2021年9月30日木曜日

夢のかたまり

From Russia With Love
ジョン・ヒューストン監督の処女作「マルタの鷹」(1941)は、ハードボイルド系映画を確立した金字塔的作品です。ダシール・ハメットの人気探偵サム・スペードを、ハンフリー・ボガートが演じます。粋なセリフも多い作品ですが、なかでも映画史に残る有名なセリフがあります。証拠品としての秘宝”マルタの鷹”を手にした刑事が、「重いな。何だ、これは?」と聞くと、サム・スペードが「夢でできてる代物さ(The stuff that dreams made of)」と答えます。日本語字幕では、「夢がつまっているのさ」となっていおり、名訳とされています。夢でできている、あるいは夢のたまりと言いたくなる映画があります。007シリーズ、特に初期の作品群です。

007シリーズは、1962年の「007は殺しの番号(ドクター・ノオ)」に始まり、2021年秋公開予定の「ノー・タイム・トゥ・ダイ」までの25作、60年に渡る超ロング・シリーズです。イアン・フレミングの原作のネタはとうに尽きてオリジナル脚本となり、ジェームス・ボンド役も6代目になっています。映画のフレームは、相も変わらず、荒唐無稽な冒険スパイ映画といったところですが、さすがに時代の移り変わりとともに、変化したことも多くあります。常に時代の変化を取り込むようでなければ、長続きもしません。最も大きな変化は、コミカルな要素も含めて漫画チックだった作風が、シリアスなアクション映画へと変わってきたことでしょう。

ショーン・コネリー時代の007には、ボンド・ガールと呼ばれる美女たち、彼女たちが一目で惚れるボンドの容姿と紳士ぶり、超一流の射撃や格闘の腕前、無尽蔵な知識と鋭い見識、スマートなスポーツ・カー、数々の秘密兵器、英国の上流階級的こだわりを見せる服装と嗜好品と皮肉等々、当時の大衆のあこがれが詰まっていました。娯楽映画は、常に観客のあこがれをスクリーンに映し出す役割があるのでしょう。当時、大衆があこがれたものの一つが海外旅行や高級リゾートです。当時は、誰もがヴァケーションで海外旅行を楽しめる時代ではありませんでした。夢のある舞台やロケ地は、007シリーズの重要な要素だったのだと思います。それは007に限らず、スパイ・アクション小説や映画には、必須のファクターでした。

暇にあかして、007の主なロケ地を作品毎にリストアップしてみました。大雑把に言えば、高級リゾート系とエキゾチック系に大別できます。無論、エキゾチック系は、欧米人がエキゾチシズムを感じるところです。シリーズ当初は、両者が交互に登場しますが、近年は、高級リゾート系が減っています。このあたりは、時代の変化を反映しています。欧米の旅雑誌が、ありきたりな高級リゾートをお薦めすることは無くなりました。そもそも旅雑誌そのものも減っています。多様化、情報化時代の現れなのでしょう。登場回数の多いリゾートは、カリブ海とヨーロッパ・アルプスのスキー・リゾートです。それも前半の作品に集中しており、時代を感じさせます。12作目の「ユア・アイズ・オンリー」に登場するコルティナ・ダンペッツォは、今でも風光明媚なところですが、そこでスキーをしたいと思う人は大幅に減ったと思います。

エキゾチック系にも変化が見られます。例えば、2作目「ロシアより愛をこめて」といった初期の作品では、旅へ誘うような異国情緒が強調されています。近年の作品では、特異性に着目してるように思えます。例えば、23作目「スカイ・フォール」に登場する長崎の軍艦島等です。”場所ありき”から”アクションありき”へと変化しているのでしょう。別な言い方をすれば、007シリーズも、旅ガイドとしての役割を終えていると言えるのでしょう。余談ですが、中学生の頃、セカンド館で「ロシアより愛をこめて」を見た私は、すっかりイスタンブールに魅せられ、父親に「俺は、将来、イスタンブールに住む」と言ったことがあります。父親は、即座に「どうぞ」と言っていました。後年、イスタンブールへ旅した時には、映画のロケ地を探しまくりました。今風に言えば、聖地巡礼というわけです。(写真出典:flashbak.com)

