2025年8月1日金曜日

玄冶店

30年前、人形町の老舗料亭「玄冶店 濱田家」で会食したことがあります。政治がらみの宴席で、有名な久松はじめ芳町芸者もあげての宴席でした。店名につく”玄冶店(げんやだな)” の意味が分からず、こっそり仲居さんに聞いたことを覚えています。江戸初期、将軍家の御典医を務めた岡本玄冶が、幕府から拝領した土地に借家を建てて貸したことから、玄冶店と呼ばれるようになったとのことでした。今も人形町通りに面して「史跡 玄冶店」という石碑が立っています。店(たな)とは借家のことであり、借主やテナントを店子と呼ぶ習慣も残っています。それにしても、借家の通称が地名化し、長く残るなど、極めて希な話です。そして、その背景には歌舞伎の当たり狂言の存在がありました。

歌舞伎の人気演目「与話情浮名横櫛」、通称「切られ与三郎」は、1853年に初演された世話物の名作です。その三幕目に名台詞で知られる”鎌倉源氏店妾宅の場”があります。当時、歌舞伎では実名の使用が禁じられていたので、玄冶店を鎌倉源氏店に変えて上演されました。江戸の大店の若旦那の与三郎は、身を持ち崩し、木更津の親戚に預けられています。与三郎は浜でお富と出会い、相思相愛の仲となります。しかし、お富は土地の親分・源左衛門の妾だったため、与三郎はめった斬りにされ、お富は追われて入水します。しかし、二人は、なんとか生き延びており、与三郎は34ヶ所におよぶ刀傷をウリにする無頼漢に、お富は入水した海で助けてくれた商人の妾として玄冶店に囲われ、それぞれ暮らしています。

三年後のある日、与三郎は、さる妾宅へ強請に入ります。そこに居たのはお富でした。片時も忘れたことのない愛しさ、そして再び妾になっていることへの怒りが与三郎の胸中で交錯します。そうした複雑な思いを表すのが「御新造さんぇ、おかみさんぇ、お富さんぇ、いやさ、これ、お富、久しぶりだなぁ」に始まる名台詞です。この七五調のキレの良い台詞回しが江戸っ子のハートを掴んだのでしょう。与三郎・お富の話は、何度か映画化もされています。また、1954年に春日八郎が歌った「お富さん」も大ヒットしています。その歌詞は「粋な黒塀 見越しの松に 仇な姿の 洗い髪 死んだ筈だよ お富さん 生きていたとは お釈迦さまでも 知らぬ仏の お富さん エーサオー 玄冶店」と、江戸好みの調子の良いものでした。

東京で、人形の街と言えば、久月、吉徳といった老舗が並ぶ浅草橋です。と言っても、浅草橋は様々な問屋が並ぶ街であり、決して人形専門の街ではありません。一方、人形町は、名前と異なり人形屋が全くありません。江戸初期、このあたりには花街の吉原がありました。ところが、明暦の大火後、幕府は吉原遊廓を日本堤へ移転させます。その後、人形町には、芝居小屋や浄瑠璃小屋、そして私娼窟や陰間茶屋が並ぶことになります。周辺には浄瑠璃の人形師たちも多く住むようになり、人形町と呼ばれるようになったのだそうです。人形町界隈は、現代風に言えば繁華街であり、歌舞伎町といった風情だったのでしょう。ちなみに、歌舞伎町は、戦後、歌舞伎の劇場建設計画があり、町名にもなりました。ただし、実際には建設されず、町名だけが残りました。

人形町には、今も名店が多く残ります。濱田屋、人形町今半、重盛永信堂、高嶋家、志乃多寿司、日山、玉ひで、双葉、おが和等々、枚挙に暇がありません。甘酒横丁を浜町へと進むと、新派の明治座があります。新派の代表作の一つに川口松太郎の「明治一代女」があります。美人で気風が良いと評判だった芸者・花井お梅が、1887年、浜町河岸で実際に起こした殺人事件がモティーフとなっています。事件を起こした時、お梅は浜町で待合(貸席)を経営していました。事件現場で事件に基づく芝居が上演されているわけで、なんとも不思議な話です。いずれにしても、人形町、浜町界隈は、その賑わいを失ったとは言え、繁華街だった往時の残り香をしっかり残していると言えそうです。(写真出典:intojapanwaraku.com)

玄冶店