2024年3月27日水曜日

写経

定年後から書道を始めた先輩が、朝聞書展に入選したというので、友人達と東京都美術館に出かけました。書は美しいとは思うのですが、正直なところ、書道展へ行くこともなければ、美術展で書があっても素通りしていました。今回は、先輩の解説付きとなり、ほぼ初めて、じっくりと鑑賞させてもらいました。やはり、書はいいものです。少し興味がわき、やってみたくなりました。書の経験と言えば、小学校の授業くらいしかありません。字はへたくそにも関わらず、賞をもらったこともあります。先輩は、やるのであれば、いきなり教室ではなく、写経から始めてみたらどうか、というアドバイスをもらいました。もともと、写経にも、興味があったので、やってみようかと思いました。

写経は、印刷技術のなかった古代、経典の写しを作り、仏教を広めるために行われました。同時に、写経は、仏典を書き写す作業を通じて、仏教を体得するという修行でもあります。また、後代になると、供養という意味合いも持つことになり、今日に続きます。日本における写経は、673年、飛鳥の川原寺に始まったとされます。仏教が隆盛する天平の頃には、朝廷に写経を専門に行う役所も設置されていたようです。今で言えば、政府の直営印刷所というわけです。近年は、遍路や御朱印といったいわば仏教ツーリズムの一環として、多くの寺で参拝客が写経する姿が見られます。現代の写経は、修行、供養というよりも、心の安らぎを得るために行われているのでしょう。

身を清め、香を焚き、姿勢を正して合掌し、心静かに写経する。その静謐な世界に心引かれます。まずは、入門セットを購入しようと思った折も折、友人から、塗り絵を何枚描いてくれと頼まれました。会社のキャンペーンで集めているとのことでした。塗り絵くらいならと思い協力しました。送られてきたのは見事な手本と線画でした。色鉛筆もかなりの色が必要だとは思いましたが、コストを掛けたくなかったので12本入りを用意しました。ところが、問題は色鉛筆の本数ではありませんでした。フォルムは線画に沿えばいいのですが、色とグラデーションは個人の判断になり、そこが絵の印象を大きく左右します。とても難しく、1枚に4時間ほどかかりました。それも、完成して終えたのではなく、これ以上は無理と諦めた次第です。

対して、写経入門編は、手本をなぞり書きするだけなので、できるだろうと思いました。甘かったとしか言いようがありません。写経体と呼ばれる字体で書かれた手本は、一文字が小さく、柔らかさもある筆でなぞるのは、なかなか難しいわけです。結局、手本をなぞるために、紙に覆いかぶさるように目と筆を近づけて書くことになります。まるで、棟方志功が木版を彫っているような姿です。背筋を伸ばし、凜とした風情で写経する姿からすれば、まるで対極とも言えます。もはや写経ではありません。要は、般若心経に向かい合うのではなく、手本をなぞることが目的になってしまったわけです。慣れの問題かもしれませんが、書道の基本から始めないと無理だと理解しました。

老人は、心と体の健康を保つために、ある程度、習慣化された日常を送ることが大事なのだろうと思います。体の健康だけなら、週2~3度ジムへ通う方法もありますが、70歳を超えたら、軽めのメニューを毎日行う方が健康、体力維持には適しているように思います。同じように、心の安定を保つためには、無理のない文化的活動を毎日行うことが大事だろうと思います。いずれも習慣化することこそが大事ななのだと思います。私は、65~70歳の間、これまでできなかったことを好き放題にやってきました。そろそろ習慣化された日常を持ちたいと思い、写経にも挑戦してみたわけです。ただ、残念ながら、写経が私の日常になることはなさそうです。他にも、いくつかアイデアはあるので、順次、挑戦してみたいと思っています。(写真出典:butsudanyasan.net)

