2022年8月7日日曜日

忠犬シロ

秋田犬
かつて、鹿角市草木に佐多六というマタギがいました。佐多六の家は、代々続くマタギで、源頼朝の富士の巻狩での働きが認められて下賜されたという、日本中のどの山でも狩猟ができる免状を持っていました。ある冬の日、佐多六は、愛犬シロと山に入り、大きな鹿と出会います。佐多六の打った銃弾は、鹿に当たります。ところが、鹿は血を流しながらも逃げます。佐多六とシロは、これを追って、山中深くへと入っていきます。いつしか鹿角郡を離れ、三戸郡に入っていた佐多六は、土地の猟師たちに見つかり、密猟を疑われます。その日に限って、佐多六は免状を持参していませんでした。佐多六は、三戸城下の牢に入れられます。

密猟、密漁は重い罪でした。密漁を繰り返した男が、生きたまま簀巻きにされ海に沈められたという話がベースになっている能楽「阿漕」があるくらいです。賢い猟犬だったシロは、主人の危機を察し、草木の家へと駆け戻ります。山に入って3日も戻らぬ佐多六を心配していた家人は、シロの興奮状態を見て、いつもなら猟に持参する免状が神棚にあることに気づきます。竹筒に入れた免状を首につけられたシロは、再び三戸城下へと急ぎます。主人のいる牢にたどりついたシロでしたが、佐多六は、既に処刑されていました。シロは、城下を見下ろす丘のうえで、いつまでも遠吠えを続けたと言われます。その丘は、いまでも犬鳴森と呼ばれているとのことです。

鹿角・三戸間には、来満峠を越す鹿角街道がありました。盛岡に城を築く前、南部氏は、三戸城を拠点としていました。鹿角街道は、南部氏の領地の一部であった鹿角との行き来のため、そして尾去沢鉱山で産する銅を陸奥湾の野辺地港へ運び出す道として活用されていました。尾去沢鉱山は、708~1978年、約1300年間に渡って、銅と金を産出した鉱山です。ただ、鹿角街道は、冬場、雪が深くて往来できなかったようです。佐多六の家のあった草木から三戸までは、約60km。シロは、これを二度往復したという説もあるようです。佐多六亡き後、家族は、シロを連れて、秋田藩領内、大館の葛原に移り住みます。葛原の人々も賢いシロを大事にし、亡くなったシロを埋葬した地に老犬神社を建て、今に伝わります。

しかし、この話、多少、疑問に思える点があります。佐多六は、三戸で密猟を繰り返した常習犯でもなく、捕まった時には獲物を持っていない未遂犯だったこと、あるいは同じ南部氏領内での事案だったことを考えれば、即刻、打ち首は厳しすぎる処分のように思えます。南部氏は、甲斐源氏の加賀美氏の末裔であり、室町期には、三戸を拠点に陸奥北部に権勢を振るいます。ただ、津軽氏との争いや内部抗争もあり、不安定な政権だったようです。1591年には、南部氏のお家騒動と言える九戸政実の乱が起こります。苦境に立たされた南部氏ですが、豊臣秀吉の力を借りて、これを平定しています。南部氏危機存亡の時にあって、運悪く捕まった佐多六は、密猟者ではなく、九戸氏の間者と疑われ、嫌疑を晴らせぬまま斬首されたのではないでしょうか。

シロの犬種はマタギ犬とされています。マタギ犬は、アイヌ犬を祖先とする猟犬であり、津軽犬、岩手犬などの総称だったようです。清和源氏の流れを組む名門佐竹氏は、関ヶ原の戦いのおり、家中の意見をまとめられず、一兵も動かしませんでした。それをとがめた家康によって、佐竹氏は秋田に移封されます。佐竹氏は、将軍家を恐れ、強兵に勤めますが、その一環として闘犬を奨励します。そのなかで、マタギ犬に他の雑種を掛け合わせた秋田犬が生み出されました。渋谷の忠犬ハチ公は秋田犬です。ハチ公は忠犬シロの末裔だったわけです。(写真出典:scienceportal.jst.go.jp)

