2022年11月30日水曜日

秋田城址

秋田城址
秋田県を訪れて驚くことの一つは、海岸線を埋め尽くす無数の風力発電機です。これほどまでに風力発電機が林立する光景は見たことがありません。その巨大さもあり、どこかジブリのアニメーションに出てきそうな光景にも思えます。調べてみると、風力発電機の設置数は、青森、秋田、北海道の順に多く、この三道県が群を抜いています。恐らく、設置場所の集中度では、秋田県が一番ではないかと思います。秋田市の風力発電機群を見下ろす小高い丘に秋田城址はあります。秋田城といっても、佐竹氏の居城であった久保田城のことではありません。ちなみに、久保田城跡は、現在、秋田市の中心部に千秋公園となって残ります。

秋田城は、733年に大和朝廷が築いた城柵です。朝廷は、8世紀初頭、現在の山形県庄内地方に出羽柵を築き、蝦夷征服の拠点とします。後に出羽柵は、秋田へと進出し、760年頃には秋田城へと改変されます。出羽柵が担っていた国府としての機能も引き継がれていたようです。秋田城は、朝廷による蝦夷征服の最北端の拠点となります。城柵は、蝦夷征服を目的に、新潟から北に設置されました。兵が駐屯する軍事基地であると同時に、官衙と呼ばれる政治・行政機能を持ち、あるいは柵戸と呼ばれる住民も抱えていたようです。7世紀中盤には、新潟県に渟足柵、磐舟柵が置かれ、徐々に北上していきます。よく知られる宮城県の多賀城は、724年に、陸奥国府も兼ねて設置されています。

興味深いことに、日本海側は、秋田城が最後の城柵設置であり。その北へは進出していません。一方、太平洋側は、多賀城の後も、北へ北へと城柵の築城は続きます。日本海側よりも略奪したい物産も多く、蝦夷の数も多く、抵抗も強かったということなのでしょう。奈良時代から平安初期まで断続的に続いた、いわゆる”38年騒乱”は、太平洋側で断続的に続いた蝦夷の反乱です。38年騒乱の終結をもって、朝廷による蝦夷征服は完了しています。802年には、胆沢のアテルイとその母モレが、坂上田村麻呂に降伏しています。ここが事実上の分岐点だったのでしょうが、城柵設置は、その後も北へと展開し、岩手県中部の志波城、徳丹城等が作られています。

秋田城は軍事・行政拠点ですが、どうやら交易拠点としての要素が大きかったようです。秋田城に、蝦夷の反乱は記録されていません。つまり、ここでの蝦夷はビジネス・パートナーだったのでしょう。また、海を隔てた渤海との交流も確認されています。”続日本紀”には、渤海使の秋田城への来訪が数回記録されていますが、正使以外の交易も相当多くあったものと想像できます。日本海側の交易に対して太平洋側の征服という構図は、恐らく鉱山の有無によるものだったと思われます。加えて、日本海には、西風を受けながら舟で航行する交易ルートが、縄文時代からありました。当時の舟や航海技術では、難所の多い太平洋を航行することは難しかったようです。安全な陸路を確保するためには、征服は避けて通れない選択だと思います。

渤海使も、当初は、カムチャッカ半島、北海道の沿岸沿いに、西風を受けながら南下し、秋田城に至ったものと想定されています。当時の渤海は、唐・新羅と対立しており、朝鮮半島沿いに日本を目指すことは危険だったのでしょう。後に、渤海使は、西日本の港へ着くようになります。新羅との関係が改善し、半島沿いのルートが使えるようになったからだと考えられます。渤海との交易としては、下北半島の十三湊も知られていますが、秋田城よりやや後の時代だったようです。いずれにしても、秋田城は、大和朝廷による蝦夷征服というストーリーではなく、蝦夷・アイヌ、そして渤海との交易という枠組みのなかで考えるべき城柵なのでしょう。縄文時代から続くとも言われる北方交易は、実に興味深いテーマだと思います。(写真出典:kotobank.jp)

