2025年8月1日金曜日

玄冶店

30年前、人形町の老舗料亭「玄冶店 濱田家」で会食したことがあります。政治がらみの宴席で、有名な久松はじめ芳町芸者もあげての宴席でした。店名につく”玄冶店(げんやだな)” の意味が分からず、こっそり仲居さんに聞いたことを覚えています。江戸初期、将軍家の御典医を務めた岡本玄冶が、幕府から拝領した土地に借家を建てて貸したことから、玄冶店と呼ばれるようになったとのことでした。今も人形町通りに面して「史跡 玄冶店」という石碑が立っています。店(たな)とは借家のことであり、借主やテナントを店子と呼ぶ習慣も残っています。それにしても、借家の通称が地名化し、長く残るなど、極めて希な話です。そして、その背景には歌舞伎の当たり狂言の存在がありました。

歌舞伎の人気演目「与話情浮名横櫛」、通称「切られ与三郎」は、1853年に初演された世話物の名作です。その三幕目に名台詞で知られる”鎌倉源氏店妾宅の場”があります。当時、歌舞伎では実名の使用が禁じられていたので、玄冶店を鎌倉源氏店に変えて上演されました。江戸の大店の若旦那の与三郎は、身を持ち崩し、木更津の親戚に預けられています。与三郎は浜でお富と出会い、相思相愛の仲となります。しかし、お富は土地の親分・源左衛門の妾だったため、与三郎はめった斬りにされ、お富は追われて入水します。しかし、二人は、なんとか生き延びており、与三郎は34ヶ所におよぶ刀傷をウリにする無頼漢に、お富は入水した海で助けてくれた商人の妾として玄冶店に囲われ、それぞれ暮らしています。

三年後のある日、与三郎は、さる妾宅へ強請に入ります。そこに居たのはお富でした。片時も忘れたことのない愛しさ、そして再び妾になっていることへの怒りが与三郎の胸中で交錯します。そうした複雑な思いを表すのが「御新造さんぇ、おかみさんぇ、お富さんぇ、いやさ、これ、お富、久しぶりだなぁ」に始まる名台詞です。この七五調のキレの良い台詞回しが江戸っ子のハートを掴んだのでしょう。与三郎・お富の話は、何度か映画化もされています。また、1954年に春日八郎が歌った「お富さん」も大ヒットしています。その歌詞は「粋な黒塀 見越しの松に 仇な姿の 洗い髪 死んだ筈だよ お富さん 生きていたとは お釈迦さまでも 知らぬ仏の お富さん エーサオー 玄冶店」と、江戸好みの調子の良いものでした。

東京で、人形の街と言えば、久月、吉徳といった老舗が並ぶ浅草橋です。と言っても、浅草橋は様々な問屋が並ぶ街であり、決して人形専門の街ではありません。一方、人形町は、名前と異なり人形屋が全くありません。江戸初期、このあたりには花街の吉原がありました。ところが、明暦の大火後、幕府は吉原遊廓を日本堤へ移転させます。その後、人形町には、芝居小屋や浄瑠璃小屋、そして私娼窟や陰間茶屋が並ぶことになります。周辺には浄瑠璃の人形師たちも多く住むようになり、人形町と呼ばれるようになったのだそうです。人形町界隈は、現代風に言えば繁華街であり、歌舞伎町といった風情だったのでしょう。ちなみに、歌舞伎町は、戦後、歌舞伎の劇場建設計画があり、町名にもなりました。ただし、実際には建設されず、町名だけが残りました。

人形町には、今も名店が多く残ります。濱田屋、人形町今半、重盛永信堂、高嶋家、志乃多寿司、日山、玉ひで、双葉、おが和等々、枚挙に暇がありません。甘酒横丁を浜町へと進むと、新派の明治座があります。新派の代表作の一つに川口松太郎の「明治一代女」があります。美人で気風が良いと評判だった芸者・花井お梅が、1887年、浜町河岸で実際に起こした殺人事件がモティーフとなっています。事件を起こした時、お梅は浜町で待合(貸席)を経営していました。事件現場で事件に基づく芝居が上演されているわけで、なんとも不思議な話です。いずれにしても、人形町、浜町界隈は、その賑わいを失ったとは言え、繁華街だった往時の残り香をしっかり残していると言えそうです。(写真出典:intojapanwaraku.com)