2024年3月25日月曜日

「ヴェルクマイスター・ハーモニー」

監督:タル・ベーラ   2000年ハンガリー・ドイツ・フランス   4Kレストア版

☆☆☆☆

タル・ベーラの代表作と言えば、「サタンダンス」(1994)や「ニーチェの馬」(2011)ですが、いずれもハンガリーの作家クラスナホルカイ・ラースローの小説が原作でした。本作もラースローの代表作とされる小説「抵抗の憂鬱」が原作になっています。ハンガリーの荒廃した田舎町での出来事が、ハンガリー動乱、あるいは歴史に翻弄されるハンガリー国民のアレゴリーとして描かれています。145分という長尺映画ですが、独特なロング・ショットで知られるタル・ベーラの作品としては、サタンタンゴの438分には及ばず、ニーチェの馬の154分と同レベルであり、これがタル・ベーラの標準なのでしょう。ちなみに、タル・ベーラは、ニーチェの馬をリリースした後、映画監督からの引退を表明しています。

タイトルの「ヴェルクマイスター・ハーモニー」は、17世紀ドイツの音楽理論家アンドレアス・ヴェルクマイスターの和声理論を指します。ヴェルクマイスターの対位法は、バッハにも影響を与えたとされます。作中、老音楽家のエステルは、ヴェルクマイスターの和声理論を批判します。門外漢には、なかなか理解しにくい楽理の話です。ヴェルクマイスターやバッハの建築学的な音楽は西欧文化を代表します。一方、西欧とは異なる民族と文化を持つハンガリーには、チャルダーシュのように東西の文化が融合した独自の音楽があります。ハンガリーが、優れた音楽家を多く輩出する背景でもあります。エステルによるヴェルクマイスター批判は、ハンガリーのナショナリズムや欧州における立ち位置を象徴しているのでしょう。

アレゴリーとしての本作には多くのメタファーが散りばめられています。サーカスによって街に持ち込まれたクジラとプリンスは印象的です。大きなクジラは民主主義、外国語でアジテートするプリンスは周辺国を象徴しており、外的要因に影響を受けやすいハンガリーの地勢に関わるメタファーなのでしょう。最も象徴的なのは、暴徒と化した群衆が襲った病院で見つけた老人です。丸裸の老人が、バスタブに弱々しく立っています。暴徒たちは、老人の前に立ちすくみます。老人はハンガリー、あるいはハンガリー人そのものなのでしょう。無力な我が身を見せつけられたことで、暴徒の熱狂は消え去ります。実に自虐的ですが、これがハンガリーの現実であり、ハンガリー動乱だったということなのでしょう。

第二次大戦後、ソヴィエトの衛星国となったハンガリーでは、ソヴィエト型の国家運営がなされます。経済は破綻状態に近く、農村は過度な集団化で疲弊します。スターリン没後、フルシチョフがスターリン批判演説を行うと、1956年、同じ衛星国であるポーランドで反ソ暴動が勃発します。それに刺激されたハンガリーの民衆は、同じ年、反ソヴィエト、反政府暴動を起こします。すると、ソヴィエトは2,000台の戦車を含む軍を投入し、ブダペストを制圧します。民衆の死者は17,000人にのぼり、20万人が国外へ難民として脱出したとされます。ハンガリー動乱は、ソヴィエトの抑圧への反撥だったのか、経済的苦境を招いた政権への反撥だったのか、あるいは自由主義を求める戦いだったのか、今も議論があるようです。

暴動が収まった広場で、主人公ヤーノシュは暴徒の日記を見つけます。そこには「我々は何に怒っていたのか分かっていなかった」と書かれています。実に象徴的です。共産党政権は、ハンガリー動乱を歴史のタブーとして長らく国民に隠していました。1980年代後半、ペレストロイカとともに東欧の改革も進み、民主化されたハンガリー政府は、1989年、ハンガリー動乱の再評価を行っています。同年、ハンガリー政府は国境の鉄条網を撤去します。すると自由を求める東ドイツ国民が大量に徒歩で国境を越えて入国し、さらにオーストリアへと脱出していきます。いわゆる「汎ヨーロッパ・ピクニック」です。これがベルリンの壁崩壊、東西冷戦の終結へとつがりました。(写真出典:bitters.co.jp)

2024年3月23日土曜日

山椒大夫

アニメ版「安寿と厨子王丸」は、小学生の頃、先生に引率されて映画館で見た記憶があります。1961年の映画ですから、恐らく封切りではなかったと思われます。当時は、たまに映画館、体育館、あるいは夜の校庭で映画を鑑賞するという学校行事があったものです。学校行事として映画館で見た記憶が鮮明に残っているのは市川崑監督の「東京オリンピック」(1965)、そして熊井啓監督の「黒部の太陽」(1968)です。さて、「安寿と厨子王丸」ですが、過酷な運命に翻弄され、虐待を受ける姉弟が可哀想で、とても嫌な印象だけが残ったことを覚えています。その印象は、今も変わりません。

