2025年12月28日日曜日

「エディントンへようこそ」

監督:アリ・アスター    2025年アメリカ 

☆☆☆

(ネタバレ注意)

単純なテーマを、やや雑なプロットと饒舌なスケッチで冗漫に描いた映画といった印象です。アリ・アスターの饒舌さと冗漫さは、「ミッドサマー」や「ボーはおそれている」でも感じました。ただ、「へディタリー」や「ミッドサマー」は直線的な映画だったので気にならなかったのですが、今回は、役者も揃え、演出の腕も上っているのに、やや気になりました。彼の映画は独特な勢いが魅力なのですが、その映画文法は、我々の世代にはピンとこない面があります。ゲームやSNSで育った世代とのギャップなのでしょうが、皮肉なことに本作はSNSを批判的に描いています。本作のテーマは、世間がSNSに翻弄されている間に巨大IT資本が世界を支配しつつある、という陰謀論の一種なのでしょう。

モティーフは、コロナ、BLM、ネイティブ・アメリカン、陰謀論、ネットカリスマ、極左など、2020年当時のアメリカの分断を象徴するものがてんこ盛りです。分断の要因となっている格差、差別、宗教、政治、民族対立などは、どこの国でも、いつの時代にも存在します。アメリカで、それらを大いに加速させ、暴力的なレベルにまで押し上げたのが、SNSとトランプだと思います。トランプのチェリー・ピッキングやガスライティングといった手法は、政治の世界では昔からありました。ただ、そうした手法を得意とする政治家はキワモノに過ぎず、熱狂的支持者は生んでも、マジョリティーをとることはありませんでした。ましてや大統領にまでなることはなかったと思います。恐らく、それを実現したのもSNSだったということなのでしょう。

本作において、アリ・アスターは、トランプには直接触れていませんが、市長選挙の様相がアメリカの政治状況を揶揄しているのでしょう。ストーリーは、市長選挙をメイン・フレームとして展開します。ストーリーとは関係なさそうなホームレスのロッジが登場しますが、実は、この家庭の問題を抱えるホームレスこそがアメリカ国民を象徴しているのでしょう。保安官がホームレスを射殺するところから、映画は急展開して暴力シーンに入っていきます。とりわけ、謎のアタック・チームの登場と撃合いのシーンは評価の分かれるところです。ゲーム世代へ媚びる必要もあったのでしょうが、唐突感は否めません。まるで、プロットを詰め切れず、謎の集団を登場させたような印象すら受けます。脚本は、もう少しがんばって欲しかったところです。

挑戦的ながらもやや退屈な映画にあって、ホアキン・フェニックスの上手さだけが光っていたようにも思います。まったくもって大した役者だと思います。思えば、アリ・アスターの前作「ボーはおそれている」でも、ホアキン・フェニックスだけが目立っている印象でした。保安官の神経質な妻役には、エマ・ストーンが登場し、映画に深みを与えています。脇を固める他の俳優たちも、なかなか達者な人たちを集めています。そのあたりにA24の看板監督となったアリ・アスターの力を感じさせますが、興業成績的には、前作「ボーはおそれている」と同じく大コケだったようです。企画が目白押しだというアリ・アスターですが、今後の制作は簡単には進まないかも知れません。まずは、本編の続編なる企画は消滅だと思います。

オーストラリア政府が、16歳未満のSNS禁止を法制化したことが話題になっています。利用者ではなく、運営企業側への罰則を伴う規制となっています。子供たちへの悪影響を考えれば、禁止したくなることは理解できます。ただ、本来的には、SNS、あるいはネット全般への法規制が議論されるべきだと思います。それが正攻法だとは思いますが、ネットの性格上、現実的な議論ではなく、当面、運営側の自主規制、あるいは、いたちごっこになることは覚悟の上で部分的な規制を打ちまくるしかないのでしょう。結果的には、使う側の倫理観に委ねざるを得ない面は否めません。だとすれば、判断力が未熟な世代への使用制限もありなのかも知れません。もちろん、ネット全般への規制の方法として、国家が莫大な費用をかけて検閲するという全体主義的手法もありますが、これだけは避けなくてはなりません。(写真出典:press.moviewalker.jp)