2021年9月29日水曜日

眠り猫

日光東照宮の眠り猫
東海道藤沢宿の安宿に、ボロをまとい、大酒を飲んで贅沢三昧をしている客がいます。亭主は、宿代を請求します。すると客は、竹で水仙の蕾を作ります。水に刺し、売り物と張り紙して店先においておけ、と言うのです。翌朝、蕾は花になります。参勤交代で通りかかった肥後の細川越中守が、これを気に入り、側用人に、買って陣屋へ持ってこいと命じます。側用人が、これはいくらかと聞くと、亭主は、客にいわれるままに二百両(2千万円くらい)と答えます。とんでもない値段に怒った側用人は越中守に報告します。殿様は、1万両でも2万両でも買え、と厳命します。あわてて宿屋に戻った側用人は、三百両で竹の水仙を買い求めます。驚いた亭主が、客に名を問うと、名乗るほどの者ではないが、飛騨高山の左甚五郎と申す、と答えます。

落語「竹の水仙」です。落語には、他にも「三井の大黒」や「ねずみ」といった左甚五郎の噺があります。どれも同じような構図を持った噺になっており、ボロをまとい、皆に馬鹿にされる男が、ある日、とんでもない傑作を彫り、名前を聞いて皆がひれ伏すという次第です。水戸黄門、遠山の金さんはじめ日本人の大好きなカタルシス・パターンです。東洲斎写楽と左甚五郎は、江戸期を代表する謎の名工だと思います。いずれも名作が今に伝えられますが、人物については判然としない面があり、実在を疑問視するむきすらあります。左甚五郎の傑作として知られるのが、日光東照宮の眠り猫です。裏には雀が彫られています。眠っている猫なら雀も襲われない、という世の安泰を願う作品と言われます。

実存説を裏付けるという文献によれば、左甚五郎は、16世紀末に播磨国の武家に生まれ、父の死後、飛騨高山の叔父のもとで養育されます。甚五郎は、京で宮大工に弟子入り、後に江戸で活躍します。江戸城改築の際、抜け穴に関わる秘密保持のために殺されかけ、讃岐国の藩主に匿われます。晩年は京に戻り、禁裏大工の棟梁になったとされます。各地に残る甚五郎作と言われる作品の製作年代を調べると、前後三百年くらいの幅があると言います。一人の人間ではなく、飛騨高山の名工たちの総称ではないか、という説もあります。左と言う名字も、飛騨がなまったものだとも言われます。恐らく実在した名工なのでしょうが、飛騨の腕の立つ職人が彫った作品を、周りの人々が甚五郎作と言いはじめたのではないでしょうか。

左甚五郎と言えば、忘れてはならないのが、知恩院七不思議の一つ、御影堂の忘れ傘です。御影堂の軒裏に見えるボロボロの唐傘です。知恩院の説明によると、忘れ傘の由来については二説あるそうです。御影堂を建てた左甚五郎が魔除けの効力があるとされる傘を置いたという説、そして、御影堂再建前、ここに住んでいたという白狐が置いていったという説です。しかし、ごく一般的に知られる話は、甚五郎が、完璧な出来を避けるために置いたという説です。当時、完璧に完成した建造物は、神の怒りに触れると信じられていたようです。そこで、一部だけ未完成、あるいはわざと間違いを作り込むということが行われてきました。東照宮陽明門の逆柱、姫路城の逆さアゲハ紋、あるいは、知恩院の瓦の葺き残し等も知られています。建物は完成した瞬間から崩壊が始まるので、あえて未完成のままにするとも言われます。人間の思い上がりを戒めるという意味合いもあるのだと思います。

