2021年4月30日金曜日

モンゴリアン・ヒップ・ホップ

日本のヒップホップ文化は、1980年代初め、ブレイクダンスから始まりました。ラップは、やや遅れて試行が始まりました。母音だらけの日本語では無理があったからだと思います。当初の日本のラップは、どうしてもモタモタした感じになり、子供向けといった風情でした。最初のヒットは、吉幾三の「俺ら東京さ行ぐだ」だと言われます。それが大きく変わったのは90年代後半からだったと思います。象徴的には、Dragon Ashの登場だったのではないでしょうか。詞の深さもリズムのノリも日本のラップと言えるものになったと思います。リズムに乗せるために、日本語の発音を多少英語っぽくしたり、あるいは英語を多用するなどして、母音の多さをカバーしていきました。ただ、それでも母音の壁は厚く、ヴァリエーションは乏しく、メロディで変化をつけるスタイルが多いように思います。

今や世界中で、それぞれ独自のラップが歌われています。風体は、アメリカのものまねばかりですが、言葉の特性の違いが独自性も生んでいます。エスニック・ラップの時代とも言えます。モンゴルでも同じですが、その浸透度合いがすさまじく、モンゴルはラップの国になっているようです。意外な印象を受けるのは、私たちがモンゴルを知らなすぎるからなのでしょう。モンゴル語は、子音が多く、リズムに乗せやすいようです。また、祝い事の際、韻を踏んだ即興の祝詞が披露される伝統があり、ラップはモンゴル発祥だと言い切る人までいるそうです。加えて、経済格差が大きな社会問題となっており、若者たちの閉そく感が強いことが背景にあります。ラップが、NYのブロンクスで発祥した時と同じく、若者が表現せざるを得ない厳しい現実があるわけです。

モンゴルの歴史は、とても古く、中国の中原に起こった国々と常に戦ってきました。農耕民である漢民族の歴史は、北の遊牧民との戦いの歴史でもあります。モンゴル最初の統一国家は、紀元前4~5世紀の匈奴だと言われます。その後、鮮卑、突厥、契丹、金等を経て、13世紀初頭、モンゴル族のテムジン、チンギス・ハンが登場します。世界最大の帝国となったモンゴル帝国ですが、その後、分裂、衰退します。モンゴル高原も、内蒙古と外蒙古に分断され、清朝支配下に入ります。20世紀初頭には、ソヴィエトの介入のもと、外蒙古は清朝から独立し、モンゴル人民共和国が建国されました。ソヴィエト崩壊後の1992年には、社会主義を捨て現在のモンゴル国になっています。機動性に優れた騎馬戦力をもってユーラシアを席捲したモンゴルは、その後、隣接する二大国に挟まれ、難しい生き方を強いられてきたといえます。

市場経済へ移行した後は、豊富な地下資源を背景に経済成長を続けてきましたが、貧富の差の拡大、官僚の汚職といった問題に悩まされ、政治的安定も確保できていません。遊牧民は、人口の1割まで減り、国民の半数がウランバートルに住んでいます。しかもウランバートルは、富裕層が住む一部を除き、スラム化が進んでいると聞きます。モンゴルの失業率は、2020年、12%に達しています。また、1日2ドル未満で暮らす貧困層の割合は4割と言われます。320万人という人口の少なさ、政治的不安定さが、厳しい経済状態を生んでいます。若者たちの閉そく感や絶望感が、モンゴリアン・ヒップホップの原動力になっており、多くの支持を集めていることは容易に理解できます。日本のラップとの根本的な違いがここにあります。

モンゴルの畜産業は、依然として鉱業に次ぐ主要産業です。ただ、緑成す草原を馬に乗って疾走する遊牧民というモンゴルのイメージは、過去のものになりつつあるのかもしれません。数千年に及ぶ伝統が消えつつあるということは、モンゴルの文化がアイデンティティの危機にあると言えのでしょう。ここ数年、モンゴリアン・ヒップホップには、民族音楽や伝統を取り入れたものが増えているようです。危機感の現れでもありますが、エスニック・ラップとしては自然な姿だと思います。新しいモンゴル文化が生まれようとしているのかもしれません。なお、モンゴルのヒップホップ事情を紹介したドキュメンタリー映画に「モンゴリアン・ブリング」(2012)があります。残念ながら未見ですが。(写真「モンゴリアン・ブリング」ポスター 出典:filmarks.com)

