2023年1月11日水曜日

「アバター ウェイ・オブ・ウォーター」

監督: ジェームズ・キャメロン       2022年アメリカ

☆☆☆

世界の歴代興業成績ベスト3の映画は、アバター、アベンジャーズ/エンドゲーム、タイタニックだとされます。これにインフレ調整を行ったデータでは、風と共に去りぬ、アバター、タイタニックという順番になります。完璧なデータを取ることが難しい面はあるものの、アバター、タイタニックが歴史的大ヒット作品であることは間違いなく、この2作品を手がけたしたジェームズ・キャメロンは、最も商業的な成功をおさめた映画監督と断言できます。アバターは、2009年に公開されました。歴史的、世界的大ヒットとなり、続編が期待されました。ただ、モーション・ピクチャー技術を使った映画製作は、高額で、時間もかかり、かつ技術的進化も間断なく続き、さらにコロナ禍も加わり、ここまで時間がかかったのでしょう。

アバターは、決してストーリーがウケたわけではないと思います。ファンタジー特有の世界観も、さほど奥の深いものではありません。ストーリーの単純さはキャメロン映画の特徴でもあります。それがヒットに貢献している面もあるのでしょうが、今回もストーリーだけ見れば、少年少女向け映画といった風情です。ただ、モーション・ピクチャーが持つ威力は、依然、大きなものがあります。異形のナヴィ族が、人間と同じ表情や仕草を見せるところが、アニメやCGにはないモーション・ピクチャー最大の魅力だと言えます。もっとも、モーション・ピクチャーで蓄積されたデータをAIがディープ・ラーニングすれば、いつかCGの方が勝っていくことになります。俳優という職業も過去の物になるかもしれません。

「アバター ウェイ・オブ・ウォーター」のサブ・テーマは、反捕鯨であり、反日だと言えます。一瞬ではありますが、銛打ちボートに「日捕」という漢字のロゴが写ります。この映画が企画されている段階では、反捕鯨運動はブームの最中でした。キャメロン監督も反捕鯨運動家です。反捕鯨運動が下火となった現在、反日要素はこの程度ですが、企画段階では、徹底的な反日映画になっていたのではないでしょうか。過激なグリーン・ピースやシー・シェパードはじめ反捕鯨運動には、理解しがたい異常さがあります。捕鯨は、環境保護、資源保護といった観点から、国際捕鯨委員会等によってコントロールされてきました。反捕鯨運動は、環境要因に加え、鯨が知的動物であることを運動の根拠にしています。

実に妙な話です。知的レベルで対応を分けるというのは、差別主義者である欧米人に特徴的な発想と言えます。仏教における殺生の戒めに差別の概念はありません。もっとも日本における殺生禁止令は、実にいい加減なものであり、偉そうなことは言えませんが。他にも、ノルウェー、アイスランド等の捕鯨国はありますが、とりわけ日本だけが目の敵にされるのも、差別主義ゆえと考えられます。キリスト教国ではない日本は、潜在的に邪教国という認識があるともされます。また、反捕鯨運動では、各国の少数民族が行う生存のための捕鯨は認められ、商業捕鯨のみが反対の対象とされています。厳密に言えば、その違いも曖昧だと言えます。動物愛護の観点からしても、反捕鯨は突出した異常さを持ちます。

動物愛護家たちは、食用に飼育された動物は、対象外だと言いのけます。これまた意味不明な話です。話は「アバター ウェイ・オブ・ウォーター」に戻りますが、海のナヴィであるメトカイナ族の食事シーンは出てきません。動物愛護上、都合の悪いシーンは排除されるのでしょう。ちなみに、映画のなかで、スカイ・ピープルと呼ばれる人間は、鯨に擬されるトゥルクンを殺し、脳の油だけを採って、死体は棄てます。これは、鯨を乱獲し、資源を枯渇させた欧米人がやっていたことです。日本人は、余すところなく、命の恵みをいただいていました。「日鯨」と映像に入れるくらいなら、死体を棄てるなどしないで欲しいと思います。アバター・シリーズは、あと3作用意されているようです。「猿の惑星」以来の反日映画という点も含め、もう見なくてもいいかな、と思いました。(写真出典:filmarks.com)

