎ澄まされ格闘技的になります。対して、日本の場合は、組織的な判断が全てなので、交渉はアメリカン・フットボールのフォーメイション・プレイに似てきます。経営会議ではゴールだけが決議され、交渉における幅などがフロントに与えられることはありません。ところで、トランプ式の交渉術の欠点は、ブラフを見抜かれ易いことです。トランプのディール・スタイルなど、世界中が見透かしているのでしょうが、なかでもプーチンや習近平はビクともしていません。交渉術の何たるかを十分に分かっているからなのでしょう。(写真出典:nippon.com)

2025年4月17日木曜日

二つの島

牡丹郷
14世紀から三山時代にあった琉球は、1429年、中山王・尚巴志によって統一され、琉球王国が誕生します。琉球は、日本、韓国、中国だけでなく、遠くマラッカ、スマトラまで船を送り、三角貿易によって栄えます。17世紀になると、薩摩藩が侵攻し、首里を武力で制圧します。薩摩を通じて日本の属国となった琉球でしたが、17世紀中葉、清国が成立すると朝貢を開始します。琉球王国は両属国となったわけです。両属国であることは、実利上、誰にとっても、何の問題もありませんでした。ところが、明治の世を迎え、日本が近代的主権国家を目指し始めると、琉球の帰属は領土問題として急浮上します。1872年、明治政府は、琉球王国を廃し、琉球藩を置きますが、清国はこれに反発。領有を主張する日清両国は互いに譲りませんでした。 

そんななか、1871年、宮古島から首里へ年貢を納めに行った帰りの船が台風にあい、乗員66名が台湾南端の牡丹社(現在の牡丹郷)に漂着します。乗員たちは、救助してくれたパイワン族の村で一夜を過ごします。ただ、言葉が通じず不安を感じた乗員たちは、夜になって逃げ出します。これを敵対行為と受け取ったパイワン族は54名を殺害します。命からがら逃げだし12名の乗員たちが、四苦八苦の末、宮古に戻れたのは7か月後だったと言います。これが、いわゆる牡丹社事件です。おりしも、明治政府は、征韓論を巡って内部対立を深めていましたが、アメリカの外交官の助言もあり、懲罰的に台湾へ出兵することを検討しはじめます。恐らく、この事件が琉球帰属問題を解決する糸口になる可能性があると見抜いた高官もいたのでしょう。

1873年、外務卿の副島種臣が北京に赴き、清国政府に責任を問いただします。清国は、台湾の先住民は”化外”であり、清国に責任はないとします。明治政府は、世情不安が続く国内の目を海外にそらすためにも、台湾出兵を決断します。維新後、初となる海外派兵でした。3,600名の兵員が、パイワン族支配地域へ派遣されます。双方の死者こそ少なかったものの、日本兵500人以上がマラリアで死亡しています。当然、清国政府は出兵に抗議しますが、交渉の結果、賠償金の支払いに応じています。このことによって、琉球は、日本の領土と認められたことになります。しかし、その後も、清国は宗主権を主張し続け、また琉球藩内部にも同調する勢力が存在したことから、1879年、明治政府は軍と警察を派遣して首里を威圧し、沖縄県を設置します。

これは琉球処分と呼ばれていますが、事実上、琉球の併合を意味します。当然、清国は激怒します。アメリカが仲裁に入りますが、不調に終わり、1894年の日清戦争へとつながっていきます。それにしても、征韓論で政府が二分されるなか、朝鮮派兵には反対する閣僚たちも台湾出兵には賛成したということは、矛盾する判断のようでもあり、実に興味深いと思います。征韓論に反対する主な理由は、今は国力増強に徹すべきだというものでした。台湾出兵でも同じ理屈が成り立ちます。目的も、規模も違うと言えば、それまでですが、ともに清国との全面戦争へ展開するリスクは否定できなかったはずです。やはり、清国政府の”台湾先住民は化外である”という回答に象徴される台湾軽視の姿勢が大きな誘因になったのではないでしょうか。

日清戦争後、清国は台湾を日本に割譲します。日本統治下での50年間、国民党独裁下での50年間を経た後に台湾は民主化されます。現在の台湾は中国からの強い圧力を受けています。台湾進攻が習近平に残された課題であり、軍事行動は近いのでは、と中国人の知人が言っていました。そうは思えません。現状こそ、双方にとって最も望ましい姿だと思うからです。経済的には台湾は既に中国の影響下にあり、アメリカとの戦争リスクを冒してまで侵攻するメリットは薄いと思います。習近平としては、国内外に対して、やるぞ、やるぞ、というスタンスを取り続けることが最も賢い選択だと思えます。ただ、昨今のトランプ関税がトリガーになる懸念も多少あります。一方、沖縄は、基地問題という難問を抱え、事実上、両属国の悲哀のなかにあるとも言えます。台湾海峡の緊張は、沖縄の基地問題に大きな影を落としています。(写真出典:news.livedoor.com)