2021年4月29日木曜日

「オクトパスの神秘」

 監督:ピッパ・アーリック、 ジェームス・リード   2020年南アフリカ

☆☆☆☆

実に不思議な映画です。上質な小説を読み終えたような印象を持ちました。ドキュメンタリー映画製作者のクレイグ・フォスターと真蛸との交流が、丁寧に描かれています。蛸は知能が高いとは聞いていました。擬態、あるいは足や吸盤を自在に使うわけですから、なかなかの知能と言えます。しかし、人間を認識して、交流まがいのことまでできるとは驚きです。まるで猫や犬と同じです。とても不思議な気分になります。撮影開始から公開までには10年かかっていますが、それはそれは大変な撮影だったろうと容易に想像できます。

真蛸の知能には驚かされるものの、この映画は単なる蛸の生態映画ではありません。仕事で心身ともに疲れ切ったクレイグ・フォスターが、故郷の海のケルプの森に潜り、自然と一体化することで再生するというストーリーが、しっかりと縦糸を成しています。そして、横糸として、彼女と呼ばれるメスの真蛸との交流、そして彼女の短い一生が語られます。十分に科学的でありながら、従来の科学系ドキュメンタリーとはまったく異なる映画と言えます。実に画期的であり、ドラマと言っても言い過ぎではありません。そのあたりが評価されたのか、今年のアカデミー賞の長編ドキュメンタリー映画賞はじめ、数多くの賞を獲得しています。

真蛸は、軟体動物のなかで、ほぼ最高の知能を持つと言われているようです。体表には無数の突起があります。この突起も、体表面の色を変えるのと同じ速さで出し入れできます。それによって、真蛸は、岩や海藻にも擬態できます。また、海藻を体に巻き付けたり、無数の貝殻で鎧兜のように体を覆い、サメ等の捕食者から身を守ることもできます。その映像は、はじめてみましたが、驚異的なものです。主な餌は、甲殻類や貝類です。通常、魚類は、特定の捕食方法に応じて体形を進化させます。真蛸は、状況に応じた多彩な捕食方法を繰り出します。知能の高さが理解できます。固い殻を持つ貝を食べる時には、腕の付け根にある突起を使い、貝の特定の筋肉を狙って、殻に小さな穴を開け、毒を注入すると言います。まさに注射そのものです。まさに驚異の生き物です。

真蛸との交流の話をしながら、真蛸を食べる話は、多少気が引けますが、日本で最も多く食べられている蛸は、この真蛸です。食材としての歴史は古く、弥生時代の遺跡からも蛸漁に使う蛸壺が出土するようです。欧米では、地中海沿いを除き、蛸はデビル・フィッシュと呼ばれ、食べる習慣がありません。理由としては、見た目が気持ち悪いから、とよく言われますが、これはあり得ません。人間は、なんでも食べてきました。恐らくユダヤ教のコーシャ、聖典に基づく食事規則が影響しているものと思われます。コーシャでは、ウロコとヒレのないものは不浄であり、食べてはいけない、とされています。理由は、よく分かりません。想像ですが、地中海東部にあっては、毒素を持ったものが多かったのか、痛むのが早かったからではないかでしょうか。あるいは、妙に知能を感じさせるものが多かったからかも知れません。

この映画の原題は「My Octopus Teacher」となっています。クレイグ・フォスターが、”彼女”から自然を学んだという意味なのでしょう。悩んだ末のタイトルのように思いますが、内容の深さからすれば、今一つです。もっとひどいのがこの邦題です。これでは、蛸の生態を記録したありきたりなドキュメンタリーのタイトルです。この映画の奥深さや革新性は、まったく伝わりません。しかし、自分なりにタイトルを考えてみましたが、なかなか妙案も浮かびませんでした。それくらい画期的な映画と言えるのかも知れません。(写真出典:filmarks.com)