元になった話は、丹後国由良(現宮津市)の伝承「さんせう太夫」であり、鎌倉期以降、説経節、浄瑠璃、歌舞伎等の演目になります。様々なバージョンがありますが、最もポピュラーなのは森鴎外の小説「山椒大夫」だと思われます。以降の作品は、鴎外版をさらに脚色したものです。オリジナルである「さんせう太夫」のあらすじは次のようなものです。奥州の大守岩城判官正氏は、讒言によって筑紫に流されます。妻と姉弟は、正氏を追って旅に出ますが、直江津で人買いにだまされ、母は佐渡に、姉弟は由良の山荘太夫に売られます。姉は弟を逃がし、拷問されて死にます。弟は上洛し、朝廷に訴え出て父の罪を晴らします。父は死んでいたので弟が奥州の領地を相続し、山荘太夫を懲らしめ、盲目となった母にも巡り会います。

「さんせう太夫」は、アリストテレスが言う悲劇のカタルシスを生む構造を持っていると思います。カタルシスは、強い感情を経験することによって得る安堵感や解放感を意味し、精神を浄化する効果があるされます。これが、山椒太夫の人気の源なのでしょうが、どうも終わり方がスッキリせず、悲惨さだけが印象に残るように思います。悪者がすべて徹底的にやっつけられていないことも原因の一つかも知れません。ただ、スッキリしない最大の理由は、安寿の命が助からないこと、巡り会えたものの母が盲目になっていること、父も既に没していたこと等ではないかと思います。つまり、厨子王丸は復讐を果たすものの、決して単純明快な復讐劇ではなく、むしろ、運命に翻弄される悲惨な人生がテーマのように思えます。

この構図は、いわゆる本地物の特徴そのものなのでしょう。本地物は、神仏の縁起、あるいは御伽草子に多く見られるスタイルであり、人間として様々な苦しみを経験し、それを契機に神仏になるという構成を持ちます。最も有名なのは熊野権現の縁起を語る御伽草子「熊野の本地」だと思われます。悲惨な生い立ちをもつ天竺の王子が上人に助けられ、日本に渡って熊野権現になるという話です。本地物は、平安末期の神仏習合思想を背景に生まれた本地垂迹説に由来するとされます。本地は仏であり、神様は仏の仮の姿(権現)とする考え方です。武家の台頭とともに、社会的混乱が広がった時代、世相に翻弄される民衆は、我が身を本地物に重ね、癒やしとしていたのでしょう。

”さんせう”は「散所」であり、公的管理体制から外れた人々を意味するとされます。社会の底辺で過酷な雑役等を行っていたアウトカーストです。その仕切役は長者や太夫と呼ばれていたようです。さんせう太夫は、散所の間で生まれ、広がった伝承という説もあるようです。山椒大夫ゆかりの地と言えば、宮津、直江津ですが、福島市と弘前市もよく知られています。ともに姉弟の父である岩城判官・平正氏の領地だったというわけです。岩木山には古くから安寿が祀られています。祀られることになった経緯はよく分かりません。また、かつて津軽地方には「丹後日和」という言葉があり、丹後の人が津軽に入ると、安寿が不機嫌になり天気が悪くなるとされていたようです。さんせう太夫の影響力の大きさに驚きます。それは社会から虐げられてきたアウトカーストの怨念の強さなのかも知れません。(写真出典:amazon.co.jp)

2024年3月21日木曜日

パインタラ事件

出口王仁三郎
白音太拉(パインタラ)は、現在の内モンゴル自治区通遼市郊外にあります。1924年、満州からモンゴルへ向かっていた大本教の聖師・出口王仁三郎一行、そして同道していた馬賊・盧占魁率いる西北自治軍は、張作霖の指示を受けた奉天軍に捕らえられます。盧占魁と西北自治軍は銃殺され、王仁三郎一行6名も銃殺されそうになります。ところが、すんでのところで駆けつけた日本領事館員、実態は帝国陸軍によって救出されます。一行の急を告げたのは日本人旅行者とされますが、秘密裏に王仁三郎の後を追っていた陸軍の諜報員だったとも言われます。軍閥時代の混乱のなかにあり、利権拡大を目論む帝国陸軍や大陸浪人が暗躍していた時代の満州にあっては、極めて異例な事件と言えます。

