2023年6月29日木曜日

ハレイワ

ハワイへ行った際には、よくノース・ショアへドライブしました。サンセット・ビーチをはじめノース・ショアは、冬にビッグ・ウェーブが押し寄せるサーフィンのメッカとして知られます。私のお気に入りはワイメア渓谷です。渓谷沿いの植物園には、南国の植物が咲き誇り、ハワイへ来たことを実感させてくれます。奥まったところにあるワイメアの滝では、ダイビング・ショーも行われます。サンセット・ビーチやワイメア渓谷の手前にハレイワの町があります。ハレイワ名物と言えば、なんと言ってもマツモト・シェイブ・アイスということになります。ただのかき氷にカラフルなシロップがかかっているだけです。日本人にとっては、珍しくもありませんが、アイスクリームが国民食のアメリカでは、もの珍しかったのでしょう。

マツモト・シェイブ・アイス店は、日系移民の多かったハレイワの小さなグローサリー・ストアでした。マツモト・マモルが、タナカ・ストアーを引き継いで店を始めたのが1951年のことでした。かき氷を商ってはどうか、と勧められ、1960年代、日本からかき氷の機械を輸入し、シェイブド・アイスを売り始めます。正しくは、シェイブド・アイスですが、シェイブ・アイスとしたのは、いかにも日系移民らしいところです。シェイブ・アイスは、サーファーたちの間で人気となり、70年代には有名店として行列ができ始めたようです。私が、初めて訪れたのは1990年のことだと記憶します。人が集まってはいましたが、田舎道沿いの寂れた店舗でした。暗い店内には、まだ多少の食品や雑貨も置いてありました。

ハワイ移民の歴史を感じさせる店でしたが、その後、ハワイ名物の一つにまで知名度を上げたマツモト・シェイブ・アイスは、今や立派な店を構えています。同時に、田舎道にも多くの店が増えました。その一つが、1975年、サンドイッチ店として開店した「クア・アイナ」です。クア・アイナとはハワイの言葉で、田舎の土地を意味します。そのハンバーガーは、サーファーの間で人気を高め、1997年には、ホノルルと青山にも出店しています。現在は、ハレイワ本店の他に、英国に2店舗、台湾2店舗、そして日本に30店舗を構えます。ほぼ日本の店です。青山の店は、グルメ・バーガー・ブームに乗って出店されました。日本ではファスト・フードのイメージが強かったハンバーガーですが、アメリカでは、もともとピンキリでした。

例えば、NYにいた頃、家の近くにあったファッド・ラッカーズというバーガー店では、バンズも、肉の量も、そして焼き加減も指定できました。値段は、マックの4~5倍でしたが、美味しいハンバーガーでした。過日、かなり久しぶりにクア・アイナの青山本店に行きました。これが、やはり美味しいわけです。特にパテの塩味や焼き加減の香ばしさが絶品だと思いました。2015年、NYから東京にも出店して大人気となったシェイク・シャックよりも、はるかに美味しいと思います。グルメ・バーガーは、日本にすっかり定着したようです。食べログで、評価3.5以上のバーガー店が、東京だけでも90店に及びます。ちなみに、外苑前のシェイク・シャックの評価は3.48、クア・アイナ青山本店は3.39となっています。

ノース・ショアには、もともとオアフ島最大の祭祀場があり、神聖な土地だったようです。19世紀、白人が入り込むと、サトウキビとパイナップルのプランテーションが作られます。日系人は、その労働力として移民したわけです。19世紀末、プランテーション経営者のベンジャミン・ディリンガムが、産物と労働力輸送のためにホノルルとノース・ショア間に鉄道を敷き、終着駅のハレイワにホテルを建設します。これがハレイワ集落の始まりとなったようです。ハレイワを有名にしたマツモト・シェイブ・アイスとクア・アイナが、ともに日本にゆかりがあることは面白いと思います。ハレは、ハワイの言葉で家、イワは軍艦鳥を意味します。ハレイワと聞くと、私の頭の中では自動的に「晴岩」という漢字が浮かびます。それは、まったく故なきことでも無さそうな気がします。(写真:クア・アイナのハレイワ店 出典:kua-aina.com)