石清水八幡宮には、落語顔負けの伝承があります。西門に見事な猿の彫刻があり、左甚五郎作と言われます。この猿、よく見ると片目に釘が打ってあります。猿は、あまりにも完璧に彫られたために魂が宿り、夜な夜な八幡宮を抜け出し、里で悪さを働いたそうです。困った農民たちが、八幡宮に相談したところ、止むなく目に釘を打ち、抜け出せないようにしたというのです。左甚五郎自身が、完璧を避けるために行ったことかも知れません。もし、そうだとしても、目に釘を打つのはやり過ぎのように思います。甚五郎がやってないとすれば、一体、誰が、何のために、という謎が残ります。あながち伝承は作り話とも言えないのかも知れません。(写真出典:4travel.jp)

2021年9月28日火曜日

メメント・モリ

死の舞踏
メメント・モリ(memento mori)は、ラテン語で「死を忘れるな」という意味です。不平等、格差、差別にあふれる世界ですが、万民が平等に、公平に1回だけ経験するのが、“死”です。大昔から、人間は、死とは何か、死後の世界はどうなっているのか、死とどう向き合うべきか、ということを悩んできました。宗教は、その答えとして、死後の世界を提示します。もちろん、誰一人、死後の世界を見た人はいないわけですが、概ね、どの宗教も、天国と地獄を示して、より良い生き方を実践する動機付けとしてきました。メメント・モリという言葉は、古代から存在したようですが、キリスト教以前と以後で、捉え方が大いに異なるという、実に興味深い言葉です。

キリスト教以前の古代のメメント・モリは、”明日は分からない”、あるいは”今を楽しめ”という意味で使われていたようです。古代ローマでは、凱旋パレードに際して、将軍が背後に使用人を控えさせ、”今日は絶頂だが、明日は分からない”という意味で、メメント・モリとささやかせていたと言います。絶頂にあっても自惚れることなく、気を引き締めようとしていたわけです。一方、享楽的な”今を楽しめ”の背後にはペシミズムがあります。死に対する典型的な向き合い方の一つだと思います。11世紀ペルシアの天文学者にして詩人だったウマル・ハイヤームの「ルバイヤート(四行詩)」が最も有名かもしれません。ひとときの命ゆえ、飲めよ、歌えよ、というわけです。

古代のメメント・モリが、現世に関わる警句だったのに対し、キリスト教では、来世を意識させる言葉となっていきます。つまり、死を思えば、この世の栄華も名誉も空しいものに過ぎない、よって死後の天国と地獄を意識せよ、という意味になります。中世になると、死を象徴する骸骨が、イメージとして絵画や墓石などに多用されていきます。ことに有名なのが「死の舞踏」ということになります。身分や貧富の差も関係なく、すべての人が、骸骨や死者と共に踊るというモティーフです。もともとは14世紀フランスの詩が起源と言われ、現世の空しさ、天国と地獄というキリスト教の死生観に加え、百年戦争やペストの大流行を背景とする中世的な終末感が大流行につながりました。

キリスト教の死生観におて、重視されるのが”復活”という考え方です。最後の審判が下される時、永遠の命を授かる者と地獄の業火に焼かれる者とに分けられるというものです。ユダヤ教、イスラム教にも共通する思想であり、それゆえ火葬は行われません。火葬を行うインド系では、肉体と魂は別ものであり、魂は”輪廻転生”していきます。バラモン教、ウパニシャッド哲学、ヒンドゥー教と受け継がれ、仏教にも反映されます。古代エジプトの死生観も、中核を成すのは復活ですが、一神教とは異なり、死後の世界で復活して、生前と変わらぬ生活を送るというものです。いずれにしても、宗教の世界では、死後の世界を前提として、現世での生き方を諭しているわけです。現世というところは、仏教的に言えば”一切皆苦”ゆえ、来世を信じることが大事だったのでしょう。

メメント・モリの、近代的で、かつ肯定的な解釈は、死ぬことは避けられないのだから、今、この時を精一杯生きよう、ということだと思います。いまや巨匠となったクリストファー・ノーラン監督の出世作「メメント」(2000)は、ショート・メモリー症の男を主人公に、真逆のタイムラインが交差するという知的で不思議な映画でした。”メメント”は”忘れるな”という意味ですから、映画のプロットをストレートに表しています。ただ、監督の弟が書いた原作のタイトルは「メメント・モリ」でした。ラスト・シーンで、主人公は、世界は実在するのか、と自問し、実在する、そして記憶は自分を確認するためにある、と独白します。これが近代的な、実存主義的なメメント・モリなのかも知れません。(写真出典:weblio.jp)