2022年8月6日土曜日

パンケーキ

Eggs’n Things
ホットケーキを、アメリカではパンケークと呼ぶことを知ったのは、NYに赴任した時でした。パンケーキと言えば済むものを、なぜ、わざわざホットケーキに変えたのでしょう。ソーイング・マシンがミシンになるくらいなら許せますが、妙な工夫を加えた和製英語は、日本人の英語力を低くする一因になっているとも思います。ホットケーキの場合、犯人ははっきりしています。1923年、日本橋の三越百貨店が、食堂で「ハットケーキ」として売り始めたことがきっかけだったようです。その後、1931年には、ホーム食品が、ホットケーキの粉「ホームラック(無糖ケーキミックス)」を家庭用に発売 しています。ホットケーキが、日本に定着したのは、1957年、森永製菓が発売した「森永ホットケーキの素」によるところが大きいようです。

パンケーキは、フライパンで焼くことからパンケーキと呼ばれますが、三越は、単に温かいというだけではなく、ブレッドのパンとの混同を避けるために、ハットケーキと命名したのではないかと思います。また、日本では、永らくホットケーキは甘いものとして知られていましたが、これは森永ホットケーキの素が砂糖を入れていたからだそうです。いずれにしても、日本では、独特の”ホットケーキ”文化が発達したわけです。変化が起きたのは、1970年代以降の海外旅行ブームからではないかと思われます。欧米では、パンケークと呼ぶこと、朝食のメニューであることが認識されたわけです。そして、2008年、鎌倉の七里ヶ浜にオープンしたシドニーのBillsが火付け役となり、2010年、ホノルルのEggs’n Thingsが原宿に出店すると”パンケーキ”ブームが起こりました。

Eggs’n Thingsのパンケーキは、大量の生クリームとフルーツで有名になりましたが、実は生地にナッツの粉が入り、独特の風味を生んでいるところが最大の魅力だと思います。以降、極厚のパンケーキも人気を集めるようになりました。そもそも、パンケーキの歴史は古く、古代エジプトでは、既に焼かれていたようです。日本ではアメリカ式が中心ですが、世界各国には、それぞれのパンケーキが存在します。フランスのガレットも、その一つでしょう。アムステルダムには、パンネクックと呼ばれるパンケーキがあります。ダッチ・パンケークとも呼ばれています。ベーキング・パウダーを使っていないこと、油が多いことが特徴です。アムステルダムでパンネクックを食べた時に、私が思い出したのは、台北名物の葱餅でした。似ているどころか、同じ食べ物と言っても過言ではありません。

ドイツ風パンケーキもあります。ジャーマン・パンケークとも呼ばれますが、アメリカでは「ダッチ・ベイビー」として知られます。ダッチ・ベイビーは、ダッチ・パンケークとは大いに異なり、ポップオーバー系です。ダッチとは”オランダの”という意味ですが、アメリカでは、昔、ドイツもダッチと呼んでいたようです。恐らくドイッチュからの発想なのでしょう。ダッチ・ベイビーの発祥は、1900年頃、シアトルのManca's Cafeだとされます。ダッチ・ベイビーという不思議な名称は、店の主人の娘が付けたということです。少女が、何を思って、そう命名したのかは分かりませんが、一般名詞として定着したわけです。ダッチ・ベイビーもポップオーバーも、イギリスのヨークシャー・プディングが起源だとされています。ヨークシャー・プディングは、ローストビーフの付け合わせとして有名ですが、18世紀には、既に食べられていたようです。

ホノルルのイリカイ・ホテルは、いつの頃か、建て替えて、モダンな高層ホテルになりました。かつては、低層の趣きのある古いホテルでした。泊まったことはありませんが、朝食を食べるために、何度行きました。隣のヒルトン・ラグーンを借景したような庭で食べる朝食は気持ちが良く、何よりも丸っぽく膨らませたポップオーバーが絶妙でした。以来、私は、ポップオーバー・ファンになりました。粉砂糖をかけた見た目は、ハワイ名物でもあるポルトガル風ドーナッツ”マラサダ”のようでもありました。新しくなったイリカイの朝食に、ポップオーバーはありません。残念。あのポップオーバーが、また食べたいと、いつも思っています。(写真出典:dtimes.jp)

