2025年9月26日金曜日

南都焼討

平重衡
東大寺の盧舎那仏、いわゆる奈良の大仏には、高校の修学旅行以来、何度もお参りしてきましたが、毎回、その偉容には圧倒されます。高さは14.7mであり、中国やタイの大仏、あるいは牛久大仏には及びもつきません。ただ、それらを凌ぐほど大きく見えます。その最大の理由は、他の大仏と違って、大仏殿という屋内に安置されているからなのでしょう。かつて、東大寺大仏殿は、世界最大の木造建築とされていました。現在は、さらに大きな木造建築物も存在するようですが、軸組も木造という建物としては、依然、世界最大とのことです。大仏は、巨大な大仏殿の天井と相まって、実際の高さ以上の偉容を見せているのでしょう。しかも、それが8世紀の建立ということを考えれば、まさに驚異的と言うしかないと思います。

奈良の大仏は、その長い歴史の中で、幾度か焼失し、再建されています。建立以来、最初となった焼失は、1181年1月のことでした。南都の仏教勢力と対立した平家が兵を進め、東大寺、興福寺などを焼き討ちにします。いわゆる南都焼討です。平治の乱で台頭した平清盛は、大和国を領地に加えます。鎮護国家体制を担ってきた東大寺や藤原氏の菩提寺である興福寺は、平家の支配に抵抗します。以仁王の挙兵が起こると、仏教界は反平家の動きを鮮明にします。その先頭に立つ園城寺(三井寺)に対して、清盛は五男・重衡を総大将に攻撃を仕掛け、炎上させます。続けて、不穏な動きを見せていた南都仏教界に対しても、進撃を開始します。興福寺は、僧兵を集め、堀を築くなど防御を固めていきます。1月14日、戦闘が開始されますが、膠着状態に陥ります。

翌1月15日の夜、重衡が灯りを求めると、部下が民家に火を放ちます。折からの強風に煽られた火の手は、瞬く間に南都を焼き尽くします。主だった寺院や仏像が焼失し、僧侶、避難していた住民など3,500人が焼け死んだとされます。南都焼討は、インドや中国でもこれほどの法難はないであろうと言われる大惨事でした。平家物語のなかの重衡は、あれほど火の手が広がるとは思っていなかった、と悔述します。三井寺攻めと同様に、火を放つことは当初から計画されていたものの、想定以上に延焼したのは偶然だったということなのでしょう。南都焼討から2ヶ月後、清盛は、謎の病気を得て、ほどなく亡くなります。当然のことながら、祟り、因果応報と騒がれることになります。南都焼討、清盛の死とともに、奢る平家は、坂道を下るように没落していきます。

平家は、その栄華の極みを治承三年の政変(1179年)で迎えます。清盛は、後白河法皇の院政を停止し、孫の安徳天皇を即位させ、所領する知行国も最大となります。栄華の頂点は没落の起点でもあります。翌1180年には、以仁王が反平家の烽をあげて挙兵します。源平合戦とも呼ばれる治承・寿永の乱の始まりです。頼朝の挙兵、義仲の挙兵、一ノ谷の合戦、屋島の戦い、そして1185年の壇ノ浦の戦いへと続き、平家は完全に滅びます。本質的には、権勢をむさぼり尽くした清盛の自滅ということになるのでしょう。個人的には、1179年に、清盛の子である重盛と盛子が亡くなったことが没落の要因ではないかと思っています。院と平家のパイプ役だった二人を失い、清盛は歯止めが利かなくなります。南都焼討は、清盛の暴走を象徴する事件だったわけです。

南都焼討の実行犯と言える平重衡は、その後、一ノ谷で生け捕りにされ、平家一門で唯一人の捕虜となります。鎌倉に送られ、最後は南都に引き渡されて処刑されています。ところで、平家物語の重衡に関する描き方には、やや違和感を覚えます。重衡は、前代未聞の大罪人にも関わらず、好意的、かつ詳しく描かれています。そもそも、重衡は、平氏一門にありながら、気さくで人間味があり、かつ懐の深い人だったようです。頼朝ですら、その器量には感じ入ったともされます。そう言えば重盛も好意的に描かれています。重盛や重衡に対する世間の好意的な評価が反映されているのかもしれません。もっとも、清盛の極悪人ぶりと比べて好印象という程度だった可能性もあります。平家物語でも、清盛の強欲を強調するために、重盛や重衡が好意的に描かれた可能性もあります。それにしても、重衡に関する記述は長すぎるようにも思います。(写真出典:ja.wikipedia.org)

