2021年10月7日木曜日

銀座の底力

明治後期の銀座
かつて銀座2丁目の伊東屋の裏に「八眞茂登」 という戦後を感じさせる佇まいの食堂がありました。名物は「ベトナム・ラーメン」。醤油ベースのラーメンの上に、醤油漬けにしたニンニクが房のまま乗っていました。ベトナム料理とは思えなかったので、名前の由来を聞いたことがあります。発売当時はベトナム戦争が激しかった頃で、”なんかすごい”ラーメンという意味で命名したということでした。確かに、なんかすごいのですが、味としは凡庸でした。その後、伊東屋が拡張した新しいビルを建てると、八眞茂登は、そのビルの地下に入り、姉妹店も出来ました。ニンニクの醤油漬けは、食べにくいということで、荒く刻んだものに変わっていましたが、ベトナム・ラーメンは健在でした。ただ、10年くらい前に閉店し、姉妹店も今はありません。

私は、ベトナム・ラーメンに、銀座の底力を垣間見たように思っていました。老舗が軒を並べ、表通りには欧州ブランドの旗艦店がひしめく銀座は、伝統を守るとともに、常に時代の新しい流れを取り込み、鮮度の高さを確保してきました。これが銀座というブランドの強さなのだと思います。それは老舗の皆さんのご努力の賜物でもありますが、銀座の歴史が形成した街の特性でもあります。江戸幕府開闢の頃、銀座周辺は江戸前島と呼ばれる砂州でした。江戸城との間には、日比谷入江が広がっていましたが、これは埋め立てられ、武家屋敷となります。江戸前島は、町人地として整備され、銀の貨幣を鋳造する銀座が置かれます。能楽堂等も建てられましたが、基本的には幕府御用達の職人町になっていきます。商店が軒を並べ、庶民で賑わう日本橋や京橋とは大違いの地味な町だったわけです。

明治初期、大火で焼かれた東京の町を、明治政府の都市計画が作り変えていきます。新橋停車場と日本橋の間に位置する銀座は、文明開化を象徴するレンガ街として整備され、商店の進出が始まりました。とは言え、依然として庶民の繁華街は日本橋・上野あたり、歓楽街は浅草でした。銀座の商店の顧客は、主に華族等の上流階級、そして役人等の中流階級でした。政府肝いりのハイカラな町だったこと、そしてアッパー・クラスの住居が赤坂、番町といった山の手にあったからなのでしょう。ここで銀座という町の特色が生み出されました。銀座の百貨店や老舗を支えるコアな顧客は、家族三代、四代と続く贔屓客であり、なかには皇族も含まれます。これが、銀座ブランドのコア・コンピタンスなのでしょう。

大正期には、東京駅が開業し、市電も開通したことにより、銀座には、百貨店や劇場が進出します。それに伴い、カフェーが花盛りとなり、モボ・モガが闊歩するという、進歩的な繁華街の一面を見せ始めます。ブランドの鮮度を保つという伝統が生まれたわけです。戦後は、周辺開発も進み、銀座は順調に日本一の繁華街として成長していきます。ただ、東京の人口が増え、郊外への拡張が進むのに伴い、新宿、池袋、渋谷といった私鉄のターミナル駅を擁する街が勢いを増していきます。相対的に銀座は地盤沈下していきました。それを救ったのが、欧州ブランドの路面店だったと言えます。海外旅行が一般化し、海外ブランドが人気を博していました。地盤沈下で経営が悪化した老舗の跡地が、ブランドの旗艦店へと変わっていき、銀座は、これまでとは異なる輝きを獲得します。それが爆買中国人を引きつけることにもなりました。

