2025年6月30日月曜日

式子内親王

別府八湯の一つ観海寺温泉街は、高台から見下ろす別府湾と温泉街の景色が自慢です。そこに観海禅寺という小さな寺院があり、境内に式子内親王の墓なるものがあります。しかし、歌人としても知られる式子内親王は、1201年、都で病死したことが複数の資料から確認できているようです。 全国には、このように、高名な人の墓が、史実とは一致しない場所にあるという現象がまま見られます。なぜそうなったのかはよく分かりません。想像するに、高名な人に仕えていた人が地方に流れ、雇い主の名をかたったか、あるいは土地の人々が簡便的に雇い主の名で呼ぶようになったのかもしれません。大昔の都と地方の距離感からすれば、あり得る話ではないかと思います。

式子内親王は、1149年、後白河天皇の第3皇女として生まれています。母は高倉三位と呼ばれた藤原成子です。同母兄弟には高倉宮以仁王、異母兄弟には高倉天皇がいます。幼い頃から、賀茂神社の斎宮を務め、新古今和歌集はじめ多くの勅撰和歌集、あるいは百人一首にその歌を残す歌人としても知られます。内親王は、高名な歌人であると同時に、その私生活に関しても、いくつかのエピソードでよく知られています。最も有名なのは、金春禅竹が能楽「定家」に描いた藤原定家との忍ぶ恋なのでしょう。同曲にも登場しますが、つる性常緑低木である定家葛の名の由来も不思議な話です。定家葛という名称は、俗称ではなく正式な和名です。死後も内親王を忘れられない定家が葛に生まれ変わって彼女の墓にからみついたというのです。

二人の恋愛関係に関する確たる証拠はありません。式子内親王は、和歌を藤原俊成に師事しています。俊成の次男が定家です。定家が内親王家に出入りしていたことは、彼の日記からも明らかです。忍ぶ恋とは、後世の人たちが、歌や日記から膨らませた妄想とも言われます。実は、式子内親王と慈円との恋愛という話も有名です。慈円は、摂政関白・藤原忠通の子であり、天台座主として、歌人として、あるいは「愚管抄」の作者として知られます。やはり二人の関係を示す証跡はないものの、二人の歌から読み取れるというわけです。さらに、式子内親王は浄土宗の開祖である法然に心を寄せていたという説もあるようです。後白河天皇の娘、独身、資産家、歌人とくれば、超がつくほどのセレブリティであり、浮名が絶えないとしても不思議はないと思います。

内親王とは天皇の直系女子を指します。かつて、内親王は、臣下の者に嫁ぐことなどあり得ず、嫁ぐとすれば天皇か皇太子のみでした。従って、ほとんどの内親王は独身のまま生涯を終えるか仏門に入りました。また、内親王は、天皇家一族から遺産を相続し、多くの荘園を持つ資産家でもあったようです。天皇家としては、一代限りの資産分与なので財産が外に流出する恐れがなかったわけです。内親王は、庶民が様々な妄想をかき立てずにはいられないセレブだったのでしょう。例え、実際に臣下と恋愛関係になったとしても、超国家機密扱いであり、文献など残るわけもありません。ましてや、神に仕える斎王という立場になれば、なおのことです。残された和歌が証拠だという説も多いのですが、現代人の感性で理解するのはどうかと思います。一流の歌人ともなれば、恋愛の歌など、事実の裏打ちなどなくても巧みに詠むのではないでしょうか。

式子内親王が生きたのは、父である後白河天皇が巻き起こした激動の時代です。浮き沈みの激しかった父親の影響を相当に受けていたはずですが、内親王に関しては、和歌と忍ぶ恋の話だけが知られています。女性ゆえ記録が少ないのかもしれません。事件と言えば、身を寄せていた八条院の主である暲子内親王とその姫宮に対する呪詛の嫌疑をかけられています。八条院を出ざるを得なくなった式子内親王は、そのまま出家しています。 亡き後白河院からお告げがあったとする橘兼仲夫婦の妖言事件に連座し、流刑寸前になったこともあるようです。どうも、父親に似て、お淑やかなばかりの内親王ではなかったように思えます。事件の都度、内親王に仕える者が身替りとして罰を受け、流刑になっていたとしても不思議はありません。そのうちの一人が別府に流れ着き、観海禅寺に身を寄せていたのかもしれません。(写真出典:ja.wikipedia.org)

