2024年9月29日日曜日

マナー大国

最近、ネットで、日本はマナー大国である、という記載を見かけます。しかし、マナー大国の意味するところが、よく分かりません。調べて見ると、マナーの良い国、マナーにうるさい国、マナーが数多く存在する国等々、様々な意味で使われているようです。そもそも、マナーは、他人に迷惑をかけない、不快な思いをさせないよう行動することで、お互いが心地良く、円滑に社会的生活を送ろうという知恵だと思います。他者への気遣いということもできます。法律ではないので罰則はありませんが、社会的に認知された習慣として、尊重されるべき行動基準だと思います。強制的なものではなく、あくまでも個人の良識に委ねられる行動とも言えます。

類似した言葉に、礼儀、行儀、エチケット等があります。エチケットは、マナーとほぼ同じ意味で、多少、身近なものを指しているように思います。礼儀や行儀は、儒教が体系化した礼という思想を行動レベルで明確化したものだと思います。礼とは、大雑把に言えば、自然の摂理、神、先祖、他者を敬う、あるいは尊重することで人間社会が治まるという考え方だと思います。いずれにしても、マナーは、その社会における歴史、宗教、風土などに根ざし、また時代によっても変わっていくものだと思います。当然、国によって大いに異なります。ですから、各国のマナーを比較して、良いとか悪いとか論じることに意味があるとは思いません。大事なことはそれぞれの国のマナーを尊重することなのだと思います。

近年、インバウンドのお客さまが増加したことで、それぞれの常識やマナーが交錯する場面も増え、来日した側にも、受け入れる側にも混乱や戸惑いが生じているものと思われます。恐らく、そういった状況のなかで、マナー大国という不可思議な言葉も登場したのでしょう。かつて、アメリカに赴任する際には、アメリカにおけるビジネス・マナーや一般的なマナーを勉強して出かけたものです。短期的な旅行では、そこまでしないことも多いと思いますが、ある程度は知っておくべきだと思います。例えば、イスラム教国へ行ったら、女性は露出の高い服装は避ける、髪はスカーフ等で覆うといった気遣いはすべきだと思います。インバウンド客の皆さんも、ある程度は、日本におけるマナーを尊重いただきたいものです。

とは言うものの、肝心の日本人が日本におけるマナーを守っているかというと、甚だ心もとないものがあります。例えば、交通マナーです。日本では、車の合流地点でなかなか入れてもらえないという状況が起こりがちです。NYでは、ヤクの売人のようなチンピラでも、One by Oneの原則は必ず守ります。電車内のマナーに関しても、結構、腹立たしい思いをさせられます。一番は、弱者に席を譲らない若者たちです。本来、優先席などというものは必要ありません。マナーが悪くなったので、設定せざるを得なかったのでしょうが、多くの場合、まったく優先などされていません。もっとも首都圏だけの現象かもしれません。札幌の地下鉄では、混んだ車内でも優先席は空いていました。空いていれば座っても良いと思うのですが。

また、席を譲られても座らない老人も少なからずいて、若者の勇気をくじいている面もあります。老人には、譲られたら、例え一駅であっても、ありがたく座る勇気が求められます。サッカー日本代表が海外で試合をしたあと、日本人サポーターが客席のゴミをひろう姿が称賛されています。一方で、同じ若者が、電車では席を譲らないわけです。マスコミが、この現象を取り上げたことはないと思います。自分たちも席を譲らないので、問題だとも思っていないのかもしれません。民放は、芸能ニュースなど流す暇があったら、この問題を取り上げるべきと思います。もっとも、民放の性格上、視聴率が上がるならやりますということになるのでしょう。いずれにしても、日本におけるマナーの悪化傾向には、世も末だなと思ってしまいます。ただ、考えてみれば、我々のマナーも、親の世代からは、世も末だと言われていたような気もしますが。(写真出典:ja.wikipedia.org)