2022年8月5日金曜日

紀伊國屋文左衛門

「沖の暗いのに白帆が見ゆる あれは紀の国みかん船」とは、かっぽれの一節ですが、もともと江戸に伝わる俗謡だったとも聞きます。元禄の頃、一代で巨万の富を築いた豪商・紀伊国屋文左衛門を謡っています。江戸では毎年11月8日、市中の鍛冶屋や鋳物師たちが ”ふいご祭”という神事を行っていました。その際、恒例として、ミカンをばら撒いたものだそうです。当時、江戸のミカンと言えば、紀州から船で運ばれていました。ところが、その年に限って、10月から海は荒れたままで船が出せず、江戸ではミカンが入手できず、紀州では大豊作だったミカンが余るという状況に陥ります。

紀州和歌の浦で廻船問屋を営む紀伊国屋文左衛門は、親の代から困窮を極めていましたが、かかる状況下、一発、大勝負をかけます。舅から資金を借り受け、質に入っていた船を請け出し、ミカンを格安で仕入れます。船には船員も必要です。遭難して生き残った土左衛門の千八と呼ばれる剛毅な船頭がいました。紀伊国屋は、荒海へ漕ぎ出すことを賭けて、千八と博打をして勝ちます。10月28日、風が西に変わり、いよいよ漕ぎ出したミカン船は、荒れ狂う難所を越えながら、11月1日、まんまと江戸に入ります。捨て値で仕入れたミカンが、高値で飛ぶように売れます。命を元手の大勝負に勝った文左衛門は、大きな富を得ました。紀伊国屋文左衛門のミカン船という話ですが、どうも、これは幕末の頃の創作だったようです。

当時の船と航海技術からすれば、嵐の太平洋航路など、あり得ない話です。北前船が、江戸期の主流になったにはわけがあります。文左衛門の実在そのものを疑問視する声もありますが、一方、政商として、材木を商ったり、銭の鋳造を請け負ったりした記録も残っているようです。幕府の要人に取り入り、一代で財を成した豪商がいたことは事実なのでしょう。ただ、銭の鋳造に失敗した文左衛門は没落します。困窮のうちに死んだとも、それでも残った財で文化人として暮らしたとも言われます。跡取りは、凡庸な人で、紀伊國屋はほぼ一代で消滅、文左衛門につながる家系は確認できないようです。

ただ、この希代の豪商にあやかろうと、紀伊国屋を名乗る店や会社は、今も多くあります。有名どころでは、紀文食品、紀伊國屋書店、スーパー・マーケットの紀ノ国屋等があります。書店の紀伊國屋は、創業者の田辺茂一の先祖が、紀伊徳川家の江戸藩邸に勤める足軽だったことから命名したようです。紀文の場合、昭和初期、日本一の商人を目指して、山形から上京した保芦邦人が、豪商にあやかろうと命名したようです。そのくせ、周囲から「紀伊国屋さん」とさん付けで呼ばれることに抵抗を感じ、親しみやすい「紀文」に変えたのだそうです。紀伊国屋は、思わずさん付けするほどリスペクトされたブランドであり、しかも誰もが使えたブランドだったわけです。もはや紀伊国屋文左衛門の実在性など問題ではないように思います。

実は、ミカン船には、後日談があります。ある年、大阪で大洪水が起こり、伝染病が蔓延します。これを商機とみた文左衛門は、江戸中の塩鮭を買い占め、大阪に持ち込みます。そして、流行り病には塩鮭が一番、という噂を流します。案の定、塩鮭は、飛ぶように売れたというわけです。ミカン船は、いかにもといった作り話ですが、塩鮭の話は、一代で財を成すような商人ならあり得る話であり、妙に真実味を感じます。豪商にあやかり、今も紀伊国屋を名乗る企業の皆さんなら、塩鮭の話も、当然、知っているはずです。あこぎな塩鮭の話を、どのように思っているのでしょう。(写真:江東区成等院にある文左衛門の墓 出典:kikaku-sembei.co.jp)