2025年4月15日火曜日

ダブ・セクステット

菊池成孔がダブ・セクステットを再結成したというので、ブルーノートに出かけました。とてもエキサイティングなライブでした。ダブ・セクステットは、2007年に結成され、4年ほど活動します。私は、2度ほどライブを聴く機会がありました。1960年代っぽいモダン・ジャズとダブを融合するというチャレンジでした。サックス、トランペット、ピアノ、ベース、ドラムというモダン・ジャズの主流とも言えるコンボに、ダブ・エンジニアを加えた6人編成は、実に斬新でした。ダブは、1970年頃、レゲエから派生した手法です。エコーやループといった電子的なエフェクトを利かせた音楽の作り方です。ダブ・セクステットの場合、レゲエ調のジャズをやるのではなく、あくまでもモダン・ジャズにダブを利かせるスタイルです。

エフェクトをかけることで、モダン・ジャズが本来持っているつテンションやスリルが、より一層際立ってきます。面白いことに、エフェクトは、リードをとっている奏者ではなく、ダブ・エンジニアの感性で繰り出されます。それによって、ダブ・エンジニアは、ミキサーではなく、演奏者の一人となります。菊池成孔は、ライブは格闘だと言っています。そもそもモダン・ジャズの演奏は格闘だと思うのですが、ダブ・セクステットのライブは、プロレスのバトル・ロイヤル状態にまでなります。マイルス・デイビスもエフェクトを多用していましたが、ダブ・セクステットの場合は、かなり様子が異なります。多少、オーネット・コールマン的なアバンギャルドの要素も入りますが、あくまでもモダン・ジャズの王道をキープしながら、テンションを高めていくわけです。

ダブ・セクステットがリユニオンされた背景には、中国の音楽事情があったようです。数年前、ロンドンで火が着いた日本のシティ・ポップ・ブームが世界に拡散しました。ネット時代らしい話です。中国のおしゃれな若者たちの間でも、シティ・ポップ・ブームが起こり、日本に残っていたレコード盤が買い漁られ、ついには市場から姿を消すまでになったと聞きます。その後、若者たちの興味は、シティ・ポップの源流の一つとされる1970年代の日本のジャズへと流れたのだそうです。注目が集まるなか、北京と上海のブルーノートからの依頼を受けて、ダブ・セクステットのリユニオンが実現したというわけです。中国の巨大な消費パワーは、マグロ、カカオ、コーヒー豆等に次いで、日本のジャズ・シーンまで動かし始めたということになります。

ダブ・セクステットと言えば、ダーク・スーツに細いネクタイという60年代っぽいステージ衣装も注目されたものです。そのスタイルは、一時期、ブランド化され販売もされていました。今回も、基本的には同じ衣装で登場していました。このあたりも含めて、菊池成孔という人は、単なる演奏者を超えたところのある面白い人だと思います。銚子の食堂の息子として生まれますが、兄はSFやファンタジー系の小説家の菊地秀行です。菊池は、音楽にのめり込み、兄の蔵書を読みあさって育ったようです。テナー・サックス奏者としては、下積みが長く、結構、遅咲きでしたが、その個性は、エッセイスト、ラジオ・パーソナリティ、作曲家、大学講師などと幅広く開花します。ジャズマンというよりも、マルチに活躍する文化人といった風情です。

ダブ・セクステットのドラムは、多彩なドラミングを展開する本田珠也です。彼は、ヴォーカリストのチコ本田とピアニストの本田竹広の間に生まれています。チコ本田は、渡辺貞夫の妹で、ドラムの渡辺文男の姉です。いわゆるジャズ一家に育ったわけで、そのセンスの良さも頷けます。バークレー出のベーシスト・鈴木正人もセンスの良さは抜群です。坪口昌恭は大学で教鞭もとるピアニストですが、今回はシンセも取り入れた演奏を披露していました。トランペットの類家心平は、自衛隊音楽隊出身という異色の経歴の持主ですが、パワフルな音を響かせていました。今回のライブには、菊池ファミリーの一員ラッパーのQNも一曲だけ参加していました。スローな曲でしたが、意外にも違和感なく聞けました。これも菊池マジックかと感心した次第です。(写真出典:bluenote.co.jp)

2025年4月13日日曜日

西京味噌

2025年現在、京都には、ミシュラン3つ星の店が5店あります。なかでも、創業400年の「瓢亭」と110年の「菊乃井」は、ミシュランガイド京都・大阪版スタート時から、16年間、3つ星を維持しています。続いて14年間3つ星を獲得しているのが創業200年の「一子相伝 なかむら」です。なかむらは、名物”ぐじの酒焼き”と”白味噌雑煮”で知られます。この二品は、いまだに一子相伝の技で調理されます。一度、食しましたが、いずれも絶品でした。特に白味噌雑煮には驚きました。白味噌、いわゆる西京味噌の汁に、焼いた丸餅が一つ入っているだけの実にシンプルな代物です。ところが、その深い味わいには感動させられました。出汁と西京味噌が相乗効果を生んでいるということなのでしょう。 

