2025年12月30日火曜日

はなし塚

はなし塚
吉原遊廓は、浅草の観音裏の田んぼの中にあったにも関わらず、夜ごと、大変な賑わいだったようです。最盛期の遊女の数は4千人を超え、恐らく毎晩の人出も1万や2万人どころではなかったはずです。ただ、皆が皆、店に上がるわけではありません。”冷やかし”、あるいは”ぞめき”、”素見”と呼ばれる見物客の方が圧倒的に多かったようです。冷やかしという言葉は、吉原の近くにあった古紙を再生する作業場に由来します。その再生古紙は浅草紙としてよく知られていたようです。職人たちは、古紙を煮た後の冷やかし工程に入ると、しばらく暇になります。そこで近所の吉原へ繰り出し、遊女見物をして時間をつぶしたものだそうです。それが冷やかしという言葉の語源となったわけです。ちなみに、その紙漉きの技術が浅草海苔へとつながります。

吉原由来で、今も使われている言葉は、冷やかしだけではありません。お馴染み、モテる、おひねり等も一般化しています。吉原は遊廓に留まらず、歓楽街、江戸の名所、そして庶民文化の発信地でもあったわけです。江戸の庶民文化が生んだ古典落語にも、当然、吉原が多く登場します。吉原は、人間観察や世情を映す場として、落語には欠かせない場だったとも言えます。その吉原が落語から消えた時期がありました。1940~1946年の間、講談落語協会の自主規制として、53話が禁演落語とされました。1938年、日中戦争の長期化を受け「国家総動員法」が成立し、日本は戦時下へと入っていきます。経済統制とともに、言論統制も行われ、新聞の統制をはじめとして、雑誌や映画なども厳しい検閲を受けることになります。落語も例外ではなかったわけです。

禁演落語の選定基準とされたのは、女郎買いもの、酒飲みもの、泥棒もの、間男もの、美人局もの、不道徳もの、残酷ものでした。実際に指定された53話は、廓ばなしが32、妾ばなしが4、不義・好色ばなしが16、残酷な噺が1となっています。要は、好色・艶笑系がほぼ全てだったわけです。犯罪ものも、不道徳な噺も少なからずあるなかで、軍国主義者たちが警戒したのが好色系だったということは、実に興味深いと思います。全体主義は、個人の自由を否定し、全体の利益にのみ貢献させる体制です。犯罪や不道徳はもとより社会から否定されているわけですから、全体主義が徹底的に統制すべき対象は個人の生活と思想ということになります。そこでは、ステレオタイプ化された家庭の姿が重視され、性欲は生殖目的に限り認めらることになります。

禁演落語は、講談落語協会の自主規制という体裁が採られていますが、政府、その後ろにいる軍部に強要されたものであることは明らかです。自主規制は、軍部にとっては世間の反撥を回避する方策であり、官僚にとっては法制化の煩わしさ、監視・摘発の手間が省ける上策です。自主規制の運営がうまく機能していない場合に限り、行政指導を行うだけでよいわけです。禁演落語の選定は、説明が付きやすく、議論も少ない外形だけで行われたものと考えます。53話のなかには、明烏、品川心中、居残り佐平次、三枚起請、高尾(反魂香)、付き馬(早桶屋)、二階ぞめき等々、古典落語を象徴するような傑作が多く含まれています。選定にあたった落語家たちの口惜しさが想像できます。魚屋に干物以外は売るな、と言っているようなものですから。

1941年、講談落語協会等が発起人となり、浅草の本法寺境内に、「はなし塚」が建立されます。碑文には”葬られたる名作を弔ひ”、”古今小噺等過去文芸を供養する”と記載され、禁演落語53話の台本などが埋められました。また、落語界の先人たちを弔うという趣旨も付け加えられています。塚の建立は、軍部に対する落語界の忠誠をアピールするために行ったように見えます。しかし、わざわざ塚を作ること、そして”名作”や”過去文芸”と表現したことには、落語家たちの悔しさと諧謔が込められているとしか思えません。時節柄、口が裂けても言えない本音を塚の建立に託した精一杯の強がりなのだと思います。笑いで世間を風刺し、体制を批判してきた落語家たちの真骨頂とも言えます。塚の建立自体が、しゃれの利いた落語そのもののようにも思えます。(写真出典:honpouji.jimdofree.com)

2025年12月28日日曜日

「エディントンへようこそ」

監督:アリ・アスター    2025年アメリカ 

☆☆☆

(ネタバレ注意)

単純なテーマを、やや雑なプロットと饒舌なスケッチで冗漫に描いた映画といった印象です。アリ・アスターの饒舌さと冗漫さは、「ミッドサマー」や「ボーはおそれている」でも感じました。ただ、「へディタリー」や「ミッドサマー」は直線的な映画だったので気にならなかったのですが、今回は、役者も揃え、演出の腕も上っているのに、やや気になりました。彼の映画は独特な勢いが魅力なのですが、その映画文法は、我々の世代にはピンとこない面があります。ゲームやSNSで育った世代とのギャップなのでしょうが、皮肉なことに本作はSNSを批判的に描いています。本作のテーマは、世間がSNSに翻弄されている間に巨大IT資本が世界を支配しつつある、という陰謀論の一種なのでしょう。

モティーフは、コロナ、BLM、ネイティブ・アメリカン、陰謀論、ネットカリスマ、極左など、2020年当時のアメリカの分断を象徴するものがてんこ盛りです。分断の要因となっている格差、差別、宗教、政治、民族対立などは、どこの国でも、いつの時代にも存在します。アメリカで、それらを大いに加速させ、暴力的なレベルにまで押し上げたのが、SNSとトランプだと思います。トランプのチェリー・ピッキングやガスライティングといった手法は、政治の世界では昔からありました。ただ、そうした手法を得意とする政治家はキワモノに過ぎず、熱狂的支持者は生んでも、マジョリティーをとることはありませんでした。ましてや大統領にまでなることはなかったと思います。恐らく、それを実現したのもSNSだったということなのでしょう。

本作において、アリ・アスターは、トランプには直接触れていませんが、市長選挙の様相がアメリカの政治状況を揶揄しているのでしょう。ストーリーは、市長選挙をメイン・フレームとして展開します。ストーリーとは関係なさそうなホームレスのロッジが登場しますが、実は、この家庭の問題を抱えるホームレスこそがアメリカ国民を象徴しているのでしょう。保安官がホームレスを射殺するところから、映画は急展開して暴力シーンに入っていきます。とりわけ、謎のアタック・チームの登場と撃合いのシーンは評価の分かれるところです。ゲーム世代へ媚びる必要もあったのでしょうが、唐突感は否めません。まるで、プロットを詰め切れず、謎の集団を登場させたような印象すら受けます。脚本は、もう少しがんばって欲しかったところです。

挑戦的ながらもやや退屈な映画にあって、ホアキン・フェニックスの上手さだけが光っていたようにも思います。まったくもって大した役者だと思います。思えば、アリ・アスターの前作「ボーはおそれている」でも、ホアキン・フェニックスだけが目立っている印象でした。保安官の神経質な妻役には、エマ・ストーンが登場し、映画に深みを与えています。脇を固める他の俳優たちも、なかなか達者な人たちを集めています。そのあたりにA24の看板監督となったアリ・アスターの力を感じさせますが、興業成績的には、前作「ボーはおそれている」と同じく大コケだったようです。企画が目白押しだというアリ・アスターですが、今後の制作は簡単には進まないかも知れません。まずは、本編の続編なる企画は消滅だと思います。