2021年4月28日水曜日

明烏

歌川広重「新吉原仁和歌之圖」
国立演芸場で、はじめて柳家わさびの落語を聞きました。さすが人気があるだけのことはありました。演目は「明烏(あけがらす)」。奥手の倅を案じる父親に頼まれた町内の若い衆が、稲荷詣でと謀って倅を吉原へ連れ出す、という話です。”明烏”とは、朝に鳴いて、男女の一夜を邪魔する不粋な烏です。倅の奥手ぶりが面白い話ですが、若い衆が甘納豆を食べる仕草も見せ場となっています。この話を得意とした八代目桂文楽の甘納豆があまりに見事で、いつも売店の甘納豆が売り切れた、という話は有名です。「明烏」は、吉原ガイドといった風情もあります。山谷堀から土手を通って大門へ、といった道順、あるいは吉原独特の作法やしきたりも盛り込まれています。

もともと吉原は、江戸初期、今の人形町あたりに作られた幕府公認の遊郭です。当時は、海岸近くの葭の生い茂る原っぱであり、葭原と呼ばれたようです。江戸の市街地が急拡大し、この付近にも武家が住むようになり、また明暦の大火で焼け出されたこともあり、1668年、浅草浅草寺の裏手、日本堤の沼地を埋め立て、移転します。新吉原と呼ばれる所以です。18世紀初頭には、遊女2千人と記録されているようですが、最盛期には5千人いたとも言われます。当初は、武家のための遊郭でしたが、時代と共に、武家の多くは、江戸城に近い新橋、柳橋等の江戸六花街を使うようになり、吉原は庶民化していったようです。日に千両といわれ、現在価値にすれば、一日の売り上げは1億以上という賑わいをみせ、歌舞伎と並び江戸の庶民文化の花形になりました。

新吉原には、早い段階からガイドブック「吉原細見」が存在しました。地図、妓楼と所属遊女、揚げ代、茶屋、船宿などが書かれていたようです。年に2回刊行され、定期刊行物としては、明治まで続いた「役者評判記」に次ぐ息の長さを誇ります。版元は、鱗形屋と山本でしたが、18世紀後半になると、蔦屋重三郎が独占していきます。江戸を代表する出版業者となる蔦屋は、新吉原の書店からはじめ、細見や遊女の評判本等の出版へと商売を広げていきます。当時、版元が集まっていた日本橋に越した蔦屋は、洒落本、黄表紙、狂歌本でヒットを飛ばします。しかし、蔦屋と言えば、なんといっても錦絵、つまり彩色した浮世絵です。歌麿、写楽、広重等の売れっ子を抱え、大繁盛したようです。ちなみに、大阪の書店から始まったTSUTAYAは、かつて創業家が営んでいた置屋の屋号にちなみ、また蔦屋重三郎にあやかって命名されたようです。

遊郭に過ぎない吉原が、なぜ歌舞伎と並んで江戸文化の中心になれたのでしょうか。役者と遊女が出版のメイン・コンテンツであることは、人気の高さを現します。古典落語の演目からも、当時のファッションの流行からも、それはうかがい知れます。商工業の隆盛と都市化の進展に伴い、娯楽が産業化していったということですが、幕府公認ということは、特権と上納金で構成されていたことになります。とは言え、芸者中心の花街、夜鷹や湯女等もぐりの遊女といったライバルも存在しました。そこで吉原は、マーケティングに注力したのでしょう。見物だけでも入れる町は夜でも明るく、夜中まで三味線の音が響き、毎年、3月の1ヶ月間だけは、仲通りに桜の木が移植されるという大人のテーマパーク。また各種のしきたりや遊女の階層化は通を惹きつけリピーター化します。マーケターの皆さんは、フィリップ・コトラーの本を読むだけでなく、吉原を研究すべきと思います。

明治以降、キリスト教的倫理観が持ち込まれるまで、日本は性風俗に寛容だったと言われます。とは言え、「明烏」の奥手の倅は、吉原に来ることで、親戚にとがめられることを心配します。実は、商家が懸念するのは、吉原に行くことではなく、吉原に入れ込むことだったのだろうと思います。小遣いで遊ぶうちはいいのですが、遊女といい仲にでもなれば、店の売上に手をつけるのは目に見えています。華やかな吉原ですが、人身売買された遊女の悲惨さもよく知られるところです。夜も明るい遊郭は、内にも外にも、濃い影を作っていたわけです。(写真出典:news.livedoor.com)

