2021年10月14日木曜日

さよならだけが人生だ

川島雄三
「さよならだけが人生だ」という言葉は、実によく知られています。唐代の詩人であった于武陵の五言絶句「勧酒」が原典ですが、井伏鱒二の訳詩集「厄除け詩集」の名訳で有名になりました。原典は「勧君金屈巵 満酌不須辞 花発多風雨 人生足別離」となっています。後半2行を直訳すれば、花開けば雨風多く、人生には別れ多し、ということになります。それを井伏鱒二は「ハナニアラシノタトヘモアルゾ 『サヨナラ』ダケガ人生ダ」と訳します。お見事の一言につきる名訳です。この言葉を愛した著名人は数多くいますが、日本を代表する映画監督の川島雄三も、その一人です。川島の弟子であった藤本義一や今村昌平が、夭折した師匠を追悼した本のタイトルにも使われています。

川島雄三は、1918年、青森県下北半島のむつ市に、老舗酒店の息子として生まれます。明治大学卒業後、松竹に入社しますが、当時、既に難病の筋萎縮性側索硬化症を患っていました。小津安二郎や吉村公三郎の助監督を務め、1944年、26歳にして、織田作之助原作の「還って来た男」で監督デビューしています。オダサクとは、生涯の親友になっています。戦後は、会社指示に基づくコメディ映画を量産します。その当時の作品にも、川島の天才ぶりは見て取れますが、川島にとって、この時期は自らの映画文法を磨くいい機会だったのでしょう。1954年には日活へ移籍します。言ってみれば、噺が上手いと評判の二つ目が、いよいよ真打ちに昇進したようなものです。以降、川島雄三の名を映画史に残す傑作を生み出していきます。

川島雄三のベストは何か、という話は、映画好きが喜ぶテーマの一つです。ただ、日本映画を代表する傑作「幕末太陽伝」(1957年)だけは、いつも別格扱いです。太陽伝は、オールタイム・ベスト企画でも、常に上位にランクされています。落語の「居残り佐平治」を主に、他の噺や幕末の世相も重ねた、川島オリジナル脚本のコメディです。テンポの良さ、スムーズな演出、しっかり組み立てられた映像など、日本映画とは思えないほど洗練されています。また、フランキー堺の名演なしには成立しなかった作品でもあります。フランキー堺演じる佐平治の世渡りのうまさには、労咳病みという影があり、厚みのある喜劇になっています。精力的に多くの映画を撮り、夜ごと、大酒をくらって生きた川島ですが、常に難病という死の影と共にあった自分自身が投影されているのでしょう。「さよならだけが人生だ」は、川島の覚悟のあり様とも言えます。

太陽伝には、数々のエピソードがありますが、最も有名なのは幻のラスト・シーンという話です。太陽伝は、撮影当時の品川の赤線地区の映像から始まります。同様に、川島が構想したラストは、佐平治がスタジオから現代の街へと駆けだしていく映像だったようです。フランキー堺はじめ周囲の猛反対でボツになっていますが、フランキー堺は、生涯、反対したことを悔やんだと言います。佐平治は、時代の環境に左右されながらも、たくましく生きる江戸庶民の姿であり、それは戦後の混乱期の大衆にも受け継がれます。好きなセリフがあります。佐平治が、石原裕次郎演じる高杉晋作に「だんなはお侍には惜しいねェ」と言うと、高杉晋作は「世辞を申すな」と返します。これこそ、川島雄三流の民主主義なのでしょう。

太陽伝の幻のラスト・シーンは、多くの映画人に影響を与えていると言われます。川島の弟子の今村昌平は「人間蒸発」で、川島と同郷の寺山修司は「田園に死す」で、実現させています。また、最近では、「シン・エヴァンゲリオン劇場版」のラストで、あれっ、と思わされました。どうやら、庵野秀明は、昔から、太陽伝がやりたい、と言っていたようです。映画人たちが抱くテーマは、煎じ詰めていけば、普遍性を持つに至ります。ストーリーが持たざるを得ない時空の制約を超えて、それを直接的に映像化したいと思うのは、映画人に共通する想いなのでしょう。(写真出典:cinra.net)

