2024年5月30日木曜日

「関心領域」

監督:ジョナサン・グレイザー 原題:The Zone of Interest 2023年米・英・ポーランド

☆☆☆+

カンヌでグランプリ、アカデミー賞では国際長編映画賞を獲得するなど、すこぶる評価の高い映画です。マーティン・エイミスの2014年の小説の翻案です。アウシュヴィッツ強制収容所に隣接する官舎に住む収容所長ルドルフ・フェルディナント・ヘスとその家族の日々が描かれています。官舎は、邸宅レベルの大きさで、プール付の広い庭も備えています。複数の使用人を使う贅沢な生活が送られています。しかし、塀の向こうでは、日々、数千人のユダヤ人がガス室へ送られていたわけです。ちなみに、ヘスは、ナチス副総統のルドルフ・ヴァルター・リヒャルト・ヘスとは別人です。ナチス親衛隊将校として、当初から収容所運営に関わった実務家であり、戦後、絞首刑に処されています。

この映画の最も大きな特徴は、塀の向こう側、つまりアウシュビッツ強制収容所内で行われていたことが、一切、描写されていないことです。ただ、塀のなかからは、遠く叫び声や銃声がひっきりなしに聞こえてきます。極めて斬新なアプローチであり、ホロコーストの恐ろしさが、ヘス家の日常との対比において、一層、際立つ表現になっています。そのような表現上、音響はとても大切な要素となるわけですが、主役級と言っていいほど見事な仕事をしています。不気味さを醸し出す音楽も印象に残りました。しかし、その音楽と幾度か挿入されるモノトーンの画面に、本作の弱さもある、と思いました。淡々と映し出されるヘス家の日常だけで押し通すというアプローチに、監督は、多少の不安も持っていたということなのでしょう。

ありふれた日常、ありふれた役所仕事、その描写にホロコーストの狂気を織り込んでいくという展開を徹底すべきだったように思います。もし、それが出来ていれば、映画史に残る大傑作になっていたのではないかとも思います。日常のスケッチが見事な出来だけに残念です。つまり、本作のウィーク・ポイントは脚本にあるということになります。脚本も監督自身が手がけていますが、多少、力不足だったように思います。いずれにしても、日常の描写を通じて狂気を描くという大胆なアプローチは称賛に値します。それを可能にした背景の一つは、配給会社がA24だったことだと思います。ある意味、A24らしい映画だとも言えます。キャストでは、サンドラ・ヒュラーが、”落下の解剖学”同様、存在感を示しています。    

映画を見て、思い出されるのは、1961年のアドルフ・アイヒマン裁判です。アドルフ・アイヒマンは、輸送部門においてホロコーストに深く関わり、戦後は南米で逃亡生活を送った親衛隊将校です。モサドに捕まったアイヒマンは、極悪非道な人物には見えず、小役人といった風情でした。裁判において、アイヒマンは、自分は命令に従っただけである、と官僚言葉を巧みに駆使して無罪を主張します。ハンナ・アーレントは「悪の凡庸さ」という言葉でアイヒマンを評します。それは、アイヒマンが小役人であると言っているのではなく、判断停止の状態こそが悪を助長するのだという主張でした。アイヒマンとまったく同様に、能吏ヘスとその妻も、まさに判断停止の状態を示しています。

ホロコーストの現場の隣で、草花を育て、贅沢に暮らすヘスの妻は、”快適”な生活を棄てきれず、夫の転勤への同道を拒否します。戦争が終わったら農業をしようと提案する妻の言葉が印象に残りました。全体主義の恐ろしさは、人々に味方か敵かという選択肢しか与えないことです。多くの人々は、生きるために体制の味方であることを選択します。ナチス親衛隊はエリート集団です。エリートの意味するところは、組織に盲目的に従うことに他なりません。彼らは、ホロコーストに慣れていったのではなく、善悪の判断を自ら停止していたわけです。ユダヤ人虐殺が始まった頃、その実行を命じられた非エリートの突撃隊兵士たちは病んでいったと聞きます。それが人間としての当たり前の感性です。(写真出典:a24films.com)

