2021年6月30日水曜日

浪曲

広沢虎造
国立演芸場で、日本芸術文化振興会が主催する花形演芸大賞の受賞者の会がありました。表彰式と受賞者8人による公演が行われました。さすがに勢いのある芸人たちばかりなので、大いに楽しめました。 大賞は、2年連続となる古今亭文菊。今、一番チケットの取れない落語家の一人です。文菊は、なかなか難しいネタ「稽古屋」を見事に演じていました。金賞には、大人気の講談師神田伯山も入り、ネタ下ろしで「出世の春駒」を読みました。落語的な要素も入れた伯山の講談は大いにウケます。浪曲からは、唯一、関西の菊池まどかが銀賞を受賞しました。浪曲は、あまり好むところではありませんが、楽しめました。声量豊かで、伸びのある声は見事でした。演目は、ベタな新作ストーリーでしたが、きっちり客席の涙を絞り出すあたりはさすがです。

落語、講談、浪曲は、日本の三大話芸とされます。そのなかで、浪曲、あるいは浪花節だけは、少し毛色が異なります。というのも、寄席で演じられるようになったのは、明治以降のことであり、それまでは、いわゆる門付の大道芸でした。噺家や講談師からすれば、一段も二段も格下の芸能だったわけです。また、門付芸ゆえ、即興性も高く、演者の個性が反映される面が強く、それは芸能としての型や流儀が確立されていないとも言えたわけです。浪曲は、6世紀頃、大陸や半島から渡来した説教・祭文に、そのルーツがあるとされます。祭文は、神に捧げる祝詞が、独特の節回しや語りを活かして門付芸になったものです。その後、様々な民間芸能の要素を取り込み、また時事ネタも扱い、芸として続きます。江戸末期、大阪の浪花伊助が、これを「浮かれ節」と命名して演じ、人気を博します。これが浪曲の基本型となり、また浪花節と呼ばれる所以でもあります。

明治後期には、桃中軒雲右衛門が登場し、浪曲は完成されたといわれます。雲右衛門は、日本初の右翼団体玄洋社、辛亥革命に関与した宮崎滔天等との交流が深く、代表作「義士伝」はじめ、演目は武士道の鼓舞を身上としたようです。1925年にラジオ放送が開始されると、浪曲は、最も人気のある番組になっていきます。浪曲とラジオは、切っても切れない関係になりました。ラジオ放送とともに、2代目広沢虎造が大人気を博します。広沢は、寄席、ホール、ラジオ、映画といったメディア・ミックス戦略で、浪曲ブームを作り上げました。得意演目の「清水次郎長伝」は大流行となり、”森の石松”は、知らぬ者とていない存在になりました。「酒呑みねえ、寿司食いねえ」や「馬鹿は死ななきゃなおらない」といったセリフは、浪曲に馴染みのない私の世代でも、誰もが知っていました。

浪曲は、戦前・戦中、軍部との結びつきを強めていきます。愛国浪曲なるものが一世を風靡したそうです。戦時統制が始まると、寄席も影響を受け、落語や漫才は弾圧を受けます。ただ、浪曲だけは、位置づけが異なっていたようです。寄席で格下の扱いを受けてきた浪曲は、時の権力と結びつくことで、地位向上を図ったのかも知れません。あるいは、その国粋主義的傾向が、政権に利用されたのかも知れません。敗戦後は、反動的と批判もされましたが、庶民、特に地方では、肌になじんだ浪曲の人気は衰えることがなく、再びラジオの人気番組になっていきます。しかし、テレビ放送が始まり、ラジオが衰退を始めると、メディア・ミックス戦略が逆回転して、浪曲人気も急速に落ちていきます。高度成長の賭場口にあって、浪曲が得意としてきた演目の価値観や押しつけがましさが、国民の肌に合わなくなったということもあるのでしょう。講談も同様の理由で衰退していったように思います。

