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| 木曽三川 |
実は、近畿という言葉は、比較的新しい言葉です。明治期の教科書で使われたことから広まりました。その語源は飛鳥時代に登場した”畿内”にあります。畿とは都を意味し、畿内とは、大王の直轄地を指すとされます。646年の改新の詔には、畿内の範囲が明示されています。五畿とも言われ、大和、山城、河内、和泉、摂津の五国を指します。近畿とは、畿内の近隣も含めた地域という意味だと思われます。現代で言うところの首都圏なのでしょう。現在の首都圏は、一般的に東京、千葉、埼玉、神奈川の1都3県を指します。明治期になって作られた近畿という言葉は、現在の首都圏に適用されるのが正しいのではないかと思います。それをあえて関西エリアに使ったのは、東京遷都ではなく、東京奠都と称したのと同じ理由なのだと考えられます。
明治政府は、公家の影響を排除するために天皇を東京に移し、かつ公家の反撥を抑えるために都は京都のままであると強弁します。従って、畿内も従前どおりの定義とされ、近畿もその周辺部を含む言葉とされたのでしょう。遷都の詔が発せられていない以上、これは筋の通った話です。一方、関西という言葉もあります。一般的には近畿とほぼ同じ地域を指しますが、より広く、より緩やかな定義です。律令時代の鈴鹿、不破、愛発の三関、後には逢坂関より東が関東とされ、その西が関西とされます。ただ、使われることは希だったようです。関西が一般化したのも明治以降です。東京奠都後、江戸で定着していた上方という言葉が不都合となり、関西という言葉が持ち出されたようです。近畿も関西も、明治政府の苦労がにじむ言葉だったわけです。
さて、上方という言葉ですが、都とその周辺を指す言葉として鎌倉末期に登場したようです。江戸期、政治の中心は江戸に移ったものの、文化・経済の中心が京都・大阪に残ったことから、上方という言葉が定着していきます。江戸初期、上質な酒や醤油などは関西から江戸に持ち込まれ、下りものと称されていました。今でもよく使われる”くだらない”という言葉の語源は、下りものではない、つまり上方から下った上質品ではないという意味だとされます。ちなみに、韓国へ行った際、くだらないの語源は、往時、先進国であった百済にはないほど劣悪なものという意味だと聞かされました。古代における日本と百済の関係の深さは理解するものの、この話は、いささか信じがたいところです。もちろん、礼儀として、即座に否定することはしませんでした、
話は三重に戻りますが、三重県の言葉も文化も明らかに関西の特徴を持っています。やはり、木曽三川が分かれ目なのだと言えます。ただ、三重県は、名古屋との経済的な関係が深く、中京経済圏の一角を占めます。愛知、岐阜とともに東海三県、あるいは静岡も加えた東海地方とも呼ばれます。行政上も、主にこの区分が使われています。三重県は、いわばデュアル・ステータスということになります。しかし、津、松坂、伊勢といった県の南部の人たちに言わせれば、四日市を中心とする北部は別な県だということになります。つまり、県北部は名古屋と一体化した東海圏であり、近畿地方である県南部とは大いに異なるというわけです。畿内の外縁部とは言え、古代から伊勢神宮を擁し、後には伊勢商人が大活躍した県南部のプライドは極めて高いということなのでしょう。(写真出典:jl-db.nfaj.go.jp)