オーストラリア政府が、16歳未満のSNS禁止を法制化したことが話題になっています。利用者ではなく、運営企業側への罰則を伴う規制となっています。子供たちへの悪影響を考えれば、禁止したくなることは理解できます。ただ、本来的には、SNS、あるいはネット全般への法規制が議論されるべきだと思います。それが正攻法だとは思いますが、ネットの性格上、現実的な議論ではなく、当面、運営側の自主規制、あるいは、いたちごっこになることは覚悟の上で部分的な規制を打ちまくるしかないのでしょう。結果的には、使う側の倫理観に委ねざるを得ない面は否めません。だとすれば、判断力が未熟な世代への使用制限もありなのかも知れません。もちろん、ネット全般への規制の方法として、国家が莫大な費用をかけて検閲するという全体主義的手法もありますが、これだけは避けなくてはなりません。(写真出典:press.moviewalker.jp)

2025年12月26日金曜日

縄文海進

霞ヶ浦
1992年、青森県は、青森市郊外に新たな県営野球場を建設すべく、事前調査を開始します。すると、直径約1メートルの柱が6本見つかり、縄文期の大型建造物の遺跡だと分かります。野球場建設は中止され、本格的な発掘調査が開始されます。そして現れた最大規模の縄文遺跡は三内丸山遺跡と命名されることになりました。三内丸山では、縄文中期の1,700年間に渡り、東京ドームの7~8倍以上の敷地に最盛期500人が暮らしていたことが分かりました。計画的な集落運営、大型建造物、栗等の栽培、広範囲な交易、精神文化の痕跡などから、縄文文化に関する従来の常識が覆されました。三内丸山は、2021年、発見からわずか30年でユネスコの世界遺産に登録されています。

多くの人が、明らかになった縄文文化の実相に驚くとともに、なぜ寒冷な青森にこのような集落が存在したのかという疑問を持ったはずです。三内丸山が存在した約6,000~4,000年前は、最終氷期終了の後に起きた温暖化の時期にあたり、平均気温は、現在よりも2℃ほど高かったとされています。また三内丸山遺跡は、海から3kmほどの丘陵の上にありますが、往時は目の前が海だったとされ、遺跡からは魚の骨や貝殻も多く出土しています。つまり、温暖化に伴い大量の氷床が溶け出し、海面も3 ~4m高かったわけです。いわゆる縄文海進です。例えば、関東では、東京中心部、横浜、千葉、九十九里浜などは海の底でした。貝塚の多くが、海から離れた丘の上で発見されることに疑問を持ち、調べた結果、縄文海進が明らかになったと聞きます。

三内丸山に関しては、なぜ消滅したのか、という疑問もあります。原因は、ほぼ間違いなく気候の変化によるものと思われます。つまり、その後の寒冷化とともに集落を囲む生態系が変化し、また海退が始まったことで海が遠くなり、結果、食糧調達に困難が生じたために集落は放棄されたということなのでしょう。最終氷期後の温暖化、その後の寒冷化は、地球軌道の変化によるものとされています。さらに温暖化については太陽黒点の活動の活性化という指摘もあります。また、温暖化による影響は、緯度が高いほど大きいとも聞きますが、他の要素も影響することから、地域による気候、気温、海水面の変化には時間や程度の差があるようです。驚くべきことに、その頃のサハラ砂漠は緑に覆われており、アマゾン川流域は砂漠化していたといいます。

ところが、縄文海進の要因は、氷が溶けて海水面が上がったという単純なものだけではなかったようです。というのも、欧州や北米での海水面の上昇はごく限られたものだったと言うのです。となれば、日本の場合には別な要因も考えられ、それはプレートの沈み込みによる海底の隆起なのではないかという説があるようです。さらに言えば、海底に次いで陸地が隆起することで海退が起きたとも言えそうです。5つのプレートがせめぎ合う日本列島らいしい話であり、2024年1月に発生した能登地震で海岸が4~5m隆起したことを思えば、大いに納得できる説だと思います。また、九州の一部では、海底から縄文遺跡が発見されているようです。これは海水面の上昇にともなって海水の重量が増加し、海底が沈み込むという現象に起因するとみられているようです。つまり、海岸付近も引きずられて海に沈み込むというわけです。

地学の世界では、5,000年前など、ついさっきの出来事くらいのイメージなのでしょう。素人にとってみれば、縄文海進の痕跡は地球のダイナミズムを生々しく感じられるポイントだと言えます。分かりやすい痕跡は、貝塚の分布や霞ヶ浦だと思います。縄文海進時、鹿島灘から埼玉あたりまで入り込んだ内海は古鬼怒湾、あるいは香取海と呼ばれ、霞ヶ浦はその痕跡と言えます。同じ頃、東京湾は、群馬県南東部、川越のあたりまで入り込み、奥東京湾と呼ばれています。近年、温暖化による海水面の上昇が大きな問題とされています。今世紀末までに1m上昇するというシミュレーションがあり、その際、日本の砂浜と干潟の9割が失われると聞きます。海水面上昇で最も怖いのは、高潮や津波の高さが増すことです。現在の東京湾の津波予測は最大5.5mですが、単純に言えば、それが6.5mになるわけです。縄文海進は、大昔の話とばかりも言えないように思います。(写真出典:ja.wikipedia.org)

2025年12月24日水曜日

夜市

初めてハノイへ行った際、食事が全て美味しくて大喜びしました。ただ、食べたかったのに、やめたほうがいい、と助言されたものがあります。ハノイの人たちが朝食として道端で食べているフォーです。フォーは、ホテルの朝食バッフェで毎朝食べました。とても美味しくいただきました。しかし、皆が、道端で、風呂用にしか見えない小さな椅子に腰掛けて食べているフォーが、とてもうまそうに見えたわけです。やめろと言ってくれた人に、その理由を聞けば、日本から来た人が食べると必ず腹を壊すというのです。水質と衛生上の問題だということでした。彼は、アジアの屋台のなかで、日本人が安心して食べられるのは台湾とシンガポールだけだ、と言っていました。その二ヶ国だけは、当局による衛生管理が徹底しているからとのことでした。 

シンガポール名物の一つにホーカー・センターがあります。ホーカーとは屋台のことであり、それが多く集まったホーカー・センターは、いわば公設のフードコートのようなものです。様々な国の様々な料理屋が軒を並べています。どれも魅力的で、大いに目移りしました。昼食を食べに行ったのですが、すっかり気に入り、翌日の夜、レストランの予約をキャンセルしてまで出かけました。値段は安く、まずまずの味だったように記憶します。ただ、一つ気になったことは、台北やバンコクのナイト・マーケットが持つアジア的雑踏や熱気に欠けることでした。シンガポールは、かつてリー・クアンユーが築いた管理社会で知られます。社会統制の傾向がまだ色濃く残っており、ホーカー・センターにもそれを感じたということなのでしょう。

一方、IT大国・台湾のナイト・マーケットは、実に賑やかで大盛り上がりです。市内最大の士林夜市、B級グルメ天国の寧夏夜市、胡椒餅に行列ができる饒河街観光夜市等が有名です。いわゆる小吃(シャオチー )のオンパレードにアドレナリンが出まくりでした。胡椒餅はじめ、牡蠣のオムレツ蚵仔煎、巨大フライド・チキン雞排、定番の各種麺線類、台湾名物の魯肉飯等々、いずれも美味しく大満足でした。特に、士林夜市で食べた鶏肉飯(ジーロウファン)は、大のお気に入りになりました。日本の台湾料理店のメニューに、魯肉飯はあっても、鶏肉飯を見かけることはほぼありません。何故なのか、不思議なところです。いずれにしても、夜ごとの激しい競争を勝ち抜いてきたB級グルメは、どれも美味しいに決まっているわけです。

東南アジアのナイト・マーケットの賑わいは、日中の暑さ、夕涼み(冷房普及率の低さ)、共働き世帯の多さ等が背景にあるのでしょう。これは理解できる面があります。加えて、家で食事を作らないという文化には、住宅環境の悪さ、労働時間の長さ、冷蔵庫の普及率の低さ等も関係しているのでしょう。ただ、一番大きな要因は外食のコスト・パフォーマンスの良さだと聞きます。分かったような分からない話です。確かに屋台では、店舗コストや人件費の低さ、食材の大量仕入れによって安く食事することができます。と言っても、同じものなら家で料理した方が断然安上がりなはずです。東南アジアにおける屋台の歴史は古いようですが、かつては、都市部でもさえも、大多数が家で食事を作って食べていたのではないかと思います。