2021年10月13日水曜日

梁盤秘抄#18 Chronicle

アルバム名:Chronicle, Vol. 1 (1976)                                             アーティスト名:Creedence Clearwater Revival

今風の音楽が流れる若者の車に乗ったクリント・イーストウッドが「本物の音楽をかけろ」と言います。若者は「本物の音楽って?」と聞きます。イーストウッドは、やや間をおいてから「CCR」と答えます。思わず吹き出してしまいました。実は、何の映画だったか思い出せないのですが、やたら印象に残っています。CCR、クリーデンス・クリアウォーター・リバイバルは、1968~1972年という短い活動期間に、数々のヒット曲を生み出した伝説のバンドです。サンフランシスコ出身ながら、南部の匂いが濃い、いわゆるスワンプ・ロックの代名詞的バンドです。クリント・イーストウッドは、アメリカの大衆、特に田舎者を喜ばせることに関しては天才です。”CCR”の一言で、映画館は、”イェー”の掛け声とともに、拍手喝采の大騒ぎになったはずです。アメリカの地方にあって、CCRは、いまだ絶大な人気を誇ります。

”Chronicle”は、解散しても一向に人気が衰えなかった1976年に発売されたベスト・アルバムです。CCRのアルバムとしては、アメリカだけでも600万を超すという最大のセールスを記録しています。CCRは、1959年、ジョン・フォガティと2人の同級生によって結成されたバンドから始まります。そこにジョン・フォガティの兄が加わり、1968年、デイル・ホーキンスの「スージーQ」のカバーでデビューしています。ジョン・フォガティの一度聞いたら忘れないほど力強いヴォーカル、耳に馴染みやすいメロディ、単純なリズム、キレの良いギター等が、大ヒットにつながりました。続いてリリースされたスクリーミン・ジェイ・ホーキンスのカバー「アイ・プット・ア・スペル・オン・ユー」もヒットします。R&B色が強いスタートでしたが、それ以降は、カントリー色の強いジョン・フォガティのオリジナル曲が立て続けにヒットしていくことになります。

リリースしたシングルの約半数が、ビルボードのトップ10以内という驚異的なセールスにも関わらず、CCRは、一度たりともビルボード1位を獲得していません。誰もが知っているCCRの大ヒット曲でも2位どまりであり、それが5曲もあります。その都度、強力なライバル曲が存在し、かつ人種構成も影響していたのかも知れません。また、CCRの曲は、瞬間爆発型ではなく、じっくり順位をあげるタイプだったとも言えます。絶大な人気を誇ったヒット・メーカーが、なぜ4年で解散したのかは疑問です。。ヴォーカル、リード・ギター、作詞・作曲を担当するジョン・フォガティばかりが目立ったことで、バンド内に不協和音が生まれ、修復出来なかったと言われています。解散後、ジョン・フォガティは、ソロ活動を始めますが、なかなか思い通りにはいきませんでした。ただ、85年には、アルバムがビルボード1位となり、97年にはグラミー賞も獲得しています。

90年頃。中西部で、地元のアメリカ人と昼飯を食べているとき、店内に「プラウド・メアリー」が流れてきました。CCRは、一番アメリカ的なバンドだよね、と言うと、彼は「皆、この曲でカウボーイ・ダンスを踊るんだ。南部じゃ、アメリカ国家よりもポピュラーだよ」と言っていました。ただの誇張とも思えませんでした。また、私が一番好きなCCRの曲は「雨を見たかい」ですが、人生のなかで、たまに出くわす厳しい現実と天気雨をかけた歌です。ただ、当時、雨とは、ヴェトナム戦争で米軍が多用したナパーム弾の比喩であり、この曲はヴェトナム反戦歌だと受け取られていました。本人達は、これを否定しています。どちらの話もCCR的であり、やはり最もアメリカらしいバンドだったように思います。(写真出典:amazon.co.jp)

