2025年5月1日木曜日

マクア渓谷

沖縄本島を一周するドライブをしたことがあります。と言っても、幹線道路を使ってのことであり、ほぼ一周といったところです。実は、かつてオアフ島でも同じチャレンジをしました。オアフ島の面積は、沖縄本島よりも3割ほど広くなっています。ところが一周ドライブにかかる時間は、沖縄本島の方が3倍近くかかります。所要時間は、道路事情如何でもありますが、島の大きさではなくルートの長短によるところが大きいと言えます。オアフ島一周ドライブのモデルコースは、島の中央と東側を回るだけであって、島全体をカバーしていません。除外されているのは、島の西側、コオリナの北、ノース・ショアの南に広がるマクア渓谷周辺です。除外される理由は、この一帯が、米軍の広大な演習場になっているからです。

マクア渓谷は、ハワイ民族生誕の地とされます。マクアとは”母”を意味する言葉です。地質学的にも、ここがオアフ島が誕生した地であるようです。ハワイ諸島は、海底のマグマが噴き出して作られた島々です。マグマだまりは同じ場所にあっても、噴火で生まれた島はプレートの移動とともに北西へと移動し、新たな島が次々と生まれます。マクア渓谷は、オアフの最初の噴出口だったわけです。ハワイも琉球も、かつては独立した王国でした。ハワイは、1898年、アメリカに併合され、後に50番目の州となります。琉球は、1879年、日本に併合され、米軍の占領時代を経て1972年に返還されています。太平洋戦争は、日本軍によるパール・ハーバー奇襲で始まり、米軍の沖縄侵攻で地上戦が終わります。国境の島々の宿命を感じさせます。

やや古いデータですが、ハワイにおける米軍施設の総面積は約10万ha、州全体の6%弱を占めるとされます。沖縄の米軍基地は、約1.9万ha、県全体の8%、本島に限れば15%に相当します。しかも、敷地面積で見れば、日本の米軍基地の70%が沖縄に集中しています。ハワイに駐留する軍人は42.000人、その家族も加えると10万人、さらに国防省関係者、軍属、退役軍人も合わせると総計は26万人、州の人口100万人の26%に相当します。沖縄には米軍軍人が約25,000人、家族や軍属を合わせると5万人を超えるとされます。沖縄県の人口は145万人ですから、人口比は4%弱になります。軍が駐留することによる経済的効果は否定できないとしても、ハワイ、沖縄ともに、基地の存在が過大な負荷になっていると言えます。

沖縄県民の基地返還に関する長い戦いは、私たちも知っていますが、実は、ハワイでも返還運動は行われてきました。とは言え、基地の問題は、戦略上の必要性が最優先されるので、中国やロシア等の軍事的脅威が完全に消えない限り、簡単には進みません。ただ、マクア渓谷に関しては、興味深い展開があります。射爆場でもあった渓谷の山肌はむき出しになっていたようですが、1998年、地元団体が、国家環境政策法違反として、軍を訴えます。多数の絶滅危惧種に関する環境調査を行っていないということが争点でした。裁判所は、訴えを認め、軍に環境調査が終了するまで実弾射撃訓練の中止を命じます。今やマクア渓谷は緑を回復し、演習場であることは変わらずとも、軍は環境保全にも十分に配慮し、環境団体の立ち入りも認めているようです。そして、2023年、軍は渓谷における実弾射撃を永久に止めると発表しました。

普天間基地の辺野古移転に関しては、沖縄県が環境問題をメインに相当抵抗しましたが、結果的に工事は進んでいます。国も法律も異なるので、何とも言えませんが、マクア渓谷の場合、絶滅危惧種が大きなポイントだったのかもしれません。2013年、時の安倍内閣は「嘉手納以南の基地返還計画」を発表します。人口密集地域の基地1,000haを順次返還するという計画でした。しかし、内実としては、単純に返還される土地はごくわずかに過ぎず、多くは移転等の条件付となっていました。普天間基地についても、キャンプ・シュワブ(辺野古)への移転が明記されています。名前に偽りありと言わざるを得ません。安倍晋三氏らしいやり口です。なお、海兵隊のグアム移転は始まっています。だた、これも全面移転ではなく、約半数が移転するという計画になっています。(写真出典:htourshawaii.com

