2025年7月30日水曜日

アイアンロード

スキタイ装飾品
アイアンロードとは、ヒッタイトに始まり、スキタイ、アルタイ、モンゴル、中国、そして日本へと続く製鉄技術の伝播ルートを指します。シルクロードより古く、かつ遙かに北側を通ります。製鉄のプロセスでは、高温を得るために大量の木材が必要だったため、アイアンロードは北の森林地帯の縁を通ったものと考えられています。また、アイアンロードは、鉄製のハミ(馬具)の伝播によって、高度な騎馬技術が伝播していく道でもありました。近年、人口衛星による探査でスキタイやアルタイの遺跡が多く見つかっています。アイアンロードは、そこで浮かび上がってきた新たな仮説です。とは言え、まだまだ調査は始まったばかりであり、今後の成果が期待されるところです。

もともと地球上に存在する鉄は、隕石に含まれる隕鉄だけでした。初めて人工的に鉄を作ったのは、アナトリアのヒッタイトだとされます。ヒッタイトは製鉄技術を独占して栄えます。兵数で遙かに上回るエジプトとも互角に戦い、世界初とされる平和条約を締結しています。ところが紀元前13世紀末、ヒッタイトは忽然と姿を消します。エジプトの文献によれば、当時、地中海の東側一帯を席巻した海の民に滅ぼされたようです。ヒッタイトの滅亡にともない、国家機密だった製鉄技術は、オリエント、ヨーロッパ、アフリカへと拡散していきます。製鉄技術は、黒海の北に展開していたイラン系騎馬民族スキタイにも伝わります。スキタイは、鉄製工具を用いた高度な金属加工技術を獲得し、大いに隆盛していくことになります。

鉄製のハミで自在に馬を操り、手には鉄製の武器を持ったスキタイは東へと勢力を拡大していきます。スキタイが、南ではなく東へ向かったのは、森林を求めたからだったと想像できます。製鉄のために森林を伐採し尽くすと、次の森へと移動することを繰り返したのではないかと思います。スキタイは、アジアの中央にあるアルタイに至ります。そこから製鉄技術の伝播ルートは、東の匈奴、南東の中国へと分岐します。モンゴル高原に興った騎馬遊牧民であり、鉄製武器を使って勢力を拡大した匈奴は、紀元前3世紀頃、強大な帝国を築きます。いまだ青銅器の武器しかなかった中国へも攻め込み、秦の始皇帝は、対策として万里の長城を築くことになります。しかし、紀元前1世紀頃には、漢の圧迫を受けて分裂し、滅んでいきます。

中国における製鉄は、春秋・戦国時代に始まったとされますが、その加工に関しては鍛造ではなく、鋳造だったようです。中国には、既に高い青銅器鋳造技術があり、鉄器にもそれを活かしたのでしょう。鋳造には高温が必須だったので、鞴(ふいご)も発明されます。しかし、鋳造では強度に問題があり、もっぱら農具として活用されたようです。鉄製武器の製造は鍛造技術の発達を持たなければならず、北方の遊牧民よりも鉄製武器の普及が遅れたことが、万里の長城構築につながったとも言えます。いずれにしても、中国の製鉄技術は、楽浪郡から朝鮮半島を経て日本に伝わることになります。そして”たたら”という鋼を作る製法が生まれていきます。たたらとは鞴をさしますが、タタールが語源とする説もあります。時代が一致せず、眉唾だと思います。

記紀に言う神武東征は、アイアンロードの最終章なのではないかと思っています。天孫家が日向から大和を目指した理由は、スキタイと同様、製鉄のために必要な森林を求める旅だったのではないでしょうか。ならば、何故、大和に留まることになったのかという疑問も沸きます。天孫家は、倭国大乱を収めた頃には大和に到着しており、部族連合の頂点に君臨したことで、もはや自ら製鉄を行う必要がなくなったのではないでしょうか。とりわけ出雲でたたら製鉄を押さえ、砂鉄の採れる吉備あたりに製鉄設備を多く設置したことが大きかったのだと思います。大和到着以降の天孫家は、森林を求める旅を止め、東海、関東へ支配を広げるためには軍を派遣すれば事足りるようになったのだと思います。(写真出典:natgeo.nikkeibp.co.jp)

2025年7月28日月曜日

冷やしおろし納豆うどん

若い人たちは、ざる蕎麦ともり蕎麦の区別がつかないと聞きました。もり蕎麦に刻み海苔を乗せればざる蕎麦です。ご飯とおかゆの違いくらい、誰でも知っていることだと思っていました。やはり、蕎麦の消費量が減っているということなのでしょう。ただ、調べてみると、蕎麦・うどん類の消費量は堅調に推移しており、家で食事する機会が増えたコロナ禍にあっては、むしろ増加していました。年間の消費量を見ると、年越し蕎麦は別として、夏場の消費が最も多くなるようです。麺類は、冷やして食べる文化がなければ、ここまで消費を維持できなかったとも言えそうです。暑い夏が続く昨今、消費量は増加していくのかもしれません。

私は、年間を通じて、昼食に麺類を食べていますが、暑い盛りに家で食べる2大定番は、越前おろし蕎麦と冷やしおろし納豆うどんです。もちろん、他のメニューも食べますが、圧倒的に多いのがこの二つです。いずれも大根を使うわけですが、根本の方は越前おろし蕎麦に、首の方は冷やしおろし納豆うどんに使い、誠に効率が良いと思っています。正しい越前おろし蕎麦には辛味大根を使いますが、青首大根の根本でも十分に辛くて楽しめます。一方、冷やしおろし納豆うどんの私流の作り方は、大根おろし、ネギ、卵の黄身にめんつゆを注ぎ、よくかき混ぜた納豆を加えて、しっかりとかき混ぜます。そこへ冷やしたうどんを入れて、さらに白く泡立つまでかき混ぜます。あれば、ミョウガ、青シソ、オクラなどを入れても美味しく食べられます。

蕎麦や素麺、あるいは稲庭うどんなどの細いうどんでも同じことだと思うのですが、どうも太目のうどんが合っているように思います。私が、冷やしおろし納豆うどんを知ったのは30年ほど前のことです。蕎麦屋の女将さんから、飲んだ後には、冷やしおろし納豆うどんが一番いいと教わりました。確かに、納豆の風味もさることながら、ツルツルとした食感と冷たさが心地良く、すっかりハマりました。極めてシンプルであるにも関わらず、とても美味くいただけます。誰が発明したのかと思い、調べて見ましたが、よく分かりませんでした。身近な食材の組み合わせなので、自然発生的だったのかもしれません。うどんを冷やして食べる文化は室町期から存在しており、納豆を調理用の食材として使い始めたのは江戸期だったと言いますから、江戸期に生まれたのでしょう。

山形県中央部の村山地方の郷土料理に「ひっぱりうどん」があります。乾麺を鍋で茹で、鍋から直接すくって(ひっぱって)食べる田舎料理です。そのつけ汁としては、めんつゆに納豆とネギを入れるのが基本です。そして、特徴的なのは、さらにサバ缶も入れることです。もともとは山に籠もる炭焼き職人たちの簡易な食事だったようですが、家庭にも広がっていきます。その冷たいぶっかけバージョンが冷やしおろし納豆うどんに進化したという説があります。納豆好きで知られる山形県ですが、納豆汁や雪割納豆など納豆料理のヴァリエーションの広さでも有名です。それだけに説得力のある説です。加えて、夏が暑い山形県は冷たい麺類を好むことでも知られていますので、ほぼ間違いなく冷やしおろし納豆うどん発祥の地なのだと思います。