王仁三郎が大陸に渡ったのは、不敬罪を問われた第一次大本事件直後であり、その目的は「東亜の天地を精神的に統一し、次に世界を統一する」ことであり、最終目的地はエルサレムだったようです。気宇壮大な話とも、誇大妄想的な話とも言えます。教団の組織的な引き締めをねらったのかも知れません。「大本」、通称大本教は、1892年、京都府綾部の貧しい老女・出口なおが開教した神道系の新興宗教です。突如、国之常立神(くにのとこたちのかみ)が憑依した出口なおは、文盲にも関わらず、自動筆記によって数々の予言をし、また病気治療も行ったと言われます。出口なおに心酔した王仁三郎は娘婿となり、なおと二人で教団を立ち上げます。王仁三郎の人間力と経営の才覚によって、大本教は急拡大し、軍幹部、知識人、そして宮中にまで信者を広げます。

記紀で神世七代の最初の神とされる国之常立神が復活し、世の立替え(終末論)と立直し(理想世界建設)を行うという大本教の教えは、一神論的でもあり、王仁三郎は”一神即多神即汎神”とも”万教同根”とも言っています。こうした宗教的背景を持ち、かつ教団を急拡大させた自らの神通力に相当の自信があったこと、そして愛国主義に基づく教団の右傾化、各国の宗教団体との交流、特に中国の赤十字とも言われる”世界紅卍会”との親密な関係が、大陸進出につながったのでしょう。いずれにしても、王仁三郎の大陸進出の意図は、宗教に根ざしたものであり、政治とは無縁だったと言えます。張作霖も、当初、王仁三郎に匪賊討伐委任状を与えています。しかし、モンゴルの統一独立も王仁三郎の計画の一つであると知り、捕らえることになりました。

張作霖の判断は、王仁三郎の軍部への影響力、右翼の巨魁たちとの交友も踏まえたものだったと推察されます。無事、帰国した王仁三郎は、国粋主義的な言動を拡大し、その影響力を危惧した政府は、1935年、治安維持法違反と不敬罪をもって再び大本教を徹底弾圧します。教団施設は取り壊され、王仁三郎は無期懲役の判決を受けます。ただ、1942年に至り、純然たる宗教団体であることが認められ、治安維持法違反に関しては無罪となります。不敬罪は残りましたが、戦後、法律改正によって不敬罪そのものが無くなりました。戦後、大本教は教団規模を縮小し、王仁三郎も陶芸に勤しんだようです。なお、王仁三郎は”芸術は宗教の母なり”とも言っており、その陶芸も高く評価されているようです。実に多才な人だったわけです。

パインタラ事件の際、王仁三郎一行のなかに、紀州出身の合気道創始者・植芝盛平もいました。柔術と剣術に優れた植芝は、陸軍除隊後、紀州北海道開拓団長として道東の遠軽に入植します。ある時、旅館で大東流の創始者・武田惣角と偶然居合わせた植芝は、武田の技に魅せられて弟子入りし、免許皆伝を受けるまでになります。1919年、父危篤の報を受けた植芝は、急遽帰郷しますが、その途中、王仁三郎の噂を聞きつけ、父の病気平癒を願って綾部を訪れます。王仁三郎に心酔した植芝は、綾部に移住し、武術指南をするとともに、王仁三郎の側近になります。そこで、王仁三郎から、自分の武術をやりなはれ、と言われた植芝は合気道を創始することになりました。体力に関係なく、相手を傷つけずに制する合気道は、大本教の精神が生んだ武術と言っていいのでしょう。(写真出典:ja.wikipedia.org)

