2024年10月21日月曜日

桜島

鹿児島市を訪れた際に泊まるべきホテルは、城山観光ホテル、現在のSHIROYAMA HOTEL kagoshimaの一択だと思います。ホテルは、1963年、鶴丸城のあった城山の西端に開業しています。日本一とも言われる朝食バッフェが有名ですが、桜島と錦江湾を一望する眺望こそがホテル最大の特徴だと思います。2000年には、その眺望を楽しみながら入れる露天風呂がオープンしました。これだけを目当てに訪れてもよいと思います。青空を背景に噴煙をあげる桜島と波穏やかな錦江湾という雄大な景色を眺めながら入る温泉は格別です。鹿児島市内から見る桜島は、不思議なことに写真よりも大きく見え、その存在感にはいつも驚かされます。同時に、桜島はいつ破局噴火を起こしてもおかしくない活火山ですから、空恐ろしさも感じさせます。

鹿児島市と桜島との間は、最も近いところで4kmとなります。東京駅から田町駅程度の距離に相当し、山手線なら10分もかかりません。フェリーで渡るならば、8km、15分と聞きます。桜島が、鹿児島市の象徴であり、市民の自慢であり、心の拠り所であることは理解できます。しかしながら、58万人が暮らす大都市の至近に活火山があることは、なかなか理解に苦しむものがあります。破局噴火の恐れもさることながら、年間、数百回と言われる小規模噴火は、風向きによって、夏は鹿児島市、冬は大隅半島側に火山灰を降らせます。一度、出張した際に、ひどい降灰に出くわしたことがあります。強い風が吹いていたこともあり、視界は悪くなり、中心街から人気が消え、外に出ると顔に当たる灰が痛くて即座に屋内に避難しました。

火山灰はガラスに近い成分のようですから、痛くて当然なわけです。平生はもっと粒が小さいようですが、それはそれでやっかいなもののようです。積もった灰は、すぐに処理しなければ、いつまでも残って、風が吹くと舞い上がるとのこと。水で流すと、排水口で固まってしまいます。よって灰はかき集めるしかなく、市が無料で配布する”克灰袋”に入れて、灰ステーションに出すと聞きます。畑にも、家にも、車にも積もるわけで、被害もあれば、大変な労力も費やされます。洗濯物も干せないので、鹿児島市の戸建て住宅にはサンルームが必須とも聞きます。鹿児島市の人々には、大変、失礼ながら、どうしてこんなところに住むのかと思ってしまいます。そして、そもそも、なぜこんなところに城と城下町を築いたのか、大いに疑問です。

ところが、桜島が常に噴煙を上げるようになったのは、1955年からであり、激しさを増したのは1970年以降のことだそうです。大噴火、中規模噴火の際の降灰を別とすれば、活火山とはいえ穏やかなものだったようです。日本有数の活火山にもかかわらず、山ではなく島と呼ばれてきた背景でもあるのでしょう。かつては、実際に島だったのですが、陸続きになったのは大正噴火の際でした。桜島は、屈斜路カルデラ、阿蘇カルデラと並び日本三大カルデラの一つとされる姶良カルデラの南端にあります。桜島は、姶良カルデラの大噴火から3千年後の2万7千年前に誕生した比較的新しい火山です。有史以来、噴火を繰り返してきた桜島ですが、最大級の噴火は、文明(1471年)、安永(1779年)、大正(1914年)と、3回起きています。

大正噴火と言えば思い出すのは、噴火後、東桜島町に建てられた「桜島爆発記念碑」、通称「科学不信の碑」です。大正噴火の際には、様々な予兆現象も確認されています。地震も活発に発生したようですが、鹿児島測候所は、震源は桜島にあらず、噴火の恐れなしとします。しかし、多くの村落では、自主的な避難を開始していました。これが大規模噴火の割に死者が58人と少なかった理由と言われます。死者が集中したのは東桜島村でした。測候所を信頼した村長たちが避難しようとする村民を引き留めたために多くの死者を出すことになりました。碑文には、今後も噴火はある得る、異変を察知したら、理論に頼ることなく、避難準備すべき、と記されています。観測理論も技術も不十分だった時代のこととは言え、傾聴すべき警告だと思います。今年は、大正噴火から110年目ですが、桜島の北側に大きなマグマ溜まりが形成されているという報道もありました。(写真出典:gltjp.com)