2024年5月28日火曜日

モアイ

日本各地には、結構な数のモアイ像が立っています。渋谷のモアイは、待合せスポットとして有名です。宮崎の日南海岸には、チリ政府公認のもとに完全復元したという7体のモアイが立っています。他にも、新島、札幌、香川、福岡等々にもあるようです。中でも特筆すべきは宮城県・南三陸町のチリ政府から寄贈されたモアイです。南三陸の旧志津川町は、同じチリ地震津波の被災地としてチリとの交流があり、1991年には、チリからモアイのレプリカが贈られていました。町のシンボルにもなっていたモアイですが、東日本大震災で津波に流されます。震災後に当地を訪れたチリ大統領は、新たにイースター島の石で作ったモアイを寄贈することを約束しました。

それにしても、なぜ日本に多くのモアイが存在するのか不思議な話です。チリ地震津波で大きな被害を受けたイースター島のモアイ修復に、日本が深く関わったことが縁となり、日本各地にモアイが作られたという説があります。モアイ修復は、TBSの「世界ふしぎ発見」における黒柳徹子の発言から始まったといいます。奈良文化財研究所、高松の建機メーカー「タダノ」等が立ち上がり、古墳修復等に実績のあった奈良県の石工が現地に赴き、修復を指導したようです。それは1992年のことでした。しかし、渋谷のモアイ等は、それ以前から存在しています。実は、渋谷のモアイは、正しくはモアイではなく「モヤイ」です。単なるカタカナ表記のブレなどではありません。

渋谷のモヤイ像は、1980年、新島の東京都移管100周年を記念し、新島から渋谷区へ寄贈されたものです。新島には、こことイタリアのリパリ島にしかないコーガ石という珍しい石があります。加工しやすく、軽量で耐火性・耐酸性にも優れると聞きます。新島は、1960年代中頃から、名産コーガ石を用いて「流人のオンジイ」と呼ばれるモアイを作り始めます。オンジイとは、流人のなかでも尊敬される人の呼び方だったようです。後に島の人々は、モアイと島の言葉で結を表す”もやい”をかけて「モヤイ」と名付けます。島には多数のモヤイがあり、かつ1970年以降、多くの市町村にモヤイを寄贈してきと言います。渋谷のモヤイも、その一つだったわけです。どうも日本各地のモアイは、新島のモヤイだったようです。

かつてモアイと言えば、何故作られ、どうやって運んだのか、ということが話題の中心でした。現在では、木製のトーテムポールを作る文化を持つポリネシア人がイースター島に渡り、先祖を祀り、村を守ってもらうために作ったという説が有力とされます。樹木の少ないイースター島では石を刻むしかなかったわけです。またモアイを石切場から移動する方法としては、立てた石像の頭部にロープをかけて、前後に揺らすことで徐々に移動させていたようです。近年、モアイを巡る謎の中心は、なぜ作るのを止めたのか、ということに移っているようです。石切場には切り出す途中のモアイがあり、移動中のモアイも数多く残っています。まさに、ある日、突然、モアイ作りは止まったということです。

その理由には、諸説あるようですが、大きくは二つの説に分かれます。一つは、人口増加とともに自然破壊が進んだイースター島では、残った耕地を巡って部族間の争いが起き、島は壊滅状態になったという説です。ジャレド・ダイアモンド等が主張する説であり、まさに地球の現状をイースター島が象徴しているとされます。しかし、争いの痕跡や武器が発掘されていないことから批判も多く、今一つの外部要因説が唱えられています。18世紀、欧州人が島に到達し、島は奴隷狩りの場となって極端な人口減少をきたしたという説です。多くの記録から奴隷狩りは実際に行われたことが確認されています。恐らく、これが、モアイ作りが突然終わった理由なのでしょう。いずれにしても、モアイは、人間の愚行を静かに語っているということなのでしょう。(写真出典:en.wikipedia,org)

