2023年8月30日水曜日

ベーコン・マニア

ここ10~15年、アメリカで起きたベーコン・マニアのブームには、やや異常な印象を受けました。もともとアメリカ人はベーコン好きです。1980~90年代、炭水化物の摂取を抑え、タンパク質と脂肪の摂取を増やすアトキンス・ダイエットがブームになると、にわかにベーコンが注目を集めたことがあるようです。しかし、今回のブームは、実利を伴わず、SNSが巻き起こした馬鹿騒ぎといった風情があります。ダイエットや健康食品ブームの反動でもあるのでしょうが、どこか愛国主義と結びついている印象もあり、気になるところでした。単なるイメージですが、ブームを支えているのは、田舎の白人貧困層のように思えてなりませんでした。その後、トランプ旋風を起こした人たちです。

ベーコン・マニアに言わせると、ベーコンはアメリカ独自の国民食であり、べーコンこそアメリカだ、ということになります。ベーコンは、アメリカの国民食かも知れませんが、アメリカに限った食品ではありません。古代中国に始まったという豚の塩漬けは、冷蔵技術が限られていた時代、世界各国で作られ、食されました。思うに、冷蔵・冷凍技術が進化した今、塩漬けにする必要性はなくなったわけで、ベーコンは絶滅しても不思議はありません。ただ、その独特な風味が人々を魅了し続けているわけです。必要性や合理性に欠ける存在は、時として人々の深い愛情の対象となります。各国に残るベーコンですが、アメリカ人が、アメリカのベーコンをユニークだと主張する理由も、まったくないわけではありません。

例えば、欧州の多くの国では、ベーコンといえば主に豚の背中の肉を使って作ります。そもそもベーコンという言葉もバック(背中)と同じ語源とされます。ところが、アメリカでは、主にサイドバック(豚バラ肉)を使って、細長いベーコンを作ります。アメリカでベーコンと言えば、どこでも、このサイドバック・ベーコン、ほぼ一択です。サイドバック・ベーコンに限って言えば、確かにアメリカ独自の食品と言えるのかも知れません。日本のベーコンも同じくアメリカ式です。ただ、日本の場合、よくスーパーで売られているパックされたベーコンは、加熱処理し、半分に切ったものです。また、カナディアン・ベーコンと呼ばれるものは、主に背中の肉を使った脂身の少ないバック・ベーコンです。

アメリカ人は、カリカリに焼いたベーコンが大好きです。ベーコンはこうでなくちゃ、というわけです。加熱済のベーコンを軽く焼いて食べる日本人には、かなり違和感があります。そもそも、アメリカでサイドバック・ベーコンが主流となったのは、安価であり、移民たちも手に入れやすかったからだと思われます。そのサイドバック・ベーコンは生の状態で販売されてるので、よく火を通す必要があります。脂身の多いサイドバック・ベーコンをよく焼けば、流れ出た脂で、おのずとカリカリになるわけです。つまり、焼き加減の好み以前に、アメリカのベーコンは、カリカリにするしかなかったのだと思います。それが、時とともに、アメリカの味として定着していったわけです。

サイドバック・ベーコンが健康的な食べ物ではないことは容易に理解できます。脂身、塩味、高カロリー、防腐剤等の添加物、と健康に良くないもののかたまりです。ただ、その風味の良さは、棄てがたいものがあり、私もよく食べます。私の場合、朝食時に、ベーコン・エッグとして食べることが多いのですが、量は多くならないように気を使っています。ほとんどの場合、スーパーで買うパックのハーフ・ベーコンを食べていますが、たまにまともなベーコンを食べたくなります。例えば、御殿場ハムのしっかりと燻製されたベーコンなどは、確実に人を幸せにする食べ物の一つだと思っています。アメリカのベーコン・マニアは異常だと申しあげましたが、実は、決して他人だとも思っていません。(写真出典:ei-sta.com)