2023年1月7日土曜日

お好み焼き

大阪の梅田に隣接する福島駅周辺でのことですが、大阪出身の友人が、贔屓にしているというお好み焼き屋に連れて行ってもらったことがあります。夜はコースのみということで、間に牡蠣のバター焼きが入りましたが、お好み焼きを4枚くらい食べさせられました。粉物でビールを飲み続ける関西人の習性に驚きました。コースのシメには、”カレーお好み”なるものが出てきました。これが名物で皆のお目当てのようでした。生地にカレー粉を混ぜたものを想像したのですが、見事に裏切られました。食べ始めると、中から飯粒が出てきたのです。要は、カレーライスそのものを生地ではさんでいたのです。炭水化物を炭水化物でサンドするという信じがたい発想にビックリさせられました。

カレー自体は、大阪らしい甘辛な味でなかなかイケました。それだけに、カレーライスは、カレーライスとして食べたいと思いました。大阪の食文化は、東日本とは随分異なるところがあり驚かされますが、基本的には出汁の文化なので、どれも美味しく頂けます。ただ、大阪のソウルフードであるお好み焼きだけは、どうにも理解しがたいところがあります。不味いというわけではないのですが、そこまでこだわるような食べ物でもないと思うのです。例えて言うなら、駄菓子です。食事と言われると、えっ、まさか、と思うわけです。その違和感が、私のお好み焼きに対する偏見の源なのだと思います。お好み焼きやどんどん焼きの類いのルーツは、江戸末期に登場したもんじゃ焼きだとされます。

もんじゃ焼きは、江戸末期、月島界隈の駄菓子屋で生まれたと言われます。軒先で、水で溶いた小麦粉と鉄板を使い、遊びながら子供たちに文字を教えたことから「文字焼き」と呼ばれました。それが変じてもんじゃとなったとされます。そもそも子供向けの手頃なおやつとして登場したわけです。昭和になると、あくまでも東京下町の文化だったもんじゃは、どんどん焼きとなって各地へ広がっていきます。どんどん焼きは、大雑把に言えば、水で溶いた小麦粉に具材を乗せて焼き、割り箸などで巻き込んでソースをかけたおやつです。いまでも縁日などで見かけることはありますが、一部を除いて廃れたようです。関西に伝わったどんどん焼きは「一銭洋食」と呼ばれるようになります。

京都の祇園には、今も一銭洋食を売りにする店があります。当時、小麦粉やソースは洋食をイメージさせる食材だったことから、一銭で食べられる洋食とされたわけです。水で溶いた小麦粉に各種具材を乗せて焼き、ウスターソースをかけて食べます。これが関西風お好み焼きの直接的ルーツなのでしょう。子供のおやつだったどんどん焼きや一銭洋食が、お好み焼きに変化していくのは、昭和10年代だったようです。東京の花街で、座敷に、鉄板をしつらえ、客が好きに焼くスタイルが、粋なお遊びとして流行します。これが「お好み」という名称につながりました。戦後になると、ものの無い時代の大阪で、お好み焼きは、安価に腹を満たす食として急速に広がっていきます。水で溶いた小麦粉と具材を混ぜて焼くスタイルが一般化します。具材が豊富ではなかったために生まれたのが混ぜ焼きなのだと思います。

お好み焼きは、いわば代用食の類いだったわけです。食材が豊富になるにつれ、代用食は廃れていって当然ですが、大阪のお好み焼きは、しぶとく生き残り、ソウルフードにまでなります。その最大の要因は、大阪のソース文化にあるものと思われます。日本のソースの歴史は、ウスター・ソースに始まりますが、粘度の高いとんかつソース系は、戦後の神戸で誕生しています。以来、関西には、いわば地ソース・メーカーが多く存在し、味を競っています。天ぷらにまでソースをかける関西のソース文化ですが、その進化は、明らかにお好み焼きと二人三脚だったのだろうと想像できます。関西系ソースの濃厚なうま味がなければ、お好み焼きも廃れていたものと考えます。もっと言えば、大阪人は、ソースを味わうためにお好み焼きを食べているように思います。やはり大阪は出汁の文化だったわけです。(写真出典:mapple.net)