2025年7月30日水曜日

アイアンロード

スキタイ装飾品
アイアンロードとは、ヒッタイトに始まり、スキタイ、アルタイ、モンゴル、中国、そして日本へと続く製鉄技術の伝播ルートを指します。シルクロードより古く、かつ遙かに北側を通ります。製鉄のプロセスでは、高温を得るために大量の木材が必要だったため、アイアンロードは北の森林地帯の縁を通ったものと考えられています。また、アイアンロードは、鉄製のハミ(馬具)の伝播によって、高度な騎馬技術が伝播していく道でもありました。近年、人口衛星による探査でスキタイやアルタイの遺跡が多く見つかっています。アイアンロードは、そこで浮かび上がってきた新たな仮説です。とは言え、まだまだ調査は始まったばかりであり、今後の成果が期待されるところです。

もともと地球上に存在する鉄は、隕石に含まれる隕鉄だけでした。初めて人工的に鉄を作ったのは、アナトリアのヒッタイトだとされます。ヒッタイトは製鉄技術を独占して栄えます。兵数で遙かに上回るエジプトとも互角に戦い、世界初とされる平和条約を締結しています。ところが紀元前13世紀末、ヒッタイトは忽然と姿を消します。エジプトの文献によれば、当時、地中海の東側一帯を席巻した海の民に滅ぼされたようです。ヒッタイトの滅亡にともない、国家機密だった製鉄技術は、オリエント、ヨーロッパ、アフリカへと拡散していきます。製鉄技術は、黒海の北に展開していたイラン系騎馬民族スキタイにも伝わります。スキタイは、鉄製工具を用いた高度な金属加工技術を獲得し、大いに隆盛していくことになります。

鉄製のハミで自在に馬を操り、手には鉄製の武器を持ったスキタイは東へと勢力を拡大していきます。スキタイが、南ではなく東へ向かったのは、森林を求めたからだったと想像できます。製鉄のために森林を伐採し尽くすと、次の森へと移動することを繰り返したのではないかと思います。スキタイは、アジアの中央にあるアルタイに至ります。そこから製鉄技術の伝播ルートは、東の匈奴、南東の中国へと分岐します。モンゴル高原に興った騎馬遊牧民であり、鉄製武器を使って勢力を拡大した匈奴は、紀元前3世紀頃、強大な帝国を築きます。いまだ青銅器の武器しかなかった中国へも攻め込み、秦の始皇帝は、対策として万里の長城を築くことになります。しかし、紀元前1世紀頃には、漢の圧迫を受けて分裂し、滅んでいきます。

中国における製鉄は、春秋・戦国時代に始まったとされますが、その加工に関しては鍛造ではなく、鋳造だったようです。中国には、既に高い青銅器鋳造技術があり、鉄器にもそれを活かしたのでしょう。鋳造には高温が必須だったので、鞴(ふいご)も発明されます。しかし、鋳造では強度に問題があり、もっぱら農具として活用されたようです。鉄製武器の製造は鍛造技術の発達を持たなければならず、北方の遊牧民よりも鉄製武器の普及が遅れたことが、万里の長城構築につながったとも言えます。いずれにしても、中国の製鉄技術は、楽浪郡から朝鮮半島を経て日本に伝わることになります。そして”たたら”という鋼を作る製法が生まれていきます。たたらとは鞴をさしますが、タタールが語源とする説もあります。時代が一致せず、眉唾だと思います。

記紀に言う神武東征は、アイアンロードの最終章なのではないかと思っています。天孫家が日向から大和を目指した理由は、スキタイと同様、製鉄のために必要な森林を求める旅だったのではないでしょうか。ならば、何故、大和に留まることになったのかという疑問も沸きます。天孫家は、倭国大乱を収めた頃には大和に到着しており、部族連合の頂点に君臨したことで、もはや自ら製鉄を行う必要がなくなったのではないでしょうか。とりわけ出雲でたたら製鉄を押さえ、砂鉄の採れる吉備あたりに製鉄設備を多く設置したことが大きかったのだと思います。大和到着以降の天孫家は、森林を求める旅を止め、東海、関東へ支配を広げるためには軍を派遣すれば事足りるようになったのだと思います。(写真出典:natgeo.nikkeibp.co.jp)