納豆を食べる際には、最低でも50回、理想的には300回混ぜろ、と言われます。納豆の美味しさも栄養分もネバネバのなかにあるので、白くなるまでかき混ぜるのが良いとされるわけです。それは、北大路魯山人が発見したことだとも聞きます。一方、大根おろしは、納豆のネバネバを消すと言われます。納豆と大根おろしは、栄養的には良い組合せとされますが、ネバネバが消えてしまうのでは、如何なものかと思います。ところが、冷やしおろし納豆うどんは、かき混ぜると白くフワフワになっていきます。なぜなのかは、よく分かりません。ひょっとすると卵の黄身がいい仕事をしているのかもしれません。(写真出典:tablemark.co.jp)

2025年7月26日土曜日

カーボン・ファイバー

EUで、自動車部品等に使われるカーボン・ファイバー(炭素繊維)を規制する動きがありました。リサイクルが難しいので、利用を規制しようということだったようです。結果的に、法制化は見送りになりました。規制が議論されるほど、カーボン・ファイバーの利用が拡大しているということでもあるのでしょう。カーボン・ファイバーは、鉄と比較して、比重は1/4、重量比強度は10倍、比弾性率は7倍、しかも安価という優れものです。航空機、ロケット、自動車はじめ、ゴルフ・クラブ、テニス・ラケット、釣り竿といった様々な製品で活用されてきました。近年では、カーボン・モノコック車が増加するなど、利用範囲の広さと深さは一段と拡大しています。

カーボン・ファイバーは、アクリル繊維などを高温で炭化させて作ります。0.005~0.1ミリメートルという極細の繊維を作り、これを束ねて使います。三菱レーヨン(現:三菱ケミカル)のカーボン・ファイバー製造工場を見学したことがあります。とてつもなく長い生産設備は圧巻でした。工場の一角ではゴルフ・クラブのシャフトも製されており、オーダー・メイド用のフィッティング・ルームも併設されていました。いくつかのセンサーを体につけて、何度かスウィングすると、測定された数値をもとに最適なシャフトの設計図ができるという仕組みです。計算には、東大と共同開発したというアルゴリズムが使われていました。本来的にはプロ・ゴルファーのための施設ですが、試してみろ、と言われ、結局、セミ・オーダーのシャフトを買うはめになりました。

オーダー・メイド・シャフトの製造工程も見せてもらいました。一本毎に職人が手作りしていました。特性の異なるカーボン・ファイバーを角度・方向を変えながら慎重に貼り付け、先端や根本といった部分毎の強度やしなりに変化をつけていきます。この製造プロセスは、基本的に自動車や飛行機の主翼であっても同じだと言えます。しかし、いかに強度が高いとは言え、もとは繊維の束に過ぎません。ということは、カーボン・ファイバーの強さは、方向によって異なる、つまり異方性の高い素材ということになります。そこで、使用目的に応じて、重ね方や樹脂との組合せなどで補強され、専用部材が作られます。カーボン・ファイバーの特性に関する理解不足で起きた事故もあります。2023年、5人が犠牲となった潜水艇タイタン号の遭難等が典型なのでしょう。

タイタンは、4,000mの深海に沈むタイタニック号の見学ツアーのために開発された潜水艇です。いまだに正式な事故調査は終わっていないようですが、運営会社社長の安全性や法律を無視した強引な経営に問題があったようです。沈没した知床遊覧船にも相通じるところがあります。技術的な問題点の最たるものは耐圧殻の強度だったようです。通常、耐圧殻は水圧を逃がすために球体になりますが、タイタンは客を多く乗せるために円筒形にしていました。世界初となったカーボン・ファイバー製の耐圧殻は、十分な強度があって、かつ安価であることから採用されたようです。しかし、深海では繊維の隙間に海水が浸透し、強度が失われていきます。そこで、繊維の断裂を感知するセンサーを設置しますが、社長は、センサーが発する警告を無視したようです。

カーボン・ファイバーは樹脂と組み合わせることでCFRP(Carbon Fiber Reinforced Plastics)として製品化されるのが一般的です。そのリサイクル方法としては、ファイバーと樹脂を分離し、ファイバーは再利用することになります。いくつかの方法で実現されてもいるのですが、まだコスト面や処理力に課題も多く、大半は埋め立て処理されています。近年、硫酸を電気分解して生成する電解硫酸を用いる方法が注目されているようです。電解硫酸は、半導体製造工程で、フォトレジストを洗い流すために利用されていますが、CFRPの樹脂を完全に分解し、ファイバーは強度を保ったまま再利用できるとのこと。理想的な方法ですが、問題は処理力の低さだと言われています。いずれにしても、カーボン・ファイバーの技術と生産は、日本がトップになっていますので、そのリサイクルに関しても、世界をリードすべきだと思います。(写真出典:m-chemical.co.jp)

2025年7月24日木曜日

大岡政談

左官の金太郎が、3両入った財布を拾います。中にあった書付から持主は大工の吉五郎と分かり、届けに行きます。吉五郎は、諦めた金は受け取らないと言い張り、金太郎は拾った金は返すと騒動になり、奉行所へ持ち込まれます。町奉行である大岡越前守は、自らの1両を加え、双方に2両づつ渡して話を収めます。吉五郎も、金太郎も、越前守も1両づつ損をしたことになり、三方一両損の名裁きとして知られることになりました。いわゆる大岡政談のなかで最も有名な話なのでしょう。分かったような分からないような話ですが、もちろん事実ではなく、後の創作です。大岡政談には、多くの名裁きが語られていますが、実際に大岡越前守が裁いた事件は一つくらいしかないと言われます。 

大岡越前守忠相は実在の人物であり、確かに江戸町奉行を20年に渡り務めています。お裁きの記録も残されていたようですが、ほとんどは関東大震災で焼失し、業務日誌である「大岡日記」だけが残ったようです。江戸町奉行は、江戸の行政と司法を担当します。今なら都庁と警視庁と東京高裁が一つになったようなものです。大岡越前守が町奉行を務めたのは、18世紀、8代将軍吉宗が享保の改革を進めた時代のことでした。大岡越前守も、町奉行として、実に多くの政策を実行しています。行政改革、消防体制確立、小石川養生所設置、飢饉対策としてのサツマイモ栽培奨励、物価対策、賭博の取締強化等々の諸策は、庶民からも評判が良く、名奉行として知られていたようです。だからこそ、大岡政談も成立したわけです。

大岡政談は、大岡越前守の名裁きを題材とする講談、落語、芝居、読み本等の総称ですが、18世紀後半から幕末にかけて大流行します。明治以降は、やや下火になったものの、寄席では講談や落語の人気演目であり続けます。映画も数本撮られています。林不忘の「新版大岡越前」(1928)や吉川英治の「大岡越前」(1950)といった小説もベストセラーになっています。そして、20世紀後半、TV時代劇「大岡越前」のヒットで、越前の名は一層広く知られることになりました。TBSの目玉番組だった「大岡越前」は、1970~1999年の30年間、2006年のスペシャルを含めれば36年間に渡り放送されました。水戸黄門の42年間には及ばないものの、TV時代劇の代表格と言えます。何度か主役が変わった水戸黄門と異なり、大岡越前は加藤剛が演じ続けました。

水元の古刹南蔵院は”縛られ地蔵”で有名です。願をかける人が地蔵に縄を結び、願が叶えば縄を解きます。その由来には大岡越前が登場します。日本橋の呉服屋の手代が南蔵院の門前で昼寝をした隙に、大八車ごと反物を盗まれます。調べにあたった大岡越前は、泥棒を見過ごした門前の地蔵も同罪なり、召し捕って参れと命じます。南町奉行所のお白洲に引き出された地蔵を一目見ようと野次馬が押し寄せます。すると大岡越前は、門を閉め、天下のお白州に乱入するとは不届千万、罰として反物一反の科料を申しつけると言い放ちます。奉行所には反物の山ができ、その中から手代が盗品を見つけ出し、たどりにたどって大盗賊団が一網打尽となります。越前は地蔵の霊験に感謝し、立派なお堂を建立し盛大な縄解き供養を行います。