2023年8月28日月曜日

地雷原

2014年、カンボジアのプレアヴィヒア寺院の遺跡へ行きました。天空の寺とも呼ばれるプレアヴィヒア寺院は、9世紀にクメール王朝が創建したヒンドゥー寺院です。その後、ヒンドゥー教が衰退すると仏教寺院に変えられています。 2008年には、世界遺産にも登録されました。ただ、2012年頃まで、永らく観光できない状態が続いていました。理由は二つあります。一つは、タイとの領有権を巡る紛争です。1904年に国境協定によってカンボジア領となりましたが、これを不服とするタイは、フランスの占領軍とも戦い、カンボジアとも紛争を繰り返してきました。つまり戦場だったわけです。いま一つの理由は、ポル・ポト派が埋設したべらぼうな数の地雷です。プレアヴィヒアへの道は、広大な地雷原のなかにあったわけです。

膨大な時間と資金を投じて地雷原は撤去され、タイとの紛争も小康状態となったことから観光が再開されました。カンボジアでは、内戦終了後から30年近く地雷除去が進められてきましたが、現在でも600万個が残っていると言われます。世界に残る地雷の数は推定不能とされ、約80カ国に1億個という説もあります。地雷は、人を殺傷するばかりではなく、耕地を奪い、自然を破壊します。1999年には、永年にわたるNGOの働きかけによって対人地雷全面禁止条約が発効しています。NGOは、ノーベル平和賞を受賞しました。現在、アメリカ、ロシア、中国等を除く164カ国が批准しており、地雷の新規埋設は大幅に減少したようです。ただ、無力化されていない無数の残存地雷は、依然として多くの被害者を生み続けています。

地雷汚染が深刻な国としては、イラク、ボスニア・ヘルツェゴビナ、エチオピア、カンボジア、タイが挙げられます。ポル・ポト派が埋めたカンボジア・タイの地雷以外は、全てこの30年以内に埋設されたものです。地雷は、安価で効果的な防衛兵器です。その効果は、進路妨害だけではありません。殺傷力は高くありませんが、負傷者救護に要員が割かれることで敵の戦闘能力は落ちます。埋めるだけではなく、空からばら撒くことも可能で、実に容易に地雷原を作れます。一方で、除去ということになると、数の問題だけでなく、危険を伴う困難な作業が求められます。人手もコストもかかる地雷除去ですが、地雷汚染は貧しい国に多く、NGO頼みの現状にあります。日本でも、複数のNGOが地雷除去にあたっています。

過日、ロシアの地雷に苦しむウクライナから、山梨県の建機製造・販売業「日建」に研修団が訪れました。日建創業者の雨宮清氏は、ビジネスで訪れたカンボジアの地雷被害を目の当たりにし、1995年から建機を応用した自作の地雷除去機の開発に着手します。危険を顧みず、現場で自ら操縦し、改良を重ね、カンボジア、アフガニスタン、ニカラグア等で実績を積み重ねてきました。日建の地雷除去機で驚いたのは、前で地雷を除去しながら、後ろでは土を掘り起こし、農地転用の準備をするという機能です。地雷除去には、他にも、広範囲を爆破する、ロボットを使う、探索に動物や食物を使う等、様々な手法があるようですが、多くは、依然として危険な人力に頼っているようです。

残存地雷の問題は、核兵器、温暖化などと同様、人類の負の遺産です。対人地雷全面禁止条約は、新たな地雷の製造や埋設を禁じましたが、残存地雷の除去に関してはNGOに頼っている現状があります。現在、千を超すNGOが、国連とも連携し、各地で地雷除去に取り組んでいるとのこと。その活躍は称賛に値します。ただ、国連傘下に地雷除去機構でも設立し、より効果的、効率的に除去を進めるべきではないかとも思います。ただし、その大前提は、アメリカ、中国、ロシアの参加ということになります。負の遺産という人類共通の課題解決に向けた国際協調が難航するうちに、人類と地球が滅亡する日は、加速度的に近づいているように思います。そのことは、今年の夏の異常な暑さ、大雨、干ばつのなかで、より一層強く実感させられます。(写真出典:aoav.org.uk)