2025年4月29日火曜日

「太陽の宿命」

監督: 佐古忠彦     2025年日本

☆☆+

那覇の桜坂劇場は、牧志の奥のディープな界隈にあります。1952年に芝居小屋「珊瑚座」としてスタートし、直後に映画館に転身したようです。現在は、3スクリーンを持ち、ライブや文化活動も行うアートシアターになっています。全国的にも名前が知られており、一度は行ってみたいと思っていました。桜坂劇場は、日に多数の作品を上映するスタイルをとっています。今回は、佐古忠彦監督の新作も上映されていたので見てきました。監督はTBS職員で、かつてアナウンサーやコメンテーターを務めていた人です。2017年に処女作となるドキュメンタリー「米軍が最も恐れた男 その名は、カメジロー」をヒットさせ、以降、沖縄に関するドキュメンタリーを撮り続け、本作が4作目となります。

瀬長亀次郎は、占領下で那覇市長、本土復帰後は衆議院議員を務めた政治家です。終始、社会運動家というスタンスを崩さず、そのカリスマ性においては田中角栄と並び立つ政治家だと思います。監督の処女作カメジローには期待していたのですが、大ガッカリでした。ドキュメンタリー映画と呼べるような代物ではありませんでした。ドキュメンタリー映画とは、作家の視点で捉えた現実を、フィクションを交えずに表現する映画形態だと思います。カメジローは、単に瀬長亀次郎の軌跡を紹介するだけの作品であり、TV特番の域を超えていませんでした。残念ながら、今回の「太陽の宿命」も全く同様にTV特番そのものでした。対象としたのは、沖縄県知事を務めた大田昌秀と翁長雄志であり、二人の因縁を通じて沖縄の基地問題をクローズアップしています。

大田昌秀は、鉄血勤皇隊員として沖縄戦を経験し、戦後は早稲田大学、シラキュース大学に学び、琉球大学やハワイ大学の教授を勤めた人です。1990年、革新統一候補として県知事選に立候補し、保守系の現職を破って当選します。大田は、平和の礎建立など記憶継承事業に取り組む一方で、1995年に起きた米兵少女暴行事件を機に日米地位協定見直しを訴える行動を起し、米軍用地の未契約地主に対する強制使用の代行手続きを拒否します。これは最高裁まで争われ、県が敗訴しています。普天間基地返還の条件として国が示した辺野古移転にも真っ向から反対し、反基地か経済か、と迫る自民党に追い落とされる形で知事の座を降ります。その際、大田攻撃の先頭に立っていたのが、自民党の県議で後に県知事になる翁長雄志でした。

2015年、沖電社長から知事に転身した仲井眞弘多の任期満了に伴う知事選が行われ、那覇市長だった翁長は、自民党を離党して立候補します。辺野古移転推進派だった翁長は、移転反対へと転じていたのです。翁長を推した自民党県議たちも離党、野党も翁長支持に回り、翁長は当選します。県知事としての翁長は、移転に関する国と自民党からの圧力と戦い続けます。皮肉にも、それは20年前、翁長が批判し続けた大田が置かれた構図とまったく同じでした。翁長は県知事在職のまま、2018年、膵臓がんで亡くなっています。大田も翁長もハマった基地反対か経済振興かというジレンマは、そもそも自民党が作り出した二者択一の罠とも言えます。素人考えではありますが、この二者択一フレームから離れない限り、沖縄の基地問題の進展はあり得ないのではないでしょうか。

自民党政権は、日米安保条約ありきの発想しかできなくなっているように思えます。本来的には、日本国として国の安全をどう考えるか、つまり国防に関する基本戦略が、まずもってあるべきではないかと考えます。そのうえでの日米安保なのだろうと思います。現状は、憲法よりも安保が優先され、米軍の言いなり状態です。ただ、日米安保が効果を発揮するのは平時のみです。戦時にあっては、米国の戦略・戦術が優先され、日本の安全は後回しにされる恐れもあります。安全を他国の良識に委ねるという現行憲法上の根本的な問題点が、結果的には日米安保にも反映されているわけです。もちろん、これは根本論であって、憲法改正も避けがたい議論です。沖縄の基地問題に関しては、その前にできることが他にもあるのではないかとも思います。いずれにしても、県も国も二者択一論から抜け出すことが求められると思います。(写真出典:natalie.mu)