実在した人物を題材とする創作ものが人気を得ると、史実と創作の境が曖昧になってくるものです。それにしても、古刹が地蔵の由来として大岡政談を語るというのは、さすがに希な例だと思います。講談の演目にも「縛られ地蔵」があります。講談では、呉服屋は越後屋とされ、その主人も登場します。また、手代の友人も登場します。また、野次馬は奉行所になだれ込んだのではなく、大岡越前が一般公開にして町人を集め、地蔵への裁きに笑った野次馬たちを召し捕ったとされています。南蔵院が、参拝客を増やしたくて、大岡政談を由来にしたというのなら理解できる話です。ただ、大岡政談が、南蔵院の縛られ地蔵にヒントを得て創作されたのだとすれば、縛られ地蔵の本当の由来は何だったのか気になるところです。(写真出典:amazon.co.jp)

2025年7月22日火曜日

アメリカ・ファースト

モンロー大統領
米国のトランプ大統領が、ブラジル政府に対して、ボルソナロ前大統領の不当な裁判を止めなければ関税を50%上乗せすると通告しました。他国の司法に介入するなど信じがたい程の内政干渉です。 もちろん、トランプが得意とするブラフなのでしょうが、日本がアメリカの米を買わないといった話とはレベルが違い過ぎます。ブラジルのトランプとも言われたボルソナロの支持基盤は、産業界や軍、そして福音派キリスト教徒でした。ブラジルはカソリックが多数を占める国ですが、福音派が急増しているようです。トランプの支持基盤も同じ福音派です。トランプの暴挙は、米国内の支持基盤に媚びを売っているということなのでしょう。

ブラジルへの内政干渉も酷いものですが、トランプのネタニヤフ支持は、ガザでのジェノサイドという人類に対する極悪犯罪を引き起こしています。さらに、ネタニヤフは、イラン、シリアへの越境攻撃などやりたい放題です。もちろん、トランプ以前から、米国は、国内のユダヤ人の経済的影響力ゆえにイスラエル支援を続けてきました。しかし、ネタニヤフは、扱いやすいトランプの再選を前提に、ジェノサイドに踏み切ったのでしょう。もはや、イスラエルは、ホロコーストについて語る資格はありません。2千年前に国を追われ流浪の旅を強いられたユダヤ人ではありますが、パレスティナ人を暴力で追い払ってイスラエルを建国し、武力と入植をもって領土を拡大してきました。シオニストは、流浪の苦難を語る資格もないと思います。

あろうことか、ネタニヤフは、トランプをノーベル平和賞に推薦したと言います。トランプに相応しいのは、ノーベル賞ではなく、国際裁判所の被告席です。MAGA(Make America Great Again)という主張を否定するつもりはありません。ただ、”アメリカ・ファースト”という言葉は国粋主義そのものであり、他国を見下し、その犠牲をまったく厭わないということを意味します。トランプ人気の尻馬に乗った小池百合子が”都民ファースト”と言い、参政党が”日本人ファースト”と主張していますが、とんでもないことだと思います。さらに言えば、トランプのアメリカ・ファーストの実態は、”ミー・ファースト”である場合が多いと思われます。チンピラ大統領の人気取りのために、世界中の人々が犠牲になることなど、もってのほかと言わざるを得ません。

アメリカ・ファーストという言葉自体は、トランプ以前から存在し、アメリカの伝統と言える面もあります。そもそもアメリカ・ファーストという言葉は、19世紀中葉、ユダヤ系の政党が、カトリック系の移民排斥を訴え、キャッチフレーズとしたことが始まりです。その後、欧州で第一次世界大戦が勃発すると、ウィルソン大統領が、中立を宣言し、この言葉を使います。そして、第二次世界大戦に際しては、アメリカ第一主義委員会(The America First Committee)が結成され、不参戦と孤立主義を訴えます。ヘンリー・フォード、ウォルト・ディズニー、チャールズ・リンドバーグらも参加していました。しかし、次第に反ユダヤ、親ファシズム色が露わになり批判されます。結果、パールハーバーを機に、アメリカは参戦、委員会は解散しています。

アメリカ・ファーストは、アメリカ伝統のモンロー主義に基づいているとも言われます。19世紀初頭、建国間もないアメリカのモンロー大統領が打ち出した米州・欧州の相互不干渉政策です。アメリカの中立志向、孤立主義と理解されることが多いように思われますが、その実態は、南北アメリカにおけるアメリカの覇権を主張したものです。中南米や南米の諸国にとっては、ふざけるな、という話であり、大いに迷惑も被ってきました。今般のブラジルへの内政干渉など、まさにモンロー主義の伝統に則っているとも言えます。トランプの政策は、アメリカの弱体化とともに、国際的リーダーという立場から自国重視へと急激な転換を図っているという面もあります。それは理解できるとしても、アメリカ経済の弱体化は、アメリカが自ら判断して進めてきた産業構造転換の結果であって、他国のせいではありません。(写真出典:y-history.net)

2025年7月20日日曜日

天津甘栗

シナは、古代インドで”秦”を意味する言葉でしたが、それが東西に広がり、欧州ではチャイナ、シーナ、シーヌとなり、日本では”支那” と当て字をして、いずれも中国を指す言葉になりました。江戸期に定着した支那ですが、”支”という漢字が”本流から枝分かれした”という意味を持つので、中国では嫌がられていたようです。日中戦争時、中国を侮蔑する言葉として使われたため、敗戦後、外務省が使用自粛を打ち出します。以降、支那そばは、中華そば、ラーメンと呼ばれることになります。しかし、私の子供時分には、まだ支那そばの方が一般的でしたが、1972年の日中国交回復以降は見事に消えていきました。ただ、カタカナの”シナ”は別だったようです。その一つの例が中国原産の栗”シナグリ”です。

シナグリは正式名称です。和種であるニホングリより小粒ながら、渋皮が実にくっつきにくいとされます。その特性を活かしたのが”天津甘栗”ということになります。栗を麦芽糖と砂や小石と一緒に焼くスタイルの糖炒栗子は、宋代に流行したようです。実は、この焼き栗、今も中国では糖炒栗子と呼ばれ、親しまれているようです。これが日本に渡り、天津甘栗となるわけですが、天津甘栗という名称は日本にしかありません。すぐに思い出すのが日本独特の中華料理”天津飯”です。天津飯の由来は諸説ありますが、天津甘栗の場合、その歴史は比較的はっきりしています。1898年、藤田留吉が大阪の黒門市場で露天販売を始め、後に千日前楽天地に「樂天軒本店」を開きます。お馴染みの赤い袋も樂天軒本店から始まっているようです。

ほぼ同時期に、東京の金升屋、甘栗太郎、京都の林万昌堂等も創業しています。各店の創業者たちは、中国で食べた糖炒栗子に感動し、日本で商売にしようと考えたようです。各店とも、栗は中国からシナグリを輸入していました。中国の栗の名産地は河北省らしいのですが、日本へは天津港から輸出されます。よって天津甘栗と命名されたようです。日本には、名称に天津や南京が付くものが多くありますが、必ずしも原産地を示すものではなく、単に中国産、あるいは中国由来であることを表している場合がほとんどです。カボチャの別名である南京やピーナッツの南京豆なども典型です。いずれにしても、天津甘栗はヒットし、全国に広がっていったようですが、その背景には、日清戦争以降、日本人の目が大陸に向かっていたことが挙げられると思います、。

日本は、縄文時代から栗を食べてきた国です。栗を使った和菓子も、栗きんとん(栗金飩と栗金団)、栗羊羹、栗まんじゅう、栗最中等々、数多く存在します。その中で、新参にも関わらず、天津甘栗が普及してきたことは驚きとも言えます。強いて言えば、和菓子の多くは栗の加工品であり、天津甘栗は栗そのものを食べるという違いがあります。日本にも、家庭で作るゆで栗や蒸し栗があります。ただ、調理には時間がかかります。手軽に剥いて食べられる天津甘栗は、いいポジションを得たと言えるのでしょう。さはさりながら、気になることがあります。日清戦争の勝利は、日本国と日本人に大きな変化をもたらします。国家、国民という認識が生まれ、後の軍国主義へとつながります。そして、国民は、それまで上に見ていた中国を見下すようになったのです。