白味噌の歴史は、天保元年(1830年)、腕の立つ丹波杜氏として知られていた丹波屋茂助が、御所からの用命を受けて作ったことに始まります。白味噌は、米麹、大豆、塩だけで作られます。短期熟成、低塩分で仕込まれた白味噌は、自然な甘みとなめらかな口当たりが特徴とされます。まさに公家文化のなかで育まれた味噌と言えるのでしょう。しばらくは、御所御用達として宮中にお納められていたようですが、明治期からは一般にも販売されるようになります。都としての京都はそのままに天皇が奠都した江戸は、東の京、つまり”東京”と改称されます。対して、京都は西の京”西京”とも称されることになります。以降、京の白味噌は西京味噌と呼ばれることになりました。昨今では、白味噌のうち、京都府味噌工業協同組合が認定したものだけが西京味噌と呼ばれます。

組合が認定する西京味噌は、京都府内に所在し、創業50年以上、もしくは味噌技能士1級以上の技術者が在職する組合員が、京都府内で製造する低塩多麹の味噌のうち、組合認定の材料、製造工程をもって製造され、品質審査委員会が認定したものに限るとされます。なかなかに京都らしい基準のもと、厳しいブランド管理がされているわけです。シンプルな工程がゆえに、原材料と職人の腕の良さが品質を左右するということなのでしょう。現在、組合員は7社となっており、最も有名なのは丹波屋茂助を初代とする西京味噌(本田味噌)ということになります。西京味噌と本田味噌との関係がよく分からないのですが、初代も現社長も同じで、同じ敷地内にあるようなので、同じ会社の別ブランドということなのでしょう。

味噌の種類は、大雑把に言えば、麹の種類と熟成期間で分けられます。麹の区分で言えば、米麹を使う米味噌、麦麹を使う麦味噌、豆麹を使う豆味噌の3種に分けられます。最も一般的なのが米味噌であり、麦味噌は九州と四国西部、豆味噌は中京エリアで使われます。熟成期間で見れば、短期熟成が白味噌、長期熟成させメイラード反応によって色が濃くなったものが赤味噌と呼ばれます。赤味噌は、濃いコクが特徴ですが、豆味噌である八丁味噌、米味噌の仙台味噌などがよく知られています。白味噌では、江戸甘味噌や信州味噌が有名ですが、最高峰に位置しているのが低塩多麹の西京味噌だと言えます。西京味噌は、マイルドな甘味やなめらかさゆえ、和食に限らず、洋食、中華、デザートのコク出しとしても幅広く活用されています。

最近、麹の量を増やした白味噌がスーパーにも並んでいます。美味しいのですが、さすがに西京味噌独特のまろやかな甘味には欠けます。私は、赤味噌系と合わせて自分なりの合わせ味噌にして楽しんでいます。西京味噌の魅力を最も端的に伝える料理は、京風の出汁と合わせた汁物なのかもしれません。個人的には、魚類の西京味噌漬けがお気に入りです。美味しさで言えば、魚久の京粕漬けと甲乙付けがたいところではあります。いずれも発酵の力が存分に効いているわけです。ただ、やはりまろやかな甘味という点では西京味噌が勝っていると思います。西京味噌は、確実に人を幸せにする食べ物の一つだと思います。(写真出典:honda-miso.co.jp)

2025年4月11日金曜日

ルーシー・ブラックマン事件

2000年7月、元ブリティッシュ・エアウェイズのCAで、六本木でホステスをしていたルーシー・ブラックマンが行方不明になります。警察は、ホステスが男と接触後に行方不明となるケースが多く起きていたことを掴みます。捜査線上に浮上したのは資産家の男でした。警察は、男を別件の準強制わいせつ容疑で逮捕し、赤坂の高級マンション、逗子のリゾート・マンションを家宅捜索します。そこには男が、長年に渡り、薬物を用いて行ってきた性的暴行のメモやビデオが多数残されていました。被害者数は200人を超え、戦後最悪の性的暴行事件となります。ただ、被疑者は、あくまでも金銭的合意に基づく行為だったと主張します。そして、ルーシー・ブラックマンとの関係は否定し続け、また、接触を証明する証拠も見つかりませんでした。 