2025年4月27日日曜日

海軍司令部壕

1945年6月23日、沖縄戦における組織的な戦闘が終結します。以来、この日には、戦没者を追悼し、かつ平和を祈念する沖縄慰霊祭が開催されています。沖縄県の休日として、会社も学教も休みとなり、平和祈念公園で行われる式典のみならず、全島で慰霊祭が行われます。基地の問題を考えれば、沖縄の戦後は、まだ終わっていないとも言える状況にあって、今年は80周年という節目の年を迎えることになります。ひめゆりの塔はじめ、戦争関連施設を多く訪ねてきましたが、ほとんどは犠牲になった県民に関わるものでした。旧軍に関わる史跡はほとんど存在しません。旧軍の非道に対する批判、あるいは旧軍施設が米軍によって徹底的に破壊されたことが背景にあるのでしょう。

今回、数少ない旧軍史跡である豊見城市の海軍司令部壕に行ってきました。1944年10月10日の沖縄大空襲を受けて、急遽、作られた地下施設です。現在は那覇空港となっている旧軍の小禄飛行場を見下ろす丘に作られています。沖縄の旧軍施設の多くは、住民を使役して作られていますが、ここは機密性が高いということで兵士だけで掘られたようです。突貫工事だったこともあり、手掘りの痕跡が見て取れます。重要な部屋は、漆喰とコンクリートで補強もされています。総延長450m、司令官室、作戦室、幕僚室、暗号室等々が作られています。決して大きな壕ではありませんが、最大で4,000人が立錐の余地もない状態で立てこもったようです。司令部は、6月11日、米軍の総攻撃を受け、13日夜半、大田司令官の自決をもって陥落しています。

司令官であった大田実海軍中将の海軍次官に宛てた最後の電報が「沖縄県民斯ク戦ヘリ 県民ニ対シ後世特別ノ御高配ヲ賜ランコトヲ」と結ばれていることは、よく知られます。軍人としては、負け戦を謝し、天皇陛下万歳と締めくくるのが常道です。しかし、大田司令官の電文は、終始、沖縄県民の貢献と犠牲について語られています。沖縄戦での双方の犠牲者は20万人、うち日本側は188千人。その内訳は島外から来た日本兵が66千人、県内出身は122千人であり、県民の4人に1人が亡くなっています。そのうち94千人が民間人、28千人が現地召集の兵士とされます。民間人犠牲者のうち54千人が準軍属とされ、ほぼ強制的に戦闘や後方支援に徴集された人々です。なかには、ひめゆり部隊はじめ多くの学生たちも含まれていました。

大本営は、多くの民間人が犠牲となったサイパンでの轍を踏まないよう、老幼婦女子と学童の九州、台湾、本島北部への疎開を計画します。しかし、疎開は進みませんでした。身寄りのいない土地への疎開が嫌がられたことに加え、増派された日本兵を見て、日本勝利を喧伝する兵士たちの声を聞き、島民の間には安堵感が広がっていたとも聞きます。準軍属化とプロパガンダが県民の犠牲を大きくしたと言えるのでしょう。また、日本軍が、大規模な機動的反撃ではなく、持久戦術を採ったことも民間の犠牲を拡大したものと考えます。その戦術は、アメリカ軍の犠牲者をも増やし、戦死者2万人は米軍史上3番目、死傷率は39%に達したとされます。その衝撃が、トルーマン大統領に原爆投下を決断させたとも言われています。

5月末、32軍司令部は、要塞化された首里司令部を放棄し、南部の摩文仁へと撤退します。海軍司令部には、軍司令部の撤退を援護した後に摩文仁に集結せよとの指令が出されます。しかし、曖昧な電文によって連携ミスが生じ、一旦は小禄陣地を放棄した海軍司令部は、再び壕に戻ることになり、アメリカ軍に包囲殲滅されます。壕には、大田司令官が自決した司令官室も残っています。最も印象的なのは、幹部たちが手榴弾で自決した痕が生々しく壁に残る幕僚室です。国の存続をかけて戦う戦争は、総力戦が常識となってから、多くの市民の犠牲を伴うものとなりました。何のための戦争なのか、誰のための戦争なのか、という疑問がつきまといます。沖縄は、今もそれを世界に問いかけ続けている島なのだと思います。(写真出典:okinawatraveler.net)