2022年11月29日火曜日

象潟

松尾芭蕉が「おくのほそ道」の行脚に出たのが、1689年。西行の500回忌にあたり、西行が訪れたみちのくの歌枕を巡ろうという旅でした。150日間、2,400kmという長旅でした。その最北の到達点が秋田県の象潟(きさがた)でした。かつては、内海に多数の小島が浮かぶ景勝地であり、東の松島、西の象潟と呼ばれました。平安期には、中古三十六歌仙の一人・能因法師が訪れす。その絶景に心を奪われた能因は3年間も逗留し「世の中はかくても経けり象潟の海士の苫屋をわが宿にして」と詠んでいます。鎌倉時代には、漂白の歌人・西行が訪れ「きさかたの桜は浪にうづもれて花の上こぐあまのつり舟」と詠んだことから、芭蕉のみならず、小林一茶、与謝蕪村なども訪れた俳人あこがれの地だったようです。

芭蕉は、象潟を「松島は笑ふが如く、象潟はうらむが如し」と評しています。芭蕉は、松島で絶景に感動し、一句も詠めなかったとされます。あるいは、あえて「おくのほそ道」には一句も掲載しないことで、松島を絶賛したのかも知れません。ただ、象潟では「象潟や雨に西施がねぶの花」と詠んでいます。突然の西施ですが、芭蕉は、松島を中国の洞庭湖や西湖に負けないと評しています。象潟でも似たような感想を持ったものの、松島とは異なる印象を、西湖や太湖にゆかりの西施に託したのでしょう。秋田の県南地方は、小野小町はじめ、美人の産地としても知られます。美人を多く目にして、西施を思い浮かべたのではないかというのは、さすがに下衆の勘ぐりなのでしょう。

起源前5世紀、鳥海山の噴火によって流れ出た土石が日本海を埋め、広大な内海と多数の小島から成る象潟の絶景を形成したようです。ただ、1804年、地震によって海底が隆起し、象潟は陸地になります。私たちは、西行、芭蕉が目にした絶景を見ることはできず、ひたすら想像を働かすだけです。ただ、田んぼや湿地に点在する多くの小山から、容易に当時の様子を思い浮かべることができます。道の駅「ねむの丘」6階にある展望塔から、象潟と、その南に雄大な姿を見せる鳥海山を眺めれば、今でも十分以上に見事な景色だと思います。道の駅からほど近い島(?)に、853年開山という蚶満寺(かんまんじ)があります。司馬遼太郎も、「街道をゆく」のなかで、戦友だった蚶満寺住職を訪ねています。

象潟が陸地化すると、本荘藩は、干拓を進め、これを新田にしようとします。石高2万という小藩の判断としては理解できる話です。ただ、実際には、塩分がきつくて、簡単に稲は実らなかったものと想像できます。藩の計画に対し、文人ゆかりの景勝地を守るために猛然と反対したのが、蚶満寺住職・全栄覚林でした。覚林は、自ら工作し、象潟を閑院宮家の祈願所とします。いわば朝廷の威を借りて、本荘藩の新田開発に待ったをかけたわけです。藩の意趣返しを恐れた覚林は、上野の寛永寺に逃れます。ただ、藩によって冤罪で捉えられ、獄死しています。今、私たちが象潟の絶景を見れるのは、命を懸けて戦った覚林のおかげです。覚林は日本初の環境保護運動家であり、象潟は環境保護運動の聖地だとも言えます。

1963年、象潟は、鳥海山等とともに、国定公園として認定されています。かつては、九十九島と呼ばれていましたが、現在、確認できる「島」は大小合わせて102を数えると言われます。春の田植えのシーズンには、田んぼに水が入り、往時の九十九島を彷彿とさせるそうです。千年を超す古刹・蚶満寺ですが、田舎の古寺といったひなびた風情です。拝観料300円を受け付ける小屋は無人で、たまたま出会った若い住職を捕まえて支払いました。境内には、2匹の猫がおり、私たちについてきました。その鳴き声は、まるで人間が話しているように聞こえ、「ちゃんと拝観料を払えよ」と言っているように思えました。事実、庫裏で住職に拝観料を納めると、猫たちは奥へと入っていきました。(写真出典:nikaho-kanko.jp)

2022年11月28日月曜日

カツ丼

盛岡の東家は、わんこそばの名店です。店内には、いつも、わんこを重ねる軽快な音、わんこの枚数を伝える仲居さんたちの元気な声、そしてお客さんたちの笑い声で溢れています。わんこそばは、フェスティバル・フードだと思います。そもそも東家の蕎麦は、とても美味しいと思います。特に麺つゆは、私の好みです。実は、東家は、カツ丼も美味しいことで知れらます。今般、盛岡で昼食を食べる機会があり、普通に考えれば、盛岡三大麺、冷麺、じゃじゃ麺、わんこそばのなかからチョイスすべきところですが、あえて東家のカツ丼を食べました。やはり、美味いわけです。温かい蕎麦の小椀も付けて、美味しくいただきました。