2024年3月19日火曜日

「デューン 砂の惑星 PART2」

監督:ドゥニ・ヴィルヌーヴ        2024年アメリカ 

☆☆☆☆

実に見事な映像、音響、音楽でした。ただ、ドラマ的に見れば、やや表面的になった面があります。とは言え、SFの頂点に立つ「デューン」は壮大すぎて映像化不可能と言われていたこと、そして幾たびも映像化に失敗していることを考えれば、十分以上の出来だと思えます。全てとは言いませんが、デューンの深遠な世界が伝わる翻案だと思います。やはり、「デューン」の完全な映像化は困難、と言えるのかも知れません。今回、ドゥニ・ヴィルヌーヴが映画化したのは、フランク・ハーバートのデューン・シリーズ全6巻のうち、1965年に発刊された第1作です。まともに映画化するなら、恐らく5倍くらいの尺が必要になるのでしょう。TVシリーズ向きとも言えますが、TVの予算では再現不可能な壮大さだと思います。

2021年にPART1が公開された時には、ドゥニ・ヴィルヌーヴのチャレンジは半ば成功しつつあると思いました。というのも、見事な映像化ながら、あくまでも前半部分だけというフラストレーションがありました。PART1で最大の懸念事項は、そのヒットがPART2製作の条件とされたことです。ヒットしなければ、PART1は、デューンは映画化困難という歴史に新たなページを加えることになっていたはずです。映画化への最初の挑戦は、1975年、アレハンドロ・ホドロフスキーによる壮大な計画でしたが、配給元が決まらず頓挫。その経緯は、ドキュメンタリー映画にもなります。その後もTVシリーズは別として、映画の企画は頓挫を続け、初めて映画化されたのは1984年のデビッド・リンチ作品でした。ただ、結果は映画史に残るほどの悲惨なものでした。

デビッド・リンチ作品は、不幸にも予算面を中心とするプロダクション・サイドとの軋轢、そして技術的な限界がありました。この40年における技術的進化は大きく、かつ本作のテクニカル・チームは、PART1でアカデミー賞も多数獲得した凄腕揃いです。また、映画館の映写技術も音響装置も格段に進歩しています。キャストで言えば、ドラマ的展開に限界があるなか、ティモシー・シャラメの苦悩や複雑さを伝える演技は上出来だと思います。風変わりな子役だと思っていたゼンデイヤが、本作には欠かせないほどの存在感を見せています。一番驚いたのが、皇帝役でクリストファー・ウォーケンが登場したことです。個人的には大ファンですが、彼が画面に登場した瞬間、映画は実に映画らしくなると思っています。

時間的制約もあって、ドラマとしての深掘りができなかったことに関して、もったいないと思ったことがあります。ポールとハルコネン家との関係です。ポールの選ばれし者としての苦悩の描き方も、やや薄いところがありました。ただ、ポールの複雑な性格に関しては、もう少し丁寧に描写すると映画の奥深さが増したのではないかと思えます。そのために活用すべきだったのは、ポールとハルコネン家との血縁関係だと思います。スター・ウォーズは、ルークとダースベイダーとの関係を中心とするスカイウォーカー家の物語であることが、映画に普遍性と深みを与えています。神話ベースの物語であるスター・ウォーズと、人類が直面する苦悩を哲学的に描くデューンでは、アプローチに大きな違いがあるわけですが、ポールとハルコネン家の関係というモティーフは、ドラマにとって極めて重要な要素だったと思います。

かつて「ゲーム・オブ・スローンズ」(2011~2019)にハマり、毎年、新シーズンを心待ちにしていました。原作の良さもありますが、細部にこだわった徹底的な作り込みにも感服しました。最も驚いたことの一つが、シリーズのために創作されたドスラク語・高地ヴァリリア語等の言語です。作ったのは、プロの言語制作者であるデヴィッド・ピーターソンという人です。本作でも、彼がこの映画のために作ったチャコブサ語が頻繁に使われています。役者たちは、徹底的に覚え込まされたようです。単語だけ創作するのであれば、楽なものです。しかし、体系的な言語として成立させるとなれば、その労苦は並大抵のものではないと思います。監督はじめ制作陣は、既にシリーズ3作目の準備に入っているようです。原作の第2巻がベースになるようですので、引き続きチャコブサ語も活用されるはずです。(写真出典:warnerbros.co.jp)