2025年9月24日水曜日

カサブランカ

憧れのカサブランカへ行ったのは、45年も前のことです。スペイン語で”白い家”という意味のカサブランカは、モロッコ最大の都市であり、港湾と商業の街です。なぜカサブランカに憧れていたのかというと、ひたすら映画「カサブランカ」(1942)の影響ということになります。大スターであるハンフリー・ボガートとイングリッド・バーグマンが主演し、アカデミー賞を獲得した歴史的名作です。とりわけ好きな映画というわけではありませんが、とにかく超有名な映画であり、子供の頃から何度かTVで見た記憶があります。第二次世界大戦中に製作され、反枢軸国という政治的スタンスのうえにセンチな大人のラブ・ストーリーが展開されます。テーマ曲「As Time Goes By」も大ヒットし、数々の名セリフもよく知られています。

最も有名なセリフは「君の瞳に乾杯」だと言えます。American Film Instituteの名セリフ・ベスト100でも、第5位にランクされています。英語では”Here's looking at you, kid”ですが、”君の瞳に乾杯”は歴史的名訳だと思います。印象的なラスト・シーンに使われる「ルイ、これが俺たちの美しい友情の始まりだな」、バーグマンが馴染みのピアニストに言う「あれを弾いて、サム、”As Time Goes By”を」も有名です。ただ、個人的な一番のお気に入りは別にあります。「昨日の夜はどこにいたの?」と女性に聞かれたボガートが「そんな昔のことは覚えていない」と答え、さらに「今夜は会える?」と聞かれ「そんな先のことはわからない」と返します。クールな二枚目ハンフリー・ボガートゆえに成り立つ名セリフだと思います。

カサブランカは古い港町ですが、16世紀にはポルトガルが占領し、18世紀以降はアラウィー朝モロッコが支配下に置きます。20世紀初頭には、住民暴動を制圧したフランスの保護領となります。映画が時代設定とした1941年には、フランスのヴィシー政権下にありましたが、自由フランスはじめ連合国側も暗躍するという複雑で危険な街でした。脚本は、このような背景をしっかりとプロットに編み込んでおり、見事な出来だと思います。また、監督のマイケル・カーティスはハンガリー出身のユダヤ人であり、他の製作スタッフの多くも欧州を逃れてきた人々でした。彼らの思いこそ、単なるメロ・ドラマと侮れない理由の一つでもあります。また、撮影は、すべてハリウッドで行われており、カサブランカの街はまったく登場しません。

つまり、私は、カサブランカの街に憧れたのではなく、映画に憧れていただけなわけです。実際のカサブランカは、いたって現代的で無機質な街でした。フレンチ・コロニアルなテイストも期待しましたが、それすらありません。もちろんメディナ(旧市街)にも行きましたが、例えばタンジールのメディナのようなエスニックな魅力には欠けました。カサブランカには2泊したのですが、市内の観光などそこそこに、丸一日を使って250km南にあるマラケシュ観光に出かけました。世界有数の観光地マラケシュは、かつての都であり、数々の映画のロケ地でもあり、クロスビー、スティルス&ナッシュの”マラケシュ・エキスプレス”(1969) のヒット以降は世界中のヒッピーが目指す街にもなりました。結局、モロッコ観光のハイライトはマラケシュになりました。

世界三大がっかりと言えば、シンガポールのマーライオン、ブリュッセルの小便小僧、コペンハーゲンの人魚姫。日本の三大がっかりは、札幌の時計台、高知のはりまや橋、長崎のオランダ坂と言われます。要は、高名にも関わらず、意外と規模が小さかったということなのでしょう。こちらが勝手にイメージを膨らませすぎてがっかりだったという意味では、カサブランカも加えたいところです。アニメやドラマの聖地巡礼は大流行ですが、映画「カサブランカ」の場合は、モロッコのカサブランカではなく、ハリウッドのスタジオに行くべきなのでしょう。モロッコに行くなら、訪れるべきはフェズ、マラケシュ、タンジールだと思います。個人的には、ラバトも好きでした。今までも、ラバトのシェヘラザード・ホテルで食べたクスクスが美味しかったことを覚えています。(写真出典:bookoff.co.jp)