2023年6月27日火曜日

「ザリガニの歌うところ」

監督:オリヴィア・ニューマン       2022年アメリカ

☆☆☆

原作は、動物学者のデリア・オーエンズが書いた2018年の小説「Where the Crawdads Sing」です。同書は1,800万部を売上げ、NYタイムスのベスト・セラーに150週ランクインするなど大ヒットを記録しました。日本でも本屋大賞の翻訳部門で第1位を獲得しています。一般的に、アメリカではザリガニを"Crawfish"と呼びます。"Crawdad"はザリガニとは別な生き物かと思いましたが、実は方言なのだそうです。当然、アメリカにも、地方によって呼び方が異なるものが多くあります。例えば、北部では炭酸飲料全般をソーダと呼びますが、南部では全てコーラと言います。物語の舞台は、ノース・カロライナの沼沢地にある架空の町であり、"Mash Girl(沼の娘)"と呼ばれる主人公は、家族が離散し、一人孤独に沼地で育った女性です。

原作の著者デリア・オーエンズは、ジョージア州の沼地で育っています。主人公には、著者とその人生が色濃く反映されているのでしょう。沼地の自然、貧困とDV、差別、自然を愛する女性、彼女の恋、そして殺人事件が織りなす半世紀前の南部の物語です。アメリカ人は、南部の貧困地帯を舞台とする小説や映画が大好きです。ただ、本作は、それらとは色合いが異なり、自然そのものがテーマだと思われます。アメリカの自然の素晴らしさ、それを犯してきた人間という構図が背景にあり、動物も昆虫も必死に生きているという動物学者らしい信念が物語を構成しています。ミステリというよりも、自然がテーマであるがゆえに大ヒットしたのでしょう。なにせ、アメリカ人の大層は自然と共に暮らしているわけですから。

ベストセラーの映画化は、本当に難しいものだと思います。全体像を、そのまま映像化することは不可能であり、制作は何を捨てるかという判断から始まります。ましてや、小説家ではない作者が自らの人生を重ねた原作は、実に多くの要素が複雑に詰め込まれています。原作を読んだ全ての人を満足させることを諦め、むしろ未読の人をターゲットにする方策もありです。ただ、本作は、あまりにも多くの人が原作を読んでいるため、主な読者である女性をターゲットとして制作するしかなかったのでしょう。冒頭から、そのリアリティを犠牲にしたスタンスに違和感を覚えました。自然がテーマなだけに、リアリティは重要な要素ですが、丁寧に描こうとすれば、かなり長尺になり、かつストーリーの展開は困難になります。

評論家からは酷評されながらも、興業的には成功したという事実が、この映画のすべてを語っているように思います。映像は美しく、音楽もスムーズであり、主人公を演じたデイジー・エドガー・ジョーンズの演技も見せます。エンドロールには、テイラー・スウィフトのオリジナル・ソングも流れます。ただ、映画としては中途半端なものになりました。監督のにとって、本作は、長編2作目。デビュー作の「First Match」は、貧しい黒人少女がレスリングを通じて成長してゆく物語でした。原作も脚本も監督自身の作であり、低予算ながらも瑞々しい青春映画でした。SXSWで絶賛され、Netflixが配給しました。今回、プロダクションが、彼女を監督に起用した理由は分かるような気もしますが、恐らく彼女の良さは、オリジナル脚本なのではないかと思います。今後が楽しみな監督の一人だと思います。

それにしても、自然科学系の学者が、殺人事件や法廷場面を盛り込んだ小説を書くというのは、実に興味深いと思います。自らの半生や思想を語るなら、自伝を選択するのが普通だと思います。本作における殺人や法廷劇といったミステリのプロットは、至ってシンプルなものであり、稚拙と言ってもいいかもしれません。恋愛や恋敵といったプロットも、さほど目を引くものはありません。ただ、全体を貫く、自然への愛、あるいはより自然な人間の生き方への憧憬は、力強さを感じさせます。それを、ありきたりな自伝のなかで述べたとすれば、恐らく読者数は、1/1,000程度だったかも知れません。恐らく、動物学者というだけでなく、自然保護運動家としての側面が、この小説を書かせたということなのでしょう。(写真出典:sonypictures.jp)

