2021年12月7日火曜日

アナタハンの女王

1944年、比嘉和子は、夫とともにアナタハン島に移り住みます。夫は、”海の満鉄””とも呼ばれた国策会社の南洋興発に勤務しており、椰子油の原材料となるコプラ生産のために派遣されました。アナタハン島は、サイパンの北117kmに位置する北マリアナ諸島の小島であり、第一次大戦以降は、日本の委任統治下にありました。攻勢を強めた米軍の爆撃によって夫は死亡、島民たちも逃げ出し、島には夫の上司と和子だけが残ります。そこに爆撃された徴用船から漂着した日本兵など31人が上陸します。南洋興発からの食料補給も途絶え、33人は、自給自足のサバイバル生活に入ります。

上司と和子は、事実上の夫婦として、日本兵たちとは離れて生活します。終戦を迎えると、米軍が投降を呼びかけますが、日本人たちは、敗戦を信ぜず、立てこもります。1946年、島に墜落した米軍のB-29の残骸の中から、拳銃4丁が見つかり、部品を組み立て、2丁が使用可能な状態になります。この拳銃が、島のバランスを崩し、悲劇を生んでいくことになります。拳銃を持ったリーダー格の日本兵が、上司を殺害し、和子を”妻”にします。そのリーダーも、殺害されます。その後も、さらに2名が変死しています。和子と食料を巡る争いが、殺人に発展していったものと思われています。後に、和子は、自分を争って死んだのは2名だけだと証言しています。

争いが続くのは、和子のせいだという空気が生まれ、身の危険を感じた和子は、1950年、米軍に投降します。帰国した和子は、島に残る日本人の救出を訴え、翌1951年には全員が救出されます。32名いた男たちは、20名に減っていました。殺害されたのは4名、他は事故、衰弱死等だったと見られています。帰国した男たちは、多くを語りませんでした。また、証言したとしても、保身的要素が加わるせいか食い違いが多く、真相は分からないままとなりました。殺人事件ゆえ、捜査されるべきところです。ただ、アナタハン島は、終戦とともに日本の委任統治を離れ、かつ米国による信託統治が決まった1947年までは、どこの国にも属さず、よって捜査対象でもありませんでした。

事の真相は不明ですが、和子を巡る若い男たちの争いとも、和子が女王としてすべてを仕切っていたとも言われます。この事件は、「アナタハンの女王事件」として、扇情的な報道によって世間の注目を集め、ブームの様相まで呈したようです。帰国後、和子は、映画に出演したり、舞台に立ったりしていたようです。度胸の据わった行動とも言えますが、悲しい居直りと見るべきかも知れません。ただ、ブームが去ると、故郷の沖縄に戻り、再婚して、2人の子供を産み、飲食店「アナタハン」を経営します。1979年、和子は、脳梗塞で死亡しています。戦後6年を経て救出された男たちも、妻が再婚しているケースが複数あるなど、厳しい帰国になったようです。

アナタハンで起きた事件の背景には、残留日本兵問題と同様、戦陣訓があることは明らかです。「生きて俘虜の辱めを受けず」というわけです。さらに組織化されていない集団のエゴのぶつかり合い、そして家父長制による女性差別が特徴的な事件なのでしょう。和子は、守ってくれる”夫”がいなければ、より悲惨な状況になっていたことでしょう。同時に、”夫”の存在が、集団内に暴力を生み出していくことになります。また、マスコミによる加熱した報道合戦は、今も変わらぬ問題だと思います。帰国後の和子のつらさは、筆舌に尽くし難いものだったはずであり、アナタハン島にいた時よりも、一層過酷なものだったと思われます。生存能力の高い和子は、本能的に”居直る”ことを選択して生き抜いたと言えるのでしょう。(写真出典:bunshun.jp)

2021年12月6日月曜日

新宮

ゴトビキ岩
勤めていた会社には、全国津々浦々、1,000カ所に及ぶ営業拠点がありました。本社から一番遠い営業拠点はどこか、という定番の話がありました。直線距離ならば、東京・那覇間が1,500km余りであり、多くの人は那覇と答えます。正解は、和歌山県新宮市。距離ではなく、移動時間でみれば、那覇より遠いというわけです。ちなみに、第2位は、三重県の尾鷲です。新宮・尾鷲間は、約60km、特急で1時間弱かかります。新宮と尾鷲、いわゆる熊野地方は、アクセスの悪い“陸の孤島”と呼ばれてきました。 