2024年10月19日土曜日

オムレツ

モン・サン=ミッシェルの名物と言えば、ラ・メール・プラールのオムレツということになります。このふわふわなスフレ・オムレツを食べずに帰る人はいないのではないかと思います。メレンゲに卵黄を加えて、ふわふわに焼き上げたオムレツですが、さほど美味しいものでもなく、食べ応えもありません。プラールおばさんが、海を渡ってくる巡礼者のために考案したというオムレツは、確かに疲れた人々の胃にやさしい食べ物ではあります。日本にも出店していましたが、コロナ禍のなかで撤退しています。懐かしいと思う人や一度食べて見たい人が訪れたのでしょうが、残念ながら人気店とまではいかなったようです。

オムレツは、基本的に、溶いた卵に塩・胡椒を加えて焼くだけというシンプルな料理です。なかに包み込む具材や上に掛けるソースの違いで、多くのヴァリエーションが生まれ、各国の名物オムレツもあります。じゃがいも・ベーコン・たまねぎを入れたドイツ風、じゃがいも等を入れてひっくり返すことなく厚く焼き上げるスペインのトルティージャ、カニ肉等を入れる中国の芙蓉蛋あたりが有名どころでしょうか。日本には明治期に伝えられたようです。かつては挽肉とたまねぎを具材とし、トマト・ケチャップを掛けたスタイルが最も一般的でした。それが軍隊のレシピとなっていたことから、全国的に広まったようです。近年では、ホテルの朝食等で供される綺麗に焼いたプレーン、あるいはチーズ・オムレツの方が一般的かもしれません。

渡来した料理に手を加えて国民食化するのは日本の得意技ですが、オムライスも、その一つです。1900年、銀座の煉瓦亭がまかないとして作ったという説と、1925年に大阪の大衆洋食屋パンヤの食堂(後の北極星)が発祥という説があります。煉瓦亭は、米等を卵に混ぜて焼くスタイルであり、北極星は、チキンライスにオムレツを乗せケチャップを掛けるというスタイルであり、現在のオムライスの原型と言えます。同様に、芙蓉蛋を日本式にアレンジしたものが天津飯です。その発祥についても、1945年、ラーメン発祥の店として知られる浅草の来々軒に始まったという説、大阪の大正軒が、1920年代に考案したという説があります。いずれにしても、オムライスも天津飯も、日本にしか存在しない洋食と中華料理です。

オムレツケーキも、日本にしか存在しない洋菓子です。最も一般的なものは、薄い円形のスポンジ・ケーキで、生クリームとバナナを包んだものであり、バナナ・ボートとも呼ばれます。スポンジ・ケーキを卵に見立てたわけです。オムレツケーキといえば、フランス料理屋の”自由が丘トップ”という名前ががよく出てきます。1960年代にはメニューにあったという話もありますが、店が廃業しているので、詳細は不明です。しかし、オムレツケーキの元祖は、秋田県のたけや製パンが1955年に発売したバナナボートだと思われます。現在も、定番商品として販売されています。日本で最も売上の多いオムレツケーキは、山崎パンの”まるごとバナナ”だと思われます。これは、1968年にたけや製パンと提携した山崎パンが、同社から移入した商品だと聞きます。

オムレツの起源は、古代ペルシャとも言われるようですが、恐らく古くから世界中に似たような料理があったのでしょう。現在では、世界中でオムレツ、オムレットと呼ばれていますが、フランス語の”omelette”が元になっています。フランス料理としての”omelette”は、16世紀に生まれたとされます。これが現在のオムレツの起源ということなのでしょう。同じ頃、日本でも鶏卵を食べることが一般化しています。江戸期の人気卵料理の一つに「たまごふわふわ」があります。熱いだし汁に卵液を入れて蓋をしふわふわに蒸し上げる料理です。モン・サン=ミッシェルのスフレ・オムレツといい、たまごふわふわといい、どうも卵は、ふわふわにしたくなるもののようです。(写真出典:gnavi.co.jp)