2024年9月27日金曜日

湖南ミーフェン

中国四大菜系(料理)と言えば、北方系(北京料理等塩辛く濃い味)、東方系(上海料理等甘く濃厚な味)、南方系(広東料理等素材を活かした淡泊な味)、西方系(四川料理等痺れる辛さが特徴)となります。さらに八大菜系となると、諸説あるようですが、概ね山東料理(北京料理等)、江蘇料理(上海料理)、広東料理、四川料理という四大料理系統に、浙江料理、福建料理、安徽料理、そして湖南料理が加わります。福建料理は、台湾料理の源として日本人にも馴染みがあり、またあっさりとした味付けは日本人好みでもあります。長いこと気になっていたのは湖南料理です。四川料理は麻辣と表現されますが、湖南料理は、酸っぱくて辛い酸辣が特徴とされます。また、巧みに発酵を使うことでも知られます。

日本人にも馴染みのある湖南系料理としては、酸辣湯が挙げられます。アメリカでは、”Hot & Sour Soup”として、どんな田舎の小さな中華料理店にもある定番のスープです。ところが、かつての日本では、ほとんど見かけることのないメニューでした。私もアメリカで初めて食べました。日本で酸辣湯が知られるようになったのは、1990年代中頃、酸辣湯麺が人気を博したからだと思います。酸辣湯麺は、かつて赤坂にあり、現在は神楽坂に移転した「榮林」が発明した日本式中華料理です。湖南や四川で酸辣湯に麺を入れることはありません。ましてや小麦の拉麺などあり得ません。酸辣湯麺に似た味の麺料理はありますが、使うのはあくまでも伝統のミーフェン(米粉)やミーシェン(米線)ということになります。

最近、都内には湖南料理店がいくつかできているようですが、かつての東京ではごくごく希な存在でした。知る限りでは、京橋の“雪園”、あるいは芝の”味芳斎”あたりでしょうか。酸辣湯麺の榮林も湖南料理店というわけではありません。雪園では、何度か宴会を行ったことがあります。美味しい店ですが、ごく普通の中華料理だとばかり思っていました。味芳斎は、味に深みのある美味しい店ですが、メニューによっては辛すぎて、泣きながら食べていました。味芳斎の強烈な辛さこそが湖南料理なのでしょう。ただ、残念ながら、サラリーマン相手の味芳斎では、メニューに限界があり、本格的湖南料理店とまでは言えないように思います。結局、ごく最近まで、本当の湖南料理にはお目にかからなかったということになります。

錦糸町の「李湘潭 湘菜館」は、中国湖南料理を看板に掲げる店です。ただ、日本人向けに辛さのハードルは下げているものと思われます。この店は、10年前のオープン当初から、湖南のソウル・フードであるミーフェンをウリの一つにしていたようです。東京の湖南料理店では初めてのことだったと聞きます。神保町の蘭州牛肉麺・馬子禄では、9種類の麺のタイプがあり、注文が入ってからミーフェンを打つ本格派ですが、湘菜館はミーフェン・ミーシェン2種類の自家製乾麺を使っています。モチッとして、ツルッとした麺はとても美味しいと思います。馬子禄の牛肉スープに対して、湘菜館のスープは豚骨・鶏肉がベースです。発酵の酸味と香りの良い辛味の効いたスープはクセになります。ミーフェンは、多様な食べ方が提供されていて全部食べてみたくなります。

中国北部の小麦文化では饅頭や餃子が主食となります。一方、米作発祥の地でもある長江以南の南部では米食が中心となります。ミーフェンも、中国南部の各省のソウル・フードとなっているようです。特に、桂林米粉、雲南の過橋米線、福建や台湾のビーフンなどが良く知られています。ちなみにビーフンはミーフェンの方言なのだそうです。数年前、丸亀製麺でお馴染みのトリドールが買収し、日本にも進出した香港の大人気ミーシェン店が「譚仔三哥(タムジャイサムゴー)」です。新宿店は、いつも大行列です。ただ、個人的には、深みにも、面白味にも欠けるスープだと思います。今のところ、馬子禄と湘菜館のミーフェンがベストだと思っています。特に湖南ミーフェンの酸味と辛味はクセになる美味しさです。(写真出典:tabelog.com)