2023年6月24日土曜日

プロテスト・ソング

岡林信康
大阪では、40年以上、中之島のリーガ・ロイヤル・ホテルを定宿としてきました。大阪を代表する老舗中の老舗ホテルですが、会社の関係があり、リーズナブルに泊めてもらえました。1980年代の初め、ホテルの玄関でタクシーに乗り、釜ヶ崎を見てみたい、と頼みました。釜ヶ崎は、あいりん地区とも呼ばれる西成のドヤ街です。東京の山谷と並ぶ日雇労働者と浮浪者の街です。運転手さんからは、勘弁してくださいと断られましたが、結構なチップを提示したところ、ちょっとだけですよ、と言って連れていってくれました。事前に、窓を開けるな、住民たちと目を合わせるな、と厳重に注意されました。朝10時頃のことですが、街には酔っ払いがあふれ、道に倒れている人までいました。3階建て程度の高さの木賃宿は、部屋の天井を低くすることで5階建てになっているようで、目がおかしくなりました。 

興味本位と非難されそうな行動ですが、日本の現実を見たいという思いがありました。そして、その背景には、いつまでも耳に残る岡林信康の「山谷ブルース」がありました。岡林は、日本を代表する希代のシンガー・ソング・ライターだと思います。特に、デビュー当初の1960年代末期は、数々のプロテスト・ソングの名曲を発表し、”フォークの神様”と呼ばれました。当時の曲の多くは、発売禁止、あるいは放送禁止とされました。ジャズ・ファンの私には縁遠い世界でしたが、行きつけのレコード屋で、岡林の存在を知り、衝撃を受けました。山谷・釜ヶ崎の存在、被差別部落問題、貧困問題も岡林の曲で知ることになりました。世界的なカウンター・カルチャーの流れのなかで、日本のタブーにも目を向けた岡林の曲は、とても新鮮に聞こえました。

一つのジャンルとして、あるいは文化的運動としてのプロテスト・ソングは、フォーク・ソング・ベースのウディ・ガスリー、ピート・シーガー、ボブ・デュラン、ジョーン・バエズ等々の音楽を指します。ただ、大衆的な音楽にとって、プロテストは普遍的なテーマの一つだと思われます。典型的には社会を風刺した唄として現れ、その歴史は、とてつもなく古いと思われます。60年代のいわゆるプロテスト・ソングは、カウンター・カルチャーの一つの態様であり、ヒッピー的な服装と同様、ファッションだったように思います。日本のプロテスト・ソングの嚆矢は、中川五郎、高石ともやということになるのでしょう。ボブ・デュランの曲をベースに二人が作詞・作曲、高石が歌った「受験生ブルース」は、1968年に大ヒットしました。

1969年、世を変える力を持たないプロテスト・ソングの限界を感じ、増幅する自分のカリスマ性を負担に思った岡林は、一時、雲隠れします。数ヶ月後、ステージに戻った岡林は”はっぴいえんど”をバックに、ボブ・デュラン風ロックを披露します。その後、数年間、岡林は山中で農耕生活に入ります。再び活動を開始した岡林は、つきものがとれたかのように奔放に音楽を展開します。演歌にハマって美空ひばりとコラボしたり、ニューミュージック風のアルバムを発表したり、あるいは民謡とロックを融合させたりしました。岡林の音楽変遷は、時代の変化そのものでもあります。70年安保闘争に敗北した若者たちは、目的を失い彷徨い始めます。フォークは、プロテストを失い、ただのポップに成り下がりますが、皮肉にもフォーク・ブームを起こします。まさに、歌は世に連れ、世は歌に連れ、というわけです。

高度成長、あるいは社会の構造的変化が生んだひずみと言える釜ヶ崎では、1961年以降、20数回、暴動が発生しています。ただ、景気低迷期に暴動は発生していません。日雇労務者は、仕事にあぶれると福祉や支援に頼らざるを得ないからなのでしょう。現在、釜ヶ崎周辺は、再開発されつつあります。西成は、交通の要所にも関わらず、治安の悪さから開発が遅れてきました。梅田から新今宮をつなぐ新線が2031年開通を目指して工事中であり、大阪市は特区構想を進め、星野リゾートのホテルも開業しました。日雇労務者の高齢化が進んだ釜ヶ崎は福祉の街になり、木賃宿も若いインバウンド旅行者向けのゲストハウスに変わりつつあるようです。都市は、闇の部分を持つから成立している面があります。釜ヶ崎は、様々な事情を抱えた人々のラスト・リゾートでした。それが不要な時代になったとは思えません。(写真出典:amazon.co.jp)