2025年4月25日金曜日

やちむん

那覇の名所である壺屋やちむん通りは、国際通りや牧志公設市場の東にあります。やちむんとは、沖縄の言葉でやきもの、つまり陶器を意味します。壺屋は地名ですが、ここが古くからやきものの町だったことを示しています。静かな石畳の道沿いには陶器や民芸品を扱う店が並びます。空襲の影響が少なかった地域だったようで、古い家も多く残り、窯の跡もあります。沖縄のやちむんは、どってりとした厚み、気候にあった色合い、温かみのあるデザイン等を特徴とします。それは、どこか沖縄の人たちを思わせるところがあり、まさに琉球の文化と生活が凝縮されているとも言えそうです。やちむんは、1600年頃、薩摩が琉球に送り込んだ3人の朝鮮人陶工に始まるとされます。

16世紀末に起こった文禄・慶長の役の際、多くの朝鮮人陶工が日本に連行され、日本のやきものを大きく変えます。最も有名なのは、有田焼を作った李参平ということになります。薩摩焼も、島津義弘が朝鮮から連れ帰った陶工によって始まります。薩摩焼を代表する名工・沈壽官は15代を重ねて今に至りますが、やはり文禄・慶長の役の際に連行された陶工を祖とします。やちむんは、当初、海産物や泡盛を輸出する際の器として作られたようです。その後、生活陶器へと展開し、宮廷のみならず庶民の家庭にまで広がっていきます。当然ですが、その過程のなかで琉球の文化とシンクロし、やちむんが誕生するわけです。特に、器の厚みに関しては、沖縄に独特な赤土という土壌が大きな影響を与えることになります。

本土の土壌は、一般的に赤土の上に黒土が堆積しています。黒土は、落ち葉や枯れ葉などが分解されて作られる有機物の層であり、腐植土とも呼ばれます。分解が進むと粒子が細かくなり、鉄分を含む赤土になっていきます。沖縄も同じなのですが、海洋性気候のために腐植土の分解が早く、結果、黒土層が薄くなり、さんご等に由来する石灰質を多く含む赤土が地表付近にまで露出することになります。陶土としては、のびとこしがなく、厚手のやきものに適していると言われます。ただ、明治以降、本土から薄くて丈夫で安価なやきものが入ってくると、厚手のやちむんは衰退していきます。やちむんを救ったのは、大正末期に始まる民藝運動でした。沖縄の紅型ややちむんは、民藝運動初期の重要なテーマ、アイテムとして注目を集めることになります。

やちむんと民藝の関わりは、運動開始以前から始まっています。1917年、民藝運動の中心人物となる濱田庄司と河井寛次郎は沖縄を訪れ、やちむん中興の祖となる新垣栄徳と親交を結びます。その後、濱田は、壺屋に長逗留して、作陶に励むことになります。その際、新垣栄徳に弟子入り間もない金城次郎にも会っているようです。金城次郎は、1985年、沖縄県初となる人間国宝に認定されることになります。濱田がリードした民藝調のやきものは、壺屋で生まれたと言っても過言ではないと思います。一方、柳宗悦も、学生時代から紅型をはじめとする沖縄の染織や絣に興味を持っており、濱田とともに幾度も沖縄を訪問しています。日本が戦時体制に入っていく頃、柳宗悦は、沖縄の言葉を巡って、沖縄県と大論争を行っています。

沖縄県は、戦時統制の一環として方言の使用制限を徹底します。柳宗悦らは、琉球文化を守る観点から猛反対します。これは民藝運動の不可思議さを物語っています。民藝とは、手仕事が生んだ日常雑器に美を見い出す生活文化運動とされます。しかし、美を見い出した瞬間、美術品と化し、作家主義が生まれます。生活雑器に関わる運動ながら、反近代主義、反西洋至上主義といった政治的な側面も見せます。民藝運動は、多くの矛盾や曖昧さを内包しているとも言えるのでしょう。生活を豊かなものした民藝運動の功績は大きいと思いますが、あくまでも生活の中にあっての民藝だと思います。やちむんは魅力的ですが、ほとんど買ったことはありません。自分の生活のなかでの居場所がイメージできないからです。やはり、沖縄の文化は、沖縄へ出かけて、あの優しい空気感のなかで楽しむべきものなのでしょう。手に取るなやはり野におけ蓮華草。(写真出典:nirai-kanai.shop)