2025年6月28日土曜日

梁盤秘抄#37 : Chapter One :Latin America

アルバム名:Chapter One: Latin America (1973)                                 アーティスト:Gato Barbieri

アルゼンチン出身のテナー・サックス奏者ガトー・バルビエリは、1960年代、ローマやNYを拠点に、フリー・ジャズを演奏していました。ところが、1970年代に入ると、自らのルーツであるラテン音楽を取り入れた演奏スタイルに変わっていきます。彼の名前が世界中に知られるきっかけとなったのは、ベルナルド・ベルトルッチ監督の話題作「ラスト・タンゴ・イン・パリ」(1972)の音楽を担当したことでした。メランコリックなタンゴであるテーマ曲は大ヒットし、グラミー賞も獲得しました。以降、ジャズ・ファンの多くは、彼をイージー・リスニング系のジャズ奏者と捉え、軽く見る傾向が生まれました。しかし、必ずしも、それだけではなかったように思います。

いわゆるラテン・ジャズは、ほぼほぼアフロ・キューバン・ジャズを指します。キューバ発祥の強いリズムとコンガやボンゴといったパーカッションを使ったジャズです。ガトー・バルビエリの音楽は、タンゴやフォークロアをベースとしたジャズであり、まったくの別物です。アストル・ピアソラの”リベルタンゴ”は、タンゴではないタンゴとも呼ばれます。ガトー・バルビエリの場合、タンゴのリズムを用いていない場合でも、そのフリー・ジャズ的なブローのなかにメランコリックなタンゴ・テイストを感じます。やはり、タンゴではないタンゴといえるかもしれません。しかし、1970年代後半からは、明らかにポップな演奏へと変わっていきました。1976年には、カルロス・サンタナの”Europa”をカバーしてヒットさせています。

ガトー・バルビエリが選択したタンゴやフォークロア路線からすれば、ポップ化は当然の成り行きだったようにも思います。それだけに、1970年代前半のフリー・ジャズとアルゼンチン音楽の融合という試みは新鮮であり、貴重だったと思います。1971年にスイスのモントルー・ジャズ・フェスティバルで録音された「El Pampero」のなかの一曲「Mi Buenos Aires Querido(わが懐かしのブエノスアイレス)」は、その典型的演奏だったと思います。この曲は、1930年代にヒットしたスタンダードです。国外にいるアルゼンチン人がブエノスアイレスを懐かしむという曲ですが、NYで長くフリー・ジャズの活動をしていたガトー・バルビエリの心情、その後の音楽的指向を端的に表した演奏だったと思います。

ガトー・バルビエリは、ジョン・コルトレーンを崇拝し、追随していました。この頃のガトー・バルビエリの演奏は、コルトレーンの「クル・セ・ママ」の影響下にあったように思います。ラスト・タンゴ・イン・パリを経て、Chapter Oneにたどりつくと、クル・セ・ママを超えた独自の境地が展開されます。このアルバムがヒットした理由はそこにあると思います。もはやジャズではないとの批判もありました。確かにオーセンティックなモダン・ジャズとは大いにかけ離れていますが、ジャズの新しい地平線を見せてくれていたとは思うわけです。1972年には、チック・コリアが大ヒット作となった「リターン・トゥ・フォーエバー」をリリースしています。時代は、新天地を求めてフュージョンの世界に入っていたわけです。ガトー・バルビエリの音楽も、幅広に言えば、フュージョンの一種だったのでしょう。(写真出典:music.apple.com)

2025年6月26日木曜日

毒婦

Netflix製作のスペイン映画「ヴュ-ダ・ネグロ」 (原題:La viuda negra、英題:A Widow's Game)を観ました。2017年、バレンシアで発生した事件をほぼ忠実に再現した映画です。俳優たちはなかなかの熱演でしたが、脚本が残念な出来であり、映画としては評価できるような代物ではありませんでした。それでも実際に起きた事件が興味深いものだったので、飽きずに観ました。宗教的に厳格な家庭に育ったマへは、性的に奔放な女性になります。男性関係を隠して結婚したマへは、夫に浮気がバレ、浮気相手の一人である真面目な中年男をそそのかして、夫を殺害します。手がかりの薄い事件でしたが、バレンシア警察は盗聴によって事件をあばき、二人を逮捕します。マへの嘘で固めた人生が興味深く、主演女優の演技も見事でした。