2021年4月27日火曜日

船場言葉

船場の旧小西家住宅
近年、TVから大阪弁が聞こえない日はありません。吉本興業が、東京に再進出し、お得意のメディア・ミックスを巧みに使い、漫才ブームを起こしたのが1980年。その後も、吉本は、劇場を次々オープンし、NSC東京校からも芸人が育ち、メディアを席捲するまでになります。戦前、日本の興行界の御三家は、関西系の松竹・東宝・吉本であり、浅草での吉本の存在感も大きかったと言います。映画にも進出していましたし、プロ野球ではジャイアンツの設立にも参加し、戦後ですが、プロレスを立ち上げたのも吉本です。敗戦の影響から、戦後しばらくは大阪で映画に注力した吉本が、演芸に復帰したのが、1960年前後だったようです。以降、メディア・ミックス戦略も奏功し、関西を制覇、そして東京再進出で全国制覇を成し遂げたわけです。

大阪弁のイメージも、吉本の隆盛とともに変わってきたように思えます。かつて大阪弁の主なイメージは、商人言葉、下品といったものだったと思いますが、70年代くらいからは、怖い、というイメージが加わります。恐らく河内弁がやくざ映画等で多用された影響でしょう。そして漫才ブーム以降は、お笑いと結びつき、違和感なく受け入れられるようになりました。大阪弁と言っても、大きくは摂津弁・河内弁・泉州弁に分かれます。TVでよく耳にするのは摂津弁です。言葉は時代とともに変わっていって当然です。摂津弁も、随分、変遷があったはずです。残念なのは船場の言葉がほぼ失われたことです。商習慣の変化、船場自体の地盤沈下ゆえのことですから、致し方ありませんが。

船場は、大阪城築城後、秀吉の命によって、京都・伏見から商人が集められ形成された商人町です。江戸初期には日本の経済・流通の中心として機能しました。現在で言えば、地下鉄御堂筋線の淀屋橋から心斎橋、堺筋線では北浜から長堀橋のあたりが船場でした。その一画に、多くの商店・船宿・料亭等が集まり、経営者家族と住込みの従業員が暮らしていました。独特の習慣や言葉も形成されていきます。船場言葉は、京ことばの流れをくむ上品さがあったとも言われますが、商人の町であり、お客さまを立てる丁寧語・尊敬語が基本となっていたようです。例えば「勉強させてもらいます」は船場言葉です。標準語では「勉強させていただきます」となるところですが、随分とへりくだった言い回しになります。また、「ごりょんさん(主人の妻)」、「いとはん(長女)」、「こいはん(末娘)」なども典型的な船場言葉です。

上品な船場言葉は、谷崎潤一郎の「細雪」で楽しむことができます。大阪弁は、文字にすることが、なかなか難しい言葉です。ただ、谷崎にかかると、見事に雰囲気が伝わります。その筆力は、さすがと言わざるを得ません。谷崎自身は、東京の生まれ育ちですが、関東大震災後、神戸に移住します。そこで、当時、人妻だった森田松子と不倫関係の後、三度目の結婚をします。松子は、四人姉妹の次女として大阪の裕福な一族に育ち、老舗問屋に嫁ぎます。「細雪」は、四人姉妹が経験したことを、ほぼ忠実に書いているといわれます。時代は、昭和初期。船場は勢いを失いつつありました。「細雪」は、船場の大店の生活と文化を描き、その落日の淡い光を滲ませます。日本の近代を描いた作品とも言えます。幼少期は豊かな家に育ち、その後家業が傾き、貧乏に苦しんだ谷崎は、船場の大店の生活に深いシンパシーをもっていたのでしょう。

いつも感心させられる大阪弁があります。尊敬語の「はる」です。大阪の人たちは、ごく自然に他人の行為に「はる」を付けます。食べてはる、思うてはる、といった具合です。また、相手のことを「自分」と言います。標準語なら、君、あなた、となります。私を中心に考えれば「あなた」ですが、相手を中心に考えれば「自分」となるわけです。お客様を中心に考える船場言葉の精神が、今の大阪弁にも生きてはるのかも知れません。(写真出典:ja.wikipedia.jp)