2021年9月27日月曜日

フレンチ・トースト

サラベスのフレンチ・トースト
フレンチ・トーストは大好物です。卵、ミルク、砂糖等を溶いた液にパンを浸し、バターを溶かしたフライパンで焼く、というのが、日本における定番レシピだと思います。その歴史は古く、古代ローマには、ミルクに浸したパンを焼くレシピが残り、欧州では、各国に同様の料理が存在し、異なる名称で呼ばれてきました。卵の黄色から黄金のトーストと呼ぶ地域も多く、また液体に浸すことからスープと呼ばれることもあり、貧しい騎士クラスがデザートにしていたことから”貧しい騎士”と呼ぶ地域もあります。特徴的なのは、フランスの”pain perdu(失われたパン)”だと思います。失われたパンとは、残って堅くなったパンのことであり、それを液体に浸すことで、再度、柔らかくして食べる料理ということです。つまり、残り物を活用する倹約料理として広まったわけです。

フレンチ・トーストという名称は、主にアメリカと日本だけで使われるようです。フレンチ・トーストというくらいですから、フランス発祥の料理だと思っていました.。ところが、実際には、古くから欧州全域に存在していたわけです。では、なぜフレンチ・トーストと呼ぶのか。実は、フレンチとは国名ではなく、人名でした。1724年、ニューヨーク州アルバニーの酒屋ジョーゼフ・フレンチが、自分の名前を付けて売り始めたことから広まった名称のようです。ちなみに、フライド・ポテトはベルギー発祥ですが、アメリカではフレンチ・フライと呼びます。これは、初めてフライド・ポテトを食べたアメリカ人が、ベルギー人のフランス語を聞いて、フランスの食べ物だと勘違いしたからなのだそうです。

実は、フレンチ・トーストという名前の由来には、ジョーゼフ・フレンチ命名説とは、異なる説があります。元々フレンチ・トーストは、ドイツ系移民が持ち込んだので、ジャーマン・トーストとして知られる料理だったと言うのです。第一次世界大戦で、アメリカがドイツと敵対すると、敵国の名前では具合が悪いと、フレンチ・トーストに変えられたという説です。戦時中の日本でも盛んに行われた敵性語の使用禁止です。ハンバーグ・ステーキも、一時、ソールズベリー・ステーキと呼ばれていたようです。2003年のイラク戦争の折、アメリカとフランスは、派兵を巡って対立することになりました。アメリカ議会のレストランでは、フレンチ・フライがフリーダム・フライと名前を変えられました。同様に、フレンチ・トーストも、一部では、フリーダム・トーストという呼び方に変えられていたようです。

NYで、一番人気のフレンチ・トーストと言えば、サラベスのものだと思います。”NYの朝食の女王”とも呼ばれるサラベスは、日本にも進出していますので、行列さえ覚悟すれば、東京でも食べられます。バゲットを使うサラベスのフレンチ・トーストは、奇をてらったものではなく、ごくオーソドックスなものです。ところが、なぜか美味いのです。そもそもバゲットが美味しいのでしょうが、ヴァニラ・ビーンズ等の使い方も上手なのだと思います。東京には、様々なアレンジを加えたフレンチ・トーストを売りにする店が増えました。ただ、伝統的レシピで言えば、ホテル・ニューオータニのフレンチ・トーストこそ王道だと思います。一晩、液に浸すという厚いトーストは、見事に幸福感を感じさせてくれます。

私の基本レシピは、卵、ミルク、バニラ・エッセンスの液に、デニッシュ生地の食パンを浸し、片面30秒づつ、レンジにかけます。これで、一晩浸す手間を省けます。バターを溶かしたフライパンで蒸し焼きにして、シナモン・シュガーとメイプル・シロップをかけて完成です。私の理解では、フレンチ・トーストは、パンを台に使った厚い卵焼きです。(写真出典:sarabethsrestautrant.jp)