2023年6月22日木曜日

アール・グレイ

私は、コーヒー好きですが、日に何杯くらい飲むのか、と聞かれることがあります。いつも答えに困ります。また、制ガン効果があるので、日に3~4杯のコーヒーを飲むべきだという話もあります。これも戸惑います。要は、一杯のコーヒーと言っても、カップのサイズも、飲み方や濃さも大いに異なるからです。対して、緑茶・紅茶を問わず、一杯のお茶という言い方は、イメージしやすく、普遍性を持っていると思います。コーヒー好きとは言え、私は、日に1杯の緑茶、2杯程度の紅茶を飲みます。紅茶は、ストレート・ティーやチャイを飲むこともありますが、基本的にはアール・グレイをミルク・ティーにして飲んでいます。消費量が多いので、スリランカ茶葉を使ったリプトン社の大袋をコストコで買っています。

紅茶は、摘み取った茶葉をしおれさせ(萎凋)、揉み込んで(揉捻)、完全発酵させて作ります。それにミカン科の柑橘類ベルガモットの香りを付ければ、フレイバー・ティーとしてのアール・グレイができます。フレイバー・ティーの歴史は、ジャスミン茶に始まるのでしょう。明代に、中国南部から北部に輸送する際に劣化する緑茶を、花の香りで誤魔化したことから生まれました。アール・グレイの誕生は、18世紀、英国のグレイ伯爵に由来するとされます。”Earl”は伯爵という意味です。伯爵は、入手困難なラプサン・スーチョン(正山小種)茶が気に入ります。そこで、出入りの茶商に、普通の紅茶に何かフレイバーを付けて再現することを命じます。結果、ベルガモットの香りが選ばれ、アール・グレイが生まれます。

ラプサン・スーチョンは、半発酵茶の岩茶で有名な福建の武夷山周辺に産します。ラプサンは、漢字で立山と書きます。立山や正山は、武夷山の俗称なのだそうです。使う茶葉は、岩茶と同じくスーチョンという等級の茶葉です。茶葉を、松葉で薫じて着香させ、完全発酵させるとラプサン・スーチョンができます。17世紀、戦争のあおりを受けた村で、乾燥できず発酵が進んだ茶葉を、松葉を焚いて強制乾燥したところ、ラプサン・スーチョンができたと言われます。紅茶の起源と言われることもあります。その味と香りは、やや上品な正露丸といったところです。正露丸のクレオソートと松葉の薫香の成分が似ているのだそうです。確かに、強い香りと渋味は漢方薬に近い印象です。事実、かつては薬としても用いられていたようです。

ラプサン・スーチョンは、今でもイギリスで人気の高い紅茶だと聞きます。希少価値が高いこともあり、高価で取引されているようです。アール・グレイ好きは、皆、ラプサン・スーチョンが好きかと言えば、そうでもないと思います。上品とは言え、やはり、漢方薬臭さは、なかなか高いハードルです。ただ、欧州の硬水で入れると、ラプサン・スーチョンの強い香りや渋味は和らぐのだそうです。一度、エビアンで試してみようかとも思います。また、アール・グレイの茶葉に少しだけラプサン・スーチョンを加えて入れると、キリッとした奥深さが加わり、なかなかの絶品になります。これならば、グレイ伯爵がラプサン・スーチョンにハマったわけが、十分に理解できます。

アール・グレイの起源については、17世紀のグレイ伯爵説の他にも、多くの説が存在します。つまり、発祥は明らかではないということです。そういう場合、業者の仕掛けも疑われます。ジャスミン茶と同様、質の悪い茶葉や劣化した茶葉にベルガモットの香りを付けて売ったのが始まりではないかと想像します。グレイ伯爵やラプサン・スーチョンの話は、箔付けのために、業者が考案したのではないかとも思います。ちなみに、グレイ伯爵が開発を命じたとされる茶商は、トワイニング社かジャクソン社かという論争があったようです。ところが、30年ほど前、トワイニング社とジャクソン社が合併したことで、その論争は立ち消えになっているようです。いずれにしても、紅茶にベルガモットの香りを付けることを思いついた人は天才だと思います。(写真出典:kaldi.co.jp)