2011年、新宮市は台風12号による水害で大きな被害を受けました。そのお見舞いのために、新宮市を訪問しました。まずは、羽田から飛行機で南紀白浜まで飛びます。便数は少ないものの、約75分のフライト。白浜からは特急で2時間半ですが、時間が合わず、車で移動しました。迎えてくれた和歌山支社長から、山の道、海の道、いずれを行きますか、と聞かれました。近い方で行こうと答えると、いずれも3時間半かかると言うのです。氾濫した熊野川の様子を見るために、山の道を選びました。10時半くらいに丸の内本社を出て、新宮市に到着したのは、夕方5時を回っていました。夕暮れの新宮は、商店で買い物をする主婦たち、道で遊ぶ子供たち、帰宅する生徒たち、と懐かしい昭和の風情を感じさせました。

新宮は、日本書記にも登場するほど古い歴史を持つ土地であり、熊野三山の一つ熊野速玉大社を擁する町です。徐福伝説が残ることから、少なくとも、古代には渡来人もいたのでしょう。中世から近世にかけては、南紀の要衝としての存在感を示しますが、最も栄えたのは、明治期以降であり、熊野の木材の製材、そして積出港として大いに賑わいます。当時、新宮には日本中の芸者が集まった、と言われるそうです。もちろん、大袈裟に過ぎる話ですが、いかに町が潤い、賑わっていたか、ということ伝える話です。安い外国木材が入り始めた戦後、町は急速に勢いを失っていきます。土地の人に聞くと、異常にスナックの多い町だと言います。漁師が多い、娯楽が少ない、といった背景も考えられますが、恐らく隆盛を誇った時代の残り香なのでしょう。

新宮の背面にそびえる神倉山の南端に、ゴトビキ岩と呼ばれる巨岩があり、町を見下ろしています。ゴトビキ岩を御神体とする神倉神社では、毎年2月、「御燈祭(おとうまつり)」という例大祭が行われます。神が、毎年始に、人々の使う火を、浄化したうえで授けるという意味があるようです。夜8時頃、白装束の氏子たちが、松明を持って、538段の石段を一気に駆け下ります。源頼朝が寄進したという石段は、大きな自然石を積み上げただけのものであり、石段というよりも、岩場の登山道といった趣です。それを男たちが密集して全速力で駆け下ります。勇壮な火祭りなどと悠長なことを言っている場合ではありません。危険極まりない、とんでもない祭りです。誰かが足を滑らせれば、数人の首が折れることは間違いありません。

新宮市は、人口27,000人ですが、熊野地方の中心都市として、商圏は約10万人になるようです。しかも大都市圏からは距離があるので、独立性の高い商圏と言えます。町の規模のわりには、商店も多く、大型商業施設等もあります。また、歴史の古い町らしく教育熱心でもあり、優秀な人材を輩出しています。新宮出身者には、佐藤春夫、中上健次など、学者や文化人が多いと聞きますが、近畿・東海一円にスーパー・マーケットを展開するオークワ創業の地でもあり、ホームセンターのコーナン創業者・疋田耕造の出身地でもあります。(写真出典:tripadvisor.jp)

2021年12月5日日曜日

MP

刑事小説や探偵小説は、主人公とともに、舞台となる街も主人公だと思っています。その街に対する愛情や愛着こそが、刑事小説の大きな魅力を構成しています。リー・チャイルドの「ジャック・リーチャー」シリーズ 第1作「キリング・フロアー」(1997)を読んだ時には、驚きました。リーチャーが、着替えすら持たない身軽な放浪者であり、特定の街を舞台にしていなかったからです。もっともリーチャーは、元MP(Military Police)の将校であり、軍隊が街の役割を担っているとも言えます。

リーチャーは、身長195cm、射撃の名手、格闘技の使い手、正確な体内時計、優れた洞察力、武器類に関する豊富な知識、現役MP部隊とのパイプ等と、かなりのスーパーマンです。軍人の子として生まれ、ウェスト・ポイントを卒業したリーチャーは、軍隊での生活しか知らないことに気づき、退役後、アメリカ中を見てみたいと放浪の生活に入ります。様々な土地で様々なシチュエーションに出くわすわけで、毎回、かなり自由なストーリー展開が可能です。うまい手を考えたものだと思いました。ただ、小説の出来としては、決して一流とは言えず、私のなかでは二軍です。故障者が出た場合のみ、一軍登録されます。トム・クルーズ主演で映画化もされましたが、2作目が不振だったことから、映像化の権利はAmazonに売られたようです。遠からずうちにAmazon Primeのオリジナル・シリーズ化されることと思います。