勝手な持論ですが、カツ丼は、出汁が命だと思います。東家は、麺つゆが美味しいので、カツ丼も美味しくなるわけです。東家に限らず、美味しい蕎麦を出す蕎麦屋のカツ丼は美味いものです。カツ丼の始まりには諸説ありますが、有名なのは、山梨県発祥説と早稲田発祥説です。山梨説は、甲府の蕎麦屋「奥村本店」で、明治末期には、提供されていたという話です。早稲田説は、「三朝庵」という蕎麦屋が、キャンセルされた宴会で余った豚カツを卵とじにしたという話です。面白いのは、いずれも蕎麦屋から始まっていることです。豚カツは、カトレット由来の洋食ですが、カツ丼になると、出汁が登場して、完全な和食になるわけです。

カツ丼は、丼ものの代表だと思いますが、不思議なことにカツ丼専門店は、極めて希です。豚カツ屋があるからだろうとも考えられますが、豚カツの有名店のメニューに、カツ丼はありません。蕎麦屋も、まったく同様です。有名店には、カツ丼というメニューはありません。従って、最近の都心では、カツ丼は簡単には食べられなくなっているのです。また、かつて、カツ丼と言えば、駅前の食堂や住宅街の蕎麦屋の定番メニューでした。ところが、いつの頃からか、駅前には、牛丼やハンバーガーなどの各種チェーン店が軒を並べるようになり、一般食堂や町中華の姿は消えていきました。

昔、家に来客があると、寿司、蕎麦、丼ものといった店屋物をとることが多かったように思います。そういった出前ニーズに応えて、住宅街の蕎麦屋は、カツ丼、天丼といった各種丼もの、そしてラーメンまでもメニューに揃えてあったものです。蕎麦屋のラーメンは、いわゆる中華ラーメン系ですが、あっさりとしたいい味を出していたものです。住宅街の蕎麦屋も消えつつあります。その背景には、家への来客が減ったからではないでしょうか。来客が減少した理由は、複合的なものなのだと思われます。例えば、かつて、中元・歳暮は持参するものであり、正月の挨拶も年始回りが基本でした。また、核家族化が進んだことも背景にあるのでしょう。

いずれにしても、依然、丼ものの頂点にありながら、カツ丼が食べにくくなるとすれば、これは大問題です。ちなみに、カツ丼には、ソースカツ丼なるものもあります。福井、駒ヶ根、会津若松、群馬県などで有名ですが、その起源は、卵とじと同じくらい古いようです。しかし、個人的には、ピンときません。ソースカツ丼が美味しいというのは、単に豚カツが美味しいと言っているのと同じだと思います。出汁によってカツと卵が一体化し、化学反応を起こすからカツ丼なのだと思います。カツを乗せただけでは、料理とは呼べないように思います。実は、人気の海鮮丼にも同じような印象を持っています。(写真出典:momoya.co.jp)

2022年11月27日日曜日

国宝

A.フェノロサ
東京国立博物館で開催中の特別展「国宝 東京国立博物館のすべて」に行ってきました。1872年に創設された東京国立博物館が、今年、開館150周年を迎えることを記念して、所蔵する国宝89点すべてを一挙公開するという大イベントです。会期が短いこともあり、チケットは入手困難でした。4回に分けてネットで発売されましたが、すべて即完売。入館できことはラッキーだったと言えます。会期中、展示替えが何度か行われ、国宝89点、すべてを見たわけではありませんが、これほど逸品揃いの展覧会もないわけで、実に良い経験をしました。また、国宝だけで構成される第1部の他に、第2部として相当数の重要文化財も展示されていました。

国宝に指定されてる美術工芸品や建造物は、現在1,100件余りあります。文化財保護法に基づき指定された重要文化財1万点のなかで、特に価値の高いものが国宝と指定されます。文化財保護法は、1871年制定の古器旧物保存方、1897年の古社寺保存法、1829年の国宝保存法を引き継いで、1950年に公布されています。明治4年の古器旧物保存方は、廃仏毀釈で破壊された文化財を調査するために制定されました。その調査は、後に古社寺保存法として、古社寺の建造物や文化財のなかで、特に重要なものを特別保護建造物、あるいは国宝に指定して保護することになります。ここで初めて”国宝”という概念が登場することになりました。