天津甘栗のヒットは、国民の間に生まれた中国への差別意識と関わっているのではないかと思います。下関条約で、清から台湾と遼東半島の割譲を受けた日本は、あたかも中国全体が属国であるかのような錯覚を持つに至ったのでしょう。天津甘栗は、その象徴として、国粋主義的な意識を満足させるものだったのではないかと想像します。それは極端に過ぎるとしても、少なくとも、天津甘栗のヒットは、中国を下に見るという新たな傾向を反映していたように思えます。天津甘栗の甘さは、戦勝国として、近代化を成し遂げた国としての奢りだったとも言えそうです。最近、相撲観戦時、お茶屋の土産として天津甘栗を指定し、食べています。美味しいのですが、困ったことに、食べ始めるとなかなか止められません。(写真出典:amazon.co.jp)

2025年7月18日金曜日

「F1」

監督: ジョセフ・コシンスキー     2025年アメリカ

☆☆☆+

ゲームに匹敵するスピード感、ゲームを超える映像、これが今どきのアクション映画がヒットする大きな要因だと思います。それを高いレベルで証明したのがジョセフ・コシンスキー監督の「トップガン マーヴェリック」(2022)だったと思います。コシンスキー監督は、空間認識能力が極めて高い人だと思います。それもそのはず、コシンスキーは、スタンフォード大で機械工学、コロンビア大で建築学を学び、教壇にも立つという異色の監督です。「オブリビオン」(2013)や「トップガン マーヴェリック」では、その能力が遺憾なく発揮されていました。ただ、その能力を発揮出来ないタイプの映画では、卒のない演出は見事ながら、やや凡庸な作品になる傾向があります。

空間認識能力の発揮にはいささか限界があるF1の世界ですが、本作は、リアルな映像とテンポの良さで迫力ある映画になっています。FIA(国際自動車連盟)の全面協力によって、実際のレース映像が使用され、実際のコースでの撮影が可能だったことが大きかったと思います。実際の映像との組合せは、質感の違いなどもあって、なかなか難しい手法ですが、実にスムーズで違和感のない仕上がりになっています。記録映像の質が向上している面もあるのでしょうが、監督の腕によるところが大きいと思います。特に、よく計算されたカットの切替えとテンポの良さがスムーズさを生み出しています。156分という長尺にも関わらず、だれることなくテンションをキープしています。これが本作の大きなポイントだと思います。

カー・レース版のトップガンといった風情のストーリーは、リアリティに欠け、漫画チックです。ただ、ハリウッド伝統のサクセス・ストーリーの基本は押さえてあり、良く出来たプロットだと思います。近年、シリアスな芝居でドラマを深掘りするのではなく、シーン、カット、音楽で流れるようにドラマを構成するスタイルが流行っているように思います。”オッペンハイマー”や”国宝”などが典型であり、”トップガン マーヴェリック”も同じスタイルだったと思います。本作では、プロットが、そうしたスタイルと見事にマッチしていると思います。また、ニヒルでオフビートな見た目にも関わらず、内面には熱い思いや優しさを秘めるというブラッド・ピットらしさが、このプロットでは良く活かされていると思います。はまり役の一つになったと思います。

カー・レース、あるいはカー・アクション映画のリアリティを高める要素の一つが、エンジン音だと思います。本作では、映像や音楽などに高い技術力がフルに活用されていると思うのですが、エンジン音に関しては、今一つ魅力を感じませんでした。F1マシーンが搭載するエンジンの進化は凄まじく、エンジン音も大いに変わっているのかもしれません。ひょっとすると本作のエンジン音は、実にリアルな音になっている可能性もあります。だとしても、低音を響かせる音に仕上げ、最新のサウンド・システムで響かせるくらいの工夫が欲しかったところです。昔、エンジン音で驚かされた映画と言えばピーター・イエーツ監督の「ブリット」でした。エンジンが違うことは理解しますが、オールド・ファンとしては、ブリット並みのエンジン音が欲しかったところです。

本作は、徹底的な娯楽映画だと思います。マニアックなレース・ファン向けの映画でも、人生や人間関係の奥深さを味わう映画でもありません。カー・レース映画の代表作と言えば、人間模様を描いた「グラン・プリ」(1966)、マニアックな「栄光のル・マン」(1971)、ライバル関係を描いた「ラッシュ/プライドと友情」(2013)などがあげられます。近年は、ワイルド・スピード・シリーズはじめ、派手なカー・アクションをウリにする映画が多いのですが、レース映画としては「フォードVSフェラーリ」(2019)などの佳作もあります。F1レースには華やかな面もありますが、基本的には、マシーン、運転技術、戦略・駆け引き、そして命を懸ける度胸、と人間を惹きつける要素にあふれています。カー・レースは、古代ローマに始まる長い歴史を持っているとも言えます。本作は、原初である古代ローマの戦車競走に近いレース映画なのかもしれません。(写真出典:eiga.com)

2025年7月16日水曜日

庄内藩

酒田・山居倉庫
 「勝てば官軍 負ければ賊軍」とは、事の真偽は別として、勝った側が正義とされ、負けた側が悪とされる傾向を表しています。西南戦争の際、大江卓が詠んだ漢詩が原典となっているようです。幕末の薩長を批判する言葉でもあります。偽りの錦の御旗を振りかざし、道理、仁義、礼節などを一切無視して、武力で幕府と佐幕派を武力制圧した薩長の実像を良く表す言葉です。正式には、天皇による追討の綸旨が出されたものだけが賊軍とされます。薩長は、これを拡大解釈し、新政府に従わない奥羽越列藩同盟等を賊軍とします。公式的に賊軍とされた藩は、後に赦免された長州藩、そして会津藩と庄内藩だけです。しかも、長州と違って、会津・庄内両藩は、天皇に手向かったことなど一度もなく、むしろ天皇の信頼が厚かったと言えます。

賊軍として徹底的に攻撃された会津の悲劇は有名ですが、同じく賊軍とされた庄内藩の顛末については、意外と知られていない面があります。庄内藩が賊軍とされた理由は、江戸市中警護の任にあった同藩が、幕府の命を受けて薩摩藩邸を焼き討ちしたことへの仕返しだったとされます。薩摩藩は、武力倒幕の口実づくりのために、江戸市中や関東一円で浪士たちによるテロを支援し、藩邸に匿っていました。幕府は、その罠にはまり、藩邸を焼き討ちし、戊辰戦争が始まります。会津・庄内両藩の謝罪嘆願を目的に奥羽越列藩同盟が組織されますが、薩長はひたすら武力制圧をねらって攻撃を仕掛けます。庄内藩は、酒田の豪商本間家から提供された資金を元に軍備の近代化をはかり、薩長側についた新庄藩を破り、秋田の久保田藩を攻めます。

最新兵器と洋式軍制を持つ庄内軍は圧倒的に強かったようです。しかも、兵士の半数は、領民の志願兵だったと言います。列藩同盟各藩が新政府軍に敗れるなか、庄内藩だけが一度たりとも新政府軍を領内に入れませんでした。最終的には会津藩や仙台藩の降伏を受けて、庄内藩も降伏しています。会津藩に対する苛烈な戦後制裁に比べ、庄内藩への処分は軽いものでした。西郷隆盛が、よく戦った庄内藩への敬意から処分を軽くしたとされています。実情は、庄内藩を落とせなかった新政府軍の弱さを糊塗するとともに、庄内藩の強さが神話化して反政府運動の火種になることを恐れたという説もあります。庄内藩の強さは、本間家の莫大な資金、酒田玄蕃という優れたリーダーの存在もさることながら、藩と領民との一体感にこそあったのではないかと思います。