映画が不振だった最大の理由は、トム・クルーズをキャスティングしたことにあると思います。ジャック・リーチャー・シリーズが売れた大きな理由は、リーチャーのキャラクターにあります。トム・クルーズでは、リーチャー最大の特徴の一つである身長の高さを捨てざるを得ませんでした。加えて、トム・クルーズは、どんな映画に出演しても、いつもトム・クルーズです。ぶっきらぼうな態度、冷静でドライな性格こそが、リーチャーの魅力ですが、そのキャラクターがまったく表現されていません。それがなければ、リーチャー・シリーズを映画化する意味はなく、そこそこの出来のアクション映画に過ぎません。リー・チャイルドは、リーチャー役に、ウィリアム・ハートやラッセル・クロウの名を挙げていたそうですが、私は、絶対にクリント・イーストウッドだと思います。ただ、年齢的なミスマッチが致命傷ではあります。

世界の軍の警察機構には、大きく言って、二つの流れがあるようです。一つは、英米系のミリタリー・ポリス(MP)であり、軍内部の事案だけを扱います。自衛隊も、この方式です。一方、フランス発祥と言われる憲兵方式、つまり軍組織でありながら、一般警察の機能も兼ね備えるスタイルもあります。戦前の日本の憲兵も、同じ方式ですが、現代では、イタリアのカラビニエリ等が有名です。ただ、いずれの方式でも、軍人であることには変わりなく、戦争が起こると戦場へ赴きます。憲兵方式を採る国では、他にも警察組織が複数存在することが多く、例えばイタリアでは、国家治安警察とも呼ばれるカラビニエリの他に、国家警察や財務警察等があります。我々から見ると、ややこしい印象があります。英米方式はシンプルですが、アメリカのMPは、各軍の固有組織になります。陸軍は規模が大きいので、FBI顔負けの組織、捜査力を持っているようです。そこがリーチャーの魅力にもつながるわけです。

軍が民政に関わる憲兵方式というのは、どうも気持ちが悪く、全体主義の手先的な印象があります。戦前、陸軍大臣管下にあった日本の憲兵などは、その典型であり、思想弾圧まで行い、憲兵政治とまで呼ばれました。特に東条英機は、議会にも憲兵を配置し、政敵に対して容赦ない弾圧を加える等、恐怖政治の手先として憲兵を使っていました。また、満州等の占領地にあっては、匪賊や政治犯の被疑者を裁判無しで処刑するなど、非道な行為も行われていました。処刑された日本のB・C級戦犯1,000人のうち、4割近くが憲兵だったと言われます。(写真出典:amazon.co.jp)

2021年12月4日土曜日

ジャグア

英国が誇る名車Jaguarを、英国人は「ジャグア」と発音する、と書いたのは伊丹十三です。そのとおりではありますが、今も日本では「ジャガー」と表記されます。一般化、あるいは常識化されている事柄を、それはちょっと違うんじゃないの、と教えてくれたのが、1968年に、伊丹十三が発表したエッセイ「女たちよ!」だったと思います。小気味よい文章で、時に皮肉な語り口で、本質をついた持論を展開しています。生活が少し豊かになり、海外にも目が向かい、既存体制に対する抵抗が高まった時代、日常的な事柄に、こだわりのある新しい視点を示してくれました。70年代に到来する日本的なサブ・カルチャー時代を予見させる本でもありました。私たちが、そこで学んだのは、アル・デンテというスパゲティの茹で方や正しいミルク・ティーの入れ方だけではありませんでした。

伊丹十三は、1933年、知性派監督として知られる伊丹万作の長男として生まれます。高校卒業後、新東宝に商業デザイナーとして就職します。デザイナーとしての腕は、なかなかのもので、書籍の装丁などは、生涯続けています。ちなみに、アート・シアター・ギルドのロゴも手がけたことは有名です。その後、大映を皮切りに俳優へ転じ、「北京の55日」や「ロード・ジム」といった海外作品にも出演しています。俳優業を続けながら、執筆、TV制作、雑誌編集など、多才ぶりを発揮し、当代一流の文化人として知られました。1984年、「お葬式」で初めて長編映画を監督します。時に51歳、満を持しての監督デビューだったと言えます。大好評で、多くの賞を獲りました。思い入れたっぷりの映画でしたが、師と仰ぐ蓮實重彦の酷評を受け、以降は社会風刺を効かせたコメディに徹し、ヒット作を連発します。