2021年4月26日月曜日

三千世界の鴉

奇兵隊
「子曰く、学びて思わざれば則ち罔し(くらし)、思いて学ばざれば則ち殆し(あやうし)」は、論語の一説です。知識を学んでも、自ら考えなければ、何もわからない。自ら考えるばかりで、知識を学ばなければ、危険である、といった意味になります。実に的を得た言葉です。高杉晋作を思うと、この言葉が浮かびます。松下村塾の俊才ですから、勉学にも優れていたはずです。ただ、吉田松陰は、晋作がさっぱり勉強しない、と嘆いています。学問ではなく、行動の人だったと想像できます。では、晋作は”思いて学ばざる”人だったのでしょうか。ここが気になります。歳若くして病死し、残された文章類も少ないことから、幕末の志士としては高名ながら、やや分かりにくい人でもあります。

高杉晋作は、戦国時代から毛利家に仕える名家の生まれです。勉学にも、剣術にも非凡な少年は、1857年、18歳で松下村塾に入塾、久坂玄瑞とともに塾の双璧と呼ばれたそうです。翌年には、藩命で江戸に遊学します。その年、 幕府は、 勅許無きまま日米修好通商条約を締結します。 これに激怒した松蔭は行動にでますが、翌年、安政の大獄で捕縛されます。 晋作は 牢に通ったようですが、 国元に戻され、その後、 松蔭は死罪となります。 晋作の攘夷は、 師の志を継ぎ、 ここに始まるのでしょう。1862年には、藩命によって、幕府使節随行員として上海へ渡航します。植民地された清国を見て、攘夷の決意を新たにしたようです。ちなみに、晋作が上海で購入した拳銃は、その後、坂本龍馬に贈られ、寺田屋遭難の際、龍馬の命を救っています。

1863年、長州は外国船砲撃を行い、逆に米仏の攻撃を受けます。この下関戦争の際、下関防衛を任された晋作は奇兵隊を創設しています。武士と庶民の混成部隊である奇兵隊は、松陰の西洋歩兵論に基づいて編成されたと言います。1864年、蛤御門の変で朝敵となった長州に対して、幕府は長州征伐を行います。長州藩内では、幕府に恭順すべしとする保守派が主流となります。晋作は、下関の功山寺に諸隊を集め、挙兵。保守派を一掃し、藩の実権を握ります。功山寺挙兵は、クーデターそのものです。その後の維新への流れを左右した重要な出来事であり、晋作の維新への最大の貢献とも言えます。1866年には、晋作が進めていた薩長同盟が、龍馬の仲介で成立します。第二次長州征伐は、徳川家茂の死によって、幕府側の総崩れとなり、一気に大政奉還へと進んでいきました。ただ、晋作は、大政奉還を知ることなく、肺結核で死んでいます。享年27歳。

幕末の志士、明治の元勲たちが、口を揃えて「群を抜いた人物」と評する高杉晋作ですが、四国への逃避行の際には、愛妾おうのを同行し、三味線だけを持参したと言われます。命を狙われ逃げたわけですが、なんとも肝の据わった、粋な逃避行です。盟友龍馬の新婚旅行にも通じます。「三千世界の鴉を殺し 主と朝寝がしてみたい」という都都逸は晋作の作とされます。遊女たちは、顧客を繋ぎとめるために、神社札の裏に「あなた一筋です」と書いて渡したものだそうです。いわゆる起請文です。一番人気があったのが熊野三山の牛王法印であり、約束を破ると神の使いの鴉が死に、本人は地獄に落ちるとされていました。つまり約束を破ってでも、あなとと一夜を過ごしたいという歌です。なんとも粋なものです。

高杉晋作は、学びて思い、思いて学んだうえで、今、必要なのは”果断な行動”である、という判断をした人のように思えます。辞世の句は「おもしろきこともなき世をおもしろく」とされます。随分と高いところから時代を見切っていた数少ない天才かもしれません。(写真出典:ja.wikipedia.org)

