今回、数少ない旧軍史跡である豊見城市の海軍司令部壕に行ってきました。1944年10月10日の沖縄大空襲を受けて、急遽、作られた地下施設です。現在は那覇空港となっている旧軍の小禄飛行場を見下ろす丘に作られています。沖縄の旧軍施設の多くは、住民を使役して作られていますが、ここは機密性が高いということで兵士だけで掘られたようです。突貫工事だったこともあり、手掘りの痕跡が見て取れます。重要な部屋は、漆喰とコンクリートで補強もされています。総延長450m、司令官室、作戦室、幕僚室、暗号室等々が作られています。決して大きな壕ではありませんが、最大で4,000人が立錐の余地もない状態で立てこもったようです。司令部は、6月11日、米軍の総攻撃を受け、13日夜半、大田司令官の自決をもって陥落しています。
司令官であった大田実海軍中将の海軍次官に宛てた最後の電報が「沖縄県民斯ク戦ヘリ 県民ニ対シ後世特別ノ御高配ヲ賜ランコトヲ」と結ばれていることは、よく知られます。軍人としては、負け戦を謝し、天皇陛下万歳と締めくくるのが常道です。しかし、大田司令官の電文は、終始、沖縄県民の貢献と犠牲について語られています。沖縄戦での双方の犠牲者は20万人、うち日本側は188千人。その内訳は島外から来た日本兵が66千人、県内出身は122千人であり、県民の4人に1人が亡くなっています。そのうち94千人が民間人、28千人が現地召集の兵士とされます。民間人犠牲者のうち54千人が準軍属とされ、ほぼ強制的に戦闘や後方支援に徴集された人々です。なかには、ひめゆり部隊はじめ多くの学生たちも含まれていました。
大本営は、多くの民間人が犠牲となったサイパンでの轍を踏まないよう、老幼婦女子と学童の九州、台湾、本島北部への疎開を計画します。しかし、疎開は進みませんでした。身寄りのいない土地への疎開が嫌がられたことに加え、増派された日本兵を見て、日本勝利を喧伝する兵士たちの声を聞き、島民の間には安堵感が広がっていたとも聞きます。準軍属化とプロパガンダが県民の犠牲を大きくしたと言えるのでしょう。また、日本軍が、大規模な機動的反撃ではなく、持久戦術を採ったことも民間の犠牲を拡大したものと考えます。その戦術は、アメリカ軍の犠牲者をも増やし、戦死者2万人は米軍史上3番目、死傷率は39%に達したとされます。その衝撃が、トルーマン大統領に原爆投下を決断させたとも言われています。
5月末、32軍司令部は、要塞化された首里司令部を放棄し、南部の摩文仁へと撤退します。海軍司令部には、軍司令部の撤退を援護した後に摩文仁に集結せよとの指令が出されます。しかし、曖昧な電文によって連携ミスが生じ、一旦は小禄陣地を放棄した海軍司令部は、再び壕に戻ることになり、アメリカ軍に包囲殲滅されます。壕には、大田司令官が自決した司令官室も残っています。最も印象的なのは、幹部たちが手榴弾で自決した痕が生々しく壁に残る幕僚室です。国の存続をかけて戦う戦争は、総力戦が常識となってから、多くの市民の犠牲を伴うものとなりました。何のための戦争なのか、誰のための戦争なのか、という疑問がつきまといます。沖縄は、今もそれを世界に問いかけ続けている島なのだと思います。(写真出典:okinawatraveler.net)