2025年4月23日水曜日

伊江島マラソン顛末

友人に誘われ、伊江島マラソンに参加しました。伊江島マラソンは、”楽しく走ろう”をモットーとする市民マラソン大会であり、私がエントリーしたのは5kmの部でした。制限時間は45分。たかだか5kmとは言え、日頃走っていない身としては、ほぼ絶望的です。ただ、週に2回ほど、ジムでトレッドミルに乗り、4kmを40分で早歩きしているので、速歩ならばゴールできるだろうと思った次第です。わざわざ伊江島まで出かけて、そんなことをするのもどうかとは思います。しかし、大会に参加した最大の理由は、友人の知り合いがやってくれるというBBQでした。沖縄で最も爽やかなうりずんの季節に夕暮れ時のビーチでBBQ。これほど魅力的な話はありません。

伊江島は、本部港からフェリーで30分、人口4,500人の農業と漁業の島です。大会参加者は2,500人、うち2,300人が島外からの参加でした。本部港の駐車場は車であふれ、近隣の港に臨時駐車場が用意されていました。フェリーも臨時便を出していましたが、それでも700人という定員限界までの混雑でした。島に着くと、港での大会受付を済ませ、友人たちが手配してくれた宿に入ります。着替えを済ませてスタート・ゴール地点となるミースィ公園へと向かいました。広い公園にはステージが設けられ、露店も多く並んでいました。レースの結果としては、44分15秒でギリギリ完走(完歩)できました。5km男子は150名のエントリー、完走は135名、私は128位。70歳以上の参加者15名中14位でした。皆が走るなかでの速歩としては健闘したほうだと思います。

コースには給水所が設けられ、島特産の黒糖も配られていました。驚いたのは沿道の応援です。島の人々が、ほぼ切れ間なく応援に出てくれていました。なかにはバンド演奏で応援する人たちまでいました。私も、可能な限り、手を振って応援に応えました。なにせ速歩なので、そんなことをする余裕があったわけです。私は、ジムと同じ環境でと思い、音楽を聴きながら歩いていました。レース終盤には、ジェームス・ブラウンの”Give It Up Or Turn It A Loose”が流れます。この曲を聴くと、いつも体が勝手に踊り出します。コースでも、踊るように歩いていると、沿道から、真っ黒な顔の酔っ払った老人が飛び出してきて、一緒に踊り始めました。彼には音楽が聞こえていないのですが、恐らく、あれはカチャーシーだったのでしょう。もっと一緒に踊りたかったのですが、さすがに先を急ぎました。

アップダウンにはやられましたが、基本的には、いつもジムでやっていることなので、レース後に、息が上がることも、脚が痛むこともありませんでした。記録証を受け取り、牛串やぜんざいを食べ、ハーフに挑戦した友人たちのゴールを待ちました。なんとか、皆、完走することができました。宿でシャワーを使った後、BBQの会場へと向かいました。ビーチに面した広いBBQハウスには、気持ちの良い海風が吹き込み、空には月も出ていました。海の向こうには、本島の灯りが見え、あろうことか恩納村あたりのホテルから毎週末の恒例という花火まで上がりました。BBQには伊江島牛や海産物が出され、ちょうど季節を迎えた島らっきょも山ほどありました。島らっきょ好きには夢のような光景でした。また、泡盛は、マイルドで美味しい古酒が振る舞われていました。

20名ほどの参加者でしたが、美味しい食事と泡盛に話も尽きることなく、夢のような夜が更けていきました。ただ、夜半過ぎからは雨風が激しくなりました。翌日のフェリーの運航も危ぶまれるほどでしたが、幸いなことに朝には風も弱まりした。伊江島名物の城山(伊江島タッチュー)に登る計画でしたが、悪天候のために断念し、島の名産である百合の花が咲き誇るリリーフィールド公園、島の水源となっている湧出(わじ)等を観光しました。そして、満員のフェリーで本部港へと戻りました。お祭りとしてのマラソン大会も楽しく、BBQでの食事・泡盛も美味しく、そして何よりも島の人たちとの楽しい会話は得がたい経験でした。まるで夢のような時間でした。明らかに、人生最良の日のひとつだったと言えます。島の人たちの、また来いよ、という言葉に、必ず来ます、と応えた次第です。(写真出典:tabirai.net)