2023年1月4日水曜日

ちょしもた

俗謡「田原坂」に「雨は降る降る 人馬は濡れる 越すに越されぬ 田原坂」と歌われる田原坂の戦いは、1877年(明治10年)に勃発した西南戦争最大の激戦です。2月15日に鹿児島を発した薩摩軍は、熊本鎮台が守る熊本城を包囲します。新政府は、乃木希典少佐率いる小倉歩兵第14連隊を先発させるとともに、征討軍主力を続々と福岡湾に上陸させます。南下する征討軍を迎撃すべく、薩摩軍も主力を熊本北部へ進出させます。3月、両軍主力が相まみえた田原坂では、雨が降り続くなか、17日間に渡る激戦が繰り広げられます。兵員・物量に勝る征討軍が田原坂を抜くと、薩摩軍の後退が始まります。熊本城を包囲することなく北上していれば、薩摩軍は九州全域を抑え、内戦はより大規模で、かつ長期化していたものと考えます。

西南戦争は、実に不思議な戦争です。薩摩の戦力と組織力、そして西郷隆盛の存在がゆえに、規模的には内戦となりましたが、本質的には単なる暴動だったと言えます。そのゴールとするところが曖昧で、従って戦略も合目的性に乏しく、ただ、戦闘においては、さすが薩摩という強者ぶりを発揮します。そのチグハグさの背景には、総大将である西郷隆盛の沈黙があったと思います。西郷は、征韓論に際しても、明治六年政変でも多くを語らず、西南戦争では、一層言葉少なになっています。ただ、戦争のトリガーとなった私学校生による火薬庫襲撃を聞いた際、「ちょしもた(しまった)」と発したとされます。腹に収めた心づもりを脅かす事態であり、その秘めた思いを窺い知ることができる言葉でもあります。

薩摩のリーダーとして倒幕を果たした西郷隆盛ですが、明治新政府への参加は、頑なに断り続けました。戦時のリーダーであって、平時のリーダーではないことを自覚していたとも思えます。また、新政府が中央集権化を進めるに際して、士族を解体せざるを得ないことは十分に理解していたと思われます。廃藩置県、四民平等、徴兵令も受け入れ、それが廃刀令や秩禄処分へと進むことも理解していたものと思われます。一方で、内戦化を懸念し、かつ自らが率いて共に戦ってきた士族を切って棄てることは忍びないとも思っていたのでしょう。そこで西郷は、なんとか士族を活かせないものかと思案していたものと思われます。徴兵制に対して志願制を提案していますし、征韓論の真意も士族の活用にあったのでしょう。

1867年、日本は、新政府発足を通知する外交文書を朝鮮国に送ります。しかし、朝鮮国が、その受け取りを拒否したことから征韓論が起こります。即刻出兵の声もあがりますが、発足間もない明治政府に戦争を遂行する財政的余力はありませんでした。西郷は、自らを全権大使として朝鮮国に派遣することを強く主張します。命の危険すらある朝鮮入りです。西郷は死を覚悟していたとも言われます。自らの死をもって、朝鮮出兵を実現し、武士たちを活かす場を生み出そうとしていたのでしょう。維新の立役者である西郷の命を危険にさらすことを、天皇はじめ政府中枢が拒否します。政府に生まれた亀裂が明治六年の政変につながり、西郷はじめ、多くが野に下ります。鹿児島に戻った西郷は私学校を設立、九州各地では士族反乱が起こります。

