2025年6月20日金曜日

愛宕山

東京都の最高峰は、埼玉県、山梨県にまたがる雲取山、2017mです。日本百名山にも選ばれ、山頂からは、富士山、南アルプス、関東平野が一望できると言います。一方、23区内の最高峰と言えば、港区の愛宕山、25.7mです。東京は、西に武蔵野台地が広がり、東は埋立地を含む平地となっています。愛宕山は、小高い丘としては唯一の存在であり、明治中頃までは東京湾から房総半島まで見渡せたようです。江戸末期、愛宕山から撮ったパノラマ写真が残っていますが、実に見事な見晴らしです。山頂には、愛宕神社があります。1603年、徳川家康が、京都から愛宕権現を勧請し、創建されています。ちなみに、火伏せの神として知られる愛宕神社は、京都の愛宕神社を総本社に900社が存在しているようです。

愛宕神社の鳥居をくぐると、急な石段があります。この86段の石段は「出世の石段」として知られます。その謂れは愛宕権現とは無関係であり、三代将軍・家光に由縁します。1634年、増上寺参拝の帰り道、家光は愛宕山山頂に梅の花が咲いていることに気付きます。誰か、石段を馬にて上がり、梅を手折ってくる者はおらぬか、と随行する家臣に呼びかけます。数名が挑戦しますが、急な石段ゆえ登り切れません。そこへ名乗り出たのが、痩せこけた馬にまたがった讃岐丸亀藩の家臣・曲垣平九郎でした。平九郎は、馬に鞭を当てることなく、馬をいたわりつつ、馬のペースにまかせて石段を登り切り、梅を手折って戻ります。平九郎は馬の名手として知られることになり、大いに出世したとされます。これが出世の石段の謂れです。

曲垣平九郎の出世話は、講談「寛永三馬術」に語られ、大人気となります。馬術の名人三人が登場する長い話ですが、平九郎出世の下りは、梅花の誉れ、出世の春駒等と題され、独立的に語られることも多い話です。平九郎の後、石段を馬で駆け上がることに成功した者は、明治、大正、昭和の三代に一人づつ現れています。神社の境内では、4人の成功者が顕彰されています。また、曲垣平九郎が植えたという梅の木も残っています。2年毎の9月には、出世の石段祭が行われ、神輿が石段を登ります。また、愛宕神社は、江戸名物のほおづき市や羽子板市の発祥の地としても知られています。今はビルに囲まれてひっそりとした佇まいを見せる愛宕神社ですが、往時は、講談の影響もあって、江戸を代表する名所だったようです。

出世の石段で知られた愛宕山が、まったく別な顔を見せたのが、1925年7月のことでした。東京放送局、後のNHKが、日本初となるラジオの本放送を開始したのが愛宕山でした。電波塔を高く建てるにしても、小高い丘の上が好都合だったわけです。放送開始当時の契約受信者数は3,500件だったようです。恐らく都内中心部に集中していたのでしょうから、愛宕山ほど適した場所はなかったわけです。実は、ラジオ放送は、同年3月、芝浦の東京高等工芸学校の図書室から仮放送という形で開始されていました。従って、日本のラジオ放送始まりの地は愛宕山ではなく芝浦とされているようです。それでも、NHKは発祥の地を愛宕山としています。1938年に内幸町へ移転するまで、NHK東京放送局は愛宕山にありました。その跡地にはNHK放送博物館が建っています。

愛宕山は、歴史上の大事件にも登場します。1860年3月3日に起きた桜田門外の変です。大老・井伊直弼が、水戸や薩摩の浪士たちに暗殺された事件です。この日は、雛祭りを祝うために、大名たちが次々と江戸城に参集していました。季節外れの雪が舞うなか、午前9時頃、彦根藩主・井伊直弼は60人ばかりを従えて、桜田門に到着します。見物人に紛れていた浪士18人が襲いかかり、わずか数分で、井伊直弼は斬首されます。桜田門外の変を機に、日本は、幕末の混乱、そして大政奉還へと大きく動いていくことになります。襲撃に参加した浪士たちは、前夜、品川宿・相模屋に集まり訣別の酒宴を行い、分宿します。そして3月3日早朝、愛宕山に結集し、桜田門へと向かっています。愛宕神社境内には、”桜田烈士愛宕山遺蹟碑”と記された石碑が残ります。(写真出典:thegate12.com)

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