2021年9月26日日曜日

洞爺丸

1954年9月26日、日本海を早い速度で北上する台風15号の接近に、函館港は大騒ぎになっていました。台風が、津軽海峡に最も近づくのは、17時頃と想定されていました。青函連絡船の午前中の便である洞爺丸は、荒波を縫って、無事、函館に到着します。洞爺丸は、折り返し、14時40分、青森に向けて出航予定でした。13時近く、海峡を通過中の貨物船から、風雨が強まっているとの連絡があり、既に青森に向けて出港していた連絡船2隻も、運行を中止して函館港に戻ります。引き返した連絡船から米軍関係の車両・人員を洞爺丸へ移すことになりますが、予想外に時間がかかり、かつ折からの停電で可動橋がストップします。定時の出航が絶望的となった洞爺丸は、運行中止を決定します。

17時頃、風雨が弱まり、青空も見えてきます。台風の目が通過していると思われました。想定より早く台風が通過中であり、天候の回復は早いと判断した近藤船長は、18時30分の出航を決めます。しかし、それは台風の目ではなく、閉塞前線の通過であり、台風自体は、速度を緩め、渡島半島に接近中でした。当時、日本の気象観測は、まだ米軍頼りであり、もちろん、衛星による観測もありませんでした。札幌管区気象台は、台風が速度を落としたことを把握できていませんでした。18時39分、乗員乗客1,337名を乗せた洞爺丸は、函館港を出航します。しかし、防波堤を過ぎたあたりから、猛烈な風にさらされ、投錨して天候の回復を待たざるを得なくなります。

ほどなく、最大瞬間風速50mという暴風と高い波を受け、船は、走錨、つまり錨を引きずりながら、風に流され始めます。同時に、車両甲板、機関室への浸水が始まります。22時前後、左右のエンジンが停止し、近藤船長は、洞爺丸を、函館市西部に位置する遠浅の七里浜に座礁させ、転覆を回避する決断をします。洞爺丸は、海岸から数百メートルのところで、45度傾きながら座礁します。鉄道管理局は、救助船を出そうとしますが、暴風に阻まれます。依然、吹き付ける暴風に、船を支えていた錨の鎖が切れ、船は横転、積載していた列車も荷崩れを起こし、洞爺丸は、ついに転覆します。激しい暴風雨のなかで、救助はままならず、泳いで脱出した乗客も浜で息絶えたと言われます。

死亡・行方不明は1,155名、生存者は182名のみ。当時としては、サルタナ号、タイタニック号に次いで、史上3番目に大きい海難事故でした。事故の原因として、船長の天候に関する判断ミス、船体の構造的欠陥が指摘されています。船長の判断に、法令・規定違反はなかったものの、結果的には、台風の位置や速度に関する誤認がありました。判断ミスの背景に、当時、本州と北海道を結ぶ幹線であった連絡船を止めるわけにはいかないというプレッシャーがあったとも言われます。しかし、気象観測に基づくデータが乏しかったことは考慮されるべきかと思います。船体の構造に関しては想定外ということなのでしょうが、むしろ、船体の強度や構造に応じて、風速や波の高さ等に基づく運行停止基準が明確化されていなかったことの方が問題のように思えます。

洞爺丸事件を受けて、運行管理体制の見直しや船体構造の見直しも行われました。さらに、注目すべきは、これを機に、青函トンネル建設という議論が本格化していったことです。青函トンネルは、事件から7年後の1961年に着工され、1988年に開通しています。実に27年に及ぶ難工事でした。しかし、皮肉なことに、その時、鉄道は既に物流の主役の座から陥落していました。世界最長となる海底トンネンルの開通を、米国のニューズウィーク誌が”Tunnel to Nowhere”と揶揄していたことを覚えています。(写真出典:pinterest.jp)