2024年5月26日日曜日

カルボナーラ

ここ数十年、パスタを作るならアーリオ・オーリオ・エ・ペペロンチーノのただ一択、外で食べるならカルボナーラ・オンリーでした。オリーブ・オイル、にんにく、唐辛子、塩、胡椒だけで作るアーリオ・オーリオ・エ・ペペロンチーノは、シンプルなだけに奥が深く、毎回、微妙に味わいが変わるところが面白いと思っています。日本のカルボナーラは、ベーコン、卵、粉チーズ、生クリーム等で作ります。ベーコンの香ばしさを際立たせたタイプのものが好みですが、滅多にお目にかかれません。ベーコンをしっかり炭化させるから、カルボナーラ(炭焼き)なのだと、勝手に思い込んでいました。そういう説もあるようですが、黒胡椒が炭のように見えることから名付けられたという説が有力なようです。

ローマのカルボナーラ発祥の店で食べたことがあります。本場ではベーコンではなく、グアンチャーレやパンチェッタを使うもののようです。グアンチャーレは豚の頬肉を2~3週間塩漬けにしたものであり、パンチェッタは豚のバラ肉を1ヶ月以上塩漬けにしたものです。貯蔵肉の類いは大好物ですが、豚の塩漬けは獣臭さを感じて得意ではありません。沖縄のスーチカーも苦手です。ローマのカルボナーラは、生クリームなど使わずにパンチェッタ・チーズ・卵・黒コショウだけで作ります。シンプルなだけに獣臭さと塩味が際立ち苦手でした。またローマでは、スパゲッティではなく、マカロニ系のリガトーニを使います。また、チーズは、塩味の強い羊のチーズであるペコリーノ・ロマーノが使われています。

日本のカルボナーラは偽物だと言うこともできるのでしょうが、本場物より、ずっと美味しいと思います。というか、別物なのでしょう。ローマのカルボナーラにインスパイアされた新たなメニューと理解すべきなのでしょう。ローマでカルボナーラを食べながら、日本人の創意工夫の力にあらためて感心してしまいました。では日本式カルボナーラは、どこでどのように生まれたのかというと、これが判然としないようです。戦後、ローマを解放した米兵のために考案された料理であり、それが進駐軍によって日本にも持ち込まれたという説が有力とされます。生クリームは、卵が固まらないように加えられたのだそうですが、恐らくアメリカで始ったことなのでしょう。

だとすれば、日本式カルボナーラはアメリカ料理ということになります。ただ、アメリカで食べるカルボナーラの味は、日本式とも異なります。恐らくベーコンとチーズの違いなのだと思います。いずれにしても、本場物は美味しく、まがい物は不味いということはありません。日本のカルボナーラは、その一つの証明です。それでよく思い出すのが、カバー曲です。原作を超えるカバー曲は数々あります。例えば、ボブ・デュランの「All Along the Watchtower」は、ジミヘンのカバーで有名ですが、ボブ・デュラン自身もジミヘン風に演奏するようになりました。いつかローマでも日本式カルボナーラが人気になるかもしれません。ところで、日本式スパゲティで忘れてはならないのがナポリタンだと思います。

タマネギ、ピーマン、ベーコン等を炒め、トマト・ケチャップで味付けしたナポリタンは、イタリアにはない純国産パスタ料理です。もちろん、イタリアには、トマト・ソースのパスタはあります。ケチャップを使い始めたのは、第二次大戦前、アメリカ軍の戦闘糧食Cレーションのパスタだったようです。日本のナポリタンを開発したのは、横浜ニューグランド・ホテルの総料理長だったとされています。日本へ進駐した米兵がパスタにケチャップをかけて食べる姿を見て、米兵向けに考案したようです。また、日本でナポリタンが普及した背景には、戦後、米国から無償提供された小麦があったようです。デュラム小麦ではなかったので、コシのないスパゲッティが一般化したわけです。それにしても、カルボナーラも、ナポリタンも米兵のために開発されたメニューという点が面白いと思います。米兵が世界に広めた食品も多くあります。文化の伝播は、戦争の一つの側面でもあります。(写真出典:kurashiru.com)