2024年10月17日木曜日

サンスクリット

卒塔婆の梵語
中学の頃、教師が話してくれたサンスクリット語の話が、いつまでも頭に残っていました。仏様にあげる水を”閼伽(あか)”と言います。船底にたまった水も”淦(あか)”と言います。船底の水を掻き出すことを”あかくみ”と言います。一方、ラテン語や英語でも、水はaquaと言います。これらは、すべてサンスクリット語に起源があるから同じなのだ、というのです。世界史のダイナミズムに、心底、感動しました。しかし、この話はよく知られたまったくの俗説であることを、後に知りました。サンスクリット語は、3,000~3,500年前に成立したインドの聖典「リグ・ヴェーダ」で使われたヴェーダ語に始まり、文法的な整理が行われたうえで完成したとされます。

サンスクリットとは“正しく構成された”という意味だと聞きます。完成度の高い言語がゆえに、宗教の経典はじめ、文学、哲学等々で広く使われていきます。ヒンドゥー教や仏教の伝播とともに、インドはもとより、アジア一帯に広がっていき、各地の言語にも大きな影響を与えたようです。ゴータマ・シッダールタ(釈迦)が紀元前4世紀に入滅した後、弟子たちがその教えを広めていきますが、数百年間は口頭での伝承が行われ、仏典は存在しませんでした。文字は存在していたのですが、教えが人間から離れていくことを懸念した釈迦が文字化を禁じたとされます。口伝に使われた言語は、文語的なサンスクリットではなく、パーリ語などのプラークリットと呼ばれる俗語だったようです。紀元前1世紀頃になると、パーリ語等で仏典が編纂されていくことになります。

4世紀、グプタ朝が北部インドを統一すると、サンスクリット語が公用語とされます。以降、仏典もサンスクリット語で記されていくことになります。釈迦入滅後、弟子たちの間で釈迦の教えの解釈を巡る議論が起こり、部派仏教の時代を迎えます。大雑把に言えば、スリランカを経て南アジアに伝播した上座部、チベット経由で中国へ伝播した大乗に分かれるわけですが、大乗の経典は概ねサンスクリットで記載されていました。最初に仏典を漢訳したのはは、亀茲国の鳩摩羅什とされます。4世紀のことです。使われた原典はサンスクリットではなかったようで、旧訳とも称されます。5世紀以降、入竺求法僧が多くのサンスクリット仏典を持ち帰り漢訳します。最も有名なのが7世紀に入竺した唐の玄奘ということになります。

仏教は、6世紀、百済の聖明王によって日本にもたらされます。その後、遣唐使として入唐した僧たちによって、多くの仏典が持ち帰られ、サンスクリット語も渡来することになります。漢訳仏典には、サンスクリット語の発音を漢字に置換えた音訳も含まれています。従って、日本にも、仏教用語を中心にサンスクリット語の音訳が多く残ります。ウッランバナが盂蘭盆、ナモが南無、ストゥーパが卒塔婆、シャリーラが舎利、クシャナが刹那、また、一般化した言葉の例としては、ダーナが旦那、ナラカが奈落、クサンメがくしゃみ等があります。また、日本語の五十音は、サンスクリット語の音韻配列に基づいているとされます。ちなみに、今でも日本の卒塔婆の上部には、サンスクリット語で「地・水・火・風・空」と書かれています。

馬鹿という言葉は史記に由来するとされます。秦の滅亡を招いた大悪人・趙高は、ある時、自分の味方と敵をはっきりさせるために、宮廷に鹿を連れてきて、これを馬だと言い張ります。趙高は、鹿じゃないですか、と言った役人を皆殺しにします。馬鹿の起源として有名な話ですが、異論もあります。サンスクリット語で愚かを意味するモハの音訳”莫迦”を起源とする説もよく知られています。Google翻訳で調べてみると、馬鹿は、ヒンディー語でムルク、シンハラ語でムーネェ、ネパール語でムルカ、ベンガル語でボカ、インドネシア語でボド、韓国語でパボと言います。確かに、どこか似たような響きがあるようにも思えます。少なくとも、”あか”と”aqua”よりは納得感があります。(写真出典:ohno-inkjet.com)