2022年8月4日木曜日

テキサス・レンジャー

テキサス州旗「ローンスター」は、テキサン(テキサス人)の結束と独立心の象徴です。テキサス革命で、メキシコからの独立を勝ち取ったテキサンは、1836年、テキサス共和国を樹立させ、ローンスターを国旗と定めます。1845年、共和国は、アメリカ合衆国に参加し、テキサス州となります。ただ、南北戦争時には、合衆国から独立し、アメリカ連合国、いわゆる南軍に参加します。アメリカは、合衆国だけあって各州の独立性は高いのですが、テキサスは、独立国の気概を持ち続けている唯一の州だと言えます。テキサス・ローンスターは、その象徴です。同様に、テキサンのプライドを示しているものの一つに、テキサス・レンジャーがあります。

テキサス・レンジャーは、アメリカで最も古い州法執行官であり、現在は、テキサス州公安局に所属しています。簡単に言えば、警察官ですが、アメリカの場合、警察機構は、各州の権限によって構成されるので、州によって大きく異なります。基本は、郡などの自治体が選出した保安官が、法執行機関の長として、警察組織を指揮します。保安官制度は、英国の伝統を継承しており、シェリフ、マーシャル、コンスタブルといった呼び方があります。ただ、郡単位だけだと、州法の執行が担保されないので、州保安官、州警察、州保安局などが設置されます。テキサス・レンジャーも、このレベルに位置づけられます。

テキサス・レンジャーの歴史は、1821年にメキシコ領内へ入植したスティーブン・オースティンにはじまります。オースティンは、アメリカ人のテキサス入植を推進した人で、テキサスの父とも呼ばれます。入植者たちは、しばしばネイティブ・アメリカンに襲撃されます。もともとは、彼らの土地ですから、当然とも言えます。オースティンは、1823年、10人のボランティアを募って自警団を組織します、これがテキサス・レンジャーの始まりでした。"range"は、範囲を示す言葉ですが、ここでは入植地のことであり、その域内を巡回するといった意味でレンジャーと呼ばれたようです。

テキサス革命時には、騎兵隊として活躍し、3個中隊規模にまでなったようです。共和国が設立されると、警察機能を担うことになります。フロンティアの時代には、州の利権のために、かなりあくどいこともやったようですが、悪人には恐れられ、住民からは一目置かれる存在になります。以降、現在に至るまで、州警察とは別組織として存続しています。レンジャーは、警察官として一定年数の経験を有する優秀者のなかから選抜されるようです。レンジャーは、ボランティアに始まる歴史が重視され、今でも制服はありません。テキサス・レンジャーと言えば、白いテンガロン・ハット、カウボーイ・ブーツ、ガンベルトにコルト・シングルアクション・アーミー銃が定番でした。現在は、ローンスターをあしらった有名なレンジャー・バッジとカウボーイ・ブーツの着用だけが求められているようです。

私の年代にとって、テキサス・レンジャーといえば、なんと言ってもTVシリーズ「ローン・レンジャー」です。1933年に放送されたラジオ・ドラマですが、その後、人気TVシリーズとなり、何度も映画化されています。日本では、1958年に始まるTV放送が大人気となりました。ロッシーニのウィリアム・テル序曲が流れ、白いテンガロン・ハットと黒いアイ・マスクを身に付けたローン・レンジャーが、愛馬シルバーに跨がって登場する姿は、今でも目に焼き付いています。「ハイヨー、シルバー」、「インディアン、嘘つかない」、「キモサベ」等は流行語にもなりました。もっとも「インディアン、嘘つかない」は、日本で勝手に付けた吹き替えであり、アメリカ人に言っても、通用しません。一方、「キモサベ」は、信頼できる親友といった意味で、今でもアメリカ人は使います。(写真出典:texasranger.org)