2025年12月26日金曜日

縄文海進

霞ヶ浦
1992年、青森県は、青森市郊外に新たな県営野球場を建設すべく、事前調査を開始します。すると、直径約1メートルの柱が6本見つかり、縄文期の大型建造物の遺跡だと分かります。野球場建設は中止され、本格的な発掘調査が開始されます。そして現れた最大規模の縄文遺跡は三内丸山遺跡と命名されることになりました。三内丸山では、縄文中期の1,700年間に渡り、東京ドームの7~8倍以上の敷地に最盛期500人が暮らしていたことが分かりました。計画的な集落運営、大型建造物、栗等の栽培、広範囲な交易、精神文化の痕跡などから、縄文文化に関する従来の常識が覆されました。三内丸山は、2021年、発見からわずか30年でユネスコの世界遺産に登録されています。

多くの人が、明らかになった縄文文化の実相に驚くとともに、なぜ寒冷な青森にこのような集落が存在したのかという疑問を持ったはずです。三内丸山が存在した約6,000~4,000年前は、最終氷期終了の後に起きた温暖化の時期にあたり、平均気温は、現在よりも2℃ほど高かったとされています。また三内丸山遺跡は、海から3kmほどの丘陵の上にありますが、往時は目の前が海だったとされ、遺跡からは魚の骨や貝殻も多く出土しています。つまり、温暖化に伴い大量の氷床が溶け出し、海面も3 ~4m高かったわけです。いわゆる縄文海進です。例えば、関東では、東京中心部、横浜、千葉、九十九里浜などは海の底でした。貝塚の多くが、海から離れた丘の上で発見されることに疑問を持ち、調べた結果、縄文海進が明らかになったと聞きます。

三内丸山に関しては、なぜ消滅したのか、という疑問もあります。原因は、ほぼ間違いなく気候の変化によるものと思われます。つまり、その後の寒冷化とともに集落を囲む生態系が変化し、また海退が始まったことで海が遠くなり、結果、食糧調達に困難が生じたために集落は放棄されたということなのでしょう。最終氷期後の温暖化、その後の寒冷化は、地球軌道の変化によるものとされています。さらに温暖化については太陽黒点の活動の活性化という指摘もあります。また、温暖化による影響は、緯度が高いほど大きいとも聞きますが、他の要素も影響することから、地域による気候、気温、海水面の変化には時間や程度の差があるようです。驚くべきことに、その頃のサハラ砂漠は緑に覆われており、アマゾン川流域は砂漠化していたといいます。

ところが、縄文海進の要因は、氷が溶けて海水面が上がったという単純なものだけではなかったようです。というのも、欧州や北米での海水面の上昇はごく限られたものだったと言うのです。となれば、日本の場合には別な要因も考えられ、それはプレートの沈み込みによる海底の隆起なのではないかという説があるようです。さらに言えば、海底に次いで陸地が隆起することで海退が起きたとも言えそうです。5つのプレートがせめぎ合う日本列島らいしい話であり、2024年1月に発生した能登地震で海岸が4~5m隆起したことを思えば、大いに納得できる説だと思います。また、九州の一部では、海底から縄文遺跡が発見されているようです。これは海水面の上昇にともなって海水の重量が増加し、海底が沈み込むという現象に起因するとみられているようです。つまり、海岸付近も引きずられて海に沈み込むというわけです。

地学の世界では、5,000年前など、ついさっきの出来事くらいのイメージなのでしょう。素人にとってみれば、縄文海進の痕跡は地球のダイナミズムを生々しく感じられるポイントだと言えます。分かりやすい痕跡は、貝塚の分布や霞ヶ浦だと思います。縄文海進時、鹿島灘から埼玉あたりまで入り込んだ内海は古鬼怒湾、あるいは香取海と呼ばれ、霞ヶ浦はその痕跡と言えます。同じ頃、東京湾は、群馬県南東部、川越のあたりまで入り込み、奥東京湾と呼ばれています。近年、温暖化による海水面の上昇が大きな問題とされています。今世紀末までに1m上昇するというシミュレーションがあり、その際、日本の砂浜と干潟の9割が失われると聞きます。海水面上昇で最も怖いのは、高潮や津波の高さが増すことです。現在の東京湾の津波予測は最大5.5mですが、単純に言えば、それが6.5mになるわけです。縄文海進は、大昔の話とばかりも言えないように思います。(写真出典:ja.wikipedia.org)