2025年4月21日月曜日

パレ・ブルトン

パレ・ブルトン
何人かに、ビスケットとクッキーの違いを聞いてみました。概ね、ビスケットのなかで、バターを多く使ってサクサクに焼いたものがクッキー、という答えでした。日本人の一般的な認識だと思いますし、日本ビスケット協会による定義もそうなっています。しかし、これは日本の常識であって、同じものを英国ではビスケットと呼び、米国ではクッキーと呼ぶという違いしかありません。英国のビスケットは、“二度焼いたもの”を意味するフランス語のbiscuit、あるいはラテン語ののbis coctusが語源です。米国のクッキーは、オランダ語の”小さなケーキ”を指すkoekieが語源となっています。なお、フランスでは、ビスキュイのバターが多いものをサブレーと呼びます。

サブレーとは、フランス語で砂を指します。そのサクサクとした食感を言い表しているのでしょう。また、サブレ=シュル=サルトの街で作られた、サブレ公爵夫人が考案したといった説もあります。サブレーと言えば、日本では、鎌倉の豊島屋の鳩サブレーが最もよく知られていると思います。明治30年頃、初代店主が、初めて食べたビスケットに感動し、試行錯誤の末、完成させました。鶴岡八幡宮楼門の額にある”八”が向き合う鳩になっていること、境内には鳩が多いことから鳩をモチーフにしたとされます。また、外国航路の船長をしている知人が、これはサブレーに似ていると言ったことから命名されたようです。初代店主は、サブレーという聞き慣れない言葉ながら、三郎に似ていると気に入ったようです。鳩三郎と命名されていた可能性もあったわけです。

私は、サブレーのなかでも、特にブルターニュ名物のパレ・ブルトンが大好物です。豊かなバターの風味、サクサク・ホロホロの食感がたまりません。パレ・ブルトンは、人を幸せにする食べ物です。円くて薄いガレット・ブルトンヌと混同されがちですが、パレ・ブルトンは厚みがあります。英仏海峡と大西洋に突き出したブルターニュ半島一帯は寒冷な土地柄であり、酪農と塩で知られます。リンゴ酒のシードル、あるいはそば粉で作るクレープのガレットも有名です。フランス語のガレットとは、円くて薄いものを意味し、クレープでもサブレーでも使われているわけです。ブルターニュと言えば、ファー・ブルトンも大好物です。ミルクの風味が濃く、どっしり、かつプルプルとした食感が大好きです。乳製品好きにとって、ブルターニュは聖地の一つだと言えます。

ブルターニュとは、ラテン語の”ブリトン人の土地”を語源とします。もともとケルト人が住んでいたブルターニュは、紀元前1世紀、古代ローマに支配されます。ローマが撤退すると、5世紀末には、ブリテン島から、同じケルト系のブリトン人が大量に移住してきます。北欧からブリテン島に侵攻してきたアングロ・サクソン人に押し出されたと言えるのでしょう。ブルターニュの歴史は、英仏両大国の間で揺れ動いていましたが、16世紀には完全にフランスに組み込まれています。ちなみに、サブレーに近い食感の食べ物に、スコットランドの伝統菓子のショート・ブレッドがあります。ショートはサクサクした食感を指し、ブレッドとは焼き菓子を意味しているようです。サブレーに比べると、少しバターの比率が低くなっています。

話をビスケットに戻すと、その祖先は、保存性を高めるために二度焼きしたパンだと言われます。農耕発祥の地メソポタミアでは、数千年前からバビロニア人が二度焼きしたパンを旅に持ち歩いていたとされています。ビスケット/クッキーの直接的元祖は、7世紀頃のペルシャで砂糖の普及とともに生まれました。やはり旅の保存食だったようですが、欧州へと広がっていきます。それが宮廷で出されるお菓子になっていったのは16世紀のことだったようです。何でもクッキーと呼ぶアメリカですが、南部にはビスケットという食べ物も存在します。イギリスのスコーンに近い代物です。酵母による発酵ではなく、重曹などの膨張剤を使った、いわゆる速成パンの一種です。日本では、ケンタッキー・フライド・チキンのメニューの一つとして知られます。(写真出典:brittanytourism.com)

