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牡丹郷 |
そんななか、1871年、宮古島から首里へ年貢を納めに行った帰りの船が台風にあい、乗員66名が台湾南端の牡丹社(現在の牡丹郷)に漂着します。乗員たちは、救助してくれたパイワン族の村で一夜を過ごします。ただ、言葉が通じず不安を感じた乗員たちは、夜になって逃げ出します。これを敵対行為と受け取ったパイワン族は54名を殺害します。命からがら逃げだし12名の乗員たちが、四苦八苦の末、宮古に戻れたのは7か月後だったと言います。これが、いわゆる牡丹社事件です。おりしも、明治政府は、征韓論を巡って内部対立を深めていましたが、アメリカの外交官の助言もあり、懲罰的に台湾へ出兵することを検討しはじめます。恐らく、この事件が琉球帰属問題を解決する糸口になる可能性があると見抜いた高官もいたのでしょう。
1873年、外務卿の副島種臣が北京に赴き、清国政府に責任を問いただします。清国は、台湾の先住民は”化外”であり、清国に責任はないとします。明治政府は、世情不安が続く国内の目を海外にそらすためにも、台湾出兵を決断します。維新後、初となる海外派兵でした。3,600名の兵員が、パイワン族支配地域へ派遣されます。双方の死者こそ少なかったものの、日本兵500人以上がマラリアで死亡しています。当然、清国政府は出兵に抗議しますが、交渉の結果、賠償金の支払いに応じています。このことによって、琉球は、日本の領土と認められたことになります。しかし、その後も、清国は宗主権を主張し続け、また琉球藩内部にも同調する勢力が存在したことから、1879年、明治政府は軍と警察を派遣して首里を威圧し、沖縄県を設置します。
これは琉球処分と呼ばれていますが、事実上、琉球の併合を意味します。当然、清国は激怒します。アメリカが仲裁に入りますが、不調に終わり、1894年の日清戦争へとつながっていきます。それにしても、征韓論で政府が二分されるなか、朝鮮派兵には反対する閣僚たちも台湾出兵には賛成したということは、矛盾する判断のようでもあり、実に興味深いと思います。征韓論に反対する主な理由は、今は国力増強に徹すべきだというものでした。台湾出兵でも同じ理屈が成り立ちます。目的も、規模も違うと言えば、それまでですが、ともに清国との全面戦争へ展開するリスクは否定できなかったはずです。やはり、清国政府の”台湾先住民は化外である”という回答に象徴される台湾軽視の姿勢が大きな誘因になったのではないでしょうか。
日清戦争後、清国は台湾を日本に割譲します。日本統治下での50年間、国民党独裁下での50年間を経た後に台湾は民主化されます。現在の台湾は中国からの強い圧力を受けています。台湾進攻が習近平に残された課題であり、軍事行動は近いのでは、と中国人の知人が言っていました。そうは思えません。現状こそ、双方にとって最も望ましい姿だと思うからです。経済的には台湾は既に中国の影響下にあり、アメリカとの戦争リスクを冒してまで侵攻するメリットは薄いと思います。習近平としては、国内外に対して、やるぞ、やるぞ、というスタンスを取り続けることが最も賢い選択だと思えます。ただ、昨今のトランプ関税がトリガーになる懸念も多少あります。一方、沖縄は、基地問題という難問を抱え、事実上、両属国の悲哀のなかにあるとも言えます。台湾海峡の緊張は、沖縄の基地問題に大きな影を落としています。(写真出典:news.livedoor.com)