言ってみれば、国宝という考え方は、廃仏毀釈が生んだということになります。廃仏毀釈とは、仏を廃して、釈迦の教えを棄てることを意味します。明治政府は、1868年、および1870年に神仏分離令を発出します。天皇を国体とする中央集権国家を目指した薩長政権は、神道を明確に国の中心に据えようとします。ただ、日本には、奈良時代以降、日本の神々は仏や菩薩が姿を変えたものとする本地垂迹説に基づく神仏習合が定着していました。そこで、あらためて神仏分離が打ち出されたわけです。幕末には、水戸を中心に反本地垂迹説が唱えられていたこと、また江戸幕府が仏教を社会管理の枠組みとして使っていたことへの反撥もあったものと思われます。

明治政府の意図は神仏分離でしたが、それを背景に、現地の神官や役人たちは、寺や仏像の破壊へと暴走します。仏教支配に対する積年の恨みがあったのでしょう。廃仏毀釈は、数年で沈静化します。1878年、アーネスト・フェノロサが、東京大学で哲学を教えるために来日します。美術に造詣の深かったフェノロサは、日本の古美術に関心を寄せ、弟子の岡倉天心とともに、各地の寺社を巡ります。廃仏毀釈や文明開化の波に押されていた日本美術の状況に心を痛めたフェノロサは、東京美術学校(現東京芸大)の設立や、文化財の保護に奔走します。古社寺保存法は、その一つの成果であり、その際、国宝という概念もフェノロサが提唱しました。

フェノロサの日本美術への貢献については議論の余地はありません。ただ、人物像となると、やや怪しげなところが見え隠れします。日本国内における猟官はまだしも、文化財保護を訴える一方で、国宝級の美術品を多数購入し、ボストン美術館やワシントンDCのフリーア美術館に売っています。美術品の海外流出の先駆けでもあったわけです。しかも、ボストン美術館の東洋部長におさまり、美術館から依頼された浮世絵目録を、無断で出版し、お払い箱になっています。東洋部長時代の不倫がもとで離婚し、その多額な慰謝料に困っていたという話もあるようです。(写真出典:bunan.jp)

2022年11月26日土曜日

EV

テスラ・ロードスター
2009年、リチウムイオン二次電池を搭載した世界初の量産電気自動車「三菱・i-MiEV」が発売されました。直後に三菱自工のご厚意で、試乗させてもらいました。静かなだけでなく、パワフルな走りに驚きました。特に、坂道を登った時の印象が強く残りました。ガソリン車なら、アクセルを踏み込み、エンジン音を轟かせて登るわけですが、まるで平地と変わらない静かさで、力強く登っていきました。ただし、当時の航続距離は、1回の充電で100km程度と心許ないものでした。その後、2011年に東日本大震災が発生すると、世の流れは、一気に電気自動車へと向かいます。

当時、トヨタは2020年をガソリン車最後の年と決めた、という話が広まっていました。すると、まずは、リチウムイオン二次電池の開発競争が起こります。軽量小型化、そして航続距離を伸ばす競争が繰り広げられ、自動車メーカーと電池メーカーとの様々なプロジェクトが起ち上がりました。一方で、エンジンや変速機関係の下請け会社は、メイン業務が無くなるわけで、他の製品の開発を急ぐことになります。ま、世界中の車がEVに変わるわけでもないのですけどね。EVはブームの兆しを見せていたわけですが、なかなか航続距離は伸びず、車両価格は高価、さらにはリチウムイオン電池の安全性が取り沙汰されたこともあり、言うほどの進展はありませんでした。

EV化の流れを大きく変えたのは、テスラ社の快進撃だったと思います。テスラ社は、2003年に創業していますが、スペースX社のイーロン・マスクが中心となって巨額の投資を集めます。2008年、イーロン・マスクがCEOに就任すると、高級EVスポーツ・カー「ロードスター」が初の量産車として発売されます。ロードスターは、生産台数が少ないものの、EV界の起爆剤になったと言えます。その後も、続々と新車を投入、航続距離も650kmまで伸ばしています。テスラの成功によって、世界の大手自動車メーカーもEVを発表、他産業からの参入も相次いでいます。しばらくの間は、ガソリン・エンジンと併用するハイブリッドが中心になると思われていましたが、テスラの快進撃が、EV化を一気に進めたように思われます。