その後も、警察は、集めた状況証拠を突きつけて自白を迫りますが、落とすことはできませんでした。自白がないまま、警察は闇雲とも言える遺体捜索を行い、幸運にも、2001年2月、油壷の被疑者のマンション近くの洞窟で、切断されたルーシー・ブラックマンの遺体を発見します。これで殺人事件になったわけですが、それでも被疑者の自白は得られず、殺人を決定づける証拠も入手できませんでした。一方で、警察は、メモに残された性的暴行の被害者数十人を特定しますが、多くは、薬物で昏睡していたために暴行された記憶がなく、またビデオで暴行が確認できても告訴を望みませんでした。それでも日本人4人と外国人6人が告訴に応じ、ルーシー・ブラックマンの殺人を含めて裁判が始まります。裁判は、実に7年に及ぶことになります。

結果、男は暴行罪等で無期懲役となりますが、ルーシー・ブラックマンの殺人に関しては無罪となります(後に誘拐、死体損壊・遺棄で有罪)。十分過ぎるほどの状況証拠がありながら、法医学的証拠がなかったためです。被疑者は、犯行に際して周到な準備を行っていたわけですが、その几帳面さが、一方でメモやビデオ、領収証類の保管にもつながっていたのでしょう。自白しなかったのは、そもそも殺意がなかったことに加え、被疑者の並外れて強い精神力、資産家の被疑者が雇った多くの弁護士の支えもあったからなのでしょう。被疑者は大阪の在日韓国人として生まれ、極貧の生活をした後、父親がパチンコ店経営や不動業で莫大な財産を築いています。被疑者は、幼い頃からいじめも経験し、社会に対する恨みも持っていたのではないかと思われます。

不思議なことに、大手マスコミは被疑者の出自に関して、当時から今に至るまで、一切、報道していません。差別問題化することを懸念したからだとされます。しかし、パチンコ業界がTVCMの大のお得意先であることから、TV・新聞報道に圧がかかったか、あるいは自主的に報道を避けた可能性もあると思われます。もちろん、差別報道などもってのほかですが、まったく報道されないことも異常と言わざるを得ず、日本のマスコミの体質が露わにあった事件だとも言えます。同様に、自白頼みと言われる日本の警察の弱点が露呈した事件とも言えます。警察が得意とするかつ丼、母親の訴えといった自白を促す情緒的な手法も通じなかったわけです。また、数々の冤罪事件を生んできた威圧的で執拗な取り調べも行われていないようです。それはそれでまともなことだとは思いますが、パチンコ業界が警察の天下り先として知られていることと無関係であればよいのですが。

この事件の特異性の一つに、冤罪キャンペーンがあります。裁判が行われている最中、冤罪を訴える書籍が刊行され、ウェブ・サイトが開設されています。すべて、被疑者の弁護士が行ったことだとされています。また、事件は、海外でも注目されました。ルーシーの家族がたびたび来日し、事件は英国でも報道されました。当時のブレア英国首相が訪日した際には、来日中だったルーシーの家族と会っています。外国人が被害者であったこと、史上最悪級の性的暴行事件であったことに加え、当時の警察が外国人の事件に熱心ではなかったとされる点、海外とは異なる日本の司法制度なども注目されたのでしょう。一昨年には、Netflixがドキュメンタリー映画を製作し、世界中で公開しています。いずれにしても、多くの闇を抱えた歴史的大事件だったと言えるのでしょう。(写真出典:afpbb.com)

2025年4月9日水曜日

「ドマーニ」

 監督:パオラ・コルテッレージ     2023年イタリア

☆☆☆☆ー

イタリアで歴史的大ヒットを記録したというコメディです。第二次大戦直後のローマを舞台に、パラサイト的半地下に住む家族の家父長制、男尊女卑、家庭内暴力がモノクロームで描かれます。娘の結婚を巡るドタバタのなかで、主人公の主婦が明日への希望を見出してゆくというストーリーです。社会派コメディの笑いのツボは、なかなか外国人には分かりにいものですが、結構、笑えました。まるで昭和のコメディですが、人間国宝クラスの師匠が語る古典落語といった風情もありました。監督・脚本・主演のパオラ・コルテッレージは、イタリアで最も人気のある女優・コメディアン・歌手であり、本作が初監督作品となります。コメディアンとしては、有名人のものまねが得意と聞きますから、センスのいい人なのだろうと想像できます。

第一次大戦では戦勝国となったイタリアですが、戦後は深刻な不況と回復できない領土問題を抱えます。そうした社会不安を背景に、ムッソリーニ率いるファシスタ党が躍進し、独裁政権が誕生します。日独伊三国同盟が結ばれ、イタリアは枢軸国として第二次大戦に突入しますが、国力が不十分だったイタリアの軍事力には限界があり、次第にナチス・ドイツの支援に依存するようになります。戦況に不安を覚えた反対派によってムッソリーニは逮捕されます。ナチスは、ムッソリーニを奪還し、連合国側にまわったイタリアに侵攻します。1944年6月、連合国はローマを開放し、イタリアは戦勝国として第二次大戦を終えます。戦後は、アメリカ軍が駐留し、治安維持にあたりました。