2024年5月24日金曜日

低地休暇

La Paz
数年前、チームに参加して富士山登山を目指しました。ただ、台風が来襲して延期となりました。いつまで延期なのか、と聞くと1年後だと言われました。混雑しているので、今シーズン中に山小屋を再予約できないというのです。富士山登山の標準的なプランは、午後に5合目から登リ始め、7~8合目の山小屋で仮眠をとり、夜中から登頂を再開し、ご来光を拝むというものです。山小屋で仮眠をとるのは、低酸素環境に体を慣らし、高山病を防ぐ意味合いが大きいようです。高山病は、概ね2,500mを超えると発症する可能性が高くなるとされます。富士山へ一気に登る弾丸登山で高山病を発症する人は後を絶たないようです。

NY時代に聞いた話ですが、さる駐在員の奥さんがマチュ・ピチュで高山病を発症し、ふらついて谷底へ転落、亡くなったというのです。マチュ・ピチュの標高は2,430mとされますから、個人差はあるにしても高山病を発症してもおかしくない高さです。登山などで発症するのは急性高山病であり、低地へ移動するのが最善の治療と言われます。症状が重い場合には、酸素吸入、水分補給、加圧、そして非オピオイド系鎮痛剤などの薬物が用いられるようです。予防薬もありますが、その効用は個人差があるようです。登山なら下山すれば良いわけですが、高地へ赴任した駐在員ともなれば、状況は大きく異なります。ボリビアのラパスへ赴任した人の話を聞いたことがあります。

ラパスは、世界の首都のなかで最も標高が高いと言われます。3,600mの高地にあるラパスには75万人が暮らしています。すり鉢状の地形ゆえ、市内でも標高差は数百メーターになると言います。赴任した当初は、急性高山病を発症するのだそうですが、低地へ移動するわけにはいかないので、酸素吸入等でしのぐしかないようです。自宅やオフィスには酸素ボンベが常備されているようです。しばらくすると多少体も慣れてくるようですが、風邪の初期症状のような体況が続き、運動やアルコールは避けなければならないと聞きました。一番、厳しいのは睡眠不足に陥ることだと話していました。いつも一呼吸足りない感じなので、熟睡できないらしいのです。

そこで各社は、高度に応じて年数回の低地休暇を設け、高度の低いところへ移動し、ゆっくり眠って体力を回復させるという方策をとっているようです。政情不安定、治安劣悪といった任地に関しては、しばしば危険地手当が支給されます。同様に、生活環境が厳しい任地については、家族全員を定期的に一時避難させる休暇制度もあります。戒律の厳しいイスラム国家、あるいは治安が悪く物価が高騰していたブラジルなどでは、欧州や米国への休暇旅行が制度化されていました。同じ会社のサンパウロ駐在員のNYへの一時避難休暇を受け入れたことがあります。空の大きなスーツケースをいくつか持ってきて、日本食を買い込んで帰っていきました。NY駐在など海外駐在員のうちにも入らないな、と思ったものです。

中国政府が、青海省とチベットのラサを結ぶ青蔵鉄道を全線開通させたのは2006年のことでした。全長2,000km弱、最高地点の海抜は5,071m、平均海抜も4,500mという信じがたい鉄路です。一度乗ってみたいものだと思いましたが、NHKのドキュメンタリーを見て、すぐにあきらめました。世界一の高地を走る鉄道の動力は、高地仕様に改良されたディーゼル・エンジンです。客車は気密性と断熱性を強化したうえで加圧されたボンバルディア社特性の車両が使われています。もはや列車ではなくレールの上を走る飛行機なわけです。客車のいたる所に酸素吸入器が備付けられています。万が一、事故や故障で停まることがあれば、ことは命に関わるわけです。実に恐ろしい鉄道です。その素晴らしい景色は魅力的ですが、命を懸けてまで見に行こうとは思いません。(写真出典:gravitybolivia.com)