2025年12月24日水曜日

夜市

初めてハノイへ行った際、食事が全て美味しくて大喜びしました。ただ、食べたかったのに、やめたほうがいい、と助言されたものがあります。ハノイの人たちが朝食として道端で食べているフォーです。フォーは、ホテルの朝食バッフェで毎朝食べました。とても美味しくいただきました。しかし、皆が、道端で、風呂用にしか見えない小さな椅子に腰掛けて食べているフォーが、とてもうまそうに見えたわけです。やめろと言ってくれた人に、その理由を聞けば、日本から来た人が食べると必ず腹を壊すというのです。水質と衛生上の問題だということでした。彼は、アジアの屋台のなかで、日本人が安心して食べられるのは台湾とシンガポールだけだ、と言っていました。その二ヶ国だけは、当局による衛生管理が徹底しているからとのことでした。 

シンガポール名物の一つにホーカー・センターがあります。ホーカーとは屋台のことであり、それが多く集まったホーカー・センターは、いわば公設のフードコートのようなものです。様々な国の様々な料理屋が軒を並べています。どれも魅力的で、大いに目移りしました。昼食を食べに行ったのですが、すっかり気に入り、翌日の夜、レストランの予約をキャンセルしてまで出かけました。値段は安く、まずまずの味だったように記憶します。ただ、一つ気になったことは、台北やバンコクのナイト・マーケットが持つアジア的雑踏や熱気に欠けることでした。シンガポールは、かつてリー・クアンユーが築いた管理社会で知られます。社会統制の傾向がまだ色濃く残っており、ホーカー・センターにもそれを感じたということなのでしょう。

一方、IT大国・台湾のナイト・マーケットは、実に賑やかで大盛り上がりです。市内最大の士林夜市、B級グルメ天国の寧夏夜市、胡椒餅に行列ができる饒河街観光夜市等が有名です。いわゆる小吃(シャオチー )のオンパレードにアドレナリンが出まくりでした。胡椒餅はじめ、牡蠣のオムレツ蚵仔煎、巨大フライド・チキン雞排、定番の各種麺線類、台湾名物の魯肉飯等々、いずれも美味しく大満足でした。特に、士林夜市で食べた鶏肉飯(ジーロウファン)は、大のお気に入りになりました。日本の台湾料理店のメニューに、魯肉飯はあっても、鶏肉飯を見かけることはほぼありません。何故なのか、不思議なところです。いずれにしても、夜ごとの激しい競争を勝ち抜いてきたB級グルメは、どれも美味しいに決まっているわけです。

東南アジアのナイト・マーケットの賑わいは、日中の暑さ、夕涼み(冷房普及率の低さ)、共働き世帯の多さ等が背景にあるのでしょう。これは理解できる面があります。加えて、家で食事を作らないという文化には、住宅環境の悪さ、労働時間の長さ、冷蔵庫の普及率の低さ等も関係しているのでしょう。ただ、一番大きな要因は外食のコスト・パフォーマンスの良さだと聞きます。分かったような分からない話です。確かに屋台では、店舗コストや人件費の低さ、食材の大量仕入れによって安く食事することができます。と言っても、同じものなら家で料理した方が断然安上がりなはずです。東南アジアにおける屋台の歴史は古いようですが、かつては、都市部でもさえも、大多数が家で食事を作って食べていたのではないかと思います。

事実、夜市の隆盛は、東南アジア各国の経済成長が始まった20世紀後半から起こったと聞きます。外食文化も、都市化の進展が背景にあったものと考えます。つまり、都市部の労働者、とりわけ地方から流入してきた労働者の多くが、住環境はじめ劣悪な生活環境に置かれており、屋台での食事に頼らざるを得なかったということなのでしょう。アジア各国のGDPの伸びは著しいものがあり、2024年の一人当たりGDPにおいて日本は第7位にまで順位を落としています。台北などでは、経済が発展し豊かになったものの、すっかり定着した外食文化だけは継続されたということかもしれません。また、バンコクなどでは、富が偏在し、低所得者層の生活環境は依然として厳しいということなのかもしれません。(写真出典:arukikata.co.jp)