2021年9月25日土曜日

尾の身

北斎「千絵の海五島鯨突」
魚の仲卸業のせがれという友人がいました。ある時、友人2~3人が、彼の自宅に呼ばれ、高級品の鯨の尾の身を刺身でごちそうになりました。尾の身は、鯨の尻尾あたりの霜降り肉で、希少な最上部位として珍重されます。「いいか、おまえら、これが人生最後の尾の身だと思って、心して食えよ」と言われました。そう言われると感慨ひとしおでもあり、美味しかったように記憶します。その年、ナガスクジラの禁漁が決まりました。最上の尾の身は、シロナガスクジラのものと言われていましたので、確かに最後の尾の身とも言えたわけです。ちなみに、その後も、何度か、尾の身を食べる機会はありましたが・・・。

鯨肉を食べる文化は、世界中に、昔からあったようです。日本でも同じですが、貯蔵の限界もあり、海辺の食文化にとどまっていたようです。戦後の食糧難の時代を迎えると、鯨肉は、肉の代用品として急速に普及します。代用品ですから、さほど美味しいものでもありませんでした。戦後の苦労話のなかで、あの店はとんかつと称して鯨かつを出していた、という話を聞いたことがあります。まがい物扱いだったわけです。鯨の大和煮の缶詰、鯨のベーコンなどもよく見かけた品です。いまや高級品ですが、当時は、安物だったのでしょう。家で食べることはありませんでしたが、学校の給食には、竜田揚げなどが出ていました。鯨の皮下脂肪であるコロを使った鍋物は美味しかったように記憶しますが、鯨である必要はなかったようにも思います。

ある意味、戦後の日本人の栄養補給を担っていたとも言える鯨ですが、1960年代に入ると資源保護の観点から、国際捕鯨委員会(IWC)は、種別の捕鯨禁止を打ち出し始めます。また、商業捕鯨から撤退する国も増えていきます。IWCは、鯨資源を守りつつ、捕鯨産業の秩序ある発展を目指して設立されました。ところが、ここに動物愛護の思想が入り込んできます。IWCの議論の根拠となるべき科学的データも、恣意的に使われる傾向が出始めます。反捕鯨国と擁護国の数は拮抗しますが、やや反捕鯨国が有利に展開します。日本が票を買っているとの批判も出ました。いずれにしても、議論がかみ合わない以上、一旦、捕鯨を保留すべきというモラトリアムが、1982年に宣言されます。日本、ノルウェー、旧ソ連などは異議を唱えます。ノルウェーは、独自の管理捕鯨を継続しています。日本には、調査捕鯨という道だけが残されました。

その後も議論は、平行線をたどります。というよりも、科学的な議論は成立せず、もはや宗教戦争の様相を呈していきます。この間、動物愛護団体は勢いを増し、グリーン・ピース等、過激な実力行使に出る団体も現れます。ついに、2018年、日本は、IWCを脱退します。自然保護と秩序ある捕鯨産業の両立を確保しようとする日本の主張は、ある意味、正論だとは思いますが、思想を異にする世界各国からは、大いに批判されています。東京オリンピックをボイコットしようという運動まで起こりました。ヴィーガンならまだしも、ビーフ・ステーキを食べながら、動物愛護を訴える人たちの主張は、どうもピンときません。鯨は知能があり、子育てをする動物だから愛護すべきであり、食べるために育成する肉牛は別、というわけです。固有の食文化まで否定する曖昧な線引きは、疑問と言わざるを得ません。

日本は、仏教の影響から、永らく、生き物を食べることが禁忌とされていました。しかし、仏教の本旨は、悟りをひらくことであり、生活戒律ではありません。不殺生を訴えますが、本来、肉食を完全否定しているものでもありません。しかも僧侶の肉食は禁じても、一般信者に関しては、努力目標であったとも聞きます。日本では、それが極端な形で定着していったと言えます。とは言え、必要最小限の魚食は許容され、一部、肉食も継続され。鳥類は別枠とされていました。鯨は、大きな魚という理解で許されていたのでしょう。ちなみに、江戸期、イノシシは”山鯨”と呼ばれ、うさぎは、あえて1羽、2羽と数え、鳥類に擬しています。いずれにしても、地球の多様性を確保するための生物保護であれば、大いに理解できます。動物愛護を否定するものではありませんが、こと食料に関する議論は、どうも腑に落ちないものがあります。(写真出典:amazon.co.jp)