2021年10月12日火曜日

「コレクティブ」

監督:アレクサンダー・ナナウ    2019年ルーマニア・ルクセンブルグ・ドイツ

☆☆☆+

ルーマニアの腐敗の深刻さに、ただただ驚くばかりです。政治が国民を、医療が患者を犠牲にしてまで、蓄財に走る様には、身の毛がよだちます。本作のジャーナリスティックな存在感は、映画の域を超えているとも言えそうです。2015年、ブカレストのライブハウス「コレクティブ」で火災が発生。出入口が一つしかなかったことで、27人が焼死します。さらに、救助された180人のうち37人が入院先の病院で死にます。出入口が一つという店の営業を許可していた行政の問題もありますが、軽度の火傷だった患者も含めて、なぜ多くの人が病院で死亡したのかという疑問が浮かびます。

そんななか、死亡した人々は、火傷で死んだのではなく、皆、感染症で死んでいる、という内部告発が、スポーツ新聞に寄せられます。記者達が調べると、病院で使われている消毒薬が粗悪で、かつ病院はそれを10倍に薄めて使っていたことが判明します。火傷の最大の敵とされる感染症が、院内感染で広がっていたのです。消毒薬を製造していた製薬会社は、キプロスに設立したダミー会社に原材料を仕入れさせ、それを7倍の価格で調達していました。そうして生み出した不正利益を、政府、病院への賄賂の財源にしていたという疑惑が生じます。製薬会社社長は、取り調べを受けた直後、謎の事故死を遂げます。欧州水準の医療が公平に施されている、と言い続けていた社会民主党政権は退陣を余儀なくされます。

暫定政権下で、新たに任命された保健相は、密着取材を許可します。そのこと自体、極めて異例ですが、保健相は、透明性確保という観点もさることながら、腐敗した政治家や病院経営者たちとの戦いに保険をかけたのではないかと考えます。事は、それほど深刻だったわけです。新たな内部告発者たちも現れ、病院経営者たちによる患者を無視した蓄財が明らかになっていきます。巻き返しを図る社会民主党は、肺の移植手術の認可に関する根拠のない批判をもって、保健相を非難し、おりから行われた総選挙で大躍進、政権を奪還します。社会民主党は、独裁者チャウシェスクの取り巻きだった政治家の集団です。腐敗の温床どころか、腐敗の量産工場とも言える政党です。

とは言え、社会民主党は、国民から絶大な支持を得ています。2019年、司法の権限を弱めようとした社会民主党の大統領が、汚職の実刑判決を受け退陣しています。ところが、翌年行われた選挙で、社会民主党は勝利し、再び政権の座に返り咲いています。信じがたい話です。選挙での強さは、分かりやすいバラ撒き政策を公約に掲げていることによるものなのでしょう。そして、それ以上に、社会の底辺にまで根を広げた腐敗構造により、社会民主党と利権を共有し、かつ一定の社会的影響力を有する者が多数存在するからなのではないかと推察します。どうしようもない状況に陥っているとしか言いようがありません。しかも、それはルーマニアに限らず、旧東欧諸国にありがちな構造でもあります。

永らく共産党独裁政権が続き、そこで育った政治家や官僚には、腐敗という習い性が、拭いきれないほど染みついているのかも知れません。別な言い方をすれば、いまだ民主主義が定着どころか、理解すらされていないとも言えます。旧東欧諸国の腐敗した政権は、得てしてロシアの支持や支援を受けています。民主主義、自由主義が完璧だとまでは言いません。そこにも腐敗は存在します。ただ、それを是正する仕組みを持っています。しかし、独裁政権は、構造的に腐敗を生み出し続ける体制だとしか思えません。”絶対的権力は絶対的に腐敗する”というアクトン卿の言葉は、いまでも絶対的に正しいと思うわけです。(写真出典:eiga.com)