庄内藩は、広大な庄内平野と酒田港を擁する豊かな藩でした。江戸中期、幕府の老中も担う領主の酒井家は、日光東照宮の普請などで財政難に陥ります。これを救ったのが、豪商・本間光丘でした。光丘は、私財をなげうって藩士と領民の借金を肩代わりし、藩の財政支出の見直しを断行し、備蓄米の制度を作り、藩を再生させます。以降、庄内藩は、飢饉に際しても餓死者が極めて少なかったと言います。藩主の領地替えの話が出た際には、領民たちが江戸表へ領地替え取り下げの直訴を行っています。直訴は死罪という時代のことですが、逆に美談と賞賛されたようです。まさに異例中の異例です。戊辰戦争では領民たちが志願兵となり、戊辰後、藩が明治政府への献金を要求されると、本間家はじめ領民たちが金を集めたといいます。

豪商とは言え領民である本間家が藩政に重きをなすことによって、庄内藩は、世にも珍しい武家と領民による共同運営が為されたと言ってもいいのかもしれません。江戸期に善政をもって知られる藩はいくつかありますが、このような形は、他に類がないのではないかと思います。これほどの善政を行い、戊辰戦争では抜群の強さを見せた庄内藩ですが、その知名度の低さには疑問すら感じます。会津の影に隠れた面もあるのかもしれません。しかし、薩長政権による賊軍としての扱いが大きく影響しているようにも思います。廃藩置県において庄内藩は、紆余曲折はあったものの、結局、山形県に編入されています。余談になりますが、鶴岡市出身の藤沢周平が描く海坂藩は、庄内藩そのものであることが知られています。本ブログがタイトルを借用する「三屋清左衛門残日録」も、明記はされていないものの、海坂藩、つまり庄内藩が舞台となっています。(写真出典:ja.wikipedia.org)

2025年7月14日月曜日

「罪人たち」

監督: ライアン・クーグラー     2025年アメリカ

☆☆☆☆

驚きました。やられたな、という感じです。どっちりとしたダイナミズムを感じさせる演出、計算された色彩の鮮やかな映像、しっかりと伝統を踏まえたアーシーなブルーズが、見事に融合しています。ホラーのフレームを持った骨太のメッセージ映画であり、デルタ・ミュージカルとでも呼びたくなるような新ジャンルでもあります。とにかく見たことのないような映画を見た思いがしました。ライアン・クーグラーは、今、最も注目される監督の一人だと思います。クーグラーは、大学でフットボールの奨学生として活躍した後、映画界の名門である南カリフォルニア大学映画芸術学部の修士課程へ進みます。そこで撮った短編は賞を獲りまくり、注目を集めることになります。

長編デビュー作となった「フルートベール駅で」(2013)は、低予算映画ながら、高い評価を得て、大ヒットします。クーグラーは弱冠28歳でした。2009年元旦、サンフランシスコのベイエリアの駅構内で、無実の黒人青年が警官に射殺される事件が起きます。殺された青年の事件までの24時間が、事実に基づき淡々と描かれていました。驚くべきことに、自然主義的な日常の描写のなかに、アメリカの人種差別問題を取り巻くの全ての要素が織り込まれていました。映画監督のデビュー作には、後にその監督が撮ることになる映画の全ての要素が含まれていると言ったのはフランソワ・トリフォーでした。差別問題に対する社会的視線こそが、クーグラーの原点なのだと思います。この作品の大ヒットを見たハリウッドは、早速、クーグラーを呼びます。

クーグラーは、ハリウッドで、ロッキーのスピンオフ「クリード チャンプを継ぐ男」(2015)、そしてマーベルの「ブランクパンサー」(2018)と「ブラックパンサー/ワカンダ・フォーエバー」(2022)を撮り、いずれも大ヒットさせます。特にブラックパンサーは、記録的な大ヒットとなり、評論家の批評も極めて高いものでした。クーグラーは、若くして映画界のスーパー・スターに躍り出たわけです。とは言え、ハリウッドで撮った3本は、腕の良さは見せつけたものの、あくまでもお仕着せの仕事でした。本作は、クーグラーの制作会社プロキシミティ・メディアによって制作されています。クーグラーは、10年を経て、ようやく、原点に立ち戻って本作を撮ることができたわけです。しかし、ハリウッドの10年は無駄なものではありませんでした。

ハリウッドで身につけたテクニックやセンスが、彼の身上である社会的視点や骨太な映画という特色を、より一層際立たせることになったのだと思います。そして、何よりも、社会問題をストレートに突き詰めていくのではなく、エンターテイメントと融合させて、深い理解を広げていくというアプローチを得ることにつながったのでしょう。本作では、人種差別問題の根源が歴史的視点を踏まえて語られています。実に多くの要素が語られているのですが、それらをヴァンパイヤとブルーズという縦糸に織り込むことで、エンターテイメントとして成立させています。ことにブルーズに関しては、その発生の原点から現在の立ち位置までを、見事に網羅しています。ブルーズ・シンガーのバディ・ガイを役者として起用したアイデアも脱帽ものだと思います。

音楽を担当するのは、ブラックパンサーとオッペンハイマーでアカデミー作曲賞を受賞したルドウィグ・ゴランソンです。ゴランソンは、デルタとは無縁のスウェーデン人です。彼は、ロバート・ジョンソン等の古い録音をそのまま使うこともできたはずです。ところが、多くのブルーズ・プレイヤーを集め、デルタ・ブルーズを再構築しています。それは、人種差別の歴史をブルーズに託して表現するという本作の試みに添うものだったと思います。結果、実に魅力的で深みのあるブルーズが奏でられています。ブルーズと並ぶもう一方のモティーフがヴァンパイアです。タイトルの罪人たちとはヴァンパイアを指しているように思えますが、事はそれほど単純ではありません。クーグラーは、差別者としての白人ではなく、アメリカの政治や社会が持つ保守性、さらには昨今の右傾化を”罪人たち”と言っているように思いました。本作のメッセージの深さはそこにあります。(写真出典:warnerbros.co.jp)

2025年7月12日土曜日

さくら肉

馬肉はサクラ、猪肉はボタン、鹿肉はモミジとも呼ばれます。馬肉は肉の色合いから、猪肉は皿に盛り付けた姿から、鹿肉は百人一首の歌から名付けられたとされます。雅称のようにも聞こえますが、肉食が禁忌されていたために生まれた符牒なのでしょう。馬肉は、多くの国で古くから食用とされてきましたが、総じて加工用が多いようです。また、アメリカ、イギリス、オーストラリア、イスラエルなどでは、馬肉を食べることはタブーとされています。馬肉自体は、低カロリー、低脂肪、低コレステロール、かつ高タンパク質であり、優れた食材と言えます。にも関わらず、マイナーである理由は、馬が家畜のなかでも、乗用として、農耕用として、人間にとって身近な存在だったからなのでしょう。

馬肉を、加工用ではなく、そのまま調理して食べる習慣は、フランスや中国にもあるようですが、ごく一部に限られるようです。日本も同様ではありますが、地方によっては、馬刺し、桜なべは名物となっています。クセのない馬刺しに関しては、冷凍技術の発展により、近年、全国の居酒屋の定番メニューになった印象もあります。馬肉を調理して食べることに関しては、日本が突出しているのかもしれません。馬肉の生産も消費も、古くから馬の産地と知られた東北や九州が多いようです。生産量では、熊本、福島、青森、福岡が上位を占めています。熊本県の御船町や阿蘇一帯、福島県の会津は、良質な馬刺しの産地として知られます。馬刺しでは、他に長野県も有名です。青森県の南部地方には馬刺しもありますが、特に桜なべが有名です。