2025年9月22日月曜日

夜景

函館の夜景
日本三大夜景の2024年版は、1位北九州、2位横浜、3位長崎、となっていました。日本三大夜景と言えば、函館、神戸、長崎だとばかり思っていたので驚きました。そもそも日本三大夜景も、いつ、誰が言い始めたのか定かではありません。1950年代末、旅行ブームが始まった頃に、旅行業者が勝手に言い始めたという説があります。江戸時代にも、日本三大〇〇、〇〇番付などがあったわけですが、恐らくかわら版屋が仕掛けて、ヒットしたネタなのだと思います。基準や公平な審査などがあるわけでもなく、話題になればいいといった程度の話なのでしょう。ところが、新三大夜景は、2015年から、社団法人夜景観光コンベンション・ビューローなる団体が認定する夜景観光士6千数百名が投票で選出しているようです。

選定の基準も、夜景観光士なる資格も、認定している団体も、なんだかよく分かりませんが、少なくとも、詳しい人たちによる投票ですから、意味のある結果なのでしょう。かつて、夜景と言えば、夜に高いところから見下ろす街の景色を指していたと思います。ところが、新三大夜景では、北九州や横浜が選ばれていることからして、見方が異なるようです。要は、街や建物、あるいは工場も含めてライトアップに熱心であることが評価されているように思えます。夜景観光コンベンション・ビューローが選定した世界新三大夜景には、モナコ、長崎、上海が選ばれています。上海では、高所ではなく、外灘から眺める対岸の浦東ビル群の夜景が観光名所です。中国共産党が、中国の経済的躍進の象徴として設計したかのようなライトアップになっています。

50~60年前と比べれば、ライトアップされた建物や街区は、圧倒的に増えました。LEDの登場によって、コストが安くなったことが主な要因なのでしょう。ライトアップだけでなく、クリスマス時期になると、各地で派手なイルミネーションも競われますが、やや過熱気味だと思います。イルミネーションの起源は、マルティン・ルターにさかのぼり、木の枝に多くの蝋燭を灯して星空を再現しようとしたとされます。日本でも、明治時代からイベントなどで行われてきました。一方、日本で、初めてライトアップされた建造物は、1963年、神戸ポートタワーだったようです。ライトアップが広がることになったのは、照明デザイナーの石井幹子氏の貢献が大きかったのだと思います。1989年に彼女が手がけた東京タワーのライトアップがきっかけになったようです。

私のお気に入りの夜景は、函館山から見る函館の夜景、将軍塚から見る京都の夜景、そしてエンパイヤ-・ステイト・ビルから見るNYの夜景です。思うに、夜景の美しさは、ただ光にあふれキラキラしていれば良いというものではなく、光と闇のコントラストが大事なのだと思います。函館は暗い海とのコントラスト、京都は三方を囲む暗い山とのコントラストが美しいと思います。NYは暗い高層ビル群の谷間に続くヘッドライトとテールランプの川が見事だと思います。マンハッタンは、一方通行だらけなので、道によって白い光と赤い光の川ができるわけです。いずれも見事な光と闇のコントラストを作っていると思います。また、これらに共通するのは、夜景の近さです。夜景は、遠すぎても、近すぎても、塩梅が悪く、ちょうど良い距離感が大事だと思います。

どうやら、近年、夜景という言葉の定義が混乱しているのではないか、とも思えます。夜の景色という意味では、山の上から見る夜の街も、ライトアップされた構造物や街区も、いずれも夜景ということになるのでしょう。ただ、昔から夜景と呼ばれてきたのは、人の営みが作る光と自然の闇とのコントラストであり、いわば天然の夜景と言えます。一方、新三大夜景などは、夜景というよりも夜の景観とでも呼ぶべきではないでしょうか。LED以降の夜の景観は、養殖の夜景と言ってもいいのでしょう。ちなみに、LED以降、日本の都市部の夜は、やたら明るくなりました。明るければいいというものでもないように思います。東日本大震災後に節電が求められた頃、東京の街は闇に沈んでいました。今となっては、少し懐かしくもあります。(写真出典:jre-travel.com)