2021年10月11日月曜日

新版画

川瀬巴水「芝増上寺」
川瀬巴水と言えば、代表作「東京二十景」の「芝増上寺」や「馬込の月」が、世界的にもよく知られています。巴水は、吉田博とともに、浮世絵の伝統を、”新版画”として、明治・大正の世に受け継ぎ、かつその魅力を世界に発信しました。浮世絵は、 制作サイドの絵師・彫師・ 摺師と、プロデューサーとしての版元が協同して作品を作りあげます。作家が、全ての工程をこなす西洋的な”創作版画”に対して、工房制の新版画は、商業主義的、画一的との批判がされます。これはおかしな議論だと思っています。例えば、舞台芸術等も、すべて否定されることになりかねません。作品は、あくまでも作品であり、単に制作過程の違いがあるに過ぎないと思います。

西新宿のSONPO美術館で、川瀬巴水回顧展を見てきました。初期の作品から網羅的に展示されていて、見応えがありました。数年前に久留米の旧石橋美術館で吉田博の回顧展を見ましたが、それに匹敵するような充実ぶりだと思います。川瀬巴水は、1883年、芝の糸屋に生まれ、家業を継ぎながら、画家を目指します。一度は断念したものの、想いは強く、鏑木清方に弟子入りします。巴水が日本画から始めたことは、吉田博の洋画スタートと好対照だと思います。もっとも、巴水は、一時期、岡田三郎助に師事したようですが、洋画に馴染めず、日本画に戻ったようです。アプローチは異なっても、二人は風景画で名を成していきます。二人が新版画の世界に入ったきっかけは、ともに版元の渡辺庄三郎との出会いでした。

この渡辺庄三郎こそ、新版画という分野を切り開き、一時代を築いた大立役者でした。大正の蔦屋重三郎とでも呼びたくなるような人です。12歳で質屋の小僧となった庄三郎は、貿易商を目指し、英語の勉強をしていたようです。それも幸いしたか、横浜の外国人相手の美術商に勤めることになり、浮世絵の世界に入っていきます。後に独立して「渡辺版画店」を開くことになりますが、欧米におけるジャポニズム・ブームに乗って、商売は繁盛したようです。庄三郎は、浮世絵を扱うばかりでなく、合いそうな絵を錦絵のシステムを使い、版画化していきます。これに興味をもった伊東深水が参加したことで、新版画が確立されていきました。つまり、新版画は、その誕生経緯からして、当初から海外に目が向いていたとも言えるわけです。

風景画が確立されたのは、17世紀オランダでのことだっただと言われます。風景画では、木々の緑もさることながら、空と雲が重要なモチーフとなります。そこでは、光をどう捉えるかが絵の出来を左右します。もっと言えば、私は、空気感こそ風景画の命ではないか、と思っています。油絵でも、水彩でも、空気感が絵を超えて広がっている作品こそ良い風景画だと思います。新版画は、空気感の表現に、実によく適しているように思います。例えば、吉田博の「フワテプールシクリ」は大好きな版画ですが、空気そのものが画題なのではないか、とさえ思います。巴水の代表作には、夜の静寂、雪や雨の風情が描かれているものが多いと思います。建造物もさることながら、やはり空気感を描きたかったのではないか、とさえ思えます。

1984年に発売されたアップルのマッキントッシュ初号機が、プレゼンに際し、最初に映し出したのは、橋口五葉の新版画「髪梳ける女」でした。これは、スティーブ・ジョブスにまつわる様々な伝説の一つとなっています。ただ、ジョブスが川瀬巴水のコレクターであったことは、今回の回顧展で初めて知りました。ダイアナ妃が、吉田博の版画を愛好していたことを思い出しました。エキゾチシズムもあるのでしょうが、新版画が海外で愛される本当の理由は、西洋絵画にはない、その空気感の表現にこそあるのではないかと思います。(写真出典:asahi.com)