かつて、江戸では桜なべを”蹴飛ばし”と呼びました。馬は蹴飛ばすことから、馬肉の符牒とされていたわけです。味のベースは深川好みの醤油ですが、味噌を混ぜることが特徴になっています。森下の“みの家”、三ノ輪の”中江”が、蹴飛ばしの名店として知られますが、いずれの割下も醤油を基本に味噌を加えています。ともに明治期の創業ですが、店内は、江戸名物の”入れ込み座敷”のスタイルを保っています。入れ込みとは、長くて低いテーブルに複数のグループが向かい合って座るスタイルです。鍋を突っつく料理店で見られたスタイルで、多くの客をさばくのに適しています。現在では、さすがに貴重な存在となっています。両店の他にも”駒形どぜう”の入れ込みが有名です。勝どき橋のふぐ屋”天竹”なども、かつては入れ込みでした。

青森を代表する桜なべの名店に、五戸町の”尾形(ミートプラザ尾形)”があります。ここの味付けは調理味噌オンリーです。過日、久々に行ってきましたが、味噌ベースの濃い出汁を薄くはった鍋に野菜や肉を入れた鍋が出てきました。かつては、鉄鍋に山盛りのキャベツ、その上に桜肉、さらにその上に味噌が乗った状態で出されていました。火にかけるとキャベツから出た水分だけでグツグツの鍋になるわけです。このスタイルだと時間がかかりすぎるので、今風に変えたのでしょう。聞けば、おそらく味は変わらないと言うのでしょうが、どうも風情には欠けるように思います。桜なべの出汁に味噌が多く使われるのは、馬肉の淡泊さゆえだと思います。馬刺しのつけだれにも、味噌だれ、あるいは味噌を入れた醤油が使われることもあります。

昔、熊本で馬刺しを食べたとき、様々な部位が出てきたので驚きました。なかでも一番の珍味は”たてがみ”でした。首の皮下脂肪のことなのですが、たてがみと呼ばれています。見た目は真っ白で、多少、コリッとした食感はあるのですが、基本的には脂肪の塊です。牛や豚の脂身に比べ、あっさりして、甘味があるとされています。不味いわけではないのですが、やはり脂は脂です。妙な顔をして食べていたと見え、熊本の人から赤身と一緒に食べなさいと言われました。すると、淡泊な馬刺しにコクが生まれたように思えました。熊本の馬刺しは霜降りタイプが主ですが、その理由がこの食べ方で納得できたように思いました。対して会津は赤身が特徴的です。郡山駅前の”鶴我”で極厚にカットしたヒレ肉の刺身を食べたことがあります。とても柔らかく、あっさりとした味わいは、明らかに人生最高の馬刺しでした。(写真出典:tabelog.com)

2025年7月10日木曜日

「フォーチュン・クッキー」

監督:ババク・ジャラリ  原題:Fremont   2023年アメリカ

☆☆☆

微妙な邦題を付けたものだと思います。原題のFremontは、サンフランシスコ・ベイ・エリアの街です。シリコン・バレーに近く、かつアメリカで最もアフガニスタン系移民の多い街としても知られます。アフガニスタン系移民を描いた映画ですから、原題のままで良かったと思います。ただ、日本ではそこまで知られている街ではないので、このような邦題にしたのでしょう。やや誤解を与えかねない邦題だと思います。Fremontにアフガニスタン系移民が入ってきたのは、1979年、ソヴィエトがアフガニスタン紛争に軍事介入して以降のことだったようです。なぜ、Fremontだったのかはよく分かりません。しかし、2001年、アメリカがアフガニスタンに軍事介入して以降、アフガニスタン移民や難民の流入が急増したようです。

2021年8月、カブールはタリバンに占領され、アメリカ軍は空港から最終脱出します。その際、タリバンから逃れたいアフガニスタン人が多数空港に押し寄せ、飛行機に群がる光景がニュース映像として流れました。対米協力者は、タリバンに逮捕され、拷問され、殺害される運命にあります。彼らにとって、国外脱出できるかどうかは、まさに生死の分かれ目だったわけです。本作の主人公ドーニャは、大学を出て、米軍の通訳として働いていました。国を出たい一心で通訳になったドーニャですが、家族からも裏切り者扱いされます。脱出しなければ、タリバンに殺されること間違いなしの状況だったのでしょう。ラッキーなことにアメリカに渡ることが出来たドーニャは、Fremontに住み、中国人が経営する小さなフォーチュン・クッキー工場で働きます。

国でも孤立していたドーニャは、Fremontでも孤独な生活を送っています。生き残ったものの、明らかに紛争の犠牲者の一人です。怒りのぶつけどころがなく、ただ絶望感だけが漂う日々が、白黒の画面で淡々とスケッチされます。周囲のアフガニスタン移民たちも、同様に抜け殻のような人々です。ここFremontにも瓦礫だらけとなった戦場跡があったわけです。自然主義的な描写は、控えめで、静かにドーニャの孤独を伝えます。ある日、ドーニャは、自分の名前と電話番号をクッキーの中に入れます。たまたまそのことを知った中国人経営者の妻は、ちょっとした悪巧みを仕掛けます。それと知らず、ドーニャは、クッキーのメッセージに反応したと思われる誘いにのって、長時間のドライブに出かけることになります。

ドーニャは、孤独で退屈な日々から逃れたいと思ったのでしょう。それは、カブール脱出を思わせるところもあります。カブール脱出は、自らの意志というよりも、状況に強いられた脱出でした。ドーニャが生き延びるために脱出した先には、生きる意味が見いだせないという皮肉な状況がありました。クッキーに忍ばせた自分の電話番号は、自らの意志で光を見いだそうとする微かな抵抗だったのでしょう。ドライブの途中、ドーニャは、田舎町で一人で整備工場を運営する孤独な青年に出会います。自分と同じ匂いにドーニャは反応します。目的地で、中国人の姑息ないたずらに気付いたドーニャは、失意の帰り道で、また整備工場を訪れます。

ドーニャは、祖国から続く長いトンネルの先に、微かな光を見出したわけです。アフガニスタンは、地形のためか、遊牧民のためか、先史時代から部族社会が続き、一度も完全な統一がなされたことのない国です。ソヴィエトであろうが、アメリカであろうが平定することなど出来ず、むしろ混乱を広げただけでした。故郷から遠く離れたFremontであっても、難民を取り巻く厳しい状況に変わりはありません。しかし、ドーニャは、決してあきらめません。環境に抗って前を見ようとしています。アフガニスタンの希望は、こうした若者たちの思いの先にしかないのかもしれません。ドーニャ役を演じたアナイタ・ワリ・ザダの強い意志を感じさせる鋭い眼光が、この映画の背骨を作っていると思います。いい役者を見つけたものです。(写真出典:imdb.com)

2025年7月8日火曜日

御詠歌

先祖の墓も位牌もある我が家の菩提寺で晋山式が行われ、参加してきました。晋山式は、住職交代の儀式です。寺院の名称には山号が付きます。例えば浅草寺の山号は金龍山となります。山号は、随や唐の時代の中国で、林立する寺院を区別するために始まった習慣とされます。日本では、鎌倉時代、禅宗から始まったようです。晋山とは、新しい住職が山に晋(すす)むことを意味します。秘仏であるご本尊のご開帳の儀式も含め、5時間30分に及ぶ長丁場の法会でした。全ての宗派が晋山式を行うわけではないようですが、曹洞宗では重要な法会として行われてきたようです。本山以外では見たこともないほど多数の僧侶が参加しており、総本山永平寺や本山総持寺からも高位の僧が臨席していました。