2023年8月27日日曜日

テケテケ

サーフ・サウンドの元祖ザ・ベンチャーズは、1960~70年代に世界を席巻しました。特に日本での人気は抜群で、歌謡曲も多くリリースし、今でも日本ツアーを行っています。ベンチャーズは、1960年、メジャー・デビューとなった「ウォーク・ドント・ラン」をいきなりヒットさせます。その後も「10番街の殺人」、「ダイヤモンド・ヘッド」、「パイプライン」等々のヒットを飛ばします。60年代後半、日本で社会現象化したエレキ・ブームやグループ・サウンズ・ブームは、ベンチャーズとビートルズがもたらしたとされます。低音弦をスライド・ダウンしながらピッキングする”トレモロ・グリッサンド奏法”は、ベンチャーズの代名詞ですが、日本では”テケテケ”と称され、エレキ・ブーム全体を指す言葉にもなりました。

小学校高学年の頃、友人の家でベンチャーズを聞き、なんてカッコいい音楽なのだろうとシビれました。私の洋楽事始めです。我々の年代は、皆、似たような経験から洋楽を聴くようになったと思われます。おおむね年長の兄弟がいる友人たちから洋楽が広がっていったものです。ベンチャーズにシビれていると、友人の兄が来て、おまえら、もっとカッコいい曲があるぞ、とビートルズやストーンズを聞かされました。ほどなくラジオの深夜放送を聞くようになると、洋楽の世界はさらに広がり、ジミヘンやR&Bにハマってしまいました。同じ頃、エレキ・ブームが沸騰し、音楽は聞くものから、演奏して楽しむものへと変りました。私までもが、中古のエレキ・ギターを買いました。

当時、エレキの神様と言われたのが寺内タケシでした。10代でエレキ・ギターとアンプを自作した寺内は、米軍キャンプ等で演奏していました。1962年、当時、大人気だったロカビリー・バンドを結成しますが、すぐにエレキ・バンドに転じます。”寺内タケシとブルージーンズ”の誕生です。寺内が牽引したエレキ・ブームのなかからグループ・サウンズが登場したのが、1965年とされます。最初のレコードは、田辺昭知とザ・スパイダースの「フリフリ」でした。翌年には、ビートルズが来日し、ジャッキー吉川とブルー・コメッツが「青い瞳」をリリースし、急速にブームは盛り上がっていきました。スカウトされたセミ・プロや素人バンドが、次々とメジャー・デビューしていきます。

多くのヒットが生まれ、なかには今も残る名曲もあります。ただ、彼らがレコーディングしたのは、レコード会社がプロの作詞家・作曲家に書かせた曲でした。バンドを始めた時、彼らが目指した音楽があったはずですが、ビジネスに組み込まれると、それらとはかけ離れた音楽をやらされたわけです。タイガースとテンプターズの登場で、ブームは頂点を迎えますが、音楽性の問題からメンバーの脱退や解散が相次ぎ、かつルックスだけのバンドが淘汰されたこともあり、ブームはわずか3~4年で消滅しました。グループ・サウンズとは、エレキ・ブームを背景に、レコード会社が仕掛けた商売に過ぎなかったわけです。しかし、解散したグループのメンバーの多くが、その後、音楽の世界を中心に活躍し、日本のポップスを進化させることにはなりました。

そういう意味では、グループ・サウンズの効用もあったわけです。音楽を目指す若者たちに、自分たちの音楽を追究することの大事さを教えてくれたという面もあります。また、ヨナ抜き音階の演歌中心だった日本の歌謡曲界に、ポップスを定着させた効果は大きかったと思います。1960年代は、世界的にカウンター・カルチャーの時代でした。エレキ・ブームやロング・ヘアーは、旧世代からすれば教育上好ましくない非行であり、厳しく批判されたものです。グループ・サウンズは、レコード会社が作りあげたブームとは言え、若い世代が古い価値観を打破していく効果はあったと思います。明らかに、日本のポップスの多様性はそこから生まれ、発展していったのだと思います。(写真:ザ・スパイダース「フリフリ」出典:amazon.co.jp)