2025年9月20日土曜日

廃仏毀釈

伊藤若冲の国宝「動植彩絵」全30幅は、宮内庁が所蔵しています。もともとは、若冲が永代供養を願って相国寺に寄進したものです。相国寺は、明治初期の廃仏毀釈のおり、敷地を失う危機に直面し、動植彩絵を明治天皇に献納します。そこで得た下賜金をもとに敷地を守ることができたとされます。また、東京国立博物館の正門を入って左手の奥まったところに法隆寺宝物館があります。所蔵される宝物は、廃仏毀釈の際、法隆寺から明治天皇に献納されたものです。やはり、明治天皇から得た下賜金で、法隆寺は存続することができたとされます。いずれも、現在は国の管理に移されていますが、廃仏毀釈の際に献納された宝物は、まだまだ天皇のお側に多くあると聞きます。

廃仏毀釈とは、仏教を排除し、釈迦の教えを捨てる、という意味です。仏教界にとっては一大法難でした。明治の初め、神官や大衆の間で起こった運動であり、決して明治政府の政策ではありません。ただ、明治政府が発出した「神仏分離令」等をきっかけに起った排斥運動であることは明らかです。王政復古、祭政一致を掲げる明治政府は、神道の国教化を企図し、まずは神仏判然令や神仏分離令によって、奈良時代から続く神仏習合を禁止し、神社から仏教的な要素を排除しようとします。あくまでも分離がねらいであったわけですが、神道国教化の流れを追い風とした神官たちが、大衆を巻き込み、廃仏毀釈へと走ります。また、薩摩など一部の藩も、寺院の財産を藩に取り込むことを目的として積極的に運動に加担しました。

薩摩藩領内では、1,066の寺院が完全にゼロになったといいます。また、土佐藩では、7割以上の寺が廃寺となっています。永代橋、永代通り、門前仲町など、その名を残す永代寺も、広大な敷地を誇る名刹でしたが廃寺になります。現在の小規模な永代寺は後に復興されたものです。統計は残っていませんが、一説によれば、全国の寺院の半数が廃寺となったと言われます。廃寺ばかりではなく、所蔵する貴重な仏像、宝物も失われ、多くの文化財は海外へも流れます。地域格差も大きかったようですが、行き過ぎとも言える状況に、明治政府は沈静化に動きます。また、各地では仏教と寺を守るための護法運動も起こります。廃仏毀釈運動は、明治元年から4年程度続きました。廃仏毀釈運動は、文化財保護という観点からすれば、薩長政府による大失態と言えます。

廃仏毀釈運動のきっかけは明治政府の神仏分離令等だったとしても、その背景には、江戸幕府の体制に組み込まれ、保護されてきた寺院への反撥もありました。ゆえに大衆運動化したというわけです。江戸幕府が創設した寺請制度は、領民を寺の檀家にすることで、領民管理とキリスト教禁教を徹底しようとするものでした。寺は、いわば幕府の出先機関となり、種々の保護を受けることになります。地域や寺によって格差もあったとは思いますが、おおむね、寺は寺請制度にあくらをかいていたと言えるのでしょう。政府は、廃仏希釈を意図していなかったとしても、徳川は悪だと大衆に喧伝し、かつ神道の国教化をねらうという思惑から、曖昧な姿勢、見て見ぬフリを続けていたのではないかと思います。だとすれば、これは犯罪的だとも言えます。

法難を受けた仏教界は存亡の危機に立たされたわけですが、一方では、それが幸いした面もあります。仏教界は、廃仏毀釈を機に、姿勢を正し、結束を固めた結果、復興を遂げることができました。また、明治政府の神道国教化政策は、神道の教義の曖昧さなどによって挫折します。そもそも神道は信仰であって、宗教ではありません。明治政府は、それを認めた上で、神道を国家的祭祀を担う国家神道と位置づけ、国政に取り込みます。後に軍国主義化が進むなかで、神道は大きな役割を果たしていくことになります。敗戦後、GHQは神道指令を発出し、国家神道の廃止、政治と宗教の分離、信教の自由の確保を目指します。国をはじめ公的機関からの神道への財政支援が禁止され、神社の国家管理は廃止されることになりました。(写真:若冲「動植彩絵」出典:ja.wikipedia.org)