事実、夜市の隆盛は、東南アジア各国の経済成長が始まった20世紀後半から起こったと聞きます。外食文化も、都市化の進展が背景にあったものと考えます。つまり、都市部の労働者、とりわけ地方から流入してきた労働者の多くが、住環境はじめ劣悪な生活環境に置かれており、屋台での食事に頼らざるを得なかったということなのでしょう。アジア各国のGDPの伸びは著しいものがあり、2024年の一人当たりGDPにおいて日本は第7位にまで順位を落としています。台北などでは、経済が発展し豊かになったものの、すっかり定着した外食文化だけは継続されたということかもしれません。また、バンコクなどでは、富が偏在し、低所得者層の生活環境は依然として厳しいということなのかもしれません。(写真出典:arukikata.co.jp)

2025年12月22日月曜日

近江商人

15分短縮されたブラタモリは、イマイチと思っていたのですが、過日放送された近江八幡の回はよく出来ていました。ただ、近江八幡だけが近江商人発祥の地のような演出は残念でした。近江商人とは、近江各地で誕生した行商人の総称です。ちなみに、我が家の先祖は、琵琶湖の北西、高島で誕生した高島商人です。高島商人は、近江でいち早く行商を始め、東北、特に盛岡で成功し、後には南部藩全体の商圏を握ったとされています。我が家は分家であり、私は5代目となります。先々代まで商売をしており、本家から数えて約4百年呉服を商っていました。本家は、関原の戦いの後、水戸を拠点に東北への行商を行い、江戸中期には南部藩領に移っています。夜逃げをして、親類縁者の多い南部藩領へ潜り込んだのではないかと思っています。

近江商人は、大阪商人、伊勢商人と並んで、日本三大商人と言われます。その特徴は、何と言っても行商ということになります。近江国は、律令時代に整備された東海道、北陸道、東山道という都から東へ向かう街道の全てが通っており、加えて琵琶湖の水運があり、若狭湾の海運も利用できる交通の要所でした。古くから街道沿いに市や座が立っていたようですが、畿内と各地を結ぶ陸路や海路の往来が盛んになった中世から行商が始まります。行商は、商業の原型と言えます。物々交換が貨幣経済化することで成立した商業ですが、当初は店舗を持たず、行商から始まったわけです。室町期、近江国の行商は、若狭国方面に向かう五箇商人、伊勢国方面に向かう保内をはじめとする四本商人から始まったとされています。

江戸期前後からは、高島商人、八幡商人、日野商人、湖東商人が近江を代表する商人として知られていきます。それぞれ得意とする商材・商圏があり、高島商人は繊維系を都・東北方面で、八幡商人は名産の畳表や蚊帳を江戸・大坂・京都はじめ全国へ、日野商人は日野椀等の漆器や医薬品を主として東海道や北関東へ、湖東商人は主に畿内・東海・信州・東北の村落部で商売をしていました。江戸後期に登場する湖東商人は、農閑期の農民たちが繊維関係を持って下り、各地の産物を持って上る”のこぎり商法”を得意としていました。近江商人の商売は行商を基本としますが、時代が進むと各地の都市部に支店を構え始めます。また、八幡商人のなかには朱印船貿易商として、安南(ヴェトナム)やシャム(タイ)にまで商売を広げる者もおりました。

全国各地へ行商した近江商人、江戸に進出した伊勢商人は「近江泥棒に伊勢乞食」と呼ばれるほど厳しい商売をしていたようです。ただ、この言葉は、江戸の商人たちのやっかみから生まれた言葉だったと言われます。江戸に多いものとして「伊勢屋 稲荷に 犬の糞」という言葉がありますが、同根なのでしょう。実のところ、近江商人たちが家訓にするほど大事にしていた精神は、売手・買手・世間の「三方よし」、節約と勤勉を指す「始末してきばる」、人知れず善い行いをする「陰徳善事」などだとされています。商売とは信用そのものです。信用を得られずして、商売は成立せず、継続もされません。全国の商家にあっても考えは同じなのでしょうが、そうした精神をとりわけ大事にしてきた近江商人は、明治以降も企業として成功していくことになります。

近江商人にルーツを持つ企業としては、湖東商人から伊藤忠・丸紅、日野商人からは西武グループ、高島商人からは高島屋・小野組、八幡商人からは西川・ワコール・たねや等々がよく知れられています。他にも縁の深い企業としては、トヨタ、三井グループ、住友グループ、兼松、双日、日清紡、東洋紡、武田薬品、日本生命、ニチレイ等の名前も挙がります。いずれにしても、交通網の整備が商業を生み、商業が流通網を整え、活性化された流通が商業資本を形成し、商業資本が明治期における産業資本化を実現させていきました。西洋以外で初めて、自力で、かつ短期間で産業立国を成し得た日本ですが、それは奇跡などではなく、江戸期までに、然るべきプロセスを踏んで準備されていたと理解すべきなのでしょう。だとすれば、近江商人は、日本の近代化の大立役者だと言えます。(写真出典:city.higashiomi.shiga.jp)

2025年12月20日土曜日

モーテル

アメリカにいた頃は、出張でも家族旅行でも、結構、モーテルのお世話になりました。車社会のアメリカで生まれたモーテルは、全米どこにでもあり、安価で使い勝手が良い宿泊施設です。モーテルは、アメリカ文化を代表するアイコンの一つと言えます。モーテルという言葉は、1925年、カリフォルニア州のサン・ルイス・オビスポに建てられた”マイルストーン・モーテル”から始まったとされています。正式名称は”マイルストーン・モーター・ホテル”だったようですが、屋根の看板に納まりきらなかったので、経営者が簡略化して生まれた言葉でした。諸説ありますが、この”マイルストーン・モーテル”が、部屋の前に駐車場があるタイプとしては、世界初のモーテルだったようです。

アメリカのモータリゼーションは、1908年、フォード・タイプT、いわゆるT型フォードの発売に始まるとされます。流れ作業による大量生産方式が実現した安価で丈夫な車は、約20年間に1,500万台が生産され、アメリカを車社会へと変貌させます。それだけに留まらず、流れ作業化で、価格を下げ、賃金を上げ、消費を拡大するというフォーディズムは、大量生産・大量消費という20世紀の資本主義の基本的な方程式となり、物質主義を進めることにもなりました。また、車社会実現の背景には、テキサス州スピンドルトップの大油田発見に始まる石油ブームもありました。いずれにしても、モータリゼーションは、鉱工業の裾野を広げただけでなく、道路網の整備、ガソリン・スタンドの急増等とともに車で旅をする人々を生み出していくことになります。

車で旅をする人たちは、当初、車中や道端に張ったテントに泊まっていたようです。次いで水道やトイレを備えたオート・キャンプ場、そしてキャンピング・トレーラーへと展開し、最終的にはモーテルが登場することになります。モーテルは、郊外のロード・サイドという立地、安い建築費、人件費の節約などで安価な宿泊費を実現し、瞬く間に全米に広がりました。典型的には、I字かL字型の平屋に客室と駐車場が並び、建屋の端にフロントがあります。ダイナーやプールのあるタイプも多くあります。客室は、ベッドの違いはあっても、ほぼ同じシンプルなレイアウトです。ロードサイドにあるので、目立つ看板やド派手なネオンサインも特徴の一つです。そして、必ず”Vacancy/No Vacancy”のサインがあり、空いていれば予約無しで宿泊することができます。