2025年7月28日月曜日

冷やしおろし納豆うどん

若い人たちは、ざる蕎麦ともり蕎麦の区別がつかないと聞きました。もり蕎麦に刻み海苔を乗せればざる蕎麦です。ご飯とおかゆの違いくらい、誰でも知っていることだと思っていました。やはり、蕎麦の消費量が減っているということなのでしょう。ただ、調べてみると、蕎麦・うどん類の消費量は堅調に推移しており、家で食事する機会が増えたコロナ禍にあっては、むしろ増加していました。年間の消費量を見ると、年越し蕎麦は別として、夏場の消費が最も多くなるようです。麺類は、冷やして食べる文化がなければ、ここまで消費を維持できなかったとも言えそうです。暑い夏が続く昨今、消費量は増加していくのかもしれません。

私は、年間を通じて、昼食に麺類を食べていますが、暑い盛りに家で食べる2大定番は、越前おろし蕎麦と冷やしおろし納豆うどんです。もちろん、他のメニューも食べますが、圧倒的に多いのがこの二つです。いずれも大根を使うわけですが、根本の方は越前おろし蕎麦に、首の方は冷やしおろし納豆うどんに使い、誠に効率が良いと思っています。正しい越前おろし蕎麦には辛味大根を使いますが、青首大根の根本でも十分に辛くて楽しめます。一方、冷やしおろし納豆うどんの私流の作り方は、大根おろし、ネギ、卵の黄身にめんつゆを注ぎ、よくかき混ぜた納豆を加えて、しっかりとかき混ぜます。そこへ冷やしたうどんを入れて、さらに白く泡立つまでかき混ぜます。あれば、ミョウガ、青シソ、オクラなどを入れても美味しく食べられます。

蕎麦や素麺、あるいは稲庭うどんなどの細いうどんでも同じことだと思うのですが、どうも太目のうどんが合っているように思います。私が、冷やしおろし納豆うどんを知ったのは30年ほど前のことです。蕎麦屋の女将さんから、飲んだ後には、冷やしおろし納豆うどんが一番いいと教わりました。確かに、納豆の風味もさることながら、ツルツルとした食感と冷たさが心地良く、すっかりハマりました。極めてシンプルであるにも関わらず、とても美味くいただけます。誰が発明したのかと思い、調べて見ましたが、よく分かりませんでした。身近な食材の組み合わせなので、自然発生的だったのかもしれません。うどんを冷やして食べる文化は室町期から存在しており、納豆を調理用の食材として使い始めたのは江戸期だったと言いますから、江戸期に生まれたのでしょう。

山形県中央部の村山地方の郷土料理に「ひっぱりうどん」があります。乾麺を鍋で茹で、鍋から直接すくって(ひっぱって)食べる田舎料理です。そのつけ汁としては、めんつゆに納豆とネギを入れるのが基本です。そして、特徴的なのは、さらにサバ缶も入れることです。もともとは山に籠もる炭焼き職人たちの簡易な食事だったようですが、家庭にも広がっていきます。その冷たいぶっかけバージョンが冷やしおろし納豆うどんに進化したという説があります。納豆好きで知られる山形県ですが、納豆汁や雪割納豆など納豆料理のヴァリエーションの広さでも有名です。それだけに説得力のある説です。加えて、夏が暑い山形県は冷たい麺類を好むことでも知られていますので、ほぼ間違いなく冷やしおろし納豆うどん発祥の地なのだと思います。

納豆を食べる際には、最低でも50回、理想的には300回混ぜろ、と言われます。納豆の美味しさも栄養分もネバネバのなかにあるので、白くなるまでかき混ぜるのが良いとされるわけです。それは、北大路魯山人が発見したことだとも聞きます。一方、大根おろしは、納豆のネバネバを消すと言われます。納豆と大根おろしは、栄養的には良い組合せとされますが、ネバネバが消えてしまうのでは、如何なものかと思います。ところが、冷やしおろし納豆うどんは、かき混ぜると白くフワフワになっていきます。なぜなのかは、よく分かりません。ひょっとすると卵の黄身がいい仕事をしているのかもしれません。(写真出典:tablemark.co.jp)