2024年10月15日火曜日

アジア版NATO

第102代内閣総理大臣に就任した石破茂氏は、最近の自民党にあっては、なかなかに誠実な政治家だと思います。誠実さこそ、国民の付託を受けた国会議員に欠かせない資質だと思います。近年の自民党には、国民の声とも言える国会での議論やマスコミの取材に対して誠実に応えない風潮があり、実に嘆かわしいと思います。そういう姑息な政治家が党の中核を占める時代が続き、誠実な石破氏は孤立してきた面があると思います。それだけに、肝胆相照らす同志や有能なスタッフに恵まれない面があるのかもしれません。今般、明らかになった石破氏のアジア版NATO構想には、目が点になりました。総理を支えるアドヴァイザー不足が露呈したようにも見えます。

アジア版NATO構想には、素人でも分かる大きな問題があります。まずは、同盟国の危機に際して軍事力を展開することは日本国憲法に反します。NATOは、そもそもソヴィエト(ロシア)への軍事的抑止力として機能してきました。アジア版では、対中国・北朝鮮・ロシアということになるのでしょうが、中国の反撥は必至です。加えて、中国の横暴に眉をひそめるアジア各国であっても、経済的関係から全面対決は避けたいはずです。世界の覇権を中国と争う米国でも、軍事的対立を明確にすることは避けたいはずです。また、アジア版NATOとなれば、核の問題は避けて通れません。いずれにしても、アジア版NATO構想は、誰もが夢想するにしても、誰もが参加を望まない代物であり、白昼夢のようなものです。 

一政治家が夢想している分には許されるとしても、内閣総理大臣が口にすべきことではなく、ましてや検討を指示するなど首相の趣味に税金を使うようなものです。ストレートな軍事同盟を意味していないのであれば、誤解をさけるために別の名称を用いるべきでしょう。実現可能性がほぼゼロですから、今のところ、米中はじめ国際社会は、まったく相手にしていません。いかにスタッフ不足であっても、極めて優秀とされる石破氏がこのような状況を理解していないとも思えません。だとすれば、アジア版NATOを掲げる石破氏の真のねらいは何なのか、と勘ぐってしまいます。アジア版NATO構想の行き着く先には、憲法改正があります。以前から、石破氏は憲法改正論者であり、9条2項「戦力の不保持」を削除すべきと発言しています。

石破氏の発言は、軍事オタクのエキセントリックな発言と受け取られがちです。しかし、安全保障に関わる同氏の考え方は、極めて真っ当だと思います。誤解されるのは、、同氏の発言が、あまりにもストレートに過ぎるからではないかと思います。直接的な表現は、同氏の誠実さ、あるいは不器用さがゆえだと思います。万が一、石破氏が、アジア版NATO構想を憲法改正へのアプローチと考えているとすれば、同氏らしからぬことであり、安倍晋三並みの姑息さだと思います。こと憲法改正に関しては、国民を巻き込み、真っ正面から、時間をかけて議論すべきです。その議論こそが、国を正しい方向へと導き、真の政治を取り戻していくことにつながると思います。自民党も野党も、正面から取り組むべき課題や問題を先送りするばかりでした。それが日本を三流国家へ押しやってきた面があります。

総理を支えるアドヴァイザー不足という点に関しては、日本が直面する大問題の一つが透けて見えます。誤解を恐れずに言えば、官僚の弱体化という現象です。戦後日本の復興・発展を主導してきたのは官僚だったと言われます。日本の優秀な人材が霞ヶ関に集結し、政治とタッグを組んで日本を動かしてきたと言えるのでしょう。しかし、縦割り行政、組織権益への拘泥等が生んだ硬直化は、時代に取り残された官僚組織を生んだように思います。政治主導で、行政改革、働き方改革、悪名の高い内閣人事局などの対策が打たれてきました。それらの理念は間違っていないにしても、結果的には官僚の弱体化を招いたように思います。今や優秀な人材は民間や海外に流れているとも聞きます。官僚の弱体化は、国民にとっても、政治にとっても、不幸なことであることを、自民党は再認識すべきだと思います。(写真出典:hokkoku.co.jp)

