2022年1月14日金曜日

しょっつる

醤油は、基本的に、溜り、濃口、薄口、再仕込み、白醤油の5種類に区分されます。このうち、最も古くから存在するのが、味噌の製造過程で浮かんでくる”溜り”です。日本の醤油発祥の地とされるのは、和歌山県の湯浅ですが、中国伝来の金山寺味噌の産地でもあります。17世紀末、”溜り”だけを、効率よく作るアルコール発酵製法が確立し、濃口醤油が生まれました。”溜り”の起源は、古代中国で作り始めた「醤(ひしお)」ということになります。醤とは、肉や魚の塩漬けのことであり、紀元前2世紀頃には、穀醤、つまり豆や雑穀の塩漬けが作られ始めたようです。それが味噌となり、豆板醤などに進化していきます。穀醤は、そのもの自体だけではなく、上澄液の”溜り”も調味料として利用されたわけです。

一方、魚で作る醤は、米などを加えて発酵させると、鮨の原型「なれずし」になります。日本では、琵琶湖の鮒寿司が有名です。魚の醤は、ペースト状にすれば、アンチョビ・ペーストのような調味料になり、その上澄み液は魚醤(ぎょしょう)となります。魚醤の発祥は、カンボジアのトンレサップ湖周辺とされます。ただ、古代ローマにも魚醤は存在し、かつ各地にアンチョビ・ペーストがあることを考えれば、トンレサップ湖から広まったのではなく、各地で同時発生したのでしょう。とは言え、魚醤を多く使うのは、アジア各地ではあります。タイのナンプラー、ヴェトナムのニョクマム、インドネシアのケチャップなどが有名です。なお、ケチャップと言えばトマトですが、その語源は、福建の鮭の醤を意味する言葉だとされています。

日本の魚醤と言えば、ハタハタを使った秋田の「しょっつる」、能登ではイカを使った「いしり」と鰯を使う「いしる」、イカナゴを使う香川の「いかなご醤油」などが有名です。いずれも、季節に大量に獲れる魚の保存法として醤が作られ、魚醤が生まれたのでしょう。使う魚によって、風味の違いはあるものの、いずれも、魚から出るアミノ酸と核酸が、濃厚なうま味を生み出します。伊豆のくさやも魚醤の一種とされます。くさやは、とても味わい深く美味いのですが、匂いがいけません。かつて、集合社宅に住んでいた頃、頂いた上物のくさやを焼いたら、人肉を焼いているのではないか、という噂がたったほどです。人肉を焼く匂いを知っているのか、とつっこみたくなりました。

秋田のしょっつるは、東北出身者にとって、なじみ深いものです。様々な用途がありますが、私のお気に入りは”しょっつる鍋”です。しょっつるの出汁で、ハタハタと各種野菜を入れた鍋です。半端ないうま味が味わえます。ただ、同じ秋田つながりで言えば、比内地鶏のスープでいただく”きりたんぽ鍋”はよく食べますが、しょっつる鍋は、滅多には食べません。なぜなら、近所で生のハタハタを手に入れることが難しいからです。そこで、ハタハタの代りに北国の冬の味覚タラを入れた、なんちゃって”しょっつる鍋”は、たまに楽しんでいます。また、アンチョビ・ペーストの代りに、パスタにしょっつるを入れても、美味しく頂けます。基本的には、同じ魚醤類ですから。逆に、魚介の鍋や煮物に、アンチョビ・ペーストを加えても、コクが出て、いい味になります。

ハタハタは、漢字では「鱩」あるいは「鰰」と書きます。ハタハタ漁の最盛期は、11~12月頃であり、雷の鳴る季節であることから、魚偏に雷となったようです。古語では、雷が鳴ることを「はたたく」と言ったことからハタハタと呼ばれたとのこと。また、雷のことを「ハタタ神」と呼んでいたことから、魚偏に神という漢字が生まれたようです。随分と立派な漢字ですが、かつては豊漁続きで安価だったことから、箱買いしかできない魚だったと聞きます。また、箱代の方が高いとまで言われたそうです。その後、乱獲がたたったのか、漁獲量が激減し、20年ほど前には、3年間の自主禁漁を行い、資源の回復を図りました。現在は、一定の漁獲制限下で漁が行われているようです。(写真出典:item.rakuten.co.jp)