内戦を回避し、士族を活かす道を模索していた西郷ですが、西南戦争で結果は真逆となったわけです。西郷が挙兵を決断した背景には、政府による西郷暗殺計画があったとされます。複数の自供なるものが存在しますが、計画の存在は確認されていません。しかし、暗殺計画を聞いた時点で、西郷は、自らの思いと政府方針が相容れないことを悟り、プランBを選択したのでしょう。つまり、自らが内乱を起こし、政府に鎮圧させ、腹を切って死ぬ。そのことによって士族を活かす道は失われるものの、内乱を最小限に留め、中央集権化を進める、ということです。そう考えなければ、暗殺計画の真偽を問うという曖昧な戦争目的、熊本城包囲という戦略ミス、そして軍略に一切口出ししない西郷など、この挙兵の奇妙さを説明できません。西郷隆盛は、自らの死をもって日本の近代化を進めたと言えるのでしょう。(写真出典:tabi-mag.jp)

2022年12月28日水曜日

日本人と傘

雨が降ると、 傘をさして自転車に乗っている高校生や中学生をよく見かけます。私も、高校生の頃にはやっていたように思います。へっちゃらだという自信があるわけですが、やはり危険な乗り方であり、法律や条例違反でもあります。関心するのは、関西に多く見られる傘スタンドという文化です。両手は自由になるので、多少、危険度は下がるのでしょうが、風の影響を受けやすく、場合によっては条例違反を問われることもあるようです。いずれにしても危険な運転ではありますが、そもそも、傘をさして自転車に乗ることは、無意味なのではないかと思えます。雨量、風、自転車のスピードの兼ね合いになりますが、ほぼ確実に濡れます。レイン・ウェアを着て乗る方が効果的に決まっています。

にも関わらず、傘をさして自転車に乗る人が多いわけです。もはや、これは雨の日は傘をさすという固定観念のなせる技ではないかとさえ思えます。どうも、日本人は世界一の傘好きのようです。欧米人よりもアジア人、アジア人のなかでも特に日本人は傘をよくさします。世界的には、雨に降られたら、濡れる、レイン・ウェアを着る、雨宿りする、といった対応が多いように思います。欧米人が傘をささないのは、乾燥しているからだという話もありますが、やや乱暴な話です。長い雨もあり、たちどころに服が乾燥するわけでもありません。また、東南アジアのスコールなどでは傘はまったく役に立たず、雨宿りするしかありません。そこへいくと、長い梅雨も含め、しとしと雨の多い日本では、傘が実用的とも考えられます。

気候が、文化や習慣に与える一般的な影響は、理解できます。しかし、雨季の長短はあるにしても、様々なタイプの雨が降るのは、世界中同じであり、また、世界中に雨傘が存在するわけですから、気候だけでは日本人の傘好きの説明として不十分だと思えます。丈の長い着物を着て、靴を履かない日本の服装が影響しているという説もあります。これには、畳の文化という話も加わり、説得力を増します。なお、日本に靴の文化が根付かなかった理由は、高温多湿ゆえ、常時、靴を履くと足が蒸れてしまうからだとされています。畳の文化も、そこから発展したわけです。極端に言えば、靴の代わりに傘、ということになります。ただ、傘をさしても足元は濡れるので、因果関係としてはやや弱いように思えます。

傘は、4千年前の古代エジプトや古代ペルシャの壁画等に登場しているようです。傘は、本来的には、日傘、あるいは権威付けとして使われてきました。雨傘としての利用は、18世紀イギリスから始まったと言われます。ちなみに、開閉式の傘が誕生したのは、13世紀イタリアとされます。日本では、ヤマト王権時代、中国から伝来し、雨傘としては、江戸中期以降、普及していったようです。勝手な推論ですが、日本における雨傘の普及は、江戸期の髪形と関係しているのではないかと考えます。江戸では、男女を問わず、武士階級も庶民も随分と手間のかかる髪形をしており、降雨から守る必要があったのではないでしょうか。笠と蓑は道中や農作業には適していますが、市中では、より手軽な傘が普及していったものと考えます。