2023年6月20日火曜日

線香と雪

武原はん「雪」
国立演芸場の花形演芸会で、笑福亭喬介の「たちぎれ線香」を聴いてきました。喬介は、クセのある独特な話し方をするので、気になっていました。それが、大ネタ中の大ネタ 「たちぎれ線香」を掛けるというので、行ってきた次第です。大ネタとは、長いだけではなく、高い技量が求められる噺です。「たちぎれ線香」は、江戸末期の噺家で笑福亭一門の祖とされる初代松富久亭松竹の作とされます。桂米朝の名演でも知られます。喬介は、米朝の長男、米團治に稽古をつけてもらったようです。笑福亭一門としては外せないネタなのでしょうが、一門に稽古をつけてくれる師匠がおらず、あえて米團治に頼んだのかも知れません。米朝と比べるのは酷というものですが、喬介もなかなかに聴かせました。

大店の若旦那と、お茶屋の娘で芸子の小糸は、相思相愛の仲となります。大店では、お茶屋通いが過ぎる若旦那をどうするか話し合うために親族会議が持たれます。番頭の提案によって、若旦那は、百日間、蔵に閉じ込められます。若旦那と番頭とのやりとりは、聴かせどころの一つです。音信不通となった若旦那を恋い焦がれた小糸は衰弱し、若旦那にもらった三味線を抱えながら命を落とします。ようやく蔵を出された若旦那はお茶屋へ駆けつけますが、小糸の死を告げられます。詫びながら線香をあげていると、仏前の三味線が鳴り始め、地唄が聞こえてきます。小糸の声でした。自分が好きな地唄を唄う小糸の声に若旦那は涙を流しますが、突如、三味線は止みます。動揺する若旦那に、女将は、仏壇の線香がちょうど”たちぎれ”ました、と告げます。

かつては、芸子の花代を勘定するために線香が焚かれていました。タイム・チャージを計る時計の代わりです。京都の花街では、今も線香代という言葉が残っています。”たちぎれ”とは、経ち切れと書くのが正しいのでしょう。今となっては分かりにくい落ちですが、枕で線香代の解説が行われます。また、上方落語では、しばしば噺のなかに囃子方による演奏が入ります。ハメモノと呼ばれています。「たちぎれ線香」に入るハメモノの地唄は、名曲「雪」と決まっているようです。「黒髪」等とともに、地唄の傑作とされる「雪」は、江戸末期、流石庵羽積の歌詞に峰崎勾当が曲を付けています。男に捨てられて出家した芸妓が、雪の降る夜、かつての恋人を思い、一人寝のわびしさに涙する、といった内容の唄です。

単によく知られた地唄と言うだけでなく、「たちぎれ線香」には相応しい曲だと言えるのでしょう。後に「雪」には踊りが付けられ、地唄舞としてもよく知られた曲になります。文化功労者にも選ばれた上方舞の武原はんの代名詞でもあり、東京で、上方舞、そして「雪」が知られるようになったのは、彼女の功績だとされます。武原はんは、徳島の花街近くに生まれ、12歳で大阪・宗右衛門町の置屋に入り、14歳で芸妓となります。20歳で著名な装丁家と結婚して上京し、“なだ万”の若女将を務めながら、上方舞の普及にも努めます。離婚後、新橋で芸妓に戻りますが、後に料亭「はん居」を赤坂に開きます。上方舞の名手として名を成しながら、自らの流派を作ることもなく、弟子をとることもなかったと聞きます。

武原はんの「雪」は、YouTubeで見ることが出来ます。同じ上方舞とは言え、祇園の井上流とは大いに異なり、独特な艶っぽさを感じさせます。座敷舞の粋と言えるのでしょう。同時に、生涯を個人舞踊家として通した武原はんの芸妓としてのプライドも感じさせます。吉原に代表される江戸の廓は、遊女中心のビッグ・ビジネスといった趣きです。対して、上方のお茶屋は、芸妓中心のお座敷遊びとして文化と芸を育ててきた面があります。成り立ちの違いと言えば、それまでですが、花魁と太夫では大違いです。落語の世界で言えば、江戸の廓噺も、上方のお茶屋噺も、本質的には大差ありませんが、風情に違いが出ているように思います。「たちぎれ線香」は、東京落語でも「たちぎれ」として演じられますが、やはり上方でしか生まれ得なかった噺なのでしょう。(写真出典:waseda.jp)