2025年7月26日土曜日

カーボン・ファイバー

EUで、自動車部品等に使われるカーボン・ファイバー(炭素繊維)を規制する動きがありました。リサイクルが難しいので、利用を規制しようということだったようです。結果的に、法制化は見送りになりました。規制が議論されるほど、カーボン・ファイバーの利用が拡大しているということでもあるのでしょう。カーボン・ファイバーは、鉄と比較して、比重は1/4、重量比強度は10倍、比弾性率は7倍、しかも安価という優れものです。航空機、ロケット、自動車はじめ、ゴルフ・クラブ、テニス・ラケット、釣り竿といった様々な製品で活用されてきました。近年では、カーボン・モノコック車が増加するなど、利用範囲の広さと深さは一段と拡大しています。

カーボン・ファイバーは、アクリル繊維などを高温で炭化させて作ります。0.005~0.1ミリメートルという極細の繊維を作り、これを束ねて使います。三菱レーヨン(現:三菱ケミカル)のカーボン・ファイバー製造工場を見学したことがあります。とてつもなく長い生産設備は圧巻でした。工場の一角ではゴルフ・クラブのシャフトも製されており、オーダー・メイド用のフィッティング・ルームも併設されていました。いくつかのセンサーを体につけて、何度かスウィングすると、測定された数値をもとに最適なシャフトの設計図ができるという仕組みです。計算には、東大と共同開発したというアルゴリズムが使われていました。本来的にはプロ・ゴルファーのための施設ですが、試してみろ、と言われ、結局、セミ・オーダーのシャフトを買うはめになりました。

オーダー・メイド・シャフトの製造工程も見せてもらいました。一本毎に職人が手作りしていました。特性の異なるカーボン・ファイバーを角度・方向を変えながら慎重に貼り付け、先端や根本といった部分毎の強度やしなりに変化をつけていきます。この製造プロセスは、基本的に自動車や飛行機の主翼であっても同じだと言えます。しかし、いかに強度が高いとは言え、もとは繊維の束に過ぎません。ということは、カーボン・ファイバーの強さは、方向によって異なる、つまり異方性の高い素材ということになります。そこで、使用目的に応じて、重ね方や樹脂との組合せなどで補強され、専用部材が作られます。カーボン・ファイバーの特性に関する理解不足で起きた事故もあります。2023年、5人が犠牲となった潜水艇タイタン号の遭難等が典型なのでしょう。

タイタンは、4,000mの深海に沈むタイタニック号の見学ツアーのために開発された潜水艇です。いまだに正式な事故調査は終わっていないようですが、運営会社社長の安全性や法律を無視した強引な経営に問題があったようです。沈没した知床遊覧船にも相通じるところがあります。技術的な問題点の最たるものは耐圧殻の強度だったようです。通常、耐圧殻は水圧を逃がすために球体になりますが、タイタンは客を多く乗せるために円筒形にしていました。世界初となったカーボン・ファイバー製の耐圧殻は、十分な強度があって、かつ安価であることから採用されたようです。しかし、深海では繊維の隙間に海水が浸透し、強度が失われていきます。そこで、繊維の断裂を感知するセンサーを設置しますが、社長は、センサーが発する警告を無視したようです。

カーボン・ファイバーは樹脂と組み合わせることでCFRP(Carbon Fiber Reinforced Plastics)として製品化されるのが一般的です。そのリサイクル方法としては、ファイバーと樹脂を分離し、ファイバーは再利用することになります。いくつかの方法で実現されてもいるのですが、まだコスト面や処理力に課題も多く、大半は埋め立て処理されています。近年、硫酸を電気分解して生成する電解硫酸を用いる方法が注目されているようです。電解硫酸は、半導体製造工程で、フォトレジストを洗い流すために利用されていますが、CFRPの樹脂を完全に分解し、ファイバーは強度を保ったまま再利用できるとのこと。理想的な方法ですが、問題は処理力の低さだと言われています。いずれにしても、カーボン・ファイバーの技術と生産は、日本がトップになっていますので、そのリサイクルに関しても、世界をリードすべきだと思います。(写真出典:m-chemical.co.jp)

