大岡越前守忠相は実在の人物であり、確かに江戸町奉行を20年に渡り務めています。お裁きの記録も残されていたようですが、ほとんどは関東大震災で焼失し、業務日誌である「大岡日記」だけが残ったようです。江戸町奉行は、江戸の行政と司法を担当します。今なら都庁と警視庁と東京高裁が一つになったようなものです。大岡越前守が町奉行を務めたのは、18世紀、8代将軍吉宗が享保の改革を進めた時代のことでした。大岡越前守も、町奉行として、実に多くの政策を実行しています。行政改革、消防体制確立、小石川養生所設置、飢饉対策としてのサツマイモ栽培奨励、物価対策、賭博の取締強化等々の諸策は、庶民からも評判が良く、名奉行として知られていたようです。だからこそ、大岡政談も成立したわけです。
大岡政談は、大岡越前守の名裁きを題材とする講談、落語、芝居、読み本等の総称ですが、18世紀後半から幕末にかけて大流行します。明治以降は、やや下火になったものの、寄席では講談や落語の人気演目であり続けます。映画も数本撮られています。林不忘の「新版大岡越前」(1928)や吉川英治の「大岡越前」(1950)といった小説もベストセラーになっています。そして、20世紀後半、TV時代劇「大岡越前」のヒットで、越前の名は一層広く知られることになりました。TBSの目玉番組だった「大岡越前」は、1970~1999年の30年間、2006年のスペシャルを含めれば36年間に渡り放送されました。水戸黄門の42年間には及ばないものの、TV時代劇の代表格と言えます。何度か主役が変わった水戸黄門と異なり、大岡越前は加藤剛が演じ続けました。
水元の古刹南蔵院は”縛られ地蔵”で有名です。願をかける人が地蔵に縄を結び、願が叶えば縄を解きます。その由来には大岡越前が登場します。日本橋の呉服屋の手代が南蔵院の門前で昼寝をした隙に、大八車ごと反物を盗まれます。調べにあたった大岡越前は、泥棒を見過ごした門前の地蔵も同罪なり、召し捕って参れと命じます。南町奉行所のお白洲に引き出された地蔵を一目見ようと野次馬が押し寄せます。すると大岡越前は、門を閉め、天下のお白州に乱入するとは不届千万、罰として反物一反の科料を申しつけると言い放ちます。奉行所には反物の山ができ、その中から手代が盗品を見つけ出し、たどりにたどって大盗賊団が一網打尽となります。越前は地蔵の霊験に感謝し、立派なお堂を建立し盛大な縄解き供養を行います。
実在した人物を題材とする創作ものが人気を得ると、史実と創作の境が曖昧になってくるものです。それにしても、古刹が地蔵の由来として大岡政談を語るというのは、さすがに希な例だと思います。講談の演目にも「縛られ地蔵」があります。講談では、呉服屋は越後屋とされ、その主人も登場します。また、手代の友人も登場します。また、野次馬は奉行所になだれ込んだのではなく、大岡越前が一般公開にして町人を集め、地蔵への裁きに笑った野次馬たちを召し捕ったとされています。南蔵院が、参拝客を増やしたくて、大岡政談を由来にしたというのなら理解できる話です。ただ、大岡政談が、南蔵院の縛られ地蔵にヒントを得て創作されたのだとすれば、縛られ地蔵の本当の由来は何だったのか気になるところです。(写真出典:amazon.co.jp)