2025年12月22日月曜日

近江商人

15分短縮されたブラタモリは、イマイチと思っていたのですが、過日放送された近江八幡の回はよく出来ていました。ただ、近江八幡だけが近江商人発祥の地のような演出は残念でした。近江商人とは、近江各地で誕生した行商人の総称です。ちなみに、我が家の先祖は、琵琶湖の北西、高島で誕生した高島商人です。高島商人は、近江でいち早く行商を始め、東北、特に盛岡で成功し、後には南部藩全体の商圏を握ったとされています。我が家は分家であり、私は5代目となります。先々代まで商売をしており、本家から数えて約4百年呉服を商っていました。本家は、関原の戦いの後、水戸を拠点に東北への行商を行い、江戸中期には南部藩領に移っています。夜逃げをして、親類縁者の多い南部藩領へ潜り込んだのではないかと思っています。

近江商人は、大阪商人、伊勢商人と並んで、日本三大商人と言われます。その特徴は、何と言っても行商ということになります。近江国は、律令時代に整備された東海道、北陸道、東山道という都から東へ向かう街道の全てが通っており、加えて琵琶湖の水運があり、若狭湾の海運も利用できる交通の要所でした。古くから街道沿いに市や座が立っていたようですが、畿内と各地を結ぶ陸路や海路の往来が盛んになった中世から行商が始まります。行商は、商業の原型と言えます。物々交換が貨幣経済化することで成立した商業ですが、当初は店舗を持たず、行商から始まったわけです。室町期、近江国の行商は、若狭国方面に向かう五箇商人、伊勢国方面に向かう保内をはじめとする四本商人から始まったとされています。

江戸期前後からは、高島商人、八幡商人、日野商人、湖東商人が近江を代表する商人として知られていきます。それぞれ得意とする商材・商圏があり、高島商人は繊維系を都・東北方面で、八幡商人は名産の畳表や蚊帳を江戸・大坂・京都はじめ全国へ、日野商人は日野椀等の漆器や医薬品を主として東海道や北関東へ、湖東商人は主に畿内・東海・信州・東北の村落部で商売をしていました。江戸後期に登場する湖東商人は、農閑期の農民たちが繊維関係を持って下り、各地の産物を持って上る”のこぎり商法”を得意としていました。近江商人の商売は行商を基本としますが、時代が進むと各地の都市部に支店を構え始めます。また、八幡商人のなかには朱印船貿易商として、安南(ヴェトナム)やシャム(タイ)にまで商売を広げる者もおりました。

全国各地へ行商した近江商人、江戸に進出した伊勢商人は「近江泥棒に伊勢乞食」と呼ばれるほど厳しい商売をしていたようです。ただ、この言葉は、江戸の商人たちのやっかみから生まれた言葉だったと言われます。江戸に多いものとして「伊勢屋 稲荷に 犬の糞」という言葉がありますが、同根なのでしょう。実のところ、近江商人たちが家訓にするほど大事にしていた精神は、売手・買手・世間の「三方よし」、節約と勤勉を指す「始末してきばる」、人知れず善い行いをする「陰徳善事」などだとされています。商売とは信用そのものです。信用を得られずして、商売は成立せず、継続もされません。全国の商家にあっても考えは同じなのでしょうが、そうした精神をとりわけ大事にしてきた近江商人は、明治以降も企業として成功していくことになります。

近江商人にルーツを持つ企業としては、湖東商人から伊藤忠・丸紅、日野商人からは西武グループ、高島商人からは高島屋・小野組、八幡商人からは西川・ワコール・たねや等々がよく知れられています。他にも縁の深い企業としては、トヨタ、三井グループ、住友グループ、兼松、双日、日清紡、東洋紡、武田薬品、日本生命、ニチレイ等の名前も挙がります。いずれにしても、交通網の整備が商業を生み、商業が流通網を整え、活性化された流通が商業資本を形成し、商業資本が明治期における産業資本化を実現させていきました。西洋以外で初めて、自力で、かつ短期間で産業立国を成し得た日本ですが、それは奇跡などではなく、江戸期までに、然るべきプロセスを踏んで準備されていたと理解すべきなのでしょう。だとすれば、近江商人は、日本の近代化の大立役者だと言えます。(写真出典:city.higashiomi.shiga.jp)