2025年9月18日木曜日

パレード

マンハッタンでは、ほぼ毎週、何らかのパレードが行われています。独立記念日など国民的な祝祭日はもちろんですが、多いのはエスニック系のパレードです。なかでも有名なのが、3月17日に行われるアイリッシュのセント・パトリックス・デーのパレードです。NYは、アイリッシュの街でもあるので大盛り上がりです。私が、最もNYらしいと思うパレードは、11月のサンクス・ギビング・デーに行われるメイシーズ・デー・パレードです。百貨店のメイシーズがスポンサーとなり、セントラル・パーク・ウェストを山車や巨大なバルーンが練り歩くパレードです。1924年から続くNY伝統のパレードは、全米に向けてTV中継も行われます。このパレードが、ホリデー・シーズンの始まりを告げ、クリスマス・セールの幕開けともなります。

パレードとは、祭事、祝い事、イベント時等に、見物人に見せるために屋外を行列で進むことと定義されています。その語源は、ラテン語の準備するという意味の”parare”だそうです。つまり、自然発生的なものではなく、人に見せるためにしっかり準備された行列や行進ということなのでしょう。その始まりについては、4000年前のバビロニアで、新年を祝うために、神々の像を掲げて人々の間を練り歩いたという記録があるようです。人々が神殿にお参りすれば済むことのように思いますが、恐らく神殿は、誰もが気軽に入れる場所ではなかったのでしょう。今でも、洋の東西を問わず、神仏像は、街を練り歩き、御利益を届けています。日本の神輿も同じ系統です。偶像崇拝を厳しく禁じるイスラム教ですら、祭事の行列はあります。

宗教的パレードの次に登場したのは軍事的パレードだったと思われます。古代ローマ名物とも言える凱旋パレードは、建国間もない王政の時代から行われていたようです。紀元前8世紀頃のことです。古代ギリシャから伝わった凱旋式がパレードへと進化したものと思われます。実に豪華でスペクタルにあふれたパレードであり、ローマ市民を熱狂させたようです。領土拡大の一途をたどっていたローマを象徴するイベントと言えます。世界帝国となっても、将軍たちは、ローマ市民の賞賛を浴びることにこだわったわけです。もちろん、市民に選挙権があり、政治を左右する力を持っていたからです。江戸期までの日本に、凱旋パレードがあったとは聞いたことがありません。いずれにしても、ローマの凱旋パレードが、後の世のパレードの原型になったのでしょう。

パレードの目的は、一体感醸成や組織強化なので、市民参加型のパレードが多くなります。市民が参加しないパレードの典型は、国家元首や司令官に軍の忠誠や統制の高さを示す観兵式、いわゆる軍事パレードです。軍事力の誇示ではありますが、軍の士気高揚と組織強化、さらには国民に誇りを持たせて結束を図るねらいもあります。軍事パレードは、全体主義国家ほど派手になります。国民の犠牲のうえに軍事強化を図っているので、国民の納得を得る必要があるのでしょう。さらに言えば、全体主義国家が最も恐れるのは革命です。ロシア、中国、北朝鮮等の軍事パレードは国内への威圧でもあるのでしょう。また、革命の本場で労働運動や市民運動の盛んなフランス、統一国家かどうかも怪しいインド等の軍事パレードも、国内への威圧のように思えます。

パレードに音楽は付き物です。ローマの凱旋パレードにも楽隊が同行していたようです。原題の軍事パレードでも軍楽隊の演奏は欠かせません。世界初の軍楽隊とされるのは、17世紀に誕生したオスマン・トルコの“メフテル”です。メフテルの演奏する曲に触発されて、モーツァルトのトルコ行進曲をはじめとする様々な行進曲が生まれました。ただ、軍楽隊の誕生以前から、行軍の際に同行する鼓笛隊は存在しました。大昔から戦場で合図や信号として使われていた太鼓がルーツだとされます。それを行軍の際に使い始めたのは、15世紀末のことであり、当時、最強と言われたスイス傭兵が最初だったようです。いずれにしても、鼓笛隊や軍楽隊は、後にマーチング・バンドとなり、世界中のパレードで活躍しているわけです。(写真出典:jiji.com)