晋山式は、新命住職が、行列を従えて山門を入り、本堂に至るところから始まります。その間にも、伝統に則った儀式が行われ、法語が唱えられます。行列の先頭は青・黄・赤・白・紫の五色旗ですが、鈴や鉦を鳴らしながら御詠歌を詠ずる檀徒の一団がそれに続きます。御詠歌は、仏教の教えを、五・七・五・七・七の和歌として表し、節を付けて詠唱するものです。詠者は、密教法具の五鈷をかたどった持鈴と呼ばれる仏具を手に持ち、振って鳴らしながら御詠歌を詠じます。その澄んだ音色は、魔除け、厄除け、浄化を意味するとされます。また、詠者は、揃いの簡略な法衣を身につけています。詠者は女性が中心であり、日頃から寺に集まって、稽古を重ね、重要な法会などの際に、御詠歌を詠ずることになります。

御詠歌の起源は、古代インドの梵讃にあり、中国を経由して日本に伝わったとされます。梵讃とは、仏・菩薩の教えやその功徳,あるいは高僧の行績をサンスクリット語でほめたたえる讃歌です。中国では漢讃となり、日本へ伝わって和讃となります。和讃は、和歌の形式を使うようになりますが、10世紀末、花山天皇が西国三十三所巡礼の際に各札所で和歌を詠んだことが起源だとされます。12世紀になると、密教において、和歌陀羅尼観が生まれます。陀羅尼とは、サンスクリット語のまま唱える呪文のことです。例えば、搬入心経の”そわか”は、サンスクリット語の”スヴァーハー”です。国風文化の粋とも言える和歌と法語を合体させ、法力を持たせるという発想が面白いと思います。声に出した言葉がパワーを持つという共通認識があるのでしょう。

和歌は歌謡を起源としており、音読、朗詠とは密接不可分です。11世紀には、朗詠に適した漢詩や和歌を集めた和漢朗詠集も編纂されています。現代では、和歌の朗詠を聞く機会は限られますが、毎年、正月に皇居で行われる歌会始の中継やニュースで聞くことができます。朗詠という文化からして、巡礼歌としての和歌に節が付けられていくことは自然な流れだったのしょう。御詠歌は、各宗派のなかで独自に発展していきますが、大正期に入り”大和流”として宗派を超えた共通基盤が整備され、音楽的にも確立されたようです。現在、耳にする御詠歌の多くは、大和流の音楽的基盤をもとに、各宗派、流派ごとに整備されたもののようです。例えば、曹洞宗の梅花流詠讃歌、通称梅花流は、昭和27年に始まっています。

宗教と歌唱は、切っても切れない関係にあると思います。識字率が低かった時代、祈りの言葉を覚えるために歌が活用されたのでしょう。それは、教義の理解、布教、そして儀式の運営上も有用だったわけです。世界を見渡すと、宗教ごと、宗派ごとに多様な音楽が存在します。キリスト教には聖歌や賛美歌があります。マルティン・ルターが重視した賛美歌は、主にプロテスタントの音楽です。アメリカのゴスペルは、もともと福音という意味であり、プロテスタントの宗教音楽と黒人の音楽文化が融合したものです。イスラム教では、礼拝の時間を知らせるアザーンをはじめとして、クラーンが朗詠されます。ユダヤ教でも、ハッザーンと呼ばれる朗詠者によってトーラーが朗詠されます。仏教では、御詠歌の他にも、奈良時代に始まったとされる声明もよく知られています。(写真出典:shonai-nippo.co.jp)

2025年7月6日日曜日

パーム・オイル

アブラヤシ畑
中国の黄河を初めて見たのは、イスラマバードから北京に向かう機上からのことでした。その雄大さ以上に、黄色い泥水に驚きました。長江も同様であり、日本の澄んだ水の川を見慣れた我々にとっては大いに違和感があります。日本の川は、流れが急で短いことから、ミネラルの混入が少なく、澄んだ軟水になるようです。当然のことながら、水の違いは、料理の違いを生みます。日本の出汁の文化は軟水がゆえに成立しており、あっさりとした味付けが多くなります。対して硬水の中国では、味付けが濃くなりがちで、かつ水ではなく高温の油で調理することが多くなるのだそうです。同じ中華文化圏ながら、台湾は軟水の国であり、味付けはあっさりとして日本人の口にもよく合います。

中国語で、””頑張れ”は「加油」となります。語源は、勉強中にランプが消えないように油を足すこととされます。また、加油は調理を意味し、しっかり食べてがんばれということだとする説もあるようです。油は調理に欠かせないものになっているわけです。1970年代末から、日本では烏龍茶ブームが起こりました。人気絶頂だったピンクレディーが健康のために烏龍茶を飲んでいると発言したことがきっかけだったとされます。油を使った料理が多いわりには太った中国人が少ないのは、食事の際に烏龍茶を大量に飲むからだ、というわけです。確かに、烏龍茶のポリフェノールには、脂肪の吸収を抑制する効果があるようです。さはさりながら、当時の中国人が太っていなかった最大の理由は、一人当たりGDPがまだまだ低かったからだと思います。

開発途上国では、当然のことながら、経済成長とともに供給カロリーが上がっていきます。1960年台はじめの中国における一人当り一日当りの供給カロリーは、1500Kcalに満たなかったようです。干ばつと大躍進運動がもたらした”3年大飢饉”の影響が長引いたことも背景にあるのでしょう。それが、1970年代末の改革開放後には、急激な増加に転じます。2022年には3500Kcalに迫り、世界トップ5にランクインしています。近年多く見かける中国人旅行者には小太りな人が多いように思います。ちなみに、供給カロリーも肥満率も世界トップに君臨するのはアメリカです。かつて、アメリカの供給カロリーは、欧州各国と比して相対的に低い水準にありました。それが増加に転じたのは、1980年代のことであり、1990年代には世界トップに踊り出ます。

アメリカ人の肥満の原因は、ジャンク・フードにあると言われます。それもそのとおりだとは思いますが、ジャンク・フードは80年代に至ってはじめて普及したわけではありません。アメリカの供給カロリーが増加に転じたのは、ジャンク・フードや冷凍食品にパーム・オイルとコーン・シロップが多用されるようになったからだとされます。アブラヤシからとれるパーム・オイルは、調理用だけでなく、マーガリン、菓子類、インスタント食品などの加工食品用で多用され、石鹸やバイオ燃料にも使われています。その生産量も消費量も、植物油のなかでは、大豆油、菜種油を抑えてトップです。アブラヤシの原産は東アフリカですが、栽培が始まったのは19世紀のインドネシアとされます。オランダ人が種を持ち込み、栽培を始めたわけです。

マレーシアで驚いたことの一つは、どこへ行ってもアブラヤシ畑だらけだということです。マレーシアは、インドネシアに次ぐパーム・オイルの生産国であり、この2ヶ国が世界の生産量の8割を占めます。かつて、マレーシアはゴム園だらけだったようですが、1960年代からアブラヤシへの転換が始まりました。そのころからパーム・オイルの生産・消費が拡大し、急成長を続けてきました。パーム・オイルが植物油のトップ・シェアになったとは言え、調理用油としては、アメリカ、南米、中国では大豆油、欧州や日本では菜種油が、依然、主流です。つまり、パーム・オイルは、調理ではなく加工分野でシェアを急拡大してきたわけです。パーム・オイルは、動物性脂肪と同じく飽和脂肪酸が多く、肥満や生活習慣病への悪影響が懸念されています。また、自然破壊や労働問題も指摘されています。しかし、安価で使い勝手のよいパーム・オイルは、生産、消費ともに拡大を続けています。(写真出典:sustainablejapan.jp)

2025年7月4日金曜日

三十年の馬鹿騒ぎ

邦画好きの知人の勧めで深作欣二監督の「仁義の墓場」(1975)を見ました。興行的には振わなかったものの、ジワジワと評価を高め、キネマ旬報「オールタイムベスト・ベスト100」日本映画編(1999年版)では38位に選ばれています。ちなみに深作欣二の「仁義なき戦い」(1973)は第8位に選出されています。当時、仁義なき戦いに熱狂したにも関わらず、なぜ、この映画を見ていなかったか不思議に思いました。要は、仁義なき戦いシリーズのマンネリ化に嫌気が差して、実録やくざ物からも、深作欣二からも遠ざかっていた頃だったのです。主演は、潰れた日活から東映に移った渡哲也ですが、実録やくざ物には不向きであり、かつ、流行だからといって、あわてて実録ものに出演する姿勢も気に入らなかったと記憶します。

