2023年3月31日金曜日

数珠

星月菩提樹数珠
インドのサルナートへ行った際、星月菩提樹の数珠を買いました。サルナートは、ヴァラーナシー(ベナレス)の北に位置し、悟りをひらいた釈迦が初めて説法した初転法輪の地とされます。漢訳仏典では、鹿野苑とも呼ばれます。巨大なダメーク・ストゥーバをはじめ、4~6世紀に建てられた僧院跡が残ります。これまでまともな数珠を持ったことがありませんでした。これからは使う機会も増えるだろうと思い、仏教の聖地を訪れた記念に買ったわけです。釈迦は菩提樹の木の下で悟りを開いたとされます。その菩提樹は、挿し木で生き延び、現在、ブッダガヤの大菩提寺に植えられているようです。もちろん、その菩提樹から作ったわけではありませんが、星月菩提樹の数珠は功徳が高いとされます。

数珠の起源は諸説あるようですが、3500年以上前のバラモン教の聖典に「連珠」という記載があるようです。ヒンドゥー教では、祈りの回数を数えるために使われていたとも言われます。仏教における数珠は、いくつかの経典に記載があるようですが、なかでも「木槵子経」がよく知られています。釈迦が波瑠璃王に対して、木槵子(ムクロジ)の実108個で数珠を作り、仏・法・僧を称える毎に珠を繰り、それを百万遍繰り返せば、煩悩を滅し、涅槃に到ると説いたとされます。仏教においても、数珠は祈りの回数を数えるという性格を持っていたわけです。カソリックにおけるロザリオも、同様にカウンターとしての性格を持つようです。カウンターは、次第に読経の代替効果も持つようになっていきます。

日本には、6世紀、仏教が伝わると同時に数珠も持ち込まれたようです。当初、仏教は、鎮護国家を目的とする宗教だったため、数珠は、貴族と僧侶だけが持つ特殊な法具でした。貴重なものでもあったようで、現に、正倉院にもいくつかの数珠が御物として納められています。平安末期から鎌倉期、宗教改革の時代を迎えると、いわゆる鎌倉新仏教が民衆の間に広がり、信徒たちも数珠を使うようになります。江戸期になり、幕府が社会管理体制に寺院を組み込むと、仏教の地位は上がりますが、一方で形式化も進みます。数珠も一般化し、形式的な仏具になっていきます。それまで売買の対象ではなかった数珠は、元禄期に至り、一般的に販売されるようになったようです。

形式的になったとは言え、仏事における数珠は読経の代替であることに変わりありません。我々の年代は、仏事と言えば、数珠を持っていきますが、若い人たちは気にもしていません。廃れていく文化の一つなのだろうと思っていました。ところが、20年くらい前から、数珠を手首に巻いている若い人が目につき始めました。後輩の一人が、数珠を付けていたので、思い切って、それは何かの宗教なのか、と聞いてみました。これは、数珠ではなく、パワー・ストーンですとの回答。パワー・ストーンは、大ブームとなり、二重三重に手首に巻いている人も多く見かけました。水晶はじめ石には不思議な力があると信じる人々は、古くから存在していたわけですが、手首に巻くというところが新しかったのでしょう。

宗派によっても異なりますが、僧侶が読経の際、数珠を摺り合わせて鳴らすことがあります。これには祈願の意味があるようです。より強く願うことを直接的に表わしているのでしょう。室町期に成立した能・狂言では、悪霊調伏のために、山伏が数珠を摺って鳴らすシーンが出てきます。これも、悪霊を退治してください、と仏に願っているということなのでしょう。数珠を鳴らすことは、密教由来とされます。数珠の姿は、宗派によっても異なりますが、天台宗では平玉の数珠を使います。平玉は、摺り合わせた際、より大きな音が出ると聞きます。能で山伏が悪霊調伏する際に使うのは刺高数珠と呼ばれる平玉の数珠です。修験道と密教の関係の深さを感じさせます。(写真出典:yasuda-nenju.jp)