2022年8月3日水曜日

幻の魚を見たり

和井内貞行
久しぶりの十和田湖で、もっと久しぶりにヒメマスの刺身を食べました。赤味の濃いサーモン・ピンクの身は、柔らかく、甘いのが特徴です。サケ・マスは、寄生虫のリスクがあるので、かつては刺身では食べませんでした。食べるとすれば、アイヌ風に凍らせたルイベだけでした。近年は、サケの養殖が進み、人気の寿司ネタにもなっています。ヒメマスに関しては、陸封型の紅マスであり、海に出ることがないので、もともと寄生虫の心配がありませんでした。いまや十和田湖名物となったヒメマスですが、古くから十和田湖に存在していた魚ではありません。明治後期、和井内貞行が、苦労の末に養殖に成功したものです。

十和田湖は、3万5千年〜1万5千年前の巨大噴火で誕生したカルデラ湖です。田沢湖、支笏湖に次いで、日本第3位の水深を誇ります。十和田湖は、魚の住まない湖でした。カルデラ湖の場合、通常、流出する川を遡上してきた魚が住んでいるものです。十和田湖の場合、唯一の流出川である奥入瀬川に銚子大滝があり、これが魚の遡上をせき止めていたようです。江戸末期から、イワナやコイの放流が行われ、部分的には成功していたようです。和井内貞行もコイの放流から始めていますが、1900年、アイヌ語で言うカバチェッポに出会います。カバチェッポは後にヒメマスと命名されます。日本では、もともと阿寒湖とチミケップ湖に生息し、1893年に北海道庁が養殖を始めています。和井内貞行が購入したヒメマスの卵は、支笏湖に移植されたヒメマスのものでした。

和井内貞行は、1858年、南部藩の毛馬内(けまない)柏崎新城の家老の家に生まれます。武家の子として、戊辰戦争時の秋田戦争での敗北を経験したわけです。奥州越列藩同盟についた南部藩は、新政府についた秋田藩を攻めます。当初、優勢に戦いを進めた南部藩でしたが、新政府の援軍を得た秋田藩に押し戻され、盛岡も新政府軍によって占拠されます。明治になると、廃藩置県によって、毛馬内を含む鹿角郡は、秋田県に編入されます。家老の家柄とは言え、すべてを失った和井内貞行は、教員手伝い、鉱山職員として生計を立てます。27歳のとき、鉱山で働きながら、十和田湖でコイの放流を行い、部分的に成功します。以降、和井内は、養殖にのめり込んでいきます。

コイの養殖に目処がたった頃、地元鉱山が閉山となり、市場を失った和井内は、自身も小坂鉱山へ転勤となります。40歳になった和井内は、鉱山を辞め、故郷での養魚に専念する決心をします。湖畔に旅館と孵化場を整備し、十和田湖観光の宣伝も行います。その後、サクラマス、ビワマス等の養殖に取り組みますが、簡単ではありませんでした。借金まみれとなり、極貧の生活を続けながらも、和井内は諦めることなく、ヒメマスの養殖にチャレンジします。放流したヒメマスが、産卵のために戻ってくるのは、3年後のことだと言います。ある風のない日、和井内は、湖面がさざめき始めるのを見ます。戻ってきた大量のヒメマスでした。和井内は、その感動を「われ幻の魚を見たり」と書き残しています。ヒメマス養殖と十和田湖観光に功績のあった和井内は、後に緑綬褒章を授与されています。

薩長が、徳川を排して、政権を完全に掌握するためには、戊辰戦争は避けて通れないものだったのでしょう。一方、本当に必要な戦いだったのかという疑問も残ります。坂本龍馬は、徳川慶喜も入れた新政府構想を起案したために、倒幕一辺倒の薩摩の陰謀によって暗殺されたという説まであります。奥州越列藩同盟はじめ、朝敵、賊軍とされた各藩の武家の戦後は厳しいものでした。明治期以降、元賊軍の武家に残された道は、教育者か軍人だけだったとも聞きます。和井内貞行が、地元十和田湖での養殖・観光によって産業を興すことにこだわったのは、元賊軍を取り巻く厳しい環境がゆえだったようにも思えます。十和田湖のヒメマスは、戊辰戦争が生んだと言えるのかも知れません。(写真出典:towadako.or.jp)