2023年8月26日土曜日

夏祭

祇園祭
春祭は、農耕の始まりを祝い、神仏に今年の豊作を願うという意味があり、秋祭は、農作物の実りを祝い、神仏に感謝を捧げるという趣旨なのでしょう。夏祭だけは、農耕のサイクルと無関係に思えます。恐らく、多くの夏祭は、盂蘭盆会との関係で行われてきたものなのでしょう。祭とまでは言わないにしても、盆踊りは、全国各地で行われます。盆踊りや精霊流しに由来する祭も多くあります。ただ、お盆とは無関係な夏祭も多くあり、それらは都市部に集中しているように思えます。例えば、祇園祭系の山車とお囃子、あるいは三社祭系の御神輿などです。これらの祭は、疫病退散を神仏に願ったことを起源とする場合が多いようです。疫病除けなら、夏場に多く、都市部に多い理由も頷けます。

思えば、人類の歴史は、疫病との戦いの歴史でもあります。一定の土地に、そこで生まれ育った人たちだけで暮らす場合、疫病に対する集団免疫が獲得されます。パンデミックが起こることはありませんが、文明の進化も遅くなります。ただ、戦争や交易によって、人の交流が起こると、文明の進化とともにパンデミックも発生することになります。しかも、それは人口が密集し、衛生環境も食糧事情も劣悪だった都市部で大きな被害を生むことになります。農耕によって文明が誕生し、文明の進化によって疫病との戦いが生まれたと言えます。あるいは、自然の一部であった人間が、自然をコントロールしようとした瞬間、自然に逆襲されたと言えるかも知れません。

日本最古のパンデミックの記録は、3世紀末から4世紀前半と推定される崇神天皇の時代に起きています。中国や朝鮮半島との交流が活発化した頃と重なります。天然痘か麻疹だったのでしょうが特定できません。民の半数以上が死んだと記録されます。次のパンデミックの記録は、735~737年に起こった天然痘の大流行です。九州で海外から持ち込まれた菌によって流行が起き、平城京には、朝廷が新羅に送った使節団が持ち込んだとされます。その後、全国に蔓延し、人口の25~35%が死んだと推定されています。聖武天皇は、仏教に深く帰依し、東大寺に盧舎那仏(大仏)を建立します。その後も、数十年毎に、天然痘、麻疹、赤痢、マラリア等々の流行が発生しています。

9世紀中葉には、インフルエンザによるパンデミックが、複数年にわたり発生します。民衆は、怨霊の祟りを鎮めるために御霊会(ごりょうえ)を開き、読経とともに、歌舞音曲、相撲なども行ったようです。863年には、朝廷内でもインフルエンザが猛威を振るったため、初めて朝廷主催の御霊会が開催されます。864~866年には、富士山の貞観大噴火が起こり、869年には激烈な貞観地震と大津波が発生します。前後して、火山の噴火や地震が続いたことから、厄災を払うとされる牛頭天王を祀った御霊会が神泉苑で大々的に行われ、祇園社、現在の八坂神社から神輿も繰り出します。これが祇園祭の始まりとされます。明治時代までは、祇園御霊会と呼ばれていたようです。祇園祭こそ、神社系の夏祭の大本だということになります。

天然痘のパンデミックは、その後も、世代が変わる毎に発生を続けます。WHO が天然痘根絶宣言を出したのは1980年のことでした。人類が、初めて、かつ唯一根絶できたウィルスと言われます。エドワード・ジェンナーが、1796年に発見した人類初のワクチン”種痘”が功を奏しました。それに先立つ1792年、秋月藩の藩医だった緒方春朔が人痘法の接種に成功していますし、さらに言えば、4,000年前のインドでも人痘法は行われていたようです。ただ、ジェンナーの牛痘法は、より安全性が高く、瞬く間に世界中に広まったようです。日本でも、1810年には初めての接種が行われていますが、普及したのは40年後だったようです。効果があると言われても、牛の疱瘡を体内に入れることなど、相当の抵抗があって当然です。人類にとっては、種痘も文明の進化の一つですが、一方、ウィルスも進化を続け、そのスピードは人類のそれをわずかに上回っているように思えます。(写真出典:yasaka-jinja.or.jp)