2023年3月30日木曜日

ガールズ・グループ

BLACKPINK
TV朝日の「関ジャム・完全燃SHOW」は、結構、面白いTV番組です。プロのミュージシャンや作曲家等が、かなり専門的な視点からポップのミュージシャンや曲を分析します。専門的に過ぎて、たまについて行けないこともありますが、おおむね素人にも分かりやすくテクニカルな解説をしています。あまり国内のポップ音楽を聴かない私でも、テクニカルな解説は楽しめます。過日、「韓国発ガールズ・グループ特集」が放送され、その分析が興味をひきました。その進化の歴史が語られ、その強さの背景として、4大事務所による厳しいレッスン、コライトによる多彩な楽曲制作、ファンの組織化、徹底的なネット活用、オーディション番組の活用、チャート重視の姿勢などが挙げられていました。

ガールズ・グループの歴史は、かなり古く、1920年代から存在したようです。当初は色物的扱いだったようですが、ほどなくヒット・チャートの常連になっていきます。ガールズ・グループを一つのジャンルにまで押し上げたのは、1961年に"Will You Love Me Tomorrow"を大ヒットさせたシュレルズだとされます。ちなみに、この曲は、ジェリー・ゴフィンとキャロル・キング夫妻の作品です。以降、ガールズ・グループが乱立しますが、時代を大きく変えたのがスプリームスです。いまだ破られることのない多くの記録をうち立てたダイアナ・ロスとスプリームスは、モータウンの女王でした。ただ、売上では、90年代に登場するスパイス・ガールズとTLCが記録を塗り替えています。

日本のガールズ・グループの歴史は、ザ・ピーナッツを別格とすれば、ピンク・レディーやキャンディーズに始まるのでしょう。そして、ゲーム・チェンジャーとなったのがおニャン子クラブやモーニング娘だったと思われます。ここでアイドルの形が変わり、オーディンションから始まる流れ、あるいはマスゲーム・ダンスが生まれます。そしてAKB48から、ファンの組織化という新たな動きが加わります。ただ、恐らくSPEEDの存在を忘れるべきではないのでしょう。鎖国状態を続ける日本のポップ音楽界にあって、ガールズ・グループは、多少なりともアジア各国に影響を与えました。なかでも、ダンスを重視したSPEEDの成功は、後の韓国ガールズ・グループのロール・モデルになったのではないでしょうか。

日本の音楽界をはるかに超える韓国ガールズ・グループの成功ポイントは、”完全燃SHOW”でプロが指摘したとおりなのでしょうが、その背景には2つの大きな要因があると思われます。一つは、コンテンツ輸出の国家プロジェクト化と規制緩和、そして、それに基づく徹底的なマーケティングの展開と裾野の広い産業化です。1997年、アジア通貨危機の際、介入したIMFは、韓国政府にコンテンツ輸出政策を求めます。映画「パラサイト」がアカデミー作品賞を獲得し、BTSやBLACKPINKが世界市場を席巻するに至った起点はここにあります。マーケティングに関しては、ネット活用はじめ様々な手法が見事ですが、何よりもターゲットを世界、特にアメリカに定めた点が成功の鍵だったと思います。それによって、音楽は、楽曲に留まらない巨大なビジネスとして成立することになります。

例えて言えば、韓国の音楽界は国際的に活動する巨大メーカーであり、日本のそれは家内手工業といった風情です。当然、巨大メーカーは、数年先のビジネスを企画し、その準備に余念がありません。音楽は不確実性の高いビジネスです。時代や聴衆の変化に左右されるからです。日本の音楽界は、ミュージシャン個人の感性に負うところが大きいわけですが、韓国では、ビジネスとしてのメカニズムが、時代の先を読み、あるいは時代を仕掛けていくことになります。恐らく、韓国では、成功したビジネス・モデルとしてのガールズ・グループの次の形が準備されており、さらにはガールズ・グループの先のビジネスが仕込段階に入っているものと考えられます。もちろん、産業化された音楽がすべてだとはまったく思いません。音楽は多様なものであるべきです。ただし、ビジネスとしての韓国音楽界の成功は、賞賛に値すると思います。(写真出典:iflyer.tv)