2024年10月14日月曜日

ブラック・コーヒー

コーヒーは、子供の成長に悪影響があるというので、小学生の頃は飲ませてもらえませんでした。それだけに、子供も飲めるコーヒー牛乳は魅力的な飲み物だったように思います。コーヒー牛乳は、コーヒー味の甘い飲料であり、コーヒーではありません。コーヒーは、発育上の問題もあるのでしょうが、そもそも子供は苦味が大の苦手です。たっぷりの砂糖とミルクがなければ、とても飲めないと思います。もっとも、かつては大人でもコーヒーにミルクと砂糖を入れて飲んでいたものです。それが、時代とともに、かなり変わってきたというデータを見ました。

40年ほど前までは、砂糖とミルクを入れて飲む人が6割を超えていたのですが、最近では、ブラックが5割、ミルクだけが2割5分となり、砂糖とミルクを入れる人は2割程度にまで減ったようです。コーヒーを飲む文化が定着し、一般化したことが、その背景にあると言われます。コーヒーの味が分かるようになったというわけです。ただ、日本に輸入されるコーヒー豆の品質が良くなったこと、苦味が強かったインスタント・コーヒーの味が改善されたことも関係しているように思えます。また、日本発祥の缶コーヒーも、かつてはコーヒーではなくコーヒー飲料だけでした。ところが、1980年代にはブラック・コーヒー缶が発売され、人気を博します。データによれば、日本のブラック・コーヒー化が一段と進んだのは1990年代でした。

1996年に日本1号店を銀座に出したスターバックスの影響も大きかったのではないでしょうか。アメリカでは、1970年代あたりから、シアトルのコーヒー・ショップが、深煎りコーヒーを楽しむセカンド・ウェーブという流れを作ります。アメリカンとも呼ばれる浅煎りのコーヒーに慣れ親しんだアメリカ人にとって、深煎りコーヒーは新鮮な味だったのでしょう。日本に上陸したスタバは、おしゃれな雰囲気もあって、瞬く間に日本中に店舗を拡大します。現在、スタバは、全都道府県に、約2,000店舗を展開しています。スターバックスは、アメリカだけでなく、欧州以外の国に深煎りコーヒーの味を広めたとも言えます。2000年代に入ると、コーヒー豆の産地にこだわるサード・ウェーブが登場します。深煎りコーヒーへの反動だったかもしれません。

2015年、カリフォルニア州オークランド発祥のブルーボトル・コーヒーが清澄に店を出し、サード・ウェーブを日本に伝えました。コーヒー豆の品種や産地の違いを楽しむというサード・ウェーブの流行が、ブラック・コーヒー派の拡大に寄与したのかもしれません。また、ブラック化には、高齢化が大きく関係しているという説もあります。人は年齢とともに苦味に鈍感になっていくのだそうです。確かに、データを見れば、高齢になるほどブラック・コーヒー派が多くなります。もう一つの大きな要因は、健康指向の高まりではないかと思います。かつて喫茶店のテーブルには、角砂糖やブラウン・シュガーが置かれていました。ある時期から人工甘味料が加わりましたが、今では卓上の砂糖類はほとんど見かけません。

面白いことに、日本でブラック・コーヒーと言えば、砂糖もミルクも入れないコーヒーを指します。ところが、欧米では、ミルクを入れないのがブラックであり、砂糖を入れてもブラック・コーヒーと呼ばれます。まったく好みの問題ではありますが、個人的には、酸味を楽しむならブラック、コクを楽しむならミルク入り、だと思っています。いずれにしても、コーヒーの楽しみ方は、世界各地、実に様々です。コーヒーに加えるものと言えば、概ね、砂糖、ミルク系、スパイス類が代表的なものとなります。他にも、リキュール類、卵(エッグ・クリーム)等もあります。また、フレイバー・コーヒー、さらには紅茶とのブレンドまであります。各地の気候・風土にも依るのでしょうが、豆の種類や入れ方とも関わって多様性が生まれたものと思われます。(写真出典:tabelog.com)