映画は、まさにその時代を背景としており、ローマ市内の米軍の検問所も登場しています。庶民の生活は苦しく、物不足も深刻であり、戦勝国と言いながらも、その光景は日本の敗戦直後に重なるものがあります。家父長制や男尊女卑、あるいは家庭内暴力についても、その状況は、イタリアも日本も似たようなものだったのでしょう。女性参政権が実現したのも、ともに1946年となっています。本作では、男尊女卑の光景を、白黒の画面でコミカルに描き、暴力シーンはミュージカル風に仕立てるなど笑える工夫がされています。映画が大ヒットした大きな要因がここにあると思います。つまり、男尊女卑など過去のことだよね、と笑い飛ばしながらも、女性の地位向上は女性自身が勝ち取ってきたんだよね、と語っているわけです。

そして、それは完全に終わった過去の話とも言い切れず、女性は引き続きがんばるべきだとも訴えているように思います。その監督の思いは、オープニンとクロージングに流れる現代的な楽曲にも現れています。シャンタル・アケルマンの「ジャンヌ・ディエルマン・・・」(1975)を頂点に、多くの優れたフェミニズム映画が撮られてきましたが、本作のアプローチは画期的だと思います。従来、フェミニズム映画の多くは、挑戦的でラディカルなアプローチを採ってきました。それはそれで当然のことだと思います。しかし、本作はノスタルジックなコメディの体裁をもってフェミニズムとエンターテイメントを融合させ、より広く、より効果的にフェミニズムを訴求できていると思います。ラストのオチなど見事に本作の性格を明らかにしています。

イタリア語の会話は、その小気味よいテンポが実に魅力的で、たまに聞きたくなるほどです。本作でも、その魅力が存分に発揮されています。我々では理解できませんが、恐らく本作はローマの下町言葉が使われており、一層小気味よいものになっているのでしょう。主人公と米兵とのコミカルなやりとりなど、それだけで立派な一幕として成立しているように思えます。パオラ・コルテッレージ監督のコメディアンとしてのセンスが十分に活かされてと言えるのでしょう。古典落語を聞いているようだったと書きましたが、思えばローマっ子のイタリア話と、江戸っ子のべらんめえ調は、相通じるところがあるようにも思います。いや、それどころか、世界中の下町言葉は、おしなべて歯切れがよく、よく似ているものかもしれません。(写真出典:eiga.com)

2025年4月7日月曜日

難読地名

関西に行くと、難読地名の多さに驚かされます。よく例として取り上げられるものとして、太秦(うずまさ)、放出(はんてん)、柴島(くにじま)、十三(じゅうそう)、杭全(くまた)、京終(きょうばて)、御所(ごぜ)等々がありますが、ごくごく一部に過ぎません。歴史の古さゆえ、大昔の読み方がそのまま残ているということなのでしょう。印象としては、京都よりも、大阪や奈良の方が、難読度が高いように思います。大阪や奈良のローカル線に乗っていると、難読駅名のオンパレードです。考えてみると、平安京よりも平城京、平城京よりも難波宮の方が古いわけですから、当然の結果なのかもしれません。

当然のことながら、地名には由来があります。関西の場合には、ストーリーのある由来が多いように思います。例えば、放出は、7世紀、天智天皇の頃、道行という僧が、三種の神器の一つである草薙の剣を盗み出し、新羅に逃げようとします。ところが、突然の荒天で道に迷った道行は放出あたりにたどり着きます。祟りを恐れた道行は、ここで草薙の剣を放り出したので、以降、この地は放出と呼ばれるようになったというのです。日本書紀にも記載される事件ですが、道に迷ったのではなく、船が難破したというヴァージョンもあるようです。ちなみに、草薙の剣は、名古屋の熱田神宮に安置されていますが、これは天智天皇が重い病に冒されたおり、草薙の剣の祟りを恐れ、手元から熱田神宮に移したからだとされています。

過日、堺へ行った際、友人が、中百舌鳥(なかもず)は有名だけど、上百舌鳥や外百舌鳥はないのだろうか、という疑問を呈していました。実は、中百舌鳥以外の地名はありません。地名の由来は、4世紀の仁徳天皇にまでさかのぼります。仁徳天皇が、このあたりで狩猟をした際、鹿がふらふらと出てきて、バタリと倒れます。不思議に思って調べてみると、耳から飛び込んだ百舌鳥が脳みそを食い荒らしていました。よって、この地を中百舌鳥と呼ぶようになったというのです。百舌鳥は、それほど小さな鳥ではありませんから、思いっきり眉唾ものの話です。近いことが起きたとすれば、偶然、百舌鳥が鹿の口に飛び込み、鹿が窒息死したのではないかと思います。いわゆるバード・ストライク事故です。