2022年1月13日木曜日

ミカエルの夢

アヴランシュの町は、ノルマンディーの海に面した高台にあります。町の司教だったオベールの夢枕に、大天使ミカエルが立って言います。あの小島に聖堂を建てよ。半信半疑のオベールは、これを無視します。すると、またミカエルが夢に現れ、同じ事を言います。再び、オベールが無視すると、ついにミカエルは怒り、オベールの額に指を当てて、強く命じます。朝、起きたオベールの額には穴が開いていました。オベールは、サン・マロ湾に浮かぶ岩山に礼拝所を築きます。世界遺産モン・サンミッシェルの縁起です。「西洋の驚異」とも呼ばれる修道院には、世界中から年間300万人が訪れる一大観光地でもあります。

モン・サンミッシェル最大の特徴は、海上の小島に、上へ上へと積み上げられた建物群ということになります。ブリューゲル描くところのバベルの塔が海の上に姿を現わしたような風情です。建造物は、時代、時代で、増築を重ねた結果、現在の姿になっています。従って、複数の建築様式が混在しています。ノルマンディーは、ケルト人の住む土地でしたが、紀元前1世紀には、古代ローマに征服され、植民地化されます。その後、ゲルマン系のフランク王国の支配下となりますが、9世紀後半、ノルマン人に征服されます。その後、アンジュー伯の支配を経て、13世紀初頭、フランス王フィリップ2世がノルマンディーを王国に組み入れます。百年戦争の際には、一時、英国の支配も受けています。16世紀の宗教戦争においても、ノルマンディーは激戦地となっています。

1944年6月には、連合国軍によるノルマンディー上陸作戦も行われました。史上最大の上陸作戦は、モン・サンミッシェルから100kmほど北で行われました。ノルマンディーは、激しい歴史の荒波に揉まれてきました。モン・サンミッシェルは、厳しい歴史を建物に刻み込みながら、起立しているとも言えそうです。10世紀には、修道院が開かれていますが、その周辺は、要塞としても機能していました。フランス革命後は、監獄として使われ、19世紀、再び修道院として再建されています。また、19世紀には、陸地との間が埋め立てられ、堤防上に道路と鉄道が敷設されますが、砂州化が進むという問題を抱えることになります。結果、2014年、堤防は壊され、陸地とは橋でつながれることになりました。私は、堤防時代の最後に訪れましたが、確かに、海の上というよりは砂地の上にあるような印象でした。

修道院は、人里離れた場所に作られる傾向があります。出家して、神に人生を捧げるわけですから、当然と言えば当然です。人家から離れるだけではなく、イタリアのモンテ・カッシーノ修道院のように孤立峰の山頂、あるいはギリシャのメテオラの修道院群のように登るのも困難な絶壁の上に建てられている場合も多くあります。俗世と隔離された場所というだけではなく、より天に近い所という意味もあるのかも知れません。海上の修道院の代表格はモン・サンミッシェルということになりますが、アイルランド沖のシュケリッグ・ヴィヒル島に存在した修道院が最もストイックだと思われます。近づくこともままならないという絶海の孤島に作られた修道院は、スター・ウォーズのロケ地として、一躍有名になりました。

モン・サンミッシェルの名物と言えば、ラ・メール・プーラールのオムレツということになります。1888年、宿屋の女将だったアネット・プーラールが、巡礼者のために考案したというフワフワのオムレツです。その大きさに驚きますが、フワフワ過ぎて、口に入れた途端、消えてなくなります。はっきり言って、食べた気がしません。巡礼者の目を楽しませただけのようにも思います。ただ、ラ・メール・プーラールのサブレやパレは、とても美味しいと思います。サブレは、”1888”と焼き入れされています。ラ・メール・プーラールは、モン・サンミッシェル人気を背景に、日本にも進出しており、今は、東京でオムレツを食べることも、サブレも買うこともできます。(写真出典:ja.wikipedia.org)

