2025年12月30日火曜日

はなし塚

はなし塚
吉原遊廓は、浅草の観音裏の田んぼの中にあったにも関わらず、夜ごと、大変な賑わいだったようです。最盛期の遊女の数は4千人を超え、恐らく毎晩の人出も1万や2万人どころではなかったはずです。ただ、皆が皆、店に上がるわけではありません。”冷やかし”、あるいは”ぞめき”、”素見”と呼ばれる見物客の方が圧倒的に多かったようです。冷やかしという言葉は、吉原の近くにあった古紙を再生する作業場に由来します。その再生古紙は浅草紙としてよく知られていたようです。職人たちは、古紙を煮た後の冷やかし工程に入ると、しばらく暇になります。そこで近所の吉原へ繰り出し、遊女見物をして時間をつぶしたものだそうです。それが冷やかしという言葉の語源となったわけです。ちなみに、その紙漉きの技術が浅草海苔へとつながります。

吉原由来で、今も使われている言葉は、冷やかしだけではありません。お馴染み、モテる、おひねり等も一般化しています。吉原は遊廓に留まらず、歓楽街、江戸の名所、そして庶民文化の発信地でもあったわけです。江戸の庶民文化が生んだ古典落語にも、当然、吉原が多く登場します。吉原は、人間観察や世情を映す場として、落語には欠かせない場だったとも言えます。その吉原が落語から消えた時期がありました。1940~1946年の間、講談落語協会の自主規制として、53話が禁演落語とされました。1938年、日中戦争の長期化を受け「国家総動員法」が成立し、日本は戦時下へと入っていきます。経済統制とともに、言論統制も行われ、新聞の統制をはじめとして、雑誌や映画なども厳しい検閲を受けることになります。落語も例外ではなかったわけです。

禁演落語の選定基準とされたのは、女郎買いもの、酒飲みもの、泥棒もの、間男もの、美人局もの、不道徳もの、残酷ものでした。実際に指定された53話は、廓ばなしが32、妾ばなしが4、不義・好色ばなしが16、残酷な噺が1となっています。要は、好色・艶笑系がほぼ全てだったわけです。犯罪ものも、不道徳な噺も少なからずあるなかで、軍国主義者たちが警戒したのが好色系だったということは、実に興味深いと思います。全体主義は、個人の自由を否定し、全体の利益にのみ貢献させる体制です。犯罪や不道徳はもとより社会から否定されているわけですから、全体主義が徹底的に統制すべき対象は個人の生活と思想ということになります。そこでは、ステレオタイプ化された家庭の姿が重視され、性欲は生殖目的に限り認めらることになります。

禁演落語は、講談落語協会の自主規制という体裁が採られていますが、政府、その後ろにいる軍部に強要されたものであることは明らかです。自主規制は、軍部にとっては世間の反撥を回避する方策であり、官僚にとっては法制化の煩わしさ、監視・摘発の手間が省ける上策です。自主規制の運営がうまく機能していない場合に限り、行政指導を行うだけでよいわけです。禁演落語の選定は、説明が付きやすく、議論も少ない外形だけで行われたものと考えます。53話のなかには、明烏、品川心中、居残り佐平次、三枚起請、高尾(反魂香)、付き馬(早桶屋)、二階ぞめき等々、古典落語を象徴するような傑作が多く含まれています。選定にあたった落語家たちの口惜しさが想像できます。魚屋に干物以外は売るな、と言っているようなものですから。

1941年、講談落語協会等が発起人となり、浅草の本法寺境内に、「はなし塚」が建立されます。碑文には”葬られたる名作を弔ひ”、”古今小噺等過去文芸を供養する”と記載され、禁演落語53話の台本などが埋められました。また、落語界の先人たちを弔うという趣旨も付け加えられています。塚の建立は、軍部に対する落語界の忠誠をアピールするために行ったように見えます。しかし、わざわざ塚を作ること、そして”名作”や”過去文芸”と表現したことには、落語家たちの悔しさと諧謔が込められているとしか思えません。時節柄、口が裂けても言えない本音を塚の建立に託した精一杯の強がりなのだと思います。笑いで世間を風刺し、体制を批判してきた落語家たちの真骨頂とも言えます。塚の建立自体が、しゃれの利いた落語そのもののようにも思えます。(写真出典:honpouji.jimdofree.com)

鉢木