2025年7月20日日曜日

天津甘栗

シナは、古代インドで”秦”を意味する言葉でしたが、それが東西に広がり、欧州ではチャイナ、シーナ、シーヌとなり、日本では”支那” と当て字をして、いずれも中国を指す言葉になりました。江戸期に定着した支那ですが、”支”という漢字が”本流から枝分かれした”という意味を持つので、中国では嫌がられていたようです。日中戦争時、中国を侮蔑する言葉として使われたため、敗戦後、外務省が使用自粛を打ち出します。以降、支那そばは、中華そば、ラーメンと呼ばれることになります。しかし、私の子供時分には、まだ支那そばの方が一般的でしたが、1972年の日中国交回復以降は見事に消えていきました。ただ、カタカナの”シナ”は別だったようです。その一つの例が中国原産の栗”シナグリ”です。

シナグリは正式名称です。和種であるニホングリより小粒ながら、渋皮が実にくっつきにくいとされます。その特性を活かしたのが”天津甘栗”ということになります。栗を麦芽糖と砂や小石と一緒に焼くスタイルの糖炒栗子は、宋代に流行したようです。実は、この焼き栗、今も中国では糖炒栗子と呼ばれ、親しまれているようです。これが日本に渡り、天津甘栗となるわけですが、天津甘栗という名称は日本にしかありません。すぐに思い出すのが日本独特の中華料理”天津飯”です。天津飯の由来は諸説ありますが、天津甘栗の場合、その歴史は比較的はっきりしています。1898年、藤田留吉が大阪の黒門市場で露天販売を始め、後に千日前楽天地に「樂天軒本店」を開きます。お馴染みの赤い袋も樂天軒本店から始まっているようです。

ほぼ同時期に、東京の金升屋、甘栗太郎、京都の林万昌堂等も創業しています。各店の創業者たちは、中国で食べた糖炒栗子に感動し、日本で商売にしようと考えたようです。各店とも、栗は中国からシナグリを輸入していました。中国の栗の名産地は河北省らしいのですが、日本へは天津港から輸出されます。よって天津甘栗と命名されたようです。日本には、名称に天津や南京が付くものが多くありますが、必ずしも原産地を示すものではなく、単に中国産、あるいは中国由来であることを表している場合がほとんどです。カボチャの別名である南京やピーナッツの南京豆なども典型です。いずれにしても、天津甘栗はヒットし、全国に広がっていったようですが、その背景には、日清戦争以降、日本人の目が大陸に向かっていたことが挙げられると思います、。

日本は、縄文時代から栗を食べてきた国です。栗を使った和菓子も、栗きんとん(栗金飩と栗金団)、栗羊羹、栗まんじゅう、栗最中等々、数多く存在します。その中で、新参にも関わらず、天津甘栗が普及してきたことは驚きとも言えます。強いて言えば、和菓子の多くは栗の加工品であり、天津甘栗は栗そのものを食べるという違いがあります。日本にも、家庭で作るゆで栗や蒸し栗があります。ただ、調理には時間がかかります。手軽に剥いて食べられる天津甘栗は、いいポジションを得たと言えるのでしょう。さはさりながら、気になることがあります。日清戦争の勝利は、日本国と日本人に大きな変化をもたらします。国家、国民という認識が生まれ、後の軍国主義へとつながります。そして、国民は、それまで上に見ていた中国を見下すようになったのです。

天津甘栗のヒットは、国民の間に生まれた中国への差別意識と関わっているのではないかと思います。下関条約で、清から台湾と遼東半島の割譲を受けた日本は、あたかも中国全体が属国であるかのような錯覚を持つに至ったのでしょう。天津甘栗は、その象徴として、国粋主義的な意識を満足させるものだったのではないかと想像します。それは極端に過ぎるとしても、少なくとも、天津甘栗のヒットは、中国を下に見るという新たな傾向を反映していたように思えます。天津甘栗の甘さは、戦勝国として、近代化を成し遂げた国としての奢りだったとも言えそうです。最近、相撲観戦時、お茶屋の土産として天津甘栗を指定し、食べています。美味しいのですが、困ったことに、食べ始めるとなかなか止められません。(写真出典:amazon.co.jp)

玄冶店