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| 王直 |
倭寇も、一つの統制の取れた組織ではなく、複数の集団の総称に過ぎず、海賊行為、密貿易という性格から、記録を残すことも、襲撃した地に定住することもなかったわけです。海の民と同様に被害を受けた側の記録は多く残っていますが、全貌は不明のままです。倭寇の文献上の初出は、1223年の”高麗史”とされ、「倭寇金州(倭が金州を寇した)」との記述があるようです。つまり、倭人(日本人)が金州を襲撃したというわけです。通常、倭寇は、13~14世紀の前期と、16世紀の後期とに分けられます。前期は、主に日本人が朝鮮半島を中心に襲撃し、後期は、主に中国人が中国、東南アジア一帯を襲ったようです。後期も倭寇と呼ばれていることは面白いと思いますが、その頃までに倭寇は海賊の代名詞になっていたということなのでしょう。
前期倭寇は、九州北部から出撃していたと想定されています。室町時代末期から南北朝時代へと続く戦乱によって、食糧事情が悪化し、かつ取り締りも緩んだことが倭寇を生んだと言われます。朝鮮半島や中国でも、政権が不安定な時期であり、海防に緩みがあったようです。また、元寇の報復であったとする説もあります。結果的には、嵐のおかげで日本は元軍を退けたわけですが、九州北部一帯に上陸した元軍の強さは圧倒的で、武士のみならず民間人も多数犠牲になったようです。日本を襲った元軍の1/3は高麗軍であり、使われた船の多くは高麗のものでした。倭寇は、高麗への仕返しだったというわけです。元寇以前から確認されている倭寇ですが、元寇以降は報復という要素も加わり、苛烈な攻撃になっていった可能性もあるように思います。
後期倭寇は、中国人主体となるわけですが、その代表格の一人が王直です。現在の安徽省出身の王直は、塩商人を経て密貿易に手を染め、日本や東南アジアと取引を行います。明朝の圧迫を受けた王直は海賊に転じ、鹿児島の坊津に拠点を移し各地を荒らします。王直がもたらす富に惹かれた平戸松浦氏は、王直を平戸に迎え入れます。王直は、館を構え、王族のように振る舞っていたようです。ちなみに、日本への鉄砲伝来については、誤解されている面があります。種子島に漂着したポルトガル船が鉄砲をもたらしたと思われがちですが、実際のところ、難破して漂着したのはポルトガル人を乗せた王直の船でした。また、平戸にポルトガル人を連れてきたのも王直です。つまり、日本の窓を世界に向けて開けたのは倭寇だったわけです。
ザビエルの来日についても、倭寇が関わっていたと言ってもよいのでしょう。ザビエルに日本での布教を勧め、ゴアから日本へ案内したのはヤジロウです。彼の行動は、ザビエルに同行した期間だけ明らかになっているわけですが、その前後の人生に関する文献は無く、謎の人物と言えます。何らかの事情で鹿児島からマラッカに渡ったとされますが、宣教師ルイス・フロイスによれば、官憲に追われる海賊、つまり倭寇だったようです。ヤジロウの行動範囲の広さは、倭寇のダイナミズムを感じさせます。時は正に大航海時代、日本やアジアは欧州に“発見”されたということになりますが、実はアジアのなかでも倭寇による大航海時代が展開していたとも言えそうです。(写真出典:asahi.com)