2024年5月22日水曜日

「フィツカラルド」

ヴェルナー・ヘルツォーク・シリーズ第3弾は「フィツカラルド」です。1982年に公開された壮大なファンタジー映画であり、希代の奇作とも言えます。アマゾン奥地にオペラ・ハウスを作ることを夢見た男の話であり、船が密林の丘を越えるシーンは映画史に残る映像です。その年のカンヌ国際映画祭で監督賞を受賞しています。ちなみに、パルム・ドールは、コスタ・ガヴラスの「ミッシング」、ユルマズ・ギュネイの「路」に奪われています。ここがこの映画の興味深い点でもあります。ヘルツォークが発想した映像は、とてつもない労力で実現されているのですが、ファンタジー映画としてのスタンスがブレ気味で、かつ文明論的深さにも欠けます。この点が、評価を分かれさせているのでしょう。

ヘルツォークは、本作の着想を、19世紀に実在したゴム成金カルロス・フィツカラルドから得たようです。カルロス・フィツカラルドは、ペルー奥地から天然ゴムを搬出するために、今もフィツカラルド地峡として知られるルートを開発し成功を収めます。ルートを開発する際、蒸気船を解体して、別な川まで丘を越して運びます。数百人のインディオを酷使し、2ヶ月かけて丘を越したと言います。その蒸気船は、映画で使われた船に比べ、1/10程度の大きさだったようです。船が丘を越える、なんとも想像力をかき立てられるイメージです。思い起こされるのは、オスマン帝国のメフメト2世が、コンスタンティノープル攻略に際し、入口を鎖で封鎖された金角湾に、丘を越えて大艦隊を運び入れたことです。いわゆる「オスマン艦隊の山越え」です。

間違いなく、ヘルツォークは、このイメージに取り憑かれたのだと思います。文明論といった小賢しい話も、この強烈なイメージの前では吹っ飛んでしまいます。ヘルツォークは、このイメージを映像化するにあたり、何がなんでも実際に人力で船を丘に登らせるという強い覚悟があったのでしょう。宗教がかった執念とも言えます。撮影は過酷を極めたようです。多くの負傷者をだし、病に倒れた俳優たちの交替も相次ぎます。船が丘を登るシーンは、ドキュメンタリーに近い印象すら受けます。まるでナショナル・ジオグラフィックが、古代の建築を古代の工法で再現しているフィルムのようです。とてつもない映画作りを行ったわけですが、ある意味、映画を越えてしまったところが、この映画の弱点なのかもしれません。

ヘルツォークは、壮大なシーンを中心に重厚な作品に仕立てることもできたはずですが、そうしていません。フェリーニ的なノスタルジックで多少コミカルなファンタジーに仕立てようとしたのではないでしょうか。クラウディア・カルディナーレの起用がそれを物語っています。ただ、残念ながら、それは二つの理由で失敗しています。一つは、主演に予定していたジャック・ニコルソンが降板、その後を受けたジェイソン・ロバーズも撮影開始後に病に倒れ、急遽、クラウス・キンスキーが起用されたことです。ロバーズとキンスキーでは、まったく異なるテイストの映画になってしまいます。今一つは、ヘルツォークのシリアスな作風がイタリア的な明るさとは相容れないことです。

