16世紀末に起こった文禄・慶長の役の際、多くの朝鮮人陶工が日本に連行され、日本のやきものを大きく変えます。最も有名なのは、有田焼を作った李参平ということになります。薩摩焼も、島津義弘が朝鮮から連れ帰った陶工によって始まります。薩摩焼を代表する名工・沈壽官は15代を重ねて今に至りますが、やはり文禄・慶長の役の際に連行された陶工を祖とします。やちむんは、当初、海産物や泡盛を輸出する際の器として作られたようです。その後、生活陶器へと展開し、宮廷のみならず庶民の家庭にまで広がっていきます。当然ですが、その過程のなかで琉球の文化とシンクロし、やちむんが誕生するわけです。特に、器の厚みに関しては、沖縄に独特な赤土という土壌が大きな影響を与えることになります。
本土の土壌は、一般的に赤土の上に黒土が堆積しています。黒土は、落ち葉や枯れ葉などが分解されて作られる有機物の層であり、腐植土とも呼ばれます。分解が進むと粒子が細かくなり、鉄分を含む赤土になっていきます。沖縄も同じなのですが、海洋性気候のために腐植土の分解が早く、結果、黒土層が薄くなり、さんご等に由来する石灰質を多く含む赤土が地表付近にまで露出することになります。陶土としては、のびとこしがなく、厚手のやきものに適していると言われます。ただ、明治以降、本土から薄くて丈夫で安価なやきものが入ってくると、厚手のやちむんは衰退していきます。やちむんを救ったのは、大正末期に始まる民藝運動でした。沖縄の紅型ややちむんは、民藝運動初期の重要なテーマ、アイテムとして注目を集めることになります。
やちむんと民藝の関わりは、運動開始以前から始まっています。1917年、民藝運動の中心人物となる濱田庄司と河井寛次郎は沖縄を訪れ、やちむん中興の祖となる新垣栄徳と親交を結びます。その後、濱田は、壺屋に長逗留して、作陶に励むことになります。その際、新垣栄徳に弟子入り間もない金城次郎にも会っているようです。金城次郎は、1985年、沖縄県初となる人間国宝に認定されることになります。濱田がリードした民藝調のやきものは、壺屋で生まれたと言っても過言ではないと思います。一方、柳宗悦も、学生時代から紅型をはじめとする沖縄の染織や絣に興味を持っており、濱田とともに幾度も沖縄を訪問しています。日本が戦時体制に入っていく頃、柳宗悦は、沖縄の言葉を巡って、沖縄県と大論争を行っています。
沖縄県は、戦時統制の一環として方言の使用制限を徹底します。柳宗悦らは、琉球文化を守る観点から猛反対します。これは民藝運動の不可思議さを物語っています。民藝とは、手仕事が生んだ日常雑器に美を見い出す生活文化運動とされます。しかし、美を見い出した瞬間、美術品と化し、作家主義が生まれます。生活雑器に関わる運動ながら、反近代主義、反西洋至上主義といった政治的な側面も見せます。民藝運動は、多くの矛盾や曖昧さを内包しているとも言えるのでしょう。生活を豊かなものした民藝運動の功績は大きいと思いますが、あくまでも生活の中にあっての民藝だと思います。やちむんは魅力的ですが、ほとんど買ったことはありません。自分の生活のなかでの居場所がイメージできないからです。やはり、沖縄の文化は、沖縄へ出かけて、あの優しい空気感のなかで楽しむべきものなのでしょう。手に取るなやはり野におけ蓮華草。(写真出典:nirai-kanai.shop)