映画は、敗戦直後の新宿で名を馳せたやくざ石川力夫の短い半生を描いています。石川力夫は、水戸の出身で、10代で新宿に出て、南口の闇市を仕切っていた和田組に身を寄せます。20歳で、親分を切りつけて、収監され、かつ破門、処払い10年という制裁を受けます。大阪に身を潜めますが、この間に麻薬中毒になっています。1年半で、兄弟分を頼って新宿に舞い戻りますが、世話になったその兄弟分を殺害します。府中刑務所に収監中、屋上から飛び降り自殺しています。享年30歳でした。独房の壁には「大笑い 三十年の馬鹿騒ぎ」という辞世の句が残されていました。親分や兄弟分に刃物を向けることなどやくざ社会ではあり得ないことです。石川は、掟という伝統に徹底的に背いた反逆者として知られているようです。

仁義なき戦いは、行き場のない復員兵という構図に、組織対組織、組織対個人という普遍性の高いテーマを重ねていました。また、東映内部で言えば、マンネリ化した着流しやくざものからの脱却という背景も持っていました。仁義の墓場では、ひたすら石川力夫個人がフォーカスされています。組織対個人という構図も、死に場所を求める戦中派の苦悩という背景も、深掘りされることがありません。石川の抱える心の闇をえぐることもなく、石川の狂犬ぶりだけが淡々と描かれます。それだけに、その殺伐とした人生の凄みが、ジワジワと見る側の心にしみわたってきます。見終わってみれば、他の映画では、なかなか感じられないほどの重く暗い印象が残り、かつ持続します。ゆえに実録やくざ物の極北と呼ばれるのでしょうが、嫌な後味が残る映画とも言えます。

映画は、幼少期の石川を知る人々のインタビュー音声で始まります。従来の実録物にはなかったアプローチであり、この映画の性格を物語っています。闇市や出入りのシーンでは、深作欣二得意の群衆シーンが繰り広げられます。これが実録物がマンネリ化した要因でもあります。渡哲也は、やはり狂犬役は似合いません。若衆の割には代貸クラスにしか見えません。ところが、映画の後半、麻薬中毒になってからの芝居は鬼気迫るものがあります。持病が悪化し、点滴を打ちながらの過酷な撮影だったことが映像にも現れています。それでも、石川力夫の半生を描くなら、別の俳優がよかったと思います。当時の東映のスター・システムでは、渡哲也ありきでしか映画は撮れなかったのでしょう。売出中とは言え、生活感のない多岐川裕美もミスキャストだと思います。

敗戦直後、新宿駅東口には、的屋の尾津組が、都内初にして最大の闇市「新宿マーケット」を開きます。最盛期には1,600店以上が出店していたと聞きます。「光は新宿から」というのが新宿マーケットのキャッチ・フレーズでした。不法占拠した土地での違法な商売だったわけですが、消費者だけでなく、生産者にとっても、まさに希望の光だったのでしょう。都内の主要駅には闇市が乱立しますが、経済復興とともに消えていきました。しかし、その痕跡は、今も各地に見ることができます。アメ横、新橋駅前ビル等が有名ですが、新宿ゴールデン街も新宿マーケットの強制移転から生まれた街です。闇市も、戦後ヤクザも、石川力夫も、皆、戦争が生み出した産物だったと言えます。(写真出典:amazon.co.jp)

2025年7月2日水曜日

ミネラル・ウォーター

20年ほど前、富山へ行ったおりに聞いた料亭旅館の女将の話が印象に残りました。富山の水は日本一です。にもかかわらず若者たちはコンビニでミネラル・ウォーターを買って飲んでいる。実になげかわしい、と言うのです。美味しさでは富山の水に負けるかもしれませんが、日本全国いずこでも、飲める水には事欠きません。かつて、水筒を持って出かけるのは、遠足か登山くらいのものでした。どこへ行っても、水が飲めたからです。それも水筒に入れたのは水道水でした。これほどの国は他にあまり無いと思います。にもかかわらず、昨今では、皆、わざわざミネラル・ウォーターを買って飲むようになりました。逆に言えば、”エスキモーに氷を売る”ような市場で成功を収めたミネラル・ウォーター業界のマーケティングは見事だったと言えます。

日本のミネラル・ウォーターの歴史は、1884年発売の炭酸水「鉱泉平野水」に始まるとされます。英国人科学者が、兵庫県平野の鉱泉が飲料に適していることを発見し、宮内省が炭酸水の御料工場を立ち上げます。払下げを受けた三菱が日本初の炭酸飲料として発売、それを引き継いだ明治屋が1885年に「三ツ矢印平野水」として売り出しています。三矢サイダーの始まりです。ちなみに、三ツ矢とは、源満仲が住吉大社の神託に従い三つ矢羽根の矢を放ち、矢の落ちた多田に城を構えたという伝承に由来します。多田も平野も現在の川西市にあります。ノンガスのミネラル・ウォーターは、1929年、富士急の堀内良平が、身延で湧出する水を「日本ヱビアン」として発売したのが始まりのようです。現在も富士ミネラルウォーターとして販売されています。

ミネラル・ウォーターの一般化は、1970年代に始まっています。日本のウィスキー・メーカーが売上を伸ばすために、和食にも合うとして”水割り”のキャンペーンを開始します。それまで、ウィスキーと言えば、その深い味わいを楽しむためにオン・ザ・ロックで飲むことが当然とされていました。今までも、ウィスキーの水割りはどこか邪道感が残っています。いずれにしても、水割りはキャンペーンの効果によって普及していきました。ただ、そこで問題となったのは、当時の水道水の品質の悪さです。要は、カルキ臭が強く、美味しくなかったわけです。そこでウィスキー・メーカーは、ミネラル・ウォーターの販売を開始することになりました。ただし、あくまでも業務用であり、一般家庭向けではありませんでした。

一般家庭向けミネラル・ウォーターは、1983年に発売されたハウス食品の「六甲のおいしい水」(現在はアサヒ飲料)に始まります。カレー・ルーを販売するハウスが、カレーに合う水として発売しています。いつの頃からか、日本では、カレー・ライスと言えばコップに入った水が付き物でした。恐らく、カレーは辛い、辛いものには水というイメージがそうさせたのだと思います。実際には、辛いものを食べて水を飲むと辛さが口中に広がるだけなのですが。かつて、大衆食堂等でカレー・ライスを注文すると、スプーンが水のコップに入れられて出てきたものです。スプーンがコップに入っていない場合でも、一度、水につけてから使うおじさんたちが多かったように記憶します。ところが、口が肥えてくると、ここでもカルキ臭い水道水が問題とされたわけです。

猛暑や水質問題等を背景に、ミネラル・ウォーターは順調に普及していきます。1996年、環境問題から禁止されていた500mlのペットボトルでの飲料販売が解禁されます。これが市場の急拡大の大きな契機になりました。1980年代以降、急拡大していた飲料の自動販売機も追い風となります。当時、飲料メーカーに聞いた話ですが、売上は自販機の設置台数に応じるとまで言っていました。激しい競争の結果、至る所に自販機が設置されていたものです。ただ、世界最大の自販機大国とも言われる日本ですが、2000年をピークに台数は大幅に減少しています。そもそも設置台数が過剰だったことに加え、少子化の影響が大きいとされます。ただ、その後も、ミネラル・ウォーターの売上は、災害対策としての備蓄、猛暑の際の熱中症対策などを背景に伸び続けています。(写真出典:asahiinryo.co.jp)

百年の孤独(配信シリーズ)