銀座は、夜の街としての顔も持ちます。戦後から50年代中頃までは、文化人や政治家が集う夜の社交場でした。それが高度成長期からは、接待中心の社用族の街へと変わり、文化人たちは「銀座も変わったもんだねぇ」と嘆きながら去って行きました。バブル崩壊後、接待の街には新宿等からキャバクラ系の店が進出してきます。そもそも交際費を減らされていた社用族は「銀座も落ちたもんだねぇ」と嘆きながら去って行きました。社用族の端くれだった私も、同様の印象を持っていますが、ただ、それはそれで、新しい時代の流れを取り込んで変貌していく銀座の本質だとも思えます。新旧が混在する街銀座ですが、これからも”高級”ではなく”上質”という言葉を大事にしていってもらいたいものだと思います。(写真出典:kodokei.com)

2021年10月6日水曜日

ヒュパティア

ヒュパティア
世界三大発明と言えば、火薬・羅針盤・ 活版印刷のことです。いずれも中国で発明されていますが、15~16世紀の欧州を大きく変えたという意味で三大発明と呼ばれます。羅針盤は、11世紀の中国で実用化されています。それが欧州に伝わり、航海のあり方を大きく変え、大航海時代につながります。人類にとっては、まさに歴史的大発明だったと言えます。それまでの航海は、陸の目印を頼りにするか、星を頼りにしていました。陸を遠く離れた航海も、曇り空が続く航海も、不可能だったわけです。そんな時代、航海するうえでの必需品は、アストロラーベ(天体観測器)とクワドラント(四分儀)でした。

アストロラーベは、現代の星座早見盤に、アナログ計算器がセットされたようなものです。天体の高度や方位を把握し、それによって、方角、時間、距離等を割り出すことができます。古代における天文学の粋が詰まっていると言えるのでしょう。4~5世紀頃の地中海東部では、既に実用化されていたようです。その後、アストロラーベは、天文学が盛んだったオリエント、イスラム世界で進化を続け、西欧には、11世紀頃に伝わっています。アストロラーベは、紀元前2世紀に、ギリシャの天文学者ヒッパルコスが発明したという記述もありますが、アレクサンドリアの哲学者・数学者・天文学者ヒュパティアが、4世紀に発明したとする文献もあるようです。恐らく、原型をヒッパルコスが開発し、ヒュパティアが、それを精緻化、実用化したということなのでしょう。

アレクサンドリアのヒュパティアは、アレクサンドリア図書館の最後の館長にして、哲学者・数学者・天文学者だったテオンの娘として生まれ、幼少期から英才教育を受けました。アレクサンドリア図書館は、古代社会における世界最大級の図書館であり、ムセイオンと呼ばれる学堂でもありました。古代の英知の宝庫は、カエサルが防衛のためにアレクサンドリアに放った火によって焼失したとされます。ただ、実際には、その後も、かつての規模には及ばないものの、運営されていたようです。アレクサンドリア図書館の姉妹館として残存していたセラペウム図書館が、異教徒の神殿であるという理由で、キリスト教徒によって破壊され、図書館とムセイオンの歴史は終ります。

3~4世紀、ローマ帝国とキリスト教は、大きな変化の時代にありました。帝国は4帝支配を経て、西ローマと東ローマに分裂します。キリスト教は、迫害を受けながらも信者を増やし、コンスタンティヌス1世によって公認され、テオドシウス1世によって国教化されます。勢いに乗ったキリスト教徒は、他宗教への弾圧を強めます。そのなかで、新プラトン哲学を講義するヒュパティアの科学的姿勢は、神を冒涜するものとしてキリスト教徒の怒りをかいます。公会議の論者でもあったアレクサンドリア総主教のキュリロスとその一派は、ヒュパティアを誘拐し、蠣の貝殻を使って、生きたまま彼女の肉をそぎ落とすという残虐な方法で殺します。

一神教の恐ろしい暴走ですが、さすがにキリスト教内部でも、これは批判され、キュリロスは失脚します。また、これを機に、アレクサンドリアでは、古代からの知恵を継承する研究が認められています。キリスト教徒を激怒させたというヒュパティアの「真実として迷信を教えることは、とても恐ろしいことです」という言葉が残っています。すべては神が創りたもうた、と言った瞬間、科学は、その歩みを止めます。科学に誠実であったヒュパティアは、その死をもって、一神教の暴走に歯止めをかけ、学問の継承を確保したとも言えます。加えて言えば、一神教における女性差別という面にもつながる象徴的な事件だったとも言えるのではないでしょうか。(写真出典:kyoto-inet.or.jp)