EVのメリットは、もちろん脱炭素ということではありますが、他にも多くあります。ランニング・コストが安い、エンジンや変速機が不要なため部品数や消耗品が大幅に少ない、モーターはエンジンよりも小さく関連部品もないのでスペースを広くとれる、モーター駆動なのでワン・ペダルでの運転が可能、モーターはスタート時から最大トルクを発生する、バッテリーを床下に置くため車体が安定する等々です。一方、問題としては、バッテリーの容量、つまり航続距離の問題があります。これは、社会インフラとの関係もあります。ガソリン・スタンドに比べ、充電ポイントは、まだまだ少ないのが現状です。また、1回の充電に要する時間が、まだまだ長いことも課題だと言えます。

車体をソーラー・パネルで覆い、タイヤの回転から発電し、なんなら風車までつけて走れば、永久運動が可能なのではいか、とトヨタの人に言ったことがあります。そんな程度の発電量で、車を駆動させることはできないと言われました。太陽光、風力など代替エネルギー系は、発電効率が悪いのだそうです。だとすれば、いかにEVがエネルギー効率が良いとしても、元の電力供給が代替エネルギー系に置き換われば、非効率、あるいは電力不足に陥るのではないかと心配してしまいます。いずれにしても、EVは、ようやく幼稚園に入園したくらいなのではないでしょうか。我が家の車も買換えの時期を迎えているのですが、まだEVという選択肢はないと思っています。(写真出典:ja.wikipedia.org)

2022年11月25日金曜日

英会話教室

小学校6年生の頃、自分で漫画を書いてみたことがあります。絵のなかに英語を書き入れたくなり、父親に教わりました。それが気に入ったことと、仲のいい友達が英語塾に通っていたこともあり、自分も塾に行きたいと親に頼みました。目的を見透かされているので、父親から、そんなに英語を習いたいなら、とりあえず俺が教えてやる、それでも行きたいというのなら、中学生になったら行かせてやる、と言われました。実際、父親は、近所の中学生からもらった英語の教科書を使って、英語を教えてくれました。おかげさまで、私の漫画には英語が増え、かつ中学1年生の英語の授業は楽勝でした。そして、念願の英語塾にも行かせてもらいました。ただ、部活が忙しくなったので、2ヶ月くらいで辞めました。

NYへ赴任直後、会社が英会話のレッスンを受ける予算を付けてくれました。仕事が忙しかったこともあり、プライべート・レッスンを選択しました。担当してくれた先生は、若い弁護士でした。あまり仕事熱心というタイプでもなく、事務所でもうだつが上がらず、アルバイトをしていたのでしょう。同い歳だったこともあり、聞いてきた音楽、見てきた映画も、ほぼ同じであり、毎回、会話は大盛り上がりでした。ところが、それがいけませんでした。キチッとした英文にならなくても、話が通じてしまうわけです。先生も、英文の間違いを修正することなく、話に乗ってきてしまうわけです。これじゃ、ただの雑談であり、英会話のレッスンとは言えませんでした。

仕事の場面でも似たようなことが起こりました。専門用語が飛び交う専門家同士の会話では、英語の文章の正確さなど問題になりません。問題なくビジネスが進むので、誰も英語の間違いを指摘してくれません。これではいけないと思い、一時期、コミュニティ・カレッジに通いました。まずは、クラス分けのためのペーパー・テストが行われます。日本人の学力としての英語力は高いので、私も上級者クラスに入ります。そこでは、主にイディオムの勉強をしました。大雑把に言えば、イディオムは慣用句です。これが、ある程度分かっていないと、会話は成立しません。そういう意味では役に立ちました。ただ、クラスのディベートでは、ヒスパニック系の皆さんのテキトーな英語に押されまくり、会話力が上がったとは思えませんでした。

日本人の英会話下手の原因については諸説あります。知識詰込型の学校教育、発音の違い、なんでも翻訳する文化、高等教育を日本語で受けられること、外国に支配された経験が少ないこと等々が要因とされます。いずれにしても、まずは学校教育から変えるべきだと思います。中学で基本を学ぶとして、高校では実践的な英語教育をすべきなのでしょう。ただ、その背景には、ペーパー・テスト至上主義が横たわり、ここから変える必要があります。終身雇用や年功序列に大きな変化が生じている実業界の現状を考えれば、教育制度も変わるべき時を迎えています。その判断は、官僚には難しいはずであり、今こそ政治が主導すべきです。ただ、近年、近視眼的政治を加速させてきた自民党政権には、あまり期待できないようにも思います。