2025年12月20日土曜日

モーテル

アメリカにいた頃は、出張でも家族旅行でも、結構、モーテルのお世話になりました。車社会のアメリカで生まれたモーテルは、全米どこにでもあり、安価で使い勝手が良い宿泊施設です。モーテルは、アメリカ文化を代表するアイコンの一つと言えます。モーテルという言葉は、1925年、カリフォルニア州のサン・ルイス・オビスポに建てられた”マイルストーン・モーテル”から始まったとされています。正式名称は”マイルストーン・モーター・ホテル”だったようですが、屋根の看板に納まりきらなかったので、経営者が簡略化して生まれた言葉でした。諸説ありますが、この”マイルストーン・モーテル”が、部屋の前に駐車場があるタイプとしては、世界初のモーテルだったようです。

アメリカのモータリゼーションは、1908年、フォード・タイプT、いわゆるT型フォードの発売に始まるとされます。流れ作業による大量生産方式が実現した安価で丈夫な車は、約20年間に1,500万台が生産され、アメリカを車社会へと変貌させます。それだけに留まらず、流れ作業化で、価格を下げ、賃金を上げ、消費を拡大するというフォーディズムは、大量生産・大量消費という20世紀の資本主義の基本的な方程式となり、物質主義を進めることにもなりました。また、車社会実現の背景には、テキサス州スピンドルトップの大油田発見に始まる石油ブームもありました。いずれにしても、モータリゼーションは、鉱工業の裾野を広げただけでなく、道路網の整備、ガソリン・スタンドの急増等とともに車で旅をする人々を生み出していくことになります。

車で旅をする人たちは、当初、車中や道端に張ったテントに泊まっていたようです。次いで水道やトイレを備えたオート・キャンプ場、そしてキャンピング・トレーラーへと展開し、最終的にはモーテルが登場することになります。モーテルは、郊外のロード・サイドという立地、安い建築費、人件費の節約などで安価な宿泊費を実現し、瞬く間に全米に広がりました。典型的には、I字かL字型の平屋に客室と駐車場が並び、建屋の端にフロントがあります。ダイナーやプールのあるタイプも多くあります。客室は、ベッドの違いはあっても、ほぼ同じシンプルなレイアウトです。ロードサイドにあるので、目立つ看板やド派手なネオンサインも特徴の一つです。そして、必ず”Vacancy/No Vacancy”のサインがあり、空いていれば予約無しで宿泊することができます。

モーテルを使う予定がある場合、私は、事前にモービル・トラベル・ガイドで調べて、目星を付けておくか、予約していました。1958年にスタートしたモービル石油の旅行ガイド(現在はフォーブス・トラベル・ガイド)は、アメリカで最も古くて、最も信頼されるガイド本でした。ホテル、モーテル、レストラン、観光名所が網羅されています。記載は、星の数で示されるレイティングと簡潔な説明だけなのですが、規格社会であるアメリカでは、それで十分に伝わります。携帯電話が登場する前のことだったので、バス・ルームに電話があるかどうかが、モーテルのレイティングを左右する大きな要素だったことを覚えています。逆に言えば、それくらいしか違いが見いだせないほど、モーテルは画一化されていたとも言えます。

モーテルの数に関する統計ははっきりしないのですが、ピークだった1960年代には6万軒以上存在したという説があります。近年は、減少が続き、16,000軒程度まで落ち込んでいるとのことです。最大の理由は、インターステイト・ハイウェイ(州間高速道路)網の拡大によって、旧道の交通量が減ったからです。ルート66が1985年に廃線になったのも同じ理由です。1926年に開通したルート66は、シカゴとカリフォルニアのサンタモニカを結んでいました。古き良きアメリカのフロンティア・スピリットや自由を象徴するマザー・ロードでした。同時に、ルート66は、モーテルやダイナーが立ち並び、アメリカ文化を象徴する道でもりました。余談ですが、日本のモーテルはラブ・ホテル化し消えていきました。最大の理由は、国土の狭さゆえ車で旅をする人が限られていたからなのでしょう。やはり、日本は鉄道の国だと思います。(写真出典:motel-voyageur.com)