2024年9月25日水曜日

怪僧

怪僧と言えば、まずは容貌も怪異なラスプーチンがイメージされます。帝政末期のロシアにおいて、アレクサンドラ皇后の寵愛を受けた祈祷僧ラスプーチンは、皇室に深く入り込み、政治を左右するほどの影響力を持ちます。ラスプーチンを厄災だとする貴族たちによって、1916年末に暗殺されています。シベリアの農民だったラスプーチンは、修行僧として名を為し、血友病だったアレクセイ皇太子の発作を静めたことで、アレクサンドラ皇后の庇護を受けることになります。神秘主義が流行していたロシア皇室や貴族社会にあって、ラスプーチンは貴婦人たちの熱狂的な支持を集めます。暗殺以前から、ラスプーチンを排除しようとする動きも多くありましたが、ニコライ2世によって退けられています。

ラスプーチンからさかのぼること千年以上前、日本にはラスプーチンをしのぐほどの怪僧が登場しています。平将門、足利尊氏とならび日本三悪人の一人とされる道鏡です。三悪人とされるのは、いずれも天皇の位を脅かしたからです。河内弓削氏出身の道鏡は、法相宗の禅師でした。弓削氏は、弓を削る集団を率いて朝廷に仕えてきた家であり、天孫家につながる物部氏の傍系とされます。シベリアの農民で、読み書きもままならず、正式な僧ですらなかったラスプーチンとは大違いです。ただ、怪僧になっていく経緯は良く似ています。道鏡は、近江国保良宮で病を得た孝謙上皇を徹底的に看病し、加持祈祷を行ったことで、上皇の寵愛を受けることになりました。

孝謙上皇は、大仏建立で知られる聖武天皇と藤原氏初の皇后となった光明皇后の間に生まれた内親王です。6人目の女性天皇となった孝謙天皇は、藤原氏出身の光明皇后と藤原仲麻呂に支えられます。その後、孝謙天皇は、仲麻呂の娘婿・淳仁天皇に譲位して上皇になっていました。孝謙上皇と道鏡の関係に意見した淳仁天皇と仲麻呂は、孝謙上皇から敵視されることになります。追い込まれた仲麻呂は反乱を起こして斬首され、淳仁天皇も廃位させられ淡路島へ流されます。淳仁天皇は淡路島で病死していますが、暗殺であったという説が一般的です。孝謙上皇は自ら重祚して称徳天皇となり、歴史上、最も独裁的だった天皇として知られることになります。その間にも、道鏡は出世を重ね、ついには天皇を超える法王位にまで登り詰めます。

仲麻呂の乱の後、宇佐八幡宮から、道鏡を天皇にすれば天下は泰平である、という神託が称徳天皇のもとに届けられます。しかし、確認のために宇佐八幡に派遣された和気清麻呂によって、この神託が虚偽であったことが曝かれます。和気清麻呂に都合の良い結果を持ち帰るよう事前に働きかけていた称徳天皇と道鏡は激怒します。和気清麻呂は左遷され、さらに流罪となります。事件の翌年、称徳天皇が崩御すると、道鏡は下野国に下向させられ、2年後、その地で亡くなっています。とは言え、道鏡は、流刑にも斬首にもなっていません。仏教振興面での貢献が評価されたとも言われます。称徳天皇の崩御で途切れた天武天皇系から、後継の光仁天皇の天智天皇系への移行という転換期にあって、種々行われたであろう激変緩和措置の一つだったようにも思えます。

称徳天皇の道鏡との関係については、高齢独身女性の色狂いといった下世話な説も多く、また、父親譲りの過度な仏教重視が言い訳になっていた面もあるのかもしれません。しかし、背景には、権力を巡る争いのなかで血筋に関わる葛藤があったのではないでしょうか。日本の支配階層は、天皇家と藤原家が二分してきたとも言われます。天皇の外戚として実権を握るという藤原氏の戦略は、人臣出身の初の皇后となった光明皇后に始まり、その子・孝謙天皇で形を成します。結果、藤原仲麻呂が絶大な権勢を振うことになりました。しかし、一方で、孝謙天皇には、天武天皇の直系という天皇家の血筋もあります。言わば孝謙天皇のなかには、二つの家を巡るせめぎ合いがあったも言えそうです。孝謙天皇は、天孫家の血筋を優先し、藤原氏の勢いを抑えるために道鏡を使ったという面があるのかもしれません。(写真:2020年に制作され西大寺に奉納された道鏡像 出典:mainichi.jp)

