2025年8月10日日曜日

槍は、敵を突いて刺す武器です。ところが、戦国時代の足軽たちは、合戦に際して、まずは敵を槍で叩くことから始めていたと聞き、驚きました。その威力は、直撃すれば兜を打ち砕くほど強力だったといいます。突いて刺すのは、さらに敵と接近してからだったようです。大雑把に言えば、鎌倉時代までの合戦は武士同士の一騎打ちが中心だったわけですが、応仁の乱以降の合戦は大規模化し、足軽中心の集団戦へと変化します。そのなかで、修練しなくても扱いやすい槍が足軽の武器となります。また、槍は、足軽でも騎馬の武士に挑むことを可能にしました。さらに槍兵を隙間なく並べて作る「槍衾(やりぶすま)」や敵の側面を槍兵で崩すといった集団戦術も生み出します。

槍は、先史時代から、狩猟用具として、武器として世界中で使われてきました。日本では、弥生時代に青銅が伝わり、銅剣、銅矛、銅戈といった武器も生まれます。この頃は、槍ではなく矛がメインだったようです。矛は、槍に比べて、幅広で両刃の穂先を持つ刺・斬両用の武器です。矛の柄はソケット式、槍の柄は茎(なかご)を差し込んで固定するという違いもあるようです。古代は、片手に矛、一方に盾を持って戦っていたようです。古墳時代、鉄器が普及すると、武器としての矛は鉄太刀に変わっていきます。平安期には、太刀に加えて、薙刀が主流になります。古代の武器は、冶金技術の高度化、合戦の戦術の変化、甲冑の進化などと呼応しながら、変わっていくわけです。ちなみに、甲冑が進化することによって、盾は廃れていきました。

戦国時代の合戦における主な武器は、弓、槍、太刀でした。鉄砲も登場していたわけですが、数も少なく、装填に時間が掛かることもあり、主役とまではいかなかったようです。集団戦化ともに普及した槍ですが、必ずしも足軽専用の武器というわけではありません。戦場における威力からして、武士たちも槍で戦うようになります。太刀の出番がなくなるほどだったようです。恐らく強化された甲冑を考えれば、太刀では跳ね返され、槍ならば突き刺すことも可能だったということなのでしょう。槍の弱点は、密集した近接戦において柄の長さが邪魔になるということですが、四畳半での一騎打ちでもない限り、屋外ではさほど問題になることもなかったのでしょう。武士が槍を使うようになると、武芸としての槍の流派も生まれてきます。

江戸初期にかけて、多くの流派が創設されたようですが、その後、勢いを失ってきいきます。主要な武器としての気位が高く、伝統と形式にこだわりすぎたためとされています。江戸後期になると、防具も登場し、他流試合も行われ、より実践的な姿を取り戻した槍術は息を吹き返します。ただ、明治になると、他の武芸と同様に廃れていきます。戦の形も様変わりし、何よりも武士がいなくなったわけですから、止むなしといったところです。それでも、剣術は、剣道として体育の授業に採用されたこともあり、生き延びます。長大な道具ゆえ体育には不向きだった槍術は消えていきます。もちろん、今でも、宝蔵院流高田派などいくつかの流派は活動を続けています。槍は、戦場における実用性の高さゆえ、平時には廃れていって当然だったのかもしれません。

幕末、江戸城の無血開城によって、江戸の町と多くの人命を救ったのは勝海舟と西郷隆盛だとされます。当時、幕府側にはフランス、新政府側には英国がついており、混乱に乗じて日本を植民地化する計画を持っていたとされます。無血開城によって、植民地化のリスクも回避されたわけです。しかし、無血開城は勝海舟の手柄ではなく、徳川慶喜を説得した高橋泥舟、勝海舟に先立って西郷と折衝した山岡鉄舟の手柄であるという説もあります。幕末の三舟とも言われる3人ですが、泥舟は、槍術の名門である自得院流宗家に生まれ、達人の呼び声高い人でした。そして、鉄舟は入り婿として自得院流宗家を継いだ使い手でした。両者とも、実に肝の据わった典型的サムライだったとされます。まさにラスト・サムライとも言える二人が、共に槍の達人だったことは、槍という武器の実践的な性格からして、頷けるところがあります。(写真出典:sankei.com)

上野の西郷さん