原題は、スペイン語で黒い蜘蛛を意味します。内容にピッタリ合ういいタイトルだと思います。ただ、19世紀にイェレミアス・ゴットヘルフが書いた小説「黒い蜘蛛」があるので、止むなくこの邦題や英題が決まったのでしょう。映画を観ていて、思い出したのが”毒婦”という言葉です。毒婦と言えば高橋お伝、高橋お伝と言えば毒婦ですが、若い人たちはまったく知らないと思います。高橋お伝が殺人を犯したのは明治初期のことです。読み物まがいの新聞報道が過熱し、仮名垣魯文の小説はじめ、歌舞伎、浪曲のテーマとなり、映画も幾本か撮られています。私ですら名前を知っているくらいですから、百年経っても有名だったわけです。ただ、名前は知っていても、有名になった背景までは考えたこともありませんでした。

高橋お伝は、群馬県みなかみ町の生まれ。同郷の者と結婚し、ハンセン氏病を罹患した夫ともに横浜に出ます。ただ、看病の甲斐もなく夫は病死、以降、新富町で男と同棲します。お伝には借金があり、その返済を迫られます。知人の古着屋に用立てを頼むと、一晩付き合ってくれたら、貸さぬでもない、と言われます。背に腹は代えられないお伝は一夜を共にしますが、古着屋は金を出そうとしません。怒ったお伝は古着屋を殺害し、金を奪います。現場には、姉の仇を討ったという書き置きが残されていました。お伝は、ほどなく逮捕されますが、姉の仇を討った、古着屋が自殺したなどと虚偽の供述します。しかし、物的証拠によって犯行が明らかになり、1879年、斬首刑に処されています。ちなみに、斬首刑は、1882年まで行われていました。

もちろん、陰惨な事件ではありますが、世の中を騒がせ、後世まで語り伝えられるほどの事件とは思えません。大きな反響を呼ぶことになった最大の要因は、新聞の存在だったのではないかと思います。江戸期にも、木版のかわら版が人気を博していたわけですが、明治になると活版印刷機が導入され、1870年には、日本初の日刊紙「横浜毎日新聞」が発刊されています。新聞は、ほどなく政治を論じる“大新聞”と娯楽を主とする”小新聞”に分化します。読売や朝日も小新聞の系譜と言えます。発刊まもない小新聞にとって、高橋お伝は、格好のネタとなったわけです。かわら版さながらの扇情的な記事が踊り、憶測も含めた報道がエスカレートしていったものと思われます。高橋お伝に関する報道は、今に続く日本のマスコミの本質を形成したと言えるかもしれません。

実態を超えて社会現象化した高橋お伝の事件ですが、マスコミが煽ったというだけでなく、庶民の心情に訴えるものもあったのではないかと思います。明治初期、新政府は近代化を急ぎますが、一方で、激変する社会に翻弄された庶民の戸惑いと気苦労は半端なかったと思います。読み物風の新聞記事は、いい憂さ晴らしになった面もあるのでしょう。そして、それ以上に、庶民は、お伝に我が身を見る思いがあったのではないかと思うのです。お伝は、毒婦として、多淫・多情・強欲と散々に批判されましたが、都市に流れ込み、都市に飲み込まれてしまった田舎者という庶民の典型でもあったわけです。加えて、庶民は、明治維新による混乱とストレスに翻弄される我が身を重ねていたのではないでしょうか。まるっきり他人事というわけでもなかったわけです。(写真出典:meiji.bakumatsu.org)