2024年9月23日月曜日

ローレル・キャニオン

私が、初めてローレル・キャニオンを知ったのは、先日亡くなったジョン・メイオールのアルバム「ブルース・フロム・ローレル・キャニオン」(1968)でした。ミック・テイラーのブルース・ギターがいい味を出していますが、サイケデリックな曲も含まれており、時代を感じさせるアルバムでした。ローレル・キャニオンは、LAのハリウッド・ブールバードのすぐ北側に位置する自然豊かな山間の別荘地です。ハリウッド至近にも関わらず、街から隔離され、自然豊かだったことから、20世紀初頭から別荘地として開発されます。多くの映画スターや有名人が住みました。1960年代中葉以降は、若いミューシャンが多く集まり、自由に行き来する環境のなかでフォーク・ロックが生まれていくことになります。

アリソン・エルウッド監督の「ローレル・キャニオン 夢のウェストコースト・ロック(原題:LAUREL CANYON: A PLACE IN TIME)」(2020)というドキュメンタリーをAmazon Primeで観ました。フォーク・ロック、ウェストコースト・ロックには、あまり興味がないのですが、優れたミュージシャンや名曲も多いことは知っています。特に60年代後半から70年代前半には、一世を風靡したヒット曲も多く、懐かしく観ました。当時、ウェストコートのドンだったママス&パパス、フォークロックの元祖とも言えるバーズ、ウッドストックで大観衆をうならせたクロスビー・スティルス・ナッシュ&ヤング、史上最高のソングライターとも言われるジョニ・ミッチェル、現代を代表するフォーク歌手ジャクソン・ブラウン等々に加え、モンキーズまで登場しています。

ドアーズのジム・モリソンも住んでいたようです。ドアーズは、時代を超える音楽性の高さを持っており、明らかにローレル・キャニオン的ではありません。ただ、ジム・モリソンは詩人としても高く評価されていますから、理解できるような気もします。もう一人、驚いたのがスティーブ・マーティンです。穏やかな笑顔と嫌みのない笑いが大人気のトップ・コメディアンですが、かつて、ライブの前座として、バンジョー片手に皆を笑わせていたようです。その後、コメディ分野で多くの賞を獲得し、”サタデー・ナイト・ライブ”で大ブレークすることになります。いずれにしても、カウンター・カルチャーの時代、ローレル・キャニオンは新しい音楽と文化を象徴する場所だったわけです。

あまりにも大物すぎて、ローレル・キャニオン時代があったとは思ってもいなかったのが、リンダ・ロンシュタットです。ロックの殿堂入りも果たしたリンダは、病気で引退していなければ、今頃、大御所中の大御所になっていたと思います。彼女のバック・バンドから巣立ったのがウェストコースト・ロックの王様イーグルスです。花と麻薬でサイケデリックに彩られたミュージック・コミューンも、カウンター・カルチャーの終わりとともに変わっていきます。巨大な音楽ビジネスに取り込まれ、ツアーやアリーナ・ライブに振り回され、金を手にしたミュージシャンたちはローレル・キャニオンを離れていきます。最も大きな変化をもたらしたのは、1969年のチャールズ・マンソン事件だったと言います。マンソンもミュージシャンくずれでした。

ママス&パパスの「カリフォルニア・ドリーミン」(1965)が、ミュージシャンたちをローレル・キャニオンへと呼び寄せ、音楽の中心地をNYからLAへと移したのでしょう。そして、ジョニ・ミッチェルが作詞・作曲し、映画「いちご白書」(1970)のテーマ・ソングになった「サークル・ゲーム」が、カウンター・カルチャーの次の時代を象徴していたように思います。ちなみに、映画は印象に残る駄作でした。原作は、コロンビア大の学生運動に関する学生の回想です。雑で甘い青春映画でしたが、時代的共感があったことはユーミンが曲を書いたことでも明らかです。州兵に包囲された体育館のなかで、学生たちが座って輪を作り、ジョン・レノンの「ギブ・ピース・ア・チャンス」を歌うラスト・シーンには涙したものです。なお、いちご白書とは、学生の意見などいちごが好きだと言っているのと変わらない、というコロンビア大学部長の暴言に基づきます。(写真出典:IMDb.com)