一方、落語は、江戸期から変わらぬ庶民目線の落ち噺。講談や浪曲と重なる噺もありますが、基本的には庶民の生活が反映された演目です。落語は、それなりに人気を保ちます。また、浪曲の穴を埋めるように、漫才が演芸の主流になってきました。講談は、笑いの要素もうまく入れて演じる伯山の登場で、人気を回復しつつあります。浪曲も、スターが必要なのでしょうが、その硬直的なスタイルからして、それだけでは人気回復は厳しいと思います。かつて3,000人を超す浪曲師がいたようですが、現在は60人とのこと。対して講談師は90人。 落語家は、 江戸期以降、 最大と言われる1,000人まで回復しているようです。(写真出典:tokyo-np.co.jp) 

2021年6月29日火曜日

ジントニック

タンカレー・ジン
26か27歳の頃、神戸出張へ行った際のことです。夜、一人で、オーセンティックなバーに行きました。その頃、酒は弱かったのですが、神戸なら港近くの老舗バーは欠かせないと思い込んでいました。もう名前も覚えていませんが、たしかフラワーロード沿いにあったバーに行きました。客は、私一人でした。ジン・トニックも2杯目のあたりで、服装のセンスがとても良いカップルが入ってきました。さすが神戸だな、と思いました。仕上げにジンのストレートをオンス・グラスで頼み、ストゥールから立ち上がりながら、勘定をしました。ジンを一気に飲み干し、グラスをカウンターにコンと置き、店を出ました。後ろから、女性の「カッコええなぁ」という声が聞こえました。「勝った」と思いました。

神戸という街は、そういうことをやりたくなる街です。外に出ると、夜景がグルグル回り、ほぼ四つん這いでホテルに戻りました。何に勝ったわけでもないのですが、少なくとも強い酒には大負けしていました。昔から、ジン・トニックが好きで、どこでも飲んできました。特段のこだわりもないのですが、最近、美味しいと思うのは、ボビーズのジンに、ウィルキンソンのトニック・ウォーター、少しだけライム・ジュースを入れたものです。ボビーズは、オランダのロッテルダム近郊のスキーダムで作られています。まだ新しいジンですが、なかなか評価が高く、オレンジ・スライスとクローブを入れたジン・トニックがお勧めとのこと。まだ、試したことはありませんが、きっと美味しいだろうな、と思います。

ジンは、大麦、ライ麦等から作る蒸留酒で、ジュニパー・ベリーで香り付けされます。ジュニパー・ベリーは、セイヨウネズという針葉樹の果実だそうです。既に11世紀頃には、イタリアの修道士がジュニパー・ベリーでスピリッツを作っていたという記録があるようです。現在につながるジンの発祥は、17世紀、オランダのライデン大学の医学部教授であったフランシスクス・シルヴィウスが作った解熱・利尿用薬用酒だとされます。ただ、当時のオランダでは、各種のフレイバーを付けたスピリッツが薬局で売られており、既にジンも売られていたとも言われます。いずれにしても、ジンは、オランダから始まったということです。

1689年、オランダ総督・オラニエ公ウィリアム3世が、名誉革命でイングランド国王になった際、ジンはイングランドに持ち込まれました。18世紀、イギリスで産業革命が起こると、労働者階級が生まれ、都市にはスラム街が生まれます。安くて、度数の高いジンは、労働者階級用の安酒になっていき、まっとうな人間の飲み物とは認められなかったと言います。それを変えたのが、チャールズ・タンカレーでした。今も続くタンカレーの創業者です。独自の製法で蒸留されたタンカレーの高級なジンは、徐々に上流階級にも認められ、20世紀に入ると、カクテル・ベースの代表格としても一般化していきました。近年では、クラフト・ジンが世界的なブームとなっており、日本でも数多く作られています。上述のボビーズも、その一つです。

銀座1丁目の「BAR オーパ銀座」は、名バーテンダーと言われる大槻健二氏の店です。店名のオーパは、当然、開高健の名作にちなんでいます。多くのバーテンダーを輩出していることでも有名な店です。ジン・トニックにライム・ジュースを入れるレシピは、この店で覚えました。いまだに、オーパに行けば、ジン・トニックに始まり、ジン・トニックに終わります。(写真出典:seijoishii.com)