2023年3月26日日曜日

いけず石

バルセロナは、碁盤の目のように区画された町並みで有名です。各ブロックは、同じ広さの正方形になっており、同じ高さの建物が道路沿いの四方に並び、中央部は開けた空間になっています。日当たりと風通しを考慮した設計になっているわけです。バルセロナは古い街ですが、大きな街ではありませんでした。産業革命とともに、木綿の製造が盛んになり、大量の労働者が流入します。そこで、19世紀中葉、労働者の住宅確保のために大拡張計画が実行され、現在の町並みが出来あがっています。正確に言えば、各ブロックは、正方形ではなく、角が削られた八角形になっています。何故、そうなっているのか聞くと、馬車が四つ角を曲がりやすくしたからなのだそうです。 その話は、京都の”いけず石”を思い出させました。

京都も、碁盤の目に区画整理された計画都市ですが、住宅街の四つ角に大きな石が置かれているのを見ることがあります。はじめは、鬼門除けなのかと思いました。京都の古い建物の塀は、鬼門除けとして北東の角が凹ませてあります。ただ、石は、必ずしも鬼門に置かれているばかりではありませんでした。聞けば、この石は車除けだと言うのです。つまり京都の狭い路地では、車が角を曲がる際に、家屋や塀にぶつかることがままあり、その対策として置かれているというのです。車を運転する側から言えば、気になる邪魔な石です。ということは、運転も慎重になりますから、衝突対策としての効果はあるのでしょう。邪魔になることから、意地悪な石、つまり”いけず石”と呼ばれているのだそうです。

京都の人は、いけずだと言われます。訪問先で「ぶぶ漬け、どうどす?」と聞かれたら、「早く帰れ」という意味だとされます。落語には、「えらいすんまへんなあ」と言って、本当にぶぶ漬けを食べた大阪人が、思いっきり嫌がられるという噺もあります。また、早く帰って欲しい時には、客の手が届かないところにお茶を置く、という話も有名です。京都人に言わせると、これらは、相手を気遣って、直接的な表現を避ける京の文化なのだそうです。ただ、その気遣いは、京都以外の人には分かりにくく、いけずな人たちと思われるわけです。もちろん、京都人以外を田舎者と見下すプライドの高さも含まれていると思われます。いけず石にも、京都風の理屈があります。

車が家にぶつかれば、お互いに嫌な思いもするし、出費もかさむので、それを気遣っていけず石を置くというわけです。身勝手な防御だけではないと言いたいのでしょう。また、一方では、世間体を気にする京都人という見方もあります。車が家にぶつかると、警察は来るわ、工事も行われるわ、その費用負担でもめるわ、と大騒ぎになります。それは間違いなく、ご近所に、はしたなく大騒ぎした家という評判が立つことになります。京都人は、何よりもそれを嫌がると言われます。客に大声で「早く帰れ」と言うのもはしたない行為です。要するに、京都特有の相手を気遣う婉曲的表現なるものの背景には、はしたないと噂されることを恐れる心情があるとも言えるのでしょう。

いけず石は、明治期から広まった風習だと言われますが、その起源は古く、平安時代には、牛車や荷車の衝突対策として存在していたようです。碁盤の目状の街区では、車が、四つ角の建屋へ衝突する事故は避けがたいリスクです。ただ、交通量の多少が、平安京とバルセロナの対策の違いに現れているのでしょう。いわばガードレールであるいけず石は、平安京の人々の見事な発明だと思います。ただ、それは石である必要があるのか、という疑問もあります。確実に車が壊れる石よりも、警告的に板や杭を建てるだけでも良かったのではないかと思います。このあたり、どうも京都人のいけずさがにじんでいるようにも思います。いけず石に関する最大の発明は、それを互いを気遣う気持ちの現れだと言い切る京都人の理屈だったようにも思います。(写真出典:samuraitax.com)