2025年9月16日火曜日

人類の進歩

EXPO2025
閉幕が迫るEXPO2025大阪、いわゆる大阪万博は、様々な問題を抱えつつも、順調に来場者数を増やしてきたようです。行けば行ったで楽しいのでしょうが、私は、暑い最中、人混みの中に入ろうとは思いません。大阪万博のテーマは「いのち輝く未来社会のデザイン」とされています。まるで見本市のキャッチ・コピーであり、予定される展示物を包括的に表現しているだけのように思えます。1970年の大阪万博のテーマは「人類の進歩と調和」であり、科学技術の発展と自然環境の調和を模索するという壮大で挑戦的なものでした。そこで最も注目を集めた展示の一つは、アポロ12号が持ち帰った「月の石」でした。人類が月に行くという、まさに人類の進歩の象徴だったわけです。

高校の文化祭で、化学部に潜り込み、展示の準備を手伝いました。ちょっとした悪ふざけをしてみたかったからです。それは、近所で拾った石を麗々しく「月の石」として展示することでした。万博と月の石の熱狂に対する皮肉のつもりでした。単なるシャレにも関わらず、結構、人が集まりました。一番驚いた反応は、他校の女子生徒から「これは本物ですか?」と聞かれたことです。人類はまったく進歩していないなァ、とつくづく思ったものです。人類の進歩は、直立二足歩行を行って以来、止まったままだとされます。人間は、DNAレベルでの進化を止めた唯一の生物とも言われます。動物の進化の頂点に立つという意味で、自らを霊長類とも呼びますが、1対1では、いまだに大きな熊や目に見えないほど小さなウィルスにも負けるわけです。

直立二足歩行によって、自由になった両手が道具を使うことに、自在に使えるようになった喉が言語の発達につながります。道具の使用、そして言語を駆使した集団の形成によって、人類は他の生物を圧倒していくことになりました。そして道具は、進化に進化を遂げ、ついには月にまで行けるようになったわけです。人類の進歩と言われているものは、道具の進化に過ぎません。道具を進化させたことが人間の進歩だと理解しているわけです。むしろ、道具を得たことで、人間はDNAレベルでの進化を止めています。また、道具の進化は、自然の秩序を破壊することにつながり、ついには地球の破壊というレベルにまで到達します。人類は自分で自分の首を絞めるという事態に陥ったわけです。1970年大阪万博は、この問題をテーマとしたわけですが、更なる道具の進化で問題を解決しようとした点に間違いがあったとも言えます。

一方、集団化、組織化に関しては、農耕の開始とともに急速に高度化したものの、エジプト、ギリシャ、ローマといった古代文明以降、大きな進化は成し得ていないと思います。それどころか、農耕が育んだ所有という概念がゆえに、個人対個人、個人対組織、組織対組織という対立構造を常に抱えることになります。この悩ましい問題の解決に向けて、人類は、法律、制度、思想、宗教といった様々な試みを行ってきましたが、いまだ、決定的な解決策や有効な対策を獲得できていません。人類は、DNAレベルだけでなく、思考レベルにおいても、進化を止めていると言えます。ガザ回廊での虐殺やウクライナでの戦闘は、道具だけが進化し、人間は一切進化していないということに関する明白な証拠でもあると思います。

それどころか、道具の進化は、人間を退行させるという段階に入りつつあると思います。アメリカのIT産業では、求人数が大幅に減ったようです。AIによる業務の代替が進んでいるわけです。AIは、多くの職業を奪うだろうと言われます。AI化が進むと、人間は、より高度で、より創造的な仕事に専念できると言われますが、そのような仕事がどれほど存在するのでしょうか。同時に、AIの普及は、人間の考えるという能力を奪う可能性すらあります。道具の進化は、地球を破壊するだけでなく、人間をも破壊しかねないレベルに入ったと言えるのでしょう。イギリスの歴史学者ジョン・アクトン卿は「人間が歴史から学ばないことは歴史が証明してる」と語っています。道具の進化は、本当に人間を幸せにしてきたのか、という歴史考察が必要だと思えます。(写真出典:expo2025.or.jp)