2023年6月18日日曜日

「ソフト/クワイアット」

監督:ベス・デ・アラウージョ      2022年アメリカ

☆☆+

毎年3月に、テキサス州オースティンで開催される「South by Southwest」、略称SXSW、あるいはサウス・バイは、もともと音楽の見本市としてスタートしましたが、いまや、音楽だけでなく、映画、インタラクティブ系、ゲーム等の祭典となりました。本作は、2022年のSXSWで上映されて大評判になったという映画です。近年の”Black Lives Matter”に代表されるアメリカの人種差別問題を、白人女性の側から描いているというので、これは面白い着想だと思いました。ただし、人種差別をテーマとして深掘りするなら面白い映画になり、人種差別を単なるモティーフとするなら退屈な映画だろうと思っていました。残念ながら、後者でした。監督の意図したところとは異なるのかもしれませんが・・・。

デ・アラウージョ監督の初長編となる本作は、自主制作され、SXSWでブラムハウスに買われています。同社は、アカデミー賞を何部門かで獲得した「セッションズ」(2014)、あるいはアカデミー脚本賞を獲得した「ゲット・アウト」(2017)などを制作しています。主に低予算のホラー映画を得意としています。予算は少ないものの、制作は監督に任せるというスタンスが、話題作を生んでいます。本作は、予算をかけず、制作日数は4日、うち撮影は1日半で終えたようです。全編ワン・テイクの映画に見えますが、正確には2テイクです。最近、ワン・テイク映画が増えたように思います。映画の進行と観客の時間感覚を同時にすることで、臨場感、リアリティ、没入感、共感性等を高める効果が得られます。

映画は、人種差別の意識が、偶発的に暴力へと展開していく様が描かれています。どこでも、いつでも起こり得る突発的な狂気をリアル・タイムに映像化することは十分以上に意味があると思います。やや荒い演出やカメラのブレなどもリアリティを高める効果があるとも言えます。しかし、例えば”ブレア・ウィッチ・プロジェクト”(1999)等の没入感が、ここで必要かどうかは、多少疑問です。本作のねらいが、差別意識が暴力を生みやすいということであるなら、エスカレートしていく暴力を、より客観的に、かつ緊張感を持って描く、あるいは丁寧にテイクを重ね、編集でワン・テイクに見せる手法もあったのではないかと思います。予算的制約もあったのでしょうが、テーマと手法にズレがあるように思えます。

監督が、この映画を撮るきっかけとなった事件があるようです。日本では報道されていないと思いますが、2020年にNYのセントラル・パークで起きた事件です。ランブルと呼ばれる森でバード・ウォッチングをしていた黒人男性が、リードを外して犬を散歩させていた白人女性に注意します。ランブルでリードを外すことは禁じられているのです。言い争いになり、女性は、警察に黒人に脅されていると電話します。結果的に、白人女性は虚偽通報で罰せられ、勤務先も解雇されます。白人が黒人に襲われそうだと言えば、白人警官たちはそれを鵜呑みにして即応する傾向があります。それを心得た白人女性の差別意識が問題とされました。監督は、ネオ・ナチでもKKKでもないごく普通の白人女性の差別意識に怒りを覚え、それが暴力へと発展するリスクを懸念し、本作の制作を思い立ったようです。

もう一つ、本作の設定の背景となったものがあります。”Trad Wife”運動です。白人女性が、”普通”の結婚をして、専業主婦となり、より多くの白人を産むことを提唱する運動です。白人至上主義そのものと言えます。ちなみに、映画の中の女性グループの名称は、そのものズバリの”Daughters for Aryan Unity”です。デ・アラウージョ監督は、元オリンピック選手のブラジル人の父、中国系アメリカ人バレリーナの母のもとに生まれています。いかに裕福で文化的な家庭に育とうとも、バークレイ校で学ぼうとも、AFIで修士学を得ようとも、彼女は、白人による差別を実感し続けてきたはずです。逆差別と叫びたくなる白人の気持ちも分からぬではありませんが、人種差別の歴史と、それを生み出してきた根源は明確です。映画のなかで女性たちが、BLMに対して”White Lives Matter”と言いのけますが、正しくは”All Lives Matter”でしかあり得ません。(写真出典:imdb.com)