2021年4月25日日曜日

「非情城市」

 監督:侯孝賢(ホウ・シャオシェン)    1989年台湾・香港

☆☆☆☆

確かに夜の九份は絵になります。とは言え、一角だけのことであり、印象に残ったのは、土産物屋と観光客の多さだけでした。九份が台湾きっての観光地になったのは「非情城市」がきっかけだったと聞きました。「非情城市」は、ヴェネツィア国際映画祭で金獅子賞を獲得した台湾ニューシネマの金字塔とも言える作品です。エドワード・ヤンと並ぶ台湾ニューシネマの旗手ホウ・シャオシェンの実写的作風も見事ながら、台湾ではタブーとされてきた国民党による白色テロが初めて描かれた作品としても、世界に衝撃を与えました。基隆港と九份を舞台に、日本から国民党へ統治者が変わるなか、船問屋の一族が時代に飲み込まれていく様が描かれています。

「犬が去って、豚が来た」は有名な言葉です。同化政策をとった日本はうるさい犬、たいして国民党、いわゆる外省人はひたすら貪るだけの豚、という意味です。国民党軍の精鋭たちは、大陸で共産党軍と交戦中であり、台湾へ来たのは二線級のモラルの低い部隊だったとされます。汚職・強姦・強盗・殺人とやりたい放題だったと言います。本省人、つまり台湾人に対する差別意識もあったのでしょう。1947年2月27日、台北でヤミの煙草を売っていた女性が、外省人官憲に摘発され、殴られたうえに商品も持金も没収されます。騒ぎに集まった本省人に対して官憲が発砲し、一人が死亡します。これが引き金となり、外省人に対する本省人の怒りが爆発し、瞬く間に全島に暴動が広がります。国民党軍は、大陸から援軍を送り込み、徹底的な武力鎮圧を行います。いわゆる「二・二八事件」です。

国民党は戒厳令を布きます。戒厳令について、日本では日清・日露戦争中の軍港に布かれた例などはあるものの、あまり馴染みがありません。戒厳令下では、憲法や法令の効力が一時停止され、軍が武力をもって、行政と司法を指揮します。実に恐ろしい話です。台湾では、本省人のエリート層が理由もなく逮捕され、拷問され、殺害されます。一般人では虐殺も起きています。犠牲者数は、いまだにはっきりせず、政府見解では1.8~2.8万人とされますが、10万人近いという説もあります。為政者によるテロ、つまり白色テロです。一度解除された戒厳令は、1949年に再発令され、結局、1987年まで続きました。70年代から台湾は、経済発展を続けてきました。その主役の多くは本省人でした。ただ、その間も戒厳令下にあったわけです。本省人が真に解き放されたのは、1988年、李登輝が本省人初の総統になってからだと言われます。

台湾ニューシネマの特徴は、対象を客体化し、より自然に撮ることで、よりリアルに台湾の現実を伝えることです。本作でも、その手法が生きています。大げさな演出や演技で本省人の無念を伝えるのではなく、日常を自然に、かつ丁寧に叙述することで、日常に浸透する恐怖や無念さをより一層際立たせています。ホウ・シャオシェンの有名な定点的カメラ・ワークも、そのために採られている手法だと思います。こうした作風は、戒厳令下で台湾社会を映し出すために必要な手法だったとも言えそうです。本省人の無念を描いたホウ・シャオシェンの「非情城市」、そして60年前後の外省人の不安定な状況や不安を描いたエドワード・ヤンの「牯嶺街少年殺人事件」は、台湾ニューシネマの対を成す名作だと思います。ちなみに、両監督とも外省人二世です。

二・二八事件の際、本省人は、台湾語と日本語が話せるかどうかで、外省人をあぶり出したと言います。本作でも、そういう場面がありました。台湾には二十を超す山岳部の少数民族がいます。なかには、台湾語も日本語もうまく話せない民族もいたようです。そこで外省人判別に使われたのが、君が代だったと言います。日本の徹底的な同化政策によって、君が代を歌えない本省人はいなかったそうです。(写真出典:movies.yahoo.co.jp)