江戸期における雨傘普及の背景には、独自に進化を遂げた和傘の技術があります。丈夫な和紙に、柿渋や油を塗って強度と防水性を高め、軽くて丈夫な竹で骨や柄を作ります。家内工業が盛んになり、分業体制が確立すると、雨傘はごく一般的なものになっていったようです。しっかりとした番傘、細身で上品に作られた蛇の目傘などがあります。ただ、幕末に、金属と布で作られた洋傘が入ってくると、和傘は押され、今や特殊な用途の工芸品扱いになりました。ちなみに、欧米で傘といえば、折りたたみ傘が主流で、日本だけが長傘を好む傾向が強いと言います。これも、また気候だけではない理由がありそうな気がします。(写真出典:kyoto-tsujikura.com)

2022年12月21日水曜日

汽笛一声

東京ステーションギャラリーで開催中の「鉄道と美術の150年」展を見てきました。美術展というよりも、風俗画も含めた”描かれた鉄道の歴史”といった風情でした。今年は、1872年10月、新橋ー横浜間に、日本初の鉄道が開通してから150年ということで、各種イベントが行われてきました。これは営業開始のタイミングであり、実際には、同年6月から品川ー横浜間で、仮営業がなされていたようです。さらに、日本で最初に蒸気機関車がレールの上を走ったのは、1865年、長崎でのことでした。ジャーディン・マセソン社のトーマス・グラバーが、プロモーションのために走らせたようです。いずれにしても、今回の展示を見て、鉄道が日本の近代化に与えた影響の大きさを、あらためて認識しました。

蒸気機関車による世界初の実用鉄道は、1825年に英国で、石炭輸送のために開設されています。その5年後には客貨両用鉄道が開通しています。日本には、1853年、ロシアのプチャーチンが、艦上に蒸気機関車の模型を積んで来日し、実際に動かして見せたようです。また、1854年には、ペリーの2度目の来日の際、米国大統領から将軍への献上品として、人が乗って動かせる蒸気機関車の模型が持ち込まれています。ペリーの浦賀来航とタイミングがあったとも言えますが、蒸気機関車は、英国での営業開始後、比較的早い段階で、日本に導入されたと言えます。その後、官民併せて、鉄道の建設ラッシュが起きています。驚異的とも言われる日本の近代化の背景には、この鉄道の普及があったということなのでしょう。

とは言え、鉄道の導入は、すんなり決まったわけではないようです。鉄道建設推進派は、蘭学・英学を学んだ大隈重信、英国へ密航した長州ファイブの伊藤博文と井上勝などでした。一方、反対の声は、国民の間でも、政府内部でも大きく、西郷隆盛も反対、特に黒田清孝は強硬だったと言われます。反対意見の多くは、財源に関わるものでした。敷設に莫大な資金を要する鉄道建設ですが、当時、政府資金が乏しい状況にあり、海外からの融資に頼らざるを得ませんでした。この外国からの借金が批判されたわけです。伊藤や井上が、反対派の説得に努めますが、結果的には、黒田が海外視察を行い、鉄道の必要性に目覚めたことで、急遽、鉄道建設が開始されています。百聞は一見にしかず、というわけです。

井上は、その後も、あくまでも官営鉄道にこだわったようですが、政府資金が厳しいことには変わりなく、明治政府は、民間資本の導入に舵を切ります。1881年設立の日本鉄道はじめ、私鉄による建設ラッシュが起こります。レールが敷かれると、産業が興り、街が形成されていきます。全国津々浦々にまで及んだ鉄路敷設は、まさに日本の近代化をリードしたわけです。また、戦後の復興も、鉄道再建が大きな柱となったと言えます。こうして、鉄道=経済発展という公式が定着し、日本人の鉄道好きが形成されてきたわけです。「鉄道と美術の150年」展は、その間の歴史をよく伝えています。しかし、高度成長期を迎え、産業構造の転換が起きると、この勝利の公式には陰りが見えるようになります。

陸上輸送の主役はより効率的なトラックに替わり、乗客はより早い航空機に移っていきます。それでも鉄道好きの日本は、鉄道にこだわり続け、高速道路や空港の整備、あるいは航空産業育成に出遅れます。日本の鉄道の現況は、新幹線と大都市圏以外では、苦境にあり、廃線や経営悪化が続きます。その新幹線ですら、営業収支はともかくとして、1kmあたり70~100億円と言われる建設コストも含めた投資効率としては、疑問と言わざるを得ない路線もあります。にも関わらず、整備新幹線の延伸計画が複数存在しています。人口減少と産業衰退が続く地方にあって、新幹線開通は悲願であり、地方再生の切り札というわけです。複雑化した社会構造のなかで、150年前と同じ発想が続いていることは、もはや驚きとも言えます。(写真出典:sayusha.com)