2022年1月12日水曜日

尼港事件

トリャピーツィンとレベデワ
1920年2~5月、アムール川河口に位置する港町ニコラエフスク(尼港)で、赤軍パルチザンが、町の人口の半分6,000人以上を虐殺します。うち730名は日本人であり、民間人、官僚、兵士が皆殺しにされています。建物も破壊され、町は壊滅状態になったといいます。いわゆる赤色テロです。ロシア革命は、レーニンが、テロを強く推奨したことから、赤色テロの嵐となります。リーダーに任命されたヤーコフ・イヴァノーヴィチ・トリャピーツィンが率いたパルチザンは4,000名、中国人と朝鮮人も数百人づつ含まれていたようです。パルチザンとは非正規軍のことであり、トリャピーツィンは、二ヶ月をかけて、アムール川下流地帯から兵員を徴募しています。山賊や強制された農民たちであり、まさに烏合の衆そのものです。

ニコラエフスク港は、1850年に建設されました。極東の貿易港として、ロシア人だけではなく、ユダヤ人、中国人、朝鮮人、そして日本人が拠点を構え、商売をしていました。ロシア革命が始まると、治安が悪化、ごく少数ながら赤軍も駐留していたようです。治安を維持したい町の有力者たちは、おりしもシベリア出兵中だった日本軍に進駐を要請します。町にいた白軍に代わって日本軍400名が町の治安を守ることになりました。そこへトリャピーツィン率いるパルチザンが到達します。日本軍は、司令部から、中立を守るよう厳命を受けていました。つまり、攻撃されない限り、発砲してはいけないということです。町の代表と日本軍は、パルチザン側と交渉のうえ、安全と自由の確保等を条件に、2月末、町を開城します。

しかし、町に入ったパルチザンは、約束を守らず、白軍や市民を拘束、拷問のうえ処刑するなど横暴な行動に出ます。すべての武器を赤軍に貸与せよといった無理難題を突きつけられた日本軍は、3月12日、ついにパルチザン本部などに突入し、武装解除を目指します。ところが、圧倒的な兵員数の差に日本軍は全滅させられ、かつ日本人、および市民の虐殺が開始されました。日本軍への無理難題は、パルチザンの罠でした。さらに、凍結した港に閉じ込められていた中国軍艦から、日本領事館、および市民に対する砲撃も行われます。後に、中国は、パルチザンに砲を貸与しただけだと弁明していますが、何の証拠もありません。5日間続いたという虐殺で、推定1.500人が亡くなりましたが、これが全てではありませんでした。

この事件を機に、日本軍は、中立というスタンスを捨て、ウラジオストク、ハバロフスク等の赤軍を武装解除します。ソヴィエト・ロシアは、極東共和国を設立し、日本との緩衝帯設置を目論みます。ニコラエフスクで虐待の限りを尽くしていたトリャピーツィン一派は、5月末、この情報に基づき、町の放棄を決定し、撤退前に市民の虐殺と町の破壊を徹底的に行います。犠牲者数は、不明のままですが、3月と合わせ、少なくとも6,000人以上と推定されています。撤退するパルチザンは、逃亡者が相次ぎ、ごく少数だけが残りました。ソヴィエト代表団は、7月3日、トリャピーツィンとその愛人で参謀長のニーナ・レベデワ等を逮捕し、簡便な裁判の直後、銃殺しています。罪状は、革命的合法性の侵害、権力乱用、略奪であり、虐殺ではありません。