2024年9月21日土曜日

中秋節

昔、9月中旬にシンガポールを訪れた際のことですが、セントラルで夕食の約束があり、マリーナ・ベイから水上バスに乗りました。タクシーで行けば済むことですが、駐在員から、この時期は船がお薦めと言われて乗りました。驚きました。川の両岸に、形も色も様々なランタンが飾られ、まるで夜のディズニー・ランドをより華やかにしたような光景でした。ちょうど中秋節の直前だったわけです。国民の7割が中国系と言われるシンガポールでは、中国同様、大々的に中秋節を祝います。中秋節に欠かせないものと言えば、月餅です。翌日、セントラル界隈を散策すると、デパートやショッピング・モールは月餅であふれていました。中華圏には、中秋節に月餅を贈り合う習慣があります。

月と人間との関係は、天象崇拝、太陰暦、天文学、あるいは各国に伝わる月の伝説等からも分かるとおり、古くて深いものがあります。また、月を愛でるという文化も、いつから始まったことなのかは分かりませんが、古い歴史があるのでしょう。特に、太陰暦8月15日の満月は、中秋の名月、十五夜等として、古くから親しまれてきました。秋の澄んだ空気がゆえに、とりわけ美しいということなのでしょう。ただ、祝い事や祭りとしての中秋節は、秋の収穫との関係において盛んになったものと想像します。中国において、中秋という言葉の初出は、紀元前の春秋戦国時代末期に成立した「周礼」だとされます。漢代には月見が始まり、唐代に至ると定型化されていったようです。さらに、それが一般化したのは宋代だとされます。

中華圏における中秋節は、春節に次ぐ大きなお祭りだと聞きます。満月が円満、円満が団らんにつながり、中秋節は、家族が集まる一家円満の日とされているようです。月餅は、唐代には原型が誕生し、満月に寄せて丸くなっていったようです。人々が、月餅を贈り合うようになったはいつなのか明確ではありませんが、少なくとも明代には行われていたようです。元の圧政に苦しむ漢民族によって起こされた紅巾の乱が契機となり、明朝は建国に至りました。漢民族に一斉蜂起を呼びかける指示は、月餅のなかに隠され、中秋節に配られたという話が残ります。台湾でも、反清運動の際、月餅が連絡に使われていたとされます。一家円満の象徴でもある月餅ですが、為政者にとっては、いささか物騒な代物でもあるわけです。

中秋節に関する最も有名な伝承は「嫦娥奔月(嫦娥、月へ走る)」なのだそうです。昔、太陽が10個あったため、人が住めないほどに地球が熱せられたことがありました。 后羿という弓の名手が崑崙山から弓を放ち9つの太陽を撃ち落とし、世界を救います。西王母という女神が、褒美として不老不死の薬を后羿に与えます。后羿は妻の嫦娥と離れたくなかったので、薬を隠すように彼女に頼みます。ところが、ある日、后羿の弟子の蓬蒙が薬を盗もうとします。薬を守ろうとした嫦娥は、思わず飲んでしまいます。すると嫦娥の体は浮き、月へと昇っていきました。その夜の月はことに明るく輝き、そこに嫦娥の姿を見た后羿は、嫦娥が愛した庭で好物の果物を供え、嫦娥を祀ったという話です。これが中秋節の起源だということなのでしょう。

それにしても、中秋節の贈答品として大量に出回る月餅は、一家で食べきれる量ではないと思われます。過日、中国人の友人に、受け取った大量の月餅をどうするのか、と聞いてみました。まずは、月餅は日持ちが良いので、少しづつ家族で食べると言います。また、冷凍も可能なので、長期保存もするようです。一番、傑作だったのは、もらった月餅を他の家へ贈るという話でした。大量の月餅が、中国国内をグルグル回っている絵姿を想像すると、思わず吹き出してしまいました。ちなみに、月餅の通常サイズは6~7cmあり、大きなものです。これは家族で分け合って食べることを前提としているからなのだそうです。最近は、一人サイズのミニ月餅も多く売られています。ひょっとすると中国共産党の一人っ子政策が反映されたサイズ・ダウンなのかもしれません。(写真出典:jukeihanten.com)