モーテルを使う予定がある場合、私は、事前にモービル・トラベル・ガイドで調べて、目星を付けておくか、予約していました。1958年にスタートしたモービル石油の旅行ガイド(現在はフォーブス・トラベル・ガイド)は、アメリカで最も古くて、最も信頼されるガイド本でした。ホテル、モーテル、レストラン、観光名所が網羅されています。記載は、星の数で示されるレイティングと簡潔な説明だけなのですが、規格社会であるアメリカでは、それで十分に伝わります。携帯電話が登場する前のことだったので、バス・ルームに電話があるかどうかが、モーテルのレイティングを左右する大きな要素だったことを覚えています。逆に言えば、それくらいしか違いが見いだせないほど、モーテルは画一化されていたとも言えます。

モーテルの数に関する統計ははっきりしないのですが、ピークだった1960年代には6万軒以上存在したという説があります。近年は、減少が続き、16,000軒程度まで落ち込んでいるとのことです。最大の理由は、インターステイト・ハイウェイ(州間高速道路)網の拡大によって、旧道の交通量が減ったからです。ルート66が1985年に廃線になったのも同じ理由です。1926年に開通したルート66は、シカゴとカリフォルニアのサンタモニカを結んでいました。古き良きアメリカのフロンティア・スピリットや自由を象徴するマザー・ロードでした。同時に、ルート66は、モーテルやダイナーが立ち並び、アメリカ文化を象徴する道でもりました。余談ですが、日本のモーテルはラブ・ホテル化し消えていきました。最大の理由は、国土の狭さゆえ車で旅をする人が限られていたからなのでしょう。やはり、日本は鉄道の国だと思います。(写真出典:motel-voyageur.com)

2025年12月18日木曜日

演歌

藤圭子
どうも演歌は好きになれません。名曲もあれば、耳に馴染んだ曲も多いのですが、やはり苦手です。ヨナ抜き音階が嫌いというわけではありません。むしろ体に染みこんでるので、心地良く感じます。問題は、そのうら寂れた世界観です。演歌の全てではありませんが、自己憐憫的で哀愁の押し売り的な安っぽい世界が好きになれないわけです。演歌ファンにとっては、そこが最大の魅力なのだろうと思います。世間の荒波のなかで厳しい状況に置かれた人々はそれなりに存在し、また、理不尽な境遇や状況を嘆く人々も多くいるものと思います。そういう人々にとって、演歌は、まさに代弁者なのだろうと想像します。それもそのはず、演歌は、高度成長が生んだひずみに咲いた徒花ですから。

演歌のルーツは、明治期の自由民権運動で歌われた演説歌だとされます。また、大正期に大ヒットした「船頭小唄」を直接的な先祖とする説もあります。「オレは河原の枯れススキ、同じお前も枯れススキ・・・」という歌詞と暗い曲調は、関東大震災後の社会を反映しているとも言われます。しかし、まだ、この時点では演歌という言葉は存在していません。1950年代後半に入り高度成長期が訪れると、農村の労働力が都市部へと移動し始めます。そうした状況を反映して、「別れの一本杉」といった民謡調、あるいは田舎調と呼ばれる望郷の歌がヒットします。さらに工場労働者で賑わう都会の盛り場には、楽器を持って酒場を回り歌を聞かせる「流し」が登場します。流しの歌は”艶歌”と呼ばれ、北島三郎、こまどり姉妹等、メジャー・デビューする歌手も出ます。

こうした流れを受けて、1960年代中期から、村田英雄、都はるみ等がヒットを飛ばし、文壇では、竹中労、五木寛之、あるいは新左翼がエンカを一つの文化として賞賛します。そして、1969年、演歌の世界そのものとも言える暗い過去を持つ藤圭子がデビューし、歌謡界を席巻します。「演歌」という言葉が生まれ、世間に広まることにもなりました。以降、70年代、80年代は演歌全盛の時代でした。美空ひばりをはじめとする大物歌手たちも、こぞって演歌を歌うようになります。1977年に登場したカラオケが、ブームを加速させた面も大きかったと思われます。しかし、80年代後半、若者たちの人気が、ニュー・ミュージック、J-Popに流れると、演歌は急速に地盤沈下していきます。つまり、演歌は、日本の伝統ではなく、歌謡界のブームだったわけです。

市場規模は縮小したものの、演歌は、老人、労働者、地方で根強い人気を保っています。老人は懐古趣味なのでしょうが、労働者、地方での人気は、演歌の本質を語っているように思います。70年代以降、日本経済は、オイル・ショックや円高を経験しながらも、着実に成長を続け、人々は豊かさを実感するに至ります。しかし、そこにはメジャーな流れから取り残された人々が確実に存在し、演歌はその人たちに寄り添ってきたということなのでしょう。しかし、演歌は、アンチ・メジャーのプロテスト・ソングではありません。ベクトルは、あくまでも自己憐憫的です。演歌は時代の産物と言えますが、ここがしぶとい人気を保っている理由なのだと思います。その姿は、どこかアメリカのカントリー・ミュージックに通じるものがあると思えてなりません。

カントリー・ミュージックが、一定規模以上の売上を保ち続けている理由は、南部の白人農民・労働者といった明確な市場があるからだと思います。その背景には、アメリカの歴史的、人種的、宗教的分断があります。演歌の場合、分断があるとまでは言えません。そこが弱いところです。ちなみに、錦糸町駅前にセキネという演歌専門の小さなCDショップがあります。よく店先で新人演歌歌手がキャンペーンを行っています。着物を着てビール・ケースの上で歌う新人に30~40人程度の人が拍手を送っています。そのすぐ前に喫煙所がある関係で、その歌声をたまに聞くことがあります。曲自体は相も変わらぬド演歌ですが、皆、歌がうまいのには驚かされます。得てして演歌歌手は歌唱力に優れています。意図的とは思いませんが、ルックスとプロモーションで売上を伸ばす音楽界へのアンチ・テーゼのようでもあります。(写真出典:amazon.co.jp)

2025年12月16日火曜日

金時山

金時山山頂
御殿場から箱根外輪山へ向かい、富士山を背に乙女峠を越すと仙石原に至ります。乙女峠とは、随分と可愛らしい名前ですが、由来は2つの説があるようです。仙石原に住む”とめ”という娘が、父親の病気平癒を願って、御殿場の地蔵堂へお百度参りを行います。厳しい峠越えに体力は奪われ、ついに行き倒れますが、同時に父親の病気は直ります。おとめさんの親孝行を称えて峠は”おとめ峠”と呼ばれるようになったという説。また、かつて、ここには関所があり、厳しい検問のために旅人たちは足止めをくらったものだそうです。止めるが転じて”おとめ峠”と呼ばれるようになったとの説もあります。いずれにしても、その乙女峠の東側には、標高1,212mの金時山がそびえています。

金時山と言えば金太郎、後の坂田金時が生まれ育った地として有名です。土地の彫物師の娘・八重桐は、京にのぼったおり、宮中に仕える坂田蔵人と結ばれ身ごもります。八重桐は故郷で金太郎を産みますが、坂田蔵人が亡くなったため、京へは戻らず、故郷で金太郎を育てます。大柄で元気に育った金太郎は、足柄峠を通りかかった源頼光に見出され、後に頼光四天王の一人になります。頼光四天王とは渡辺綱、坂田金時、碓井貞光、卜部季武を指し、源頼光に従って、酒呑童子等を退治したことで知られます。しかし、坂田金時の実在性は確認されていません。文献上の初出は、頼光の時代から100年後の「今昔物語集」とされています。金時の幼少期である金太郎の伝説は、江戸初期に登場し、大ヒットした金平浄瑠璃によって広まっていったようです。