処刑時、トリャピーツィンは23歳、レベデワは21歳でした。トリャピーツィンはレフ・トロツキーに心酔するアナキストだったという説もあるようです。革命に暴力はつきものです。支配階級は抹殺されます。一神教の宗教戦争は、邪教との戦いだけに、苛烈なものになる傾向があります。共産主義も、ある意味、宗教的です。共産主義革命は、内部抗争も含めて、苛烈を極めます。マスヒステリアと言ってもいいのでしょう。ましてや狂信的な若者が率いるパルチザンなど、カオスそのものです。とは言え、ソヴィエト、そしてロシアが、ニコラエフスク虐殺の責任を認めないどころか、日本軍に責任を押しつけ、トリャピーツィンを解放者と位置づけるという姿勢には、憤りを感じます。(写真出典:peremeny.ru)

2022年1月11日火曜日

まぜるな危険

自由軒名物カレー
洗剤のなかには、「まぜるな危険」と目立つように記載されているものがあります。塩素系と酸性の洗剤をまぜると、有毒な塩素ガスが発生するからです。職場で、一時期、この言葉が流行ったことがありました。同じ職場の先輩に、カレーライスを食べるとき、ルーとご飯をグジャグジャにまぜてから食べる人がいました。そんな人は、他にいなかったどころか、見たこともなかったので、目撃した時には、一同、唖然としました。その衝撃的な光景見たさに、ランチの際、その先輩を、たびたびカレー屋に誘いました。昼飯時になって、誰かが「まぜるな危険」とささやくと、皆でさりげなく先輩をカレー屋に誘導するわけです。

何故、そんな食べ方をするのですか、と聞く人はいませんでした。我々にとって、カレーをまぜて食べることは、常識はずれ、不快、下品に思え、あえて、先輩に、それを指摘することが憚られたからなのでしょう。もちろん、先輩がいない席では、大激論が交わされました。大阪人はまぜて食べるらしいという話もありましたが、先輩は大阪出身ではありません。西日本では一般的なのかも知れないという説もありましたが、他の西日本出身者はまぜていませんでした。昔の人の食べ方という説もでましたが、先輩と我々は、それほど歳の差はありません。結局、各家庭における習慣の違いなのだろうという安易な結論で落ち着きました。

Jタウンネット社の調査によれば、全国的に、まぜる派は3割弱存在し、岩手県と愛知県では、まぜる派が多数を占めるようです。その二県で、まぜる派が多い理由は不明とのこと。住んだ経験からすると、名古屋で”まぜるな危険”を見たことはありません。では大阪はどうなのかというと、72%がまぜない派でした。大阪の高齢者はまぜるという説もあります。恐らく”大阪はまぜる”説の根拠になっているのは、「自由軒」の存在なのだろうと思います。明治末期、大阪初の西洋料理店としてスタートした自由軒の名物カレーは、まぜた上に生卵をのせるという独特のスタイルを守っています。見た目は、ねっとりとしたドライカレーといった風情です。大阪の庶民の味を代表する店ゆえ、まぜるイメージが広がったのでしょう。

日本初の本格インド料理店といえば、東銀座のナイル・レストランですが、ランチの定番”ムルギー・ランチ”は、店の人から、よくかきまぜて食べて下さい、と必ず言われます。なぜ、と聞いたことがあります。答えは、その方が美味しいから、とのことでした。しかし、自由軒やムルギーのまぜるスタイルが美味しいのであれば、日本中のカレーは、あらかじめまぜてから提供されるはずだとも思います。結論的に言えば、まぜるか、まぜないか、というカレーの食べ方には、ルールも、マナーも、合理的根拠もありません。あるのは、習慣による違いだけなのだと思います。習慣の違いが、人に違和感や不快感を与えることはあり得ます。ただ、他人の習慣を、根拠なく否定するとすれば、差別が生まれることになります。多様性とは、まぜても危険ではないということだと思います。