とは言え、さすがにヘルツォークです。レベルの高い映画であることは間違いありません。いつもどおり、映像の力を存分に感じさせる映画になっています。船が丘を登るシーンに限らず、素晴らしい映像を展開しています。ことに緑濃いアマゾン支流を進む蒸気船の姿には、惚れ惚れとさせられます。そこに流れるエンリコ・カルーソーの歌声が見事なコントラストを描いています。蒸気船は、あたかも大自然に無謀な戦いを挑む文明の姿のようでもあります。(写真出典:amazon.co.jp)

2024年5月20日月曜日

文明の進化

Henry Miller
束縛されたくないと、携帯電話も、スマホも、一切持っていない先輩がいます。先輩は、不便を感じていないようですが、周囲の人間にとっては、連絡が取りにくく、まったく迷惑な話です。こっちが不便だからスマホを持ってください、とお願いすると、みんな30年前まで携帯・スマホ無しで生きていたじゃないか、と反論されます。確かにそのとおりです。逆に言えば、昔はスマホ無しで、よく待ち合わせできたものだと、よく営業なんかやれてたものだと思ってしまいます。過日、その先輩が、ついにスマホを持たざるを得ないか、と思った瞬間があったようです。メニューも会計もQRコードで対応する飲食店に入ったからでした。

確かに、人手不足の昨今、そういう店が増えています。先輩は、憤りよりも、疎外感を強く感じてしまったようです。今や、スマホを持っていない人は、ネイティブ・アメリカンと同じ境遇に置かれているわけです。ま、喫煙者も同じですが・・・。「文明とは、なければならないものが増えることだ」という言葉を思い出します。確か、ヘンリー・ミラーの「北回帰線」の一文だと記憶します。文明とは、社会制度や技術が発展し、経済的、物質的に豊かになることを意味するのでしょう。だとすれば、ヘンリー・ミラーの言葉は、文明の本質を捉えていると言えます。とは言うものの、冷静に考えれば、古代ローマと現代の社会を比べて大きく変わったのは電気や他の動力で動く機械くらいじゃないかとも思ってしまいます。

人類の三大革命と呼ばれる農業革命、産業革命、IT革命は、すべて技術的革新です。確かに便利にはなり、豊かになったものの、社会や生活の本質は、なんら変わっていないように思えます。相も変わらず、戦争があり、政治は混乱し、パンデミックが起こり、同じような犯罪が後を絶ちません。つまり、文明なるものは進化したのかも知れませんが、人類そのものは太古の昔から、ほとんど進化していないということなのでしょう。人間の最大の進化は、直立二足歩行だと思います。自由に使えるようになった両手は道具を生み、まっすぐになった喉は自在に声を操り言語を生みます。それが、組織力、生産の効率化、そして知恵の蓄積につながり、人間は、瞬く間に地上界を制圧するに至ります。

文明の進化は、個人と組織という難問を生み、自然破壊を深刻化させてきたように思います。例えば、政治の混乱は農業の開始とともに生まれた個人と組織の相克の現れであり、技術革新とは自然界に存在しないものを作ることで自然を破壊するという性格を持っています。とは言え、なにも原始時代に戻ろうと言っているのではありません。大事なことは、文明の進化の本質を理解し、可能な限り、自然の多様性を保持できる技術革新を目指し、人間が進化していないこと、個人と組織は相容れないものだという認識を持って、個人を尊重する社会を作ることだと思います。そうした観点からすれば、最悪の社会システムは武力で成り立つ全体主義だと言えます。さらに言えば、文明の進化は、どうも全体主義に陥りやすい傾向を持っているように思えます。

SFに描かれる未来社会は、実に全体主義的です。画一性が社会的効率を高めるからなのでしょう。20世紀は、人間の強欲が解放され、技術革新が飛躍的に進んだ時代でした。同時に、20世紀は全体主義の時代でもありました。故なきことではありません。我々は、文明の進化が持つダークサイドにも注意を怠るべきではありません。ところで、人間は、自ら進化を止めた生物とも言われます。生物の進化が形状や機能の変化を伴うものだとすれば、人間の進化は直立二足歩行で終わっています。道具と組織を手に入れたことで進化する必要がなくなったわけです。つまり、人間が進化しない限り、文明の進化はさらに進んでいき、全体主義化の懸念も高まることになります。(写真出典:themarginalian.org)