2024年9月19日木曜日

VTOL

ハリアーⅡ
人が乗って空中を航行する機器としての航空機の歴史は、古いとも新しいとも言えます。古代から人間は鳥のように空を飛びたいと願い、様々な装置を考えてきました。しかし、その実現は、1783年、フランスのモンゴルフィエ兄弟が発明した熱気球まで待たなければなりませんでした。19世紀末になると、航空工学の先駆者とされるドイツのオットー・リリエンタールがグライダーでの飛行に成功します。この成功が、その後の航空機の歴史を切り開いたものと思います。1903年になると、アメリカのライト兄弟が、はじめて動力を用いた飛行機を飛ばします。これが、浮力を生む固定翼と推力を生むエンジンという飛行機の原型となり、今も基本は変わっていません。

ただ、固定翼の歴史は150年に満たないわけです。人間は、長いこと、垂直に浮き上がることに固執してきたとも言えます。そういう意味ではヘリコプターの実用化こそ、航空装置の保守本流なのかもしれません。レオナルド・ダ・ヴィンチのアイデアも有名ですが、本格的な開発は19世紀に始っています。1907年には、フランスのモーリス・レジェが有人飛行に成功、1936年に至り、ナチス・ドイツのハインリヒ・フォッケが開発したフォッケウルフ Fw61が世界初の実用ヘリコプターとなります。しかし、レシプロ・エンジンの出力では不十分でした。ガス・タービン・エンジン搭載機が実用化されたのは、1951年、アメリカでのことでした。以降、急速に、ヘリコプターは、軍用、民用として普及していくことになります。

滑走路を必要としないヘリコプターは多様な用途があり、実に便利な代物ですが、最大の問題は固定翼に比べて飛行速度が圧倒的に遅いことです。そこで登場するのが、垂直離着陸機、いわゆるVTOL(Vertical Take-Off and Landing)です。エンジンの推力だけで浮上するため、軽量な機体と強力なエンジンが必要になります。VTOLには、離着陸時にエンジンの向きを変えるティルト・ローター、エンジンのついた翼の向きを変えるティルト・ウィング、垂直に離着陸するテイル・シッター、浮上用だけのエンジンを持つリフト・エンジン、エンジンの噴射向きだけを変えるスラスト・ベクタリング(推力偏向)などがあります。第二次大戦末期、連合軍に滑走路を破壊されたナチスは、急遽、VTOLの開発に取り組みます。しかし、実用化は間に合いませんでした。

ナチスのVTOLはテイル・シッターであり、戦後、米英ソはこの技術に基づきVTOLの開発を行います。ただ、操縦の難しさもあり、開発は断念されます。1959年、イギリスのブリストル社が画期的な推力偏向エンジンであるペガサスを開発します。これがホーカー・シドレー社の世界初の実用VTOL機ハリアーへとつながります。1967年に量産を開始したハリアーは、世界各国で採用されていきます。初めてハリアーの映像を見た時には、未来が来た、と思ったものです。一方、アメリカは、しぶとくティルト・ローターの開発も続け、ベルとボーイングが開発したオスプレイが2000年頃から配備されます。また、ロッキード・マーティンの主力戦闘機F-35の派生型として登場したF-35Bは、世界初の実用超音速STOVL(短距離離陸垂直着陸機)戦闘機とされます。

軽空母しか持たない国にとって、VTOL機は実にありがたい艦上機です。高価であっても、巨大な空母を保有・運用することと比較すれば、安いものかもしれません。しかし、本当に開発されるべきはVTOLは、旅客機や大型輸送機ではないかと思います。滑走路が作れない山岳部や島嶼部、あるいは危険な滑走路しか持てていない地域には、大変な恩恵になると思います。恐らくその開発は、どこかで進められているのだろうとは思います。余談ですが、スター・ウォーズの世界に登場する飛行体は、リパルサー・リフトと呼ばれるVTOLが基本になっています。離着陸時の推力として使われるのは反重力発生装置です。VTOLは、全ての飛行体の究極の姿なのでしょうが、VTOLが最終的に目指すのはリパルサー・リフトということになります。(写真出典:trafficnews.jp)