監督デビュー前のことですが、伊丹十三の講演会を聞きに行ったことがあります。経団連主催の講演会であり、会場には多くのビジネスマンが詰めかけ、人気の高さを示していました。印象に残った話があります。この会場にいる皆さんは、レコード盤に例えれば、A面の人である。対して芸能人には、B面で生まれ育ち、なんとかA面に這い上がろうとしている人が多い。芸能界の競争は激しいが、コンプレックスが強いほど勝ち抜く力も強い、という話でした。自身も身を置く芸能界に対する冷静な目線は、距離感とも言えます。伊丹十三という人は、恐らく、どんな分野で仕事をしようと、一線を画した冷静さ、あるいは客観性を保ち、決して自分を失うことのない人だったのでしょう。

1997年、伊丹十三は、突然の死を迎えます。ワープロで打たれた簡単な遺書があり、飛び降り自殺とされました。週刊誌に不倫疑惑を書きたてられたことが原因ではないか、とも言われました。自殺直前、人は異常な精神状態にあるのだと思いますが、簡単すぎる遺書、しかもワープロ、いかにも伊丹十三らしくありません。不倫疑惑など、伊丹十三・宮本信子夫妻は、笑い飛ばしていました。当時、伊丹十三は、さる暴力団と創価学会との関係をリサーチし、新作映画にしようとしていたようです。様々な妨害もあったようですし、後には、殺害に関与したという暴力団員の証言も出ています。多くの関係者が、自殺はあり得ないとするなか、警察は、早々に自殺と断定します。他殺とする証拠・証言がなかったためでしょうが、早過ぎた結論には疑念も残ります。

「女たちよ!」は、ハイカラな蘊蓄だけで、ロングセラーになったわけではありません。体制を疑え、常識から自由であれ、自分自身の基準を持て、というメッセージが、あの時代の若者たちに響いたのだと思います。私たちの年代は、この本からダンディズムの何たるかを教わったと言えます。「女たちよ!」と言いますが、実は「青年たちよ!社会の家畜などにならず、独立した人間になれ!」が正しいタイトルだと思います。(写真出典:bunshun.jp)

2021年12月3日金曜日

平安末期のことですが、近衛天皇は、もののけに苦しめられ、病気になります。毎夜、丑の刻になると、黒い雲が御殿を覆い、天皇が苦しみ始めます。高僧たちによる加持祈祷も通じません。かつて、堀河天皇が同じように苦しんだ際、源義家が、弓の弦を三度引いて鳴らし、大声で名乗りをあげると、もののけは去り、天皇は平癒したことがありました。そこで弓の名手である源頼政が召されます。頼政は、現れた黒雲のなかに怪しい姿を認め、弓を射ます。手応えがあり、落ちてきたものを、家来が刀で刺します。もののけは、頭は猿、体は狸、尾は蛇、手足は虎で、鳴く声は、鵺(ぬえ)に似ていました。

平家物語第四巻「鵺」の段です。もののけを退治した源頼政は、褒美として、天皇から「獅子王」という名剣を授かります。獅子王は、現在、国立博物館で見ることができます。歌人としても知られる源頼政は、平氏政権下、源氏の長老として平清盛に仕えます。頼政は、平清盛に反発した以仁王(高倉宮)の謀叛の計画に加担しますが、宇治平等院の戦いで敗れ、自害しています。この以仁王の挙兵は、その後の頼朝挙兵、源平合戦、平家滅亡へとつながっていきます。頼政が、出世したのに「よしなき謀叛」を起し、高倉宮も失い、我が身も滅ぼすとは、ひどいことだ、と平家物語は結んでいます。思えば、鵺は、天皇家にとって、平清盛のことだったのかも知れません。

鵺とは、本来、トラツグミを指しますが、平家物語以降は、もののけの名前になっていきます。鳴き声が似ていると言われたばかりに、名前を奪われた格好です。トラツグミの鳴き声は、YouTubeで聞くことができますが、長い余韻を持った「ヒュー」という独特のさえずりが特徴です。知らなければ、鳥のさえずりには聞こえないかも知れません。トラツグミは、主に、夜に鳴くとされています。漆黒の闇のなか、どこからともなく、このさえずりが聞こえてくるとすれば、結構、気持ちが悪いと思います。ましてや、平安末期の人々にとっては、かなり不気味だったと思います。