2024年3月17日日曜日

チャジャンミョン

韓国の人たちがこよなく愛するチャジャンミョンを初めて食べたのは、十数年前、ソウル近郊のゴルフ場でのことした。その日は、スルー・プレイをしたのですが、ハーフウェイ・ハウスで勧められたのがチャジャンミョンでした。韓国のソウル・フードですが、韓国に行くと接待を受けたり、お目当ての店があったりと、庶民的なカルグクスやチャジャンミョンを口にする機会はなかなかありませんでした。真っ黒な見た目は異質ですが、基本的には炸醤麺(ジャージャンミェン)だと思いながら食べました。ところが、あまりの甘さに驚きました。数年前に、韓国映画を見ていたら、無性に食べたくなり、店を探しました。ところが、韓国式の中華料理という性格上、日本では、韓国料理店でも中華料理店でもメニューにはありません。

新大久保にはあったのでしょうが、地元や都心で見かけることはありませんでした。ところが、地元で、中国人経営の店のランチ・メニューとして看板が出ているのを見つけました。店は、完全な中華料理店ですが、恐らくオーナーが中国北東部出身の朝鮮族の方なのだと思います。奇跡だと思い、早速食べて見ました。これがなかなか美味しいわけです。麺を食べた後、小ライスをもらい、残ったソースに混ぜたところ、これも美味しくいただけました。チャジャンミョンは、炸醤麺から派生したとは言え、まったく異なる料理です。韓国におけるチャジャンミョンの歴史は、1882年、李氏朝鮮で勃発した壬午軍乱に始まるとされます。鎖国攘夷派の大院君が、軍人の不満を利用して、開国派の閔氏政権転覆を謀った事件です。

壬午軍乱が起きると、清国軍と日本軍が介入します。清が、事実上、朝鮮を支配すると、山東省から多くの華僑が半島に渡ってきます。炸醤麺は、山東省の家庭料理だったこともあり、韓国でも知られるようになります。第二次大戦後、韓国政府は華僑を弾圧します。華僑は出来る商売が限定され、中華料理店が一気に増えます。ここで、韓国人の口にあうチャジャンミョンも完成したのでしょう。チャジャンミョン普及の背景としては、政府が代金を統制し安価に食べられたこと、米国から無償の小麦が大量に流入したこと、そして高度成長期に出前が一般化し、出前に適した汁なしのチャジャンミョンが人気となったこと等があるとされています。韓国のチャジャンミョンには、山東省華僑の苦難の歴史があったとも言えます。

同じように炸醤麺から派生したものとして、盛岡名物じゃじゃ麺があります。わんこそば、冷麺と並び、盛岡三大麺の一つとされます。麺に甘辛の肉味噌ときゅうり等を乗せて食べます。麺を食べ終わると、茹で汁と玉子を入れて鶏蛋湯、略してチータンと呼ばれるスープにして食べます。何度か発祥の店「白龍」で食べましたが、特に感動はしませんでした。辛味の強い炸醤麺と甘いチャジャンミョンの中間くらいに位置する感じです。麺は平打ち麺が使われます。チャジャンミョンは、中国式の手で伸ばした麺、いわゆる拉麺が使われます。本場中国の炸醤麺は切麺を使うことが特徴とされます。炸醤麺は、明朝末期に起こった李自成の乱の際、反乱軍が軍用食として考案したとされます。戦場ではのんびり手延べなどできなかったのでしょう。

今般、ネット通販でインスタントのチャジャンミョンを買ってみました。これも悪くないわけです。タマネギを刻んで加えれば、なかなかのものになります。ソースも美味しいのですが、麺がいい仕事をしています。韓国のインスタント・ラーメンの麺は優れものだと思います。日本のインスタント・ラーメンの麺は、生麺に近づけることだけを目標に進化してきたように思います。韓国の場合、あくまでもインスタントの世界のなかで麺を進化させてきたように思います。日本でも、ペヤングのソース焼きそばは、インスタント麺の道をまっすぐ歩んできたと思います。ペヤングのソース焼きそばに甜麺醤をかけて食べると、チャジャンミョン的になるのではないかと思います。(写真出典:seoulnavi.com)