2025年7月24日木曜日

大岡政談

左官の金太郎が、3両入った財布を拾います。中にあった書付から持主は大工の吉五郎と分かり、届けに行きます。吉五郎は、諦めた金は受け取らないと言い張り、金太郎は拾った金は返すと騒動になり、奉行所へ持ち込まれます。町奉行である大岡越前守は、自らの1両を加え、双方に2両づつ渡して話を収めます。吉五郎も、金太郎も、越前守も1両づつ損をしたことになり、三方一両損の名裁きとして知られることになりました。いわゆる大岡政談のなかで最も有名な話なのでしょう。分かったような分からないような話ですが、もちろん事実ではなく、後の創作です。大岡政談には、多くの名裁きが語られていますが、実際に大岡越前守が裁いた事件は一つくらいしかないと言われます。 

大岡越前守忠相は実在の人物であり、確かに江戸町奉行を20年に渡り務めています。お裁きの記録も残されていたようですが、ほとんどは関東大震災で焼失し、業務日誌である「大岡日記」だけが残ったようです。江戸町奉行は、江戸の行政と司法を担当します。今なら都庁と警視庁と東京高裁が一つになったようなものです。大岡越前守が町奉行を務めたのは、18世紀、8代将軍吉宗が享保の改革を進めた時代のことでした。大岡越前守も、町奉行として、実に多くの政策を実行しています。行政改革、消防体制確立、小石川養生所設置、飢饉対策としてのサツマイモ栽培奨励、物価対策、賭博の取締強化等々の諸策は、庶民からも評判が良く、名奉行として知られていたようです。だからこそ、大岡政談も成立したわけです。

大岡政談は、大岡越前守の名裁きを題材とする講談、落語、芝居、読み本等の総称ですが、18世紀後半から幕末にかけて大流行します。明治以降は、やや下火になったものの、寄席では講談や落語の人気演目であり続けます。映画も数本撮られています。林不忘の「新版大岡越前」(1928)や吉川英治の「大岡越前」(1950)といった小説もベストセラーになっています。そして、20世紀後半、TV時代劇「大岡越前」のヒットで、越前の名は一層広く知られることになりました。TBSの目玉番組だった「大岡越前」は、1970~1999年の30年間、2006年のスペシャルを含めれば36年間に渡り放送されました。水戸黄門の42年間には及ばないものの、TV時代劇の代表格と言えます。何度か主役が変わった水戸黄門と異なり、大岡越前は加藤剛が演じ続けました。

水元の古刹南蔵院は”縛られ地蔵”で有名です。願をかける人が地蔵に縄を結び、願が叶えば縄を解きます。その由来には大岡越前が登場します。日本橋の呉服屋の手代が南蔵院の門前で昼寝をした隙に、大八車ごと反物を盗まれます。調べにあたった大岡越前は、泥棒を見過ごした門前の地蔵も同罪なり、召し捕って参れと命じます。南町奉行所のお白洲に引き出された地蔵を一目見ようと野次馬が押し寄せます。すると大岡越前は、門を閉め、天下のお白州に乱入するとは不届千万、罰として反物一反の科料を申しつけると言い放ちます。奉行所には反物の山ができ、その中から手代が盗品を見つけ出し、たどりにたどって大盗賊団が一網打尽となります。越前は地蔵の霊験に感謝し、立派なお堂を建立し盛大な縄解き供養を行います。

実在した人物を題材とする創作ものが人気を得ると、史実と創作の境が曖昧になってくるものです。それにしても、古刹が地蔵の由来として大岡政談を語るというのは、さすがに希な例だと思います。講談の演目にも「縛られ地蔵」があります。講談では、呉服屋は越後屋とされ、その主人も登場します。また、手代の友人も登場します。また、野次馬は奉行所になだれ込んだのではなく、大岡越前が一般公開にして町人を集め、地蔵への裁きに笑った野次馬たちを召し捕ったとされています。南蔵院が、参拝客を増やしたくて、大岡政談を由来にしたというのなら理解できる話です。ただ、大岡政談が、南蔵院の縛られ地蔵にヒントを得て創作されたのだとすれば、縛られ地蔵の本当の由来は何だったのか気になるところです。(写真出典:amazon.co.jp)