今昔物語集は、平安末期、11世紀から12世紀初頭の作品と推定されています。作者も正式名称も不明ですが、各物語が「今は昔」で始まることから今昔物語集と呼ばれています。天竺(インド)部、震旦(中国)部、本朝仏法部とに分類された仏教説話が中心ですが、本朝世俗部では頼光と酒呑童子のような話が取り上げられています。とは言え、世俗部の話も、仏教説話的であることが特徴と言えます。今昔物語集は、大衆に分かりやすく仏教を説くために僧侶が著わしたものだったのでしょう。芥川龍之介の代表作とも言える「羅生門」、「鼻」、「藪の中」といった短編は、今昔物語集を原典としています。また、芥川作品を原作とする黒澤明の映画「羅生門」(1950)は、ヴェネツィアの金獅子賞に輝き、アカデミー賞でも現在の国際長編映画賞を獲得しました。

金太郎伝説を知らしめた金平浄瑠璃とは、頼光と四天王の子供たちの活躍を描く浄瑠璃です。親たちの知名度を利用しながら、荒唐無稽な話を展開できるという実に巧みなフレームです。四天王の子供たちのなかでも金時の子である金平(きんぴら)が大人気となり、金平浄瑠璃と呼ばれることになりました。実は、家庭料理の定番きんぴらごぼうの名前の由来は、この坂田金平にあります。江戸期、金太郎の母は山姥、父は赤い龍や雷神といった展開も見られるようになります。山姥は、日本の物語によく登場する妖怪です。多くは、山奥に住み、通りかかった人を食う、という設定になっています。ただ、一方では、豊穣や多産の象徴としても語られています。山の恐ろしさと恵みに精通し、里に有益な物品をもたらす山の民へのリスペクトでもあったのでしょう。

金時山は、登山初心者向けの山としても人気があります。いくつかの登山ルートがありますが、おおむね3時間で往復できるようです。山頂付近は見晴らしが良く、富士山もきれいに見えるとのこと。登山ブームもあってか、年々、登山者が増えているように思います。今年は、全国どこでも熊の出没が増えており、金太郎が熊と相撲を取って遊んでいた山でも目撃情報があるようです。金時山周辺は、丹沢山地のツキノワグマ生息地とされています。麓の仙石原は車の通りが多く、山には登山者も多いわけですが、最近の熊は人を恐れていないように思います。登山には、十分な注意が必要であり、熊鈴は必須アイテムと言えますが、完璧を期すならマサカリをかついで登るべきなのだろうと思います。(写真出典:yamareco.com)

2025年12月14日日曜日

梁盤秘抄#40 There's a Riot Goin' On

アルバム名: There's a Riot Goin' On                                          アーティスト: Sly and the Family Stone

過日、久々に来日したシーラ・Eことシーラ・エスコビドゥのライブに行きました。メンバーの一人が、スライ・ストーンの従姉妹だったことを友人に話したら、スライ・ストーンが6月に亡くなっていたことを知らされました。まったく知らなかったので、驚きました。ファンク・ミュージックの頂点を極めた天才は、薬物はじめ多くの問題を抱えて転落していきましたが、その音楽はいまだにパワーを持ち続けています。私にとって、スライは神様であり、若い頃に最も多く聞いたミュージシャンでもあります。また、15年ほど前、ブルーノートでルーファスのライブにスライが客演したおり、客席に降りてきたスライと肩を組んで”I Want to Take You Higher”を歌えたことは、我が人生最高の出来事でもありました。享年82歳。合掌。

スライは、1943年、テキサスのデントンで生まれ、ベイエリアのヴァレーオで育っています。幼少期から天才ぶりを発揮し、教会で歌いながら、11歳までにキーボード、ギター、ドラム等をマスターしていたようです。いくつかバンドに参加したり、自ら結成した後、20歳台前半でラジオのDJやレコード・プロデューサーとして活躍します。ベイエリアでは知られる存在になっていたようですが、興味深いことに、最初のDJ時代、白人音楽をよく流していたようです。後に、スライの音楽は、ソウル、ポップ、ロックを融合した新しい音楽として脚光を集めることになります。1967年には、スライ&ファミリー・ストーンが結成されますが、メンバーは男女混成、黒人白人混成という当時としては画期的な構成のバンドでした。

1960年代のスライの音楽は、イケイケ、ノリノリで観客を煽るスタイルが多かったと思います。バンドは、1969年のアルバム「Stand!」で初めてプラチナ・ディスクを獲得します。特に「Stand!」や「I Want to Take You Higher」といった曲は、暴動を扇動するリスクがあるとして、ライブには常にFBIが張り付いていました。つまり、彼らの音楽は、1960年代のカウンター・カルチャーやブラック・パワーといったムーブメントを背景に成立していたわけです。しかし、このアルバム以降、ドラッグやメンバーの不仲でバンド活動は停滞し、ようやく2年後の1971年にリリースされたのが「There's a Riot Goin' On」でした。このアルバムは、全米チャートでも、ソウル・チャートでもNo.1に輝き、バンドとしては最大のセールスとなりました。

ここから、スライの音楽は、より内省的で、よりシンプルなものへと変化し、強烈なファンクのリズムだけが強調されています。歴史的名盤となったこのアルバムは、狂乱の60年代の終焉を象徴しており、それをストレートに伝えるのがタイトル曲の"There's a Riot Goin' On"です。演奏時間は0:00、つまり暴動は存在したが、幻想に過ぎなかったというメッセージです。制作は、まずスライが一人で演奏し、それにメンバー個々が重ねて録音するという特異なスタイルを取っています。アルバムの最終曲は”Thank You for Talkin' to Me Africa”です。この曲は70年のシングル・ヒット”Thank You (Falettinme Be Mice Elf Agin)”のリメイクです。サブタイトルは”For Let Me Be Myself Again”を意味しています。60年代の熱狂から覚め、冷静になったということなのでしょう。また、この曲は、ベースのスラップ奏法が初めて登場したことでも知られています。

この曲のシングル版は、まだ60年代のスライのテイストを残しているものの、ファンク色が強く、歌詞は完全に70年代のスライになっています。アルバム版では、テンポも落とし、よりシンプルな演奏になっています。この曲は、アルバム「Stand!」と「There's a Riot Goin' On」をリレーする曲だったと言えます。究極のファンク・アルバムと言える「There's a Riot Goin' On」は、マイルス・デイヴィスやジェームス・ブラウンにも大きな影響を与え、1999年にはグラミー賞の殿堂入りも果たしています。ちなみに、冒頭に触れたシーラ・Eですが、プリンス一派として知られています。希代の天才プリンスの音楽はスライの影響を大きく受けています。デビュー間もないプリンスが、当時すでにスターだったルーファスのチャカ・カーンを、スライの声を真似た電話で呼び出し、共演にこぎつけた話は有名です。(写真出典:amazon.co.jp)

2025年12月12日金曜日

倭寇

王直
世界史の謎の一つとされるのが、紀元前12世紀頃、東地中海を荒らした「海の民」です。複数の民族から成る混成部隊であり、エジプト、ギリシャ、シリア一帯で破壊の限りを尽くします。鉄の精錬技術を独占して栄えたヒッタイトが滅亡した原因ともされています。海の民と命名されたのは19世紀のことですが、今でも、まったく実態が解明されていない謎の集団です。謎のままである理由は、彼らが文字を持たず記録が残っていないこと、そして襲撃はすれども占領しなかったため、痕跡が残っていないからです。歴史上実在したとされているのは、襲撃された国々に記録が残っているからです。世界中、海賊の類いは皆同じなのでしょうが、13~16世紀に東アジアの沿岸部を荒らした倭寇も謎の部分が多いと言えます。

倭寇も、一つの統制の取れた組織ではなく、複数の集団の総称に過ぎず、海賊行為、密貿易という性格から、記録を残すことも、襲撃した地に定住することもなかったわけです。海の民と同様に被害を受けた側の記録は多く残っていますが、全貌は不明のままです。倭寇の文献上の初出は、1223年の”高麗史”とされ、「倭寇金州(倭が金州を寇した)」との記述があるようです。つまり、倭人(日本人)が金州を襲撃したというわけです。通常、倭寇は、13~14世紀の前期と、16世紀の後期とに分けられます。前期は、主に日本人が朝鮮半島を中心に襲撃し、後期は、主に中国人が中国、東南アジア一帯を襲ったようです。後期も倭寇と呼ばれていることは面白いと思いますが、その頃までに倭寇は海賊の代名詞になっていたということなのでしょう。