カレーライスは、日本の国民食です。インドから英国、英国から日本へと持ち込まれた食文化ですが、ラーメン同様、短期間に独自の進化を遂げ、国民食となりました。ご飯との相性の良さと軍隊の食事の定番になったことが、普及した最大要因だと思います。ただ、なぜ日本人が、クミン・ターメリック・コリアンダーというスパイスの組み合わせを愛するようになったのかは、よく分かりません。ちなみに、カレーライスか、ライスカレーか、という議論もあります。これには、一応、定説があります。ご飯の上にルーを乗せて供するのがライスカレー、ご飯とは別に、ルーをソースポットで供するのがカレーライスなのだそうです。まぜる、まぜないと同様、カレーライスでも、ライスカレーでも、どっちでも、まったく問題ないと思います。(写真出典:hitosara.com)

2022年1月10日月曜日

「暗殺のオペラ」

監督: ベルナルド・ベルトルッチ  原題:Strategia del ragno  1970年イタリア

☆☆☆☆

ベルトルッチの出世作「暗殺の森」が公開された数日後に、イタリアのTVで公開された作品です。色彩の魔術師とも呼ばれるカメラマン、ヴィットリオ・ストラーロとベルトルッチとの名コンビが、最初に撮った作品でもあります。耽美的な映像、オペラ色の強い音楽、シュールな演出と、ベルトルッチらしさ満載の映画です。原作は、アルゼンチンの文豪ホルヘ・ルイス・ボルヘスの「裏切り者と英雄のテーマ」です。ロンバルディアの美しい田園を背景に、ファシズムとの戦いをテーマとするミステリー仕立てのドラマが展開します。アリダ・ヴァリはじめ名優たちの演技が作品の陰影を深く刻んでいます。

ベルトルッチは、「暗殺の森」で高く評価され、「ラスト・タンゴ・イン・パリ」で物議を醸し、「ラスト・エンペラー」でアカデミー作品賞と監督賞を受賞しました。その作風は、文学的と言っていいと思います。十代の頃は、詩人だった父親の影響から、詩や小説を書き、文学賞も獲得していたようです。ベルトルッチは、ローマ大学在学中に、ピエル・パオロ・パゾリーニと出会い、その処女作「アッカトーネ」の助監督を務めています。21歳という若さで、初監督作品を撮っています。2作目の「革命前夜」は、既にカンヌで新評論家賞を獲得しています。若くして文学的才能を開花させていたのでしょうが、ベルトルッチの映画が形を成したのは、やはりヴィットリオ・ストラーロとの出会ってからだと言えます。

文学的なベルトルッチに対して、ストラーロは絵画的と言えます。しっかりと計算された構図と色彩は、多くの映画カメラマンに影響を与えたと言われます。ベルトルッチの「ラスト・エンペラー」、フランシス・フォード・コッポラの「地獄の黙示録」、ウォーレン・ベイティの「レッズ」で、三度のアカデミー撮影賞を獲得しています。本作でも、美しい映像を見せていますが、特に、アリダ・ヴァリ演じるドライファの邸宅における緑と花と建築、そしてポール・デルヴォやキリコを思わせる町の映像は、ほとんど絵画と言っていいほどです。ロケが行われた町は、ロンバルディアのサッビオネータですが、その後、世界遺産にも、「イタリアの最も美しい村」にも選出されています。

また、映画のタイトル・バックには、数奇な運命をたどったナイーフ派のイタリア人画家アントニオ・リガブエの絵画が使われています。そのエキゾチックともいえる画風は、映画の冒頭から強烈な印象を与えます。ちなみに、リガブエの生涯は、2020年に映画化され、残念ながら見ることはできませんでしたが、昨年のイタリア映画祭でも上映されています。原作のホルヘ・ルイス・ボルヘスは、「伝奇集」等で知られますが、その幻想的な作風は、特に欧州で高く評価されています。また、独裁者ペロンの政権と戦ったことでも知られています。知名度も評価も高いにも関わらず、ノーベル文学賞を受賞しなかった作家の一人としても有名です。思えば、本作は、実に多くの才能が結集された作品だとも言えます。