関西に次いで難読地名が多いのが北海道だと思います。最も難しい地名として知られるのは釧路の「重蘭窮」です。”ちぷらんけうし”と読みます。北海道の難読地名の由来は、実に明快です。アイヌの人々が呼んでいた地名に、無理やり漢字をあてたからです。カタカナのままでもよかったと思うのですが、幕末、明治初期なら、やはり漢字以外ありえなかったのでしょう。なお、重蘭窮はアイヌ語で”船を見下ろす場所”を意味します。ちなみに札幌は、アイヌ語で”サッ・ポロ(乾いた広いところ)”、あるいは”サリ・ポロ・ペッ(大きな湿地のあるところ)”だと聞きます。私のお気に入りの難読地名は札幌郊外の「花畔」です。”ばんなぐろ”と読みます。アイヌ語の”パナ・ウングル・ヤソッケ(川下人の漁場)”に由来するそうです。

かつて北海道は、松前藩を除き、蝦夷地、つまりアイヌの土地として、国の外でした。幕末に至り、ロシアに対する国防上の観点から日本国に組み込まれます。探検や入植が進むにつれ、地名として新たな和名をあてることもできたはずです。例えば、広島県の人々が入植した地は北広島と名付けられています。ところが、アイヌの言葉が優先されています。アイヌへの敬意だったのか、便宜上の問題だったのかは分かりません。北海道と同様に新天地だったアメリカの場合、オランダから島を奪取したヨーク公にちなんでニュー・ヨークと名付けるといった例もありますが、シカゴは先住民の”偉大な”あるいネギが繁殖する”臭い所”という言葉に由来するとされます。実は、アメリカ50州の半数以上が、先住民の言葉に由来する地名だと聞きます。表音文字の世界に難読地名という問題は存在しませんが、発音しにくい地名は存在します。(写真出典:news.yahoo.co.jp)

2025年4月5日土曜日

「ミッキー17」

監督:ポン・ジュノ       2025年アメリカ・韓国

☆☆☆

あらためてポン・ジュノ監督の腕の良さに感心しました。さすがです。ただ、残念ながら、映画としては、まとまりに欠け、散漫な印象を受けました。原作との関係なのか、、プロダクション・サイドから横やりが入ったのか、とにかくテーマに対するフォーカスがブレブレでした。複数のテーマが並列的に扱われており、まるで3本くらいの映画を一度に見せられているような印象すら受けました。評論家の評価はそこそこ良かったのですが、興行的にはコケて、大赤字になるようです。前作「パラサイト」の大ヒットを受けて、製作会社が監督の好きに撮らせた映画なのかもしれません。ただ、レベルは高いのに、中途半端な印象だけが残る映画でした。

パラサイトは、実に良く出来た映画でしたが、ポン・ジュノと言えば、いまだに「殺人の追憶」(2003)がベストだと思っています。監督の長編2作目でしたが、韓国映画を変えた記念碑的作品だと思います。長らく低迷していた韓国映画界が大きく変わったのが1990年代でした。韓国映画のルネサンス期とも呼ばれます。個人的には、パンソリ師の世界を描いた「風の丘を越えて/西便制」が印象に残っています。1997年には、アジア通貨危機のあおりを受けて、韓国はIMFの支援を受けることになります。いわゆるIMFショックであり、韓国経済界は大きく変わっていきます。IMFの指導のもと、コンテンツ輸出も政府の外貨獲得策の一つとされ、音楽界や映画界も大きな変革の時を迎えます。いわゆる韓流ブームの始まりです。

1998年の「八月のクリスマス」、1999年に大ヒットした「シュリ」や「カル」は、今に続く韓国映画隆盛の源流になった作品だったと思います。そうした背景のうえに、2003年、「殺人の追憶」が公開され、大ヒットを記録します。作家主義とエンターテイメントが高いレベルで融合し、韓国映画のレベルの高さを決定づけた作品だったと思います。私は、いわゆる韓流ドラマにもコリアン・ポップにも興味はありません。ただ、「殺人の追憶」以降、韓国映画だけは大好物になりました。ポン・ジュノ映画の大きな特徴の一つは、自然主義だと思います。観客の首根っこを掴んでドラマを押しつけるスタイルではなく、観客の感性や判断に委ねる間合いが巧みに取り込まれ、観客を映画にシンクロさせているように思います。ポン・ジュノのユーモア、ファンタジーといった傾向は、そうした自然主義の現れのように思えます。