2025年12月18日木曜日

演歌

藤圭子
どうも演歌は好きになれません。名曲もあれば、耳に馴染んだ曲も多いのですが、やはり苦手です。ヨナ抜き音階が嫌いというわけではありません。むしろ体に染みこんでるので、心地良く感じます。問題は、そのうら寂れた世界観です。演歌の全てではありませんが、自己憐憫的で哀愁の押し売り的な安っぽい世界が好きになれないわけです。演歌ファンにとっては、そこが最大の魅力なのだろうと思います。世間の荒波のなかで厳しい状況に置かれた人々はそれなりに存在し、また、理不尽な境遇や状況を嘆く人々も多くいるものと思います。そういう人々にとって、演歌は、まさに代弁者なのだろうと想像します。それもそのはず、演歌は、高度成長が生んだひずみに咲いた徒花ですから。

演歌のルーツは、明治期の自由民権運動で歌われた演説歌だとされます。また、大正期に大ヒットした「船頭小唄」を直接的な先祖とする説もあります。「オレは河原の枯れススキ、同じお前も枯れススキ・・・」という歌詞と暗い曲調は、関東大震災後の社会を反映しているとも言われます。しかし、まだ、この時点では演歌という言葉は存在していません。1950年代後半に入り高度成長期が訪れると、農村の労働力が都市部へと移動し始めます。そうした状況を反映して、「別れの一本杉」といった民謡調、あるいは田舎調と呼ばれる望郷の歌がヒットします。さらに工場労働者で賑わう都会の盛り場には、楽器を持って酒場を回り歌を聞かせる「流し」が登場します。流しの歌は”艶歌”と呼ばれ、北島三郎、こまどり姉妹等、メジャー・デビューする歌手も出ます。

こうした流れを受けて、1960年代中期から、村田英雄、都はるみ等がヒットを飛ばし、文壇では、竹中労、五木寛之、あるいは新左翼がエンカを一つの文化として賞賛します。そして、1969年、演歌の世界そのものとも言える暗い過去を持つ藤圭子がデビューし、歌謡界を席巻します。「演歌」という言葉が生まれ、世間に広まることにもなりました。以降、70年代、80年代は演歌全盛の時代でした。美空ひばりをはじめとする大物歌手たちも、こぞって演歌を歌うようになります。1977年に登場したカラオケが、ブームを加速させた面も大きかったと思われます。しかし、80年代後半、若者たちの人気が、ニュー・ミュージック、J-Popに流れると、演歌は急速に地盤沈下していきます。つまり、演歌は、日本の伝統ではなく、歌謡界のブームだったわけです。

市場規模は縮小したものの、演歌は、老人、労働者、地方で根強い人気を保っています。老人は懐古趣味なのでしょうが、労働者、地方での人気は、演歌の本質を語っているように思います。70年代以降、日本経済は、オイル・ショックや円高を経験しながらも、着実に成長を続け、人々は豊かさを実感するに至ります。しかし、そこにはメジャーな流れから取り残された人々が確実に存在し、演歌はその人たちに寄り添ってきたということなのでしょう。しかし、演歌は、アンチ・メジャーのプロテスト・ソングではありません。ベクトルは、あくまでも自己憐憫的です。演歌は時代の産物と言えますが、ここがしぶとい人気を保っている理由なのだと思います。その姿は、どこかアメリカのカントリー・ミュージックに通じるものがあると思えてなりません。

カントリー・ミュージックが、一定規模以上の売上を保ち続けている理由は、南部の白人農民・労働者といった明確な市場があるからだと思います。その背景には、アメリカの歴史的、人種的、宗教的分断があります。演歌の場合、分断があるとまでは言えません。そこが弱いところです。ちなみに、錦糸町駅前にセキネという演歌専門の小さなCDショップがあります。よく店先で新人演歌歌手がキャンペーンを行っています。着物を着てビール・ケースの上で歌う新人に30~40人程度の人が拍手を送っています。そのすぐ前に喫煙所がある関係で、その歌声をたまに聞くことがあります。曲自体は相も変わらぬド演歌ですが、皆、歌がうまいのには驚かされます。得てして演歌歌手は歌唱力に優れています。意図的とは思いませんが、ルックスとプロモーションで売上を伸ばす音楽界へのアンチ・テーゼのようでもあります。(写真出典:amazon.co.jp)