2021年9月24日金曜日

カン・リンポチェ

カン・リンポチェは、チベット高原西部にそびえる標高6,656mの独立峰です。チベット語で”尊い雪の山”を意味します。サンスクリット語では、水晶という言葉から転じたとされるカイラーサ。西洋では、それを英語読みしたマウント・カイラスと呼ばれます。チベット仏教、ヒンドゥー教、ジャイナ教の聖地であり、登頂が禁止されてる未踏峰です。チベット仏教においては、コルラと呼ばれる巡礼が、祈りのかたちとして重視されますが、カン・リンポチェは最上級の巡礼地とされます。巡礼者は、山の周囲に巡らされた巡礼路を右回りに13周します。巡礼路で最も標高が高い地点は5,630mであり、極めて厳しい巡礼路と言えます。

カン・リンポチェへの正しい巡礼は、五体投地によって行われます。五体とは、両手、両膝、額のことです。つまり、立って祈り、体を地面に投げ出して祈り、また立って祈り、少しづづ進むわけです。カン・リンポチェの周囲を巡る際だけでなく、自宅を出た時から五体投地は始まります。自宅の所在地にもよりますが、数ヶ月から1年かかる巡礼です。物見遊山的な要素もある”一生に一度はお伊勢参り”とは大違いです。伊勢神宮では、20年に一度の式年遷宮の翌年が”御陰年”とされ、最も御利益が大きいとされます。カン・リンポチェでは、午年のコルラが1回で12回分の功徳が得られるとして、多くの巡礼者を集めるそうです。

キリスト教的な巡礼は、神との対話、あるいは自らとの対話の時間のように思えます。一方、仏教的な巡礼とは、歩く禅のようでもあり、ひたすら歩くことで、無我の境地に至らんとするものだと理解しています。ただ、カン・リンポチェでの五体投地を見ると、まるで異なり、仏への完全帰依を表そうとしているように見えます。釈迦の入滅から千年近くを経て隆盛するチベット仏教は密教的であり、原理主義的な禅とは大いに異なるわけです。素人考えですが、同じ密教ながら、四国八十八カ所巡りとも、随分、思想的な違いがあるように思えます。須弥山に見立てられるというカン・リンポチェへの崇拝のあり方自体、東アジアの大乗仏教とは、随分違う印象を持ちます。

世界で最も高い未踏峰といわれるのは、ブータンのガンカー・プンスム(7,570m)です。世界の未踏峰の多くは、宗教上の理由で登頂禁止とされています。ガンカー・プンスムも、カン・リンポチェ同様、ブータン政府が聖地として登頂を禁止しています。ただ、カン・リンポチェには、過去に唯一登頂したとされる人物がいます。チベット仏教カギュ派の開祖ミラレパです。釈迦の悟りの境地に、最も近づいた偉大な修行者として知られます。ミラレパは、若くして呪術を修め、復讐のために35人を呪い殺します。それを反省したミラレパは密教の門をたたき、山中に入って尋常ならざる修行を重ねます。悟りに近づいたミラレパは、数々の奇跡を起こし、カン・リンポチェの頂にもひとっ飛びで到達したと言われます。ということは、少なくとも、徒歩でカン・リンポチェを極めた者は、まだいないということになります。

仏教は、仏像を礼拝する宗教です。ただ、原始仏教には仏像は存在せず、釈迦の入滅後、ストゥーバ(仏塔)等が作られるのみでした。紀元前1~2世紀頃に至り、ヘレニズム文明の影響下にあったガンダーラで、はじめて仏像が作られます。チベット仏教も、同様に仏像を礼拝します。加えて、チベットでは、カン・リンポチェが釈迦如来に見立てられ、周囲の山々が菩薩に見立てられたようです。中国でも日本でも、そのような信仰は聞いたことがありません。恐らく仏教以前からあったチベットの土着信仰の影響なのでしょう。日本の大仏は、盧舎那仏ですが、カン・リンポチェは、チベットにおける大仏といったところなのでしょう。(写真出典:ja.wikipedia.org)

川上