2025年6月24日火曜日

ミールス

麹町の「純印度料理 アジャンタ」は、何を食べても美味しい名店です。チャンドラ・ボースのもとで、兄とともにインド独立運動に参加していたジャヤ・ムールティーが、1957年に阿佐ヶ谷に開いたのがアジャンタの始まりでした。1949年開業のナイル・レストランの初代ナイルさんも、ビハリ・ボースとともにインド独立運動を戦った闘士でした。インド独立運動が日本にインド料理を広めたというわけです。アジャンタは、1961年、九段下に移転します。当時、南インド料理と銘打っていたのアジャンタだけだったと思います。美味しいのですが、とにかく辛いという印象でした。1985年には現在の麹町へと移転。以降、辛さは角がとれていったように思います。こっちの舌が慣れてきたせいかもしれませんが。

インド料理店が、どこでも見かけるようになったのは1980年頃からではないかと思います。当時は北インド系がメインでした。南インド系を見かけるようになったのは2000年前後からでした。コンピューターの2000年問題、いわゆるY2Kに備えるために、バンガロールはじめ南インドからIT技術者が多く来日したことがきっかけだったとされます。南インド系料理店が増えると、一気にミールスの知名度が上がります。ミールスは、南インドのワン・プレート・スタイルの定食です。米と複数の副菜で構成され、本格的にはバナナの葉に乗せて提供されます。北インドにもターリーという定食がありますが、小麦文化の北部では米ではなくナンが中心になります。ちなみに、ターリーは大皿という意味ですが、ミールスとは英語のMealが転じた言葉だとされます。

ミールスの主食は米ですが、豆せんべいのパパドが添えられます。パパドは砕いて米の上に散らして食べます。副菜には数種類の料理が並びます。日によって異なったり、選択できる店もありますが、南インドの辛い味噌汁といった風情のサンバールは必ず付いてきます。豆スープのラッサムも添えられることが多いと思います。他の副菜は、様々ですが、おおむね野菜の煮込みが中心です。東京の場合、店によっては、肉系もありますが、南インドでは考えられないはずです。南インドに限らず、インドは、基本的には野菜中心の食事をとる国ですから。また、アチャールも添えられます。アチャールには、実に様々なスタイルがありますが、発酵させたインド風の漬物といったところです。そして、食後の口直しとしてのヨーグルトもミールスの定番です。

また、南インド料理と言えば、忘れてはいけないものにドーサがあります。米と豆の粉に水を加えて練り上げて発酵させた生地を薄く円形に伸ばして焼きます。見た目は巨大なクレープですが、焼き上がると、それを巻いて棒状にして供します。食感も含めて、大好きなのですが、結構、満腹になります。米が主食のミールスと一緒に食べると、明らかに食べ過ぎになります。インドは、フラット・ブレッド文化圏の国ですが、国が大きいだけに、その種類の多さには驚かされます。北インドでは、ナンをはじめ、無発酵のチャパティ、揚げたプーリーなどが代表だと思いますが、南インドになると、ドーサの他に、蒸しパンのようなイドゥリ、クロワッサン的なパロッタなどがあります。ナンに詰め物をしたクルチャの一種チーズ・クルチャは、一時期、東京でも流行しました。

クアラルンプールで食べたドライ・ラクサが気に入り、家で再現を試みています。味のポイントは、えびだしパウダー、カレー粉、ココナツミルク、そしてサンバル・ペーストだと思っています。サンバル・ペーストは、何種類かクアラルンプールのスーパーで仕入れてきました。基本的には、南インドのサンバール・パウダーと同じだと思ったのですが、サンバル・パウダーは見つけられませんでした。名前は似ていますが、どうも別物であり、マレーシアのサンバルにはパウダー・タイプというものは存在しないようです。酸味と辛味は、よく似ているように思いますが、インドのサンバールに対して、マレーシアのサンバルは、エビなども入れて発酵させた辛味調味料であり、より複雑な味がします。(写真出典:macaro-ni.jp)