2024年10月13日日曜日

「私生活」

監督:ルイ・マル    1962年フランス

☆☆☆+

近年、古い映画の4Kデジタル・リマスター版が、相次いで劇場公開されています。今年、ブリジット・バルドーが90歳を迎えたことを記念して、彼女の映画の4Kデジタル・リマスター版特集が、テアトルシネマ等で上映されました。そのなかの一本、ルイ・マル監督の「私生活」(1962)を見てきました。ブリジット・バルドーは、”BB(ビビ)”と呼ばれます。イニシャルとフランス語の赤ん坊を掛けた愛称です。BBは、1950年代後半から60年代にかけて、世界中で最も人気のあった女優の一人でした。ただ、1973年、40歳を前に引退しています。私が見たBBの映画は、1960年代後半からの2~3本に限られます。あの個性的な顔は一度見たら忘れることはありませんが、どの映画でも同じ顔だったとも言えます。

BBは、俳優でも、歌手でもなかったように思います。時代を象徴するアイコン、あるいはアイドルだったのだろうと思います。演技力や歌唱力の高みを目指そうなど、思ったこともなかったのではないでしょうか。そのことがBBの魅力の本質につながっているとも思います。セックス・シンボル、ニンフ、小悪魔等々といったBBのキャッチ・フレーズは、配給会社とマスコミが作ったイメージですが、これが実に効果的にBBの人気を高め、かつ、ありままのBBを提示するだけで商売ができる仕組みを構築したとも言えます。BBの実体は、金持ちの高慢でわがままなお嬢さんということなのだろうと思います。猫のような顔立ちと不機嫌そうな表情は、いつも世間や周囲に対して”Non”と言っているかのように見えます。

際だって高い自立心、あるいは軽やかな反逆性こそがBBだ、と言ってもいいのでしょう。そういったオーラを持つ女優は初めてであり、それが時代の空気を象徴していたからこそ、BBは大人気になったのだと思います。「私生活」は、BBが女優になった経緯、大人気ぶりとそれが生んだ苦悩といった実生活を下敷きに構成されたフィクションです。ルイ・マルは、実に面白いことを考えついたものだと思いますが、BBのキャラクターに惚れ込んでいたからこそ生まれた発想だとも思います。ルイ・マルもお金持ちの生まれですが、24歳でドキュメンタリー「沈黙の世界」(1956)を撮り、いきなりカンヌでパルムドールを獲ります。1958年には、自費で「死刑台のエレベーター」を撮り、長編映画デビューしています。

「死刑台のエレベーター」は、ジャンヌ・モローの個性的な表情、緊張感を生む手持ちカメラ、マイルス・デイビスの即興演奏による音楽も含め、初期ヌーベル・ヴァーグの傑作とされます。ルイ・マルは、五月革命の際、ゴダールやトリフォー等とともに、過激な言動を行ったことでも知られます。その後、アメリカに渡り、11歳だったブルック・シールズが娼婦を演じて話題となった「プリティ・ベビー」(1978)、ヴェネツィアで金獅子賞を獲った「アトランティック・シティ」(1980)、同じく金獅子賞を獲った自伝的映画「さよなら子供たち」(1987)等を撮りました。幅広い映画を撮ったことで折衷的とも言われるルイ・マルですが、その斬新で巧みな映画文法にはいつも感心させられます。「私生活」も巧みに構成された映画だと思います。

映画の後半は、スポレート・フェスティバルを舞台にしています。スポレートは、ローマの東、ペルージャ県の古い町です。その歴史は、古代ローマにまでさかのぼります。1958年から開催されている”二つの世界の祭典”は、オペラ、映画、音楽、ダンス等幅広いジャンルで構成されます。イタリアを代表する総合芸術祭と言われます。かつて、ビスコンティ、ゼッフィレッリ、ポランスキーといった映画人がオペラの演出を手がけたことでも知られます。一度は行ってみたい芸術祭ですが、チケットの入手、ホテルの確保は至難と聞きます。映画を撮影した頃、芸術祭はまだ始まって数年だったわけですが、ルイ・マルはいいところに目を付けたものだと思います。町が醸す良い風情と芸術祭の興奮が映画を引き立てています。(写真出典:moviewalker.jp)

