2024年3月21日木曜日

パインタラ事件

出口王仁三郎
白音太拉(パインタラ)は、現在の内モンゴル自治区通遼市郊外にあります。1924年、満州からモンゴルへ向かっていた大本教の聖師・出口王仁三郎一行、そして同道していた馬賊・盧占魁率いる西北自治軍は、張作霖の指示を受けた奉天軍に捕らえられます。盧占魁と西北自治軍は銃殺され、王仁三郎一行6名も銃殺されそうになります。ところが、すんでのところで駆けつけた日本領事館員、実態は帝国陸軍によって救出されます。一行の急を告げたのは日本人旅行者とされますが、秘密裏に王仁三郎の後を追っていた陸軍の諜報員だったとも言われます。軍閥時代の混乱のなかにあり、利権拡大を目論む帝国陸軍や大陸浪人が暗躍していた時代の満州にあっては、極めて異例な事件と言えます。

王仁三郎が大陸に渡ったのは、不敬罪を問われた第一次大本事件直後であり、その目的は「東亜の天地を精神的に統一し、次に世界を統一する」ことであり、最終目的地はエルサレムだったようです。気宇壮大な話とも、誇大妄想的な話とも言えます。教団の組織的な引き締めをねらったのかも知れません。「大本」、通称大本教は、1892年、京都府綾部の貧しい老女・出口なおが開教した神道系の新興宗教です。突如、国之常立神(くにのとこたちのかみ)が憑依した出口なおは、文盲にも関わらず、自動筆記によって数々の予言をし、また病気治療も行ったと言われます。出口なおに心酔した王仁三郎は娘婿となり、なおと二人で教団を立ち上げます。王仁三郎の人間力と経営の才覚によって、大本教は急拡大し、軍幹部、知識人、そして宮中にまで信者を広げます。

記紀で神世七代の最初の神とされる国之常立神が復活し、世の立替え(終末論)と立直し(理想世界建設)を行うという大本教の教えは、一神論的でもあり、王仁三郎は”一神即多神即汎神”とも”万教同根”とも言っています。こうした宗教的背景を持ち、かつ教団を急拡大させた自らの神通力に相当の自信があったこと、そして愛国主義に基づく教団の右傾化、各国の宗教団体との交流、特に中国の赤十字とも言われる”世界紅卍会”との親密な関係が、大陸進出につながったのでしょう。いずれにしても、王仁三郎の大陸進出の意図は、宗教に根ざしたものであり、政治とは無縁だったと言えます。張作霖も、当初、王仁三郎に匪賊討伐委任状を与えています。しかし、モンゴルの統一独立も王仁三郎の計画の一つであると知り、捕らえることになりました。

張作霖の判断は、王仁三郎の軍部への影響力、右翼の巨魁たちとの交友も踏まえたものだったと推察されます。無事、帰国した王仁三郎は、国粋主義的な言動を拡大し、その影響力を危惧した政府は、1935年、治安維持法違反と不敬罪をもって再び大本教を徹底弾圧します。教団施設は取り壊され、王仁三郎は無期懲役の判決を受けます。ただ、1942年に至り、純然たる宗教団体であることが認められ、治安維持法違反に関しては無罪となります。不敬罪は残りましたが、戦後、法律改正によって不敬罪そのものが無くなりました。戦後、大本教は教団規模を縮小し、王仁三郎も陶芸に勤しんだようです。なお、王仁三郎は”芸術は宗教の母なり”とも言っており、その陶芸も高く評価されているようです。実に多才な人だったわけです。

パインタラ事件の際、王仁三郎一行のなかに、紀州出身の合気道創始者・植芝盛平もいました。柔術と剣術に優れた植芝は、陸軍除隊後、紀州北海道開拓団長として道東の遠軽に入植します。ある時、旅館で大東流の創始者・武田惣角と偶然居合わせた植芝は、武田の技に魅せられて弟子入りし、免許皆伝を受けるまでになります。1919年、父危篤の報を受けた植芝は、急遽帰郷しますが、その途中、王仁三郎の噂を聞きつけ、父の病気平癒を願って綾部を訪れます。王仁三郎に心酔した植芝は、綾部に移住し、武術指南をするとともに、王仁三郎の側近になります。そこで、王仁三郎から、自分の武術をやりなはれ、と言われた植芝は合気道を創始することになりました。体力に関係なく、相手を傷つけずに制する合気道は、大本教の精神が生んだ武術と言っていいのでしょう。(写真出典:ja.wikipedia.org)

マクア渓谷