2024年3月15日金曜日

兜町の風雲児

十年以上前だと思いますが、用があって兜町に行った時のことです。立派なスーツにネクタイをまとった40歳過ぎと思しき男性が、全身ずぶ濡れでヨタヨタ歩いていました。あまりにも異様な光景に、思わず立ち止まってしまいました。ところが、兜町の人たちは、男性を完全に無視して、普通に行き交っていました。場所柄から想像するに、大博打に打って出た相場師が、勝負に負けて全財産を失い、やけになって日本橋川に飛び込んだか、頭から水をかぶったのではないか、と思いました。周囲の人たちの冷静さからすれば、今でもこういう人がたまに現れる街なのだと感得した次第です。法規制が強化され、ハイテク化されたとは言え、株式市場は、依然、露わになった人間の欲望がうごめく恐ろしい世界だということです。

数年前、葛飾区で木造アパートの一室が燃え、男性の遺体が発見されます。悲惨な話ですが、人目を引くようなニュースではありませんでした。数日後、遺体は、かつて”兜町の風雲児”とも呼ばれた伝説の相場師・中江滋樹だったことが判明します。ニュースにはなりましたが、決して大きな扱いではありませんでした。中江は、1954年、近江八幡で、証券会社に勤務する父のもとに生まれます。父の影響か、中学時代には独自のチャートをつけ、高校では授業中に短波放送で市況を聞き、休み時間には電話で売買を発注していたといいます。儲けも得ていたようです。高校卒業後は、名古屋の投資顧問会社で働きます。極貧の生活を送りながらも投資では稼ぎ、会員向けに株価予想レポートを送るビジネスを始めます。

大阪の北浜界隈では、これがよく当たると評判をとり、1978年には東京で「投資ジャーナル社」を設立します。中江の推奨銘柄は”N銘柄”と呼ばれるほど注目され、出版する雑誌類も大いに売れます。一躍、脚光を浴び、集めた大金を動かし始めた中江は、政財界の要人や芸能人に交友関係を広げ、毎夜、銀座で豪遊します。若くて、髪を長く伸ばし、髭を蓄えた中江は、正に兜町の革命児といった風情でした。ただ、外見や交友は、すべて投資家を増やすためのパフォーマンスだったという見方もあるようです。1984年、中江は大きな賭に出ます。ある化学メーカーに狙いを定めた中江は、膨大な資金を集めます。ところが株価は思うように上がらず、N銘柄全般への不信感も広がります。ついに資金を回せなくなった中江は、詐欺の疑いで逮捕されるに至ります。

実は、中江逮捕の前日、日本中を震撼させた大事件が起きています。被害総額2,000億円という巨大詐欺事件を起こした豊田通商の永野社長が、その日、ついに逮捕されるという情報が流れ、マスコミ各社が永野の自宅マンションに殺到します。そこへ二人組の男たちが現れ、窓を蹴破り、永野の部屋に侵入します。二人は永野を銃剣でメッタ刺しにして死に至らしめます。TV中継されるなかで起きた殺人事件でした。翌日、警察は、中江逮捕に動きます。もちろん、それまで内偵を続けていたのでしょうが、明らかにこの事件が逮捕の引き金となったものと思われます。警察は、永野の二の舞を避けるために、緊急逮捕に踏み切ったともされます。中江は、詐欺にはあたらないと主張し続けますが、懲役6年の実刑判決が下ります。

出所後の中江に居場所はありませんでした。投資ジャーナル事件の被害総額は580億円であり、金融商品詐欺としては、当時、歴代トップでした。結果としては詐欺と判断されたわけですが、中江が行っていたことは、いわゆる仕手戦でした。仕手とは、特定銘柄に大規模な売買を集中させ、利益の拡大を図る投機的な手法です。意図的に市場操作を行えば、市場機能を阻害する違法取引になります。江戸初期、大阪の淀屋米市場で商品先物取引が開始されると同時に、仕手戦も始まっていたのでしょう。その伝統が株式市場にも展開され、相場師と呼ばれる投機のプロが暗躍することになります。時代とともに、規制も、監視も強化され、現在では、違法な仕手戦は消えたと聞きます。株式市場は、資本主義にとって必要不可欠なインフラではありますが、依然として、人間の強欲がぶつかり合う恐ろしい世界という一面も失ってはいないように思われます。(写真出典:dailyshincho.jp)

サンティアゴ・デ・クーバ