2022年12月14日水曜日

SNSの匿名性

ライヒス・ビュルガー
コロナ・ウィルスのワクチン接種が始まると、若い世代でワクチン拒否の動きが広まりました。背景にあったのは、SNSで拡散されたデマです。ワクチンを打つと、死期が早まる、不妊になる等のデマは、東大医学部の医師の発言だといった尾ひれがついて拡散しました。実際に、ワクチン接種に否定的な医師もいたでしょうし、売名行為として発信した医師もいたものと思われます。ワクチンは、弱毒化、あるいは無毒化された抗原を体内にとりこみ、抗体を作り、免疫を確保する手法です。18世紀末に、ジェンナーが、天然痘ワクチンを開発したことから一般化した感染症対策です。導入当初、多くの人々がワクチン接種を恐れたようです。病原菌を体内に入れるわけですから、拒否されて当然とも言えます。 

それから200年が経ち、ワクチン接種が一般化した現代にあっても、19世紀初頭と同じ反応が発生したのは、間違いなくSNSの悪影響だと言えます。信用できる友人の書き込みは、事実確認することなく拡散されていきます。聞いた話よりも書かれた情報の方が、信憑性が高まるという効果もあるのでしょう。また、国やマスコミが決して語らぬ裏情報という話は、妙に信憑性を高める効果もあります。当然のごとく、そこには意味不明な国家陰謀論も登場することになります。噂話として拡散したデマが、大衆を右へ左へと動かす構図は、大昔から何一つ変わりません。社会に不安が広がる時には、必ず陰謀論が生まれるものです。そして、SNSは、飛躍的に、その拡散スピードを早め、拡散範囲を広げるわけです。

今月初め、ドイツ政府は、ライヒス・ビュルガーの幹部たちを一斉検挙しました。ライヒス・ビュルガー、”帝国の住民”は、現ドイツ政府を認めず、ドイツ帝国が存続していると主張する人々です。その根拠は、ワイマール憲法が、法的に停止されていないことだと言われます。現政府を否定しているので、独自の政府、通貨、パスポート等も持っているようです。実態的には、複数のグループがそれぞれ独立的に存在し、総数は2万人程度と言われます。戦後ほどなくして登場したようですが、単なる変人として問題にされることもなかったようです。ところが、ドイツで、移民、難民問題が社会を揺るがし始めるとともに、ライヒス・ビュルガーも存在感を高めていきます。

ちょうどアメリカでは、トランプ旋風が起こり、Qアノンが台頭してきます。これがライヒス・ビュルガーにとって追い風になったことは間違いないと思われます。いずれも社会不安を背景に、SNSで拡大した運動ですが、SNSが可能にした断定的な強い表現が、運動の性格にマッチしていたと思います。思えば、ヒトラーもトランプも、断定的なものの言い方が特徴でした。事実確認を拒否したSNSの断定的発言の背景にあるのは、その匿名性だと思われます。匿名性ゆえに、自由で開かれたネット空間が生まれているとも言えますが、一方では、デマの拡散、誹謗中傷といった卑劣な犯罪的行為も起こります。そろそろ、なんらかの法的な事前規制が検討されてもいいところまで来ているように思います。

災害時のデマなどは、甚大な人的被害を生じさせる可能性すらあります。例えば、災害といった特定の状況、犯罪に関わる事象、あるいは公人といった立場によっては、匿名による発信を認めない等の対策も考えられます。また、限定列挙された事象に関わる発信については、実名が公表される場合があることを、事前に承諾させる方法も考えられます。実際の規制に際しては、なかなか判断が難しくなると思われます。ただ、人類が経験したことのない世界ゆえ、トライアル&エラーを重ねることでブラッシュ・アップしてゆくしかないように思います。いずれにしても、農耕以前の法も道徳もない世界に逆戻りしたような状況は放置すべきではないと思います。(写真出典:insurgente.org)