イタリア人にとって、ムッソリーニ時代のファシズムは、ドイツ人にとってのナチズム同様、常に大きなテーマです。本作は、正面からファシズム批判を展開するのではなく、いわばボルヘスらしい奇譚のなかから、そして田舎町におけるファシズムの時代と現代を交差させることで、ファシズムの本質を伝えようとしています。50年前にTV用に制作された映画ですが、その品質の高さ、テーマの重要性は、今でも衰えることがないと思います。(写真出典:movies.yahoo.co.jp)

2022年1月9日日曜日

渡来人

伏見稲荷千本鳥居
日本列島が、大陸から分離したのが、2000万年前、一方、ホモ・サピエンスがアジアに到来したのが3万年前とされますから、日本人は、皆、渡来してきた人間だと言えます。歴史上の渡来人は、3~7世紀、大陸や半島から渡ってきた移民を指します。人類学上では、弥生時代以降に日本に来た人たちのことを言います。とすれば、縄文人が先住民族ということになります。1万6000年前から日本に定住していた縄文人は、アジアに到達したホモ・サピエンスの最も古いタイプのDNAを持っていたようです。弥生人の渡来とともに混血が進み、現在の日本人には、1~2割程度だけ、縄文人のDNAが残っているようです。

歴史上の渡来人で、最も有名なのが、秦氏だと思います。日本書紀によれば、283年に、弓月君が、120県(あがた)の人々を率いて、朝鮮半島から日本に帰化したとされます。人数は不明ですが、当時の百済の村落構成から推計すると1万人以上ではないかとされます。弓月君の移民は、一筋縄ではいきませんでした。弓月君は、来日して応神天皇へ帰化の希望を伝えますが、新羅の妨害にあって実現できませんでした。そこで応神天皇は、精鋭の兵を繰り出して、弓月君とその民を日本へ脱出させました。渡来人秦氏の由来に関する伝承ですが、実際には、5世紀頃、新羅から渡来した一族と見られています。

秦氏は秦の始皇帝の末裔であるという説もあります。これは、どうも秦氏が箔付けのために創作した話のようです。1~5世紀、朝鮮半島は、三韓と呼ばれる辰韓・馬韓・弁韓が支配していました。うち辰韓は、始皇帝による中国統一の過程で生まれた流民が建てた国とされます。秦の言葉を話すことから、中国の史書においては、秦韓という記載もあるようです。秦氏の始皇帝末裔説は、秦韓という国名に基づいているのでしょう。5世紀には、辰韓の一部であった斯蘆国が隆盛し、新羅を建国して辰韓を飲み込んでいます。日本書紀における弓月君に関する記述は、このあたりの事情を背景としているのでしょう。秦氏の出自に関しては、他にも迫害を逃れた景教徒(キリスト教ネストリウス派)説や羌族の後秦由来説もあります。

いずれにしても、帰化した秦氏は、山城国(現在の京都)の太秦を拠点に、機織、土木工事、製鉄、医術などを生業とし、その勢力を拡大していきます。公人としても活躍し、多くの宮廷人も輩出しています。また、八幡神社や伏見稲荷は、秦氏が創祀した神として知られています。さらに、現在では酒造りの神様として信仰される松尾神社、あるいは平安京以前に創建された京都最古の広隆寺も秦氏が開いています。平安京建設は、山城国の有力者であった秦氏の尽力によるところが大きかったようです。秦氏は、その勢力を近畿一円に広げていますが、東国の相模国にも進出しています。秦野市は有名ですが、当時の本拠地が久我山にあったこともあり、周辺には八幡山、幡ヶ谷といった地名も残ります。

ヤマト王権に仕えた渡来人の集団としては、秦氏の他に、製鉄・軍事に優れた東漢氏、あるいは文筆に優れた西文氏等も、よく知られています。他にも、西日本には、大集団でもなく、中央に進出することもなかった渡来人が多く存在したのだろうと思います。古代における東アジアの歴史の相関性や流動性の高さには、いつも驚かされます。その流動性が文化・文明を発展させたわけです。当然ながら、中央集権化が進み、国家の概念が成熟する前の方が、流動性が高くなります。逆に言えば、国家は、意識して諸国との交流を高いレベルに置かなければ、自国の発展や進歩を実現できないとも言えるのでしょう。(写真出典:icotto.jp)