2024年5月18日土曜日

サウダーヂ・モデルナ

とりわけ人生に思い残すことなどないのですが、あるとすれば、リオデジャネイロに行けなかったことくらいでしょうか。しばらくリオに滞在し、毎晩、サンバのライブを聴き、サンバ漬けの日々を送ってみたいと思っていました。ただ、リオは、あまりにも遠く、かつ治安も恐ろしく悪く、二の足を踏んでしまいました。ところが、私がリオが行かなくても、過日、リオの方からやってきてくれました。ブラジルを代表するMPBの歌姫マリーザ・モンチのブルーノートでのライブです。私は、ここ20年弱、サンバにハマっていますが、そのきっかけとなったのがマリーザ・モンチの唄うサンバでした。生きている間に彼女のライブが聴けるなど、まさに夢のような話だと思いました。

実に完成度の高いライブは、私の生涯ベストの一つだと思いました。ブラジルのミュージシャンの演奏レベルは、とても高いものがあります。2億人を超える音楽好きの国民がひしめくブラジルでは、音楽業界の競争も激しく、まずは相当なテクニックを持っていないと場末のステージにも上がれないと言われます。マリーザ・モンチのステージは、テクニカルに完璧なだけでなく、彼女の抜群の表現力が遺憾なく発揮されていました。スタジオ録音とほぼ変わらないレベルの高さに感服しました。そう言えば、1989年にリリースされたマリーザ・モンチのデビュー・アルバムはライブ録音でした。にもかかわらずブラジル中を熱狂させ、いきなりトップ・シンガーに躍り出ています。

マリーザ・モンチは、ややかすれたユニークな声で、独特な世界観を展開します。イタリアで声楽も学んでいますが、そのベースとなっているのはサンバです。父の影響で、幼少の頃からリオの名門サンバ・チーム”ポルテーラ”に出入りし、体中にサンバのリズムとサウダーヂを染みこませているわけです。ステージでは、彼女のよく知られたオリジナル曲を中心に歌っていましたが、古いサンバも数曲歌ってくれました。とりわけ大好きな”Danca Da Solidado”、”De Mais Ninguém”を歌い始めた時には鳥肌が立ちました。これは、ラストかアンコールで”Esta Melodia”を歌う前ぶりではないかと期待しましたが、歌いませんでした。一緒に歌う気満々だったのですが、残念です。

約90分のワン・ステージのみというセッティングに彼女の気合いを感じました。圧巻のステージのラストでは、満員の客席の拍手が鳴り止むことはありませんでした。彼女が、ブラジルで圧倒的な人気を誇るのは、サンバをベースとしながらも、現代的にサウダーヂを表現しているからだと思います。サウダーヂ・モデルナとでも言えばいいのでしょうか。ブラジルの音楽は、その背景にすべてサウダーヂを持っていると言われます。7thコードの使い方など聞くと、それが良く分かります。サウダーヂは、ポルトガル語独特の表現であり、日本語への翻訳は難しいと言われます。郷愁、憧憬、思慕、切なさ等が入り交じっているとされます。言葉の由来に関しても諸説あるようです。

ポルトガル人には、ケルト人の血が入っているようです。司馬遼太郎は、ケルト人を百敗の民と言っています。もともと中欧にいたケルト人は、ゲルマン人等に追われて、ついに欧州の西の外れの海辺にたどり着いたわけですが、その敗走の歴史や終着点の厳しい風土もサウダーヂという言葉の誕生に関係しているのでしょう。ポルトガルのファド、ブラジルのサンバ、アイルランド音楽は似ても似つかぬ代物ですが、実は、すべてサウダーヂと呼んでいいような同じ根っこを共有しているように思えます。(写真出典:cantodampb.com)

家作