2025年7月22日火曜日

アメリカ・ファースト

モンロー大統領
米国のトランプ大統領が、ブラジル政府に対して、ボルソナロ前大統領の不当な裁判を止めなければ関税を50%上乗せすると通告しました。他国の司法に介入するなど信じがたい程の内政干渉です。 もちろん、トランプが得意とするブラフなのでしょうが、日本がアメリカの米を買わないといった話とはレベルが違い過ぎます。ブラジルのトランプとも言われたボルソナロの支持基盤は、産業界や軍、そして福音派キリスト教徒でした。ブラジルはカソリックが多数を占める国ですが、福音派が急増しているようです。トランプの支持基盤も同じ福音派です。トランプの暴挙は、米国内の支持基盤に媚びを売っているということなのでしょう。

ブラジルへの内政干渉も酷いものですが、トランプのネタニヤフ支持は、ガザでのジェノサイドという人類に対する極悪犯罪を引き起こしています。さらに、ネタニヤフは、イラン、シリアへの越境攻撃などやりたい放題です。もちろん、トランプ以前から、米国は、国内のユダヤ人の経済的影響力ゆえにイスラエル支援を続けてきました。しかし、ネタニヤフは、扱いやすいトランプの再選を前提に、ジェノサイドに踏み切ったのでしょう。もはや、イスラエルは、ホロコーストについて語る資格はありません。2千年前に国を追われ流浪の旅を強いられたユダヤ人ではありますが、パレスティナ人を暴力で追い払ってイスラエルを建国し、武力と入植をもって領土を拡大してきました。シオニストは、流浪の苦難を語る資格もないと思います。

あろうことか、ネタニヤフは、トランプをノーベル平和賞に推薦したと言います。トランプに相応しいのは、ノーベル賞ではなく、国際裁判所の被告席です。MAGA(Make America Great Again)という主張を否定するつもりはありません。ただ、”アメリカ・ファースト”という言葉は国粋主義そのものであり、他国を見下し、その犠牲をまったく厭わないということを意味します。トランプ人気の尻馬に乗った小池百合子が”都民ファースト”と言い、参政党が”日本人ファースト”と主張していますが、とんでもないことだと思います。さらに言えば、トランプのアメリカ・ファーストの実態は、”ミー・ファースト”である場合が多いと思われます。チンピラ大統領の人気取りのために、世界中の人々が犠牲になることなど、もってのほかと言わざるを得ません。

アメリカ・ファーストという言葉自体は、トランプ以前から存在し、アメリカの伝統と言える面もあります。そもそもアメリカ・ファーストという言葉は、19世紀中葉、ユダヤ系の政党が、カトリック系の移民排斥を訴え、キャッチフレーズとしたことが始まりです。その後、欧州で第一次世界大戦が勃発すると、ウィルソン大統領が、中立を宣言し、この言葉を使います。そして、第二次世界大戦に際しては、アメリカ第一主義委員会(The America First Committee)が結成され、不参戦と孤立主義を訴えます。ヘンリー・フォード、ウォルト・ディズニー、チャールズ・リンドバーグらも参加していました。しかし、次第に反ユダヤ、親ファシズム色が露わになり批判されます。結果、パールハーバーを機に、アメリカは参戦、委員会は解散しています。

アメリカ・ファーストは、アメリカ伝統のモンロー主義に基づいているとも言われます。19世紀初頭、建国間もないアメリカのモンロー大統領が打ち出した米州・欧州の相互不干渉政策です。アメリカの中立志向、孤立主義と理解されることが多いように思われますが、その実態は、南北アメリカにおけるアメリカの覇権を主張したものです。中南米や南米の諸国にとっては、ふざけるな、という話であり、大いに迷惑も被ってきました。今般のブラジルへの内政干渉など、まさにモンロー主義の伝統に則っているとも言えます。トランプの政策は、アメリカの弱体化とともに、国際的リーダーという立場から自国重視へと急激な転換を図っているという面もあります。それは理解できるとしても、アメリカ経済の弱体化は、アメリカが自ら判断して進めてきた産業構造転換の結果であって、他国のせいではありません。(写真出典:y-history.net)