2023年8月24日木曜日

ヘッド・アップ・ディスプレイ

アメリカにいる時、スウェーデンのサーブ900に乗っていました。マーケティング・データによれば、オーナー・ドライバーの学歴が最も高い車とされていました。アメリカ人の仕事仲間に言わせれば、サーヴィー(彼女はサーブ・オーナーをそう呼んでいました)は、高い確率で、眼鏡をかけ、ヒゲをはやし、頭髪が薄い、ということになります。今はなきサーブ・スカニアは、スウェーデンを代表する航空機・軍需品メーカーのサーブとトラック・バス・メーカーのスカニアが統合して誕生したカー・メーカーです。航空機製造の技術を活かした独特の車作りはユニークで、長いボンネットに直立的なフロント・ガラスという外観も実に印象的でした。サーブのオーナー・サービスには、定期的な広報誌の配布もありました。

その広報誌に、ヘッド・アップ・ディスプレイ(HUD)が紹介されていたのは、1988年のことだったと記憶します。戦闘機メーカーらしい先進性に驚きました。HUDは、フロント・ガラスに直接、あるいはその前に装着された光学ガラス等に、スピードや種々のデータを映し出す技術です。第二次大戦中、英国のデ・ハビランド社が、モスキート夜間戦闘機の風防にレーダー映像を映し出したのが始まりとされます。ちなみに、モスキートは木製のボディを持ち、世界最初のスティルス機とも言われます。その後の技術的進化もあり、HUDは、ジェット戦闘機の標準的装備となります。さらに、ヘルメットに組み込まれたヘッド・マウント・ディスプレイも開発されています。

米国でのHUDの車への搭載は、1988年にオールズモービルが実用化し、その後、カトラス・シュープリーム・サルーンに装備されます。オールズモービルは壊れにくい車として人気が高く、我が家のセカンド・カーも、中古で買った大きなカトラス・シュープリーム・セダンでした。決しておしゃれでもなく、先進性を誇るわけでもない車が、初めてHUDを搭載したという点が面白いと思います。一方、日本では、同じ1988年、おしゃれなデート・カーとして人気のあった日産シルビアに採用されています。しかし、HUDは、一般化しませんでした。コストの問題もあったのでしょうが、当初、表示されるのはスピードくらいであり、ユーザー側から必要性そのものが疑問視されたわけです。

しかし、近年、HUDを搭載する車が増えているようです。まだ、10%に満たないものの、標準装備化が進むと言われています。その背景には、車とネットのリンク、いわゆるコネクテッド化の進展による情報量の増加と精緻化があるものと思われます。エンジンの電子制御やABSシステムは1970年代に登場し、90年代後半にはGPS型のカー・ナビゲーションが生まれ、2000年代に入るとネットとのリンクが本格化します。さらに2010年代後半には、運転支援システムが導入され、自動運転化が急速に展開しつつあります。増加した情報量は、従来のメーター類では対応できず、ナビも兼ねたディスプレイに表示されます。運転中のドライバーの視線は、かつてより頻繁に上下するようになり、HUDの有用性が再認識されたのだと思います。

一方で、HUDの危険性を指摘する声もあります。前方視野における遠近の焦点が頻繁に変わることが危険だというわけです。いささか驚きです。ジェット戦闘機のHUDは、無限遠の点に結像するよう設定されています。車の場合でも、焦点は数メートル先にあり、遠方視野とほぼ違和感なく同化しています。つまり、遠近の焦点移動は発生しないよう設定されているわけです。もちろん、慣れの問題はあり、当初は煩わしいと思うドライバーもいるとは思います。新しいHUDでは、簡略化されたナビの投影もされるようです。車の進化には感心させられますが、そうなると、もう一気に自動運転化すればいいのではないかとも思います。ただ、最新のHUDや運転支援システム欲しさに、車を買換えるかと言えば、そこまでではないとも思います。人間の情報処理能力は、まだまだコンピューターに勝っていると確信しているからです。(写真出典:autocar.jp)

