西南戦争は、実に不思議な戦争です。薩摩の戦力と組織力、そして西郷隆盛の存在がゆえに、規模的には内戦となりましたが、本質的には単なる暴動だったと言えます。そのゴールとするところが曖昧で、従って戦略も合目的性に乏しく、ただ、戦闘においては、さすが薩摩という強者ぶりを発揮します。そのチグハグさの背景には、総大将である西郷隆盛の沈黙があったと思います。西郷は、征韓論に際しても、明治六年政変でも多くを語らず、西南戦争では、一層言葉少なになっています。ただ、戦争のトリガーとなった私学校生による火薬庫襲撃を聞いた際、「ちょしもた(しまった)」と発したとされます。腹に収めた心づもりを脅かす事態であり、その秘めた思いを窺い知ることができる言葉でもあります。
薩摩のリーダーとして倒幕を果たした西郷隆盛ですが、明治新政府への参加は、頑なに断り続けました。戦時のリーダーであって、平時のリーダーではないことを自覚していたとも思えます。また、新政府が中央集権化を進めるに際して、士族を解体せざるを得ないことは十分に理解していたと思われます。廃藩置県、四民平等、徴兵令も受け入れ、それが廃刀令や秩禄処分へと進むことも理解していたものと思われます。一方で、内戦化を懸念し、かつ自らが率いて共に戦ってきた士族を切って棄てることは忍びないとも思っていたのでしょう。そこで西郷は、なんとか士族を活かせないものかと思案していたものと思われます。徴兵制に対して志願制を提案していますし、征韓論の真意も士族の活用にあったのでしょう。
1867年、日本は、新政府発足を通知する外交文書を朝鮮国に送ります。しかし、朝鮮国が、その受け取りを拒否したことから征韓論が起こります。即刻出兵の声もあがりますが、発足間もない明治政府に戦争を遂行する財政的余力はありませんでした。西郷は、自らを全権大使として朝鮮国に派遣することを強く主張します。命の危険すらある朝鮮入りです。西郷は死を覚悟していたとも言われます。自らの死をもって、朝鮮出兵を実現し、武士たちを活かす場を生み出そうとしていたのでしょう。維新の立役者である西郷の命を危険にさらすことを、天皇はじめ政府中枢が拒否します。政府に生まれた亀裂が明治六年の政変につながり、西郷はじめ、多くが野に下ります。鹿児島に戻った西郷は私学校を設立、九州各地では士族反乱が起こります。
内戦を回避し、士族を活かす道を模索していた西郷ですが、西南戦争で結果は真逆となったわけです。西郷が挙兵を決断した背景には、政府による西郷暗殺計画があったとされます。複数の自供なるものが存在しますが、計画の存在は確認されていません。しかし、暗殺計画を聞いた時点で、西郷は、自らの思いと政府方針が相容れないことを悟り、プランBを選択したのでしょう。つまり、自らが内乱を起こし、政府に鎮圧させ、腹を切って死ぬ。そのことによって士族を活かす道は失われるものの、内乱を最小限に留め、中央集権化を進める、ということです。そう考えなければ、暗殺計画の真偽を問うという曖昧な戦争目的、熊本城包囲という戦略ミス、そして軍略に一切口出ししない西郷など、この挙兵の奇妙さを説明できません。西郷隆盛は、自らの死をもって日本の近代化を進めたと言えるのでしょう。(写真出典:tabi-mag.jp)