前期倭寇は、九州北部から出撃していたと想定されています。室町時代末期から南北朝時代へと続く戦乱によって、食糧事情が悪化し、かつ取り締りも緩んだことが倭寇を生んだと言われます。朝鮮半島や中国でも、政権が不安定な時期であり、海防に緩みがあったようです。また、元寇の報復であったとする説もあります。結果的には、嵐のおかげで日本は元軍を退けたわけですが、九州北部一帯に上陸した元軍の強さは圧倒的で、武士のみならず民間人も多数犠牲になったようです。日本を襲った元軍の1/3は高麗軍であり、使われた船の多くは高麗のものでした。倭寇は、高麗への仕返しだったというわけです。元寇以前から確認されている倭寇ですが、元寇以降は報復という要素も加わり、苛烈な攻撃になっていった可能性もあるように思います。

後期倭寇は、中国人主体となるわけですが、その代表格の一人が王直です。現在の安徽省出身の王直は、塩商人を経て密貿易に手を染め、日本や東南アジアと取引を行います。明朝の圧迫を受けた王直は海賊に転じ、鹿児島の坊津に拠点を移し各地を荒らします。王直がもたらす富に惹かれた平戸松浦氏は、王直を平戸に迎え入れます。王直は、館を構え、王族のように振る舞っていたようです。ちなみに、日本への鉄砲伝来については、誤解されている面があります。種子島に漂着したポルトガル船が鉄砲をもたらしたと思われがちですが、実際のところ、難破して漂着したのはポルトガル人を乗せた王直の船でした。また、平戸にポルトガル人を連れてきたのも王直です。つまり、日本の窓を世界に向けて開けたのは倭寇だったわけです。

ザビエルの来日についても、倭寇が関わっていたと言ってもよいのでしょう。ザビエルに日本での布教を勧め、ゴアから日本へ案内したのはヤジロウです。彼の行動は、ザビエルに同行した期間だけ明らかになっているわけですが、その前後の人生に関する文献は無く、謎の人物と言えます。何らかの事情で鹿児島からマラッカに渡ったとされますが、宣教師ルイス・フロイスによれば、官憲に追われる海賊、つまり倭寇だったようです。ヤジロウの行動範囲の広さは、倭寇のダイナミズムを感じさせます。時は正に大航海時代、日本やアジアは欧州に“発見”されたということになりますが、実はアジアのなかでも倭寇による大航海時代が展開していたとも言えそうです。(写真出典:asahi.com)

2025年12月10日水曜日

イマジン

90歳になる先輩をケアホームに訪ねました。先輩は、若い頃からモーツアルト協会に参加するほどのクラシック・ファンであり、今も、毎日のようにモーツアルトとバッハを聴いているとのことでした。ところが、最近、ロックも聞くようになったんだ、と言うのです。クラシック以外には縁のない先輩だっただけに、驚きました。よく聞いてみると、ジョン・レノンの「イマジン」が気に入ったらしいのです。そのきっかけとなったのは、NHKの「アナザー・ストーリー」を見たことだったようです。アナザー・ストーリーは、テーマを三つの視点から見ていくという面白い番組です。イマジンの回では、ジョンの死、プラハのレノン・ウォール、同時多発テロ後のNYという切り口から語られていました。

イマジンは、ポピュラー音楽といったジャンル、あるいはヒット・チャートといった産業レベルを遙かに超えた名曲です。人類が到達し得た最高水準の文化の一つだとさえ思えます。シンプルな歌詞、やさしいメロディ、耳に残るピアノ伴奏。一度聞けば忘れることのない曲です。オノ・ヨーコの詩に基づく歌詞は、無邪気で、夢想的に過ぎます。しかし、それゆえ究極の真実を伝えます。農耕以降、人類が1万年に渡って悩み続けてきた個人と組織という問題に対し、ジョンはわずか3分1秒で解決策を示しました。もちろん、それが現実の問題を解決できないことは分かっています。しかし、全ての人がイマジンを共有することは、人類にとって希望そのものです。イマジンは、人類連帯の歌です。それがイマジンという曲を偉大にしています。

ジョン・レノンは、1980年12月8日、住居のある高級マンション”ダコタ・ハウス”の前で射殺されます。訃報が流れた直後、ダコタ・ハウス前には数百人のファンが集まります。そこで、彼らが歌っていたのは「ギブ・ピース・ア・チャンス」(1969)でした。反戦歌、プロテスト・ソングの傑作です。映画「いちご白書」(1970)のラスト・シーンは、円陣を組んでこの曲を歌う学生たちを警察が一人づつ排除するというものでした。センチながら時代を象徴していました。しかし、そのわずか2年後、イマジンをリリースしたジョンは、反戦やカウンター・カルチャーといったレベルを易々と超え、宗教すらも超越した領域に達するわけです。1985年、ダコタ・ハウスに近いセントラル・パーク内には、ジョンを記念する「ストロベリー・フィールズ」が設けられました。

今も世界中から多くの人々が訪れるストロベリー・フィールズには、銅像も石碑もありません。あるのは地面に埋め込まれたプレートだけであり、そこにはイマジンと刻まれています。それはオノ・ヨーコの”生きた記念碑”という発想に基づくと聞きます。ストロベリー・フィールズは、現代アートの作家オノ・ヨーコの最高傑作なのではないかと思います。単なるポップ・スターではなく、全人類に明確な思いを共有させたジョンに相応しい記念碑だと思います。プラハのレノン・ウォールは、ジョンの暗殺直後に姿を表わしたようです。西側の情報が遮断されていたにも関わらず、壁はジョンへの献辞で埋められ、自由を希求する多くの若者が集まる場所になります。危険を感じた当局は、レノン・ウォールに集まる若者を弾圧・拘束します。反撥した若者たちがデモを行い、それが全土に拡大し、ついに1989年、ビロード革命として共産党独裁を終わらせます。

アナザー・ストーリーの第3の視点である同時多発テロ後の話は知りませんでした。当時のアメリカ社会は、反テロ、反イスラム一色で、強く団結していました。当時、ラジオ局は、放送すべきではない曲の一つとしてイマジンをリストアップしていたようです。世界の融和を訴えるイマジンは、火に油を注ぎかねない状況だったわけです。しかし、徐々にイマジンを歌う若者たちが現れ、広がっていきます。そして、ついにTVの追悼番組でニール・ヤングが歌うことにもなりました。テロを主導したオサマ・ビン・ラディンは極悪人です。しかし、この1世紀、石油欲しさに中東の政治に介入し、テロを起こし、戦争を誘導し、罪のない多くの人々を死に追いやってきたアメリカに罪はないのでしょうか。足下、ウクライナ侵攻、ガザでのジェノサイドが続いています。イマジンを歌わなくてもいい日が来るようには思えません。だからこそ、イマジンは歌い継がれていくのでしょう。(写真出典:amazon.co.jp)

2025年12月8日月曜日

二官八省

幸いなことに、今年も正倉院展を見ることができました。加えて、一度も見たことがなかった正倉院そのものも、外観だけではありますが見ることができました。77回目となる今年の正倉院展には、平螺鈿背円鏡、鳥毛篆書屏風、木画紫檀双六局などの逸品に加え、花氈、蘭奢待、瑠璃杯といった渡来した名品も展示されていました。正倉院に収められている宝物は約9,000点ありますが、その9割以上が国内で作られたとされています。大陸の名品や技術をもとに秀逸な国産品を仕上げていたわけです。1,300年前とも思えぬその精緻な技に、毎回、感動させられます。その見事な工芸品を制作できたのは、日本人の手先の器用さといった話だけではなく、律令体制が生んだ組織力の賜物なのだろうと思います。