2025年9月14日日曜日

柚子胡椒

東陽町で働いていた頃、門前仲町の小料理屋「ふく田」が気に入り、毎月、通っていました。大人気店なので、行った際には、翌月の空いている日を聞いて、予約します。一緒に行く仲間は、予約してから探していました。 こっちの都合ではなく、店の空きに合わせて通っていたわけです。ふく田で飲む際、シメには、必ず”柚子胡椒のおにぎり”を食べていました。自家製の青々とした柚子胡椒をおにぎり全体にまぶしたものです。作りたてと思われる柚子胡椒は、さほど辛いわけではなく、実に爽やかなおにぎりでした。他の店でお目にかかったことはありません。ちょうどいい塩梅の自家製柚子胡椒を準備するのが手間だからなのでしょう。

柚子胡椒の胡椒は、九州北部の方言で唐辛子を指します。青唐辛子と熟す前の青い柚子の皮をみじん切りにして、塩を加えて熟成させたものが柚子胡椒です。塩を多く加えると、保存がきき、青い色も保てますが、柚子の風味が飛びます。塩が少なければ、青色の鮮やかさは失われます。この加減が難しいわけです。ふく田の柚子胡椒は、塩気が少なく、かつ青いという熟成が進む前の新鮮な状態なのだと思います。保存がきかないので商品化は難しいのだと思いますが、ふく田では、頼むと譲ってくれます。宮崎の小料理屋で、もも焼きに添えられた柚子胡椒が美味しいと騒ぐと、帰りしなに、一瓶、お土産にくれました。ふく田と同様、作りたての新鮮な柚子胡椒でした。サルサ・ソース等も同じですが、辛味調味料は、フレッシュなものが美味しいと思います。

九州では、どこにでも柚子胡椒がありますが、その発祥は定かではないようです。農水省の「うちの郷土料理」では福岡県の名物とされています。県の東部、大分県の中津との境にある英彦山(ひこさん)周辺が発祥という説が有力なようです。英彦山は、大峰山、羽黒山と並んで日本三大修験山の一つとされます。古くから多くの山伏が集まり修行する山でした。その山伏たちが、青唐辛子と青柚子を使って、保存のきく調味料を考案したというわけです。戦国時代、英彦山は、数千人の僧兵を抱える一大勢力だった時期もありました。しかし、16世紀末、大友宗麟の跡継ぎである義統との戦いに敗れ、勢力を失ったようです。ちなみに、ポルトガルが持ち込んだ唐辛子を最初に食べたのが、キリシタン大名だった大友宗麟だったとする説もあります。

柚子胡椒は、ほぼほぼ全ての料理に合うという奇跡の万能調味料です。煮物、焼き物、蒸し物、汁物といった和風はもとより、洋風、中華にも合います。風味が強いので、味変にはもってこいの調味料でもあります。私は、豆腐の味噌汁によく使いますが、ほんの少し入れるだけで、味は大いに変わります。2008年、柳川の高橋商店が「ゆずすこ」を発売します。瓶のラベルに記載された”YUZUSCO”の方がなじみ深いと思います。柚子胡椒に酢を加えて液体状にしたものです。柚子胡椒の風味はそのままに、液体になったことで使いやすく、酢を加えたことで合う料理の幅が一層広がりました。タバスコのダジャレだと思っていましたが、”ゆず”と”す”と”こしょう”を組み合わせた命名だったようです。ゆずすこは、柚子胡椒の利用拡大に大いに貢献したと思います。

九州北部で、なぜ唐辛子を胡椒と呼ぶのかは、興味深いところです。もともと日本には、カラシと胡椒という二つの辛味調味料がありました。カラシは、自生するカラシナを使って、古来から調味料として利用されていたようです。インド原産の胡椒は、奈良時代、唐からもたらされ、中国の言葉がそのまま定着します。一方、南米原産の唐辛子は、16世紀、ポルトガルが日本に伝えました。既に定着していた二つの辛味調味料にちなんで、唐辛子とも、南蛮胡椒とも呼ばれたようです。なお、唐辛子の唐とは、中国ではなく、外国という意味です。その後、南蛮胡椒という呼び名は簡略化されていきます。全国的にはナンバン、九州北部ではコショウと呼ばれるようになり、今に残ったというわけです。ちなみに、九州北部で、一般的な胡椒は、唐辛子と区別するために洋胡椒と呼ばれると聞きます。ややこしい話です。(写真出典:delishkitchen.tv)

南都焼討