2021年6月28日月曜日

カラオケ

8トラックカラオケ
私が、いつ頃、カラオケを知ったのか覚えていません。ただ、1985~86年、札幌でセールス・マネージャーをしている時、重要なお客さまだった中小企業の社長がカラオケ好きで閉口しました。その社長と食事すると、必ず馴染みのスナックへ連れていかれ、カラオケで歌っていました。私は歌うことが苦手です。歌好きな人が歌うのはいいとしても、必ず「お前も歌え」とくるわけです。当時は、まだエイト・トラックの時代で、収録曲は演歌ばかりでした。演歌が苦手な私にとっては地獄でした。早くこんなブームは去ってほしいと、ずっと思っていました。ところが、ブームが終わるどころか、どんどん広がり、機器も進化を繰り返し、文化として定着し、ついには海外でも定番化していったわけです。

歌とダンスは、人間にとって感情表出の手段であり、精神的な安定や高揚を得るためには、極めて重要なものだと思います。その歴史は、おそらく人類の歴史と同じくらい古いのでしょう。人間の組織化が進むと、祭りも含めて宗教的な儀式で重要な役割を担い、その後、緊張を解く、連帯感を高めるといった効果をもつ娯楽となり、その中から人を楽しませるという芸能が生まれることになります。歌とダンスが、人間の本質に関わるものである以上、カラオケの世界的普及は、ある意味、当然だったのでしょう。また、かつて、余興等、人前で歌うのは、歌の上手い人と相場が決まっていました。カラオケは、誰もが、一人で、人前で歌います。つまり、カラオケは、人間の表現欲求を満たすものとしての歌を、万民に開放したとも言えますし、もっと言えば、承認欲求を満たす手段としても機能しています。

一方で、カラオケは、素人の歌を聴かなければならないという状況も作ります。カラオケは、自分が歌うことが本質なので、人の歌を聞いたり、拍手するのは、自分が歌う時に聞いて拍手してほしいから、止む無く行っていることのようにも思えます。人の歌を聞きたいと思わない人にとって、カラオケは騒音でしかありません。それを我慢できるのは、自分も騒音を出すという相互性なのでしょう。ただし、それは、店の中でのことです。店の外では、完全に騒音です。何故か、外には、演奏が聞こえず、歌う声だけが響き、実に間の抜けたものに聞こえることが多いように思います。もっとも最近は防音設備が普及し、音漏れは減っているようです。

さて、そのカラオケは、誰が発明したのか、という話があります。従前は、1971年に、井上大祐が発明したということになっていました。翌年から、井上は、カラオケのレンタルを開始、大ヒットさせました。99年には、タイム誌で「今世紀もっとも影響力のあったアジアの20人」にも選出され、2004年には、イグ・ノーベル賞も受賞しています。ただ、実は、60年代から、複数の人によって、ジューク・ボックスを活用したエイトトラックのカラオケ機が商業化されていたことが判明しています。最近、井上は、カラオケを商業化した最初の人とされているようです。カラオケが特許を取得していないことは、よく知られています。井上は、既存の製品を組み合わせてカラオケを作ったので、特許申請など思いもつかなかったと語っています。カラオケは、特許を取っていなかったから、ここまで広がったとも言えます。

カラオケは、酒の場からコミュニケーションを奪ったとも言えます。私にとって、酒を飲む目的は、人と話すことでした。カラオケは、あまり話したくない人が増えたから、流行ったのかも知れません。また、スナック等の経営サイドからすれば、カラオケは、拍手だけしていれば良く、さしたる接客の努力を要しないというメリットもあるのでしょう。(写真出典:aucfree.com)