2021年10月5日火曜日

ドーナツ

ゼッポレ
NYのリトル・イタリーは、30年前ですら、 縮小気味で、隣接するチャイナ・タウンに取り込まれつつありました。それでも「グロッタ・アズーロ」といった人気レストランもあり、奥のテーブルにマフィアっぽいおじさん達がたむろしている店もありました。さびれたリトル・イタリーが、年に一度、異常に盛り上がるのが、サン・ジェナーロの祭りです。売り物を連呼する露店がずらりと並び、狭い道は人でごった返し、その中を素朴な楽隊を従えたサン・ジェナーロの像が練り歩きます。まるで、イタリアの田舎町のお祭りに迷い込んだかのようでした。私も、毎年、楽しみにしていましたが、お目当ては、なんといっても生ソーセージのサルシッチャのBBQ、そしてイタリアのドーナツ「ゼッポレ」でした。

ドーナツに類した揚げ菓子は、世界中に存在するようです。どこでも、お祭りの際に食べる、いわゆるフェスティバル・フードだったようです。油も砂糖も貴重なものだったでしょうから、理解できる話です。食べたことのあるドーナツ類のなかで、私が一番好きなのはゼッポレです。イタリア系の人に聞いた簡単な作り方は、スーパーで売っているピザの生地を揚げ、粉砂糖をかけるというものです。これで十分に楽しめます。日本でも一般的なアメリカ式ドーナツは、母親が揚げたドーナツで馴染んでいたにも関わらず、あまり好みではありません。アメリカ人は、ドーナツが大好きです。日本のお握りに相当するような気がします。NYでは、朝食にドーナツを食べる人が大半を占めます。朝のミーティングでは、会議室にドーナツとコーヒーが置いてあるのが定番でした。ただ、私は、一度も手を出したことはありません。

ドーナツの起源は、オランダのオリボーレンだと言われますが、揚げ菓子自体は、古くから世界中にあったと思われます。オリボーレンは、ピューリタンが持ち込んだアメリカ式ドーナツの起源ということなのだと思います。オリボーレンは、丸く揚げて、上にクルミを乗せていたことから、ドー(生地)ナッツ(木の実)となったようです。アメリカ式ドーナツを特徴づけるは、なんと言ってもリング状のドーナツです。公式的には、19世紀半ば、船乗りのハンソン・グレゴリーという人が、火の通りを良くするために穴をあけたとされています。アメリカで、ドーナツが普及したのは、第一次大戦の際だったとされます。慈善団体などが、兵士への慰問の一環としてドーナツを無料配布したことがきっかけだったそうです。その後、ドーナツ・ショップが全米でフランチャイズ展開し、種類も様々増えて、アメリカのドーナツ文化ができあがります。

ドーナツと言えば、アメリカの警察官の大好物というイメージがあります。映画やTVのなかで、警察署には、いつもドーナツが置いてあり、勤務中にも街で頬張り、差し入れの定番もドーナツといった具合です。そのせいか、アメリカの警察官は、太った人が多いように思います。映画のなかの警察署のドーナツと言えば、クリスピー・クリームのドーナツが多いように思います。ただ、警察官とドーナツというイメージを作ったのは、世界最大のドーナツ・チェーンであるダンキン・ドーナツでした。店に立ち寄った警察官には無料でドーナツを提供するというキャンペーンを行ったことから、イメージが定着したのだそうです。なかなかうまい手です。警察官が、よく来る店となれば、セキュリティ上は極めて安心。ドーナツで警備会社を雇ったようなものです。