英文学は学問ですが、英語は技能だと思います。言葉は、あくまでもコミュニケーション・ツールです。英語を正確に話すことよりも、話したいことがあるかどうかが重要だと思います。高校での英語の授業は実用性第一とし、ペーパー・テストを止める、大学受験からも英語は外す、といった思い切った対応をしてはどうかと思います。つまり学校教育の英会話教室化です。日本語学校の先生をしている先輩から聞いた話だと、日本語の教え方は、それぞれの母国語を一切使わず、教えた日本語だけを使って次の授業を行うのだそうです。それこそが技能教育だと思います。(写真出典:englishhub.jp)

2022年11月24日木曜日

豪雪

今年も、各地から降雪、冠雪のニュースが届く季節になりました。私は、北国に生まれ、さんざん雪と付き合ってきましたので、二度と雪の降るところには住みたくないと思っています。ただ、転勤は致し方ないわけで、新潟に赴任したことがあります。支社は、新潟市にありました。東京から電話をもらうと、雪で大変でしょう、とよく言われました。実は、新潟市は、雪は降るものの、積もるほどではありません。海風の影響か、佐渡がいい風除けになっているのかも知れません。ただ、越後平野東端の新津丘陵あたりまでいくと積雪は増えます。新潟県の豪雪地帯というイメージは、南の上越・中越地方に由来します。

上越市は、都市部としては、世界一の積雪量と聞きます。上越・中越の家は3階建が多く、玄関は2階にあります。積雪に備えて、出入り口を確保してあるわけです。商店街には、通行を確保するため”がんぎ”と呼ばれるアーケードが設置されています。また、道路脇には、紅白のポールや、下向きの矢羽根と呼ばれる標識が立っています。これらは、積雪時に路肩の位置を示すために設置されています。新潟の雪は、北海道のパウダー・スノーとは異なり、重く湿っており、積もりやすい雪です。ですから、屋根の雪下ろしは欠かせません。怠れば、雪の重さで家が潰れます。一度、南魚沼の六日町市街で、商店の庇が雪の重みで崩落する瞬間を見たことがあります。

関越自動車道の塩沢石打サービスエリアは、冬場、平屋の建屋が倍の高さの雪に囲まれます。 それほどの雪でも、除雪態勢が整っているので、高速道路が通行止めになることは滅多にありません。聞いた話ですが、かつて、東京本社から十日町営業所に、朝、電話をしたところ、応答がなく、支社でも連絡がとれない事態が発生します。昼近くになって、ようやく十日町から連絡が入ります。2階建ての営業所が雪に埋まり、皆で掘り起こしていたというのです。大袈裟な話だと思い、十日町で、事の真偽を聞いたところ、事実、そういうことがあったと言っていました。それ以来、十日町営業所には、除雪機が常備されています。

それほどの雪ですから、冬場の戸外での活動は制約されます。かつて、上越・中越の農民たちは、冬場、家で内職に励むか、杜氏として出稼ぎに出たものだそうです。いずれも、金属加工、酒造として現在に継承されています。中越出身の田中角栄が、初めて国政選挙に出馬した際の選挙公約は、よく知られています。三国峠を削り、積雪をもたらす風を関東平野に流し、雪のない新潟を実現する。また、削った土砂で、海を埋め立て、佐渡を陸続きにする、というものでした。土建業出身の角栄らしい、実に気宇壮大な公約ですが、後の列島改造論につながるのでしょう。ちなみに、角栄初の国政選挙は、落選という結果でした。

新潟に赴任直後、土地の人から注意されたことがあります。上越・中越のお客さまに「今年は雪が少なくて良かったですね」という時候の挨拶は禁物だというのです。と言うのも、スキー場はじめ、スキー客で商売している人たちも多く、さらに土建関係の人たちは、冬場、除雪作業が唯一の収入源となるからです。なるほどとは思いましたが、やはり雪は少ないに越したことはないとも思いました。ただ、その豪雪が、豊かな自然と豊かな恵みをもたらしていることも事実です。新潟は雪国ですが、北国ではありません。春の雪解は、北海道に比べて早く進みます。山の緑が一斉に芽吹く雪国の春は、格別な思いを持って迎えられます。(写真出典:10.plala.or.jp)

サンティアゴ・デ・クーバ