2023年3月24日金曜日

白村江

その後の歴史を大きく変えた戦いというものがあります。いわば歴史の分水嶺です。日本では、太平洋戦争、戊辰戦争、関ヶ原の戦い、応仁の乱、源平合戦等があげられると思います。なかでも応仁の乱は、まさに歴史の分水嶺でした。戦前、京大の華とまで言われた東洋学の内藤湖南は、応仁の乱以前の歴史は学ぶ必要がない、応仁の乱以降の歴史は、我々の身体骨肉に直接触れた歴史である、とまで言っています。実は、白村江の戦いも、日本国を誕生させたという意味において、応仁の乱と同じくらい大きな分水嶺だったと思います。朝鮮半島の白村江で、唐・新羅に大敗した倭国は、唐の本土来襲を恐れます。部族社会だった倭国は、防衛強化のために中央集権化を図り、律令、都、防衛拠点等を整備、国名も日本と定めます。

4~7世紀の朝鮮半島は、高句麗・百済・新羅の三国が鼎立していました。7世紀前半、国内を統一した唐は、高句麗を攻めますが、難航します。一方、高句麗・百済は、連携して新羅に圧力をかけます。新羅は唐に援軍を求めます。高句麗を手に入れたい唐は、新羅と組んで、まずは百済を攻めます。結果、百済は滅亡し、高句麗は唐の支配下に、半島は新羅によって統一されます。百済滅亡時、百済の太子・豊璋は、人質として日本にいました。百済の残党を率いる将軍・鬼室福信は、ヤマト王権に、太子の返還と援軍を求めます。斉明天皇と中大兄皇子は、要請を受け入れ、半島への派兵を決めます。順調に戦いを進めた百済・倭軍でしたが、663年の白村江の戦いで、唐・新羅軍に大敗し、百済再興は成りませんでした。

百済・倭軍の敗因については、いくつかの要因が挙げられています。まずは、百済王となった豊璋が、意見の相違から鬼室福信を処刑したことで、軍が統制を失ったことが挙げられます。また、それによって百済・倭軍の進軍に遅れが生じ、倭の水軍800隻が百済の入り口・白村江に到着した際、既に唐の水軍170隻が待ち受けていました。船数に勝る倭の水軍でしたが、五月雨式に突撃を繰り返した結果、400隻を失う大敗を喫します。この戦術的無策も敗因とされます。仮に白村江の戦いを制したとしても、新羅・唐軍18万人に対して、倭の軍勢は42,000人であり、百済再興は難しかったと思われます。とすれば、白村江の戦いにおける最大の謎は、なぜヤマト王権は派兵したのかという点になると思われます。

紀元前から交流のあったとされる日本と朝鮮半島ですが、4世紀末から5世紀にかけては、ヤマト王権が、半島南部の伽耶・任那を支配下に置き、百済・新羅をも攻めます。百済は、ヤマト王権と国交を結びますが、新羅とは、以降、争いが絶えませんでした。6世紀前半、任那は新羅に占領され、ヤマト王権は、半島における権益を失います。以降も、ヤマト王権は、折に触れて、任那奪還のための兵を出しています。ヤマト王権は、製鉄をもって倭の部族社会を征したとも言われます。半島は砂鉄を産していました。その砂鉄を確保することは、王権にとって極めて重要だったのでしょう。百済再興に際して、中大兄皇子が行った判断も、その延長線上にあったものと考えられます。

また、唐との緩衝や入唐ルートとして百済を重視したという説もあります。また、百済を滅ぼした唐軍は、一旦、撤収しますが、その間隙を突こうとしたという説もあります。いずれにしても、敵は大唐であり、派兵は無謀な判断と言えます。注目すべき説として、中央集権化を進めたい中大兄皇子が、各地の豪族、特に九州の豪族たちを、勝ち目のない戦いに巻き込み、一掃しようとしたのではないか、というものがあります。蘇我一族を打ち、大化の改新を断行した中大兄皇子の政治センスと肝の太さを考えれば、頷ける話です。白村江の戦い以降の中央集権化は、唐との戦後交渉や捕虜交換、遣唐使の再開等といった外交と同時に行われています。迅速な諸政策の展開を見れば、納得性が高い説とも考えられます。その発想は、時空を超えて、豊臣秀吉、西郷隆盛ともつながっているようにも思えます。(写真出典:4travel.jp)