2021年4月24日土曜日

ヴァレリー

「Valerie」は、2006年にリヴァプールのズートンズがリリースした名曲ですが、マーク・ロンソンが、エイミー・ワインハウスをフィーチャーしてヒットさせました。ズートンズが、アメリカ・ツアーの際に知り合った女性を懐かしむ歌です。イメージとして浮かぶのは、田舎町で、天然だけど気立てのいい若い女性が、仲間たちと面白おかしく青春を楽しんでいる様子です。明るい楽調ながら、哀愁も感じさせます。私には、ちょっとヤンチャな田舎の青春に対する暖かな共感と、もうそこには戻れない哀感が入り混じった曲のように思います。青春や昔の仲間たちを懐かしむ曲には、名曲が多いものです。

エイミーの”ヴァレリー”は、あの声で歌われるとやたらはまり、エイミーの短い人生を思うと、泣けてきます。エイミーも思い入れのある楽曲だったようで、”At The BBC”では、テンポを落とし、シンプルなバックで、じっくり歌い上げています。Youtubeには、楽屋で、アコースティック・ギターだけをバックに、さらに哀感たっぷりに歌い上げる映像もあります。16歳から音楽の世界に入ったエイミーにとって、仲間たちとはしゃいだ青春は、とても短く、とても愛おしいものだったのでしょう。幼少期に、離婚して家を出た父への喪失感を埋めるために始めた音楽は、彼女の類稀なる才能を開花させます。ジャズが身近だった家庭に育ち、音楽系の学校に通い、National Youth Jazz Orchestraで歌います。20歳で初リリースした”Frank”は、いきなりヒットし、賞も受けます。自作曲が大半のジャズ、あるいはジャズ・テイストのアルバムとしては、異例中の異例のヒットでした。

エイミーは、ツアーや取材といった多忙な生活に入りましたが、突然、活動を停止、アルバム用の曲作りに専念します。関係者は、ここで、彼女の性向を理解すべきだったと思います。彼女の曲は、すべて実体験に基づいています。彼女にとって、音楽はビジネスではなく、自分を表現する唯一の手段だったのだと思います。彼女にとっては、ツアーも取材も、はじめから余計なことであり、苦痛だったのでしょう。活動休止中、エイミーは、チャラいクラブ経営者のブレイク・フィールズと、嵐のような恋をします。ブレイクは、彼女の喪失感を埋めてきた音楽や親友を超える存在となり、エイミーは、彼と一体化することだけを願います。麻薬とアルコールと女が、ブレイクの全てであり、エイミーは彼の世界へと入っていきます。そして、捨てられたエイミーは、薬とアルコールに救いを求め、崩れていきます。

エイミーを救ったのは、音楽でした。薬と酒を断った彼女は、ブレイクとの失恋や麻薬漬の生活を歌にします。ソウル仕立ての2作目 ”Back to Black”は世界的大ヒットとなり、 グラミー賞も獲得します。エイミーは、トニー・ベネットがビリー・ホリディやエラ・フィッツジェラルドと並ぶとまで絶賛した生粋のジャズ・シンガーです。ただ、若い女性にとって、老成したジャズだけではしんどく、モータウンのガールズ・バンドも指向していました。大失恋して麻薬漬になったエイミーの心情を表現するにはソウルが合っていたのでしょう。一躍、 世界的セレブとなったエイミーは、 父親も含めたビジネスマンとパパラッチとファンに囲まれ、精神を病んでいきます。ブレイクと復縁したエイミーは、また、薬と酒の日々に逆戻りし、ステージにも穴を開け始めます。 

2011年7月のある朝、自宅のソファーに倒れているエイミーが発見されます。過度なアルコールが弱った心臓を破裂させていました。享年27歳。いわゆる27クラブです。音楽が彼女を救い、音楽が彼女を殺した、とも言えます。ドキュメンタリー映画「エイミー」は、アカデミー賞の長編ドキュメンタリー賞も獲得した傑作です。作中、トニー・ベネットが、ジャズ歌手は大きな会場で歌いたがらないものだ、と言っています。天才ジャズ・シンガーが、ジャズを歌い続けていたら、とつい思ってしまいます。ちなみに、映画「エイミー」のエンド・ロールで流れるのは、BBCで録音した「ヴァレリー」でした。(写真出典:ja.wikipedia.org)

サンティアゴ・デ・クーバ