世界のドーナツ類と言えば、ゼッポレの他にも、フランスのベニエ、ドイツのクラップフェン、スペイン発祥のチュロス、ポルトガル発祥ながらハワイで有名なマラサダ等々が、よく知られています。お菓子好きのアラブにも揚げ菓子は多数あります。そして、沖縄のサーダーアンダギーも、忘れてはいけません。起源ははっきりしませんが、中国の開口笑というお菓子が琉球に伝わったものだとされます。縁起ものとされ、祝いの席にも出されるようです。日持ちすることから、沖縄土産の定番でもあります。ただ、やはり揚げ物系は、揚げたてが一番美味しいに決まっています。恩納村へ行った際などには、三矢本舗のサーダーアンダギーは避けて通れません。(写真出典:tiraccontounaricetta.it)

2021年10月4日月曜日

最も危険な男

オットー・スコルツェニーは、旧ナチス親衛隊中佐でした。背の高い偉丈夫であり、学生時代の決闘で得たという顔の大きな傷が特徴的な人物です。戦争末期に、連合軍の後方を攪乱する作戦を指揮した際には、「ヨーロッパで最も危険な男」と呼ばれました。戦後は、フランコ独裁下のスペインを拠点に胡散臭い実業家として暗躍しました。スコルツェニーの妻が保管していた日記や文書類が明るみに出て、研究者たちによって分析が行われています。その一部をドキュメンタリー化したスペイン映画を、Netflixで観ました。ナチスの中核的人物が、なぜ戦後も活躍できたのか、という謎を追っています。多くは、既に知られている事実を裏付ける史料でしたが、なかには意外なものもありました。政治が本質的に持っている闇の部分を、明瞭に伝えるドキュメンタリー映画でした。

ウィーンに生まれたオットー・スコルツェニーは、大学卒業後、土木技師になりますが、ナチスの党員でもありました。第二次大戦が始まると、ナチス親衛隊に入隊し、SS装甲師団の技術将校となります。東部戦線で負傷し、療養中だったスコルツェニーは、ナチスのコマンド部隊の創設に関わります。スコルツェニーは、人材や装備の調達に政治的手腕を発揮し、かつ英国のコマンド部隊を研究して、優れた部隊を作り上げます。1943年、ヒットラーは、連合軍のイタリア上陸を背景に解任・幽閉されていたムッソリーニを救出する作戦を発動します。その実行を任されたのが、スコルツェニーのコマンド部隊でした。大胆な救出作戦は無事成功し、スコルツェニーは名を上げ、ヒットラーの厚い信頼を得ます。

その後、ユーゴスラビアのチトー誘拐事件、ソ連との講話を進めようとしたハンガリー摂政ホルティ・ミクローシュの息子を誘拐し、辞任させ、極右政権を誕生させるなどの活躍をします。戦争末期には、後方攪乱作戦の後、赤軍のドイツ侵入を許すことになったオーデルの戦いで、独立軍を指揮しますが、敗戦ともに降伏します。2年間、収容所に入ったスコルツェニーは裁判で無罪となり、収容所から出ています。ホロコーストには直接的関与が無かったとしても、ナチスの中核的人物が無罪になった背景には、米国の戦略情報局(OSS)、後のCIAが関与していました。要は、利用価値を認めたCIAがアセット化するために収容所を出したわけです。敗戦時、スコルツェニーが管理していたといわれるナチスの秘密資金も関係しているかも知れません。

スペインに渡ったスコルツェニーは、武器の輸出、米軍基地の建設等にからみ、フランコを助けます。また、アルゼンチンのペロン大統領のコンサルタントになり、事業で連携する一方、元ナチス党員を欧州からアルゼンチンに逃す組織も運営します。南米のナチ・ネットワークは、南米各地の共産化を阻止したいCIAと裏で連携していたとされます。また、イスラエル攻撃のために弾道ミサイルを開発したエジプトのナセル大統領の顧問も務め、元ナチスの科学者をエジプトに送り込みます。一方、それを阻止したいイスラエルは、スコルツェニーに対して、身の安全を交換条件に、ナセルの弾道ミサイル計画粉砕の手助けをオファーします。アイヒマンが捕まった直後のことであり、スコルツェニーは提案を受け入れます。スコルツェニーが誘い出した科学者グループのトップを、モサドが消しています。