今回も、そうしたポン・ジュノの特徴は出ていたとは思います。ただ、本作に、パラサイトで見せたテーマへの訴求力はなく、十分にポン・ジュノの魅力を発揮するには至っていません。本作には、クローンが内在する倫理観や死生観、トランプもどきの独裁者への批判、怪獣に託した移民問題といったモティーフが詰め込まれ過ぎており、テーマが迷走してしまったところがあります。結果、テーマを訴求する過程で発揮されるポン・ジュノの強みが、冗漫さにつながっている面があります。世界のポン・ジュノとなった今、本作がコケたとしても、金を稼げる監督をハリウッドが手放すとは思えません。ただ、ポン・ジュノには、韓国社会の今、あるいは本質を見つめる映画を、韓国で撮ってもらいたいものだと思います。

本作におけるクローンは、議論を避けるようにファンタジー化されています。クローン技術は、猫、犬、猿を生成するまでになっており、クローン人間も可能な段階に来ているのでしょう。本作では、3Dプリンターを使って成人として生成されますが、現実的には新生児として誕生することになります。後天的な要素も含め、完璧に同じ人間になるわけではないようです。いずれにしても、クローン人間の生成は法的に禁止されています。その根拠としては、倫理観の問題、同じ人間が複数存在する社会的混乱、クローンの奴隷的扱いへの懸念などが挙げられています。必ずしも統一されていない点が気がかりではあります。なお、2004年、アメリカでニッキーという猫から”リトル・ニッキー”というクローンが生成されています。いわゆる”コピー・キャット”です。本作のタイトルは、この猫からイメージされているようにも思います。(写真出典:eiga.com)

2025年4月3日木曜日

助六

いなり寿司と太巻きがセットになれば、助六寿司、ないしは単に助六と呼ばれます。宗家成田屋の歌舞伎十八番の一つ「助六由縁江戸桜」に由来します。助六寿司は、助六のトレードマークである江戸紫の鉢巻きから太巻き、助六の恋人である遊女・揚巻の名前からいなり寿司、というシャレです。助六は、江戸中期に二代目市川團十郎が初演して以来、現在に至るまで、最も人気のある歌舞伎の演目であり続けています。助六は、上演時間が2時間に及ぶものの、場面転換が一切ないという一幕ものです。曾我兄弟の仇討ちをベースとする話ではありますが、決してストーリー・テリングをメインとした演目ではないということなのでしょう。

助六は、粋でいなせな江戸っ子気質を端的に現わしていると言われます。江戸の文化が凝縮されているからこそ、人気演目になったのでしょう。まずは衣装ですが、黒羽二重の小袖に紅裏、浅葱無垢の下着を一つ前にし、右巻きにした江戸紫の鉢巻という姿は、当時の色男のファッションを最も尖った形で現わしているのでしょう。ちなみに、左巻きの鉢巻きは病人用となります。青味の強い江戸紫という色は、武蔵野に自生するムラサキソウを用いて江戸で染めたもので、赤味の強い京紫に対抗する意味もあったとされます。江戸で大人気となり、江戸の産物の一つとされました。台詞も、べらんめえ調の名台詞が小気味よく繰り出されます。また、見得をはじめ所作もいちいち決まっています。出端の河東節も名物の一つです。

河東節は、浄瑠璃の一派とされ、江戸中期には吉原を中心に大流行したようです。その後、廃れはしたものの、艶やかな楽曲は見事なものです。いずれにしても、江戸の庶民は助六の格好良さに狂喜乱舞し、それぞれ真似をしたものと思われます。助六は、歌舞伎の華やかさや艶やかさを詰め込んだ、いわば江戸の庶民文化のショーケースと言えるのでしょう。”江戸三千両”という言葉がありますが、魚河岸、芝居小屋、吉原を指し、それぞれ日に千両の金が動くと言われたそうです。現在価値なら数億円ということになるのでしょう。助六の舞台は吉原の遊廓・三浦屋前となっています。助六の鉢巻きは魚河岸を象徴しているとされます。そういう意味でも、助六は、江戸文化の象徴だと言えますが、あくまでも江戸の華やかな面に限ってのことです。

人口100万、世界最大の都市だったと言われる江戸ですが、もちろん、人口統計など存在せず、あくまでの推定100万人ということです。武士だけは統計資料が残り、60万人だったようです。町人は推定で50万人以上とされます。ところが、土地は武家地が7割近くを占め、町人の多くは四畳半一間の長屋に家族で暮らしていました。江戸っ子は宵越しの金は持たないなどと言いますが、実際のところ、多くは日給仕事で宵越しの金など持てなかったようです。江戸っ子の気っぷの良さとは、将来のことなど考える余裕もないその日暮らしの生活が生んだものだったのでしょう。上質な商人文化も生まれた江戸ですが、庶民は刹那的な快楽を求め、芝居小屋、寄席、遊廓に出向き、博打や喧嘩に入れ込んでいたものと想像できます。