2023年3月22日水曜日

琉球歌劇

毎年、三宅坂の国立劇場で行われる琉球芸能公演で、初めて琉球歌劇を観ました。琉球歌劇は、方言台詞劇とともに沖縄芝居と呼ばれます。沖縄芝居は、琉球処分によって生み出された大衆芸能です。明治政府は、1872年に琉球王国を琉球藩とし、1879年には沖縄県とする琉球処分を行います。王宮に仕えていた人々は職を失うことになります。そのなかに、中国からの冊封使を”御冠船踊”でもてなしていた人々もいました。王宮が独占していた御座楽、組踊、端踊が市中に開放されたわけです。観客が大衆に変わったことで、端踊からは雑踊、組踊からは沖縄芝居が生まれます。組踊の歌と踊りは歌劇に受け継がれ、当時、本土で流行した壮士劇等の影響をうけて方言台詞劇が始まります。

1880年代早々には、組踊を演じる粗末なむしろ掛けの小屋が登場していたようですが、1891年に、常設劇場としての仲毛演芸場が開場されます。以降、次々と常設小屋が誕生し、そこで沖縄芝居が生まれていったようです。不思議なことに、歌劇よりも方言台詞芝居の方が先にブレイクしたようです。その背景には、1896年に初めて沖縄で公演された壮士芝居が大人気だったことがあるようです。その影響を受け、より写実的で、ウチナーグチで演じられる方言台詞芝居が急速に広がっっていきます。演目は、とっつきやすい時代劇が多かったようです。一方、歌劇は、1900年以降、一幕物として登場し、次第に長尺化していきます。伴奏者ではなく演者自身が歌うように変えたことが人気を集めた要因だったようです。

当時作られ、今でも人気を集める三大歌劇というものがあるようです。身分違いの悲恋を描く「泊阿嘉」、妻子ある男にだまされた女の怨念を描く「伊江島ハンドー小」、身分違いの男との間に子を設けた女が身をひく「奥山の牡丹」です。いずれも女性が主人公の悲劇です。やはり女性を中心に人気を集めたようです。封建的だった時代の女性の地位を反映しているのでしょう。ただ、沖縄俗謡の「19の春」も同じですが、琉球の歴史と現状を悲劇的な女性になぞらえているような面もあるように思えます。この3曲に、今回観た「薬師堂」を加えて、四大歌劇とする場合もあるようです。ただ、身分違いの恋を描く「薬師堂」は、男の立身出世によってハッピーエンドを迎えます。

歌劇は、情感あふれる場面、滑稽な芝居と、テンポ良く展開されます。ウチナーグチの歌と台詞が、実に小気味よいのですが、字幕なしではほぼ理解できません。沖縄の言葉は、本土と同じ日琉語族に属します。定義如何ではありすが、沖縄の言葉は方言ということになります。ちなみに、日本の言語としては、日琉語族以外に、独立した言語としてのアイヌ語があります。戦前の軍国主義の時代、沖縄でも皇民化運動とともに方言撲滅運動が展開されます。ウチナーグチが否定されることで、沖縄芝居も弾圧されます。戦後、アメリカが軍政を敷くと、沖縄芝居は沖縄独自の文化として奨励されることになりました。恐らく、日本本土との関係を断ち切り、統治を進めやすくするための文化政策だったのでしょう。