2025年4月19日土曜日

フルコンタクト

ゴルフは、やたらと格言が多いスポーツの一つです。コース上の最大の敵は自分である、という言葉もよく知られています。ゴルフに限らず、水泳、ボウリング、ダーツといったノンコンタクト・スポーツすべてに共通する言葉だと思います。コンタクトとは、ボディ・コンタクトのことです。コートを分けて行われるバレーボール、テニス,卓球、バトミントン等もノンコンタクトに分類されますが、ボール等を介して心理的にはコンタクトしているとも思います。いかなるスポーツも競技である以上は駆け引きがあるでしょうから、それも心理的コンタクトと言えそうです。対して、制限なく相手とボディ・コンタクトする競技は、フルコンタクト・スポーツと呼ばれ、格闘技、ラグビー、アメリカン・フットボール等が該当します。

フルコンタクトの場合、いかに自らの心技体を鍛えても、試合に勝てるとは限りません。相手の出方次第で試合の流れは変化し、それに適切に対応できるかどうかで勝敗が決まります。小よく大を制す、ということが起こり得るわけです。フランツ・ベッケンバウアーの言葉とされる「強いものが勝つのではない。勝ったものが強いのだ」は、まさにフルコンタクト・スポーツのためにあるような言葉です。格闘技の場合、自分の優点を活かせるか、あるいは相手の優点を無力化できるかが大きなポイントとなります。そのためには、いち早く自分に有利な態勢やペースを確保する必要があり、ファースト・コンタクトが極めて重要となります。リミテッド・コンタクト・スポーツとされるサッカーにも、先制点を取ったチームが有利になるという7-2-1の法則があります。

傾向として、先制点をあげたチームは、7割が勝利、2割が引き分け、1割が逆転負けするというのです。ロー・スコア対決のサッカーだけに、焦りが大きく影響するのでしょう。格闘技の場合には、先制攻撃というよりも、いかに早く自分の態勢を確保できるかという勝負になります。相撲の場合、勝敗の8割は立会いで決まるとまで言われます。立会いで相手を圧倒することによって、自分の得意な差し手や態勢をとることができるからです。いまだ破らていない69連勝を達成した双葉山の立会いは”後の先”と呼ばれます。横綱相撲はかくあるべしとも言われます。ただ、映像を見る限り、初動は相手より遅いものの、決して押し込まれてはいません。相手の立会いを見切ったうえで押し込み、得意の左上手から天下無双と言われた上手投げを繰り出しています。

ビジネスにおける交渉・折衝も、フルコンタクト・スポーツに似たところがあります。いつの世でも、書店から交渉術に関する書籍が消えたことはありません。それほど皆が悩み、興味を持っているということなのでしょう。交渉の場では、選択肢を多く持っている方が有利であるという大原則があります。交渉相手がどのような出方をしても対応可能だからです。加えて、先手必勝とも言われますが、必ずしも最初に高い要求をぶちかませということではありません。本質的には、いかに早く自分のペースに巻き込むか、ということが大事になります。後の先で、相手の出方を見きわめたうえで、自分のペースに巻き込むという方法もあります。交渉慣れしているアメリカのビジネスマンは、最初から自分のペースに引き込むことにこだわる傾向があります。

ドナルド・トランプの発言に、世界中が振り回されています。トランプの交渉術は、初動から高い要求をぶちかまして主導権を握るスタイルです。アメリカで仕事をしていた頃、ここまで極端な交渉術は見たことがありません。不動産など生き馬の目を抜く業界では、ごく当たり前のことなのかもしれません。アメリカのビジネス界では、個人の権限が大きいので、交渉術は研ぎ澄まされ格闘技的になります。対して、日本の場合は、組織的な判断が全てなので、交渉はアメリカン・フットボールのフォーメイション・プレイに似てきます。経営会議ではゴールだけが決議され、交渉における幅などがフロントに与えられることはありません。ところで、トランプ式の交渉術の欠点は、ブラフを見抜かれ易いことです。トランプのディール・スタイルなど、世界中が見透かしているのでしょうが、なかでもプーチンや習近平はビクともしていません。交渉術の何たるかを十分に分かっているからなのでしょう。(写真出典:nippon.com)

マクア渓谷