2024年9月17日火曜日

縄文は分からない

一時期、縄文文化にハマりました。書籍を読みあさり、遺跡にも足を運びました。今でも興味は失っていませんが、熱狂のようなものは消えました。知れば知るほど、ある思いが強まったからです。それは、一言で言えば、現代人が縄文文化を理解することはできない、ということです。文字を持たず、組織化されていなかった縄文文化を、科学的に解明することは不可能だという意味ではありません。縄文文化と弥生以降の文化との世界観や価値観があまりにも異なるため、現代人が縄文文化を推測したり、理解することは不可能だということです。今般、ドキュメンタリー「縄文にハマる人々」(2018)をネットで観ました。そのメッセージは私の思いとよく似ているように思いました。

縄文文化は、1万1千年とも1万6千年とも言われるほど長く続いた文化です。世界の歴史上、最も長く続いた文化だとされます。私が子供の頃、縄文人は定住せずに狩猟採取の生活を送った原始人だと教わりました。その後、発掘が進むと、定住して村落を構成し、雑食ながらどんぐり等の栽培も行っていたことが分かってきました。世界で初めて土器を生み出し、生活に用いていたことも分かりました。土器で煮炊きをすることによって、雑食の幅が広がり、飢饉がなかったことが文化の長期化をもたらしたのでしょう。また、出土した人骨の状態や人を害する武器が見つかっていないことから、平和的であったことが文化の長期化につながったとも言われます。その背景には、所有概念が未熟だったことがあるのでしょう。

では、縄文文化と弥生以降の文化との決定的違いは何かと言えば、農耕ということになります。農耕によって食料は飛躍的に増え、人口も急拡大していきます。食料生産は多くの人手を必要とすることから共同作業が必要となり、効率を求めて組織化が始まります。また、食料の備蓄が可能になったことから分業化が進みます。つまり、直接生産にたずさわらなくても食える人が生まれ、社会が形成されていきます。さらに、農耕が土地と労力の確保を前提とすることから、生産手段の所有を巡る争いも発生し、武力に基づく村落や国が誕生していくことになります。こうした物理的側面は、よく知られていることですが、実は精神的な側面、あるいは価値観に関しても、大きな変化があったものと考えられます。

大雑把に言えば、自然の一部として、あるいは自然を恐れながら生きた縄文人に対して、弥生人は、農耕を通じて、自らの手で自然を作り出した人々です。もちろん、今でも自然の多くはコントロールできないものの、自然界には存在しない物を作り出すことで、自然に対抗できるようになったわけです。この自然との関係の変化こそが、我々の縄文文化に対する理解を阻んでいるのだと思います。創意工夫によって自然を制していくという弥生人以降のメンタリティを継承する現代人の価値観で、縄文文化の土器や土偶の意味するところを推測することはできません。例えば、火焔型土器の複雑で精緻な紋様は謎でしかありません。しかも、それを煮炊きに使っていたわけですから、効率を重視する我々の価値観では意味不明としか言いようがありません。

縄文にハマっていた頃、不思議でしょうがなかったのは、写実的な絵や土偶が存在しないことでした。彼らの造形能力の高さからすれば、できないわけがありません。考えられる答えは、作れなかったのではなく、あえて作ることを避けていたのではないか、ということです。映画のなかでも、そのことを指摘していた学者がいました。さらに言えば、自然界に存在しないものを人間が作り出すことは、秩序を乱すこととして恐れられていたのかもしれません。土器の装飾は、自然を作り出すのではなく、抽象的な紋様や造形によって自然界に存在するものかのようにカモフラージュすることが狙いだったように思えます。土偶も、あえてデフォルメすることによって、自然が作った人間を自ら作り出したのではないと強調したかったように思えます。恐れたのは神ではなく、恵みをもたらす自然界の秩序だったのでしょう。今、我々が直面する自然崩壊は、農耕が生み出した飽くなき人造物追求の結果だとも言えます。(写真:「縄文にハマる人々」ポスター 出典:natalie.mu)

川上