ところで、頼政が射貫いた鵺の死骸は、船にくくられ、川に流されたとされます。そのたどり着いた先については諸説あり、いくつかの地方や寺に、鵺を弔ったという伝承や塚が残されています。能楽「鵺」では、たどり着いた先が摂津国芦屋の里と設定され、鵺の亡霊が、僧侶に弔ってくれと頼みます。今般、国立能楽堂で、世阿弥作になる「鵺」を、はじめて観る機会がありました。蝋燭の灯りだけで演じられる、いわゆる蝋燭能でした。幽玄の極致とも言える舞台でした。世阿弥は、この灯りを前提に曲を書いていたのか、と思うと、味わいも一入でした。橋懸りに登場した鵺の亡霊は、まさに応挙の幽霊そのものでした。

40年ほど前、鵺が広く知られることになる機会がありました。横溝正史の最後の長編を映画化した「悪霊島」のキャッチ・コピーが「鵺の鳴く夜は恐ろしい」というものでした。TVCMも、結構、流されていたので、鵺は広く知られることになりました。。公開直後に横溝正史が亡くなったこともあり、映画はヒットしました。また、前年にジョン・レノンが暗殺されており、挿入歌にビートルズを使ったことも話題となりました。ただ、ストーリーに、鵺は直接的には関係していませんでした。(写真出典:ja.wikipedia.org)

2021年12月2日木曜日

恥ずかしながら


1972年、グアム島で、残留日本兵・横井庄一軍曹が発見され、帰国を果たします。終戦から28年が経っていました。戦後復興どころか、奇跡の高度成長を果たした日本にとっては、衝撃的な出来事でした。羽田空港に出迎えた厚生大臣に対して「横井庄一、恥ずかしながら帰って参りました」と軍隊調に報告します。これが、その年の流行語にまでなりました。横井さんが配属されたグアム島には、1944年7月、アメリカ軍が上陸し、日本軍を制圧します。その時点で、横井さんのご家族には、戦死公報が届けられていました。しかし、生き残った日本兵たちは、山中に逃げ込み、終戦を知ることがありませんでした。

南方戦線では、そのような兵士が、少なからず残っていることが分かっていたので、戦争は終わった、投降せよ、という呼びかけが、日米当局によって幾度も行われていました。横井さんも、聞いていました。ただ、大日本帝国が負けるわけがない、これは敵の謀略だろうと判断し、無視し続けたと言います。横井さんは、部下2名とともに、木の実を食料に、必要なものは手作りして、壮絶なサバイバル生活を続けます。あまりにも厳しい生存環境に耐えられず、部下の2人は死亡します。アメリカの統治下に入ったグアムは、米軍基地が拡張されるとともに、リゾート開発が進み、ホテルや観光施設が建設されていきます。横井さんは、要塞化が進んでいると思っていたそうです。

横井さんの「恥ずかしながら」という発言も、28年間、投降を拒否し続けた背景にも、「戦陣訓」があります。戦陣訓は、1941年、当時、陸軍大臣であった東条英機の訓令として、示達されました。決して法的な位置づけを持ったものではありません。1882年に制定され、軍人が暗唱までさせられた「軍人勅諭」を、より具体化した内容ながら、新たな訓令も加えられます。その代表が「生きて虜囚の辱を受けず」という一文です。捕虜になると、非国民という烙印が押され、家族まで同様の扱いを受けたと聞きます。捕虜となった日本兵は、家族に累が及ぶことを恐れ、本名を名乗らなかったとも聞きます。また、この一文が、人命軽視のバンザイ突撃や玉砕を生んだとも言われます。

軍事機密を守るという目的から加えられた訓示だったのでしょうが、その意図をはるかに超えて浸透したわけです。機密保持という狙いからすれば、捕虜になった際の行動原則を教育すればいいわけですが、日本軍には、一切そうした教育はなかったようです。米軍は、下士官クラス以下の日本兵捕虜ならば、本名を本国に伝えるぞと脅すだけで、容易に情報を聞き出すことができたようです。機密保持上、戦陣訓は逆効果となったわけです。軍人の精神的支柱である軍人勅諭に対して、戦陣訓はより具体的な行動指針であるべきでした。ところが、屋上屋を重ねるようなエキセントリックな精神論となり、かつ”べからず集”であったことから、軍隊内で一人歩きを始め、容易に徹底されていったということなのでしょう。