2025年6月22日日曜日

バトル・オブ・ブリテン

スピットファイア
バトル・オブ・ブリテンは、1940年7月〜1941年5月、英国軍とナチス軍が英国上空で戦った空戦です。ことに、1940年9月から連続57日間続いた夜間空襲に始まり、翌年5月まで続いたロンドンへの大空襲は”ブリッツ”と呼ばれます。43,000人以上の市民が亡くなり、100万戸以上の家屋が破壊されました。延々と続く夜間空襲に、ロンドン市民は恐怖のどん底に突き落とされたわけです。にもかかわらず、ロンドン市民は、毎朝出勤し、店舗も営業を続け、夜にはパブに集い、サッカー、クリケット、鳩レース等を楽しんでいました。驚きとしか言いようのない冷静さです。これぞ不屈のジョンブル精神というわけです。それを否定するつもりはありませんが、それだけでは、なかなか納得できない面もあります。

欧州を席巻したヒトラーの最終目標はソヴィエト制圧でした。ただ、二正面作戦を回避するために、まずは英国を封じ込めておく必要がありました。英国に親近感を持ち、懐柔できると思っていたヒトラーは、和平を提案します。ところが、チャーチルがこれを拒否。ヒトラーは、英国本土上陸作戦を指示せざるを得なくなります。もともと英国侵攻はナチスの計画になく、装備も準備も不十分でした。陸戦に強いナチスでしたが、海軍力は乏しく、Uボートは窮余の策でした。当然、揚陸艦などあるわけもなく、大量のはしけをかき集めたようです。それだけに、上陸前に英国の制空権を確保することは必須でした。準備不足とは言え、当時、無敵と言われたドイツ空軍は、大量の爆撃機をもってドーバーを超え、空軍施設・港湾設備への空爆を開始します。

一方、ダンケルクから奇跡の脱出を果たした英国は、この日が来ることを想定し、レーダー網の敷設、迎撃機の量産などを進めていました。ナチスは、爆撃機の護衛として攻撃力に優れたメッサーシュミットBf109戦闘機を投入、英国側は機動性に優れたスピットファイア戦闘機で迎撃します。当初、撃墜率で上回ったナチスですが、航続距離に難があったメッサーシュミットの優位は薄れていきます。ナチスは、スピットファイアを避けるため、夜間爆撃に移行しますが、そもそも爆撃目標が曖昧であったことに加え、夜間では爆撃の精度が落ち、思うような効果は挙げられなかったようです。ヒトラーはロンドン空爆を禁止していましたが、誤爆が起こり、英国はベルリンへの報復爆撃を行います。これを受けて、9月7日、ナチスは本格的にロンドン爆撃を開始します。

英国では、9月15日が”バトル・オブ・ブリテン・デー”とされています。85年前のこの日、ロンドンは、ナチスの最大規模の攻撃を受けています。しかし、海を越えてきたナチス空軍は、全力で迎え撃った英空軍に蹴散らされます。この日が大きな分岐点となり、ナチスは英国上陸作戦に見切りをつけ、東部戦線、ソヴィエト侵攻へと結集していきます。ただ、後背の脅威である英国を牽制するために、ロンドンへの爆撃、Uボートによる海上補給路への攻撃は継続されました。ロンドンに爆撃が集中したことで、軍施設や工場は温存され、英国は工業生産力でナチスを打ち負かすことができたとも言われます。つまるところ、ナチスの敗因は、計画も準備も装備も不十分なまま、物量と勢いだけで迎撃準備万端の英国に攻め入ったことなのでしょう。

とは言え、ナチスは、英国をギリギリのところまで追い込んだとも言えます。ことに9月15日以前のロンドン市民に、余裕など無かったはずです。さはさりながら冷静さを保っていたわけです。かつて地上の1/4を制した大英帝国のプライドもあれば、世界一の海軍力に自信を持っていたとも言えます。あるいは、勢いのあるナチスと言えども、簡単にドーヴァーを越えることはできないという島国なりの確信があったのかもしれません。また、チャーチルへの信頼も大きな要素だったのでしょう。しかし、最も大きな要因の一つは、ドイツに対する軽蔑、差別意識だったのではないかと思います。戦力を過小評価するということではありません。チャーチルがドイツを「帝国の外である」、つまりローマ帝国外の野蛮人であると言った話は有名です。ちなみに、英語の”German”は、ゲルマン民族に由来します。(写真出典:en.wikipedia.org)