2021年10月10日日曜日

コロニア

逮捕後のシェーファー
コロニア・ディグニダ(尊厳の共同体)は、チリ南部の内陸に存在したドイツ人によるカルト教団です。元ナチス党員の衛生兵だったパウル・シェーファーが、第二次大戦後、バプテスト教会と孤児院を設立したことから始まっています。シェーファーは、小児性愛者でした。少年たちに対する性的虐待で有罪となったシェーファーは、1961年、信者とともにチリに渡り、コロニーを建設します。山手線の内側とほぼ同じという広大な土地を開墾し、禁欲的な自給自足生活をおくります。コロニーは、閉鎖的な独立国家のような存在になっていきます。しかし、実体的には、シェーファーによる暴力的支配のもと、重労働が強制されていました。また、シェーファーは、自分への依存を高めるために、家庭を壊し、男女、大人子供を別々に共同生活させました。その間、シェーファーによる少年達への性的虐待が続けられます。

とは言え、コロニア・ディグニダは、原始的な生活を送っていたのではなく、近代設備や機械を欧州から導入し、工場、鉱山、病院、空港まで保有していました。1973年のチリ・クーデター後は、ピノチェト政権と親密な関係を築き、武器の製造や不法取引の仲介まで行います。また、軍や秘密警察から300人を超すと言われる左翼活動家の拷問・処刑を請け負ってもいました。また、ナチス残党の一大拠点でもあったアルゼンチンとは地理的にも近く、南米におけるナチス・ネットワークの拠点の一つだったという疑惑もあります。実際に、アウシュビッツで人体実験を繰り返していたヨーゼフ・メンゲレを匿っていたという事実も確認されています。また、本国ドイツで、コロニア・ディグニダを支援する組織を立ち上げたのは、ナチスの残党として知られる武器商人のゲルハルト・メルティンズでした。

シェーファーは、何度か告発を受けますが、チリやドイツの政財界、法曹界に張り巡らしたネットワークによって守られます。チリのドイツ大使館がシェーファーに便宜を図っていたことも明らかになっています。しかし、ピノチェトが退陣し、影響力を失っていた1997年、少年達に対する性的虐待で告発されたシェーファーは、アルゼンチンに逃亡。2005年には逮捕され、2010年、獄中死しています。シェーファーの死後、コロニア・ディグニダは名前を変え、オープンな教団として運営され、宿泊施設やレストランも備えたレクリエーション施設も営業しています。ただ、チリ政府は、シェーファーの性的虐待は裁いたものの、他の犯罪に関しては沈黙を守っています。被害者の家族達が、実態解明を要求していますが、いまだ明らかになっていないことも多くあります。

2016年には、エマ・ワトソン主演、フローリアン・ガレンベルガー監督の「コロニア」がリリースされています。コロニア・ディグニダのカルト教団としての恐怖を背景としたフィクションでした。また、最近、元信者たちの証言に基づくNetflixのオリジナル・ドキュメンタリーもリリースされました。こちらは、主に少年達への虐待がテーマとなっていました。不思議なことに、いずれの作品も、ナチスとの関係について、ほとんど触れられていません。そこを深掘りしようとすれば、チリやドイツの政財界とシェーファーとの関係に踏み込まざるを得ません。ただ、両国政府が明らかにしていないことも多い現状では、エビデンス不足ゆえに有力者から名誉毀損で訴えられる可能性が高く、描き切れなかったのだと思います。

私が、どうにも理解できないのは、その豊富な資金の出所です。後に武器の不正取引や産業面で得た収入は理解できるとしても、設立当初から欧州風の建築や近代的な設備の導入を可能にした潤沢な資金は、どこから出たのか疑問と言わざるを得ません。チリ政府の支援もあったのでしょうが、やはりナチス・ネットワークとの関係なしには理解できない面があります。犠牲になった人々の無念を晴らすためにも、我々が歴史から教訓を得るためにも、戦後のナチス・ネットワークに関する疑惑解明は徹底されるべきだと思います。(写真出典:nbcnews.com)