2025年12月16日火曜日

金時山

金時山山頂
御殿場から箱根外輪山へ向かい、富士山を背に乙女峠を越すと仙石原に至ります。乙女峠とは、随分と可愛らしい名前ですが、由来は2つの説があるようです。仙石原に住む”とめ”という娘が、父親の病気平癒を願って、御殿場の地蔵堂へお百度参りを行います。厳しい峠越えに体力は奪われ、ついに行き倒れますが、同時に父親の病気は直ります。おとめさんの親孝行を称えて峠は”おとめ峠”と呼ばれるようになったという説。また、かつて、ここには関所があり、厳しい検問のために旅人たちは足止めをくらったものだそうです。止めるが転じて”おとめ峠”と呼ばれるようになったとの説もあります。いずれにしても、その乙女峠の東側には、標高1,212mの金時山がそびえています。

金時山と言えば金太郎、後の坂田金時が生まれ育った地として有名です。土地の彫物師の娘・八重桐は、京にのぼったおり、宮中に仕える坂田蔵人と結ばれ身ごもります。八重桐は故郷で金太郎を産みますが、坂田蔵人が亡くなったため、京へは戻らず、故郷で金太郎を育てます。大柄で元気に育った金太郎は、足柄峠を通りかかった源頼光に見出され、後に頼光四天王の一人になります。頼光四天王とは渡辺綱、坂田金時、碓井貞光、卜部季武を指し、源頼光に従って、酒呑童子等を退治したことで知られます。しかし、坂田金時の実在性は確認されていません。文献上の初出は、頼光の時代から100年後の「今昔物語集」とされています。金時の幼少期である金太郎の伝説は、江戸初期に登場し、大ヒットした金平浄瑠璃によって広まっていったようです。

今昔物語集は、平安末期、11世紀から12世紀初頭の作品と推定されています。作者も正式名称も不明ですが、各物語が「今は昔」で始まることから今昔物語集と呼ばれています。天竺(インド)部、震旦(中国)部、本朝仏法部とに分類された仏教説話が中心ですが、本朝世俗部では頼光と酒呑童子のような話が取り上げられています。とは言え、世俗部の話も、仏教説話的であることが特徴と言えます。今昔物語集は、大衆に分かりやすく仏教を説くために僧侶が著わしたものだったのでしょう。芥川龍之介の代表作とも言える「羅生門」、「鼻」、「藪の中」といった短編は、今昔物語集を原典としています。また、芥川作品を原作とする黒澤明の映画「羅生門」(1950)は、ヴェネツィアの金獅子賞に輝き、アカデミー賞でも現在の国際長編映画賞を獲得しました。

金太郎伝説を知らしめた金平浄瑠璃とは、頼光と四天王の子供たちの活躍を描く浄瑠璃です。親たちの知名度を利用しながら、荒唐無稽な話を展開できるという実に巧みなフレームです。四天王の子供たちのなかでも金時の子である金平(きんぴら)が大人気となり、金平浄瑠璃と呼ばれることになりました。実は、家庭料理の定番きんぴらごぼうの名前の由来は、この坂田金平にあります。江戸期、金太郎の母は山姥、父は赤い龍や雷神といった展開も見られるようになります。山姥は、日本の物語によく登場する妖怪です。多くは、山奥に住み、通りかかった人を食う、という設定になっています。ただ、一方では、豊穣や多産の象徴としても語られています。山の恐ろしさと恵みに精通し、里に有益な物品をもたらす山の民へのリスペクトでもあったのでしょう。

金時山は、登山初心者向けの山としても人気があります。いくつかの登山ルートがありますが、おおむね3時間で往復できるようです。山頂付近は見晴らしが良く、富士山もきれいに見えるとのこと。登山ブームもあってか、年々、登山者が増えているように思います。今年は、全国どこでも熊の出没が増えており、金太郎が熊と相撲を取って遊んでいた山でも目撃情報があるようです。金時山周辺は、丹沢山地のツキノワグマ生息地とされています。麓の仙石原は車の通りが多く、山には登山者も多いわけですが、最近の熊は人を恐れていないように思います。登山には、十分な注意が必要であり、熊鈴は必須アイテムと言えますが、完璧を期すならマサカリをかついで登るべきなのだろうと思います。(写真出典:yamareco.com)

「エディントンへようこそ」