 ヤマト王権の政治体制や官職は、氏姓制度に立脚していました。氏(うじ)とは、物部、蘇我といった血縁を中心とする部族です。姓(かばね)とは、臣(おみ)、連(むらじ)といった氏の格付けを意味します。倭国大乱の後、部族連合として成立したヤマト王権の性格が反映されています。王権が強化され、中央集権化が指向されはじめた飛鳥時代になると、官僚組織も形を成してきます。ヒエラルキーを明確にして効率的な運営を目指す官僚組織に、部族単位の氏姓制度は不都合であり、604年、個人を単位とする冠位十二階が定められます。広く人材を登用することが可能になりました。とは言え、人選にあたっては、科挙の制度が導入されたわけではないので、やはり氏姓制度に依るところが大きかったようです。

その後、中央集権化がさらに進んで律令体制が築かれると、官僚機構はより精緻な姿になっていきます。中央では、いわゆる二官八省体制が登場します。二官とは、天皇の下に直接置かれる神祇官と太政官を指します。神祇官が祭祀を担当し、太政官が国政を統括します。太政官は、いわば内閣に相当し、太政大臣、左大臣・右大臣、大納言等からなる組織です。補佐組織である少納言局や左右の弁官局も含まれます。太政官の下に、実務組織である八省が置かれます。中務省、式部省、治部省、民部省、兵部省、刑部省、大蔵省、宮内省です。八省の他にも、行政監察を行う弾正台、警護に当たる衛府、皇太子に仕える東宮、厩を司る馬寮、武器庫を担当する兵庫、后妃に仕える後宮などが置かれています。後には、規定にない令外官も置かれていくことになります。

メーカーも市場も未成熟な時代ですから、各省が、運営上、必要な物品があるとすれば、自ら作るしかありません。工芸品については、主に中務省、大蔵省、宮内省で制作されていたようです。中務省は、朝廷の政務を担当する組織ですが、図書寮、内蔵寮、縫殿寮、内匠寮、画工司等で工芸品が制作されています。大蔵省は、天皇の蔵の出入庫を管理しますが、織部司や、後に中務省に併合される縫部司、漆部司、典鋳司といった組織を持っていました。宮内省は、朝廷の庶務を担いますが、木工寮、鍛冶司、内染司、筥陶司なども抱えていました。各部署には、腕に覚えのある者が集められ、また育成も行われていたようです。細かく分化することで専門性が高まり、その仕事を担う家が登場することで技術が磨かれ、かつ継承されていきます。

歴史上、美術、音楽、文学、舞踊、工芸といった芸術が生まれ、育まれるのは宮廷です。強い王朝があれば、より高度な芸術が生まれます。王族と、その取り巻きの貴族や武家が文化の担い手であり、経済の高度化にともない商家にも広がっていきます。直接的な食糧生産から最も遠いところにあるのが宮廷と芸術だと言えます。律令体制による権力構造の組織化は、国家の始まりであるとともに、芸術の始まりでもあったわけです。正倉院の宝物の一部は、再現模造の取組が行われてきました。技術・技法の研究はもとより、技術の継承という観点からも取り組まれています。また、伊勢神宮の式年遷宮では、宝物類は全て新調されます。ここでも技術が継承されているわけです。いずれも、1300年間変わることなく、国家予算によって賄われています。(写真出典:diamond.jp)

2025年12月6日土曜日

「フランケンシュタイン」

監督:ギレルモ・デル・トロ        2025年アメリカ

☆☆☆+

ゴシック・ロマンに新たなマスター・ピースが誕生したように思います。フランケンシュタインは、吸血鬼ドラキュラ、ノートルダム・ド・パリ、ジキル博士とハイド氏などと並んで、19世紀ゴシック・ロマンを代表する作品です。メアリー・シェリーが、フランケンシュタインを出版したのは1818年のことでした。彼女は、アナキズムの創始者ウィリアム・ゴドウィンとフェミニズムの創始者メアリー・ウルストンクラフトの娘として、ロンドンに生まれます。ロマン派詩人パーシー・シェリーと結婚し、夫妻の盟友だった詩人バイロン卿に勧められてフランケンシュタインを書いたと言われています。

フランケンシュタインは、ドラキュラ同様、多くの娯楽作品のテーマとされてきました。ただ、これほど原作が無視されている作品も少ないのではないかと思います。まずは、フランケンシュタイン博士が死体から作り上げた怪物は無名だったのですが、いつしかフランケンシュタインと呼ばれるようになりました。また、初めから知性を持って誕生した怪物は、知性を持たないただの化物にされ、ロマンにあふれ哲学的でもあるストーリーが、単純な怪物退治の話に翻案される傾向があります。全ての間違いのもとは、1931年にハリウッドが製作し、世界的に大ヒットした映画「フランケンシュタイン」にあります。とりわけ、怪優ボリス・カーロフが演じた四角い頭の怪物は、フランケシュタインの定番イメージとなりました。

本作も、原作を忠実に再現しているわけではありません。ただ、翻案は、原作が持つテーマやテイストを尊重、ないしは強調する形で行われています。原作を、映画というフレームに収めるための工夫でもあるのでしょうが、原作以上に深みのある人間性の追求、あるいは産業革命以降の近代史観が巧みに織り込まれ、作品に奥行きを与えています。そういう意味では、原作を超える作品とも言えそうです。また、人間の強欲が生んだ20世紀の自然破壊という今日的な視点も盛り込まれています。それでいて、ゴシック・ロマンとしてのテイストやエンターテイメント性も十分以上に確保されています。「シェイプ・オブ・ウォーター」(2017)で各賞を総ナメにしたギレルモ・デル・トロですが、本作は、新たな代表作となるのでしょう。

また、デル・トロのスティーム・パンクへの思い入れも見事なものです。スティーム・パンクは、レトロでノスタルジックな19世紀的時代感を端的に表します。それだけでなく、科学が人間の想像力や夢のなかにあった時代を象徴しているとも言えます。20世紀になると、強欲さをむきだしにした資本主義は、科学に経済的な効率を最優先するというタガをはめていきます。科学の進展は喝采を浴びますが、人間よりも機械が優先される事態を生み、社会的な抵抗の動きも起きます。自然破壊に関しても警鐘が鳴らされますが、20世紀前半までは決して大きな動きではなかったように思います。スティーム・パンクは、科学技術が、まだ人間性や自然との調和をある程度保っていた時代への憧憬だと言えるのかも知れません。本作は、シェイプ・オブ・ウォーターの前日譚、あるいは原点のようにも思えます。

フランケンシュタイン博士役の オスカー・アイザック、怪物を演じた ジェイコブ・エロルディの名演が光ります。しかし、キャスティングで特筆すべきだと思ったのは、エリザベス役にミア・ゴスを起用したことです。原作のエリザベスはフランケンシュタイン博士の婚約者ですが、デル・トロ版では博士の弟の婚約者であり、博士と怪物の心をつなぐ結節点の役割を担います。デル・トロの思想をストーリーのなかに落とし込むにあたり、極めて重要、かつ象徴的なキャラクターと言えます。演技というよりも存在感の有り様がより重要な役回りだと思いますが、ミア・ゴスが持つ摩訶不思議なムードがピッタリはまっていました。(写真出典:eiga.com)