1974年には、陸軍中野学校卒業の情報将校・小野田寛郎少尉が、フィリピンのルバング島から帰還します。小野田少尉にも武装解除命令は届かず、3名の部下を率いて情報収集とゲリラ戦を継続していました。1950年に1名の部下が投降したことで、その存在が知られます。1974年に至り、残りの部下2名も失っていた少尉に、日本の冒険家が接触します。少尉は、正式な命令がない限り、作戦行動を継続すると明言します。そこで、かつての上官が山下奉文司令官の命令書を携えて接触し、任務解除、帰国命令を伝えました。山中に隠れて過ごした横井庄一さんとは大違いでした。その点を指摘された横井さんは「将校たちは教育が違いますよ、教育が」と答えています。立場は様々であっても、残留日本兵は、徹底した教育が生み出した悲劇だったと言えます。(写真出典:yomiuri.co.jp)

2021年12月1日水曜日

榨菜(ザーサイ)

讃岐はじめ、四国の人たちは、物事の始まりに、やたら弘法大師を出してくる傾向があります。弘法大師空海の偉大さは認めるところであり、個人的には日本最高の天才だとも思っています。しかし、うどんはじめ、食べ物の起源に弘法大師が出てくると、胡散臭さ満載という印象を受けます。中国にも、似たような傾向があり、日本では饅頭と呼ばれる包子、そして搾菜を発明したのは、三国時代、蜀漢の軍師として活躍した諸葛孔明であるという話があります。いずれも、諸葛孔明が、益州南部を平定した、いわゆる南征の際の話として知られます。ただ、これは完璧に、後世の創作です。

包子の話は、三国志には登場せず、明代に書かれた小説「三国志演義」に登場します。三国誌演義では、宋代に編纂された「事物紀原」を出典としてあげています。両書の話は異なりますが、三国志演義の方が有名です。南征を終えて帰還する孔明軍は、瀘水で、突然の嵐に襲われます。河は大荒れとなり、渡河できる状態ではありませんでした。49人の首を生け贄として、河神に捧げれば、静まると聞いた孔明は、小麦粉を捏ねて、中に肉餡を入れた包子を作り、首に見立てて捧げます。すると河は静まり、無事、渡河できたというわけです。ちなみに、文献上、包子の初出は、随代だそうです。孔明の時代から、300年後のことです。

一方、搾菜ですが、やはり南征のおり、10万の兵士の野菜不足に難儀した孔明は、地元民から、ある野菜を教わります。育てやすく、量が確保でき、生でも煮ても食べられ、残りは塩漬けにできると聞き、孔明は陣の回りで栽培を始めます。これが、今も残る諸葛菜であり、正式名称はオオアラセイトウ、別名ハナダイコンとも呼ばれています。その塩漬けが、後の搾菜になったというわけです。野菜の塩漬けだったら何でも良かったわけで、さすがに無理のある話です。現代の搾菜は、いうアブラナ科の植物の太い茎で作ります。宋代の涪州、現在の四川省重慶市で作られ始めたと言います。孔明の時代から、700年後のことです。

ザーサイは、1930年代になり、重慶名物として広まっていったようです。日本では、1968年、桃屋が瓶詰めを発売したことで、一般家庭にも広がったようです。搾菜は、茎の部分を天日干しにしたあと、塩漬けにします。絞って塩を抜いたあと、調味料をくわえて甕で熟成発酵させます。搾菜本来の苦みと発酵で得られた酸味が、絶妙の味を生み出します。熟成発酵前の塩漬けも美味しいものですが、やはり熟成後のうま味と酸味こそ、搾菜の魅力です。なお、塩漬けだけした搾菜に対して、味付けされた発酵後の搾菜は”四川搾菜”と呼ぶのが正しいようです。そのままでも、炒め物に入れても、生野菜にからめるだけでも、とても美味しい食品です。

NYにいた頃、昼食や残業食として、よく中華のデリバリを活用していました。ある日、先輩から、ザーサイ・スープを注文しろと言われましたが、メニューにはありません。先輩が言うには、中国人コックたちは、ザーサイ・スープが大好きで、貴重な搾菜を客に出したがらず、メニューには載せていないのだそうです。試しに注文してみると、すんなり通りました。これが、とてつもなく美味しくて、やみつきになりました。今でも、自分で作って飲んでいます。味覇等で簡単に作ったスープに、搾菜を適量入れるだけで出来上がりです。簡単で、かつとてつもなく美味しいという奇跡のスープです。(写真出典:botanicaljapan.com)