町人姿の助六ですが、本当は曾我兄弟の弟であり、武士です。二本差し(武士)が怖くて目刺しが食えるか、とは江戸庶民の心意気を表す言葉ですが、庶民は特権階級である武士に憧れも持っていたはずです。助六のモデルは、蔵前の米の仲介業者・大口屋暁雨という説があります。文化人でもあり、吉原の通人としても名を馳せた大商人です。助六の恋人・揚巻は吉原の花魁であり、現代なら超セレブです。庶民が会えるような人ではありません。つまり、助六は、その日暮らしの人々にとっては、憧れの存在であり、夢の塊だったわけです。少し前なら、ジュームス・ボンドに近いものがあるのでしょう。憧れとは、対象との距離の遠さを示すものでもあります。華やかな江戸文化の象徴としての助六人気は、江戸庶民の厳しい生活の裏返しでもあるのでしょう。(写真:13代目市川團十郎 出典:kabuki-bito.jp)

2025年4月1日火曜日

「ロングレッグス」

監督:オズグッド・パーキンス                2024年アメリカ

☆☆ー

アメリカでの評価が高く、大ヒットし、B級映画なのにニコラス・ケイジが出演していて、アンソニー・パーキンスの息子が監督で、しかも配給がネオンだというので観に行きました。行ったことが悔やまれるほどの駄作でした。そもそもホラー・サスペンスは好みではないこともありますが、あまりにも定番のモティーフをゴチャゴチャ詰め込み過ぎており、かつ基本的な映画文法すらできていないように思いました。ただ、プロットの着想は新鮮で面白いと思いました。同じプロットを、もう少し脚本を整理して、もう少し腕の立つ監督に撮らせたら、結構、面白い映画になるのではないかと思いました。

配給会社のネオンは、2017年に設立された新しい会社ですが、続けざまに良い映画をリリースしています。ヒット作や話題作を配給する確率だけなら、A24をはるかにしのいでいると思います。「パラサイト」、「アノーラ」はアカデミー作品賞、「悲しみのトライアングル」、「落下の解剖学」はカンヌでパルム・ドールを獲得し、他にも「アイ、トーニャ」、「パーフェクト・デイズ」、「フェラーリ」等があり、なかでも「燃ゆる女の肖像」、「わたしは最悪。」は好きな映画でした。とにかく勢いのある配給会社だと思います。映画の配給会社は、配給に関する一切の権限を持ち、時には製作に金も口も出す場合もあります。もちろん、マーケティングも担当するわけですが、本作のマーケティングは、とりわけ見事だったと言えそうです。

ネオンが採ったマーケティング手法は、いわゆるゲリラ・マーケティングだったようです。ゲリラ・マーケティングとは、TVやラジオCM、チラシ・パンフレット、ポスターといった伝統的な広告手法に依存しないマーケティングです。1980年代に知られるようになった手法です。ネットの時代になると、SNS等を活用した様々な手法が生まれました。今は規制されているステルス・マーケティング、いわゆるステマも典型的なゲリラ・マーケティング手法です。ネオンは、YouTubeやSNSを活用して断片的で刺激的な各種情報を流し、話題性を高めっていったようです。なかでも、ビルボードに電話番号だけを掲載し、電話すると気味の悪いメッセージが流れるといった手法は斬新で注目を集めたようです。

つまり、マーケティングの成功により、ロングレッグスは、公開前から一定の話題性を持っていたわけです。マーケティングのターゲットは全国民ではなく、主にホラー映画ファンが食いつくように仕掛けられていたわけです。ターゲットを絞ることからマーケティングは始まります。基本中の基本です。カルト的なホラー映画ファンたちがSNS上で騒げば、拡散する可能性は極めて高いと想定できます。うまい作戦を考えたものです。批評家たちの本作に対する評価は高いのですが、私にはイマイチ映画としか思えません。大ヒットしたことは間違いないのですが、内容よりもマーケティングの成功がヒットの要因だったように思えます。ある意味、SNSが生んだヒット作と言ってもいいのかもしれません。

監督の父親であるアンソニー・パーキンスは、青春スターとしてキャリアをスタートさせていますが、なんといってもヒッチコックの「サイコ」(1960)のノーマン・ベイツ役で名前を上げた人です。同性愛や麻薬でスキャンダルを起こしたことでも知られますが、生涯、ノーマン・ベイツに取り憑かれた人だったと思います。それは単なる当たり役を超えており、本人の本質そのものといった風情もありました。その息子もホラー映画の役者、監督になっているわけですから、ほぼ家業に近いものがあります。ちなみに監督の母親は、イタリアのファッション・デザイナーであるエルザ・スキャパレッリの孫で、同時多発テロの際、ワールド・トレイド・センターに突っ込んだ飛行機に搭乗していました。(写真出典:en.wikipedia.org)

マクア渓谷