2022年8月2日火曜日

エンブラエル

FDAのエンブラエル機
フジドリームエアラインズ(FDA)は、2008年に設立され、2009年から運航を開始しています。鈴与100%出資のリージョナル航空会社です。創業220年になる鈴与は、清水港の回漕業から始まった物流大手ですが、業務の幅広さでも有名です。静岡空港開業にあたり、県から要請されたとは言え、8代目鈴木與平会長が、航空業への進出を決めた際には、無謀との声が多くありました。FDA設立前に、当時、社長だった鈴木與平氏から、設立経緯を伺う機会がありました。日本の航空業不振の理由は、燃費の悪い大型機に半分の乗客だけを乗せて飛んでいることだ。燃費の良い中型機を使用することで、採算は見込める。ブラジルのエンブラエルに出会ったことが、航空事業進出の決め手となった、とのことでした。

当時、エンブラエルに関する知識を持っていなかったので、思わず「ブラジルの飛行機ですか?」と聞き返しました。私の頭のなかには、陽気なブラジル人が、サンバでも聴きながら、機体を組み立てている光景が浮かんでいました。鈴木與平氏は、笑いながら、皆、同じ反応をしますが、ご心配なく、ドイツ系移民がドイツの航空技術を継承している会社です、と言っていました。19世紀、ドイツ人は、アルゼンチン、ブラジルはじめ、南米各地に多く移民しています。第二次大戦後、ナチス残党の逃亡を助けたオデッサ機関は、スペイン、アルゼンチン、ブラジル等に逃亡ルートを持っていたとされます。戦前、ドイツが世界に誇った航空技術が、ブラジルで継承されていたとしても不思議はありません。

エンブラエル(Empresa Brasileira de Aeronáutica S.A.)は、1969年、ブラジルの国営航空機メーカーとしてスタートしています。空軍の技術研究所によるバックアップを受け、1972年には、20人乗りの双発プロペラ旅客機「バンデイランテ」の初飛行に成功します。バンデイランテは、500機生産され、日本にも導入されています。ちなみに、日本の翼YS-11の生産数は182機に留まっています。この成功で、エンブラエルは、一躍、世界の航空機製造業の一翼を担うことになりました。その後、湾岸戦争の煽りも受けて経営は悪化、1994年には民営化されています。1990年代から、エンブラエルは、小型・中型のジェット旅客機を開発します。折しも、世界中の航空会社が、そのカテゴリーの航空機を求めていました。

FDAが使用する機体は、76席のERJ170、86席のERJ175です。このERJシリーズの成功によって、エンブラエルは、カナダのボンバルディアを抜いて世界第3位の航空機メーカーとなりました。エンブラエルは、ブラジル最大の輸出企業でもあります。いまやブラジルは、コーヒーとサンバと飛行機の国だと言うべきです。エンブラエルの成功に比べ、三菱スペースジェット(旧MRJ)の現状のなんと悲しいことかと思ってしまいます。2008年に国家プロジェクト化されましたが、開発は遅れに遅れ、現在は、事実上の凍結状態となっています。何がエンブラエルと違ったのか知りたいものです。結果的には、技術力の差なのでしょうが、そればかりでもないように思えてなりません。

皆が心配したFDAでしたが、その後、順調に推移しています。静岡、小牧、神戸を運行拠点とし、地方空港間を飛ぶリージョナル路線を拡大中です。東京の人は、FDAになじみが薄いのでLCCと勘違いしがちですが、立派なフルサービス・ライナーです。機材も増加を続けています。あらためて、8代目鈴木與平氏の慧眼に敬意を表します。一度、FDAのエンブラエル機に乗ったことがあります。どんなものか、興味津々で搭乗しましたが、さすがに他機との乗り心地の違いまでは分かりませんでした。ただ、どことなくカチッとした印象を受け、車で言えばBMWのタッチに近いものを感じました。もちろん、ドイツ系と聞いたから、そう思っただけのことでしょうが。(写真出典:flyteam.jp)