2025年6月20日金曜日

愛宕山

東京都の最高峰は、埼玉県、山梨県にまたがる雲取山、2017mです。日本百名山にも選ばれ、山頂からは、富士山、南アルプス、関東平野が一望できると言います。一方、23区内の最高峰と言えば、港区の愛宕山、25.7mです。東京は、西に武蔵野台地が広がり、東は埋立地を含む平地となっています。愛宕山は、小高い丘としては唯一の存在であり、明治中頃までは東京湾から房総半島まで見渡せたようです。江戸末期、愛宕山から撮ったパノラマ写真が残っていますが、実に見事な見晴らしです。山頂には、愛宕神社があります。1603年、徳川家康が、京都から愛宕権現を勧請し、創建されています。ちなみに、火伏せの神として知られる愛宕神社は、京都の愛宕神社を総本社に900社が存在しているようです。

愛宕神社の鳥居をくぐると、急な石段があります。この86段の石段は「出世の石段」として知られます。その謂れは愛宕権現とは無関係であり、三代将軍・家光に由縁します。1634年、増上寺参拝の帰り道、家光は愛宕山山頂に梅の花が咲いていることに気付きます。誰か、石段を馬にて上がり、梅を手折ってくる者はおらぬか、と随行する家臣に呼びかけます。数名が挑戦しますが、急な石段ゆえ登り切れません。そこへ名乗り出たのが、痩せこけた馬にまたがった讃岐丸亀藩の家臣・曲垣平九郎でした。平九郎は、馬に鞭を当てることなく、馬をいたわりつつ、馬のペースにまかせて石段を登り切り、梅を手折って戻ります。平九郎は馬の名手として知られることになり、大いに出世したとされます。これが出世の石段の謂れです。

曲垣平九郎の出世話は、講談「寛永三馬術」に語られ、大人気となります。馬術の名人三人が登場する長い話ですが、平九郎出世の下りは、梅花の誉れ、出世の春駒等と題され、独立的に語られることも多い話です。平九郎の後、石段を馬で駆け上がることに成功した者は、明治、大正、昭和の三代に一人づつ現れています。神社の境内では、4人の成功者が顕彰されています。また、曲垣平九郎が植えたという梅の木も残っています。2年毎の9月には、出世の石段祭が行われ、神輿が石段を登ります。また、愛宕神社は、江戸名物のほおづき市や羽子板市の発祥の地としても知られています。今はビルに囲まれてひっそりとした佇まいを見せる愛宕神社ですが、往時は、講談の影響もあって、江戸を代表する名所だったようです。

出世の石段で知られた愛宕山が、まったく別な顔を見せたのが、1925年7月のことでした。東京放送局、後のNHKが、日本初となるラジオの本放送を開始したのが愛宕山でした。電波塔を高く建てるにしても、小高い丘の上が好都合だったわけです。放送開始当時の契約受信者数は3,500件だったようです。恐らく都内中心部に集中していたのでしょうから、愛宕山ほど適した場所はなかったわけです。実は、ラジオ放送は、同年3月、芝浦の東京高等工芸学校の図書室から仮放送という形で開始されていました。従って、日本のラジオ放送始まりの地は愛宕山ではなく芝浦とされているようです。それでも、NHKは発祥の地を愛宕山としています。1938年に内幸町へ移転するまで、NHK東京放送局は愛宕山にありました。その跡地にはNHK放送博物館が建っています。

愛宕山は、歴史上の大事件にも登場します。1860年3月3日に起きた桜田門外の変です。大老・井伊直弼が、水戸や薩摩の浪士たちに暗殺された事件です。この日は、雛祭りを祝うために、大名たちが次々と江戸城に参集していました。季節外れの雪が舞うなか、午前9時頃、彦根藩主・井伊直弼は60人ばかりを従えて、桜田門に到着します。見物人に紛れていた浪士18人が襲いかかり、わずか数分で、井伊直弼は斬首されます。桜田門外の変を機に、日本は、幕末の混乱、そして大政奉還へと大きく動いていくことになります。襲撃に参加した浪士たちは、前夜、品川宿・相模屋に集まり訣別の酒宴を行い、分宿します。そして3月3日早朝、愛宕山に結集し、桜田門へと向かっています。愛宕神社境内には、”桜田烈士愛宕山遺蹟碑”と記された石碑が残ります。(写真出典:thegate12.com)