つまり、スコルツェニーは、東西冷戦という新たな政治構造をうまく利用し、隠れるのではなく、ナチスの英雄であることを逆手にとって、戦後を泳ぎ切ったわけです。米国はじめ各国は、イスラエルでさえ、スコルツェニーを利用し、影でサポートし続けていたわけです。スコルツェニーは、堂々とSS同志会を運営していたこともあり、真のナチス党員とも言われますが、それすら大事な隠れ蓑だったのでしょう。ナチスが育てた真の政治ゴロと言うべきでしょう。ちなみに、ドキュメンタリーのなかで最も驚いたのは、ケネディ大統領暗殺事件の謎を追うと、スコルツェニーのネットワークが、頻繁に顔を出しているということです。関連の詳細は、いまだ不明とのことですが、CIAの闇の深さには、驚きを通り越して、心底恐ろしさを感じます。(写真出典:plaza.rakuten.co.jp)

2021年10月3日日曜日

カバディ

カバディ
とにかく、インドは驚きに満ちた国です。ホテルでTVを見ていたら、カバディの専門チャネルが3つもあり、プロ・チームも存在していました。これには驚きました。聞けば、カバディはインドの国技とのこと。プロ・スポーツ化され、専門チャネルがあっても、何の不思議もないわけです。例えて言えば、来日した外国人が、大相撲のTV中継を見て、驚くようなものなのでしょう。カバディは、「ラーマーヤナ」と並んでインドを代表する叙事詩「マハーバーラタ」にも登場していると言いますから、少なくとも1500年を超える歴史を持っているわけです。素手で行っていた狩猟が起源だとされています。

カバディは、10名前後で構成される2チームが、攻撃側と守備側に分かれてプレーします。攻撃側は、一人が守備側陣地に入り、守備側のメンバーにタッチして、自陣に戻れば得点となります。攻撃するプレイヤーは、カバディ、カバディと言い続けなければなりません。これは、一回の攻撃が、一呼吸分と決められているので、それを担保しているわけです。カバディという言葉には意味がないのだそうです。一方、守備側は、攻撃側が自陣に戻ることを阻止できれば、得点が入ります。タッチされたり、自陣に戻れなかったプレイヤーは、ペナルティとして、コートの外に出て、自軍が得点するまで戻れません。スポーツというよりも、とても単純な遊びのように思えます。

南アジアでは、盛んにプレーされているようですが、多くの日本人がカバディを知ることになったのは、1990年に北京で開催されたアジア大会でした。この大会から、カバディは、正式種目とされました。同時に、マレーシア発祥と言われる球技セパタクローも正式種目となり、なじみの無い二つの競技は、日本で大いに話題になりました。4年に一度行われるアジア競技大会、通称アジア大会は、1951年、ニューデリーで第一回が開催されました。その源流となったのは、戦前、日本、フィリピン、中国の3カ国で行われていた極東選手権競技大会、そしてインドで行われていた西アジア競技大会だとされます。アジア大会は、政治的状況、あるいは種目を巡る争い等、紆余曲折はあったものの、現在に至るまで継続されています。

直近のアジア大会は、2018年、ジャカルタで開催されています。競技は40種行われています。基本的には、東京オリンピックで行われた競技とほぼ同じですが、ウズベキスタンの格闘技クラッシュ、ロシアの格闘技サンボ、あるいはクリケットやスカッシュなども行われています。カバディ、セパタクロー以上に驚きなのは、カードゲームのブリッジです。英国の植民地が多かった影響なのでしょう。ちなみに、ジャカルタ大会のMVPは、池江璃花子選手が獲得しています。次回大会は、2022年、杭州で開催されます。杭州大会では、e-スポーツが正式種目化されるようです。おそらく中国のハイテク産業がスポンサーに名を連ねているのでしょう。また、2026年には、名古屋で開催されることも決まっています。