2021年6月27日日曜日

チャパクィディック

チャパクィディック事件の現場
「知の巨人」と呼ばれたジャーナリスト立花隆が亡くなりました。享年80歳。やや早すぎるように思います。立花隆は、1974年、文藝春秋誌で「田中角栄研究~その金脈と人脈」を発表し、田中角栄首相を退陣に追い込みました。1969年、田中角栄のファミリー企業が、長岡の信濃川河川敷を数億円で買収します。直後、その土地に建設省の工事が入り、時価は数百億円まで膨れ上がります。この問題を中心に田中角栄の金脈を追求したルポルタージュでした。文藝春秋誌は、同時に、児玉隆也の「淋しき越山会の女王」を掲載し、田中角栄の秘書を長く務め、愛人とされた佐藤昭子との関係を暴きました。世間は大騒ぎとなり、田中内閣は総辞職します。

信濃川河川敷問題は、東京地検によって捜査されましたが、結果、ファミリー企業の幹部一人が宅建業法違反を問われただけでした。田中角栄にとっては、この問題よりも、佐藤昭子との関係が暴露されたことの方がダメージが大きく、辞任に至ったともされます。小選挙区制以降の与党党首は、この程度のスキャンダルでは辞任しないでしょうね。答えなければ済むようですから。総辞職は、田中角栄の政治家としての矜持を感じさせるとも言えます。当時の政治記者たちにとって、報道された二つの事案は周知のことであったようです。それを報道しない記者たちの姿勢、政治家との癒着ぶりも問題となりました。ひょっとすると、政治感性の鋭い田中角栄は、報道された事案の内容よりも、時代の変化、国民の変化を読み取り、辞任したのかも知れません。

かつて、政治に金はつきもの、という認識がありました。ただし、その金は、政治家個人の懐に入るのではなく、政党運営や選挙対策に投じられました。また、政治家の愛人に関しても、ことさらに追及されることはありませんでした。戦前の家父長制の影響が色濃く残っていたわけです。これは、日本に限らず、アメリカでも同様でした。例えば、ジョン・F・ケネディ大統領のプレイボーイぶりは有名で、政治記者たちは、皆知っていたようです。特にマリリン・モンローとの関係は有名でした。しかし、それが大きな変化を見せたのが、1969年にエドワード・ケネディが起こしたチャパクィディック事件だったと言われます。63年には長兄ジョンが暗殺され、前年には大統領選の最中に次兄ロバートも暗殺され、残るエドワードに大統領の期待がかけられていました。しかし、この事件で、その道は完全に断たれました。

1969年7月、マサチューセッツ州ナンタケット湾にある超高級別荘地チャパクィディック島でのこと、エドワードは、若い女性と二人で車に乗り込み、パーティを抜け出します。ケネディ家の別荘のあるマーサズ・ヴィンヤード島へ渡る小さな橋で、車は海に転落、脱出したエドワードは、女性と車を残して、パーティ会場へ戻ります。友人たちと女性を探しますが、見つけられず、翌朝、車を発見した近隣住民が警察に通報します。若い女性との不倫、飲酒運転、薬物使用の疑い、死体遺棄の疑い、隠ぺい工作の疑い、事件は最悪の展開を見せ、世間は大騒ぎとなります。多少のスキャンダルは大目に見てくれていた政治記者たちの手には余る社会問題になっていました。ケネディ家の威光もあり、エドワードは、辛うじて上院議員を続けますが、大統領候補への扉は、完全に閉じられました。

1968年は、「動乱の1968」と言われるほど、社会や政治の構造的変化が世界的に進んだ年でした。事象だけを見れば、学生運動、反戦闘争、ブラック・パワー、プラハの春、文化大革命、キング牧師やロバート・ケネディの暗殺、エル・アル航空ハイジャック、テト攻勢、ビアフラ戦争等々が起こっています。その中で、日本だけは、高度成長を維持し、欧米とは多少異なる動きにあったように思えます。ただ、その日本も、72年には経済成長が止まり、73年にはオイル・ショックと狂乱物価に見舞われます。時期に多少のズレはあるにしても、この時代、古い秩序体制にヒビが入ったことは間違いなく、ある意味、その象徴が、チャパクィディック事件であり、田中金脈問題だったのでしょう。(写真出典:usatody.com)