2025年6月18日水曜日

アンド-2

待望されていたスター・ウォーズ「アンド-(Andor、邦題キャシアン・アンド-)」のシーズン2がリリースされました。期待に違わぬ出来になったと思います。アンド-では、銀河帝国の皇帝パルパティーン(ダース・シディアス)が冷酷な独裁者という本性を露わにしていくなかで、抵抗勢力が徐々にネットワーク化し、反乱同盟軍になっていく過程が描かれています。そして、それは辺境の盗賊に過ぎなかったキャシアン・アンド-が、革命家となり、反乱同盟軍に参加するという覚醒の物語でもあります。つまり、キャシアン・アンド-は革命そのものだとも言えます。民主主義に陰りが見え、独裁的なリーダーが幅を利かせる昨今の世界情勢を見れば、アンド-が多くの共感を得ていることは理解できます。

スター・ウォーズは、1977~2019年にかけて、スカイウォーカー・サーガと呼ばれる本編全9話が公開されました。加えて、本編の前日譚、後日譚が、スピンオフ作品として公開されています。うち劇場で公開されたのは、「ローグ・ワン」(2016)と「ハン・ソロ」(2018)でした。ハン・ソロが興行的に不発だったために、以降の実写版スピンオフ作品は、TVシリーズとして製作、公開されています。ただ、2026年、久々に劇場版として「マンダロリアン・アンド・グローグー」が公開予定と発表され、今から盛り上がりを見せています。マンダロリアンは、実写版スピンオフの7シリーズの皮切りであり、2019年から3シーズンが公開されました。本編で語られなかったマンダロリアンの世界観、そしてグローグーの愛らしさが人気を高めた理由なのでしょう。

マンダロリアンとボバ・フェットに登場したグローグーは、ヨーダと同じ種族の幼児であり、ベイビー・ヨーダとも呼ばれます。未熟ながら強いフォースを持っています。スピンオフ系では最も人気のあるキャラクターだと思います。人気はグローグーに負けるとしても、スピンオフ系のなかで最も優れた作品はアンドーだと思います。スター・ウォーズ第1作となった「エピソード4/新たなる希望」は、ルーク・スカイウォーカーが、入手した設計図をもとに、反乱軍とともに銀河帝国のデス・スターを破壊するまでが描かれています。ローグ・ワンは、ジン・アーソとキャシアン・アンド-が命を懸けてデス・スターの設計図を盗むまでの物語であり、アンド-は、さらにその前日譚として、キャシアン・アンド-が革命家になっていく過程が語られます。

アンド-の魅力は、キャシアン・アンド-の地味で人間臭いキャラクター設定にあるのではないかと思います。スター・ウォーズに登場する人物たちは、当然のことながら、エッジの効いた、いわば漫画的なキャラクターばかりです。そのなかにあって、キャシアン・アンド-は、まるでLAを舞台とする警察ものの主人公のようでもあります。運動能力も高く、飲込みも早いのですが、フォースにはまったく無縁。素っ気ない見かけですが根はやさしく、現代人のように悩み、人を愛します。アンド-という作品が持つ政治的な今日性ゆえに、このようなキャラクター設定が行われ、派手さには欠けるディエゴ・ルナがキャスティングされたのでしょう。アンド-は、その政治性の高さにおいて、シリーズ中、最もユニークな作品かもしれません。

キャシアン・アンド-は、ローグ・ワンのラストで壮絶な最期を遂げています。これもキャシアン・アンド-らしくていいと思います。死んだので、これ以上、キャシアン・アンド-を主人公とする作品が作られることはないと思われます。異色作アンド-は、それでよいのだと思います。余談ですが、ジョージ・ルーカスが黒澤明ファンであることから、スター・ウォーズでは、結構、日本の文化や言葉が使われています。アンド-も、実は“安藤”なのではないかと思い、調べてみましたが、よく分かりませんでした。もし、安藤にインスパイアされたのだとすれば、どこの安藤なのか気になるところです。少なくとも安藤百福ではないと思うのですが。(写真出典:imdb.com)

博多の串焼き