2023年6月16日金曜日

アローン・アローン・アンド・アローン

HI-NOLOGY
ジャズを聴き始めたのは、1969年、中学3年生の頃でした。ジミ・ヘンドリックスやエリック・クラプトンの影響からブルーズやR&Bを聴くようになり、そこでブラスの魅力を知りました。折しも、BSTやシカゴといったブラス・ロックの盛り上がりもあり、またジャズ界では、マイルス・デイビスの「ビッチェズ・ブリュー」がリリースされ、フュージョン化が加速していました。世界的にも、この年、多くのロック・ファンがジャズに流れたと聞いたことがあります。夏頃からは、ジャズ喫茶に通い始め、スイング・ジャーナルを購読し、秋には、人生初のジャズのライブにでかけ、日野皓正クインテットの演奏を聴きました。日野皓正は、白いスーツにレイバンのサングラスをかけ、エネルギッシュに吹きまくっていました。

当時、日野皓正は、渡辺貞夫とともに、日本のジャズ・シーンを引っ張るスタイリッシュなスターでした。1967年のデビュー・アルバム「アローン・アローン・アンド・アローン」、69年のライブ・アルバム「HI-NOLOGY」が、国内外で高く評価されていた頃でもあります。マイルス・デイビスに傾倒したその演奏スタイルは、モダン・ジャズのエッセンスそのものでした。1975年からは、活動拠点をアメリカに移しています。過日、ブルー・ノートで、久々にライブを聴きました。若いメンバーを引き連れ、最近作曲した曲を中心に演奏していました。さすがに往年のエネルギーは感じられませんでしたが、御年80歳とは思えぬ若々しさを見せていました。期待通りとは言いませんが、楽しいステージでした。 

ジャズが誕生したのは、20世紀初頭のニューオリンズだったとされます。日本には、早くも1910年代に伝わり、関西を中心にダンスホールの音楽として人気を博したようです。30年代には、”日本のサッチモ”と呼ばれたトランペッター南里文夫が世界的名声を得ています。スイングの時代を迎えると、ジャズ喫茶も誕生し、ジャズは一層浸透していきます。服部良一等がジャズのブームを作りますが、軍国主義の時代になると敵性音楽として弾圧されます。敗戦後は、一転して、アメリカ文化の流入とともにジャズ・ブームが起きます。米軍のキャンプで演奏していたミュージシャンたちが大活躍します。なかでもジョージ川口、松本英彦、中村八大、小野満が組んだジョージ川口とビッグ4は絶大な人気を誇りました。

進駐軍が去る頃、ジャズはスイングからビバップ、ハードバップへと移り、モダン・ジャズの時代を迎えます。1959年にリリースされたマイルス・デイビスの「カインド・オブ・ブルー」は、よりスリリングなモード・ジャズの世界を開きます。日野皓正は、まさにその洗礼を受けたミュージシャンだったと思います。1942年生まれの日野皓正は、中学時代から、キャンプで吹いていました。タップダンサーでトランペッターだった父親の影響だったのでしょう。弟は、1999年、惜しまれつつ亡くなったドラマー日野元彦です。トコさんの愛称で親しまれた日野元彦は、日本を代表する天才ドラマーでした。日本人離れしたリズム感、多彩なテクニック、何よりもグルーブ感が魅力でした。日野兄弟のコンビは最強だったと思います。日野皓正は、過日のブルーノートでのライブでもトコさんの曲を演奏していました。

フリー・ジャズで鳴らしたピアニスト山下洋輔も、サベサダや日野皓正とともに日本のジャズ・シーンを牽引してきた一人です。過日、山下洋輔のコンサートにも行きました。オーケストラを率いて、ガーシュインの「ラプソディ・イン・ブルー」を演奏していましたが、実に素晴らしいパフォーマンスでした。ただ、ステージ袖へ下がる際、足が少しもつれていました。山下洋輔も81歳。サベサダにいたっては90歳。依然として、皆、ライブ活動を行っています。日本のジャズ界を率いてきた彼らの情熱には、本当に頭が下がります。久々に、日野皓正のメローで都会的な「アローン・アローン・アンド・アローン」を聴きながら、半世紀なんて、アッという間だったな、と思ってしまいました。(写真出典:tower.jp)

家作