2023年8月22日火曜日

志怪小説

蒲松齢
”白い目で見る”と言う言葉は、冷たい視線、蔑むような態度を意味しますが、もともとは”青い目で見る”という言葉とセットでした。青眼は、うれしさあふれる視線を意味します。この言葉は、3世紀、中国三国時代の思想家・阮籍に由来します。阮籍は、世俗に背を向け、哲学論議、いわゆる清談をよくした“竹林の七賢”のリーダー格とされます。阮籍は、気に入らない人には白眼を向け、気に入った人には青眼を向けたとされます。政治や俗世を拒む姿勢の現れなのでしょう。いわゆる六朝時代は、戦乱の世であるとともに、宗教の時代とも言われます。竹林の七賢は、哲学、宗教を論じ、その具体例として、巷で語られている伝承や噂話をよく使ったとされます。それが、怪奇小説の先祖と言える”志怪小説” を生むことになります。

志怪小説とは、怪異なことを記すという意味で、民間に伝わる伝承や噂話を集めたものです。怪談の類いは、”本当にあった話”として語られることが多いわけですが、そもそも始まりからそのスタイルを持っていたわけです。また、当時の書籍と言えば、為政者の命で作成された歴史書が主であり、民間の話を書物にしたという点も画期的だったのでしょう。ただ、内容は、採録した話を簡略に記述したものであり、創作された小説とは大いに異なるものでした。”小説”という言葉は、荘子が、つまらない説と定義したことに始まるとされます。とすれば、志怪小説は、小説の元祖なのかも知れません。干宝の「捜神記」等が代表作とされますが、残念ながら原本は失われており、後の編纂本に、一部収録されるのみと言われます。

その後、唐代には、沈既済の「任氏伝」等、いわゆる伝奇小説が登場しています。志怪小説のシンプルな採録スタイルとは異なり、物語性を高め、登場人物の心情も描かれるようになります。エンターテイメント性が高まった背景には、唐の華やかな宮廷文化、あるいは科挙の制度によって民間の知識レベルが上がったことも挙げられています。ところが宋代になると、再び簡潔な採録スタイルに戻ります。宋は官僚の国であり、科挙や儒教が盛んでした。恐らく享楽的な読み物は嫌われ、教訓めいた話が好まれたのでしょう。そうした歴史的経緯も踏まえ、清代前期に登場したのが蒲松齢の「聊斎志異」です。怪異小説の最高峰とも、短編小説の最高傑作とも言われます。

聊斎志異が書かれた時期は、1670~1700年代初めと推定されています。原本には、約500編が収録されていると言われます。いくつかの写本もあったようですが、刻本は、1766年に全16巻として発刊されています。聊斎志異は、作者が没してから半世紀を経て世に出たわけです。六朝時代の志怪小説の復興とも言われるようです。神仙、妖狐といった内容は、確かに伝統的だと言えます。ただ、先立つ明代には「三国志演義」、「水滸伝」、「西遊記」、「金瓶梅」が書かれています。いわゆる中国四大奇書の時代を経て書かれた聊斎志異の文学的成熟度は、先祖である志怪小説とは格段の違いがあるのでしょう。江戸後期には日本にも伝わり、翻訳もされています。また、芥川龍之介、太宰治、佐藤春夫等々も、聊斎志異を翻案した作品を書いています。

聊斎志異の世界は、日本の怪談や欧州の怪奇小説とは大きく異なります。美しく、慎ましやかな女性が多く登場しますが、多くの場合、その本性は神仙、妖狐、あるいは幽霊ということになります。日本や欧州の場合、彼女たちは悪さを行い、主人公は恐れおののきます。聊斎志異に登場する誠実な男たちは、この世のものではない女性と幸せに暮らします。ただ、ちょっとしたことから、彼女たちの本性が明らかになるのですが、主人公たちは、恐れるのではなく、そのことを受け入れ、愛しく思い続けます。この日欧との違いは、恐らく道教がゆえに生まれるのでしょう。中国には、儒教も仏教もありましたが、最も影響力のある思想は、老子に始まる道教だと聞きます。不老長寿を理想として、神仙思想を説く道教の教えが庶民にまで浸透しており、聊斎志異の世界が生み出されているのでしょう。(写真出典:ja.wikipedia.org)

