数年前、葛飾区で木造アパートの一室が燃え、男性の遺体が発見されます。悲惨な話ですが、人目を引くようなニュースではありませんでした。数日後、遺体は、かつて”兜町の風雲児”とも呼ばれた伝説の相場師・中江滋樹だったことが判明します。ニュースにはなりましたが、決して大きな扱いではありませんでした。中江は、1954年、近江八幡で、証券会社に勤務する父のもとに生まれます。父の影響か、中学時代には独自のチャートをつけ、高校では授業中に短波放送で市況を聞き、休み時間には電話で売買を発注していたといいます。儲けも得ていたようです。高校卒業後は、名古屋の投資顧問会社で働きます。極貧の生活を送りながらも投資では稼ぎ、会員向けに株価予想レポートを送るビジネスを始めます。
大阪の北浜界隈では、これがよく当たると評判をとり、1978年には東京で「投資ジャーナル社」を設立します。中江の推奨銘柄は”N銘柄”と呼ばれるほど注目され、出版する雑誌類も大いに売れます。一躍、脚光を浴び、集めた大金を動かし始めた中江は、政財界の要人や芸能人に交友関係を広げ、毎夜、銀座で豪遊します。若くて、髪を長く伸ばし、髭を蓄えた中江は、正に兜町の革命児といった風情でした。ただ、外見や交友は、すべて投資家を増やすためのパフォーマンスだったという見方もあるようです。1984年、中江は大きな賭に出ます。ある化学メーカーに狙いを定めた中江は、膨大な資金を集めます。ところが株価は思うように上がらず、N銘柄全般への不信感も広がります。ついに資金を回せなくなった中江は、詐欺の疑いで逮捕されるに至ります。
実は、中江逮捕の前日、日本中を震撼させた大事件が起きています。被害総額2,000億円という巨大詐欺事件を起こした豊田通商の永野社長が、その日、ついに逮捕されるという情報が流れ、マスコミ各社が永野の自宅マンションに殺到します。そこへ二人組の男たちが現れ、窓を蹴破り、永野の部屋に侵入します。二人は永野を銃剣でメッタ刺しにして死に至らしめます。TV中継されるなかで起きた殺人事件でした。翌日、警察は、中江逮捕に動きます。もちろん、それまで内偵を続けていたのでしょうが、明らかにこの事件が逮捕の引き金となったものと思われます。警察は、永野の二の舞を避けるために、緊急逮捕に踏み切ったともされます。中江は、詐欺にはあたらないと主張し続けますが、懲役6年の実刑判決が下ります。
出所後の中江に居場所はありませんでした。投資ジャーナル事件の被害総額は580億円であり、金融商品詐欺としては、当時、歴代トップでした。結果としては詐欺と判断されたわけですが、中江が行っていたことは、いわゆる仕手戦でした。仕手とは、特定銘柄に大規模な売買を集中させ、利益の拡大を図る投機的な手法です。意図的に市場操作を行えば、市場機能を阻害する違法取引になります。江戸初期、大阪の淀屋米市場で商品先物取引が開始されると同時に、仕手戦も始まっていたのでしょう。その伝統が株式市場にも展開され、相場師と呼ばれる投機のプロが暗躍することになります。時代とともに、規制も、監視も強化され、現在では、違法な仕手戦は消えたと聞きます。株式市場は、資本主義にとって必要不可欠なインフラではありますが、依然として、人間の強欲がぶつかり合う恐ろしい世界という一面も失ってはいないように思われます。(写真出典:dailyshincho.jp)