組踊や端踊は、中国からの冊封使をもてなすために演じられたと言われるわけですが、素朴な疑問として、薩摩の役人に対しても同じことが行われたのかということが気になります。どうやら、組踊に替えて「唐躍」が演じられていたようです。現在では、ほぼ消滅した唐躍は、中国劇を琉球風にしたもので、中国語で演じられたと聞きます。うがった見方かも知れませんが、薩摩に対して、中国との関係を見せつけ、牽制することが目的だったのではないでしょうか。一方で、中国の冊封使に対しては、日本との関係の深さを強調するために組踊を見せていたと思われます。独立した王国でありながら、薩摩の実効支配を受け、中国にもに対しても冊封関係を維持するという琉球王朝の微妙な立場を反映しているように思います。(写真出典:ntj.jac.go.jp)

2023年3月20日月曜日

ロール・キャベツ

新宿駅の一日当たりの乗降客数は、350万人を超えており、ギネス・ブックでも世界一と認定されているそうです。新宿区の飲食店数は、かつてより減っているようですが、それでも5,500店を超え、老舗から新店、世界各国の料理店がしのぎを削っています。私が好きな店も多くあります。にもかかわらず、新宿に行った際にランチを食べるのは、ごく数店に限られます。なかでも多く行っていたは2店。一つは、紀伊国屋の地下にあったシャバシャバ・カレーで有名な”モン・カフェ”ですが、昨年、西口の高層ビル街に移転し、行く気を失いました。今ひとつは、アルタ裏の”アカシア”です。1963年創業という老舗洋食屋です。

アカシアと言えば、なんと言っても”ロールキャベツ・シチュー”です。私は、ロールキャベツ2貫とごはんのセット、通称”ロールキャベツごはん”しか注文しません。合い挽きとタマネギというシンプルなタネに、柔らかいキャベツはしっかり巻かれ、そのバランスは王道と言えます。これをじっくりチキン・スープで煮込んであります。そのスープに炒めた小麦粉を加えたと思われるシチューは、ちょっと昔風で懐かしさを感じます。ハウス食品がシチューミックスを発売したのが1966年だったそうです。それ以降、日本のシチューの味はハウスの味になります。アカシアのシチューは、ハウスのルー以前に家庭で作られていたシチューの味がします。これが、白いごはんに良く合うのです。要はお袋の味というわけです。

かつて六本木に”ダブル・アックス”というギリシャ料理店がありました。ショータイムに、客が皿を床に叩きつけて割り、その上でダンサーが踊るというパフォーマンスが人気の店でした。ギリシャ料理と言えば、ムサカやタラモサラタですが、ぶどうの葉で肉や米を包んで蒸したドルマも定番です。これがロール・キャベツの起源となった料理ですと、店員から聞きました。葉っぱで包むスタイルの料理は、世界中にありそうな気がしますが、文献上は、ササン朝ペルシアの記録に初登場しているようです。肉と米を包む料理は、オスマン・トルコ発祥で、その後、ヨーロッパ各地に広がっていったようです。ぶどうが育たない東部、北部ヨーロッパにも伝わり、ロール・キャベツに変わっていったのでしょう。

アカシアにほど近いところに、人気のロシア料理店”スンガリー新宿三丁目店”があります。ロシアとジョージア料理を出しますが、とても美味しい店です。その定番料理の一つがウクライナ風ロール・キャベツ”ゴルブッツィ”です。トマトをベースにサワー・クリームも入ったソースが特徴的です。ロール・キャベツとボルシチはウクライナ発祥の料理だと聞いたのは、この店だったように思います。ことの真偽ははっきりしませんが、トルコとの近さで言えば、ロール・キャベツのウクライナ発祥説はあり得ます。ちなみに、2022年、ウクライナのボルシチは、ユネスコの無形文化遺産に登録されました。ロシアによるウクライナ侵攻以前から申請されていたようですが、戦乱を機に登録が急がれたようです。もちろん、ロシアは猛反発しています。

かつてアカシアでは、昔を懐かしむ老人客が多かったように思います。おそらく新宿が学生運動の街だった頃に通っていた人たちなのでしょう。紀伊国屋地下にあったモン・カフェも同じような老人客をよく見かけました。ただ、最近のアカシアには、若い客も多く見かけ、皆、ロール・キャベツを食べています。美味しいものは継承されていくというわけです。もし、味の東京遺産のような制度があるとすれば、寿司・蕎麦・天ぷら等と並んで、アカシアのロール・キャベツも登録されて当然だと思います。(写真出典:restaurant-acacia.com)