2025年7月20日日曜日

天津甘栗

シナは、古代インドで”秦”を意味する言葉でしたが、それが東西に広がり、欧州ではチャイナ、シーナ、シーヌとなり、日本では”支那” と当て字をして、いずれも中国を指す言葉になりました。江戸期に定着した支那ですが、”支”という漢字が”本流から枝分かれした”という意味を持つので、中国では嫌がられていたようです。日中戦争時、中国を侮蔑する言葉として使われたため、敗戦後、外務省が使用自粛を打ち出します。以降、支那そばは、中華そば、ラーメンと呼ばれることになります。しかし、私の子供時分には、まだ支那そばの方が一般的でしたが、1972年の日中国交回復以降は見事に消えていきました。ただ、カタカナの”シナ”は別だったようです。その一つの例が中国原産の栗”シナグリ”です。

シナグリは正式名称です。和種であるニホングリより小粒ながら、渋皮が実にくっつきにくいとされます。その特性を活かしたのが”天津甘栗”ということになります。栗を麦芽糖と砂や小石と一緒に焼くスタイルの糖炒栗子は、宋代に流行したようです。実は、この焼き栗、今も中国では糖炒栗子と呼ばれ、親しまれているようです。これが日本に渡り、天津甘栗となるわけですが、天津甘栗という名称は日本にしかありません。すぐに思い出すのが日本独特の中華料理”天津飯”です。天津飯の由来は諸説ありますが、天津甘栗の場合、その歴史は比較的はっきりしています。1898年、藤田留吉が大阪の黒門市場で露天販売を始め、後に千日前楽天地に「樂天軒本店」を開きます。お馴染みの赤い袋も樂天軒本店から始まっているようです。

ほぼ同時期に、東京の金升屋、甘栗太郎、京都の林万昌堂等も創業しています。各店の創業者たちは、中国で食べた糖炒栗子に感動し、日本で商売にしようと考えたようです。各店とも、栗は中国からシナグリを輸入していました。中国の栗の名産地は河北省らしいのですが、日本へは天津港から輸出されます。よって天津甘栗と命名されたようです。日本には、名称に天津や南京が付くものが多くありますが、必ずしも原産地を示すものではなく、単に中国産、あるいは中国由来であることを表している場合がほとんどです。カボチャの別名である南京やピーナッツの南京豆なども典型です。いずれにしても、天津甘栗はヒットし、全国に広がっていったようですが、その背景には、日清戦争以降、日本人の目が大陸に向かっていたことが挙げられると思います、。

日本は、縄文時代から栗を食べてきた国です。栗を使った和菓子も、栗きんとん(栗金飩と栗金団)、栗羊羹、栗まんじゅう、栗最中等々、数多く存在します。その中で、新参にも関わらず、天津甘栗が普及してきたことは驚きとも言えます。強いて言えば、和菓子の多くは栗の加工品であり、天津甘栗は栗そのものを食べるという違いがあります。日本にも、家庭で作るゆで栗や蒸し栗があります。ただ、調理には時間がかかります。手軽に剥いて食べられる天津甘栗は、いいポジションを得たと言えるのでしょう。さはさりながら、気になることがあります。日清戦争の勝利は、日本国と日本人に大きな変化をもたらします。国家、国民という認識が生まれ、後の軍国主義へとつながります。そして、国民は、それまで上に見ていた中国を見下すようになったのです。

天津甘栗のヒットは、国民の間に生まれた中国への差別意識と関わっているのではないかと思います。下関条約で、清から台湾と遼東半島の割譲を受けた日本は、あたかも中国全体が属国であるかのような錯覚を持つに至ったのでしょう。天津甘栗は、その象徴として、国粋主義的な意識を満足させるものだったのではないかと想像します。それは極端に過ぎるとしても、少なくとも、天津甘栗のヒットは、中国を下に見るという新たな傾向を反映していたように思えます。天津甘栗の甘さは、戦勝国として、近代化を成し遂げた国としての奢りだったとも言えそうです。最近、相撲観戦時、お茶屋の土産として天津甘栗を指定し、食べています。美味しいのですが、困ったことに、食べ始めるとなかなか止められません。(写真出典:amazon.co.jp)

玄冶店