アジア大会に各国の国技を持ち込むことはかまいませんが、さすがに競技者の国際的広がりが前提だと思います。おそらく競技の種目選定に関する何らかの規定が存在するのでしょうが、杭州大会では、中国将棋のシャンチーまで種目化されると聞き、耳を疑いました。このままだと、名古屋大会では、相撲が正式種目になるのではないかと心配になります。相撲も世界選手権が開かれてはいますが、アジア大会の秩序ある発展のためには、やめておいた方がいいでしょう。(写真出典:indiatoday.in)

2021年10月2日土曜日

阿伝加寿利

井上伝
天明8年(1789年)、久留米の米屋に娘が生まれます。家が貧しかったので、少女は、7歳から機織りを始めます。12歳の頃には、大人顔負けの腕を持つまでになります。ある日、着古した藍染布に白い斑点を見つけた少女は、あらかじめ糸を染色して織り上げ、紋様を作ることを思いつきます。工夫を重ねて織り上げた少女の布は評判となり、15歳の頃には、20人を超える弟子を抱えるまでになります。少女の名前は井上伝。久留米絣(かすり)誕生の物語です。井上伝の絣は「阿伝加寿利(おでんかすり)」として大人気を博すことになります。これを久留米藩が奨励し、絣は、久留米を代表する一大産業にまでなります。

絣の技法は、インド発祥とも言われますが、古くから世界中に存在したようです。正倉院の宝物のなかに、中国伝来と思われる絣生地もありますが、技術は伝来しなかったようです。その後、琉球経由で、絣の技術は伝わったものの、広がりを見せることはありませんでした。井上伝の技術は、まったく独自に編み出されたものでした。実は、伊予国でも、同じ頃、同じ事が起きていました。井上伝とほぼ同年代の農家の嫁鍵谷カナが、絣柄を考案し、後の伊予絣が生まれています。また、幕末に至り、備後国の医師の息子であった富田久三郎が、阿波の織絹法にヒントを得て、備後絣を生み出しています。久留米絣、伊予絣、備後絣は、日本の三大絣と呼ばれます。

江戸末期から幕末に開発された木綿の絣は、明治の世になると、和装の普段着として、爆発的な広がりを見せます。全国各地で特色ある柄が織られ、年間、数百万反が生産されていたと言います。明治中期以降の自動織機の普及が、大きな役割を果たしたことは言うまでもありません。太平洋戦争中、絣の着物はモンペに仕立て直され、作業着としてだけではなく、割烹着と併せて女性の普段着の定番となりました。伝統的な絣柄としては、十字,井桁,田の字,蚊絣などがありますが、なかでも矢絣は、明治期から昭和初期にかけて、若い女性の間で大流行しました。近年、卒業式に袴を着用する女性が多くなりましたが、大正浪漫を感じさせる伝統的な矢絣も定番の一つになっています。

歴史の中で人類が重ねてきた技術的進歩の多くは、名も無き人々が、ちょっとしたことに疑問を持ち、しぶとく工夫を重ねた結果、生まれたものだと思います。絣に関しては、技術を編み出した少女たちの名が残りました。近世に起きたことであり、その後、産業化に結びついたからのでしょう。また、背景には、江戸期の商工業の発達、あるいは教育レベルの高さもあったと言えそうです。興味深いことに、井上伝は、その技術を独占するのではなく、弟子を取って広く伝授しています。弟子の数は、3,400人に達したと言います。うち400人が、その技術を持って各地に散り、絣の技術を全国に広めたそうです。また、井上伝は、15歳の頃、絵絣の技法も完成させています。その開発にあたっては、同じ久留米の「からくり儀右衛門」こと田中久重の協力を仰いだと言われます。「東洋のエジソン」とも呼ばれた田中久重は、後に東芝を創業しています。

最近、久留米絣は、面白い取り組みを始めています。絣のモンペを細身に仕立て、「日本のジーンズ」として売り出しているのです。通気性、肌触り、耐久性に優れる久留米絣ですから、普段着としては理想的だと思います。早速、ネットで買ってみようと思いました。ところが、気に入ったサイズ、色、柄のものは売り切れていました。絣の風合いを活かす伝統的な織り方をしていることもあり、決してお安くはありませんが、人気を博しているようです。恐らく、一度着用したら、手放せなくなるのでしょう。(写真出典:kurume-kasuri.com)