2021年10月9日土曜日

交渉術

Church's
近年でこそ、ビジネス上の交渉術に関する本は増えましたが、かつては、あまり見かけませんでした。恐らく、企業同士の交渉は、個人の裁量が少なく、組織的に行われることが多かったからではないかと思います。つまり、トップ同士の交渉でもない限り、交渉の場のやりとりで、物事が決することが少なかったからなのでしょう。交渉、折衝に関する心得としては、テクニックよりも、誠実であれ、といった精神的な面が強調される傾向もありました。1980年代、アメリカで仕事を始めると、交渉術の大事さを痛感することになります。というのは、企業の従業員でも個人の権限・裁量が大きい米国人と交渉する際、こちら側も一定以上の権限を持って交渉に臨む必要があったからです。 

ビジネス上、交渉が大きなウェイトを占めるアメリカ社会では、学んだか否かは別として、多くの人が、交渉術に長け、独自のテクニックも持っていました。NYのビジネス社会において、交渉は、話し合いの前に始まっています。例えば、服装です。パリッとしたスーツは当然としても、意外と大事なのが靴でした。いかにも高そうな靴で、自分は有能な高給取りであることを示し、相手を飲み込もうというわけです。かつて「ローズ家の戦争」(1989)という映画で、ダニー・デヴィートが「男の価値は、妻、家、車、靴を見れば分かる」と言っていました。女性幹部たちの靴も同様です。ちなみに、いわゆるキャリア・ウーマンたちは、重要なミーティングに臨む際、ブランド物の真っ赤なスーツ等といった勝負服をよく着用していました。

当時の日本では、仕事のできる奴は、服装にこだわらないといった風潮すらありました。何も、アメリカ東部の文化に合わせる必要など無いのですが、交渉を有利に進めるため、私も服装に気を使うようになりました。また、具体的な交渉に入る前の会話でも、スノッブぶりは炸裂します。例えば、天気の話から、さりげなくヨットでのクルージング、会員限定コースでのゴルフの話などが展開されます。また、著名な財界人のハウス・パーティに参加した話などで、自分がいかに重要人物であるかを示そうとしたりします。いずれにしても、俺は、お前より上の人間だと言いたいわけです。いかにも東部エスタブリッシュメントらしい、階級社会的でスノッブな文化です。仕事には、まったく関係ありませんが、彼らにとっては意味のあることなわけです。

具体的な折衝に入ると、ダブル・バインド、ミラーリング等々、よくあるテクニックが繰り出されます。彼らが、日本人向けに有効だと思っていたのは、バンド・ワゴンだったと思います。要するに、80%の企業がこれを選んでいますよ、ライバル会社もこれを使っていますよ、といったセールス・トークに多いパターンです。確かに有効だったと思います。東京本社を説得する際、これは実に効き目があったからです。いずれにしても、テクニックを駆使して交渉を勝ち抜く、という姿勢を全否定するつもりはありませんが、それは決して本質的なものではありません。基本的に、交渉は、互いの妥協点を探るために存在すると言えます。妥協は不満しか生み出しません。よって、交渉は、互いの不満の最小化や緩和をねらうものだと言えます。

交渉の大原則は、選択肢をより多く持っている側が有利だということです。ですから、交渉に際しては、靴も磨いた方がいいとは思いますが、当方および先方の目指すところを本質的なレベルで把握し、先方の出方も様々予測したうえで、複数の選択肢を持って臨むことが最も重要だと言えます。準備すべき選択肢のポイントは、双方に、何らかの形で将来的なメリットが生まれる可能性を持たせることだと思います。分かりやすい例としては、短期的には不利な条件でも、中長期的には収支への貢献が見込める、といったものです。別な言い方をすれば、妥協は妥協ながら、上司や関係者を説得できるストーリーがある妥協策ということです。そのような理解に勝る交渉術はないのではないかと思います。(写真出典:item.rakuten.co.jp)