2024年10月12日土曜日

梨園

若い頃、一時期ですが、歌舞伎座に通ったことがあります。といっても幕見専門でした。幕見とは、一幕だけを最上階の4階、いわゆる天井桟敷から見るチケットです。もう40~50年前のことですが、料金は4~500円だったと記憶します。幕見ですから、一幕で入れ替えになるわけですが、混んでいなければ、追加料金なしで続けて何幕も観ることもできました。その当時は、片岡孝夫と坂東玉三郎、いわゆる孝玉コンビが大人気でした。この二人が演じる世話物の艶やかさは語り草になっています。同じ頃、大評判を取っていたのが、三代目市川猿之助、後の二代目市川猿翁の宙乗りでした。宙乗りのロープは、幕見席の端の囲われた一角から伸びていました。幕見席は、猿之助のケレンを、他の観客とは異なるダイナミックな角度から見ることができたわけです。

ケレン(外連)とは、道具などを使った奇抜で派手な演出を指します。宙乗り、早替わり、仕掛け物などがあります。明治期以降は、演技や踊りといった芸道の本筋から外れたごまかし、邪道として扱われてきました。それを昭和の舞台に復活させたのが猿之助でした。歌舞伎界や評論家からはサーカスまがいなどと非難が殺到しますが、観客からはヤンヤの喝采を受け、歌舞伎人気を大いに盛り上げました。また、猿之助は、現代歌舞伎とも言えるスーパー歌舞伎を創作したことでも知られます。第1作は、哲学者の梅原猛が脚本を手がけた「ヤマトタケル」でした。古典とモダンを融合した派手な舞台、衣装、音楽は、世間の度肝を抜いたものです。海外からも絶賛された猿之助は、オペラの演出なども手がけ、世界的な活躍を見せました。

猿之助の派手な演出は、歌舞伎界が忘れていた芝居本来の姿への回帰だったと思います。歌舞伎の舞台は、古典芸能の高尚な鑑賞会ではありません。本質的には、客を沸かせてナンボ、という庶民的な興行の世界です。また、驚かせて終わりなら、まさにサーカスや奇術ということになりますが、想定を超えた驚きによって観客を一気に芝居の世界へと没入させる効果も大きいと思います。江戸期の歌舞伎は大人気でしたが、一方で、役者は河原者と軽蔑され、売春も当たり前という世界でした。明治になると、脱亜入欧を図る政府によって演劇改良運動が提唱されます。運動自体は、行き過ぎも揺り戻しもあって、成功とまでは言えなかったようですが、歌舞伎の近代化や地位向上には効果がありました。ただ、そこで本質が忘れられた面もあったわけです。

歌舞伎界、とりわけ団十郎を代々襲名する市川宗家を頂点とする門閥は、梨園とも呼ばれます。梨園とは、唐の玄宗皇帝が、梨を植えた庭で、自分好みの音楽や演劇を芸人に指導したことから生まれた言葉だとされます。歌舞伎界の別称として使われたのは明治期からのことだったようです。当初は、差別的な意味合いをもって使われていたようです。それが、いつの頃からか、俗世界とは隔絶された、何やら高貴な世界といった使い方に変わりました。どうにもこの使い方には違和感を覚えてしまいます。恐らく、戦後のいい加減なマスコミが誤って使い始め、一般化した言葉なのでしょう。門閥制度は悪いことばかりではないのでしょうが、新たな才能を拒むことで歌舞伎界全体を衰退させていく懸念もあります。

歌舞伎の歴史の中で、門閥外から座頭になったのは、江戸中期の初代中村仲蔵、幕末の四代目市川小團次の二人だけです。坂東玉三郎も、東京の料亭の息子であり、門閥外ですが、その芸が見込まれ、14歳で十四代目守田勘弥の芸養子になっています。人間国宝の六代目中村東蔵も門閥外の出身ですが、六代目中村歌右衛門の芸養子になっています。この芸養子、あるいは養子という仕組みが、門閥外の才能を取り込み、かつ門閥制度を保つ仕組みになっていると言えます。ちなみに、歌舞伎に変革をもたらした三代目猿之助は門閥外の才能を発掘し、育てることにも熱心だったことが知られています。なお、問題を起こした四代目猿之助は、三代目の甥です。三代目の実子は香川照之/市川中車ですが、複雑な事情で四代目を継いでいません。このあたりは実に梨園らしいとも思います。(写真:二代目市川猿翁 出典:ja.wikipedia.org)

家作