2022年1月8日土曜日

キャピタル・ヒル

ワシントンD.C.の巨大なリンカーン記念堂から東を見れば、リフレクティング・プールの向こうにワシントン記念塔がそびえ、そのまた向こうに小さくアメリカ合衆国議会議事堂を見ることがきます。約3kmに及ぶナショナル・モールです。モールの両側には、スミソニアンズはじめ博物館や美術館が並び、最もワシントンD.C.らしい、あるいは最もアメリカ合衆国らしい光景だと思います。アメリカ合衆国議会議事堂も巨大な建造物ですが、キャピタル・ヒルと呼ばれるとおり、小高い丘の上に建っているため、一層大きく見えます。もちろん、そのように計算されているわけですが。

2021年1月6日、このキャピタル・ヒルが自国民によって襲撃されるという衝撃的な事件が起きました。キャピタル・ヒルが攻撃されたのは、1812年、米英戦争時、英軍によって一部が破壊されて以来のことでした。根拠なく選挙結果は不正と主張する現職大統領によって扇動された大衆が、民主主義の象徴たる議事堂を襲うという衝撃的な事件でした。米国の根幹、あるいは民主主義の土台を揺るがす大事件です。この日、議会では、大統領選挙の結果を確定する上下両院合同会議が開かれていました。ホワイトハウス横のエリプス広場に集まった数千人の支持者の前で、トランプ大統領が演説を始めます。選挙は盗まれた。強さを見せるんだ。死ぬ気で戦うぞ。議事堂へ行こう!

トランプは、副大統領にして上院議長でもあるマイク・ペンスに、議会でバイデン勝利確定を阻止するよう要請していました。当日の午前、ペンスは、憲法に基づけば、この要請に沿うことはできないとする声明を発表しています。これがトランプ暴走のトリガーになったとも言われます。憲法に従ったペンスの声明はえらいというよりも、あまりにも当たり前のことです。それにキレる大統領は、憲法も知らず、常識もない異常者としか言いようがありません。議事堂へ移動した支持者たちのうち、800人が乱入し、議会警察と衝突、一部は破壊行為に及びます。結果、双方に5人の犠牲が出ました。トランプに擁護された極右のプラウド・ボーイや一部ミリシア等は、数日前から、銃規制の厳しいワシントンD.C.への武器の持ち込み方を検討していたようです。

TV番組で人気者となったトランプにとって、視聴率は、富であり、正義です。強気のウケねらいが身上のトランプにとって、明確な敵の存在は、最も理想的な設定です。東部エスタブリッシュメントを敵に仕立てて戦った大統領選では、彼らに抑圧されてきたと信じる人々の支持を集める結果となりました。戦術的には大成功であり、大統領としても一定の支持を得てきました。人気取り一筋のTVタレントに、初めから政治信条などありません。一部マスコミは、議事堂襲撃を、トランプによるクーデター未遂と報道しています。事の性格としては、そのとおりですが、本人にクーデターという認識はなかったと思います。それどころかクーデターの何たるかも知らないのではないでしょうか。トランプや共和党支持者の多くは、この襲撃を、いまだに正統な抗議活動だったと認識しているといいます。ここが、ポピュリズムの最も恐ろしいところだと思います。

多様性こそアメリカ合衆国最大の特徴であり、強みでもあります。多様な人種、多様な宗教、多様な政治信条、それらを包括して、なおかつ国として成り立つことを目指して、試行錯誤のうえ、アメリカの民主主義は形成されてきました。そのプラットフォームとも言える選挙制度と議会を攻撃することは、アメリカそのものを否定することと変わりません。共和党議員は、トランプ人気にあやかるのではなく、支持者たちに、民主主義の何たるかを知らしめる義務があると思います。(写真出典:tavitt.jp)

川上