2021年6月26日土曜日

いなり寿司

志乃多寿司総本店のいなり
いなり寿司は、私の大好物の一つです。近年、いなり寿司は、小ぶりで皮が薄く、様々な具材を混ぜたものが多くなりました。女性が食べやすいように、ということなのでしょうか。私が好きなのは、厚手の皮に出汁をジュワッと含ませた、昔ながらのいなり寿司です。そんないなり寿司は、開業が古く、昔から製法を変えていない店くらいじゃないと、なかなかお目にかかれません。 幸いなことに、近所に昔ながらのいなり寿司専門店があり、重宝しています。その店の商品と言えば、いなり寿司と助六が主で、他にわずかばかりの総菜だけです。しかも昼過ぎには店を閉めます。どうして商売が成り立つのか不思議な面もあります。恐らく、惣菜店やスーパー等に卸しているのだとは思いますが。

いなり寿司の発祥は定かではありません。資料への初出は、江戸末期の「守貞謾稿」であり、天保前から存在したこと、尾張名古屋等にもあることが記載されています。発祥とされることが多いのは、三河の豊川稲荷です。ただ、豊川稲荷のいなり寿司も、天保の頃からとされていますので、有名ではあっても、発祥ではないように思えます。商売繁盛の御利益が大層あるとして大人気の豊川稲荷ですが、神社ではありません。れっきとした曹洞宗の寺院です。境内に鎮守として祀られている吒枳尼天が稲穂を担いでいることから豊川稲荷と呼ばれます。ちなみに参道で最も古い茶屋のいなり寿司は「いなほ寿司」と称しています。

鮨は、稲作と同じくらいに歴史が古く、魚の発酵食品である”なれ鮨”に始まり。江戸初期に”はや鮨”へと進化し、現在の姿になります。いなり寿司とはや鮨との共通点は、酢飯だけであり、いなりには魚のさの字もありません。油揚げを、なにかの魚に見立てたとも思えません。かんぴょう巻等も同様に魚を使いませんが、海苔を巻くことで、多少、海の匂いを残しています。いなり寿司は、どこの誰が考えたのか不明で、寿司としては突然変異種の類で、それどころか寿司と呼ぶことすらためらわれる謎の食べ物です。とは言え、うまいわけです。江戸では大人気となり、棒手振から始まり、屋台、店舗までできたようです。安くて、うまくて、食べやすい食品が、大人気となることは当然とも言えます。

油揚げの起源は、室町時代の精進料理にあると言われます。工夫を重ね、豆腐を揚げて肉に見立てたようです。袋状になるので、山菜などを入れた焚き物は、早くからあったと思われます。いなり寿司の起源は、おそらく余った酢飯を詰めてみたら、意外とうまかった、といったことなのでしょう。庶民の知恵ゆえ、発祥も起源もはっきりしないわけです。いなり寿司という名前も、単純な発想から来ていると思われます。稲荷神の使いは狐であり、狐の好物が揚げとされることから、名づけられたのでしょう。本当のところ、狐が揚げを好むわけはありません。本来の好物である鼠を捧げようとすれば、殺傷を伴うので憚られ、肉の見立てである揚げが使われたのでしょう。ということであれば、いなり寿司は、いずれにしても精進料理が大本だったということになります。

天保の改革では、寿司も贅沢品とされ、禁止の憂き目にあいます。ところが、値段が安かったからか、似非寿司だったからか、いなり寿司は、禁止されていません。これが、いなり寿司の普及に貢献したようです。また、天保の改革では、歌舞伎が江戸から所払いとなります。幕間の弁当として人気のあったいなり寿司が、江戸から地方へと広がるきっかけにもなったようです。ちなみに、いなり寿司と太巻き、江戸期はいなり寿司とかんぴょう巻だったようですが、このセットは「助六」と呼ばれます。これは、歌舞伎十八番「助六由縁江戸桜」の助六の愛人の名が”揚巻”であることにちなんで名づけられたと言われています。(写真出典:tabilist.net)