2022年12月1日木曜日

ゴッホになる

 「わだばゴッホになる」は、世界にその名を轟かせた版画家・棟方志功の自伝のタイトルです。私はゴッホになる、という意味の津軽弁ですが、志功が弘前の洋画家を訪ねた際に言った言葉です。ゴッホは、志功の頭の中では油絵画家の象徴だったようです。棟方志功は、1903年、青森市の刀鍛冶の家に生まれます。幼少の頃から絵を描くのが大好きだったと言います。極度の近視のため、画板に顔をこすりつけるようしてスケッチする独特な姿が、青森市内の善知鳥神社や合浦公園で、よく見かけられたようです。名前と小便をかけて「シッコ、シッコ」と皆に馬鹿にされていたと聞きます。志功は、21歳のおり、画家を目指して上京します。

上京後は、展覧会に出品しても落選が続き、鳴かず飛ばずだったようです。ある時、川上澄生の版画「初夏の風」に出会い衝撃を受けた志功は、版画の道に入ります。1936年、佐藤一英の詩「大和し美し」を題材とした作品が高く評価され、民芸運動との関わりのなかで、その画風を磨きます。戦時中は、富山県の南砺市に疎開し、そこで浄土真宗と出会います。以降、仏教的要素の濃い作品が続き、1948年には改刻した代表作「二菩薩釈迦十大弟子」を発表しています。また、1956年には、ヴェネツィア・ビエンナーレに出品した釈迦十大弟子や「湧然する女者達々」が、日本人初となる国際版画大賞を志功にもたらします。1970年には文化勲章も受章しています。

志功は、自らの版画を”板画”と呼び、あくまでも木版版画にこだわり続けました。ほとばしる思いを彫刻刀に乗せて彫りつける大胆なタッチは、ゴッホの筆に通じるものがあります。板画でも倭画と呼ばれる肉筆画でも、彩色された作品が多くあります。その色彩は、ひと目見ただけで志功だと分かるほど独特です。私は、志功の色彩を見ると、チベットの祈祷旗タルチョを思い出します。寺院や峠などで、紐に付けられ、たなびく五色の旗です。色は、青・白・赤・緑・黄であり、順番もこのとおりと決まっています。風にたなびくことで、読経と同じ意味を持つと言われます。志功の独特な色彩も、祈りの色なのかも知れません。

志功の板画や倭画が伝えるプリミティブなパワーは、どこか縄文文化に通じるものがあるように思います。それは、津軽三味線やねぶた祭といった津軽の文化にも重なるところがあります。志功のねぶた好きは有名でした。NHKの看板アナウンサーだった鈴木健二は、自らも画家を目指したほど美術に造詣が深く、かつ旧制弘前高校出身だったこともあり、志功とも交友がありました。志功没後でしたが、その鈴木健二が、ねぶた祭の生中継を行った際のことです。ねぶたの熱気に高揚した鈴木健二は、ここに志功さんがいてくれたら、と泣き出します。放送事故とも言えますが、TVを見ていた私も、もらい泣きしました。志功とねぶたは、切っても切れない強い絆で結ばれています。志功の色は、ねぶたの色なのかも知れません。

志功の作品を展示する美術館は、青森市の棟方志功記念館はじめ、全国に少なからず存在します。なかでも有名なのが倉敷の大原美術館です。「二菩薩釈迦十大弟子」を常設展示するために棟方志功展示室が作られています。その大原美術館の裏手には、倉敷国際ホテルがあります。吹き抜けのロビーには大作「大世界の柵・坤(こん)ー人類より神々へー」が飾られています。大原總一郎氏が、ホテル開業にあわせ、志功に制作を依頼した作品です。木版画としては、世界最大と言われています。大原美術館に行く際には、立ち寄るべきだと思います。(写真出典:soukaku.co.jp)

サンティアゴ・デ・クーバ