2021年10月1日金曜日

華僑

福建土楼
アメリカの地方に行くと、どんな町にもマクドナルドのハンバーガー・ショップがあるのには驚かされます。同時に、どんな小さな町にも、必ずと言っていいほど、チャイニーズ・レストランがあることには、さらに驚かされます。ある時、中西部の田舎町の小さなチャイニーズ・レストランで、一体、食材等はどうしているのか、と聞いたことがあります。すると、食材に限らず、チャイニーズ・レストランに必要なもの一切合切を、シカゴの問屋が、定期的にデリバリーしてくれるというのです。異境の地における中国人の商売のあり方、そのネットワークの強さに、改めて驚かされました。

華僑、Overseas Chineseは、明代の鄭和による南海遠征、および倭寇から始まるとされます。最初の大きな波は、明代末期に起こります。海禁政策のもとで行われた朝貢貿易や勘合貿易、後には海禁の緩和によって、中国の海外貿易は拡大し、多くの中国人がアジア一帯に貿易拠点を築いていきます。満州族の清朝が起こると、圧迫された漢民族の海外脱出の波も起きています。次の大きな波は、清朝末期の政情不安を背景とした海外脱出、およびクーリー(苦力)貿易として起こっています。クーリーの多くは、鉄道建設や西部開拓に沸くアメリカに渡り、奴隷貿易の衰退で減ったアフリカ人奴隷の代替となっていきます。華僑は、ユダヤ人、アルメニア人、インド人と共に、四大移民とも呼ばれるまでになります。

その後、移民たちは、世代を超えて現地化していきます。各地の経済を握り、財力を背景に政治にも進出していきます。タイの首相タクシン・インラック兄弟、フィリピンのマルコス・アキノ両大統領、シンガポール首相のリー・クアン・リュー親子等は、現地化した華僑です。また、インドネシアの現地化した華僑たちは、5%程度の人口で、富の8割を保有するとも言われます。華僑の出身地は、広東、福建が多いとされますが、なかでも興味深い存在が客家です。客家は、漢民族ですが、春秋戦国時代、中原での戦いに敗れ、南部に逃れた王族たちを祖先とします。土着民ではないので、客家と呼ばれ、一族で団結して生きてきました。一族が集合して暮らす円形の福建土楼は、世界遺産としても有名です。中国のユダヤ人とも呼ばれるほど優秀な人材が多く、華僑の中核を成していると言われます。

華僑の団結と成功には、言語が深く関わっていると言われます。中国は、多民族・多言語国家です。漢字が、表意文字として成立したのは、多言語ゆえとも言われます。華僑が移民先で商売を始めると、家族、一族、そして同じ言葉を話す同郷の者が呼び寄せられます。その中から独立する者が現れ、同じ事を繰り返します。こうして同じ言語という強い絆で結ばれたネットワークが形成されていきます。華僑ネットワークは、その成立経緯からして排他性が強くなります。それが世界各地にチャイナ・タウンを生んでいくことにもなりました。サンフランシスコ、NY、横浜、シンガポール等々のチャイナ・タウンは、街の名物・名所となるほど大きな規模を誇ります。サンフランシスコで聞いた話ですが、チャイナ・タウンで生まれ育った中国人のなかには、英語を話せない人たちもいるとのこと。それで生きていけるほどの規模を持っているとも言えます。

旧植民地で構成される英国連邦のなかに、いまだエリザベス女王を国家元首とする国々があります。英連邦王国です。そのなかのカナダ、オーストラリア、ニュージーランド等といった主要国は、英国移民が建国した国々です。産業革命以降、人口が爆発的に増えた英国では、海外移民が急増しました。武力で奪取した土地は、武力で奪われる可能性があります。しかし、移民の数と財力によって勝ち得た土地は、その支配が固定化していきます。圧倒的に人口の多い中国とインドにおける今後の移民動向は、世界の地図を塗り替え、固定化していく可能性を持っているとも言えます。(写真出典:sumally.com)

川上