2021年6月25日金曜日

世界の壁

東洋の魔女優勝の瞬間
「世界の壁は厚かった」とは、かつてオリンピックの都度に聞かされた言葉です。国内では群を抜き、オリンピックではメダルが期待されていた選手が敗れると、必ずと言っていいほど聞かされた言葉です。64年の東京オリンピック以降、モントリオール大会くらいまでは、よく聞きました。なかなか名文句風であり、国民は、これを言われると、妙に納得したものです。しかし、私は、好きな言葉ではありませんでした。敗戦国であり、東洋の小さな国の選手ゆえ、負けても止む無し、といった卑屈さを感じます。ただ、個人の話ではなく、獲得メダル数という話になれば、”競技者数×歴史”という算式が成立し、壁の存在も理解できます。

個人に関して言えば、スポーツの世界のことですから、運も才能もあるのでしょうが、負けたということは、実力が劣っていたということであり、練習が十分ではなかったということだと思います。2021年は、テニスの大坂なおみが2度目の全豪優勝、ゴルフの松山英樹が世界最高峰のマスターズで優勝、笹生優花が日本人同士のプレイオフを制して全米女子オープン優勝、野球の大谷翔平がMLBのホームラン・ダービーのトップを走り、ボクシングの井上尚弥が2度目のラスヴェガス・メイン・イベントで3回TKO等々、日本人選手が世界の舞台で大活躍しています。もはや”世界の壁”などありません。それどころか、今や、彼らこそが”世界の壁”になりました。

アテネ・オリンピックの際、日本は自転車競技で初めてとなるメダルを獲得します。チーム・スプリントの銀メダルです。その選手の一人がインタビューで「世界一の選手は、世界一の練習をしています」と話していました。練習は裏切らないという話ではありますが、ただ、単に練習量を語っているのではないと思います。実は、”世界の壁”と言っていた時代の日本の練習は、決して世界レベルの練習になっていなかったのだと思います。当時、日本のスポーツ界は、独特の「根性論」が支配的であり、科学的なアプローチに乏しかったと思います。無論、スポーツにおける精神面の重要性を否定するものではありませんが、根性論は、一方的に、あるいは理不尽なまでに選手個人を追い込んでいきます。

64年の東京オリンピックに向けて、日本のスポーツには、開催国の威信にかけて勝利しなければならない、というプレッシャーがかかります。そのなかで、戦前の文化を彷彿とさせる根性論が注目され、広がっていきます。その象徴的存在が、大松博文監督率いる女子バレーボール・チームでした。大松監督は、勝利に向け、猛練習に次ぐ猛練習で選手たちを追い込んでいきます。結果、”東洋の魔女”と呼ばれた女子バレー・チームは金メダルを獲得します。それは日本中が歓喜した感動の瞬間でしたが、根性論が、子供たちのスポーツにも、あるいは高度成長期の営業の世界へも広がっていく契機になりました。そんななか、東京オリンピックのマラソンで銅メダルを獲得し、メキシコでの金メダルを宣言していた円谷幸吉選手が自殺します。両親宛の遺書に記された「幸吉は、もうすっかり疲れ切ってしまって走れません」という言葉は衝撃を与えました。

根性論は、昭和初期、軍部が、国と国民を戦争へと引きずり込んでいった軍国主義の時代を彷彿とさせます。精神論が、全てを覆いつくし、ついには勝ち目のない太平洋戦争へと入っていきました。東京オリンピックに向かう日本のスポーツ界も、勝利至上主義に基づく精神論が支配する世界だったのでしょう。世界の壁が厚かったのではなく、日本がスポーツの世界に壁を作ったというべきです。(写真出典:sponichi.co.jp)

2021年6月24日木曜日

ハイウェイ

昔、ケンタッキー州の片田舎で、ガソリン・スタンドと簡易食堂を経営する老人がいました。幹線道路沿いという立地の良さから、商売は繁盛していました。ところが、近くにハイウェイが建設されると、車の通りはパタリと消え、老人は店を整理するしかありませんでした。手元に残ったのは、オンボロ車と自慢のレシピくらい。やむなく、老人は、車でレシピを売り歩きます。腕に自信があって食堂を経営している人たちがレシピを買うわけもありません。断られた店の数は、なんと1,009件。ところが1,010件目で、はじめてレシピが売れるます。すると、瞬く間に評判が評判を呼び、ついにはアメリカを代表するレシピにまでなります。老人の名は、カーネル・サンダースことハーランド・サンダース。ご存知、ケンタッキー・フライド・チキンの縁起です。ちなみに、カーネルとは、ケンタッキー州が、サンダースに与えた名誉大佐称号です。