2022年8月1日月曜日

「モガディッシュ」

 監督:リュ・スンワン     2021年韓国

☆☆☆+

スピード感があり、迫力もあり、実によくできたエンターテイメント映画だと思います。文在寅政権時代には、「タクシー運転手」、「国家が破産する日」、「1987」、「KCIA」など、青瓦台肝いりと思われるプロパガンダ系映画が製作されました。どれもレベルの高いエンターテイメントであり、大ヒットしました。テーマは二つありました。一つは、保守勢力はひどい、今一つは、南北は仲良くしましょう、ということです。本作は、文在寅政権最後のプロパガンダ系であり、南北融和を主題とする映画です。ただ、これまでのプロパガンダ系とは、やや異なる風情を感じます。

本作は、実話に基づいているようです。1980年代、国連加盟をねらう北朝鮮と韓国は、大票田アフリカで、互いに牽制・妨害しながら外交活動を展開します。1988年から内戦状態にあったソマリアの首都モガディッシュ(モガディシオ)でも同様でした。1991年12月、アイディード将軍率いる反政府勢力がモガディッシュに侵攻、北朝鮮と韓国の大使館も攻撃を受けます。北朝鮮は大使館を放棄、大使館員と家族は、結果的に韓国大使館に保護される事態となります。韓国大使館員は、イタリアの救援機で国外へ脱出できることになりますが、イタリアと国交のない北朝鮮大使館員は、キャパの問題から搭乗を拒否されます。韓国大使は、北朝鮮大使館員が南に転向したと偽り、両国大使館員は、全員、国外脱出を果たします。

リュ・スンワン監督は、韓国のタランティーノとも呼ばれ、アクション映画に冴えを見せてきました。個人的に印象に残っている作品は「生き残るための3つの取引」(2010)です。ただ、圧倒的な展開力はあるものの、どこか作品としての完成度に欠けるきらいがありました。ところが、本作では、小気味よいテンポとテーマへの集中度が、最後まで途切れることがなく、完成度の高い作品となっています。戦時下の国からの脱出という緊張感あふれるフレームに、極限状態における南北の政治的対立と民族としての共感性という要素が加わり、深みのあるプロットが生まれています。あくまでも政治ではなく個人に視点を置いていることが、多くの韓国人の共感を得たのだと思います。

モガディッシュが舞台の映画と言えば、なんといってもリドリー・スコット監督の「ブラックホーク・ダウン」(2001)が挙げられます。本作のドライでリアルな映像には、ブラックホーク・ダウンの影響を色濃く感じます。ロケ地も、同じくモロッコだったようです。ブラックホーク・ダウンはアカデミー音響賞を獲っていますが、本作の音響、とくにカラシニコフの銃声がリアルで、印象に残りました。ソマリアでは、1988年以降、カラシニコフの銃声が絶えることなく、今に至ります。バーレ将軍の腐敗した独裁政権が、モガディッシュ陥落で倒れた後は、反政府勢力間での争いが起こります。内戦は今も続き、長い間、国としての体を成していません。また、北部のソマリランドは事実上の独立国家にまでなっています。

プロパガンダとエンターテイメントの組み合わせは、危険な化学反応を起こします。文在寅政権は、左翼らしい狡猾さをもって、映画界をコントロールしたように思います。青瓦台からの指示や圧力があったかどうかは知りません。ただ、少なくとも、忖度が働く環境にあったことは間違いないと思います。共産主義の問題点のひとつは空想的な理想論です。文在寅の北寄りの政策は、具体的に何を目指しているのか、まったく不明でした。分断解消に反対する人はいないと思います。ただ、王朝維持を政治目的化した指導者、そして運命を共にする取り巻き官僚で構成される政権と、いかに統一するのかという具体策は見えないままでした。ヴィジョンがないままの交流拡大は、王朝を利するばかりと言えます。本作は、さりげなく統一の難しさを示唆している点で、これまでのプロパガンダ系と異なっていると思います。(写真出典:filmarks.com)

川上