2025年12月4日木曜日

近畿

木曽三川
濃尾平野を流れる木曽川、長良川、揖斐川は「木曽三川」と呼ばれます。若い頃、先輩から、木曽三川を超えれば近畿だと聞かされ、違和感を覚えました。近畿地地方と言えば、大阪、京都、奈良、滋賀、兵庫、和歌山の2府4県を指すと思っており、三重県は東海地方だと認識していたからです。初めて名古屋へ行った際にも、JR名古屋駅、いわゆる名駅の隣が近鉄名古屋駅であり、近鉄百貨店が建っていることに若干戸惑いました。JRグループに次いで長い営業路線網を持つ近鉄は、大阪、京都、奈良、三重、そして愛知の2府3県をカバーしています。とは言え、愛知に関しては伊勢から名古屋に至る路線だけあり、基本的に近鉄はその名の通り近畿地方をカバーする鉄道会社と言えます。そして、そこには三重県も含まれるわけです。

実は、近畿という言葉は、比較的新しい言葉です。明治期の教科書で使われたことから広まりました。その語源は飛鳥時代に登場した”畿内”にあります。畿とは都を意味し、畿内とは、大王の直轄地を指すとされます。646年の改新の詔には、畿内の範囲が明示されています。五畿とも言われ、大和、山城、河内、和泉、摂津の五国を指します。近畿とは、畿内の近隣も含めた地域という意味だと思われます。現代で言うところの首都圏なのでしょう。現在の首都圏は、一般的に東京、千葉、埼玉、神奈川の1都3県を指します。明治期になって作られた近畿という言葉は、現在の首都圏に適用されるのが正しいのではないかと思います。それをあえて関西エリアに使ったのは、東京遷都ではなく、東京奠都と称したのと同じ理由なのだと考えられます。

 明治政府は、公家の影響を排除するために天皇を東京に移し、かつ公家の反撥を抑えるために都は京都のままであると強弁します。従って、畿内も従前どおりの定義とされ、近畿もその周辺部を含む言葉とされたのでしょう。遷都の詔が発せられていない以上、これは筋の通った話です。一方、関西という言葉もあります。一般的には近畿とほぼ同じ地域を指しますが、より広く、より緩やかな定義です。律令時代の鈴鹿、不破、愛発の三関、後には逢坂関より東が関東とされ、その西が関西とされます。ただ、使われることは希だったようです。関西が一般化したのも明治以降です。東京奠都後、江戸で定着していた上方という言葉が不都合となり、関西という言葉が持ち出されたようです。近畿も関西も、明治政府の苦労がにじむ言葉だったわけです。

さて、上方という言葉ですが、都とその周辺を指す言葉として鎌倉末期に登場したようです。江戸期、政治の中心は江戸に移ったものの、文化・経済の中心が京都・大阪に残ったことから、上方という言葉が定着していきます。江戸初期、上質な酒や醤油などは関西から江戸に持ち込まれ、下りものと称されていました。今でもよく使われる”くだらない”という言葉の語源は、下りものではない、つまり上方から下った上質品ではないという意味だとされます。ちなみに、韓国へ行った際、くだらないの語源は、往時、先進国であった百済にはないほど劣悪なものという意味だと聞かされました。古代における日本と百済の関係の深さは理解するものの、この話は、いささか信じがたいところです。もちろん、礼儀として、即座に否定することはしませんでした、

話は三重に戻りますが、三重県の言葉も文化も明らかに関西の特徴を持っています。やはり、木曽三川が分かれ目なのだと言えます。ただ、三重県は、名古屋との経済的な関係が深く、中京経済圏の一角を占めます。愛知、岐阜とともに東海三県、あるいは静岡も加えた東海地方とも呼ばれます。行政上も、主にこの区分が使われています。三重県は、いわばデュアル・ステータスということになります。しかし、津、松坂、伊勢といった県の南部の人たちに言わせれば、四日市を中心とする北部は別な県だということになります。つまり、県北部は名古屋と一体化した東海圏であり、近畿地方である県南部とは大いに異なるというわけです。畿内の外縁部とは言え、古代から伊勢神宮を擁し、後には伊勢商人が大活躍した県南部のプライドは極めて高いということなのでしょう。(写真出典:jl-db.nfaj.go.jp)

2025年12月2日火曜日

「トレイン・ドリーム」

監督:クリント・ベントレー    2025年アメリカ

☆☆☆☆

とても上質で、永く印象に残る作品だと思います。主人公は、 伐採労働者として、アメリカ西部の山中で生涯を送った物静かで忍耐強い男です。彼の人生を通して、アメリカの現代史が淡々と語られていきます。同時に、それはアメリカを形作ってきた無名の人々への賛歌でもあり、消えゆく大自然への哀歌でもあります。原作は、デニス・ジョンソンのピュリッツアー賞の最終候補ともなった2011年の同名中編小説です。監督は、南部で牧場と林業を営む家に生まれた人で、本作が監督作品2作目となります。渋いキャストが揃うなか、主役のジョエル・エドガートンが、映画を決定づけるほどの名演を見せています。低予算映画ながら、アメリカでは、早くもアカデミー賞候補との呼び声が高い作品です。

産業革命、西部開拓、そして近代化と進む米国で、木材の需要は尽きることがなく、また広い国土にあって森林も尽きることがないように思えたはずです。森林の伐採は米国の近代化を支えたわけですが、その最前線で働く労働者たちは近代化に取り残された人々でした。機械化が進んだ現代でも、伐採労務は死亡率の高い危険な仕事です。20世紀初頭ならば、なおのことです。伐採労務者たちは、強欲の塊である資本主義の奴隷として働きながら、一方で自然を破壊することへの漠然とした恐れも感じています。それが姿を成したのが山火事であり、主人公は妻子を失うことになります。喪失感に打ちのめされた主人公は、世間から孤立していきます。それでも伐採の現場へ戻りますが、老いてゆく仲間の姿を見て、季節労務の仕事から離れます。

資本主義は人種差別をも生み出します。鉄道工事の現場で虐殺された中国人の幻影が、おりにふれて主人公の目に浮かびます。しかし、本作は、アメリカの現代史を批判的に描いた作品などではありません。失われた自然への哀惜や無名の人々に対する共感はありますが、物質文明や資本主義を論じているわけではありません。作品は、センチメンタルでノスタルジックなベールをまとっていますが、そのテーマとするところは無常観なのだと思います。ただし、仏教の無常観とは大いに異なります。仏教における無常観は空の概念へと導かれますが、本作の無常観は、”それでも人生には意味がある”という肯定につながっていきます。ラスト・シーンで飛行機に体験搭乗した主人公は、宙返りした瞬間に「天地が逆になり、全てがつながった」という思いにたどりつきます。

主人公のなかで、何が逆転したのでしょうか。主人公は、自然や社会と対峙し、さいなまれ、無力感を感じています。しかし、宙返りして天地が逆になった瞬間、自分が、ささやかながら自然の一部であり、歴史の一部であることを悟り、自らの人生を肯定することができたのだと思います。それは、プロテスタント・カルヴァン派の思想にも通じています。マックス・ウェバーは、カルヴァン派が資本主義を発達させた、と言っています。産業革命以降の経済発展はカルヴァン派によって成し遂げられたとも言われます。神が救う人は予め決められているが、それが誰かは分からない。少なくとも、選ばれた者は禁欲的に職業に励む者であるに違いない。カルヴァン派は、現実肯定の宗教であり、無名の人々の勤勉を後押しし、米国の発展に寄与したと言えます。

実は、この映画は”老い”についても語っているように思います。どこまで監督が意識しているのかは判然としません。ひょっとすると、テーマを展開するうえでのフレーム、あるいは副産物なのかも知れません。人それぞれの人生には、良いことだけではなく、悪いことも多々起こります。自らの人生を全肯定して穏やかな老後を過ごすか、深い後悔にさいなまれる日々を送るか、これは大きな違いです。美しい自然の映像、持続する穏やかなトーン、内省的なエドガートンの演技、これら全てが老人には深く刺さります。恐らく、多くの老人が、主人公に我が身を重ねて、この映画を見ることになるのでしょう。いずれにしても、なかなかの作品、なかなかの監督が登場したものだと思いました。(写真出典:imdb.com)

鉢木