2023年3月17日金曜日

四季・夏

セリーヌ・シアマ監督の2019年作品「燃える女の肖像」を、Amazon Primeで観ました。公開時、同性ラブ・ロマンスの傑作として、世界中の映画祭で高く評価された作品です。18世紀フランスの孤島に立つ貴族の館が舞台となっています。よく練り上げられた脚本は、カンヌで脚本賞を獲得しています。多くの撮影賞を獲得した撮影監督クレア・マトンの映像は、絵コンテに基づき、しっかりと構成され、時に絵画的でもあります。とりわけライティングが素晴らしく、印象に残りました。かなり忠実に18世紀の生活を再現しているのですが、決して博物館的ではなく、むしろ現代的なリアリティを感じさせます。女優のメイクや髪形が自然だからかも知れません。

しかし、最も強く印象に残ったのは、ヴィヴァルディの四季・夏の第3楽章「夏の嵐」です。いわゆる劇伴のない映画ですが、重要なモティーフとしてヴィヴァルディが使われています。ただ、しっかりと曲が流れるのは、ラスト・シーンだけです。ラスト・シーンは、劇場で、圧倒的とも言える演奏を聴く主人公の表情の変化だけが映し出されます。セリフも動きもないにも関わらず、映画の主題が数分間に凝縮されたドラマティックなラスト・シーンです。名場面として映画史に残るのではないでしょうか。セリーヌ・シアマ監督は、全体的に穏やかで抑制的にドラマを展開することで、このラストをより印象的に仕上げています。このラスト・シーンを撮るためだけに映画を製作したのではないか、と思わせるほどです。

主人公を演じる二人の女優のうち、アデル・エネルは、プライベートにおいて、セリーヌ・シアマ監督のパートナーだったことが知られています。二人は、この映画がクランク・インする前に、円満に別れたと伝えらます。監督と女優の想いが、このラスト・シーンには込められているのかもしれません。また、この映画には、男性が真に理解することは難しいのかも知れないと思われるモティーフや表情が、いくつかありました。それが、この映画の深さにつながっている面もあるのでしょう。2020年、セザール賞において、ロマン・ポランスキーが監督賞を受賞します。授賞式に参加していたシアマ監督と二人の主演女優は、かつて少女への強姦罪で有罪とされたポランスキーの受賞に抗議の声をあげ、退場しています。

監督は、パリ郊外で、裕福なイタリア系家族のもとに生まれています。映画には、いくつかイタリアに関係するモティーフが登場します。それらは、すべてラスト・シーンのヴィヴァルディへとつながる伏線のようにも思えます。ヴィヴァルディは、17~18世紀に活躍したヴェネツイアの音楽家です。10歳にしてサンマルコ大聖堂のオーケストラにヴァイオリニストとして採用されるなど神童ぶりを発揮していたようです。彼の作った曲は、親しみやすさがあるせいか、欧州で大人気となりますが、忘れられるのも早かったようです。死後、しばらく埋もれた存在となっていましたが、20世紀に入り、楽譜が発見されたこともあって、再び注目されます。世界中に知られるようになったのは、1950年代以降だったようです。

イタリアのイ・ムジチ合奏団が、1959年にリリースした「四季」は、歴史的大ヒットとなり、バロック・ブーム、ヴィヴァルディ・ブームを巻き起こしたとされます。いまや四季を知らない人はいないようにも思いますが、恐らくは春の第1楽章に限ってのことだと思います。最もヴィヴァルディらしさを感じさせるのは、夏の第3楽章だと思います。ヴィヴァルディは600の曲を作曲したのではなく、一つの曲を600回演奏しただけだ、という悪口があります。確かに曲想にさほど多様性があるようには思いませんが、もし、その1曲は何か、と聞かれたら、夏の第3楽章だと答えてもいいように思います。(写真出典:gaga.ne.jp)

家作