元になった話は、丹後国由良(現宮津市)の伝承「さんせう太夫」であり、鎌倉期以降、説経節、浄瑠璃、歌舞伎等の演目になります。様々なバージョンがありますが、最もポピュラーなのは森鴎外の小説「山椒大夫」だと思われます。以降の作品は、鴎外版をさらに脚色したものです。オリジナルである「さんせう太夫」のあらすじは次のようなものです。奥州の大守岩城判官正氏は、讒言によって筑紫に流されます。妻と姉弟は、正氏を追って旅に出ますが、直江津で人買いにだまされ、母は佐渡に、姉弟は由良の山荘太夫に売られます。姉は弟を逃がし、拷問されて死にます。弟は上洛し、朝廷に訴え出て父の罪を晴らします。父は死んでいたので弟が奥州の領地を相続し、山荘太夫を懲らしめ、盲目となった母にも巡り会います。
「さんせう太夫」は、アリストテレスが言う悲劇のカタルシスを生む構造を持っていると思います。カタルシスは、強い感情を経験することによって得る安堵感や解放感を意味し、精神を浄化する効果があるされます。これが、山椒太夫の人気の源なのでしょうが、どうも終わり方がスッキリせず、悲惨さだけが印象に残るように思います。悪者がすべて徹底的にやっつけられていないことも原因の一つかも知れません。ただ、スッキリしない最大の理由は、安寿の命が助からないこと、巡り会えたものの母が盲目になっていること、父も既に没していたこと等ではないかと思います。つまり、厨子王丸は復讐を果たすものの、決して単純明快な復讐劇ではなく、むしろ、運命に翻弄される悲惨な人生がテーマのように思えます。
この構図は、いわゆる本地物の特徴そのものなのでしょう。本地物は、神仏の縁起、あるいは御伽草子に多く見られるスタイルであり、人間として様々な苦しみを経験し、それを契機に神仏になるという構成を持ちます。最も有名なのは熊野権現の縁起を語る御伽草子「熊野の本地」だと思われます。悲惨な生い立ちをもつ天竺の王子が上人に助けられ、日本に渡って熊野権現になるという話です。本地物は、平安末期の神仏習合思想を背景に生まれた本地垂迹説に由来するとされます。本地は仏であり、神様は仏の仮の姿(権現)とする考え方です。武家の台頭とともに、社会的混乱が広がった時代、世相に翻弄される民衆は、我が身を本地物に重ね、癒やしとしていたのでしょう。
”さんせう”は「散所」であり、公的管理体制から外れた人々を意味するとされます。社会の底辺で過酷な雑役等を行っていたアウトカーストです。その仕切役は長者や太夫と呼ばれていたようです。さんせう太夫は、散所の間で生まれ、広がった伝承という説もあるようです。山椒大夫ゆかりの地と言えば、宮津、直江津ですが、福島市と弘前市もよく知られています。ともに姉弟の父である岩城判官・平正氏の領地だったというわけです。岩木山には古くから安寿が祀られています。祀られることになった経緯はよく分かりません。また、かつて津軽地方には「丹後日和」という言葉があり、丹後の人が津軽に入ると、安寿が不機嫌になり天気が悪くなるとされていたようです。さんせう太夫の影響力の大きさに驚きます。それは社会から虐げられてきたアウトカーストの怨念の強さなのかも知れません。(写真出典:amazon.co.jp)