2021年10月8日金曜日

渋滞

Jakarta Traffic Jam
グリッドロック という言葉を初めて聞いたのは、10年ほど前のジャカルタでした。通常、グリッドロックとは、交差点に進入した車が、渋滞のために交差点内で停止することによって、交差するいずれの道でも車の流れが止まる現象を言うようです。交差点付近が混雑している場合、先行車が交差点を出て、かつスペースが生まれない限り、交差点に進入してはいけないというのが交通ルールです。ルールが守られている限り、グリッドロックは発生しません。ジャカルタで聞いたグリッドロックは、多少異なりました。ジャカルタでは、街中の自動車を縦に並べた長さが、道路の総延長距離と等しくなっているというのです。それをグリッドロックと呼んでいました。むしろデッドロックじゃないか、とも思いました。

ジャカルタの渋滞は、バンコック、メキシコ・シティと並んで、世界三大渋滞とも言われるようです。確かに異常なレベルでした。一人あたりのGDP(国内総生産)が3,000ドルを超えると、モータリゼーションが起こると言われます。インドネシアも同様でした。要は、急速なモータリゼーションに、ジャカルタのインフラがついていけなかったわけです。先進国は、皆、経験してきたことです。かつて東京も同じでした。東京は、1964年の東京オリンピックを機に、首都高速道路を中心とした交通インフラの整備を、一気に進めました。ジャカルタも、オリンピック等、国際的大イベントを誘致したらどうですか、と現地の人たちに言ってみました。そこまでの資金はない、というのが皆さんの回答でした。しかし、東京も潤沢な資金があったわけではなく、国際借款でオリンピック準備を行っています。

高速道路で渋滞に巻き込まれると、いつも思うのが、渋滞の先頭はどうなっているのか、ということです。工事や事故による渋滞は別として、自然渋滞が発生する主な要因は、高速道路では坂道、一般道では信号だと言われます。坂道では、ドライバーが意識せずともスピードが落ち、それが連鎖して、結果渋滞が発生するというメカニズムです。また、高速道路の渋滞が、追越車線から始まるという傾向も、よく知られています。これは、交通量が多い時、頻繁に車線変更する車が現れると、後続車がブレーキを踏むことが多くなり、結果、渋滞を引き起こすのだそうです。確かに、私も、混雑時、急いでるわけでもないのに、ついつい車線変更を繰り返すことがあります。

かつて、ひどい渋滞の時には、どうせチョボチョボとしか進まないのだから、アクセルとブレーキ、そしてハンドルから解放されたいと思いました。昨今、自動運転が、限定的ながら導入され、それが実現しつつあります。そもそも自動運転が進むと、渋滞も無くなるのではないかと思っています。とりあえず高速道路に限っての話ですが、車の自動運転システムと、高速道路全体を管理するシステムがリンクすれば、渋滞も事故も発生しないものと思われます。ゆくゆくは、全ての道路を、そのシステムがカバーすることもあり得ます。ただ、そうなると、車を運転する楽しみはなくなり、実につまらないものになります。列車に車を積んで輸送しているのと大差ありません。それは、もう自動車ですらなく、自動車の時代は終わりを告げるということなのでしょう。

15年ほど前に、デンソーのショー・ルームを案内してもらったことがあります。その高い技術力に驚かされました。中でも印象に残ったのは、交差点で、建物の影になって見えていない歩行者や車を可視化する技術でした。ここまで技術が進めば、もう空飛ぶ車を開発した方が早いんじゃないですか、と冗談のつもりで話したら、デンソーの方は、笑うこともなく、何の返しもありませんでした。車に関する技術的進化が、自動車産業の首を絞めることになるというアイロニーを分かっているんだろうな、と思いました。(写真出典:jakartaexpart.id)

川上