世界初となる自動車専用道路の建設は、20世紀初頭のNYで行われています。全米を網羅するインターステイト・ハイウェイは、1950年代中期、ドワイト・アイゼンハワー大統領によって計画されます。第二次大戦中、欧州を転戦したアイゼンハワー将軍は、ナチスが作ったアウトバーンに感銘を受け、国防的観点から高速道路網を計画したと言われます。空前絶後と言われた国家予算を投じて作られたハイウェイ網は、当初10年で完成予定でした。しかし、計画が完遂されたのは35年後、費用は11兆円を超えていました。ちなみに、インターステイト・ハイウェイの正式名称は「ドワイト・デーヴィッド・アイゼンハワー全米州間国防高速道路網」です。国土防衛を主たる目的としたハイウェイでしたが、結果的にはアメリカの目覚ましい経済成長の原動力となっていきました。建造目的と波及効果は、まるでローマ街道の現代版です。

アメリカで驚いたことの一つは、アメリカ中、どこへ行っても、同じ商品が売られていることでした。また、メーカーは違えど、規格が統一されている商品の多さにも驚きました。例えば、近所のホームセンターには、窓や階段まで売られていました。規格化社会ならではの光景です。アメリカはメール・オーダー大国でもありました。銃器等も含め、ありとあらゆる物が、カタログに基づき、通信販売で買えました。さらに言えば、アメリカは、どんな田舎に行っても、マクドナルド・ハンバーガーやケンタッキー・フライド・チキンといったフランチャイズ店が、必ずあります。カーネル・サンダースは、ハイウェイに店を潰され、ハイウェイでビッグ・ビジネスを築いたと言えます。大量消費社会アメリカを支えているのが、物流であり、その中心にハイウェイ・システムがあることを、改めて思い知らされました。

ハイウェイとフリーウェイの違いは何か、とNYのアメリカ人に聞くと、通行料がかからないのがフリーウェイで西海岸に多い、と言われました。なるほどと思ったのですが、東部でよくある勘違いだったようです。東部には、フリーウェイと呼ばれる道路が、ほとんど無いので、そのような俗説が広がったのかも知れません。フリーウェイは、通行を制限する信号や踏切のない自動車専用道路を指す言葉で、ハイウェイ、エクスプレス・ウェイ、スルーウェイ、ターンパイク等を包括するとのこと。また、土木的には、近隣の人たちが自由に進入する権利を持たない幹線道路と定義されるようです。アメリカの自動車専用道路で、私が最も好きだったのは、ブロンクス・リヴァー・パークウェイです。パークウェイは、道の周囲や広い中央分離帯が、緑濃く整備された自動車専用道路であり、通常、トラック等は進入できません。緑の中のワインディング・ロードを、そこそこのスピードで運転すれば、実に気分爽快でした。

昔、日本のポップなどバカにしていたので、ちゃんと聞くこともありませんでした。そう言わずに聞いてみろよ、と友人に渡されたアルバムが荒井由実の「14番目の月」(1976)でした。日本のポップにはなかったメロディ、嫌味のない少女趣味的歌詞、実に独特な声、結構、気に入りました。収録曲の一つが「中央フリーウェイ」でした。中央高速道路を中央フリーウェイと言い換えただけで、競馬場やビール工場まで、おしゃれな感じになっていました。オイル・ショック後ですが、日本は確かな豊かさを感じる時代に入っていました。若者の憧れが自動車だった時代にピッタリの曲でした。中央道沿線の人たちにとっては、今でも大事な曲だそうですが、昨今、若者たちは自動車を買わず、それどころか免許さえ持たない時代になりました。えらい変わりようだと思います。(写真:最古のインターステイト95号線 出典:fredericksburg.today)

サンティアゴ・デ・クーバ