2023年8月20日日曜日

ファーブルトン

小学生のころ、将来の夢という題の作文を書かされたことがあります。ほとんどの子が、野球選手とか医者とか、将来なりたい職業について書いていたようです。それこそ、まさに教師がイメージしていた内容だったのでしょう。私は、ヤクルトを一升瓶でラッパ飲みしたい、バケツくらい大きいプリンを食べたい、と書き、失笑をかいました。ウケをねらったわけではなく、常々、ヤクルトもプリンも大いに不満の残るサイズだと思っていたので書いたまでです。長じても、その夢は覚えており、定年退職した日に、それを実現したいと思っていました。 ただ、実際には実現していません。理由は単純です。いまだにヤクルトもプリンも好きですが、歳とともに、そこまで大量に飲みたい、食べたいと思わなくなったからです。

プディングは、大雑把に言えば、卵や牛乳等を蒸した料理の総称であり、英国発祥とされます。カスタード・プディングは、その一種のスウィーツということになります。カスタード・プディングは、実に裾野の広いスウィーツです。卵・牛乳・砂糖を基本材料とする点は同じですが、製法の違い、あるいは国の違いによって、ババロア、ブラマンジェ、パンナ・コッタ、クリーム・ブリュレ、フラン、クレマ・カタラーナ等々があります。また、ティラミスやカヌレも仲間だと言えます。スペインの家庭料理ミルク・フライは好物ですが、これも同族なのだと思います。私は、総じてカスタード・プディングが大好きです。間違いなく、人を幸せにする食べ物の一つだと思います。

日本で一般的に販売されているメーカー製のプリンもおいしいとは思います。いわゆるケミカル・プリンですが、熱を加えず、ゼラチン等で固めたものです。とてもなめらかな口当たりになりますが、カスタード・プディングというよりも、ほぼババロアだと思って食べています。ちなみに、グリコのヒット商品「プッチンプリン」は、世界でもっとも売れたプリンとしてギネス世界記録に認定されているようです。さて、そのカスタード・プディング系のなかでのお気に入りと言えば、二つあります。一つは、お袋が作ってくれたプリンです。永いこと食べていたからということなのでしょうが、伝統的な作り方が生む食感が好きでした。今一つは、フランス菓子のファーブルトンです。

ファーブルトンは、ブルターニュ地方で生まれたスウィーツです。”ファー”は牛乳で煮た粥を意味し、”ブルトン”はブルターニュ地方を指します。卵、牛乳、砂糖に小麦粉を混ぜ、プルーンを入れて、オーブンで焼き上げます。しっかりとした質感、プルルとした食感がたまりません。私が、初めてファーブルトンを食べたのは、神戸の「PATISSERIE TOOTH TOOTH」です。洋菓子店としては、1997年に、トアロードと三宮中央通の角、生田神社一の鳥居横に創業しています。神戸と西宮だけに5店舗を展開しています。初めて食べたファーブルトンは、まさに至福の味、即刻、最も好きな食べ物の一つに認定しました。ただ、日持ちしないという難点があり、神戸から帰る日に、老祥記の豚まんとともに買って、新幹線に乗ったものです。

過去形で語るには理由があります。10年ほど前から、トゥース・トゥースの店先からファーブルトンが消えたのです。今でも神戸へ行くとトゥース・トゥースには立ち寄ります。焼き菓子等を買うのですが、その際、店員さんに「ファーブルトンはないんだよね」と、必ず言うことにしています。ファーブルトンを忘れていない客がいることを伝える、私なりの復活要望運動だと思っています。東京でも商っている店はいくつかあります。最近も、神保町で新しい店を見つけました。どれも美味しいのですが、トゥース・トゥースの味とは、多少異なります。トゥース・トゥースの濃厚なファーブルトンは、どこか田舎臭さの残る素朴な代物でした。恐らく、伝統的な作り方を踏襲し、ブルターニュらしさを残したファーブルトンだったのでしょう。(写真出典:prune.jp)

家作